ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「サイレントパトロール」で語られる潜水艦「シルバーサイズ」

2022-10-05 | 軍艦

Torpedoed By USS Silversides (SS-236), The Japanese Ship "Johore Maru," Burns, Sinks, 10/43 (full)

ミシガン湖沿いに係留展示されている潜水艦「シルバーサイズ」。
その誕生から戦時哨戒14回を修了したところまで検証してきました。

ここであらためて動画を検索したところ、
「シルバーサイズ」がその第7回目の哨戒で、
浄宝縷丸(じょほうるまる 淨寶縷丸)南洋海運
に攻撃をし、それが爆発炎上する映像が見つかりました。

これは、「シルバーサイズ」艦上から撮影されたものです。
動画を撮影できる機材を潜水艦に持ち込んでいたことに、改めて驚きます。

■炎上イコール沈没?

「シルバーサイズ」に発見された時、「浄宝縷丸」はオ006船団として
「天安丸」「華山丸」など5隻の輸送船と航行していました。

この時、ラバウルを出港してきた「浄宝縷丸」は、
ガダルカナルで戦死した兵士の遺骨三千柱を搭載していたということです。

「浄宝縷丸」が受けた魚雷は一発だけでしたが、
動画ではそれが命中した後から始まっていて、追加の攻撃はありません。

これは後述しますが、潜水艦攻撃では割とよくあることで、
大体一発魚雷が当たると民間船は火災を起こし、爆発、
それから沈没となることが多かったので、「シルバーサイズ」は
撃沈の確認をするためだけにビデオを撮っていたと思われます。

動画を見る限り、後半で派手に爆発しているので、
このまま沈むのだろうなと思っていたら、結局そこで終わります。

結局、「シルバーサイズ」が去るまで「浄宝縷丸」は沈むことなく、
生存者が退船を済ませてから駆潜艇によって砲撃処分されました。

この場合は、「シルバーサイズ」側の記録では「撃破」となり、
「撃沈」という扱いにはならなかったものと思われます。


それにしても気になるのは船内に積まれていた遺骨の行方です。

総員退船まで猶予があったとしても、物理的に船員たちが
沈む船から三千柱の遺骨を持ち出すのは不可能だったはずですから。


ところで、この動画を紹介していたサイトによると、
「シルバーサイズ」の攻撃について、このような解説がされています。

「シルバーサイズ」は非常に「効果的な」潜水艦で、
主に日本のタンカーや輸送船を餌食にしました。

「シルバーサイズ」の乗員が撮影したビデオ、


「Torpedoed by USS Silversides (SS-236) (United States Navy)」

でも見ることができるように、彼女が沈めた船の多くは
潜水艦の攻撃によって火災を発生し燃え上がるという経緯をたどりました。

前述したように、「シルバーサイズ」が撃沈した船の多くは、
一度火がつくと、ほぼ間違いなくそのまま沈んでしまいました。
海上での火災は非常に消し止めることが難しいからです。

また、かつて「シルバーサイズ」の指揮を執ったことのある人物は、

「一旦攻撃によって致命的な損傷を与えたら、船は沈むに任せて放置し、
その間、もう次の目標の砲撃にかかっていることが多かった」

と話しています。

こういった場合の撃沈認定は、船が沈むのを見届けるまでもなく、
ほとんどは燃料に火がつくと必然的に起こる爆発によって確認されました。


■ 超”優秀艦”だった「シルバーサイズ」

潜水艦「シルバーサイズ」は、第二次世界大戦中、
その戦績においてトップクラスに入る成功した潜水艦でしたが、
「深海棲艦」であったがゆえに、就役中かなりの危機を経験しました。

「シルバーサイズ」の行動記録には、自艦からそれほど遠くない場所で
他の潜水艦が爆発していたことが、複数記録されています。

「シルバーサイズ」は、幸いにも、最後までその戦闘能力に
決定的な損傷を受けることなく、終戦まで生き残ることができました。

そして、その戦果の多さによって有名になりました。
これは第二次世界大戦の海軍の公式年表で簡単に見ることができます。

その優秀さは、第二次世界大戦中、潜水艦の挙げた記録44件のうち、
28件が「シルバーサイズ」の作ったものだった、という事実にも表れます。

■日本海軍潜水艦の戦法

危険な海域で自ら生き残りながら、相当数の敵艦を沈めたことが、
「シルバーサイズ」の評価となり、その名声を高めることになりました。

一方、日本海軍の取った、対アメリカ軍の潜水艦のための多数の方法、
その強力な方法の一つは、

「浮上している潜水艦を見つけ、認識される前に航空機爆撃する」

というものでした。

潜水艦はその構造上、素早く反応し潜ることができないので、
航空機から爆弾が投下されたことが分かった時にはもう遅いのです。
(その時敵に手を振って相手の虚をつき、誤魔化して逃げた、
板倉光馬艦長という人がいましたっけ。『敵機に帽を振れ』

