今朝テレビをつけたらそれはNHKで、30前後と見える男女がアニメの感想を述べていた。ちゃんと試聴していなかったのだが、
精緻な絵と細やかな心理描写
を映画のタイトルにプリントさせるような話題転換のなされかただった。
歌や小説に通ずるもの──。 時代と言って流す。
なんなのだろう感覚の視野。
きのうひどく驚いたことは、久しぶりに見たブログで、ヨニウムさんが、
さる人の出馬で勝てると思っていたらしいことだ。 まだ抜ける力が私にあったのかと思った。
あと、きのうなぜか今さら苛立ったのが、テレビ、ラジオからの「させていただく」発言の当たり前さだ。
させてもらうといっていい動詞だの語法だのというラインは超えているのは当然にせよ、
「する」だろうが!
「させていただく」ってんなら許可を取れよ!
させていただきます的に直訴を許可とした。精神障害or碍者が知的障害or碍者を殺す。などと「W」を伴ってどこぞにごまんと書き込みされているのではないか。
相模原の事件に、きのうもきょうもあまり動じない自分は、最近なのかここ数年なのか、そんな傾向の延長で、大々的な報道をうすらぼんやり眺めるという、さとしくんに安楽○させてもらうべきモノだが、私も人なのである。人は死にたくない。死にたくないのに死にたくなるから困ったことを起こす。
私が認知症に心を寄せ、いまだに離れないのは、心理描写を拒み、その向ける先の覚束ない戸惑いである。
知的障害者のガイドヘルプを始めようとするとき、オオニシさんは、心が洗われるよと言い、スズキ氏は、楽しいっ と言った。
困っている人を扶けたいのではない。 もしくは、 シゴト。
それでも、ときに、生きる意味を問う。 自分を棚に上げて。
認知症を認知ショウガイと言わず、知的や精神と分けるのはシステムの問題だけではない。
ショウガナイ
しょうもない
だらだら書き
させていただきました。