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サブマリン レスキューチャンバー〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-02-21 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」が係留してある岸壁に展示された
二つの大きな展示物のうち、ヘッジホッグを前回紹介しましたが、
今日はレスキューチャンバーを取り上げたいと思います。



繰り返しになりますが、レスキューチャンバーとヘッジホッグは、
「シルバーサイズ」の艦内を見終わって、出口に向かうとき、
岸壁を見ると嫌でも目につくところに置かれています。



どちらも珍しいものだけに、来館者の興味を引いています。

さて、この左側のがレスキューチャンバーであるわけですが、
とりあえず現場にある説明をご紹介しながら進めましょう。

1900年に潜水艦が海軍に持ち込まれ、その一部となったとき、
そこにはいかなる種類の脱出装置も付いていませんでした。

立ち往生した、あるいは沈没した潜水艦には、水上艦が救助に来て、
被災した潜水艦を、水中から艦体ごと引き上げることしか、
乗員を助けられる方法はなかったのです。

助ける方法がそれしかないにも関わらず、
武器として導入し、人間を乗せて戦わせる、という決断をした
海軍も大概乱暴だと思いますが、そこはそれ、
水中に沈んで敵を攻撃できる船は、かなり早くから切望されていて、
それこそブッシュネルの亀に始まり、先人が苦労を重ねてきたものです。

水中に沈み、敵の目を逃れたところから攻撃できる船、
という画期的な武器は、その発明まで一直線でしたが、
その過程で「もし事故が起こったら」という懸念に関しては
ほぼ見て見ないふりがされてきたと言っていいでしょう。

そんなとき、USS S-4の沈没事故が起こりました。

■ USS S-4(SS-109)の悲劇




1927年12月17日。

マサチューセッツ州プロヴィンスタウン付近のケープコッド沖で、
潜水艦S-4が、測線上の潜航から浮上中、
沿岸警備隊の警備艇「ポーリング」に誤って突っ込まれ沈没しました。

「ポーリング」はすぐさま停船して海面に救命ボートを下ろしましたが、
ぶつかった相手は潜水艦です。
海面に浮かぶ人はなく、少量の油と気泡を発見しただけでした。

救助と引き揚げ作業は厳しい天候に阻まれ、難航しました。

前方の魚雷室には6名の生存者が閉じ込められており、
必死に続けられた救出作業中、彼らは艦体を叩いて
ダイバーと何度も合図を交わしていたといいます。

しかし、コンパートメント内の酸素は減り続け、
作業をしていた潜水士が艦体に耳を当て、

"Is... there... any... hope?" 
(望みはあるか?)

というモールス信号のメッセージを受け取ったのを最後に、
6人全員は息絶えた思われています。

この時の6名の乗員は以下の通り。

閉じ込められた6人のうちの唯一の士官だった
グラハム・N・フィッチ中尉。享年24。


魚雷室航海士ラッセル・A・クラッブ、26歳。


水兵ジョセフ・L・スティーブンス
(年齢不詳)

水兵 ジョージ・ペルナール、21歳。


魚雷室航海士 ロジャー・L・ショート、34歳。


魚雷室航海士 フランク・スニゼック、24歳。

救助隊の懸命の努力にもかかわらず、乗員全員が行方不明でした。


サルベージされた後、ボストン海軍工廠に曳航されるS-4、1928年

S-4は1928年3月17日、アーネスト・J・キング艦長(どこかで聞いた名前)
が指揮する引き揚げ作業によって、ようやく引き上げられました。

事故から丸々3ヶ月経っていたことにご注目ください。
同種の事故が起こる可能性は十分予測されていたのに、
しかも沈没した瞬間もはっきりわかっていたのに、
艦隊の引き上げに3ヶ月もかかったというのが何を意味するのか。

この悲劇がきっかけとなって、潜水艦の救助方法が
真剣に、そして迅速に開発されるようになりました。

■ 潜水艦救助の父、スウェーデン・モムセン

潜水艦が沈没した時に救助する方法は、まず大きく分けて、

一、潜水艦ごと引き揚げる

一、潜水艦から乗員だけを引き揚げる

のふた通りしかありません。

潜水艦ごと釣り上げるのは、初期の排水量の小さい艦体で、
潜航深度も浅い時にはまだしも可能でしたが、
潜水艦が大型化し、潜航深度が深くなってくると、
時間的にも物理的にも艦体の引き揚げは困難となってきます。

このとき、アメリカ海軍が選択したのは二つの手段で、
いずれもが海軍軍人、



チャールズ ”スウェーデン人” モムセン
Charles Bowers Momsen 
(June 21, 1896 – May 25, 1967),
nicknamed "Swede"

によって開発された方法です。

余談ですが、このモンセン(モムセン)という人、
海軍兵学校に入った最初の年に
チーティング(カンニング)がバレて退学
しかし諦めきれずになんとか復学させてもらい、最下位をぶっちぎって
なんとか卒業したくせに、結局は少将になってしまったという豪快さんです。

