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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

艦の台所と艦での禁酒~日向灘・掃海隊訓練

2015-12-07 | 自衛隊

掃海母艦の見学記、続きです。
格納庫の掃海具Mk-15を間近に見学したわたしたちは、もう一度艦内に戻りました。



黒いショルダーバッグがたくさん手すりにかかっているので、ふと

「これ、なんでしょうか」

と聞くと、同行していた隊員さん(もしかしたら給油作業の合間に入港時間を
連絡してくれていた方だったかもしれません。この場をお借りしてお礼申し上げます)
が、わざわざ中を開けて見せてくれました。

「救命ベストですね」



かさばるベストが入っているとはとても思えない小さいバッグだったので、
そこにいる誰も中身が何かわからなかったのです。
そしていっぺん出すとまた元どおりに直すのが大変・・・・・(上写真)

副長は次の見学場所に向かって歩き出してしまうし、後ろを振り向いたら
まだベストを元どおりにする作業が終わっていないし、
ミカさんはそれを見守るために立ち止まっているし・・・・。

うっかり質問したことを申し訳なく思った瞬間でした。



観艦式の「あたご」 艦内では「夜の護衛艦を体験するコーナー」として
この赤い艦内灯が点けられていたのを見てなるほどと思ったのですが、
これは「本物の夜の自衛艦」の赤い灯。

特に潜水艦に顕著ですが、艦隊勤務というのは昼夜の区別がつきにくいことがあるので、
夜には赤い灯を点けるということが慣習として決まっています。



こういうスペースでは赤い灯は使いません。(気が滅入るよね)
夜になって誰もいない食堂。
椅子がちゃんと浮かせて収納されています。



自衛艦の食堂の壁には、写真があったり、賞状やポスターがあったりします。



体験乗艦した小学生から届けられたお礼の手紙と絵。
これは乗員のみなさんも嬉しいよね。
ちゃんと「ぶんご」に見えるなかなかの画力なのだけど、「ぶんご」はともかく
空中の黒い点をさして「やえやま」とはこれいかに・・・。 
もしかしたら遠近法?遠くに見えてたってことかな?

それと、彼の名前がすごい。「いかり」はやっぱり「碇」かな



説明がないので見たときには何かわからなかったのですが、迎えている人々が
トルコの旗を振っているので調べたところ、1万7千人の被害者を出した
1999年のトルコ大地震(イズミット地震)のときに、派遣されて輸送艦「おおすみ」、
補給艦「ときわ」とともに、仮設住宅の輸送を行っていました。

このとき「ぶんご」は、エジプトのアレキサンドリア港まで無寄港で
平均速力18kt(約33km/h)で連続23日間という、海上自衛隊史上初の
長距離連続航海を行った末、トルコのハイダルパシャ港に入港しましたが、
この絵はその入港のときを(おそらく現地の人が)描いたものではないでしょうか。

有名になったサマワでの国際派遣、ペルシャ湾の掃海だけでなく、このときも
トルコの人々は自衛隊の到着を熱狂して迎えてくれたのです。

余談ですが、サマワには「Sato bridge」と名付けられた橋があります。
自衛隊が架設した最初の橋で、この「Sato」は他でもない、隊長であった
佐藤正久3佐(当時)の名前から取られています。



冒頭写真はこの時の誰もいないキッチン。
あと数時間すれば、170人分の朝食のためにコンロには火が付き、
あたたかい味噌汁とご飯が用意されます。
ちなみに熱源はガスは使えないので、電気と蒸気で調理を行います。

自衛隊の金曜カレーというのが有名になって、一般社会のカレー業界では
「金曜カレー」を定着させようという動きもあるのですが、
昔は金曜ではなく土曜日の「半ドン」(昼から休み)の昼食だったとか。
つまりカレーは「金曜日を知らせる」という意味ではなく、
「明日は休みだよ」と知らせるためのものだということです。

昔の艦隊勤務と今の違うところは「カレー曜日」だけでなく、
夜食のあるなしで、昔は1日4食出されていたのですが、今は
必要に応じて夜食をつくることもある、という感じだそうです。

このツァーのとき、夜食のおにぎりが並べられているところを通りました。
おにぎりは一つ崩れてしまったのを残して(−_−) 全部なくなっていました。
食べ盛りの若い人が多い職場ですから、あっという間に消費されてしまうのでしょう。


