ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

猫の友情

2014-04-12 | すずめ食堂

わたしが日本を留守にし、餌の供給が滞っていた夏の間に、
「すずめ食堂」が近隣在住のクロネコに乗っ取られた、という話をしましたが、
その後も順調に猫の侵略は続き、テーブルの上にお米を乗せておいても
スズメは全く近寄らなくなってしまいました。

一度ベランダの手すりにこわごわとまって様子を見ていましたが、
やはり猫の気配があるのか、テーブルには近寄らず。

黒さんも(いつの間にか名前つけてるし)毎日来るわけではないのですが、
長いときには一日何時間もここで休み、毛繕いなどしてくつろいでいるので、
スズメどもはいなくなりスズメの代わりに閑古鳥が鳴いていました。

誰がうまいこと言えと。


寒くなってからはとんとお見えになりませんでしたが、この黒さん、
晩秋くらいまでは定期的に来てテーブルで寝ていたようです。
わたしが家に居るときもそのスケジュールを変えるではなく、
内側でわたしが作業をしていても全く平気。

一度、テーブルで寝ているときに煮干しを出してやると喜んで食べ、
少し頭をなでさせてくれました。




それはいつものように黒さんがお見えになっているまったりしたある午前中のこと、
タイマー作動によって掃除機ルンバが作動しました。
最近このルンバを、調整に出したところ、アップデートされて帰ってきました。
帰巣本能がアップしたらしく、帰れなくなってどこかでのたれ死に、
ということがあまりなくなったのはめでたいことなのですが、
なんだか前には言わなかったようなことをペラペラとしゃべるようになって、
かすかに

「しばらく会わなかった人がうざいキャラに変わっていた」

という感じがしないでもありません。

それはともかく、このルンバが黒さんの寝ているベランダ近くを掃除し始めてすぐ、



黒さん興味しんしん。



「ほおおおお~~」

って感じで熱心に眺めております。



前にやってきたときにはもちろんのこと、



去っていくルンバを、眼を丸くして見送っておりました。



因みに、先日TOがマンションの総会に出て、他の住人から聞いて来たのですが、

実はこのクロネコには「1号」と「2号」がいて、
野良猫なのだけど、近隣住民が可愛がってあっちこっちで餌をもらっており、
この辺の外猫状態なのだということがわかりました。
夏に撮った写真は雌でしたが、こちらは雄なのでもしかしたら別猫かもしれません。



その後、あの大雪の日に黒い毛に粉雪を乗せた黒さんがやってきたので、
つい哀れを感じ、(自分が怪我で弱っていたせいもあったかも)

煮干しをあたえ、それからというものちょくちょくおねだりに来ました。

わたしは怪我療養中で家にこもっていたこともあって黒さんが来るとき、
家にいる確率が以前とは段違いに増えたのでいつのまにかそうなったのですが、
ある日黒さん、友達を連れてきました。



これまた毛並みのよい大きな雄の雉子猫で、黒より若い感じです。



猫が同性の友達を連れて来て「餌を分け合おうとする」ということに
すっかり感激したわたしは、この雉子にも黒さんの顔を立てて?煮干しを振る舞ったところ、



二匹でやってきては我が家のベランダのテーブルでくつろいでいくようになりました。
雄同士なのに並んで寝転び、時折相手をなめ合ったりしています。
仲良きことは美しきかなと目を細めて見ていたら、先日、

黒さんの上にまたがり、首を噛もうとする雉子を目撃してしまいました。

君たち・・・・。






 


女性パイロット列伝~ブランシュ・スコット「空飛ぶトムボーイ」

2014-04-11 | 飛行家列伝

アメリカの航空博物館をはしごして、各々女流飛行士のコーナーがあったので、
それをもとにいくつかのパイロットを取り上げてみました。

アメリア・イヤハートに始まって、映画女優になったルース・エルダー、
スタント飛行のパンチョ・バーンズ、そして

フランスの「女性将軍」ヴァレリー・アンドレ。
黒人飛行士のベッシー・コールマンや、ソ連のエース、リディア・リトヴァク。

「女性だから、美貌だから」

というカテゴリーから 抜け出して純粋にパイロットとして有名だったのが
全員というわけではありませんが、少なくとも
「黎明期に逆境をはねのけて挑戦した」という女性たちであることは確かです。


 

いずれも女優さんのような雰囲気をお持ちの美女ばかりですが、
冒頭写真を含め彼女らは有名パイロットというわけではありません。

ここベイエリアには、今でも99s、ナインティナインズという
女性パイロットのための飛行クラブがあって、奨学金で後進の育成をしたり、
互いの交流を深めたりといった活動をしているのですが、
この女性たちはその99s黎明期の創設メンバーだそうです。

冒頭画像はマリアン・トレース、下二人左からアフトン・レヴェル・ルイス
そしてフィリス・ゴダード・ペンフィールドのみなさん。

もしかしたら容姿端麗であることも入会条件だったのか?と思いましたが、
そういうわけではもちろんありません。

フィリス・ゴダード・ペンフィールドは、この会の創設メンバーですが、
わたしが昨年の夏滞在していたCAのパロアルトで
飛行学校を経営していたゴダードと結婚後、
そのゴダードが飛行機事故で死亡したので彼の遺志を継いで
本格的に飛行の世界に脚を踏みいれたという女性です。

しかしどうでもいいですが、このころのアメリカ女性は今と違ってスマートですね。
やっぱり食べているものが全く違ってたのかしら。


このベイサイドには小さな飛行場がそれこそあちこちにあって、
自家用車のように
飛行機を所有している人が利用していますから、
女性のパイロットも多いのでしょう。

冒頭画像に描いたマリアンは、このクラブにいた関係で、初めてアメリカが
旅客機運行を始めたときに客室乗務員となった最初の女性となりました。
つまり、アメリカのキャビン・アテンダント第一号です。

パイロット資格を持っていながら仕事がスチュワーデス?
とつい思ってしまいますが、
昔はアメリカでも敷居の高い職業でしたし、
「最初の」となるとなおさらです。

今の「Kマートのレジよりはちょっとマシ」程度の、アメリカにおける
航空会社客室乗務員の地位の低さからはとても考えられませんが。


さて、というところで本日の主人公です。



”空飛ぶトムボーイ” ブランシュ・スチュアート・スコット
(1885-1970)


昔むかしの少女漫画ではこういうメガネをかけたオバサンは、かならず
「そうなんざーます」

としゃべる金持ちマダム(あるいは教育ママ)と相場が決まっていました。 

んが、このざあますマダムが若かりし日「トムボーイ」(おてんば娘)と
呼ばれていたことがあろうとは・・・・。

男子三日会わざれば括目して見よといいますが、女性は数十年もたつと
別の生き物のように雰囲気が変わってしまうものですね。
「変わった」の意味はまったくちがいますけど。


それはともかく、このブランシュ・スコット、こう見えてアメリカで
単独飛行を成し遂げた最初の、ってことは世界でも最初ですが、
女性というすごい人なんざあます。


1910年、彼女はあの、グレン・カーチス(もちろんカーチスの創業者ですよ)に
採用されて、彼の飛行グループに加わり、宣伝のためのエキジビジョン飛行を行いました。

グレン・カーチスはもともとオートバイの分野でのエンジン製作の先駆で、
そのエンジンを航空機に生かすことを思いつき、ついでに飛行機の操縦を習い、
ちゃっかり

「史上初めての飛行機免許を取ったアメリカ人」

の地位を獲得しています。
ライト兄弟の初飛行は「公認」ではなかったからですね。

ライト兄弟は不満だったでしょうが、彼らが免許を受けたのは、史上

「4番目と5番目」

だそうです。
兄と弟どちらが先だったのかまではわかりませんでしたが。

そのせいだけではもちろんありませんが、カーチスとライト兄弟の係争は
その後飛行機の開発を巡って、法廷にまで持ち込まれたりして泥沼化します。
病気で兄を失った弟のオーヴィルは、その死因を
「心労によるストレスで、これはカーティスのせいだ」などと言ったりしたそうですが、
ここでは関係ないので割愛します。


ただ、第一次世界大戦がはじまり、その後当人たちが一線から退くと、
カーチス・エアロプレーン・モーター社ライト・マーチン社は合併して、
呉越同舟会社カーチス・ライト・コーポレーションが設立されました。

ちょっといい話ですね。そうでもないか。


さて、スコット嬢は元々パイロットであるカーチス本人に飛行機の操縦を習っていました。
カーチスは、女性である彼女を表に出せばさぞ宣伝になると思ったんですね。

彼の読みは当たり、スコットはたちまち「トップ・セラー・パイロット」となり、
週に当時の五千ドル(50万円)稼ぐ「稼ぎ頭(がしら)」となりました。 

彼女のスタントの中で最も人気のあったのが”デス・ダイブ”、死のダイブ。
4000フィート(1.2km)上空からほぼ直角にダイブして
地面ぎりぎりで機首を上げるという
非常に危険な技でした。

今の性能のいい航空機と違って(それでも危険ですがこの頃は複葉機ですからね。
”Tomboy In The Air"のあだ名はだてではありません。


ブランシュ・スコットが生まれたのは1885年。
彼女の父親は特許薬を製造販売して成功した実業家で、超資産家。
つまり彼女は正真正銘お嬢様だったんざあます。

当時、車を所有できる人間はアメリカと言えどもそういなかったという時代に、
しかも免許取得年齢に達してもいないころから、彼女は
娘に甘かった(に違いない)パパに買ってもらった自家用車を乗り回していました。

当時のおぜうさまですから、当然フィニッシングスクール
(花嫁学校みたいなもの)に通ったりもしているんですが、
どうも彼女は根っからの「おてんば」だったようです。


それも、その辺を乗り回すというような可愛いものではなく、
ニューヨークからサンフランシスコまで、つまり

アメリカ大陸を自動車で横断しており、
この記録はアメリカ史上二番目の女性だったという筋金入りです。



ちなみにわたくし、東から西海岸に引っ越す機会に大陸横断を計画しましたが、
クルマそのものに不安があったのと、時間がなく、どう考えてもスケジュールが
一日中走り続けて、それ以外は寝て食うだけの一週間の強行軍であることがわかり、
運転するのがわたし一人で、息子がまだ二歳児だったため断念しました。

今にして思えば、あのときが気力的にも年齢的にも、
時間的にもそんな無茶をする最後のチャンスだったので、
残念と言えばいまだに残念なことのひとつです。

車に不安があったとはいえ、それはせいぜいSUVじゃないから程度で、
彼女の乗った1900年当時自動車の性能と比べれば、
5年落ちのカムリも
現代の車はスーパーカーみたいなものですからね。 



さて、そんな彼女が当時の「はやりもの」であるところの
『飛行機』に目を奪われないはずがありません。

で、その辺の飛行学校ではなく、カーチス直々に操縦を習っていたわけですね。

さすがはお嬢様、きっとパパが財界のつてでカーチスに

「ああ、きみきみ、うちんとこのはねっ返りがねえ、
飛行機乗ってみたいと言っておるんだが、
ひとつ教えてやってくれんかね」


と頼んだりした経緯でもあったのではないかと思われます。

日銭を稼ぐ必要など全くないのですから、
彼女がこの後スタント稼業に飛び込んだのは、

ひとえにおてんば娘の血がスリルそのものを求めたからでしょう。



カーチスが宣伝パイロットにスカウトしたのは彼女が美人だったから?
と最初思ったのですが、
これを見る限り失礼ながら
富豪の令嬢にしてはあまりにもっさりしていて
・・・・・・
うーん・・・・・・・・・。


アメリカで最初に飛行機を操縦した彼女ぐらいしか、
他に適当なのがいなかったので

カーチスとしては選択の余地がなかったのか・・・・(失礼だな)。

そのへんは、航空黎明期ゆえ、女性専用のお洒落な飛行服がなかったせい、
ということにしておきましょうか。
馬子にも衣装ということですし、その逆もまた真なりってことで。



まあとにかく、当時は「女性」というだけで珍しがられ、
それだけで価値があった、
そういうことにつきると思われます。
(さらに失礼だな)


しかし若い時はともかく、マダムになってからの彼女って、
結構美人の面影ありますよね?

それに、



アメリカの切手になったこの肖像だって、結構な美人に見えなくもありません。



さらに最近こんな画像も見つけました。
まあ、こんなものを着ていたら大抵の女性はきれいには見えますまい。


6年スタント稼業を務めて彼女はあっさりと引退しますが、その理由は、
主に世間の彼女に対する「いつ事故を起こすか」というような好奇の目、
そして航空界の女性に対する排他的な体質に嫌気がさしたためだといわれており、
その時にこんな自嘲的な言葉を残しています。

「当時航空の世界に女の居場所なんてなかったわ。
エンジニアも、メカニックも、もちろん飛行家もよ。
多くの観客はわたしの首が折れる瞬間を観るためにお金を払ってたのよ。
『飛ぶフリーク』を見るためにね」

フリーク、という言葉は訳すといろいろと問題がありそうなので、
そういう言葉狩りに与するつもりはありませんが一応そのまま記します。

裕福すぎるほど裕福な家庭に育ち、さらに人のうらやむような
「玩具」を手に入れた彼女。

空にはばたくことで、より自由になるはずだった・・・。

ところが、実際は「空を飛ぶ女」というのは、
彼女がかつて花嫁学校である
「フィニッシングスクール」で教え込まれた
「あるべき女性の好ましい姿」とは正反対なもの、
というのが世間の、
そして航空界にいる男たちの認識で、一歩中に入ってみると
そこには
「道を踏み外した女」への好奇と揶揄、そしてなにより
反発が渦巻いていることに、
お嬢さんであった彼女は初めて気づき、
その育ちゆえ一層傷ついたのではなかったでしょうか。 


飛ぶことをあっさりやめた彼女は、その後脚本家として、
ワーナーブラザーズや
ユニバーサルスタジオの仕事をします。
あっさりとこんな仕事に就けたのは、彼女の家の力と思われがちですが、
むしろこれは飛行家として売った名前が実質役に立ったのかもしれません。

そして、1970年、彼女、ブランシュ・スチュアート・スコットは85歳の・・・、
おそらく本人も満足であったに違いないドラマチックな人生を閉じました。

 

ところで、彼女はもう一つの「初めての女性」のタイトルを持っています。

「ジェット機に乗った世界最初の女性」

というのがそれで、その初飛行は1948年。
彼女を乗せたジェット機を操縦していたのはあの!

