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「太平洋の翼」 第二次世界大戦航空史〜スミソニアン博物館

2020-05-22 | 歴史

スミソニアン博物館プレゼンツ、「第二次世界大戦における航空史」
二日目です。

太平洋の空の戦争

1942年の終わり、アメリカ軍は反撃に出ました。
海軍と海兵隊の兵力をガダルカナル島とソロモン諸島に上陸をさせ、
日本軍を防戦一方に追い込む作戦です。

1943年には、アメリカ軍の対日本オペレーションは
総稼働状態といってもよく、ダグラス・マッカーサー率いる米陸軍は
オーストラリアの同盟軍とともに日本軍が占領していた
ニューギニアの北海岸を占領し、後にフィリピンを開放した。

一方、チェスター・ニミッツ提督は、それと並行して、ギルバート、マーシャル、
マリアナ、キャロライン諸島を経由し、太平洋中央部への進出を推し進めた。

いわゆるHoppingーisland(飛び石)作戦ですねわかります。

航空戦における圧倒的な勝利は、1944年の夏、マリアナ海沖海戦での

「マリアナ海の七面鳥撃ち」

で、これ以降アメリカ軍は制空権を得ることになりました。

1944年以降、マリアナ諸島のテニアン島から出撃した
B-29スーパーフォートレスによる戦略爆撃は、
1945年8月の広島と長崎への原子爆弾投下をもってその頂点に達した。

 

太平洋戦線(パシフィックシアター)に出撃した、陸海空海兵隊の
代表的な航空機が紹介されています。

まず、ノースアメリカン、B-25ミッチェル

水煙が立っていますが、下に見える駆逐艦は日本軍のものでしょうか。

ヴォート F4Uー1Dコルセア

スミソニアン所蔵のコルセアはまるで空を飛んでいるようです。

グラマンF6F−3ヘルキャット

ヘルキャットもここでは空を飛んでいます。

ロッキードP-38ライトニング

わたしはスミソニアンでライトニングの実物を始めて見ました。

広島に原子爆弾を落としたB-29「エノラ・ゲイ」の下に、
まるで寄り添うように置かれていたのがP-38です。

太平洋戦線ではめざましい活躍をみせたP-38の、いわゆる
「大金星」は、1943年4月18日、

「真珠湾攻撃を計画した山本五十六元帥の乗った三菱G4M
『ベティ』(一式陸攻)を撃墜した」

ことでした。

アメリカ側は山本長官の乗った機の飛行予定を暗号解読していましたが、
ブーゲンビルを飛び立った山本長官機を捉えるためには
秒単位のタイミングが必要でした。

この攻撃を可能にしたのは、何事も時間通りに計画を遂行する
日本軍の「慣習」であり、アメリカがそれを信頼していたことです。

 

P-38は日本軍の搭乗員に「ペロハチ」とあだ名をつけられていました。

「P」を「ぺ」、「3」を「ろ」とあえて読んだこの名前は、
日本軍の搭乗員がベテラン揃いだった最初こそ

「ぺろっと食える(撃墜できる)」

という意味だったのですが、激しい空中戦で徐々にベテランが倒されるうち
主客逆転し、「ぺろっと食われる」側となってしまいました。

したたかなP-38は太平洋で他のどの戦闘機よりも多く日本機を撃墜し、
リチャード・ボングらのエースを輩出しています。

スミソニアン別館のP-3Cの近くには、やはり同じ双胴の

ノースロップP-61 ブラックウィドウ

も展示されています。

ロンドンへの夜間爆撃を受けて対抗するために開発された夜間戦闘機、
ブラックウィドウは、終戦間際に日本への攻撃を行ったことがあります。

現存する機体は3機であり、これはそのうちのひとつです。

コンソリデーテッド PBYカタリナ

飛行艇PBYは、雷撃や救難艇として太平洋で活躍しました。

PBYはスミソニアンにはありませんが、同時代の水上艇、
ヴォート-シコルスキー OS2U-3キングフィッシャー
なら見ることができます。

キングフィッシャーはアメリカ海軍の初期の艦搭載型水上艇で、
第二次世界大戦中は偵察機として運用されていました。

太平洋では多くの搭乗員を海から救出しましたが、その中の一人に
第一次世界大戦時のアメリカのエース、

RickenbackerUSAF.jpg

エディー・リッケンバッカー(1890〜1973)