もう一つの日本海軍が行った潜水艦破壊の方法は、
機雷原をうまく利用することでした。

これに飛行機による爆撃を組み合わせるのは大変有効な方法で、
実際、USS「シルバーサイズ」の姉妹船、
USS「ワフー」S S 228 Wahoo
は、日本軍の用いたこの戦法によって、日本海に沈むことになりました。
ワフーの最後

一般に日本軍は対潜戦に潜水艦を使う攻撃を好みませんでした。

このことは、当ブログでも、映画の解説ついでに書いたことがあります。
大西洋でのアメリカの潜水艦とUボートの海中での一騎打ちはなかった、
という史実についての説明でしたが、日米潜水艦の間の戦闘も、
ほぼ同じような理屈であまり行われなかったと言われます。

その理由は、まず、潜水艦同士だと、
敵からの反撃がすぐさま返ってくること。
一方、その逆説のようですが、

潜水中の潜水艦を、別の深度から潜水艦が攻撃するのは難しく危険

というのが、世界の潜水艦業界の常識?だったからです。

結局、日本海軍は、敵潜水艦を排除するための第4の方法として、
最も効果的な深度爆雷(デプスチャージ)を取りました。
(もちろんこのことは日本海軍の専売特許ではありませんが)

深度爆雷とは、通常駆逐艦が投下する機雷のことで、
一定の深さに到達すると爆発するように設定されています。

爆雷の爆発による威力は水圧によって大きく倍加され、
潜水艦周囲のエアポケットに集中するため、非常に危険なものとなります。
つまり、爆雷を直接艦体に当てる必要はなく、
潜水艦の近くで爆発させるだけで沈めることができるのです。


■ アメリカ軍が恐れた人間魚雷「回天」

「シルバーサイズ」は強力な艦でしたが、日本海軍の潜水艦艦隊は、
世界で最も多様性に富み、強力と言われていました。

第二次世界大戦という戦争では、ある意味、どちらもが
最高の潜水艦を競うのにふさわしい相手であると任じていましたが、
日本海軍にはアメリカには真似のできない方法があったからです。

このサイトには、日本の潜水艦と戦った「シルバーサイズ」の
弱点がこのように明言されているのです。

率直に言って「シルバーサイズ」の弱点は
「回天」を持っていなかったことである。

以下その説明です。


日本のC1型潜水艦は、「回天」魚雷を装備していた。
「回天」は、一人の人間が自らを犠牲にして、
目標まで操縦する大型の有人魚雷である。

combinedfleet.comによると、
「回天」クラス魚雷は、セオドア・クックによって、

『艦というよりも、非常に大きな魚雷に人間を挿入したようなもの』

と評された。

これらの魚雷は通常通りに武装され、人間が魚雷をリダイレクトして、
ターゲットに当たる確率を大幅に増加させることができるものであった。

これらの魚雷は、本質的に
水中の神風パイロットであり、
命中率を高めるために自滅を余儀なくされるものであった。

回天魚雷は、複数の米艦をに沈めることにおいて
残酷なほど効果的であった。
魚雷に人を乗せるという倫理的な懸念はあったが、効果は絶大。


「シルバーサイズ」はこの自己目標魚雷を持たなかったために
不利な状況に置かれたということもできる。


弱点というか・・・・もしかしたらこれ、嫌味ですか?
と思ってみたりするのですが、決してこのサイトには揶揄の調子はなく、
むしろ、「回天」の武器としての有効性については称賛するかの勢いです。