名テストパイロット、音速を超えた男、チャック・イェーガー

イェーガーはその際、同乗者を63歳の女性ではなく、
かつてのスタントパイロットとして扱い、

遠慮なくロールや急降下を繰り返したそうです。

彼女がそのあとどんなことを言ったか、残念ながら
資料には残されていないようですが、
わたしとしては
TF-80Cから地面にすっくと降り立った彼女には、
メガネをかけなおしながらこう言っていてほしい。


「わたしが乗っていた飛行機より、ずっと安定していて
カウチにいるくらい退屈だったざますわ!」


 

 

 

 


空母「ホーネット」見学記~ヒストリー・ミステリー

2014-04-10 | 軍艦

空母ホーネットの艦内見学記、続きです。

ここで12ドル(だったかな)払うともらえるパンフレットには、
ホーネットの歴史としてこう書いてあります。

「USSホーネット、CVA-12、CV-12、CVS-12は第二次世界大戦以降に作られた
24の伝説的エセックス型空母のうちのひとつです」

このCVについて少しだけ説明しておくと、航空母艦(aircraft carrier)を意味します。
まずVは何かというと、フランス語からきていて、飛ぶという動詞のvolerのVなのです。
なぜここだけフランス語なのかわかりませんが。

んじゃCはキャリアーのCだね、と思った方、残念でした。
わたしもたった今までそう思っていたのですが、これは単に「craft」のCです。

とういうわけで、ホーネットは

CVA(Attack) 攻撃空母
CVS(Submarine) 対潜水艦戦支援空母

となります。 
ついでに

CVT(Training) 訓練空母
CVL(Little) 小さな空母
CVB(Big) 大きな空母
CVN( Nuclear-powered) 原子力空母

などという区分分けがなされています。
たとえば小さな空母のひとつにCVL「サイパン」というのがあるのですが、
ほかにも「イオージマ」だの「バターン」、「フィリピンシー」などという
母艦の名前を見ると、どうもアメリカというのは「勝った場所」をこうやって
艦船の名前につけることを好む傾向にあるようで。

「パールハーバー」とか「マレー・シー」なんてのが無いのでなるほどねと思った次第です。
まあ、マレー沖はアメリカ関係ないですけど。



さて、艦内の案内に戻りましょう。
機械室の真横で寝なくてはいけないかわいそうな人もいます。



このセカンドデッキは、ほぼ全域が士官用の居住区ですが、
同じフロアに医務室もありました。
「シック・ベイ」という通称が付いていたようです。
たとえばハンガーデッキ(ここから1フロア上)は艦首から向かって三つに分けられ、
それぞれを「ハンガー・ベイ1」「2」「3」と名付けていました。
この「ベイ」というのはフネの中での「エリア」に相当する呼び方のようです。

この医務室にもいろいろな面白い話がありそうだったのですが、パンフには

「セカンドデッキと医務室について詳しいことは、
”灰色の幽霊:空母ホーネットの物語”を読んでください」

とさりげなく宣伝してありました。(多分パンフ製作者の著書)
日本からは買えないので確かめようがなかったのですが、
アマゾンの感想には

「わたしはホーネットに実際勤務していた者だが、
この本はホーネットの真実を全く伝えていない!」

と酷評している人がいました。
まあ・・・空母でたくさんの人がいたわけですし、就役も戦前戦後、
期間も長かったわけですから、すべての人が納得するような視点、
というのもなかなかないのではないかという気がします。

何かを語るときにすべてにおいて言えることですがね。


そしてここは「医務室」というより、手術室をはじめラボまで持っている、
完全な「病院」だったそうです。



医務室のドクター用デスク。
ここで問診もしたのかもしれません。

ちなみに、第二次世界大戦中、ホーネットの乗員(艦載機パイロット含む)は
250人以上が戦死しています。

ちなみに、先代は日本軍に沈められましたが、このホーネットは
神風特攻による攻撃、日本軍からの爆撃は受けたことがありません。


非常の際点灯する赤ランプが非常に低い位置にあります。

 

まるでウォークインクローゼットのような物入れが作りつけられた部屋。
全ての引き出しには鍵がかけられるようになっています。



このあたりは、一部だけ階段で上がったり下りたりできました。
艦首部分で投錨のための施設があるところです。
巨大なキャプスタンがずらりと並ぶさまは壮観です。



上の段の小さな通路は、この梯子段以外に登る階段があります。
一人しか通過できませんが、たまたまわたしがここに来たとき、
中国人の見学客がいたので下でしばらく待ちました。



何をするものか全く説明なし。





前方補助のための緊急発電機室、とあります。

 

配置についている人名と、カジュアリティステーション、つまり被害箇所を
書き込む大きなノートでした。





意外と手仕事もおおいようで、日曜大工のツールみたいなのが並べてあります。



机の上に床材を貼るセンスが何とも。





というわけで、一通り艦内の特別展示以外の部分を見てきました。
ところで、これをご覧ください。



誇らしげにハンガーデッキに飾られていたホーネットの戦歴。

何も言いますまい。
こういうのをいまだに堂々と飾っているあたりがアメリカ人です。



特に大和への魚雷と爆雷について大きく書いているところを見ると、
やはりアメリカ海軍にとっても大和と戦ったことは「名誉」だったのか・・・。



ところで、話はがらりと変わりますが、ホーネットでは最少10人から、
一人25ドルくらい出せばパーティ会場として借りることが(貸切じゃないと思うけど)でき、
子供の誕生会などで借りた場合は、クルーが艦載機のシートに登らせてくれたり、
また食べ物は持ち込まなくても別注でランチボックスやピザを注文したりできます。

7月4日の独立記念日は勿論のこと、12月31日には夕刻からダンスパーティが行われ、
例年、年越しのカウントダウンパーティなどを大々的に催しているようです。
会場は前回の写真でお見せした士官用の食堂が使われ、また、
子供・少年対象ですが、なんと「オーバーステイ体験」(お泊り)もできます。

ホーネットも商売?ですから、このように何かと理由をつけて人を集め、
施設を維持する資金を少しでも稼ぐために、イベントをしょっちゅうやるわけですが、
それにしても子供の誕生日に、軍艦でパーティをしてしまうあたりがアメリカ人・・・。

しかも、HPによると、なんと今年の4月19日には

Saturday, April 19, 2014 –
The Anniversary of the Doolittle Raid」

があるんですってさ。
ドゥーリトル空襲記念日を「お祝い」してしまうんですねえこいつら。
無神経もここまでくると、悪気も衒いもなさすぎてもはや馬鹿に見えるレベル。

まあ、これを「おかしい」と思うわたしたち日本人の方が、もしかしたら
世界的基準から言うと「おかしい」のかもしれませんが、
ことにわたしのように考える人間から見ると

「敗戦国にさんざん自虐史観を押し付けておいて自分はこれかよ」 

みたいな苦々しさを、この国の人々に感じる部分でもあります。

さて、このホーネット、そんな感じで「ビバ・あめりか!」なイベントが
施設維持のための小銭稼ぎにしょっちゅう企画されているのですが、
ちょっと毛色の変わったところでこんなツァーがあるのです。



「東京が空襲されて子供が死んだ日」のお祝いに行きたいとは日本人としては全く思いませんが
(アメリカ人に変装できるのならどんなことをするつもりなのか見てみたいけど)
これならちょっと体験してみたくなりません?

なんと、歴史的ミステリーツァー

夜のホーネットを、霊媒師みたいな「語り部」とともに探検し、ついでに怪談話も聴いて
ただでさえ夏でも寒いサンフランシスコでさらに寒くなってしまおうという企画です。



ホーネットの受付のところにはこのようなショップがあり、
ここに最初行った時には「ゴーストハンター」というアメリカの番組の
「ホーネット編」というDVDが売られていたのです。

二回目に来たとき買おうと思ったらそれが売れてしまっていて、
ネットで探し当てたテレビ版をダウンロードで観ようとしたら、クリックした途端、
コンジットというマルウェアに侵入されてしまい大変な目にあいました。
息子に退治してもらいながら叱られたのは懐かしい思い出。



要するにこのミステリーツァーは、そのテレビ番組ゴーストハンターみたいな調子で、
「昔ここではこんなことが」などと脅かされながら艦内を探検するのです。



幽霊はともかく、ここで一夜を過ごすというのはやってみたい気がしないでもありません。
ツァーパンフにはこんなことが書いてあります。 

こんな体験ができます!

★ 本物のクルーのベッドで寝ます
☆ クルーがかつて食事をしたところで朝ごはんを!
★ 申し込みグループ単位でツァーを行います
☆ 普段の見学では見られないところで特別なアクティビティをします
★ スリルのあるフライトシミュレーター体験付き!

料金 一人100ドル(メンバーは75ドル) 

こういうのを見ると、パンフの言うところの「パトリオティック・イベント」である
ドゥーリトル東京空襲記念日も、この幽霊ツァーも、同じノリ。
なーんも考えずに要は楽しければいいやね。って調子でやっていますね。

つい肩をすくめて両手を上に向ける、彼らがしょっちゅうやるポーズをしたくなります。

ところで、このツァーで本当に幽霊が観られるのかはわかりませんが、
わたしは広い広いこの空母の中をほとんど一人っきりで歩き回り、
暗がりやら、かつて血まみれの人が息を引き取ったかもしれない病室の寝台やら、
そこに寝て次の日、飛び立ったまま帰ってこなかったパイロットのだったかもしれない
キャンバスベッドやらを見て歩いたわけですが、取り立てて不穏な空気は感じませんでした。

どちらかというと、写真を少しでもたくさん撮ることに血道を上げていたので、
たとえ暗がりに何か潜んでいたとしてもそんなものにかまっている暇はない、
とばかりにせわしなく走り回っていたわけですが、一度だけ「え?」と思ったことがありました。



立ち入り禁止になっているこの階段を何気なく見ながら通り過ぎてすぐ、
わたしのすぐ後ろで「がちゃーん」と大変大きな音がしました。
それはここに張り巡らされている鎖が立てた音だとは思いましたが、
そのとき艦体が揺れたようにも思えず、どちらかというとその音は

わざわざ鎖を持ち上げて叩きつけたような音

だったので、はっとして二、三歩戻り、
写真を撮りました。

もちろん、これには何も写っているわけではありませんが(笑)、
この手前から階下に続く鎖がこのとき猛烈に揺れていました。

いや・・・ただ、それだけだったんですけどね。




 

 


空母「ホーネット」見学記~悪魔の囁き

2014-04-08 | 軍艦

「天使のささやき」って曲なら知っているが、というスリーディグリーズな方、
本日タイトルにはあまり意味はなく、当エントリでのエリス中尉の
ささやかな告悔への前振りであると軽く考えていただければ幸いです。


さて、CV-12、空母「ホーネット」は、現在サンフランシスコのベイエリアである

アラメダの埠頭に係留されて歴史博物館になっています。
この、「キアサージ」として運用される予定だったフネは、ちょうどその時に
日本軍の攻撃によってCV-8であったホーネットが撃沈されてしまったため、
急遽名前をひきつぐ形でデビューしたという逸話を持ちます。

沈められてしまったから、というよりも、アメリカの場合軍艦の名前は
代々引き継がれるのが慣例となっており、このホーネットも8代目となります。
この代で以降ホーネットを引き継ぐフネはなくなったわけですが、それはおそらく
ホーネットというとどちらかというと戦闘機が主流となったためだろうと思います。
(おそらくそうですよね?)

ホーネットのことについては何度かお話ししてきたのですが、艦載機や甲板、
艦内の資料室のことばかりで、肝心のホーネット内部のことがまだでした。

今日は、この広い広い艦内をたった一人で探検したときの写真を
比較的淡々と挙げていきたいと思います。



平日のせいか、見学客がいないわけではありませんでしたが、
何しろ広大な空母の艦内、しかもほとんどどこでも自由に出入りできるとあっては、
ほとんどの瞬間わたしは人気のないこういった通路でたった一人。
ほとんど誰にも会うことがありませんでした。(伏線)



見学のため公開されているハンガーデッキより下はこの階層だけで、
この写真のEXITの文字の下の黒い部分がそうであるように、
下の階への階段はすべて遮断されていました。

入館してきた階をハンガーデッキ、ここをセカンドデッキといいます。

もちろん博物館ですからどこにいって灯りがが煌々としてとても明るいのですが、
一日の電気代だけでも大変なものではないかとふといらない心配をするほど、
くまなくどの部分も蛍光灯で照らされている様子がまた妙な不気味さでした。(伏線その2)

艦内は森閑として、そこが海の上だと全く思わせないような安定感があります。
ほんのときおり、めまいのときのようにぐらりと揺れる瞬間があり、
あらためてこれが今も海に浮かんでいることを認識するくらいです。



ガベージ・ディスポーザル、つまりゴミ捨て場。
日本の軍艦はスカッパーというゴミ捨て口から海に捨てていましたが、
アメリカの空母がどうしていたのかはわかりませんでした。
まとめて海に捨てていたのだと思いますが、コーラの瓶とかはどうしたんだろう・・。



立ち入り禁止の部分は鎖を渡してあります。
この公開されていない部分には当博物館の事務所があるのだそうです。



よくわかりませんでしたが、「トルピード・ショップ」とだけ解説にあったので、
おそらくかつてここで魚雷の調整をしていたのだとおもわれます。



ここは艦尾部分に当たります。
かつてここは艦載機を乗せるエレベーターが稼働するスペースで、
今はエレベーターが使用されていないので資材置き場と化しています。
「ひゅうが」の巨大エレベーター部分をふと思い出す雰囲気です。



ふと上を見ると・・・・おお、これが昇降するわけか。
ところでエレベーター壁面に書かれた

「NO SMUCKING」

って、何なんでしょう。
NO SMACKINGなら「平手打ち禁止」だけど・・・・・・。



これはハンガーデッキ階にあったロッカー。
かつてのものなのですが、よく見ると現在も使われています。
すなわち、手荷物をここに入れてコインロッカーのように使ってもよかったのです。
ところどころ貼られた紙には「ロッカー使用注意」が書かれており、
いくつかは誰かが使っていたらしく鍵が無くなっていました。

カギは持ち歩かずその場で売店のレジに預けるように、と書いてあります。



ホーネットとは関係ないと思いますが、天井から
翼のついたタンデム三輪車が吊られていました。

左に見える階段の上の部屋は、かつて偉い人がいるような場所でしたが、
今は展示室の一つとして、日系アメリカ人兵士の資料が展示されています。
わたしが訪れたとき、この展示室は完成してまもなくであったらしく、
ニューオープン!と書かれていました。



ハンガーデッキを艦尾の方から出ると、イスとテーブルがしつらえてあり、
ここで休憩できるようになっています。
 


ジュースを飲んでいるスタッフらしい人が一人いただけでした。
テーブルは昔からここにあったものでしょうか。



手旗信号をするデッキを見つけたので写真を撮りました。
ここへの上り下りは、奥のポールでするわけですね?
ここに立って手旗をするのもたいがいだけど、これを昇り降り・・・。
高所恐怖症なんて甘っちょろいことを言っている場合ではありません。

 

ペナントに見えるシースカウト、というのは実はスカウト運動のなかでは最も古く、
1908年から行われているものだそうです。
カヤック、カヌー、ボートなどの水に基づく活動について学ぶ団体で、
日本でも昔は兵庫県西宮市(今でもヨットハーバーがあります)を発祥としてありましたが、
現在は、「海洋少年団」の活動を残すのみとなっております。



艦橋の最も下の階にあるパイロット控室のようなところ。



ここでいったん甲板に出てしまいます。
また再び下におりていき、セカンドデッキへ・・。



セカンドデッキの一部には「マリーン・デタッチメント」の居住区があり、
海兵隊が警備や艦長の警護、囚人の監視(!)や儀仗を行うため、
出張(デタッチメント)しここに滞在していた名残があります。
床が赤いのはマリーンのカラーに敬意を表してのことかもしれません。

 

儀仗に使われるらしい木製のライフルが収納されていました。
もう使われることは無いのでしょうか。
それともホーネットでの儀仗の際には今でも使われる?



兵員の寝室・・・・なんですが、これ、最上段に寝る人は下段に足をかけて、
上にのぼっったわけですよね・・・・・靴を履いたまま?
アメリカ人は基本寝室でしか靴を脱ぎませんが、 特に常時非常体制の空母で
連中がわざわざ下で靴を脱いでこれを登っていくなどというのは考えにくいのですが・・。



と思っていたら、やっぱり(笑)
全くアメリカンってやつらはよお・・・・・。

旧日本海軍の釣り床も快適性にかけてはかなり辛そうですが、これも凄いですね。
時化の時はもちろん、こんな小さいキャンバス、寝返り打っただけで落っこちてしまうではないの。
おまけに天井までの距離が30センチくらいしかなさそうな最上段の閉塞感は半端ないですね。

みんなニコニコして楽しそうに見えますが。



ここは・・・なんだったか忘れました。
右側の紙に説明が書かれているのですが、ピントが甘くて読めません。



ランドリールーム。
こちらが洗濯機で向こうは乾燥機?