最下位だったことと関係あるのかどうか分かりませんが、
モムセン、卒業するなり潜水艦という、おそらくは当時
エリートコースとは言い難い職種を歩むことになりました。

しかし、このことが彼の名を潜水艦史に残すことになり、
潜水艦業界にとってもその功績は計り知れない恩恵だったわけですから、
まったく、何が幸いするか分かりません。

人生これ塞翁が馬、福禍は糾える縄の如し。

S-1という、当時海軍が導入したばかりの潜水艦の艦長になった彼は、
S-4と同様、貨物船との衝突で沈没した
S-51潜水艦S S-162
の事故遭難者の救助に当たったのをきっかけに、
潜水艦の事故救難法を考え始めます。

まずその一つの思いつきが、モムセンの肺ことモムセン・ラングでした。



何度も使っているので、この水兵さんの名前が

V-5 crewman A. L. Rosenkotter(ローゼンコッター)

であることも今回ついにわかってしまいました。
こんな顔で・・とはいえ、歴史に名前を残したからよしとしよう。


さて、モムセン・ラングの仕組みですが、
簡単にいうとソーダ石灰の入った容器であり、
これが呼気から有毒な二酸化炭素を取り除き、酸素を補充します。

袋からマウスピースに2本のチューブがつながっており、
空気を吸い込むためのものと、使用済みの空気を吐き出すためのものです。

首から下げたり、腰に巻いたりして使用し、その役割としては
酸素を供給するほか、ゆっくり浮上することで塞栓も防げます。

1929〜1932年にかけて、中尉時代のモムセンは
乗員の砲手長や民間人とチームを組んでこの開発を行い、
水深61mの潜水艦から脱出するテストを自分で行い成功しました。

海軍兵学校が、一度のカンニングでこの男を切り捨てていたら、
って、まあ一度は切り捨てたんですが、その後チャンスを与えなかったら、
モムセンのような人物はそうそう現れるものでもないでしょうから、
この種の発明にはもう少し時間がかかったかもしれません。

その後、実際に使用される機会はしばらくありませんでしたが、
1944年10月、東シナ海で「タング」(SS-306)
水深55m海底に沈んだ後、8人の潜水艦乗員がこれを使用して
海面に到達し、初めて人命を救うことになりました。

モムセンの肺はその後改良されて「スタンキーフード」となります。


そして、もう一つのアイデアが、

「潜水鐘を潜水艦に取り付けて、脱出ハッチを開き、
閉じ込められた潜水士が中に入れるようにする」

というものだったのです。

■レスキューチャンバー

最初に彼が思いついたのは、「ダイビング・ベル」という名前でした。

「潜水鐘の底にゴム製のガスケット(金属をシールするもの)を敷き、
潜水鐘が脱出ハッチの上に来たところで気圧を下げれば、
潜水艦との水密が保たれる。
そして、ハッチを開けて、閉じ込められた人を移譲させる」

というアイデアを、図に示し、指揮系統に送り込んだのです。
しかし、1年以上待っても何の返事も得られませんでした。

おそらく技術的に何か問題があると判断され却下されたのでしょう。

その後も何度となく彼は持論をプッシュしてみましたが、
彼の図面は上には非現実的だとして却下されるばかり。

モムセン・ラングを成功させてから、1930年になって
彼は諦めず、ダイビングベルの試作品を作ってS-1で試験を行いました。

Charles Momsen and Submarine Escape 3: The Trunk, The Bell, The Lung

このビデオですが、驚いたことに、当博物館が作成したものです。

ビデオの3:00〜からみていただくと分かりますが、
モムセンはワシントン海軍工廠で深海潜水実験装置を使って実験を行い、
高圧下における人間の肺の混合ガスに関する
生理学上の大きなブレークスルーを達成しています。

水中で空気を吸うと、窒素が血液に入り、次に組織に入りますが
30m以下では、一般に「窒素ナルコーシス」(窒素酔い)と呼ばれる
多幸感(!)を伴う昏睡状態を引き起こすことがあります。

また、急浮上すると血液中の窒素が気泡となり、
減圧症、通称 "潜水病 "を引き起こすのですが、この気泡が血流を妨げ、
激痛を引き起こし、死に至ることもあります。

モムセン自身による実験では、窒素を無毒のヘリウムに置き換え、
深度に応じてさまざまなレベルの酸素と混合させて調整しました。

今日のダイバーは、この知識を利用して、
91mより深い場所でも安全に活動できるようになったのです。

モムセンは自身が体を張って実験を行い、
(ラインに体が絡まってあと30秒で空気が無くなるところで浮上した
・・・らしい)この偉大な成果を得たのでした。



モムセンの発明が貴重な人命を救った例が、
あのUSS「スクアラス」の遭難です。

Charles Momsen and Submarine Escape 4: The Loss and Escape of the USS Tang

「スクアラス」にチャンバーを下ろすシーンは0:34。
見ていただくと、モムセンのチャンバーの仕組みがよく分かります。



この時助けられた生存者の中に、のちに「シルバーサイズ」の艦長になった
ジョン・ニコルスがいたことを、当ブログでは取り上げたわけですが、



初めてちゃんとした写真でニコルス艦長のご尊顔を拝見しました。
いや眼福眼福。

このイケメンニキが二つの潜水艦を秒でクビになった理由がさらに知りたい。

ビデオ後半では「タング」が東シナ海で沈没した時の
(1:27でリチャード・オケインの写真、1:58に絵あり)
「自分で自分を撃った」状況が図解で示されていて勉強になります。