戦後、アメリカ海軍の艦艇乗組の指揮官が、
日本との戦闘で、最も警戒すべきかつ心理的恐怖を与えられたのは
「回天」だった、と語っていたことを今ふと思い出しました。

続きを見ていきましょう。

日本軍の乗組員はまた、その点非常に献身的であった。

日本社会では歴史的に名誉が非常に重要であり、
それは第二次世界大戦でも大いに発揮された。

日本人の乗組員たちは、自分たちの名誉のためであれば、
どんなことでもやるというのが一般的だった。

だから回天は強力だったのだ。

回天に乗る者は、大日本帝国のために命を捧げることこそが
大きな名誉であると信じていたのだ。


「回天」の誕生に関わる数々の逸話、そこにいた若者たち、
その生と死に直面した時の彼らの覚悟と残したもの・・。

心ある日本人であれば、彼らがただ単に自分の名誉のために
狂信的な考えに取り憑かれ喜んで死んでいったわけではないと知っています。

しかし、それはそれとして、その、私を捨て去り、
公に殉じた自爆攻撃が、相手を震え上がらせた事実は動かせません。

ここは素直に、「回天」が戦法として承認されていると考えましょう。
だからと言ってアメリカ人がこれを賞賛しているとは限りませんが。


「シルバーサイズ」のもう一つの欠点は、航続距離であった。

C1級潜水艦が14000海里というかなりの航続距離を誇っていたのに対し、
「シルバーサイズ」は補給なしでは11000海里ほどしか進めない。

一般的に潜水艦は、沿岸ならば、過ごす時間が短ければ短いほど
敵艦に潜水艦の位置を知られにくく、逆に
航続距離は、長ければ長いほど有利となります。

航続距離の短い艦は遠くまで移動できないため、
一度の索敵で位置を推測される可能性が高くなるからです。

このように、USS「シルバーサイズ」は、日本のC1級潜水艦と比較して、
明らかにいくつかの欠点もあったのです。

■ 「シルバーサイズ」の長所


シカゴに寄稿した「シルバーサイズ」

【小型が生む海中での静音性】

「シルバーサイズ」の大きな強みは、水中での移動能力でした。
海軍歴史遺産コマンドによると、この艦の水中変位は2,424トン

同規模の日本の潜水艦C1の水中排水量3,561トンよりかなり少なく、
つまり「シルバーサイズ」は、水中で占めるスペースが小さいので、
機雷や魚雷が当たりにくく、攻撃するのがより困難とされました。

日本の船、特に「C-1」級潜水艦は非常に大きいので、
発見されれば簡単に標的にされてしまいますし、
その大きな船体は、まず、音を反射しない小型の潜水艦よりも
ソナーで簡単に位置を特定されてしまいがちです。

ちなみにここでの「C-1級」とは、伊号16級と同義であり、
「伊16」「伊18」「伊20」「伊22」「伊24」等を指します。

「シルバーサイズ」の強みは、裏返すとC1級潜水艦の欠点でもあります。

C1級潜水艦の第二の欠点、それは艦体が大きいので、同じ速度を出すのにも、
小さな艦体よりはるかに多くの馬力が必要であることです。

「シルバーサイズ」もC1級も、潜航速度は8ノット程度でしたが、
「シルバーサイズ」の小型の艦体でこの速度に達するには、
より少ないトルクで事足りました。

「シルバーサイズ」が8ノットに達するためにはの11,800馬力とすれば、
日本のC1潜水艦では同じノット数に対して12,400馬力が必要です。

今更ですが、馬力を上げるためには、モーターのスピードを上げて
プロペラをより速く回転させる必要があるため、その結果、
必然的により多くの騒音が発生することになってしまいます。

この大きさの違い=静音性により、「シルバーサイズ」は
伊号より攻撃されにくく、したがって若干の優位性を持っていたのです。


【機雷の使用】

また、USS「シルバーサイズ」の日誌によると、
自前の機雷を使って敵船を沈めたという記録が散見されます。

機雷は、設置されている場所への敵のアクセスを、触雷への恐怖から
それだけで封じることができる非常に強力なツールです。

日本海軍は機雷敷設艦が別に存在していたため、
C1級潜水艦は機雷設備を備えていませんでした。

もちろん潜水艦が機雷を備えていたからといって、
一対一の戦闘で役に立つことはありませんが、重要な航行区域に、
前もって機雷を敷設する能力は、いざという時それなりに有利だったのです。