シーツの水切りとしわ伸ばしを同時に行うローラーと見た。
機械にでかでかと会社名が書いてありますが、「海軍御用達企業」であることを
宣伝にしているという感じですね。



仕上がった洗濯物はここに一時収納していたようです。
現役時代の洗濯物がそのまま置いてあるらしく、
ほとんどのものは黄色くなってしまっていました。



郵便取扱部署。
人影が見えたのでぎょっとしたのですが、マネキンでした。
この写真は小さな郵便物受け取りの窓からカメラを差し入れて
中を撮ったもので、実は外からはほとんど見えません。



艦内電話。受話器が外れないように固定されています。



使わないように「故障」の張り紙が貼られた便器。
艦内の洗面所は普通に使えるところがいくつかありました。



パントリー。
当時の什器機器がほとんどそのまま置かれていました。
雰囲気を出すためか果物のイミテーションまで・・・。

実は、この部屋、途中まで普通に入ることができたわけですが、
ふとわたしはそこにぞんざいに置かれたコーヒーカップに目を止めました。
美しいブルーのラインに「ホーネット」と描かれたカップ。
それは手を伸ばせば届くところにあり、その気になれば持って帰れます。

皆様に今ここで懺悔いたしますが、このときわたしは1万分の1秒の間だけ、
このカップを欲しい、と思い、今ならバッグに入れて持って帰れるかもしれない、
とその可能性を心の中でシミュレーションしたのでございます。

そこがたとえ何分佇んでいても、誰も通らないほぼ無人の空間だったことで
一瞬とはいえわたしの心の悪魔がつまらんことを囁いたのでしょう。
もちろんわたしは現実にそれを実行に移すなど、日本人としてありえない、
とその心の迷いを笑って打ち消したのでした。


今にして考えると、もしかしたらどこかに監視カメラがあったかもしれませんし。



見学客が座り込んだりしないように(部屋の外から見るようになっている)、
椅子を全部机に乗せた状態の士官用ワードルーム
士官が食事をしたり、ミーティングにも使われたそうです。



艦内売店。
「オフィサーズ・ストア」となっていますから、士官専用です。
というか、このセカンドデッキはほぼすべてが士官用の居住区となっています。
ここより下の階層には下士官、さらに下に兵員用区画があるのでしょう。



一番上の段はコルゲートの歯磨きや歯ブラシ、タルクなどの医薬部外品、
二段目にはジッポーのオイルやマルボロなどのタバコ、そしてインク。
一番下は本で、黄色い本が「ナショナルジオグラフィック」、「アガサ・クリスティ」、
そして「ドゥーリトル隊」の本。トランプにゲームなどなど。

これは艦首部分にあるフォグ/フォームステーションのオフィス。



これがそのフォグ/フォームステーションです。

艦内で火災が発生した時、プロテインベースのフォームを吹き付けると
フォームは炎を包み込み、消火することができるのですが、ここは
そのフォームを製造するステーションの一つで、艦内にはいくつかあるそうです。



フォームは水と一緒にセットし火災に向かってスプレーするのですが、
それはなぜかというと、水はオイルや燃料による火災の場合もすばやく広がり、
フォームを炎の部分にいきわたらせることができるからです。

各ステーション(たくさんあるらしい)で製造された濃縮フォームは、
5ガロンのボトルにいれられラックに常に蓄えられており、
艦の隅々まで迅速に送り込むために、艦内にめぐらされたパイプは
バルブを開ければいつでもフォームが出てくるようになっていました。

特に気づきませんでしたが、艦内の「緑のパイプ」はフォームが通っているのだそうです。

我が帝国海軍では消火設備に炭酸ガスを使用しており、
そのためついでに艦内でラムネなんかも作っていて、海軍さんのみならず
世間の人々にも好評だった、という話はご存知ですよね?



さて、というわけで、ホーネット見学記、もう少し続けたいと思います。









元陸幕長の語る「我が国の防衛」

2014-04-07 | 日本のこと

陸自と言えば、昨日習志野駐屯地の桜祭りに行かれた方おられますか?
わたしはM24さまに教えていただいていたので前日まで行くつもりをしていたのですが、
当日一人で行くことを心配した家族に不安定な天気を理由に止められ、

「転んでまた手の骨を折る夢を見た」

とまで云われました。
確かに手を庇いながら傘をさし、さらにカメラというのはいかに覚悟のできた
(底を見たってことです)わたしといえども辛いものがあります。

「来年には治ってるから。お天気もいいかもしれないし」

といわれて、一年後に延期を決めました。
まあ、最近の時間の経つのは異様に早いので、一年なんてあっという間さ。 


さて、冒頭写真はわたしが聴講した講演会で登壇する元陸幕長です。
前回この元陸幕長が中隊長であったときの逸話を漫画化しましたが、
この人物がまだ若くて バリバリだった頃ならあっても不思議ではないと
(というか本当にあったんですが)思われませんか?

 

因みにこの後ですが、全員伏せの状態になってしまい、本人も
二発撃った後、どうやって引っ込みを付けるかを考えだした頃、
部下(小隊長?)があたかも銃乱射犯人の説得をするかのように腰を低くし、
手で「押さえて押さえて」のポーズをしながら

「ちゅうたいちょおお~~~」

とささやき声で呼びかけつつそろそろと近づいて来て、 銃を奪い受けとったそうです。

という前日の「予習」によって聴講がいっそう楽しみになったわけですが、
さてどんな話が聞けるのでしょうか。



当日会場となったのは前日から泊まっていたホテルの宴会場。
宿泊には全く力をいれていませんが、この日のような経済界の朝食会など、
宴会や会合には重きを置いている模様。



宴会場から見える庭にはなんと人口滝まであります。
東京オリンピックに合わせて開業したそうですが、現在は前にも書いたように苦戦中。



ガーデンウェディングを行うために作ったと見た。



この日は前日ご一緒した元副官のK1佐は来ておられませんでした。
その代わり、かつての元幕僚長とK副官を思わせる陸自の2人組が。

わたしたちと同じく、経済同友会の朝食会が終わってから、
元幕僚長の講演だけを聞きに来た陸将補以上陸将以下の陸自幹部。
この陸将(ってことにしておきます)も、かつてバリバリイケイケだったときには
元陸幕長並の豪快な逸話の一つや二つありそうな雰囲気をお持ちでした。

副官はタバコの灰と吸い殻を始末するために携帯灰皿を持ちつつ近くで待機(多分)
海自と空自はどうだか分かりませんが、陸自の場合、
酒もタバコもやらんで部下の気持ちがわかるか!みたいなところで
どちらもガンガン、という隊長が多いような気がします。



主催者のお計らいで前列に席を取っていただきました。
今司会者が経歴を紹介しているところです。
以降、元陸幕長が語っているという設定で話を進めます。


【東アジアの戦略環境】

中国と台湾の問題、南北挑戦の分断、日本とロシアの関係、そして我が国の領土に関する問題。
今東アジアが置かれている問題の全ては、冷戦、そして第二次世界大戦の残渣と言えます。

まず竹島。
日本が敗戦後武装解除されているときに占拠され、その後サンフランシスコ講和条約で
否定されたにもかかわらず韓国が実行支配し領有権を主張しています。

北方領土問題も、日本が8月14日にポツダム宣言の受諾をしたとたん、
ソ連軍は上陸し、その後実行支配している。

台湾の問題も、終戦後、大陸で共産党に追い出された国民党がなだれこんできて、
日本を追い出した後に武力制圧のような形で支配した。

これ全て、遡れば日本が戦争に負けたことから始まっているんです。

中国の台頭というのは、中華思想に基づく膨張政策なんですね。
中華民族というのは「世界は中国のものでしかない」と考えており、国境なんて
便宜上引かれた地図上の決まりでしかないのだから、いくらでも修正されるべきだ、
そして我が領土は我が力の及ぶ範囲である、という考えです。

中国人は日本人と見かけは似ていても、中身は似て非なるものです。
話して分かる相手ではない。
道徳観念も価値観も、こんなに近い国でありながら全く違う。
厄介な隣人なんですよ。

もっとも、その厄介な中国人も中華街が作れない国もあり、
こちらはもっと厄介な隣人といえるかもしれません。(会場笑い)

彼らにとって膨張していくのは民族の本能であり、沖縄も尖閣もその膨張の先に
たまたまあるからやっているにすぎないんです。
その膨張の触手は、だから日本だけでなく中国本土の四方八方に及んでいます。


対して、最近は大国アメリカの力に陰りがみえてきました
シリアやクリミアの件もそうですね。
あれは単にオバマ大統領の個人的資質の問題かもしれませんが、いずれにせよ
国防費の大幅な削減によって、軍事力は確実に低下しています。

そして日本はどうでしょうか。

経済力では世界のトップ3です。
しかし、にもかかわらず政治的影響力はほとんどないに等しい。
発言力がないんです。
実にいびつな国家といえるかもしれません。


東アジアはいまや世界の近代軍が集中する地域となっています。
米軍を除く通常戦力は

陸軍:350万人、海軍:250万トン、空軍:5000機。

核戦力のことをいいますと、米、露、中、北朝鮮に囲まれています。
中国の核がどこを向いて設置されているか、知っていますか?


【尖閣諸島問題】

冷戦時代、自衛隊は「仮想敵国」をロシアとして、特に北の護りを重点にしていました。
そのころはたとえ日本に政治的な影響力が全くなく、発言権がなくても
それは対して問題にならなかったのです。
しかし、今はそれではだめです。

冷戦時代の北日本に対する脅威と、今の尖閣地域での緊張は比べ物になりません。
わたしは戦後最大の危機であるという風にも思っています。


わたしは軍同士の交流で人民解放軍のトップと話したことが何度となくありますが、
向こうの軍人は尖閣のことを

「明の時代に中国人が見たから我が国のものだ」

なんてことを平気でいうんですよ。
日本人から見ると道理が全く通らない、話が通じない、これが中国人です。
法的な権利とかファクトではなく、とにかく「中国が一番」の中華思想なんです。
だから、

「今中国は強いから尖閣の所有を主張しても良い」

従って尖閣は中国のものである、こんな認識なんですね。
それではその危機とはどのようなことが予想されるか。
こののシナリオについてお話ししてみます。

例えば尖閣で日本と中国が衝突したとします。
そうなった場合、戦域を尖閣だけに封じ込めることは不可能でしょう。
戦火は瞬く間に中国全土に飛び火します。

(エリス中尉註:さらに中国は2007年、在日中国人に対して有事の際に軍務を優先し、
国と軍が民間のヒトとモノを統制する「国防動員法」 を制定している。

たとえば尖閣でことが起こった場合、現在日本に大量にいる中国人は、
日本にいながらにして破壊活動や軍事活動を開始する要員となる可能性がある。
この法適用は国内企業のみならず外国企業も含むので、現在中国に進出している日系企業は、

そのときには中国軍の意志一つで全ての財産や技術を没収されることになる。
工場施設はもちろん、日本の最先端技術も。
親族の法曹関係者からの最新情報によると、今中国、韓国から撤退するための法律相談が

大手弁護士事務所に引きも切らず持ち込まれているそうだ)

さて、もし尖閣にことあらば、沖縄には在日米軍の主力が集結することになります。
想定される最悪の状況は尖閣諸島が中国に奪取される、ということですが、
もしそうなれば日米同盟は危機的状況に陥ります。

 逆に言うと、

日米同盟が有効に機能することは、つまり
日米と中国の全面戦争が生起するということ

なのです。

しかし、実際はどうでしょうか。
戦後最大の危機であることには違いないですが、かといってこのようなシナリオは
現実問題として可能性はほとんどないといってもいいのではないでしょうか。

先ほども言ったように、尖閣問題は中国の覇権主義の延長にある。
膨張しながら手を伸ばしている、その先が尖閣であるからこのようになっているのであって、
果たして中国は日米を敵に回して全面戦争するほどの価値が尖閣にあると思っているか?

わたしはだから逆に計画された戦争は起こりにくいと考えます。
もし何かあるとすれば、それは尖閣諸島周辺に置ける不測の軍事衝突
端を発するという形でしょう。

もし現地でそのようなぶつかり合いがあったとき、懸念されるのはまず中国側では
人民解放軍の、つまり軍の暴走です。
はたして中国共産党は、習金平は人民解放軍をコントロールできているか?
中国は文民統制など機能していません。
軍を政治がコントロールできるという政治体制ではないんですよ。

そして我が国の問題はそのときも世論が冷静であるか、ということです。
民主主義というのにも欠点はありまして、その一つが

「有事に際して世論が沸騰した場合、簡単に一つの方向になだれ込んでしまう」

ということなんです。
かつて日本が戦争に突入していったのだって「軍部の独走」 だけが原因じゃないんです。
そこには戦争を後押しし、政府を弱腰だと非難する、つまり沸騰する世論があった。

そして懸念の第三点目は、米軍の抑止力がそのとき機能するかということです。
もし中国側と日本側で戦闘行為が突発的に起こったとき、米軍は自動的に軍事介入するか?

わたしは絶対にそれはない、今の米軍は介入してこないと思います。

局地的に起こった戦闘が最悪の広がりを見せた場合、それは沖縄に飛び火し、
(なぜならそこに在日米軍がいるから)さらに日本全土に波及することになり、
アメリカにまで及ぶかもしれません。

機能的戦域は核戦争、サイバー戦争にまで至ることになります。



【尖閣諸島問題の本質】


尖閣問題は、日中両国の全体の関係から見ればそれほど大きな問題ではありません。
しかしながら領土問題には妥協はないのです。
島が小さいから、というだけの問題ではありません。

問題の本質は、領土問題ではなく、中国の中華思想に基づく膨張政策の始まり、
その象徴が尖閣であるということなのです。
つまり、中国という国が今まで通りである限り、この問題は終わることはない。
彼らにすれば膨張し自分の領土を広げていくという欲望に終点はないのですから、

いずれ日中の衝突は避けられないかもしれません。


日本と中国の関係は、いまだに「決着がついていない 」んです。
中華思想は「決着」「上下」を付け、その序列の上に自分があるとするものですが、
日本との間は今のところ一勝一敗です。

663年の白村江の戦い。(中国の勝ち)

このとき日本は唐・新羅連合軍に大敗しました。

(エリス中尉註:この敗北は、日本史上でも大東亜戦争後のアメリカによる占領を除けば
日本が外国の占領下に入る危険性が最も高くなった敗戦であったとされる)

1274~81年の元寇。(日本の勝ち)

鎌倉武士も頑張ったし神風も吹きましたが、結局フビライが死亡したので
決戦が回避され、日本に勝ち星が上がりました。

1941年、日本敗戦。

しかし、これは中国と決着がついたわけではありません。
無条件降伏はしましたが、中国に負けたわけではない。
つまり、未だ雌雄を決した関係ではないのです。
中国が力をつけてきて、より先鋭化した膨張政策を進める中、

「日本との決着をつける時代だ」

と考えているとしても全く不思議ではないのです。


【当面の対応】


中国の狙いは日米の離反です。
しかし、実際に日米が同盟を解除することがあったとしても、
それは必ずしも日本の滅亡や中国の属国化を意味しません。
より自主的で米国にも中国にも依存しない大国日本の誕生になる可能性があります。

日米の絆は核です。
日本も核を持ち、中国、アメリカ、日本と鼎立するという構図も可能性としてはあります。
しかし、それは皆に取って幸せなことなのか?

