あいのりの効果。

2007-11-27 08:55:30 | 女装系・・『ヒロイン』。
前の文、男らしさ云々というのは掲示板に書いたことで、それに対して女はほおっておいてもいいが男には教えなければならないというようなことが現在の日本の状況を添えて返された。それについてはそうなのかもしれないとも思う。

男として育てられふたりのしっかり者の姉をもつ二十歳の甥は父の葬儀をはさみ事々に優しく諭す口調であんたがしっかりしねっきゃおいねんだよと言われその瞳も表情も空虚に映る私には動悸が走る。

ウチのテレビではフジテレビのあいのりがほぼ毎週映ることになっているので私もときどき見る。その限りで言えば男にあいのりは有効だ。男前が上がる。女はみごとに変わらない。気がする。
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感動した。

2007-11-18 22:15:35 | ■だらだら。
朝の番組で中村うさぎとマツコ・デラックスともうひとりの鼎談。鼎談記録になったら何も残らないと思うが、私は感動した。
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三田佳子若いなあ。

2007-11-17 08:07:00 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。
三田佳子としての問題ではない問題には触れてもしかたがないと思ったか、そんな問題は思いつかなかったか、「三田佳子、どうですかね」とだけ、みの氏は言った。

みの氏がどう言おうと・世論は動くらしいし。女優の問題であり、母親の問題らしい。三田佳子にどうしろというのか。刺し違えて死んだらそこまでしなくてもよかったと涙を落とすか。

20年以上前渋谷西武で見た親子は、年齢からいったら長男か。三田の不機嫌な顔つきが長く印象に残った。ハナシよりも、きょう知った年齢に気をとられた。若いなあプロだなあ。
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おんな2題。意味ありません。

2007-11-14 21:38:52 | ・ことばの尻尾踏み。
誰かがあなたでないことを

誰もが知っているわけではない

あなたはそのままに見る

そのままに言いはしなくても

私と誰かはそこに泣けるのだ

あなたの確かな指はビンゴを抜くが

誉れではない

カードを弾いて集めようとしているのは

指先やら仕種への思い



──────



さんざめくあかるいのは
あたしのもしくはおまいらの
こまかい地球に薔薇を接ぐ

ゾルゲの瞳サブリミナルに瞬く白日夢
膚の一部を冷やすように過ぎる
吐息のぬくみ

光の粉のただなか一瞬ほどのかげは
白くもやった黒猫の耳毛さえ揺らさず
記憶粒子をそっと接ぐ
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ありがとう。

2007-11-11 06:24:30 | ・ことばの尻尾踏み。
言いづらい言葉も、言語心理領域じみたものを飛び越えてしまえば比較的楽に言える。これは言葉に限らない話かもしれない。冷たく響くことが間々あっても、ありがとうという言葉はやはり潤滑油だ。

短いメールの中にうれしいなとかうれしいですと書く人がいる。私にはなかなか言えない、かな、ちょっと言えない気がする。ちょっと言いたい気がする。ありがとうに格上げしないでおきたいな。
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比較する。

2007-11-11 05:52:35 | ■だらだら。
被比較は常時擬被虐弾の消音吸引。
しみついているのと慣れというのは三次元的には否定し合い二次元的にはほぼ重なる。薬効固体差。
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オオエ。

2007-11-08 21:29:53 | ・本・記事。
姉が和装の喪服をひとり着ていた。ほっとした。いつも世話を焼いてくれる向かいの親戚筋が無理やり着せたのだという。読経中その紗綾形文様の黒帯できょうも舟を漕ぐ。私が借り着でも和装の喪服を着ることはないと思っている。いつもぽんでらりんだに話しかけている。元気で長生きしてね、○○の死んだ一日あとまででいいからね。

立冬の日の下り電車の中で初夏に買った雑誌をめくっていた。これはエッセイではないなぐらいに思っていたが、女性名で書かれた次の文章は前の文章を小説として論評したもののようであり、ああそうなのか小説だったのか、と思い、小説という名の定見のなさは純文学という私にとってのわけわからなさよりはずっといいと思った。

それに続くしじゅうおんなの新幹線内3時間未満における心象風景小説とその次のまあ30代あたりだろうなと思われる小説家男子の鬱小説は、私の癖になっている言葉の尻尾踏みにひっかかることのない、つまりたぶん私が正しいと思っている語法で成り立っていた。しかしなぜこの雑誌はこんなつまらないものを載せるのか。

雑誌の最初の小説はオオエシンヤの初の小説だそうで、もしオオエセンリが書いたとしたらある意味見直したかもしれず、せっぱ詰まったその余裕をぐえぐえと尻尾を踏み続けながら音楽のように文字で追ったのだった。

母親に小遣いぐらいもらいたい気分だったのだがなぜか私がタクシー代も昼食代も出す羽目になり母親がその飯の不味さをくどいほどに言うのをものわかりのいい娘のように軽い相槌でやり過ごしたりもしたのだが、結局のところ母親の唐突な追い立て「電車何時?」に間髪おかず「ああ行かなくちゃ」と徒歩3分の駅に着くと東京行きの特急が私を待っていた。乗り込むまで待っていた。わぉぅなんとすばらしい。


──────
2007-11-09 18:45 昨日記加筆非加筆ほか。
小遣い云々という言葉はいまだ親がかりかと思われると気がつきましたが説明も削除も放棄。気持ちが荒むのは毎度のことなのですが今回は緩衝人材兄嫁が留守でした。改めて兄嫁に感謝し彼女の家内被害被災お喋りを遮らずかつ傾聴する態度をモチット見せるぐらいはなんてこたあないはずだと思いました。

また昨夜はある場所に二十年来誰にも言わずにきたことを深井戸に叫ぶほどの思いもなくちゃらりんと書いてしまいました。自己都合退職するまで社員でいられたこと、より以上にその会社が賠償責任を問われたり取引停止とならなかったのは。ひとえに。アリエネーことを仕出かしながらちと照れて事前作業を継続したアリエナさゆえか。書きましたが書けません。
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夕方散歩借景と夕方昼寝で思ったこと。

2007-11-07 22:30:18 | ■だらだら。
私の好きな庭がある。以前の100%の今は5分の1の広さ、以前は長方形で今は鈎型、L字形。税金対策とか手間がかかるとか、理由は幾つも想像される。何も考えぬ駐車場に押され小さくなったらなったでまたその庭は私にとってはよろしいのだな。

よろしいのだけれど第一まったくぜんぜん無関係だし気のせいだが何だかみんな機械にされているような気がした。動かしてあげないと動かないことになっていて誰が動かすのかでもめたがる。

動かないように見えて動いているから動かすことでそれは死ぬことになる。かもしれない。動かすひとは自分のことも機械だと思っているにちがいない。

目覚める際の半睡状態のとき、前を歩いているひとに何か用があったのか名前を知らない人に呼びかける方法で呼びとめた。という場合、もしかしたら白いのっぺらぼうかもしれないと思った。こわいなあと思っていたら誰かが私を呼ぶ。ふりむいたらうわっと飲むような叫びで腰を抜かすので助け起こそうとしたらますます恐れるので私は事の次第を知るだろう。

そういえばとわざわざ言う必要もないが逃亡生活を送ったことがない。私は逃げおおせることはできないから逃亡生活もできないだろう。その後の悲哀や愉快について想像しているうちに飽きたので起きることにした。
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