だらだらぴんく。

2006-05-11 23:52:07 | ■だらだら。
東大農場は自由に入れるが、わざわざ入ってレクリエーションにしようとは思わない。農場のわきを自転車で通るときはときどき立ち漕ぎをしっぱなしだ。それは私が田舎者だからだろうか。農場移転に多くの人が反対するのはヒートアイランド解消のためだけだろうか。きょうは田んぼの水が空を映し赤い耕運機がぽとりとちいさく際立っていた。

NANAは初回を逃し、気づいて録画した昨夜は3回目で、筋はつながらないが、また気がついた日には見ようと思う。

ななさんが掲示板で引いた真鍋かをりのことば、「田舎にいたらヤンキーになるか勉強するかしかなかった」が何だかずっとくっついていた。みんながヤンキーになるわけではないとか勉強しなくても家出はできるとか、そういうことではないということまではシラナイひとに言えるが、それ以上は、わかりませんよともう振り払うしかない。

先日カンブリア宮殿は、などと書いたのは、特に竹中氏出演の前回が、康夫ちゃんだけが頑なに固辞したらしい46都道府県の職員各一名を遥々招んでおきながらということを冠するのだが、何だかわからな過ぎたからだ。

東京に人材を輩出し続けながらオリンピック招致を東京と競う大層な県(ホスト小説家出身県から遠くない)もしくはその県庁所在地の行政体が北朝鮮軍に占拠されるがままになる小説が何を志向しているのかがわからなかったことが掠める。関係ないけれど関係ないのか。

自力でどうにかするか、東京の人間が田舎の人間を養うかという選択以外にはないとする日本人の誰かが、鐚銭一文払いたくないとするのは、ほんとうにその誰かにとって他人のものであり要らないものなのか。

経済がただ経済として多種雑多な価値を合理的に淡々と取り込んでいったとき、狭隘な選民嗜好志向の指向とやはり一致するのだろうか。

五箇山の合掌造りはそこに人間が生きていなければ存続し得ず、それを将来に残すために例えば1万円の金を出そうというにほん人の中に、自分は現在も将来も行くことはないがというひとが、或る割合を確実に占めるという研究者の話を聞いたことを以前どこかに書いた。

世界文化遺産だからか。例えばどこかの小さなむらでおじいさんとおばあさんが、介護保険のサービスも十分ではないけれどそこそこにどうにか暮らしていて、見上げたそらがにほんのそらということを無意識にわたくしが含んでいる。くにを愛するということはそんなことかもしれないと思ったりするのはセンチメンタリズムにすぎないか。実際切実な暮らしというものがある。都市は都市だけで成立するか。

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ちぐはぐな上下をきちんときた初老のおとこが立ち尽くしていた。撮っちゃおうかと思ったら、思ったとおりさらさらと去った。おとこが右手を乗せていたのは木杭だ。昨年初秋に廃業した銭湯がさら地になっている。

さいごのあたりは少しは入浴者が増えたようだ。閉じたあとは早かった。小劇場とかたしか谷中にあったような展示場とかにしてもらえないか、無駄でも市に提案しようかと逡巡するうちに取り壊しが始まった。

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去年そのとき既に明るめの色を着ていたからだが、Yさんが、明るい色は、いいよ、と言ったのが御都合的に印象に残っていて、黒や暗色ばかりに引かれるところから敢えて外そうとする。サーモンピンクのローヒールを買った。ぽんの耳は、微かなピンクで貝殻のようだ。


コメント (2)
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