軍事的大国になることは日本に取って幸せなことなのか?

そんなことは日本人は望んでいないでしょう。
沖縄の小学校では、自衛隊員の子供を入学させない、という話もあります。
理由は「人殺しの子供はうちの学校に入れない」です。
戦後一人の人間も殺していない軍隊なのにです。

こういう人たちは自衛隊は戦争をしたがっていると言いますが、
実際自衛隊ほど戦争が嫌いな集団はありませんよ。
だって、戦争になったら自分たちがまず死ぬんですから。
何があっても戦争は回避してほしい、そう心から願っているのが自衛隊員です。



それでは当面、どのように対応していけばいいのか。
まず日米同盟の強化でしょう。
沖縄の在日米軍の再編はいわば過去の遺物です。
そして、集団自衛権の行使です。
武力の行使と武器使用を法改正によってできるようにすることです。

武器といっても武器だけではないんですよ。
例えば自衛隊の持っている野外手術システム。
これは集団的自衛権の足かせで現行は使えないことになっています。

そして、大事なのは多国間協力です。
特に連携をはかっているのはインド、ベトナム、そしてオーストラリア、台湾。(韓国)。

(エリス中尉註:つい最近もオーストラリアのパースで豪海軍主催のシンポジウムがあり、
我が海自からも出席があったと幹部の方からお聞きしたばかりです)

安倍首相は就任以来精力的に世界を回り緊密な関係を構築しようとしています。
各自衛隊の質的な強化も進めていくべきです。

そして、戦いを自衛隊だけに丸投げしないことですね。

防衛産業の強化は勿論ですが、国民にも戦う覚悟を持ってもらいたい
自衛隊は国防の尖兵ですが、いざとなると主力は国民なんです。
これは徴兵するとかそういうことではなく、今の軍事情勢に対して無関心でいないこと。
いざという時も大局に立った冷静な世論を構築するためにも。

敵対するだけでなく関係の宥和も必要です。

今もし何かが尖閣で起こったときに心配なのは、日中間にホットラインがないこと。
ホットラインの創設は提案されたこともありますが、今はストップしたままです。
当面、この創設に向けて努力することと、将来は人民解放軍と自衛隊で共同訓練まで行えればいいんですがね。

(エリス中尉註:中国主催の観艦式に海自を参加させなかったため、
米海軍がそれを不服として出席を取りやめたというニュースがあったばかりです。
リアルUSA! USA!状態で、佐藤正久議員も評価していましたが、それにしても中国、
なんというか、大国としてはかなり余裕がないというか、小っせーな、というか)


【靖国神社とケネディ大使】

ケネディ大使の「disappointment 」ね、
あれはもしかしたら日米同盟の崩壊の序曲になったかなと思います。
だって、あれは明確に

他国のナショナリズムの否定

をしたわけですからね。
靖国神社は墓じゃないんです。
魂を祀っている、つまり心の有り処と感謝の場を否定してしまったんですから。 
日本が独立した後、アメリカは靖国神社については表明したことがなかった。

(註:ブッシュ大統領は来日時に靖国神社参拝を主張したが叶わなかった)

こんなことを言えば日本国民が皆不快感を抱くくらいのこと、今まで
アメリカはわかっていたんですよ。
それが、中国韓国の大騒ぎに黙っていられなくなって口を出してしまった。

アメリカもなんというか、余裕がなくなっているなと思いますね。


【終わりに】 


国民が自国を守る意思を明確に
世界に向けて示さなければなりません。
誇り高き国に生まれ変わるには自主憲法の制定が不可欠です。


わたしが自衛隊だから言っているんだろうと思われるかもしれませんが、
陸幕長として世界中の軍隊を見て来て確信しているのは、
日本国自衛隊の能力は世界でも最も優秀だということです。
アメリカ軍よりもわたしは上だと思っています。

しかも、強い軍隊であるのにもかかわらず常にその視線は「下から」で
国民の従僕であることを以て任じています。
こんな素晴らしい軍隊が世界のどこにありますか。

我が国は世界でも最も自由で、豊かな自然を持ち、安全でしかも美しい国家です。
こんな日本を、素晴らしい日本を少しでも良くして子孫に残すことが
今のわたしたちの責務であり義務であると思います。




(当日の講演に参考資料の文章を加筆し、筆者の補足を加えて構成しました) 

 





 

 



 


元陸幕長とお会いした~歩兵の本領

2014-04-06 | 自衛隊












これまで何人かの自衛隊幹部、特に上級幹部を実際に目にし、
さらにインターネットの検索過程でそのご尊顔をチェックした結果、
何となくですが、やはり陸海空それぞれの「タイプ」があるのではないか、
という気がしてきました。

とは言っても当方あまり空自にご縁がないので陸海だけのサンプルですが、
ものすごくおおざっぱにわけると、海自の将官佐官は陸自に比べると
草食系というか、学者系で、陸自は比較すると幹部であっても叩き上げのような、
汗臭い感じが漂う雰囲気の方がどうも多いような気がします。

勿論「傾向」ですから、パイロット出身で副官任務にも付いておられた先日のK1佐のように、
どちらかというと内勤一筋みたいな草食的雰囲気の自衛官も数多くいましょうが、
先日ネット検索の過程で見つけたある陸自幹部は、鋭すぎる目つきに口髭を蓄え、
縁のない金縁眼鏡をかけたその佇まいが、首から下の制服をそのまま
ダブルの光る素材のスーツとか、街宣の構成員の特攻服に変えても何ら違和感がない、
というかそちらの方が似合っているのではないかとか思ってしまうもので、

「陸自幹部ともなるとこれくらいの迫力が出てくるのね」

と納得するとともに逆にこのタイプは決して海将にはいないと確信した次第です。

さて、それでいうと今回お会いした元陸幕長は、完璧に「陸自タイプ」です。
首から上が赤銅色に日焼けし、白髪の短髪はパンチパーマみたいです。(違いますが)
そして数万人の組織の上に立って号令をかけたことのある人間ならではの
眉間から放たれるような目の光が、どう見てもただのおっさんとは雰囲気を異にしています。
当日の宴会を企画した経済人から、

「見た目は怖いです(が話せば普通のおじさんです)」

と聞いていたものの、わたしは怖いというより、海自タイプとの違いの
あまりの分かりやすさに膝を叩きたくなるような気がしました。


会合は時間きっちりに始まり、料理が運ばれてくる間もなく、

元陸幕長のお話を全員で拝聴する、という独演会スタイルで始まり、
誰かがそれに間の手を入れたり質問したり、という調子で和気藹々と進みました。

退職後の幹部将官というのはご存知のように一般企業に天下るので、元陸幕長も
今は某企業(護衛艦の装備を作ったりしている」の監査役みたいな肩書きがあるのですが、
今回のように講演を頼まれることはしょっちゅうあるようで、退官後の幕僚長の仕事は
天下った会社の業務よりこちらがメイン?という気がしました。

現職中はともかく、退官し一般人となった今では、特にオフレコのこういう場では
歯に衣着せぬ発言もしばしば。
在任中の不満や自衛隊の内部のこと、極東情勢、明快な調子でご自身の見解を語る様子は
講演のみならず内輪の席でこういった話をすることこそ退官後の元陸将にとって
もしかしたら「本業」なのではないか、とすら思わせました。


■ 酒を飲まねば陸自上官ではない

宴席ですから乾杯から始まり、わたしとTO、例のI会長を含む列席者の半数が
お酒を飲めない人でウーロン茶とかノンアルコールビールでしたが、陸自2人組は
当然のようにビールに始まり日本酒に移り、元陸将に正面でお酌をしていた人が後で言う所によると

「気づいてましたか、ものすごい飲んでましたよ」

そういえばほとんど独演会状態で澱みなくしゃべり続けながら
運ばれてくる料理も全て平らげ、その合間にコンスタントに酒を吸引していました。
ご本人の最初の言によると

「陸自で酒が飲めなくては上にはなれませんから」

東北かどこかの方面本部総監をわずか何ヶ月かで移動を命じられたとき、
奥方が

「お父さん、何を悪いことしたの」

と心配するのに対し、ご本人、

俺をここにこれ以上置いておくとこの辺りの酒がなくなるからだ」

と答えたというほどの自他ともに認める酒豪です。


何かと体育会的に見られがちな陸自ですが、上と下のコミニュケーションの取り方、

このあたり空自の「クール」、海自の「決して超えられない線あり」に対し、
陸はあくまでも「ひたすらアツい男と男」といった一般人の持つイメージがあります。

陸海空問わず飲み会を何かと行う団体らしいのであくまでもイメージですが。


ところでこの夜、話はなぜかいきなり旧軍の特攻批判から始まり、元陸将は

「賛美しちゃ駄目ですよ。国が組織して兵隊を死なせるなんて作戦を。
命じる方は誰も死なないで、考案者は終戦の日に勝手にどっか飛んでっちゃった」

などとクソミソにおっしゃいました。

特攻を否定することと死んだ者を「犬死にだった」と貶めることは、個人的意見ですが
全く違うベクトル上に存在していますし、それが「統率の外道」であったことは
発案者も当初から認めているわけです。
そして特攻を賛美することと、特攻で散華した英霊の意思を顕彰することもまた、
全く別の次元に位置するのであって、イコールではないと思うのですが、
元陸将は特攻を「指揮官の立場から」見て、だからこそ言わずにおれないのだろうと
そのアツい口調の真意を憶測していたわたしです。

この元陸幕長の写真を検索すると、海外派遣に出発する隊員と握手する写真が
一枚ならず出てくるのですが、副官によるとこのとき元陸幕長は二百人ほどの隊員と
一人ずつ手を握り、目を見つめて激励の言葉を送ったということですし、
実際に現地に指揮官として在った陸将は、その当時

「もし派遣中に隊員が一人でも死んだら腹を切る」

と本気で考えていたそうです。
もし日本国自衛隊以外の他の国の将軍がこんなことを決意した日には
腹がいくらあっても足りないことになりますが(笑)、幸い(というか奇跡的に?)
ただ一人の死者を出すこともなく、陸幕長は腹を切らずに済みました。

「まあ切るといってもカッターくらいしか使えないので、
せいぜい腹の段に筋をつけるくらいで終わったかもしれませんがね」



■ 我いかに陸幕長になりしや

結果的には選挙という方法で選ばれる国家の長と違い、何万人もの組織のトップである
自衛隊の長になるからには、どんなにか傑出した能力と統率力を備えている人物だろう、
と我々一般人は思うものです。

わたしは海上自衛隊の最高位である海将のお一人に、
(今更ですが、海幕長というのは『チーフ・オブ・スタッフ』、
つまり16人の海将の代表という位置づけ)ずばり

「どうしてご自分が海将にまで上り詰めることができたと思われますか」

ということをお聞きしたことがあるのですが、やはりご自分では

「防衛大学主席卒はもちろんのこと、その後も間断なく繰り返される
昇任のための課程への受験と課程の修了、そして勤務を評定され最終的に生き残ったから、
つまり
自衛官としての受験戦争を勝ち抜いてきたからです」

などということは決しておっしゃいませんでした。(あたりまえか)
そのとき印象に残ったのは、たとえ自分が評価されない瞬間があったとしても
それは絶対的な評価ではなくあくまでも比較の問題にすぎない、
というようなことを語っておられたことで(もし意味が違ったらすみません)
つまりそれは、自衛官として与えられる日々の任務に邁進するならば
拘泥するべきことでもなんでもない、とおっしゃったように受け取れました。

つまり自分の努力に対しての(能力ではなく)絶対の信頼—、
五省にいう「努力に憾みなかりしか」「無精に亘るなかりしか」
恥じることさえなければ、という意味です。


こういうことを訊ねると大抵の成功者からは謙遜から「運が良かったんです」
という答えが返って来るものですが、どんなに運がよくても、
実績と能力の土壌のないところに花は咲くものではないでしょう。
その海将も元陸幕長もそんな紋切り型の返事は決してしなかったと記憶します。


元陸幕長はこの日会合が行われた地の出身で、防大14期卒。
ここを見て下さい、凹んでいるでしょう、と云われて見ると
眉間がわずかに窪んだ感じがあります。
防大での交友会活動(運動部)であるホッケー中パックが当たったそうで、
その自衛官人生は波乱の幕開けとなったということでした。

ところで、わたしと比べると自衛隊についての知識は皆無に等しいTOは、
この日自分からは一言もしゃべることなくノンアルコールビールを啜っていましたが、
彼と幕僚長にはちょっとした接点が会ったことが分かりました。

TOが関西の公立高校の生徒であったとき、隣は陸自の駐屯地で、
(というと学校名までわかってしまいそうですが) 金網越しに隊員が
可愛い女子高生に目をつけ、デートにこぎ着けたりするほど密着していたそうです。
(今ならありえないことのような気がする)
ある日生徒が基地に向かって悪戯でロケット花火を打ち込みました。
ことがことだけに基地側の対応もマジにならざるを得ず高校に厳重抗議、
それを受けて校長激怒、全校集会、当事者つるし上げ、という事件があったそうです。

この話を宴席にいく道すがら聞いたばかりだったので、元陸幕長が
全ての方面隊の司令をしたことがあり(これは元陸幕長ただ一人らしい)

「そういえば中部方面隊司令だったとき、隣の高校からロケット花火が・・・」

と言い出したときには我々はあまりの偶然に思わず盛り上がってしまいました。
つまりTOが高校生のとき元陸幕長は隣の基地にいたってことになります。

それにしても、TOがロケット花火を撃った本人じゃなくて本当によかった。


■ 元陸幕長の名言思い出すまま

◎なんでわたしが自衛隊を退官して三◎電◎の相談役なんですか。
普通の国はね、軍人が退官したら恩給がつくんですよ。
それができないから天下りなんてしないといけない。
おかしいですよ。

◎「 日本人はね、皆受け入れてしまうんですよ。
ヨーロッパ人は不細工は淘汰されるから、きれいな者だけ残る。
日本人は皆を公平に生かしてきたからそうでもない」

◎「 集団的自衛権の問題、安倍さんは最近後退しましたね。
まあ、もしかしたらできないかもしれないな」

◎「軍隊のことは軍人にしかわからないことがある。
いくら軍に詳しくても(わたしに向かって)
軍人になってみないとわからないことが多い」

◎「ムバラク大統領に呼ばれて行ったことがあるが、
ホテルに連れて行かれたら周りを武装した(って当たり前だけど)
軍が取り囲んでいて、何があったんだと思ったらそれは自分と家内の警護だった。

部屋にいるのも退屈になって夜外に出てみようとホテルのドアを開けたら
頭から布を被った狙撃兵みたいなのがずいっと出て来て、何かいう。
言葉が通じないけど「どこへ行く」みたいなかんじで、
とてもふらふら出歩くことなど許されなさそうだったからあきらめた」

◎「出国する日、朝5時に呼び出されて眠いので不承不承夫婦で出かけたら、
まず実弾の入った銃を野っ原みたいなところで「撃たせてやる」と渡され、
奥さんまでがそれを撃った後、ゴルフクラブを渡して『これも打て」

『こんな真っ暗なところどこに向かって打てばいいんだ』

と聞くと、松明を持った男がだーっと走っていく。
そこに向かって打て、と。
何打かしているうちに夜が空けて来てそのとき初めて、そのコースの両側を
銃を持った兵士がずらりと並んで警備しているのを知った」



