空と草と家。

2008-06-25 23:37:30 | ・ことばの尻尾踏み。
懐かしい場所

でじゃぶのやうではけしてなく
初めての場所

涼やかなかなしみをとどめおく

立ち去るやう
促す意思に抗い振り向くreal。
輪廻も進みも死もなく唯real。
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老眼だろう。

2008-06-25 08:27:40 | ■おもに美術。
朝日36面左下のジェロ「カバーズ」の縮小写真:下、金子國義のえだと言われたらえーっと言いつつ信じるかも。(上の写真がモノクロになってるわけです)
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利用と依存はちがいますから~。

2008-06-23 06:06:21 | ・ことばの尻尾踏み。
依存十年一億総ねっと。赤信号みんなで渡ればこわくない。車道はトラック走行が前提でこわさは車道限定ですがねっとは可能性満載でときところ限定なしで××突っ込みますから~。ただネット依存という言葉自体は確実に減ったよねとふと思いまして。残念ではありませんね。昨夜バラエテエで見かけた波田陽区、いまどんな芸で出ているんでしょう。

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きょうの新聞広告見出しでの脱力印象は「温暖化阻止」と「女に生まれた幸せに感謝!!」だ。感謝する女だけに男を育てることを任せておけるのか男。武器とコンピュータがなくなったらいろんな意味で「阻止」に貢献しそうなキがするがアリエナイのと同じ意味で棚上げされた温暖化原因問題と脱力なるCO2取引を含む「阻止」よりグローバル総力血道を上げるより地道緑化系一本にしたほうがってキもする。
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コケカの花だと思った……。

2008-06-22 14:43:25 | ■だらだら。
大多喜の道端と芝久保の道端。上はどうもマンネングサ系らしく下は不明。
苔の花を検索すると、熊楠さんに愛されそうな こわかぁいい胞子嚢のお写真が並ぶ。
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家族円満なHは御札に「お金をたくさんください」と書いた。

2008-06-12 02:42:34 | ■だらだら。
けさラジオをつけたら戯曲夕鶴の断片が語られていた。ちょっと検索すると、農村共同体と貨幣経済とかとの対立とかとか書かれているところが多い。もしかすると作者がそういう意図を表明していたのかもしれない。

夕鶴を殆ど知らず、童話の本で読んだ鶴の恩返しをぼんやり憶えている程度で、そこには無理がありそうだなどと思い、この先にその理由も述べないのだから、意味がないのはもちの論だ。


女性つうは鶴の化身で、どうしてそんなにお金が欲しいのかと男性よひょうに問うという、耳にしたその断片情報だけから私は、「つう」は女性なのか、主人公は誰なのか、と思った。あくまでも女性のかたちをした鶴であり、そこに女性はいない気がして、もし演ずるなら美しい男性か、女優ならば理屈を排した叙情譚がふさわしいと思った。


MとSとHとで向かい合う席に座っていた。MとSには子供がいて離婚している。HはMに向かってまた別のTという人の名字が変わったことについて離婚の確認をした。Tはせいせいしたって言ってたよとMが答えたとき私がすかさずうちの弟の元嫁も今ごろせいせいしてると思うよと挿んだ言葉は迎合にんげんのゆえのみではない。

私など身ひとつ養うもおぼつかないのに、ひとりならず子供があって定職も資格もコネクションもなく若さも誇れない身の離婚、その厳しさに気を遠くしながらもまた、そのせいせいは吐息でもあり深呼吸であることもあろうという女同士の近しい思いはある。

幸せで見事な子供を育てられる仮面夫婦があるとしたら双方とも力を惜しむことのない希有な素面の対である筈で、仮面勘違いな似合いの夫婦ではないか。離婚によってもたらされる子供の情操の損傷より、他人を蔑ろにしたり侮ったりすることを日々目の当たりにさせられることによるそれのほうが大きく思われる。

しかし「先立つもの」という言葉は的を射ていますね。「人それぞれ」という言葉が好きです。


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【2008-06-12 07:14】
もともと無意味な話を結べなくてごまかした話に何か補うのも無意味なのはもちの論だ。
子供は、親であれ他人であれ向き合って信頼をはぐくむただ一人がいれば、どうにかなるという一つと、昔、弟の第一子が誕生したときに彼に私が言った、両親が仲よくしようとしていれば子供は絶対大丈夫という一つが、それぞれにそよそよしている。
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それでいて。楽になりたい楽知らず。

2008-06-11 00:43:43 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。
加藤智大の書き込む言葉に、糾弾されたくないので口にはしないが自分への糾弾を休めないその気持ちに近い自分自身を見る者は、割合としては多数派ではなくても数としては少なくないのではないか。

両親を公衆の面前に立たせて私は凶悪犯の親です私こそ罪人ですという看板をぶら下げさせて冷徹に映すTV画面を見て私はそのやり方は違うのではないかあまりにもむごいと思ったなんてオモイッキリミノモンタ的糾弾の的になるだろう。

楽しみを知るひととして子供が育つcharmでもあればと思う。自分に甘く他人に厳しいのさと私も言いあなたも言っては笑うが自分に甘くしたいから他人に甘く譲る厳しいにんげんがちかごろ空から色をまかれたようにふえてはいないか。楽にしてくれ楽にしてくれと彷徨う心と楽しむ心はどこまでも背中合わせとか。


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正気と狂気とボケとの境界線はいずこ。処刑前の宮崎勤はいずこ。
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