【乗員の練度(民族性含む)】

乗組員の質を考慮に入れずに両潜水艦を効果的に比較することはできません。

「シルバーサイズ」の乗組員は慎重かつ正確で、
魚雷の発射を見逃すことは滅多にありませんでした。

日本海軍の乗員がその能力を欠いていたということはありませんが、
彼らがあまねく備えていた、何があっても降伏しないという
非常に強い名誉意識は、しばしば、彼らの潜水艦を
自ら沈めてしまう傾向にあったということは否定できません。

アメリカの乗組員は「生き残ること」に常に慎重で、
そのためにリスクを極力回避することを優先する傾向にあり、
このことが結果的により多くの任務を遂行することにつながりましたが、
何かとアグレッシブな日本の乗員たちは、任務を遂行する際、
その安全度より優先度の高い目標を選択した結果、
生き残れない場面が多々あったというのです。

もう少し言うと、名誉を何より重んじるという教義に自縛されていた彼らは、
何があっても命令を遂行することを優先しすぎた結果、機会を逃したり、
危険な状況に自らを破滅させることがあった、という意味です。



まとめると。

「シルバーサイズ」はステルス性と安全性で優位に立ち、
C1型日本潜水艦は火力と潜航能力で優位に立っていました。


各艦の長所と短所を比較すると、かなり拮抗しており、もし両者が
ガチの戦闘を行ったとしたら、決定的な勝敗はつかなかったでしょう。

その勝敗を決めるのはただ、「運」の一言に尽きます。
どちらが先に魚雷を発射できるか、運だけがそれを左右するのです。



■ 映画で観る「シルバーサイズ」物語

今日の最後に、とっておきのショートムービー、
「シルバーサイズ・ストーリー」をご覧ください。

これは、戦後アメリカで放映されていた、
「サイレント・パトロール」というテレビ番組のために制作されたもので、
退役した元提督(レギュラートーマス・ダイカーズ少将)が司会を務め、
第二次世界大戦中の有名な潜水艦を取り上げて、
俳優を使った映画風ストーリー仕立てでその足跡を紹介します。
潜水艦の戦時活動と、彼らが「いかに戦ったか」を広報する目的でした。

最後には必ず当時まだ現役だった指揮官などが呼ばれ、
実際にその時のことを言葉少なに語るという視聴者サービスもあります。

この映像におけるタイムラインを書き出しておきましたので、
ぜひ我慢して?飛ばしながらでも最後までご覧になってください。

わたしがこのブログで順を追ってお話ししたことが
映像で網羅されているのでおすすめです。

出演:マイク・ハービン、レーン(語り手的な主人公)、
バーリンゲーム艦長、ダヴェンポート副長、プラター
(全員を役者が演じている)


USS Silversides 'The Silversides Story'