と彼が乗っていたB-17の搭乗員がいます。
リッケンバッカーは機が撃墜されて海を漂流しているところを
23日目にキングフィッシャーに救出されました。

リッケンバッカーはのちにイースタン航空の社長になっています。

ここにヘリコプターの写真が出てきてちょっとびっくりです。
第二次世界大戦中はヘリコプターの運用はなかったと思っていたので。

シコルスキーR-6A ホーバーフライ

は、1944年に陸軍に納入され、砲兵部隊の着弾観測任務、
そして連絡用に使用されていたということです。

 

ヨーロッパにおける空の戦争

 

ドイツ空軍、ルフトバッフェはヒトラーのヨーロッパ、北アフリカ、
ロシア征服の野望のために重要な役割を演じた。

しかしそのルフトバッフェは、1940年夏と秋のドラマティックな
「バトル・オブ・ブリテン」で最初の大きな逆転に苦しめられることになる。

ロイヤル・エアフォースの戦闘機は、ヒトラーのイギリス侵略のための
いかなる計画をも阻止し、ドイツ軍を駆逐した。

ホーカー・ハリケーンとスーパーマリン・スピットファイアーは、
イギリス製の最新兵器早期警戒レーダーの助けを借りることで、
1940年のバトル・オブ・ブリテンにおいて
ドイツの爆撃機に対抗することが可能になったのでした。

 

1943年、イギリスとアメリカはドイツの産業および
都市の中心地に対する複合爆撃攻撃を開始した。

写真は、1943年8月、B-24爆撃機がロマーニャの
ポロースキーにある油田を攻撃しているところです。
大変費用のかかったといわれるこの攻撃は、ドイツの戦時工業から
主要な製油所の一つを奪うことを目的に戦略的に行われました。

 

ボーイングB-17フライングフォートレスコンソリデーテッド
B−24リベレーターは、ヨーロッパにおける日中高高度からの
爆撃作戦に最も多く運用された航空機です。

そのうち航続距離の長い戦闘機が爆撃機をエスコートすることで
攻撃の効果が高まり、さらには搭乗員の生還率も大きく上がりました。

ドイツ上空で爆撃を行うB-17。

爆撃機は常に対空砲の脅威にさらされていました。
何百機ものB-17、B-24、そして何万人もの航空機乗員が、
ヨーロッパにおける戦略爆撃の任務中に失われています。

 

第二次世界大戦中の戦略的航空力

このように、戦略的爆撃は敵の軍事的、戦時的、および経済的基盤に
強力な打撃を与えることができました。

加えて空軍は、戦略的に敵の軍事通信線に対し、
直接(近接支援)
および間接(妨害)となる攻撃を実行しました。

「ポスト・ノルマンディ」としてヨーロッパを超えて
その掃討がドイツに及んだとき、アメリカの戦術航空機、
とくにリパブリックP-47サンダーボルトは、アメリカ軍の
空中優位性を獲得する上で重要な役割を果たし、
同盟国の勝利への道を開きました。

中型爆撃機マーチンB-26マローダーは、同盟国陸軍の進攻を
近接支援するのに非常に集中的に投入されました。

最強の連合軍司令官と言われた
ドワイト・D・アイゼンハワー元帥(左から二番目)が
ノルマンディを視察しているところ。

左からハップ・アーノルド将軍、ジョージ・マーシャル将軍、
オマー・ブラッドリー将軍、そしてアーネスト・キング提督です。

カール・”トゥーイ”・スパーツ将軍(左)は
ヘンリー・アーノルド将軍からもっとも信頼された指揮官でした。

ノルマンジー進攻、Dデイでは航空攻撃の指揮を取り、
アイゼンハワーからの直接の信頼を受けた知将です。

ちなみに彼は戦後創設されたアメリカ空軍の初代参謀総長に指名されました。

ちょっと手抜き?ハーケンクロイツの写真。

1945年の4月30日、ヒトラーは自殺前に、
カール・デーニッツを首相に指名しましたが、
5月7日に、彼はドイツの全面降伏をアイゼンハワーに宣言します。

翌日、5月8日が「V-Eデイ」対ヨーロッパ勝利の日とされました。

最後の日々(THE FIINAL BLOWS)