ところで、副長によると、現在当掃海母艦の食事は「とてもいい」のだそうです。

今の烹炊長(というのかどうか知りませんが)は大変腕が良く、艦食が美味しいのだとか。

海上自衛隊のご飯は一般レベルから見ても美味しい、というのが定説です。
その中でも、特に食事が重要になってくるのは、楽しみが少ない艦隊勤務ならでは。
何しろ日本の軍艦たる自衛隊の艦船は、戦後アメリカ海軍の真似をして
艦内禁酒に決めてしまったのですから、それだけに切実です。




この話が出たのでまたもや余談ですが、今年の最初に、「機動部隊」という

アメリカ映画についてお話ししたことを覚えておられるでしょうか。
この映画で、主人公のゲーリー・クーパー演じる海軍軍人に向かって、
「アメリカがどこと戦争するってんだ」(軍備など必要ない)とふっかけていた
新聞社の社長で、海軍に口うるさくあれこれいうおっさんがいましたが、あれは
アメリカ海軍の禁酒を決めた新聞社社長で海軍長官、ジョセファス・ダニエルズ
モデルだったのではないかと、今にして気づいた私です。

このダニエルズという人物、白人至上主義でアフリカ系アメリカ人の公民権を
剥奪することを公約して選挙に勝ち、公約実行しているわけですが(><)
もっとも悪名高い業績が、

Prohibition in the Navy: General Order 99, 1 June 1914

リンク先を見ていただけばお分かりですが、

"The use or introduction for drinking purposes of alcoholic liquors

on board any naval vessel, or within any navy yard or station,

is strictly prohibited, and commanding officers will be held directly

responsible for the enforcement of this order."

海軍艦艇上、または任意の海軍敷地内や構内での酒類の飲用の目的での
使用または導入は、厳しく禁止されており、指揮官はこの制定の施行における
直接の責任を負うことになります


あまりいい訳ではありませんが(^_^;)まあこんなところでしょう。
wikiにもありますが、彼がお酒の代わりに推奨したのがコーヒー。

「海軍でもっとも強い(ストロングな)飲み物はコーヒーであるべきである」

といったとかなんとか。

ああ、それでアメリカ海軍の船は艦橋にまでコーヒーメーカーがあったり、
専門のコーヒーカップ台があったりしたのか。

とおもわず納得してしまった訳ですが、今でも「a cup of coffee」を意味する

「a cup of Joe」

という俗語に、彼の名前が燦然と?刻まれています。
でもこれ、どう考えても否定的な意味、つまり皮肉ですよね?

ゴラン高原の「SATO BRIDGE」はご本人にも我々日本人にとっても名誉なことですが、
同じ名前を残すのでも、わたしならこんな否定的なニュアンスでは残されたくはないなあ・・。

戦前はイギリス海軍の薫陶を受けたせいで、艦内ではお酒OKで宴会ももちろん、
だった帝国海軍ですが、戦後になって、アメリカ海軍のする通りに
艦内絶対禁酒の規則を取り入れてしまった自衛隊。

まあ、日本国自衛隊の組織の性質を考えれば、アメリカ海軍とは関係なくお酒は
遅かれ早かれアウトになっていた可能性は高いですが。

それについてはこんな話があります。
あるとき、自衛隊の偉い人がアメリカ海軍軍人と話していてこう言いました。

「アメリカ海軍の軍規を見習って、自衛隊でも艦内は禁酒となっています」

それを聞いたアメリカ海軍軍人、嘆息して曰く。

「それはまた、つまらないことを真似したものだなあ」

(ちゃんちゃん)


さて、「ぶんご」のキッチンに話を戻しますと、艦で出る食事が、

副長が外に自慢するほど美味しいというのを聞いて、わたしが

「それは・・・士気もあがりますね」

こういうと、副長はこうおっしゃいました。

「そうなんです。だから今うちはすごく雰囲気がいいんですよ」

ご飯が美味しい=雰囲気がいい=士気が上がる。

食べ物って本当に人間にとって大切なんだなあと当たり前のことを確認した一言でした。


続く。 

 

 