■ 誇れる功績

「わたしはこれだけは任期中にやったことで誇れるということがあるんですよ」

陸上自衛隊は東京池尻にある三宿駐屯地に、2007年、自衛隊初の託児所を
モデルケースとしてオープンしました。
運営は民間に委託され、営業の形態は自衛官の生活形態に合わせたもので、
保育時間が早朝から深夜までと長く、実質24時間営業であることで、
災害派遣や夜勤などの勤務に赴く隊員のニーズに合ったものとなっています。

「育児を後押しする体制がなくてどうやって女性自衛官が確保できるかということです。
海自と空自にも声をかけたんですが、何かあるらしく乗ってこなかったので陸自だけで」

副官だったK1佐は、奥様も現役自衛官、当時適齢期の幼児を(0~5歳)お持ちで、
その施行を待ちかねて子供をそこに預け、本当に助かった、とのことです。
モデルケースですから、ここの経営がうまく行けば同じような託児所が
各駐屯地にできる可能性もあるということです。
勤務時間が不規則な職場なのにどうして今まで託児所の一つもなかったかというと、
やはりそれも「国民の目」に対する配慮というものが大きかったそうです。

保育所不足は一般でも大きな問題ですが、そんな中「なぜ自衛隊だけ」とか
「税金を使って」などという声が出て来るかもしれない、という配慮です。
なんというか・・・・こういうのって、本当に悲しくなる話ですね。


余談ですが、自衛隊の官舎は「夫の階級に準じて妻の階級がある」という
噂を耳にしたことがあったので、その真偽をK1佐に聞いてみたところ、

「そんなことは全くありません。
むしろ結びつきが強く、コミニュティでも皆仲がいいですよ」

ということでした。
一般企業の奥様方より「外圧」があるせいか団結しているのかもしれません。



最初にご自分の履歴について話し始めたときに、元幕僚長は

「わたしは歩兵なんですよ」

とおっしゃいました。
わたしが脊髄反射で(笑)つい、

「歩兵の本領、ですか」

と軽口を叩いたところ(ちょっと反省してます)
打てば響くように、というか結構嬉しそうに

「そうです、万朶の桜、です」

この歌を知らなければ、二人は一体何の暗号を交わしているのだろう、
と思われそうなやり取りになりました。

まあこれも所詮「軍隊を知らない軍隊の外の人間」としてのイメージですが、
航空でも、空挺でもでもなく「歩兵」であったということが、
この軍人の場合人格とか胆とかを作り上げ、その結果として幕僚長という最高峰に
この人物を押し上げることになったのではないかという気がしました。

あくまでもイメージですけど。


 

 


元陸上幕僚長とお会いした~「副官のお仕事」

2014-04-05 | 自衛隊

「というわけで」

TOが明日はオで始まってマで終わる県に(なぜこの表現にこだわっているかについては後述)
行こうという日にわたしに聴きました。

「ちゃんとこの元陸幕長のこと調べてあるんだよね」
「何も調べてない。陸自のことあまり詳しくないしwikiじゃわからないし」
「え、だめじゃん」
「でも講演会聞くだけなんでしょ?先入観なしの白紙の状態で聴けばいいのよ」(えらそう)
「・・・あんた明日Mさんと会合の予定入ってるの知ってた?」
「・・・・・知りませんでした」 

なんと、講演会の前夜、少人数で元幕僚長と元副官を囲む会が
いつのまにか予定に入っていたのでございます。
財界の大物でもないわたしが自分の知らない間に会食の予定を入れられていた
というのも不思議な話ですが、ここはまあ色々とございましてそれは省略。

もしそれがもし元海幕長だったら航空機か艦艇か、フネなら駆逐艦かはたまた掃海艇か、
潜水艦でも色々と聴きたいことが、と下準備万端で出かけると思うのですが、
陸幕長となると、むしろあの集団の中からどうやってトップに上り詰めたのか、
どんなガチムチマッチョなのか、などという興味が先立ってしまい、ゆえに
やっぱり全くの基礎知識なしで会合に臨むことになりました。

実にいいかげんである。

 

またまた来てしまったぜ、OKAYAMA。
短期間にまたもこの地を踏むはめになるとは。
この地にはTOの名前(というか今はわたしのでもありますが)と同じ地名があり、
実際も彼のルーツはそのあたりなのですが、今までほとんど縁がなかったのに
ここ2~3年、何かというと用事ができて足を運んでいます。

これもご先祖さまのお導き?



まるでホテルのパンフレット写真のように人気がないのは、
本当に人がいないからです(笑)
この、一応ゴーヂャス系のホテルで明日元陸幕長の講演会が行われるのですが、
わたしたちは朝早くからのその講演会に出席するために前日から前乗りしました。

駅から相当離れた場所にあるホテルで、経営は今「大変苦しい」のだとか。
道理で従業員以外の人影がロビーに全くないと思ったよ。
料飲と宴会に力を入れているので宿泊はまったく「おまけ」の扱い、
よって一泊の宿泊がツインで5000円!
一人2500円なんて、都会のカプセルホテルより安いんじゃないですか?

ひとつ上の写真はホテルの部屋からの眺めで、紹介してくれた企業の会長の御威光で
部屋をアップグレードしてもらったというのにこの値段です。
なんだか、貨幣価値の違う国に来たような変な感覚でした。

さて、畏れ多くも主催者に黒塗りの車を差し向けてくれていただき、
その車でわたしたちは岡山駅近くの会合場所に向かいました。



できて間もない新築のにおいのする小料理屋でした。

わたしたちが到着したときには主賓のお二人は勿論全員揃っており、
着くなり名刺交換が始まったわけですが、元陸幕長については前もって頂いた

「見かけは怖いですが、話してみれば普通の人です」

という情報そのまま、何方かと言えば小柄ですが赤銅色に日焼けした顔といい、
妙に鋭い目つきといい、一目見てただ者でない人物に思われました。

そ れ よ り (笑)

わたしは、部屋に一歩入るなり、心の中で

「あっ!」

と叫んだのでございます。(心の中で、ですよ皆さん)
Mさんが陸幕長であったときに副官を務めており、現在は地元地本勤務で、
ちょうど栄転が決まっているので送別会も兼ねて主催者がお呼びしたK1等陸佐。
この方が・・・・・。

「・・・お会いしていますよね?」

K1佐(小林一佐じゃないです)の表情にも「あっ!」な雰囲気があったので
向こうもこちらを覚えて下さっているとの確信を深め、わたしがこういうと、

「はい」

なんと、前回の三井造船での「ふゆづき」引渡式に出席したとき、
観覧席のグレードを同行のIさんのおかげで三階級特進したわたしが
まんまと潜り込んだ(人聞きが悪いな)中央のテント。
このテントで、わたしの前に座っていた陸軍軍人がいたわけですが、
当夜料理屋の一室で待ち受けていた陸佐がまさにそのひとだったのでございます。

「ちょっと待て、確かそのとき
『肩の階級章を写真で見て調べたところ、陸将補だった』
とか書いていなかったか?」

と今思った方、あなたの注意力並びに記憶力は素晴らしい。
はい、そうです。陸将補と一佐の階級章を見間違えていたんです。
いや、わたしも陸将補にしては若いなあとは思ってたんですよ。

にしても驚いたのは、陸将補じゃなくてK1佐が、テントではわたしの前列の席だったし、
パーティ会場で会話もしていないのに、ちゃんと当方を覚えていたことです。

・・・・やっぱり政財界のVIPばかりのあの会場では当方浮いてたんだろうなあ。

当日の話も出ましたが、まずあらためて確認したことは

「陸自の自衛官は以外と海自のことを知らない」

ということです。
「ふゆづき」出航までの儀式のいろいろについては、K1佐によると

「海自の式典に付いては全く初めてのことばかりでした」

ということで、案外そんなものかと思ったのですが、わたしは前に座っていた
K1佐が、一般人が全く立ち上がらないところでも立ち上がり敬礼をしていたのを
後ろから興味深く観察して(写真まで撮った)ものですからそのことをいうと、

「たとえば国旗や自衛艦旗には敬礼をすることが決められています」

後から調べた所によると自衛隊法施行令則より、礼式に関する訓令で、
自衛官が敬礼をする対象や方法が詳しく決められていました。


ところで、かつて「一日副官」「副官の花道」という旧軍副官シリーズをエントリにし、
副官のお仕事というものに多大な興味を持っているわたしとしては、
元陸幕長もいいけど、どちらかというとこちらに興味があります。(笑)

旧軍の昔「人権を認められているとは言えない仕事ナンバーワン」といわれた(らしい)
副官というお仕事ですが、現代の自衛隊ではどのようになっているのか。



そういえばわたしは去年、とある海将の職場を訪問させていただいたとき、
「副官」という人種に初めて遭遇しております。

たとえば車で現場に到着したとき、いち早く飛び降りて将官のためにドアを開ける、
訪問者(わたし)との電話でのやり取り、来客の駐車場の確保とか、
そういったことはすべてその副官のお仕事でした。

そして、海将は副官のことを名前ではなく「副官」と呼んでいました。

「副官、お客様を玄関までお送りしなさい」
「副官、あの資料はどこに飾ってあったか」

こんな感じです。
一般社会ではたとえば社長が秘書を呼ぶときにも、大抵は「山田君」などと名前で呼びますが、
この呼び方は一般人のわたしにかなり特異な響きを持って聞こえました。

違うのも当然かもしれません。
そもそも副官というのは旧軍のシステムをそのまま残したものなのです。

一般の秘書が「役職者本人を助ける」のに対して、副官とは


「役職そのものを助ける」

という違いがあるのだそうです。
そういわれても具体的にどういうことかわからない、という方は、
Wikipediaの「副官」の項目の

軍隊において、高級の役職に就く者は一般的な組織運営だけでなく、
戦時・平時関わらず、配下の事務や指揮監督を行わなければならない。
高級役職ほど管理する組織は大きくなるため、全体を役職者一人で運営・管理するのは
体力的、時間的に困難であるため、副官を置きその一部を担当させる。
当然ながら、事案の最終決定権限は役職者本人が持つ。(wiki)



という説明をご覧下さい。
(それにしてもこの文章はかなり拙いと思うのはわたしだけ?)
これは旧軍ないし一般の軍隊における副官の定義です。

「その一部を担当させる」

というこの部分が、秘書と副官の任務の決定的に違う部分でしょうか。
ただしこれもwikiによると、自衛隊では秘書的な役割がほとんどであるということです。


元陸幕長に会ったということを報告するために挙げたエントリで
当人の話を差し置いて先に元副官の話に終始してしまいそうですが、
K1佐はこの陸幕長のとき副官であった、つまり何年か前に副官を務めた人物です。
この会合に来ていただいたのは、講演会のため来岡した元陸幕長の元副官であることと、
ちょうどこのとき当地から中央の某基地に転勤する直前だったこともあり、
「栄転祝い」「送別会」を兼ねてのことであるということでした。

そして当夜同席の方々が口々に

「彼は出世しますよきっと」

などと評しているのを聴き、なるほどと思ったわたしです。
K1佐、後でお聞きすると奥様も現役の(!)自衛官でいらっしゃるということで、
左手の薬指には燦然と?結婚指輪が輝いておりました。

少ないサンプルで申し訳ないけど、自衛官で結婚指輪をはめている男性、多いです。
はめていない人をどうこう言う気はありませんが、わたしは指輪している男性、好きですね。
なんか、妻を大事にしている、ってアピールがあるじゃないですか。

・・・・・え?甘い、って?


さて、「自衛隊での副官の任務は秘書とほとんど同じ」と書きましたが、副官という職務は
ある程度役職者の意思をくんだ上での代理を務める場面もあるわけですから、
当然のことながら優秀な者が選抜され、起用されるのは昔と変わりないでしょう。

副官業務は一人の役職者に仕え、その間交代はありませんし、役職者が退職したら
同時に副官の任務も終わり、別の役職者の副官になることは決してないそうです。
そして任期中は国内出張は勿論、海外派遣であろうと「おやじ」と運命を共に
どこにでも付いていく「女房役」、それが副官のお仕事というもの(らしい)です。

K1佐は上官と出席しているこの宴席で決して出しゃばりはせず、控えめな態度で
「副官体質」とはこのようなものかと思ってみていたのですが、かといって
ずっと黙っているわけではなく、適所で元陸将の話したことに補足をしたり、
現役中のエピソードを披露したり、それが2年半(この任期は長い方らしい)の間
ずっと行動を共にし続けてある意味奥さんよりも近かった部下の
「阿吽の呼吸」の名残りというものかと感心してしまいました。

しかしながら、元陸幕長のお話を聴いていると、随所に

「そこで副官にあれこれと指図されて」
「副官にこき使われながら」
「副官に叱られて」

といった「実はかかあ天下」みたいな証言多数。
勿論相性がいいにこしたことはないですが、それよりも副官という業務、
役職者以上に役職者のスケジュールについて知悉していなくてはいけないし、
最後に決定するのは役職者とはいえ、全ての采配についてはその意向を踏まえ
ある程度は形をつけておかなくてはならないのですから、
記憶力、判断力、何よりも機転が利くべきだし、総合的な人間力が問われます。

優秀=副官=出世候補、と考えてもいいのではないでしょうか。


自衛隊の人事は外のものには全く想像もつかないものですが、それでも一同は
K1佐がどうして副官になったのか興味津々。
K1佐はもともとCHー47の(本人はただCHの、といっておりましたですよ皆さん)
パイロットだった、とわたしの問いに謙虚な様子で答えておられましたが、
後から調べたらこの方、第5代第12ヘリコプター隊の隊長でいらしたんですね。
退任されたのが平成21年というので、副官任務はこの前職であったということのようです。
第12ヘリコプター隊は陸自第12旅団所属で群馬県の相模原駐屯地にあります。

防大出の幹部はおとなしくしていたら自動的に2佐までは昇進します。
しかし1佐への壁は厚く、下手に頑張ると脚を引っ張られつぶされるため、
1佐になれる自衛官というのはそれだけですごいのだとか。

K1佐がいつ昇進したのかは分かりませんが、副官候補になった時点で
すでに「将来有望」と見られていたということではないでしょうか。
列席者の一人が元陸幕長に訊ねました。

「どうしてKさんを副官に選んだんですか?」
「それ、知りたい!」(←エリス中尉)

それに対する元陸幕長の答えは意外なものでした。

「候補者が何人か並んだ名簿を見せられるんですよ。
でもそんなもの見せられてもわかりませんから、
『一番右』を『これ』って指差して決めます」

この決め方は元陸幕長の言い方によると「そういうことになっている」そうです。
列席者との間で後からこの話になったときに、わたしが

「名簿を出す方はやっぱり一番右に第一候補を書いておくんでしょうか」

というと、

「あの『一番右』って『右』っていう意味じゃなかったんですか」

と別の方が言い出し、言われたことを額面通りに受け取る傾向のあるわたしは
なるほど、そういう二重の意味もあったのかなと思った次第です。
これについての真偽は確かめていないので、もしどなたかご存知でしたらぜひ教えて下さい。



さて、わたしがこのK1佐と偶然にも劇的な再会を果たし、名刺を頂いてすぐに注目したのは
その離職前の勤務先が「OKAYAMA地本」となっていたことでした。

なぜかって?

