月刊ペン井上陽水。

2020-05-25 18:00:17 | ・本・記事。






これの前に伊藤沙莉のことを書いたが同じくらい好きなヒトはジャンル分かたずたくさんいる。その同じくらい好きとゆー好きの程度はたいしたもんではない。なさすぎる。顔も頭もセンスも鋭そうなオンナノコたちオトコノコたちに惹かれる焦点がぶれまくっているまにまた時代がするーしていくのである。


春、さる晩耳についたJ-WAVEの番組スポンサーのCMで月刊ペン井上陽水を買った。

井上陽水のアルバムが、昔富士レコードに売ってしまったLPの中にあったかどうかすら怪しい。




陽水というとイメージするのは伊集院静のいねむり先生である。たまにふしぎなたいみんぐであらわれる手塚のひょうたんつぎのようなほんわか白いカミサマのようなとてもいいキャラクター。(加筆;しまった。いねむり先生本人がギャンブルの神様だったな ややこしし)




ミカドの肖像という本の初めにあったロラン・バルトの一節、忘れちゃってるからまあそのイメージね、それを見下ろすようなビルの無駄に広い一室でのインタビューで黒子である私はテーブルの遠いかどで言葉を漏らすまいと口元から目が離せなかったのだが、そういう意味ではなくおいおいおいあのこ何なの見過ぎだろという笑み(ふと思う。どんな種類の笑みも同じようにあらわすひとではあるまいか)。


肝である歌を聴き倒したこともなく、人となりを紹介するような文章を読んだことがあるとしたら雑誌の記事断片ほど。陽水はすききらいを超えていると言えば過言かもしれないが、陽水がきらいというひとには遭遇しないというかほかのオオモノたちの載せられている座とはオモムキが異なる。長いこと陽水は陽水という座にみずから載るでもありやなしや載せられており載せられ続けてゆくからおもしろがって下界にひょいひょい顔を出す。






月刊ペン井上陽水を実際買ったきっかけは、立ち読みしたタモリの部分である。
いい。
タモリが文字になっている。





全部読むのかとっておくのかなど、わかりません。二度寝できないまま夜になりつつあります




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わからないひとをころすのは(以下消しました)。

2020-05-08 09:17:41 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。




週刊現代5/2・9号 p.173に、安藤和津さんが「母の介護をしながらつくづく、命が途絶えることだけが死なのではなく、それまで積み上げてきた日常が送れなくなった時点で、ある意味、人間としての死だと捉えるようになりました。自分が思うように生きられないなら、肉体は生きていてもそれは心の死だと思うんです」と話した とある。

配偶者に先立たれてから子供をあてにしないという記事の中であり、安藤さんが「捉える」こと、「思う」ことである。多分にあなたもワタシモそう「思う」。思うことは勝手である。


「生きていても心の死」


認知症といま呼ばれているひとたちの「症状」を、自閉性知的障害者(正規名称ではありませんよくわかっていない証拠です)のその障害とされる「様子」とおなじものだとワタシは同時に思う。



「自分が思うように生きられないなら」





彼らは自分が思うように生きている。
あなたやワタシニわからなくても。






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