随分前に普通はあまり手にしないタイプの小説、日本人はハジ(≒恥)と名乗る奴が多いという一節を含む、ハジを名乗る日本人が中東の市井ではないところで暗躍?する船戸与一の本を読んだとき、イ抜き言葉が最後まで気になって仕方がなかった。
銃はこちらに向けられてたのだ。青い空が広がってた。→ 引用ではなく、イ抜き言葉の例として。一人称の作品なので、語り口調としていいではないかということだろうが、情景描写情勢描写も「てた」「てる」と書かれると生理的にどこか落ちつかない。
(連想の蛇足だが、一人称の小説で私が気になるのは、日本語だからなのか外国語でもそれはよくあるのか、一人称と三人称がないまぜになっている感じの居心地悪さである。)
この作品は何か大きな賞をとっていたと思う。小説自体は劇画調というのか、分厚い割には私にも一気に読めたし随分売れもしただろう。
朝日新聞の別冊で山崎ナオコーラが言語というのは変わっていくもので目くじら立てることもなかろうよとイイ感じで書いていて、まあそうだろうとも思い、イの1字が抜けたぐらいで落ちつかないのは不幸なことだと思う。
イ抜き言葉の例とはまた違う変遷がある。耳当たりがいいとか耳ざわりがいいというような、マチガイの承継だ。以前なら、けんけんがくがくではなく、喧々囂々か侃々諤々のどちらかに直すということは編集作業の一部として当然に行われていた。
と思う。よくは知らないが。それが、雰囲気やニュアンスを残すためにそのまま生かすという、手法のひとつが捩れて、証拠として、あるいは無責任の言いわけとして何でもそのままがいいということになってきた。紙媒体も含めた報道ですらそれだから驚くべきであるというか、イラツクのである。
不幸なことである。山崎ナオコーラは別にイ抜き言葉のことを言っているのでもないし、間違いを正しいと言っているわけでもない。日本人にも金子光晴のようなひとがいると書いて、よく知りもしない金子光晴の巴里なる光を私に思わせてくれる彼女の文章のフンイキに少し浸りたいと思うのである。って、アレしか読んでないけど。
【09:39追記】 けさ、日本語にこうるさいカビラ氏がル・クルーゼが当たるビンゴ広報で、私が勝手にマチガッテると思っている些細な言い回しを当然のように繰り返しました。実証なしのイメージだけで思い込むのはいかんよなと、改めて、そしてまたやはりほんとのところを調べもせずに思ったのですが、すぐ忘れてこんなことを書いてしまうのです。
銃はこちらに向けられてたのだ。青い空が広がってた。→ 引用ではなく、イ抜き言葉の例として。一人称の作品なので、語り口調としていいではないかということだろうが、情景描写情勢描写も「てた」「てる」と書かれると生理的にどこか落ちつかない。
(連想の蛇足だが、一人称の小説で私が気になるのは、日本語だからなのか外国語でもそれはよくあるのか、一人称と三人称がないまぜになっている感じの居心地悪さである。)
この作品は何か大きな賞をとっていたと思う。小説自体は劇画調というのか、分厚い割には私にも一気に読めたし随分売れもしただろう。
朝日新聞の別冊で山崎ナオコーラが言語というのは変わっていくもので目くじら立てることもなかろうよとイイ感じで書いていて、まあそうだろうとも思い、イの1字が抜けたぐらいで落ちつかないのは不幸なことだと思う。
イ抜き言葉の例とはまた違う変遷がある。耳当たりがいいとか耳ざわりがいいというような、マチガイの承継だ。以前なら、けんけんがくがくではなく、喧々囂々か侃々諤々のどちらかに直すということは編集作業の一部として当然に行われていた。
と思う。よくは知らないが。それが、雰囲気やニュアンスを残すためにそのまま生かすという、手法のひとつが捩れて、証拠として、あるいは無責任の言いわけとして何でもそのままがいいということになってきた。紙媒体も含めた報道ですらそれだから驚くべきであるというか、イラツクのである。
不幸なことである。山崎ナオコーラは別にイ抜き言葉のことを言っているのでもないし、間違いを正しいと言っているわけでもない。日本人にも金子光晴のようなひとがいると書いて、よく知りもしない金子光晴の巴里なる光を私に思わせてくれる彼女の文章のフンイキに少し浸りたいと思うのである。って、アレしか読んでないけど。
【09:39追記】 けさ、日本語にこうるさいカビラ氏がル・クルーゼが当たるビンゴ広報で、私が勝手にマチガッテると思っている些細な言い回しを当然のように繰り返しました。実証なしのイメージだけで思い込むのはいかんよなと、改めて、そしてまたやはりほんとのところを調べもせずに思ったのですが、すぐ忘れてこんなことを書いてしまうのです。