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14 Comments(10/1 コメント投稿終了予定)

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自衛隊の伝統と食事 (ハーロック三世)
2015-12-07 01:20:42
自衛隊の引き継いだ伝統と食事。

他にもありますよ。

海軍兵学校から引き継いだ「自衛隊一まずい食事」と言われる防衛大です。

夏期定期訓練で練習艦に乗った際にはご飯が美味しくて、日本半周クルーズと言っていました。

定期訓練の際に助教官として部隊から来られる曹の皆さんは、初めての人は食事を食べてビックリされるそうです。
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調理員長 (雷蔵)
2015-12-07 04:50:21
調理室は烹炊所と言いますが、なぜか員長は調理員長と言いますね。

確かに食事は士気の根源なので、員長にまでなる人はレベルが高く、定年退職後はレストランの料理長になる人が多いようです。

食堂の照明ですが、昔は22時の消灯以降は停泊中でも赤灯でした。見学者があったので、蛍光灯だったのでしょうか。
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救命胴衣 (雷蔵)
2015-12-07 05:14:29
何度もすみません。艦艇の乗組員は、二士から艦長まで戦闘配置では救命胴衣着用です。

ほとんどの人は艦橋のエントリーで見たカポックですが、艦内で動き回る応急員(消火員)とその補佐をする調理員は、ハッチを出入りするので、小振りの、今回出たベストです。

航海中は余程のことがない限り、哨戒配備(通常航海と違って、武器にも常時、配員する)で、夏でも救命胴衣着用です。

その時には、あのベスト型は涼しげで、カポックを着る砲雷科や船務科からは羨望の眼差しです。たとえ艦長でも、暑いからベスト型に替えてくれとは、口が裂けても言いません。
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カレーだけじゃない海上自衛隊(笑) (鉄火お嬢)
2015-12-07 10:37:05
>士気があがりますね
逆に、士気ダダ下がりにするの簡単ですよね。メシマズになると練度の高いフネも、ガタガタに?
真偽を確かめたわけではありませんが、優秀な艦長は優秀な給養科のベテランを引き抜いて連れていく、なんて話を聞いたことがありますが‥‥それとも海軍時代の話でしょうか。観艦式で「あぶくま」に乗り、以前呉でこの艦の厨房を見せてもらったときにオタフクの広島焼きソースがあったのが気になっていて「お好み焼き出すんですか?まさかカレーの隠し味に?」と聞くと「人数が多いから、お好み焼きは無理です。お好み焼きふう、というか焼いたものの上に塗って使うんですよ~」海上自衛隊のホームページには料理レシピのコーナーがあって、和洋中すごい数です。かなり主婦向けにこなれた材料と手順になってますがね。
海上自衛隊の最も侮れない能力のひとつが、料理文化じゃないかと(笑)
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食事 (アーサー)
2015-12-07 12:48:06
 船乗りの楽しみである食事、偶然に知り合ったWAVEさんが、補給艦「おうみ」に乗っていたので、補給艦だから食事はおいしいでしょう?と聞くと、「残念ながら、うちはまだまだ。。」と言っていました。

 艦の雰囲気を左右するくらいなのですね。
ちなみに、そのWAVEさん、小柄で女性なのに大食漢らしく、一度、ちゃんぽんがメニューの時に、「○○が来たぞ」…と言われ、?と思っていたら、なんと丼ではなく、いたずらで巨大な金属のボウルで提供されたそうです。

 「もちろん完食しました!」と笑っていました。「艦に乗ると、お腹が空く」そうです。。
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調理室 (お節介船屋)
2015-12-07 13:18:34
1枚目の写真
調理室
一番奥に洗米機、左に蒸気釜の飯釜、汁釜、菜釜
中ほどには調理台と配膳台、見えませんが恐らく右の方にオイルフライヤーと電気調理機等があると思います。
エリス中尉が言われるように、蒸気と電気での調理ですので火は使いません。
奥の壁には蒸気管と水管(真水、海水)がずらっと見えます。