1:21
「シルバーサイズ」出港前、乗り込む水兵たちの会話
ハービン水兵が「ラッキーブッダ」を持ち込み、皆がバカにする

6:47〜
初戦闘、日本海軍の潜水艦(本物)内部が映る
「シルバーサイズ」に一発で撃沈される

8:23
日本貨物船を魚雷攻撃、爆発沈没
「妙義丸」の船名、海に漂う日本人船員の遺体が映る

9:32
武装漁船(さっきと同じ海軍士官が映る)との戦い
マイク・ハービン水兵銃撃によって戦死

14:30
爆雷に耐えている時、プラターが盲腸で苦しみ出す

15:38
ファーマシスト「ドク」、俺が手術するよ!と力一杯宣言

16:28
手術開始

18:57
魚雷攻撃していたら6本目が詰まって出ないのに気づく
上から爆雷がジャンジャン来てピーンチ

21:44
チーフが魚雷を排出するため発射室に残る「決死隊」を募集、
定員3人に対し全員が手を挙げる
ブッダのお腹を撫でて魚雷排出成功
一同ホッとして笑い合う

23:47
映像は終わり、ゲストのクリード・バーリンゲーム少将登場

最後の、司会とバーリンゲーム少将の会話を翻訳してみました。

「クリード、見た限り、
シルバーサイズの哨戒には一瞬の退屈もなかったようですね」

「物事を色々やらかす人が集まってたんでしょうね」

「その通りですが、色々やりすぎというか、

盛り込みすぎな場面もあったように思えます」

「と言いますと?」

「プラターの手術だけでも大変なのに、そこに爆雷が降ってきて、
魚雷が詰まって、結局どれも無事に切り抜けてしまうとは」

「そうですね。多分あなたのいう通りです。

魚雷がチューブに詰まること自体、もし他の艦長だったら
この事態を(他の方法で)クリアできたかもしれないし、
この深刻な事態に対処できたかもしれない。

ただ、我々はその時爆雷の攻撃を受けていましたからね。
その時弾頭が爆発しなかったのは幸運だったとしか言えません」

「事実、それらを実行決断するあなたの才能は、
『シルバーサイズ』の大きな遺産となり、

その成績は傑出したものになりました」

「はい、すべての潜水艦の中で、撃沈成績は3位となりました」

「本当に素晴らしい艦でした。
あなたと、あなたを補佐したジャック・コイ大佐には、
おめでとうございますと言わなければなりません」

「しかし、我々の乗員の
偉大な協力があってのことだと
忘れてはいけないと思います」

「この先ずっと、そのことに誰も異論はないでしょう。
今日はどうもありがとう、クリード」

「ありがとうございました」

司会者とものすごく近くに座っているのに、
全く目を合わさずセリフを棒読みしているバーリンゲーム少将・・。


ちなみに、繰り返しになりますが、爆雷下での盲腸手術について、
前述の潜水艦サイトではこう書かれています。

また、「シルバーサイズ」は緊急手術の場となったことで有名である。

第3次哨戒中、ジョージ・プラターは虫垂切除手術が必要となったが、
問題は医師が乗艦しておらず、当時「シルバーサイズ」は
安全に立ち寄れる港の範囲内にいなかったことだった。

結局、汚れのないスチール製の食事テーブルの上で、
本来は救急隊員が担当する手術を行うことになった。

手術がより安定した環境で行われるように、クルーは部屋を徹底的に掃除し、

「シルバーサイズ」は揺れを少なくするために水中に先行した。

麻酔に難があったものの、手術は成功し、
「シルバーサイズ」が港に到着すると、そのニュースはすぐに広まった。


手術した人(右)とされた人



当時の新聞でも大きく報じられました。


続く。



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5 Comments

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伊号16級 (お節介船屋)
2022-10-05 10:31:08
巡潜丙型との呼称です。
巡洋潜水艦すなわち大型で強力な兵装と水上高速力、長大な航続力をもった潜水艦に類別上の名称として用いられました。
そのなかで甲が潜水戦隊旗艦設備と水上偵察機搭載艦、乙が旗艦設備を除いた艦、丙が乙型から航空兵装を除いた艦で魚雷発射管を艦首8門とされました。水上速力23.6kt、注排水装置改良で潜航秒時は約50秒と短縮されていました。排水量水上2184t、水中3561t、航続距離16ktで14000浬、14㎝砲1基
この5隻は開戦前に竣工し、真珠湾攻撃に甲標的を後甲板に搭載出撃しました。ただ戦前計画した艦隊作戦用の真価を発揮する機会もなく、その後ディゴスワイレスを甲標的攻撃等実施しましたが米軍の対潜戦闘力の急速な向上で大型艦襲撃の機会はなく、各個に撃沈されました。ィ16、昭和19年5月ソロモン北方海域で米駆逐艦の攻撃で戦没、ィ18,昭和18年2月ソロモン東方海域で米駆逐艦の攻撃で戦没、イ20、昭和18年8月ニューヘブライズ諸島方面で消息不明、ィ20、昭和17年10月ソロモン方面消息不明、ィ24、昭和18年6月キスカ付近で米駆潜艇攻撃で戦没

なお開戦後同型52隻が計画されましたがィ46、47、48、52、53、55の6隻が完成したのみで他艦は建造中止となりました。この6隻も昭和19年2月から9月の完成であり、回天搭載で特殊な攻撃に用いられ、その強力な魚雷射線8基の発揮の機会はありませんでした。

日本側の柔軟性を欠いた作戦、物資輸送への投入、電波兵器の劣性等多くの要因がありますが、艦隊司令部が潜水艦の本質を理解できず、不合理な使用に終始した認識不足が大きな原因でした。

回天は潜水艦搭載だけでなく、軽巡北上、駆逐艦波風、汐風も搭載艦とされました。
泊地攻撃も困難で昭和20年4月から洋上攻撃とされましたが記述のような脅威にもならず、大きな戦果は挙げられず、「天業を既倒に挽回する」との回天名称のように配色濃い戦局を挽回することはなりませんでした。