OKAYAMA地本と言えば、あれですよ。かの有名な

ジエイのお仕事

「オで始まってマで終わる県」はここからの引用です。
わたしは前からこの「らしくない」リクルート漫画が好きでTOにも読ませたくらいでした。

K1佐の名刺を見てからというもの、このことを聞いてみたくてたまらなかったのですが、
お開きとなって元陸幕長を主催者がタクシーで送っていった後、全員で立ち話がはじまったので
その機会にK1佐に聞いてみました。

「あの岡山地本のホームページの『ジエイのお仕事』という漫画のことなんですが・・」

すると答えは

「ああ、あれは北海道在住の作家さんにお願いしましてね」

なんと、ご本人が中心となって決めたということじゃないですかこれは?
作家の火鳥さんによると、

”自衛隊の広報を名乗る男から広報用漫画の連載依頼の連絡を受けたが、
男の身分を信じられずに身分証の提示を求める。→本当だったので今に至る”

といういきさつだったようです。
受ける方も信じられなかったのね。なぜ自分に、って。
わたしももう少し時間があれば、なぜあの作家を選んだのかK1佐に聞いてみたかったです。


前々から注目していたこの地本HPの漫画の仕掛人と、
何のご縁か同じテントで引渡式を見学し、何のご縁か一夜の宴を囲み、
お話を伺うという偶然がまたまた起こったのです。

やはり、人の縁とは引き寄せられるものであるなあと実感した夜でした。


ちなみに、K1佐が

「わたしが決めたんです」

と胸を張っておっしゃっていたイメージキャラクターは次のようなものです。

陸上、海上、航空自衛隊イメージキャラクター~岡山地方協力本部オリジナル~


K1佐ェ・・・・。










 


京都お花見ぶらり旅行

2014-04-04 | お出かけ

息子が春休みになったので京都で遊んできました。
ちょうど桜が満開だったので、お花見も兼ねての一泊旅行です。



京都駅直結のホテルは今までグランヴィアしかありませんでしたが、
最近この近鉄ホテルができ、TOはグランヴィアほど広くなく(グランヴィアは部屋まで遠い)
安いのでこちらの方を常用しているそうです。



京都駅の南口は最近すっかりこぎれいになりましたね。
大昔は本当、何もなかったんですよ。
タクシー待ちをしていたら派手なショッキングピンクのプリウスタクシー発見。 

チェックインしてからすぐに朝昼かねて予約を入れていたイタリアンに向かいました。



旧都ホテル、現在ハイアットリージェンシーに到着。
ドアマンは日本語をしゃべる外国人でした。
(あ、日本人かもしれないのか)



桜を見ながら食事ができるということで紹介してもらったイタリアンレストラン。
グリッシーニとフォカッチャが美味しかったです。



庭に大木が一本あるだけなのですが、「桜が見られるレストラン」として
登録されているだけあって見事でした。

 

「ここに泊まっても良かったのに」

というと、

「ここは『出る』と評判だから、そういうのに敏感な人(わたし)に配慮してやめた」

何でも昔病院だったから出る、と結構言われているそうです。
ただまあ、京都でそんなこと言いだしたら「因縁」のない場所の方が少ないんじゃないかっていう。



ランチは本日のパスタかピザを選び、それに一品がついてくるというもので、
わたしはトマトソース&モッツァレラのパスタを注文。
ピザは、パプリカにズッキーニ、茄子という息子の嫌いな三大野菜でした(笑)

息子は晩が和食だと聞くと、「夜の分も今食べる」とイミフなことをいい、



大山鶏の単品を注文して食べまくっておりました。



ランチ終了後、次の目的地に向かいます。



ホテルの前の道。
「うぞうすい」と京都市博物館の前の道です。
バスのデザインが昔と全く変わっていない・・。



さて、我々が次に向かったのは四条歌舞練場。
今日のメインイベントは「都をどり」鑑賞。
この界隈のきれいどころが京都に春の訪れを告げるあでやかな踊りを
繰り広げる京都名物で、この日は初日となります。

 

ぱっと見ただけでここに写っているほぼ全員が「日本人ではない」ことがわかるでしょう。
京都に観光に来た外国人は京都らしい、日本らしい見物を求めてここに押し掛けます。



しだれ桜と普通の桜が満開で、皆この桜をバックに写真を撮っています。
しかし、中国人のポーズの取り方というのはどうしてこう端で見ていて恥ずかしいのか。 

シャッターの一瞬に彼らがものすごい気合いを入れてポーズを作るのと
日本の女の子が(女の子でなくてもやってるけど)Vサインするのはどちらがまし?
 



しかし、日本の桜の美しさを愛でる心に国境なし。
満開の桜を日本の観光の思い出にすることができたこの日の観光客は幸いです。



この日は4月1日、つまり都をどり初日だったので凄い人でした。
当日券は後ろの席しかなかったのではないでしょうか。
わたしたちはお茶屋さんからの紹介だったのでここでチケットをピックアップ。
なじみの芸妓さんからチケットを買うご贔屓さんもこちらです。



見事に満開です。

京都には花街が全部で5つありますが、そのうち都をどりを行うのは4つ。
この日の「をどり」は特に出演芸妓の数が多く艶やかなの祗園甲部の花街が行ったものです。

初演は明治5年。
明治の世になって「都でなくなった」後、京都は一時寂れかけたのですが、
それに危機を感じた地元が考案した「博覧会」の余興として、三代目井上八千代が
普段は座敷で披露する踊りを舞台でも見られるように創案したものです。



「をどり」、となぜか「を」を使うこの踊りですが、例えば別のお茶屋が行う
宮川町の「京おどり」は昭和25年と比較的最近始まったせいか「お」です。



待っている時間に、観客は土産物屋を冷やかしたり、庭を歩いたりします。



そして、声がかかったら、「お茶券」を持っている客は
このような階段を上って移動。
京都に地震が起こらなくて本当によかった、と思わせる普請です。



階段を上ればそこは異次元が出現。
ここで、芸妓さんがお茶を点てているのを眺めながらお抹茶とお菓子をいただきます。



芸妓さんのお茶の点て方を「立礼式」(りゅうれいしき)といいます。
時々、点てたお茶を直接客に運んだりしていましたが、特別客でしょうか。



この小皿はお土産に紙で包んで持って帰ります。

「あれ、このお皿見たことあるなあ。
っていうか、『スズメ食堂』でえさ入れにしてたお皿だけど」
「だからわたしが前に来たとき貰って帰ったんです」(TO)
「そういえば初めてじゃなかったんだっけ」

TOは以前もお茶屋さんのつてで席を取ってもらったそうです。



観光客が芸妓さんの写真を撮れるのはここだけなので、あたかも撮影会の様相を呈しています。
写真に撮られていることを思いっきり意識して、彼女らは顔も仕草もかなり「作って」いました。
白塗りに目尻に入れた真っ赤な紅、まるで人形のようですが、
そんな彼女らに、ご贔屓筋でもあるのか、目の前で嬉しそうに手を振っているおじさんがいました。

しかし、芸妓はすうっとかすかに目で挨拶しただけ。
そのように躾けられているのかもしれませんが、決して表情を綻ばせることはしません。

あの独特の祇園ことばも、出自と個人的感情を巧みに隠すものだと聞いたことがあります。



この後観客は演舞場に移動し、観劇します。



開演したら写真撮影は禁止。
禁止だ、というておろうに、わたしの前の外国人の男(多分ロシア人)は
一人ならず二人もが途中でカメラを取り出し撮影しようとして、そのとたん
後ろから脱兎のごとく飛んで来た会場係にプラカードを出されて注意されていました。
日本人ならまず「駄目」と言われればやらないんですが、今はいろいろいるからねえ。
中国人とか中国人とか中国人とか。

どんなものを観たかについては都をどりHPをどうぞ。

出演者のなかで特に美貌の(と思われた)芸妓は男役で「都の少将」という役名でした。
謡の歌詞はわたしも腐っても日本人、かなりの部分理解できたのですが、

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん

という後白河法皇の作った 『梁塵秘抄』など、知識として知っているもの以外は
ほとんど身振り手振りと状況でストーリーを察するという感じです。

後から息子が

「まっっっっっったくわからんかった」

とぼやいていましたが、

わからなくていいの、感じるんだよ」

というと

何も感じなかった」

まあ、あれに価値を見出すのは子供では難しいかもしれないなあ。

 

その後タクシーに乗って祇園を後にしました。 



タクシーから見た八坂神社はご覧の通り。
平日なのにものすごい観光客です。

 

百万遍に到着。
新々堂でお茶を飲もうと思ったのに、お休みでした。
ここは、パリ帰りのパン屋さんが「カルチェラタンのカフェのような」お店を目指して
大学前に昭和5年(!)オープンしてそのままです。

京都は戦災に遭いませんでしたので、そのままの姿を留めています。

仕方がないのでその近くの喫茶店に入ったら、狭い店なのにカウンターのカップルが
盛大にタバコを吸い出し、咳が止まらなくなりそうだったのですぐに出ました。



百万遍角にある「かぎや」でTOが手みやげ購入。
実はわたしが初めてTOにもらったプレゼントというのが
何を隠そうここの益壽糖というニッキ味のお菓子でした。
今にして思えばそれがお付き合いのきっかけになったと言えばなった、のかもしれない。
(遠い目)



構内に入ってみました。



ノーベル賞受賞記念の碑はこのように実際に貰ってから建てましょう。(忠告)

ところでどうして東大はノーベル賞を取れないのか。
などと言う話をしながら歩いていくと、



これもおそらく福井先生(とか湯川先生)がいたと思われる古い校舎。
勿論のこと今もそのまま使われています。



台湾の成功大学構内と似た雰囲気です。
成功大学は台湾のトップ3大学なので、ここと同じような位置づけですか。



構内の桜も満開で(そりゃそーだ)学生たちが静かに花見をしていました。



急性アルコール中毒などにつながる「アルハラ」啓発ポスター。
「罰ゲーム飲み」や「一気飲み」を強要されて死んだ人もいるよ、だそうです。



生徒だけでなく先生にも啓蒙ポスター。
特に外国人研究者との共同研究で油断しないように、とあります。

「国際交流の推進は大切ですが・・・・」

だそうです。
技術者を目指す学生に、技術流出による国力の低下の危険も啓蒙してほしいですね。



構内の桜を一枚。
今回はニコン1だけを持ち、レンズは変えませんでした。



ダイインしている学生、春眠暁を覚えずというやつですか。



「入るまでは、この時計台が高く見えたもんなんだよ・・」

そう、何を隠そうこの学校はTOの出身大学でもあります。
父親の出身大学を一度ぐらい息子に見せておくのもいいんじゃないか、
と今回時間が空いたので急遽企画しました。

正面の楠は当大学のシンボルツリーですが、テントが残念。



次は平安神宮近く、岡崎にある「武徳殿」。
昔、大日本武徳会武道専門学校という武芸専門の学校があったところです。
通称武専は村上もとかの漫画「龍ーRON」に出てきました。
(あの漫画、主人公が武専にいたときが一番面白かったような・・。
安重根を褒めてたあたりで読むのをやめたので知りませんが)

武道専門学校は戦後GHQによって武道を禁止されたときに廃校になり、
その跡地はしばらくGHQが接収していました。
今は総合武道場になっています。



向かいのカフェ「La Voiture」で名物のタルトタタン(リンゴの焼き菓子)を頂きました。
関西在住のころ、演奏会の帰りによくここに立ち寄り、ご自慢のこのお菓子を食べたものです。
その頃いた白髪のオーナーはお元気かどうか 聞いてみると、なんと

「先月亡くなりました」

とのことで・・・。
なんというか、偶然というのか・・。

女友達とここで時間つぶしにチェスをしていたら

「雰囲気が壊れるからやめてください」

と叱られたことがあります。
お客さんでも自分が気に入らなかったらずけずけとものをいう、
だけどなんだかいい感じの店主さんでした。

合掌。


ここから夕食の場所まで歩きながら近づくことにしました。
外国人旅行者のための「ハンディクラフトセンター」はじめ、
刀も売っていますが・・・・
外国人が買ったとしてどうやって持ち出すのでしょうか。



甲冑ひとそろい26万円。
アメックスも使えます。



鴨川の河原を歩いていくことにしました。



お昼は花見でにぎわっていたようです。



夕方のせいか、花弁がきれいなピンクに撮れました。







歩いていくと、このような飛び石があったので、ここを渡ることにしました。



渡りだして、この日の服装(皮のスカート)では、
少し脚の広げ方に制限があり、意外と敷石の間隔もあることに気づきましたが、
渡りだしてしまったので引き返すわけにいきません。



わたしは骨折して手首に金属を入れそれを辛うじてつなぎ止めているという状態なので、
もしここで脚を滑らせたらもういろんな意味で人生終わりです。

案外流れも早くて、落ちたら流されるのもほぼ確実。
かかとの低い靴で良かった。
というか、ヒールのある靴だったらまず渡ってませんけど。



激流を必死にさかのぼる亀さん。



さて、河原から道に出て現地までタクシーに乗りました。
ここが今夜のお食事どころでございます。



・・・・・お寺?



入ったところには白雪姫と7人の小人の置物が。
じゃなくて、誰だか知らないけど皆坊主。坊主の石像。
変わった趣向のレストランである。



ご~~~~~ん。(鐘の音)

みたいもなにも、そのままお寺じゃないですかここは。

そう、ここは「寺が本業、副業は料亭」の生臭寺。
いや、そんなことを言ったら失礼かな。
お寺の精進料理というのは昔から普通に外部の人間も飲食できるものだし。
提供するのも「精進料理のコース」。

京都にはこんなお店もあるんですねえ。



本道に続く道にそって「料飲部門」の建物があります。
お店の方によると、この形態での営業を始めたのは30年前のことだとか。



個室のテーブルは重役が座りそうなふかふかの回転椅子を装備。
座敷では外人さんは我慢できませんからね。

このときわたしたちの隣の部屋はインド人の家族でした。
なるほど、インド人も菜食なら遠慮なく来ることができます。

わたしがお手洗いに立ったときに会ったのはどうもアラブ系。
アラブ系も何か制限がありましたね。
菜食なら、一部を除くアメリカ人以外はどんな民族でも、いかなる宗教もOKです。



まず、おうすとなぜかせんべいが出てきました。



続いて前菜のトレイ。
茄子の田楽、酢レンコン、ごぼうの青のりまぶし、焼き麩、
山芋のすりおろしにカボチャの煮たの、卵焼き、こんにゃくなどです。



野菜の天ぷら。
シソの上は蘭。
蘭の花が食べられるとは知らなかった。
まあ、天ぷらにしてしまえば紅葉でもなんでも食べられるものですけど。



ごま豆腐。
精進料理の花形?というような存在のごま豆腐ですが、
ここのはとても濃厚でした。
今は忙しいので(笑)しませんが、昔はよく手作りしたものです。



栗のイガ。
イガイガは茶そうめんを揚げたもので、中はサツマイモを練ったもの。
お菓子感覚でした。



もうこの辺に来るとお腹がいっぱいで、少し味見をしただけで終わった
「うなぎの蒲焼きもどき」。
醤油で味と色と筋を付けた湯葉?に、ミソで黒い部分を表現。



というわけで食事は終了。
最後に本堂を取ってつけたようにお参りしました。
お賽銭を入れ、手を合わせて

「ご馳走さまでした」

と・・・・違~う!