奥の青いライトは殺菌灯です。

手前の配食台の蓋のついた場所は保温又は保冷のおかず、汁物置き場でしょう。

調理作業の能率向上と安全のため、諸機器の配置には人間工学的動線を考えていますので、昔も今も余り変わらないようですね。
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皆様 (エリス中尉)
2015-12-07 18:16:10
ハーロック三世さん
な、なんだってー!(驚愕)
防衛大学校のご飯は美味しくないんですか!
確かに兵学校の食事は味噌汁にパンに砂糖、などという珍妙な取り合わせを始め、
どの写真を見てもあまり美味しそうには見えませんでしたが、
修行中の身なので質実剛健に甘んじているものの、カレーなどは
結構それなりにいけたのではないかと勝手に想像していましたが、
防大にまでそんな受け継がなくてもいいものが受け継がれていたとは・・。

「かしま」の艦上レセプションのご馳走はそれはそれは美味しかったですが、
今にして思えば、防大を出たばかりの初級士官たちにとっては
あれは「やっと防大の飯から解放される」喜びのパーティでもあったんですね・・。

雷蔵さん
今回の訓練は日向灘の激しい風にフネが煽られ、甲板では寒くて
大変辛い作業だったと思いますが、
こんなときには防寒具となってよかったんでしょうけどね。

鉄火お嬢さん
そういう「人集め」は副長の仕事だと聞いたことがあります。
でも、人間の組織ですから、スカウトに関してはフレキシブルに
いろんなことが行われているのかも。

自衛隊のHPはかならずレシピを載せていますね。
旧海軍の昔から「艦の飯が旨い」は大変な誇りともなっていましたから、
その流れを汲んで今でも味を競い合うのでしょう。
おたふくソースは、多分広島人の調理員が入れてますね。
広島県人はあのソースがないと生きていけないのだと聞きました。
他のソースじゃ絶対にダメなんだそうです。

アーサーさん
「おうみ」は「まだまだ」ですか・・・。
「ましゅう」とほとんど同じ時期に(1年違い)就役して、
もう10年経っているのですから、「まだまだ」はないだろうという気がしますが、
そもそも補給艦が調理に力を入れているということは
伝説の「間宮」などのころと違って、今の自衛隊ではないのでしょう。

今の補給艦で羊羹やサイダーなどを作ったりすることはありませんし、
昔の補給艦にいた「軍属」という名の専門職の調理人もいませんしね。
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あのソース (昭南島太郎)
2015-12-07 20:18:57
広島県人の私にとって、大学で京都へ行きお好み焼きにあのソースがなかった事と焼き方が全然違うことは大ショックでした。
豪国の日本人6人しかいない人口3万人のド田舎でお好み焼きパーティーした時にはあのソースではありませんでしたが、ウスターソースをベースに色々調合して作ってくれたソースで充分美味しかった記憶があります。
今でこそ昭南島でも入手できるし、実家の広島から送られてくる救援物資?には必ず入っているあのソース、我が家で切らしたことはありません(笑)。
そう言えばあのソースの創業家一族には高校同窓生が結構いました。

ちなみにあのソースを切らしても生きられますが、お酒を切られて逃げ場のない船に閉じ込められると、あとはコーヒーがぶ飲みしそうな太郎です(汗)。
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お節介船屋さん (エリス中尉)
2015-12-07 22:32:56
さすがお詳しいですね!
奥のは洗米機!なんとお米を洗う専用の機械がこの世に存在したとは。
無洗米を買えばその必要もないのではと考えましたが、洗米機で洗ったお米は美味しいのかもしれませんね。

これを調べたとき、昔はお米を海水で洗ってから真水で炊いていたけど
今はどちらも真水で行う、ということを知りました。
最初に海水で洗うと、米は最初の水分を吸収するので、
昔はなんとなくご飯が塩(潮)辛かったのではないかと考えました。
おにぎりにするのには良かったかもしれませんが、どうだったんでしょう。
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お好み文化圏 (エリス中尉)
2015-12-07 22:36:53
わたしは関西式お好みで育ち、家で母が作るお好み焼きもあれだったので、
長じて広島に行って初めて食べた時、
「これはお好み焼きではない。”焼きそばとお好み焼き”だ」と思いました。

しかし、食べ物に寛容になった今では、あれはあれで一つのお好み文化だと
温かい目で見つつ、訪広のおりには美味しく頂いております。
もんじゃ焼きで育った人たちはお好み焼きをどう思うんでしょうか。
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