参照光人社「写真日本の軍艦第12巻潜水艦」
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総合評価の評価 (ウェップス)
2022-10-05 11:20:37
当時から携帯式のムービーカメラ(アイモ)がありましたから、映像記録が残っていることは不思議ではないと思います。日本との違いはフィルムが潤沢にあるかないかでしょう((+_+))

総合評価については、回天がその実態(母潜も含めたリスクの高い作戦や故障率の高さなど)に比して、敵側に相当程度の心理的脅威を与えたことがわかります。
性能比較は細部にわたっていますが、とにかく国家戦略・海軍戦略として「そこそこの性能でも脇目を振らず同じタイプを増産した。」ことが米側が圧倒的に勝っていた点と私は思います。ガトー級が「非凡な平凡」と評されている所以です。(非凡と言っても、レーダーがあるだけで相当の優位ですが。)
戦後「くろしお」受領に行った隊員が「パイプから油漏れがない」ことに驚いたという具合ですから、技術的格差は決定的だったとも言えるでしょう。
返信する
日本潜水艦 (お節介船屋)
2022-10-05 11:23:23
福井静夫元技術少佐は我が潜水艦と特長として水上速力は高く、潜航性能、水中運動性能は同大の米英独潜に劣らないし、ソナー及び水中聴音機は戦争中ドイツの影響で発達し、逆探も入手した。安全潜航深度も巡潜三型以降大型は100m、海大六型以降と中小型は70mから80m、水中高速潜は100m~110mで安全率2.5は米英独潜と同様であった。シュノーケルはドイツからの技術で昭和19年末から装備し、独自の技術は友永大佐考案の自動懸垂装置と重油漏洩防止装置があった。主機械の信頼性高く、二次電池も高性能で船体耐圧構造も発達していたとの記述が参照文献にあります。
レーダー装備の遅さや性能の低さはありました。
ただ艦隊決戦用であり、その本来の目的に使用されず、機会もなく、軍令部の大失敗と言われています。
参照光人社「日本潜水艦物語」

大きな艦であり、種類も多く、戦時急造には不向きであり、水上高速を狙うため高馬力の機関直結での駆動で潜航時の電動機への切り替えも必要であり、補機類や配管の防振についての考慮が無く、煩雑さや放射雑音低減の考えが低く、ドイツ派遣で太鼓を叩いているとまで指摘され改善も実施されましたが。この辺の技術力や工業力は品質管理や大量生産力を含め低い水準でした。
電池性能や容量は米国は高く、ほぼ同一の潜水艦大量生産力も高く、その工業力は比べられません。居住性においても空調完備であり、南方の高温や潜水艦内の高湿度への対応、戦前からのレーダー装備や通信設備の高性能や情報取得解析での有効利用などで相当の差でした。制空権確保で終戦まで米潜水艦はシュノーケル装備の必要性すらありませんでした。平凡な性能でもその使用にあっており、信頼性が厚く、使用し易ければその作戦の合理性と多い数で通商破壊戦だけでなく、日本艦隊攻撃にも有効に作用しました。日本の対潜戦の拙さにも幸いされましたが。
返信する
Silent Service (Unknown)
2022-10-05 17:53:35
>心ある日本人であれば、彼らがただ単に自分の名誉のために狂信的な考えに取り憑かれ喜んで死んでいったわけではないと知っています。しかし、それはそれとして、その、私を捨て去り、公に殉じた自爆攻撃が、相手を震え上がらせた事実は動かせません。

全然違うと言われるかもしれませんが、自衛隊でも、災害派遣、特に東日本大震災時の原子炉災害派遣では、本当に自らの命を顧みず、飛び込んで行った人がいます。これは日本人のDNAだと思っています。

>日本の潜水艦C1の水中排水量3,561トンよりかなり少なく、つまり「シルバーサイズ」は、水中で占めるスペースが小さいので、機雷や魚雷が当たりにくく、攻撃するのがより困難とされました。

これはアスペクト(自艦から見た敵艦の向き)を軽視していると思います。大きな船でも、こちらに艦首を向けていると、探知しにくいし、小さな船でも、こちらに腹を見せていると、探知しやすく、アクティブソーナーだと反響音が全然違います。一般的な傾向としては、小さい船程、探知しにくいですが、実際にはその場その場で違って来ます。