1944年後期、日本に対する戦略爆撃は、降伏を早めるための
非常に効率的なツールとされた。

ヨーロッパでの高高度日中攻撃の象徴となったB-29スーパーフォートレスが
日本の主要ターゲットを爆撃するのに投入されるようになるのである。

しかしながら、強力なジェット気流は、彼らのノルデン照準器の効果に
妥協を生むことになり、1945年3月、カーティス・ルメイ将軍は
夜間の低空からによる無差別爆撃を行うことを決定した。

何百機ものB-29が日本本土の上空を覆い尽くした。

おお、そうだったんですか!
東京空襲などの大々的な民間人殺害は、B-29のジェット機流のせいで
爆撃の照準器がうまく作動しなかったから仕方なく行われたと。

そうですか。それは知りませんでした。(棒)

鬼畜ルメイ

 

そして1945年8月6日朝9時、第509航空群の
特別仕様のB-29が、この戦争における最後の戦略爆撃を行った。

広島に一発、ついで長崎に一発の原子爆弾が投下され、
その数日後日本は降伏することになる。

これが広島に落とされた「リトルボーイ」(使用前)です。

「リトルボーイ」のアーミング・プラグ実物は、ここスミソニアンに
展示されています。

原子爆弾を搭載した直後、帰投してきたばかりの「エノラ・ゲイ」の乗員たち。

クルーはパイロットで隊長のポール・チベッツ以下、
士官4名(副操縦士、爆撃、ナビゲーター)、そして
銃撃手、フライトエンジニア、アシスタントエンジニア、
レーダーマン、通信士の合計9名でした。

全員激しい緊張の後といった様子が隠せません。

カミカゼ

日米戦におけるアメリカの優位が動かしようもなくなり、
自暴自棄となった日本はその最後の日、
カミカゼと呼ばれる自殺攻撃ユニットを投入した。
カミカゼ攻撃は1945年4月に集中して行われ、
そのころのアメリカの艦隊に深刻な打撃を与えることになる。

沈没した艦船は21、ダメージを受けた数は217を上回った。

また、当博物館にも展示されているジェット推進の「バカ」は、
カミカゼのミッションを航空機で行うために設計されたものだった。

「桜花」を「バカ」とだけ呼ばわるセンス、何でもかんでも
「カミカゼ」でくくってしまう大雑把さはさすがアメリカです。(投げやり)

第二次世界大戦の終了

日本は1945年9月2日に東京湾に浮かんだ戦艦「ミズーリ」艦上で降伏した。

ダグラス・マッカーサー将軍は式典で指揮をとり、
チェスター・ニミッツ提督がアメリカ合衆国を代表して
降伏調書に署名したのであった。

 

さて、というところでシリーズ終わりです。
あえて私自身の感想は最低限に抑えましたが、みなさんは
スミソニアン史観による第二次世界大戦の航空史を
どのようにご覧になったでしょうか。

 

次回からはまたボストンの第二次世界大戦博物館の展示に戻ります。

 

 


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3 Comments

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空襲下の第1号海防艦 (お節介船屋)
2020-05-22 13:51:59
>水煙が立っていますが、下に見える駆逐艦は日本軍のものでしょうか。 

昭和20年4月6日香港から門司向かうにホモ03船団を護衛中、厦門南方でB25の低空爆撃で投下された爆弾が第1海防艦艦尾右舷で水柱を上げている写真です。
中央部に直撃弾を受け、煙突等中央部が破壊され、2番12㎝高角砲の近傍に乗員が戦死しており、1,2番高角砲で戦闘できる状態ではなく、間もなく沈没しました。
悲しいシーンです。

要目
基準排水量745トン、全長67.5m、幅8.4m、吃水2.9m、デイーゼル機関2基、2軸、1,900馬力、速力16.5kt、航続力14ktで6,500浬、兵装12㎝単装高角砲2基、25㎜3連装機銃2基、3式爆雷投射機12基、爆雷投下軌条1基、95式爆雷120個、乗員125名
第1マスト基部に日本特有のラッパ型レーダーの22号電探が見えます。

同型132隻計画で完成53隻、26隻戦没
鵜來型海防艦の縮小版で第1号型は丙型と呼ばれ主機がデイーゼル機関、デイーゼル機関製造能力が低いためタービン艦としたのが2号型で丁型ともよばれこちらは63隻竣工で25隻が戦没しました。
第1号海防艦(報告1号海防艦)三菱神戸建造、昭和19年2月29日竣工、昭和20年4月6日戦没
参照海人社「世界の艦船」No871
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悲しいですね (Unknown)
2020-05-22 16:06:44
>スミソニアン所蔵のコルセアはまるで空を飛んでいるようです。