青海波文様の白砂のお庭もあり、ここを見ながらバーで一杯も可。
本堂の真横(しかも同じ本堂内)がバー、ってあなた・・・・・。

というわけで、京都の春を目でも舌でも満喫しました。

京都は行くたびに人の歴史の深さというのか、奥の深さと、
それと同時に町の比叡山より高いプライドを感じます。
何回行ってもただの観光客でしかいさせてくれない敷居の高さとでも言うのか。

だからこそ世界の人々が憧れてやまない町であり続けているのだと思いますが。
今回、桜の季節に久しぶりに見た京都は、相変わらずの京都でした。 (←褒めてます)





翌日帰って来たら、家の桜も満開でした。
花見客が観に来るわけでもない一本の木ですが、これもなかなか立派ではないですか。



京都のような「特別な場所」でも、うちの桜でも、桜は桜。
寝室から眺められるこの桜を独り占めしながら、今夜は疲れた体をゆっくり休めるとしましょう。







 

 


日米親善ベース歴史ツァー参加記12~横須賀鎮守府跡

2014-04-02 | 海軍

先の日曜日の前後、当ブログの閲覧ページの上位に

「米海軍スプリングフェスタに行った」

というエントリが上がってきたので、
そろそろスプリングフェスタの日がまたやってくるのだな、と思っていました。

今年のスプリングフェスタは当方怪我療養中である上、歯の治療中に
薬液だかなんだかが喉に流れ込んだせいで(たぶん)咳が止まらなくなり、
塗炭の苦しみを味わって(ちょっと違う?)いる真っ最中だったので
全く参加するつもりはありませんでしたが、それにしてもこの日曜、
昼すぎまで暴風が吹き雨が降り地震もちょっとあったりと盛りだくさんで、
行った人も現地の米軍軍人も大変だったのではないかと思われました。

どなたかこの日横須賀米海軍基地に行った方、おられますか?


さて、昨年秋に参加し、他のイベントエントリを挟みつつお話しして来た
この米海軍基地における「日米親善ベース歴史ツァー」。(これが正式名称です)
やっと最終回にたどり着きました。



以前にもご紹介したことがある洞窟に作られた施設。
中にはレストランなどもあるそうですが、元々は防空壕です。
アメリカ人が、ここに在るものを破壊せずそのまま利用し、
しかも半世紀以上も当時のままの姿で保存してくれていることは、
今回のツァーでの大きな収穫の一つと言えました。
アメリカ人の美点というか、アメリカが日本に基地駐留をするにあたり、
こちらが感じている以上に関係をうまく維持することに気を遣っていることが
こういった史跡の存続を通じて伝わって来たのでした。

以前コメント欄で、自衛隊と防衛関係者が「自称市民運動家」の類いから受ける
有形無形の嫌がらせについて、たとえばkyari3さんによると当事者の「体感」による認識は、

「自衛隊に反対する人間の方がその他より多いような気がするほど」

ということですが、これを聞きわたしは今更ながらに呆然とする思いでした。
これらの人種の「自衛隊嫌い」は勿論のこと在日米軍に向けても遺憾なく発揮され、
沖縄ではもはやこれらの基地反対派がテロまがいの激しさで 反対運動をしているそうです。

フェンスに赤い(『彼らの』色だそうです。お隣の国と一緒ですね)テープを巻き付け、
それを清掃する日本人のボランティアが怪我をするようにガラス片を仕込んでおく、
基地の周りを人で囲んで皆が「恨」(お隣の国の得意な漢字ですね)という字を書いた紙を持つ。

こんなのは序の口で、米軍軍人に直接嫌がらせをし続けるグループもあるそうです。
ゲートをくぐるときに車に駆け寄って来て乗っているのが女子供であってもおかまいなしに
「ヤンキーゴーホーム!」「オスプレイ反対!」と叫び続けたり、窓ガラスに死体写真を押し付けたり。
こんな下劣で卑怯な嫌がらせに何の正義も正当性もないのは自明の理ですが、
自分の家族までがこんな目に遭わされるとなると、日本勤務は嫌だ、日本人は嫌だ、
とアメリカ軍人たちが思ったとしても無理からぬことです。

しかしながら、アメリカ軍が日本に駐留することが国によって決められているからには、
アメリカ軍人たちは、現地でアメリカ兵たちが問題を起こすことを極力なくし、
日本人との間に軋轢が起こらないように多大な労力を費やして親善イベントを行い、
そのような努力によって理解を求めているように見えます。

そして自衛隊と同じく、極端なくらい気を遣うことで日本社会に対する配慮をしているようにも。



海軍病院の見学のあとは、いよいよ横須賀鎮守府であった建物です。

ところで先ほどの話にも関係するのですが、横須賀鎮守府のアメリカ軍による接収が
どのように行なわれたかご存知でしょうか。

ポツダム宣言受諾後の8月30日、厚木飛行場にマッカーサーが降り立ったこの日に、
横須賀でも連合国軍の進駐が始まりました。

米国上陸部隊が午前9時29分に横須賀海兵団付近(今マクドナルドがあるあたり?)へ、
9時30分には追浜の海軍航空隊へ上陸を開始し、英国上陸部隊が9時40分に猿島へ上陸しました。

この日1日で横須賀に上陸した将兵は17,000人にのぼります。

前日の横須賀連絡委員会からの布告で、市民は上陸当日の外出を禁止されていました。
横須賀鎮守府では、司令長官の戸塚道太郎中将から上陸部隊指揮官バジャー少将に
横須賀軍港の引渡しが行われ、横須賀鎮守府庁舎には米国の国旗が掲揚されました。 

ここは何の建物だったかと言うと、まず

 
雨が降っていてレンズに水滴がついてしまったままですみません。
海軍艦船部と、人事部が




隣の鎮守府本舎から手狭になったため引っ越して来たのです。
最初は鎮守府の三階にあったそうで、建築計画は当初平屋建てでしたが、
この銘板にあるように、会議所を一階に併設することにして二階建てになりました。
 


鉄骨造で、外壁は煉瓦タイル張り。
建物中央部には柱頭飾りがある大きな柱形が立ち上がりエンタブラチュアを支えています。
三角破風や壁面には装飾が施され、歴史主義建築の伝統を踏襲し、
横須賀鎮守府管内では最も装飾性に富んだ建物となっています。


苔むした石段の見える築山。
これも鎮守府時代から変わらないものと思われます。



歴代大統領と、基地司令部の三役。(って言うのかどうか知りませんが)




昔も会議室でしたが、今もどう見ても会議室。
現在、一階は横須賀米海軍司令部、二階は多目的ホールとなっています。


ここの見学は入り口で解散し「20分後に集合」ということで自由行動でしたが、
二階にいくことは禁じられていたので、一階の通路のみの見学でした。



一階には見学者のために資料が展示されています。
東郷元帥が死去したことを伝える新聞記事。
皇族に使う薨去という言葉を使っているのが目に留まります。
薨去とは親王、内親王、あるいは正三位、従三位以上の位の死去に対して使われ、
東郷平八郎は元帥であり位が後半の条件に相当するので「薨去」が使われたようです。

ちなみに、ヒットラーが1945年4月30日死亡したとき、朝日新聞はそれを

「ヒ総統薨去」

との見出しで伝えました。

ちなみに東郷元帥薨去は昭和9年の5月30日のことです。



資料がおいてあるのはいいのですが、ろくに説明が付されていないので、
これがどのような由来でここにある艦船グッズかは全く分かりませんでした。
もし解説の人がちゃんと説明していたのにわたしが聞いていなかっただけならすみません。



これも全く説明無し。
おそらく平賀工廠勤務の方ならお分かりになるのではないでしょうか。



横須賀のドライドックをジオラマにしたものと思われます。
左側の空母の上にはここぞと色んな種類の軍機が満載されています。



大変な労力が注ぎ込まれていると思しきジオラマですが、残念ながら
ガラスが光ってしまって何がなんだか分かりません。



なぜZ旗がここに。
真珠湾攻撃のときに上がったZ旗・・・じゃないと思う。



コミッショニング・ペナント、就役旗の意です。
ジョージ・パーディ少佐が第二次大戦の部隊で使ったということですが、
ジョージ・パーディで調べても、サイエンティストのことしか出てきませんでした。

アメリカ国旗ですが、紐のように長い旗です。



日本軍人の写真も飾ってあります。

ここでちょっと昔のエントリに挙げた記事をもう一度引っ張ってきますね。

横須賀基地見学記 米軍の意外な日本への軽蔑的態度”


日本の議員(みんす党議員です)の協力の下、環球時報の記者は8月28日に横須賀基地訪問を申請、

同月31日に許可が下り、中国に最も近い米軍空母「ジョージ・ワシントン」に乗船した。

 

◇日本を象徴する神社は米軍にとって飾り

 

在日米海軍が直轄する6つの基地のひとつである横須賀海軍司令部の建物は
かつての旧日本海軍の「横須賀鎮守府」の所在地だ。
建物のロビーには両国の重要な海軍将校の肖像画が掛けられている。

 ネイランド事務官は19世紀の日本海軍の肖像画を指差し、
「彼らは友だちだ」とし、その横の太平洋戦争時代の日本海軍の将校は「悪人」扱いした。



民主党の議員に口をきいてもらって在日米軍の施設に忍び込んだ中国人が、
アメリカ軍人の日本に対する「軽蔑」だけを、おそらく誘導によって引き出し、
それを得々とこうやって本国に伝えている、という実に不愉快な記事であるわけですが、
このネイランドという事務官が大東亜戦争の将官をどう「悪人扱い」したのか、
それともアメリカ人特有の軽口をそうだと解釈したのかはともかく、
「友達」認定されていたのが、東郷平八郎であり、この加藤寛治であるのは間違いないでしょう。



これは誰でしたっけ・・・有栖川宮威仁親王?



右側の人物が日本人にしか見えなかったので写真を撮ってみましたが、
全員アメリカ軍人で(そりゃそうか)、これは、ここを接収後、
アメリカ軍人の精神的な慰めを急務として(PTSD?)教会が建てられたのですが、
その工事途中、チャプレンつまり従軍牧師が建物の基礎に「タイムカプセル」
(真ん中の人物が持っている)を埋める儀式をしているところだそうです。

タイムカプセルに何が入っていて、いつ開けるのかは全くわかりませんでした。



でた、千羽鶴。

餓えと病気に悩むアフリカ(だったかな)のある地域に、これを送った連中がいて、
現地の人々は「薬なのか、お金なのか」と、一つ一つ鶴を開いて調べた、
(がもちろん何も無かった)という話を、確か犬養道子さんが書いていました。
犬養さんの言いたかったのは、

「災害地に鶴を送るなんてのは自己満足だ」

ってことなんですが、わたしもかなりそう思います。
とにかくこれは、「ボランティアに感謝する」という印だそうです。
誰が誰に感謝してのことかはわかりませんでした。

日本国民の感情に配慮している米軍としては捨てるわけにもいかないので
とりあえずここに掛けておこう、という感じに見えました。
こんなもの貰った方も無下に捨てるわけにもいかないですよね。

世間的には顰蹙を買うかもしれませんが、わたしはこれを「折り鶴テロ」だと思います。
貰った方にそれを「ありがたく思わねばならない」ことを強制するような、
この気持ちの押しつけは、もはや小テロリズムと呼ぶしかありません。



そろそろ集合時間です。
ツァーの見張り、じゃなくて親善のために付き添っている二人の軍人さんは、
こういった施設もよくご存知のようで、世間話に興じています。

フラッシュを焚かなかったので画面が暗くなり、右側の軍人さんの顔がが見えま・・・おっと。



見学の長さは人によってまちまち。



エントランスに敷かれたマット。
歴史的建築物を保護するためにも、こういう配慮をしてくれているわけです。
(というか雨が降ったらきっとここは滑るせいだと思う)



たかが階段なのに、手すりが全て石造りとか、豪華すぎ。





この建物の影に、ふと気づくと大砲がおいてありました。
かなり古い、日清戦争あたりの武器ではないかと思いますが、どうでしょう。



さて、その隣には、旧横須賀鎮守府庁舎があります。
最初の庁舎は明治23年にここに建てられたのですが、関東大震災で倒壊してしまい、
この庁舎の建て替えが済んだのは大正15、1926年のことです。

もちろん進駐軍接収後、現在に至るまでアメリカ軍の司令部庁舎として使われています。



ブルーの旗が掲げられていました。
司令官がいるという印だったかな?(曖昧)



ここに星条旗が揚がったのは昭和20年8月30日のことです。
日本の旗が揚げられるようになったのはいつからだと思いますか?

わたしの推測ですが、これは日本が独立したサンフランシスコ講和条約以降でしょう。
この条約が締結した昭和27年以降、日米安保条約発効によって、
ここに米軍が「接収」から形を変えて「駐留」することになったからです。

両国旗のほかにある青い旗は、国連旗です。



駐留後、どのように内装が改装されたかは、長らく門外秘になっていたようですが、
平成14年(2002年)、施設内のクレーン解体時に許可されて以降、
基地内の施設調査が認められるようになりました。

これで、横須賀市教育委員会が行なう調査結果を、
米海軍横須賀基地当局との間で共有することができるようになったのです。

また、旧横須賀鎮守府庁舎でも改修時等に調査が実施されました。

関東大震災で前庁舎が倒壊したことを受けて設計されたこともあって、
この新庁舎は、耐震設計を施されていることがその際わかりました。
つまりこれは日本の耐震設計の草分けとも言える建築物だそうです。




改装の主なものは、内部の照明器具であったということですが、
こういう外灯はおそらく昔のままであろうと思われます。



上の全体写真を見ていただきたいのですが、三階の右側部分、窓がありませんね。
建物の美観から考えてもあまり行なわれない設計だと思うのですが、これは
米軍が使用するようになってから三階部分の窓のうち八ヵ所が塞がれてしまったのです。

在日米軍が昭和40年(1965年)頃に、アメリカ本国からの要請に基づき、
情報を取り扱う部署がある三階部分について窓を塞ぐ改築をした、という話ですが、
それも詳細は(おそらく機密なので)明らかになっていません。




というわけで、ツァーはいよいよ終わりに近づきました。



ここであらためて、見張り役の軍人さん二人に感想を聞いたりします。
感想ったって、いつもの職場を二人でおしゃべりしながら歩いていただけで、
取り立てて何もなさそうでしたけどね。

それでも、そつなく彼らは

「いつも働いている職場だけれど、初めて見る施設もあった」

なんて言っているではありませんか。



法務部勤務の女性士官、カメラ目線(笑)



最後の見学スポットとなったのは、基地内労働者感謝の碑。
基地内労働者、というのは他でもない日本人労働者のことです。

アメリカ軍がここを接収したあとも、米海軍にそれをする部門が無かったので、
ドックを管理する労働者はそのまま米軍の配下に入り仕事を続けました。
彼らは徹底した職業意識と技術者の矜持を持ち仕事に当たったため、
おそらくアメリカ軍人たちはその姿に感銘を受けたのだと思われます。

この碑の最後には、

「1945年から変わらぬ忠誠とプロフェッショナリズムを基に労働をした
日本人労働者たちに感謝を捧げる」

と書いてあります。
シベリア抑留の労働者たちもそうでしたが、本当に日本人って素晴らしい民族ですね。




そうかと思えばこんなところにタバコのパッケージを捨てるアメリカ人もいると(笑)



というわけで、全行程終了して、帰途についたわたしです。
お土産は、横須賀軍港ツァーの案内所(お土産やになってる)で買った護衛艦カレー。



最後に。
見学した建物に掲げてあった、オペレーション・トモダチへの感謝の言葉。


私たちは東北の大震災と津波被害において米軍の助けを受けている人々に代わり、
「オペレーション・トモダチ」でのあなたがたの偉大な努力と心からのサポートに対し、
心より感謝の意を表したいと思います。


これは素直にわたしも言いたい。
あのニュースを聞いたとき・・・米軍が第七艦隊を出動させる「トモダチ作戦」を発動したとき、
思わず感動と感謝の涙が溢れた日本人はわたし以外にもきっとたくさんいたはずです。





 


平成25年度防衛大学校卒業式~安倍総理訓示

2014-04-01 | 自衛隊

この日のニコニコ動画をわたしは最初から画面で観ていたのですが、
途中で何度か「追い出される」はめになりました。
これはすなわち有料会員でないとこうなる、ということで、その度に