>「シルバーサイズ」の乗組員は慎重かつ正確で、魚雷の発射を見逃すことは滅多にありませんでした。

日本人は、丸腰の商船は撃てないですよ。ウクライナで言うことを聞かない民間人を撃っているロシア軍と同じです。

シルバーサイズの映画を観ました。実際の乗員ではなく、役者さんなので、お芝居っぽいところはありますが、こんな映画を作ってくれるなんて、乗員としてはうれしかったと思います。Silent Service。知られることはない訳ですが、こうして知ってもらえるとやっぱりうれしいと思います。

そういう意味では、不評だった「空母いぶき」も、自衛隊を知ってもらうという意味では、十分に意義があったと思います。
返信する
ヒ71船団 (お節介船屋)
2022-10-05 20:35:43
前コメントで戦時標準船の劣悪さを述べましたが戦前の商船は助成等もあり、明治大正時代の古く、低性能船を優秀船で相当淘汰していました。
多くの優秀船が失われつつありましたが標記のヒ71船団はフィリピンへ陸軍増強のため優秀客船と貨物船が16隻集められこれにシンガポールに油を搭載に向かうタンカー2隻を加え、護衛艦8隻と海軍特務艦2隻で編成され昭和19年8月10日九州伊万里湾を出陣しました。タンカー2隻を除き、速力は15kt以上発揮可能でしたがタンカーの12ktに合わせて航行しました。
8月13日台湾馬公泊地着、整備補給、船団組み替えし、8月17日輸送船3隻と給糧艦「伊良湖」を分離、在泊していた他の護衛艦と共に高雄に向け航行していきました。残りの船団は護衛艦13隻に護衛されフィリピンへ向かいました。
この船団には空母「大鷹」が対潜哨戒機10数隻搭載していました。この機は九七式艦上攻撃機で爆雷2個を搭載し、交代で対潜哨戒でしたがレーダーは無く、高度1000m以下で目視での敵潜発見に努めるものであり、浮上しているか、潜望鏡の航跡が発見出来るかであり、夜間は不可能であり、図体の大きな空母自体が攻撃される危険性がありました。
8月18日バシー海峡でタンカー「永洋丸」が魚雷1本を受けましたが沈没せず、護衛艦1隻と共に分離、高雄へ引き返しました。同日ルソン島西岸で「大鷹」が米潜「ラシャー」の雷撃で航空用ガソリンタンクが爆発、大炎上し、沈没しました。この日敵潜数隻の無線電話交信が傍受され包囲されていることが分かっていましたので、単独全速力航行を船団指揮官は命じていました。護衛艦も擁護して全速航行としましたが陸軍兵員満載の客船「帝亜丸」が2発の魚雷を受け、機関室はボイラーの蒸気爆発を起こし、28分で沈没しました。5478名の乗船者船員うち2654名が戦没しました。輸送船の人的被害は昭和19年2月バリ島沖雷撃沈没「隆西丸」4999名、5月徳之島東方雷撃沈没「富山丸」3695名、11月済州島西方霊撃沈没「摩耶山丸」3437名等に次ぐ2000名以上の犠牲者16隻の1隻でした。
8月19日「能代丸」魚雷1本命中、海岸へ擱座、「阿波丸」魚雷1本命中被害軽くそのまま航行、給油艦「速吹」被雷沈没、「玉津丸」2本命中横倒し数分で沈没、乗船者4820名中4755名戦没、「帝洋丸」3本命中5分で沈没、他の艦船はリンガエン湾に逃げ込みましたが米潜群狼による被害が大きく、1個旅団約7000名が戦死、1個連隊約3000名が救助されましたが兵器、弾薬、糧秣をほぼ失い、フイリピン戦に大きな影響となってしまいました。なお「大鷹」乗員約800名に大きな犠牲を出しましたが同型艦「雲鷹」も昭和19年9月17日ヒ74船団護衛中南シナ海で米潜「バーブ」の雷撃で戦没、同「沖鷹」も昭和18年12月3,4日航空機運搬中米潜「セイルフィッシュ」の2度の雷撃で戦没しました。

参照光人社 大内建二著「輸送船入門」、海人社「世界の艦船」日本航空母艦史
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