模型製作が趣味なのですが、ある程度溜まって来ると、誰でもこの置き方を考えます(笑)

>強力なジェット気流は、彼らのノルデン照準器の効果に妥協を生むことになり、1945年3月、カーティス・ルメイ将軍は夜間の低空からによる無差別爆撃を行うことを決定した。

低空での爆撃を決意した裏には、日本の防空網は機能していないという判断があったと思います。でないと、危なっかしくて低空で爆撃は出来ません。それから、使用された爆弾の多数が焼夷弾であったことは、攻撃目標は堅固な軍事施設ではなく、木造の建造物(民家)だったことを示唆しています。出来るだけ早く日本を屈服させるために、軍事目標ではなく、民家を含む都市攻撃へと方針が変わったのだろうと思います。ひどい話です。

>「桜花」を「バカ」とだけ呼ばわるセンス、何でもかんでも「カミカゼ」でくくってしまう大雑把さはさすがアメリカです。

悲しいですね。涙が出ます。桜花というと思い出すのは松本零士の「音速雷撃隊」です。特攻に関しては、いろいろな批判がありますが、やってもやっても落とされて、ここまで追い詰められたら、誰しも起死回生の一手をと思うんじゃないでしょうか。頑張っても勝てないから降参とは行かなかったと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=NDhhVg2D4QI
返信する
艦上機 (お節介船屋)
2020-05-23 14:23:53
第2次世界大戦で空母の戦いは主として太平洋上でした。
空母の戦力と威力と重要性を認識させたのは日本海軍でした。
ただアメリカは戦争勃発前から艦上機の新世代化を進めており、戦争が始まると新型機を実用させ、攻撃機ではダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機、カーチスSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機、グラマンGM・TBF/TBMアベンジャー雷撃機、戦闘機もグラマンF6Fヘルキャット、チャンス・ヴォートF4Uコルセア等が大量に投入され優位となりました。ヘルキャットは堅牢で実用性が重視され12,000機が生産され、コルセアは大馬力の2,250馬力エンジンを搭載し速力635キロでしたが前方視界不良で当初は海兵隊配備で空母搭載は遅れましたが12,620機生産されました。
日本は零戦、九七式攻撃機、九九艦爆と戦前の開発機で終始し、戦闘機はついに次期は開発できず、「天山」攻撃機、「彗星」爆撃機は戦況不利な後期に主力となりましたが搭載する空母も、機数も少なく、搭乗員の技量は低く、最後は特攻機と使用されました。
「天山」「彗星」はアベンジャー等に比べて速度、航続力等はるかに凌駕し、優秀でしたが、整備や燃料も問題があり、搭乗員技量の低下もからみ、戦果をあげ得ませんでした。

米陸軍がP-38,B-25等で島嶼部でも活躍し、日本艦艇をも攻撃したのに、航空機の半分以上を生産した日本陸軍機は東南アジア等で一部活躍はあったのでしたが、四式重爆「飛龍」が台湾沖航空戦で海軍の指揮下で雷撃、マリアナのB-29基地爆撃等数少ない攻撃でした。
太平洋では島嶼部を含め、日本は片手で戦っていると比喩される航空戦でした。
搭乗員の扱いもマラリアに掛かっても休養もなく、たび重なる荷重な出撃や長距離攻撃での過労から戦死、病死、事故死で消耗し、トラック島での大量の地上損耗や整備不能での損耗も多く、一方的な敗戦となり、制空権もなく艦艇や商船も撃沈され、ただ敗れていきました。
B-29の本土攻撃では高空では対応できる戦闘機はあまりなく、低空では「月光」の話題の時コメントしましたが機数も少なく、誘導して迎撃させる発想や装備もなく、陸軍戦闘機も少なく、対応が出来ない事となり、多くの都市や住民に被害が出てしまいました。
この戦史は奥宮正武中佐の著「海軍航空隊全史」「さらば海軍航空隊」(朝日ソノラマ)に詳しく書かれています。
参照海人社「世界の艦船」No685、光人社「日本軍用機写真総集」
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