「今すぐ手続きすれば追い出されること無く観られます!」

という画面が出て来るのですが、そこはそれ、そんなお誘いは無視して
もう一度ログインすればまた再び見ることができるわけですから、
ここ最近で佐川河内の謝罪(じゃなかったけど)会見と、
今回の防大卒業式くらいしか観ていないわたしには必要のない脅しです。

しかし、追い出されたりログインしたりが頻繁になって来たとき、
ちょうど挨拶をしていた来賓の祝辞内容は聴くことが出来ませんでした。




防大校長、国文良成氏。

わたしは前校長の五百籏頭真ほどではないにせよ、この人物の適性については
少なくともその学者としての思想を見る限り「不適任」だと思います。

先日元陸上幕僚長とお話をする機会があったのですが、この方も

「そもそも防大の校長に民間人しかなれないと決まっているわけでもないのに、
第二代校長以外は全て学者であるというこの人選はおかしい」

と言っておられました。

学者がいけないのではなく、なぜ元自衛官、防大卒がなれないのか、という話です。
もちろん日本以外の国で、軍人以外が校長になるような士官学校はまずありません。


それもこれも前校長の五百籏頭氏などの金科玉条である「文民統制」の
歪な(と言わせてもらいますよ)呪縛から生じた制度であると思います。

つまり・・・、それこそこの五百籏頭氏の言動に顕著なのですが、極端な話、
こういう思想の人々にとっては、どうやら

「中国の覇権主義による侵略より、北朝鮮が核を撃ち込んでくる確率より、
自衛隊が暴走しクーデターを起こす確率の方が高い」

らしいんですね。
確か福田政権のときに日本は対人地雷の使用を放棄する条約にサインしましたが、
この「隣人の嫌がることはしない」というのが持論の、
要は自分の任期中に波風立てたくないだけが政治信条であった事なかれ主義の
似非平和主義者が、このようなお目出度い調印に踏み切った陰には
他でもないこの五百籏頭が暗躍()していたと言われています。

周辺国のどの国もこんな声明を出していないのに、日本だけがいい子になって(笑)
いざというとき海岸線を護ることになる方法の選択肢のひとつを無くし、
よりいっそう「攻めやすい国に」、つまり国防を一歩また手薄にしてしまったわけです。
先日、

「民主政権のときの観閲を受けた自衛官は気の毒だった」

と書いたのですが、実はこの福田元総理というのは、信条から

自衛隊の栄誉礼を拒否した

とんでもない自衛隊最高指揮官であったことをご存知でしょうか。
嫌々でも形だけでも、とりあえず菅直人は観閲を何度も行っていますし、
野田佳彦も、特に防大の卒業式には非常に真摯な様子で栄誉礼をしたと聴きます。
つまり民主党だから、自民党だから、というより、はっきりいって当人が

どの程度親中であるか

で、その政治家の自衛隊に対する態度が変わってくるのではないかと思うのですが
皆様はいかにお考えでしょうか。


その流れで言うと、元学長の国分氏です。
専攻、中国情勢。
李登輝元総統の来日を阻止しようとしたり、「作る会」の教科書に横やりを入れたり、
客観的に見て

「日本は中国を侵略した悪い国なので謝り続けねばならない」

という主張の五百籏頭氏と似たり寄ったりの人物で、
つまり自衛隊の幹部養成校たる防衛大学校の学長としては
はっきりいって全く相応しくない、と普通の感覚をしている人間なら考えます。


しかし、この人物が校長として訓示をする様子を今まで三度見てきましたが、
とりあえず防大校長としてそんなにおかしなことは言っていない、というか、
むしろ内容は至極ごもっともというかご立派というか、
もし何も知らなければ防大校長として適任なのではないかとつい思ってしまいます(笑)

この日は例の不祥事についての言及が行われました。
防大校長として当然のことでしょう。



続いて防衛大臣小野寺五典挨拶。
やはり防衛省代表として「身内」ですから、不祥事について触れました。
当然のことですね。



MITの先生だったかな。
わたしはこの頃人大杉で追い出されておりましたので
途切れ途切れにしか聴いていませんが、面白い話であったようです。
(コメントによると)
ただ、講義をするのと同じような抑揚でしゃべる方なので、そのせいか
後ろの小野寺大臣が死にそうな顔で眠気と戦っているのが悼ましかったです。 
小野寺さん、あなた疲れているのよ・・。


でもカメラの前で寝るな(笑) 




安倍総理訓示。

この訓示があらばこそわたしはこのエントリを起こす気になりました。

この日からしばらくの間、当ブログのT−33事故を扱った記事、
「流星になった男たち」へのアクセスが集中したのですが、
わたしはこの演説を聞いていたため、なるほどと思いました。
安倍首相の話を聞いてインターネット検索した人がたくさんいたのですね。

訓示の中で明確な単語は出ませんでしたが、明らかに
集団的自衛権について言及する箇所があったため、例によって朝日新聞は、

 「憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認が必要との認識を強調した」

といった部分だけを強調しております。
朝日の記事だけ読んだら、まるで憲法解釈のことばかり大声で言い募っていたように思えます。

少なくともわたしが聴いた限り「強調」はしていなかったですけどね。
まあ、この新聞が自分の報じたいことだけをあの手この手で強調するのは
いつものことですし皆さんももうよくその手口はご存知のことと思いますが。


それでは実際はどんなものであったか、聞き書きしてみましたのでご覧下さい。


<安倍総理大臣 訓示>


本日、伝統ある防衛大学校の卒業式にあたり、
これからの我が国の防衛を担うこととなる諸君に、心からお祝い申し上げます。
 
卒業、おめでとう。

諸君の、誠にりりしく希望に満ちあふれた雄姿に接し、
自衛隊の最高指揮官として心強く、頼もしく思います。

また、学生の教育に尽力されてこられた国分学校長をはじめ教職員の方々に敬意を表します。
日頃から防衛大学校にご理解とご協力をいただいているご来賓、ご家族の皆様には、
心より感謝申し上げます。


本日は、諸君がそれぞれの現場へと巣立つ良い機会ですので、内閣総理大臣、
そして自衛隊の最高指揮官として一言申し上げさせていただきます。

今日は22日。
15年前の11月、中川尋史(ひろふみ)空将補と門屋義広1等空佐が殉職したのは、
22日でありました。
まずは、諸君とともに、お二人のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。

突然のトラブルにより、急速に高度を下げるT-33A。
この自衛隊機から、緊急脱出を告げる声が、入間タワーに届きました。

 「ベール・アウト!」

しかし、そこから20秒間。
事故の直前まで二人は脱出せず、機中に残りました。

眼下に広がる狭山市の住宅街。
なんとしてでも住宅街への墜落を避け、入間川の河川敷へ事故機を操縦する。
5千時間を超える飛行経験、それまでの自衛官人生のすべてをかけて、
最後の瞬間まで、国民の命を守ろうとしました。

2人は、まさに命をかけて、自衛隊員としての強い使命感と責任感を、
私たちに示してくれたと思います。

雪中松柏愈青青(せっちゅうのしょうはく、いよいよせいせいたり)という言葉があります。
雪が降り積もる中でも、青々と葉を付け凛とした松の木の佇まい。
そこに重ねて、 いかなる困難に直面しても、強い信念を持って立ち向かう人を称える言葉です 。

もちろんこのような事故は二度とあってはならない。
我々はそのために全力を尽くさねばなりません。
しかし国家の存立に関わる困難な任務に就く諸君は、万が一の事態に直面するかもしれない。

そのときには、全身全霊を捧げて、国民の生命と財産、日本の領空、領海、領土は
断固として守り抜く、その信念を固く持ち続けてほしいと思います。

そのために、どんな風雪にもびくともしないあの松の木のごとく、
諸君にはいかなる厳しい訓練や任務にも耐えていってもらいたいと思います。

厳しい冬の中でも、松の木の青々とした姿は
周囲の見る人たちをおおいに励ましてくれるものであります。
二月の大雪災害において、雪で閉ざされ、孤立した集落の人たちが、
昼夜を分たず救助に当たる自衛隊員の姿に、どれほど勇気づけられたことか。

昨年、豪雨被害を受けた伊豆大島でも、行方不明者の捜索を懸命に続ける自衛隊員の姿は
国民に大きな勇気を与えてくれました。

今ほど自衛隊が国民から信頼され頼りにされている時代は、かつてなかったのではないでしょうか。

諸君にはその自信と誇りを胸に、どんなに困難な現場であっても国民を守る、
という崇高な任務を全うしてほしい。
そして国民に安心を与える存在であってほしいと願います。

常に国民のそばにあって、手堅く存在する雪中の松柏たれ。
諸君にはこう申し上げたいと思います。

自衛隊を頼りにするのはいまや日本だけではありません。
マレーシアでは、行方不明となった航空機の捜索に協力しています。
フィリピンの台風被害では1200人規模の自衛隊員が緊中支援に当たり、
世界中から感謝の声が寄せられました。

ジブチや南スーダンでも、摂氏50度にも及ぶ過酷な環境のもと、
高い士気を保つ自衛隊の姿は、国際的にも高い評価を受けている。
冷戦後の地域紛争の増加、テロによる脅威、変わりゆく世界で現実を常に見つめながら、
自衛隊はPKOやテロ対策など、その役割を大きく広げてきました。

自衛隊の高い能力をもってすれば、もっと世界の平和と安定に貢献できるはず。
世界は諸君に大きく期待しています。

今日この場にはカンボジア、インドネシア、モンゴル、フィリピン大韓民国、
タイそしてベトナムからの留学生諸君がいます。
日本は諸君の母国とも手を携えて、世界の平和と安定に貢献していきたい。
ここでの学びの日々で育まれた深い絆を元に、
諸君には母国と我が国との友情の架け橋になってほしいと願います。


日本を取り巻く現実はいっそう厳しさを増しています。
緊張感の高い現場で、今この瞬間も士気高く任務に当たる自衛隊員の姿は私の誇りであります。

南西の海では、主権に対する挑発も相次いでいます。
北朝鮮による大量破壊兵器や弾道ミサイルの脅威も深刻さを増しています。
日本近海の公海上において、ミサイル防衛のため、
警戒に当たる米国のイージス艦が攻撃を受けるかもしれない。
これは机上の空論ではありません。現実に起こりえる事態です。

そのときに日本は何もできない、ということで本当に良いのか。
戦後68年間に亘る我が国の平和国家の歩みは、これからも決して変わることはありません。
現実から乖離した観念論を振りかざして、これまでの歩みを踏み外すようなことは絶対ない。
我が国の立場は明確です。

しかし、平和国家という言葉を口で唱えるだけで平和が得られるわけでもありません。
もはや現実から目を背け建前論に終始している余裕もありません。

必要なことは、現実に即した具体的な行動論と、そのための法的基盤の整備、それだけです。
私は現実を踏まえて、安全保障政策の立て直しを進めて参ります。


全ては国民と主権を守るため。
諸君におかれてもその高い意思を持って、いかなる現場でも現状に満足することなく
常に高みを目指して能動的に任務に当たってもらいたいと思います。


「唯、至誠を持ちてご奉公を申し上ぐる一事においては
人後に落ちまいと堅き決意を有している」

日露戦争の後、学習院院長に信任された乃木希典陸軍大将は、
軍人に教育などできるのかとの批判にこう答えたといいます。

「どんな任務が与えられても誠実に真心を持って全力を尽くす、
その一点では誰にも絶対に負けない」

その覚悟を持って、諸君にはこれからの幹部自衛官としての歩みを
進めていってもらいたいと思います。

その第一は、何よりも諸君を支えてくれる人たちへの感謝の気持ちです。
乃木大将は常に第一線にあって、兵士たちと苦楽を共にすることを信条としていたといいます。
諸君にも、部下となる自衛隊員たちの気持ちに寄り添える幹部自衛官となってほしい。
同時に諸君を育んで下さったご家族への感謝の気持ちを忘れないでほしいと思います。

今日も、本当に数多くのご家族の皆さんが、諸君の晴れ舞台を見るためにご参列下さっています。
私も最高指揮官として、大切なお子さんを自衛隊に送り出して下さった皆さんに、
この場を借りて心から感謝申し上げたいと思います。
お預かりする以上、しっかりと任務が遂行できるよう万全を期し、
皆さんが誇れるような自衛官に育て上げることをお約束いたします。

最後となりましたが、諸君の今後のご活躍と、防衛大学校のますますの発展を祈念し、
わたくしの訓示といたします。

平成26年、3月22日、内閣総理大臣 安倍晋三。 

 


学生たちが帽子を投げて講堂を走り出て行ってから場面は変わり
続いて観閲式の様子が放映されました。






彼らはそれぞれ陸海空の任官先の制服に着替え、
やはり陸海空に分かれて行進してきました。

陸自は「陸軍分列行進曲」。

海自は「軍艦」。
空自は「空の精鋭」。

空自は昔「ブラビューラ」で行進していましたが、平成になってから変わったそうです。
案外歴史が浅いんですね。
というか、ここだけの話ですが正直つまらないです、この曲。



この安倍首相の訓示を実際に聴いただけではなく、文字に起こし、
文章にしてあらためて思うのですが、この士官候補生に対する訓示には
かつて吉田首相が昭和32年の防衛大学卒業生に行った訓示、

君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり
歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない
きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない

御苦労だと思う

しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは
外国から攻撃されて国家存亡の時とか災害派遣の時とか
国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ

言葉を換えれば君達が日陰者である時のほうが国民や日本は幸せなのだ
どうか、耐えてもらいたい

この名文に通じる戒めが含まれています。

入間のTー33Aの殉職事故について触れたのは、たとえ平時であってもその訓練中、
自分の命と国民の命をはかりにかけるようなことになったときには、
ためらいもなく「身をもつて」国民の命を選び取るだけの覚悟を説くものであり、
吉田訓示の「 国民が困窮し国家が混乱に直面している時」だけではない、
自衛官に課せられた宿命ともいえる犠牲ー「事に及んでは危険を顧みず」という宣誓文の
表す覚悟にまで踏み込んだ見事な訓示ではなかったでしょうか。

しかも自衛隊員に覚悟を強いるだけではなく、自らの法改正への意気込みを語りました。
いつも思うのですが、いままでの首相のように9条には手をつけないということにすれば

おそらく安倍総理は朝日毎日NHKを筆頭とする左派メディアに「社是」で叩かれることなく、
特定アジアにヒットラーだの軍国主義だのと分かりやすく責める隙を与えることなく、
とにかく尻尾を出さずに過ごせば三年間の任期を乗り切ることができるにもかかわらず、
あえて自分がこの問題に手をつける戦後初めての首相になろうとしているのです。

訓示中にある乃木将軍の言葉

「唯至誠を持ちてご奉公を申し上ぐる一事においては
人後に落ちまいと堅き決意を有している」

これは、新自衛官幹部への餞であるようで、実は
自分の所信表明に対する意気込みだとわたしには感じられました。
(乃木大将の言う『ご奉公』が天皇陛下への言葉であることをあげつらい、
いちいち憲法改正反対と絡めて微に入り細に入りブログで非難している
民主の『一般人恫喝クイズ王』議員がいますが、 気にしないでいいと思います)

 

このような最高指揮官のもと、自衛官としての第一歩を踏み出すことのできた
今年の卒業生はまことに幸いであるとわたしには思えます。

 

この日は晴天で、彼らのこれからを祝福するような空の色が広がっていました。
卒業生の皆さん、そしてご父兄の方々、おめでとうございます。