つまりこういうことですね。今更ですが

この時、オケイン艦長始め、何人かが助かったのが
モムセンラングのおかげであったという話です。

ビデオの最後に「スペシャルサンクス」として
名前が書かれているヘレン・ハート・モムセンは、
モムセン提督ご本人のお孫さんであるようですね。

2021年に他界されたようです。

Helen Hart Momsen




続く。





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5 Comments

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メッセンジャー・ブイ (ウェップス)
2023-02-22 09:24:56
レスキューチェンバーは、遭難潜水艦から放出されるメッセンジャー・ブイと艦体をつなぐワイヤに沿って降下される、という知識をひけらかそうと思ってググってたら、中尉の2017年の記事にヒットしました((+_+))
メッセンジャー・ブイには「この下に潜水艦が沈没しています。(中略)最寄りの役場に知らせてください。」という、読む人を困惑させるような文章が刻印されています。
返信する
日本海軍潜水艦救難 (お節介船屋)
2023-02-22 10:40:43
日本海軍でも大正末、第43潜水艦、第70潜水艦が沈没し、救難が大問題となりました。
救難の世界的権威だった福井順平造船少将が考案したのが「つるべ式」救難法でした。
これは「つるべ」のように沈没潜水艦を釣り索で水上艦を介して反対舷で潜水艦に繋ぎ、この潜水艦を沈降させ吊り上げる方法でした。
この水上艦に選ばれたのが日露戦争の戦艦「朝日」でした。両舷2か所に大きな梁を設置し、吊り上げドラムを設けました。
日華事変で上海方面に工作艦が必要になり、「朝日」が工作艦に改造された昭和12年まで幸い潜水艦沈没事故がなく使用の機会がありませんでした。

災いは忘れた頃にやってくるの例えのように昭和14年2月ィ―63潜がィ―60潜に豊後水道で衝突され沈没しました。船体に大損傷を受け、水深90mで潮流が激しく、救難浮標も浮上していないので乗員は沈没で殉職したのであり救難も極めて困難でした。
給油艦「佐多」を救難母船に改造し、ィ―63潜船体に大廻し索を掛け、少し吊り上げ、少し浅い海底に卸す、これを順次繰り返して1年後引上げに成功しました。この時代深海サルベージの世界記録でした。

昭和16年10月壱岐水道でィー61潜が沈没しましたが水深が浅く、給油艦「佐多」が再度この方法で引上げました。

昭和18年10月就役訓練中のィ―183潜が主機械頭部弁から浸水し江田島沖で沈没しましたが水深23mで呉工廠の起重機船等を使用し、翌日浮揚し、修理19年1月完工しましたが初出撃で故障引き返して再度修理、改めて4月初出撃しましたがその日四国沖で米潜ボギーに撃沈されました。生まれが悪いと後がの事例となってしまいました。

参照出版協同社福井静夫著「日本の軍艦」、光人社福井静夫著「日本戦艦物語Ⅱ」、光人社「写真の日本の軍艦12,13」、
返信する
日本海軍潜水艦救難 (お節介船屋)
2023-02-22 10:57:41
日本海軍でも大正末、第43潜水艦、第70潜水艦が沈没し、救難が大問題となりました。
救難の世界的権威だった福井順平造船少将が考案したのが「つるべ式」救難法でした。
これは「つるべ」のように沈没潜水艦を釣り索で水上艦を介して反対舷で潜水艦に繋ぎ、この潜水艦を沈降させ吊り上げる方法でした。
この水上艦に選ばれたのが日露戦争の戦艦「朝日」でした。両舷2か所に大きな梁を設置し、吊り上げドラムを設けました。
日華事変で上海方面に工作艦が必要になり、「朝日」が工作艦に改造された昭和12年まで幸い潜水艦沈没事故がなく使用の機会がありませんでした。

災いは忘れた頃にやってくるの例えのように昭和14年2月ィ―63潜がィ―60潜に豊後水道で衝突され沈没しました。船体に大損傷を受け、水深90mで潮流が激しく、救難浮標も浮上していないので乗員は沈没で殉職したのであり救難も極めて困難でした。
給油艦「佐多」を救難母船に改造し、ィ―63潜船体に大廻し索を掛け、少し吊り上げ、少し浅い海底に卸す、これを順次繰り返して1年後引上げに成功しました。この時代深海サルベージの世界記録でした。

昭和16年10月壱岐水道でィー61潜が沈没しましたが水深が浅く、給油艦「佐多」が再度この方法で引上げました。

昭和18年10月就役訓練中のィ―183潜が主機械頭部弁から浸水し江田島沖で沈没しましたが水深23mで呉工廠の起重機船等を使用し、翌日浮揚し、修理19年1月完工しましたが初出撃で故障引き返して再度修理、改めて4月初出撃しましたがその日四国沖で米潜ボギーに撃沈されました。生まれが悪いと後がの事例となってしまいました。

参照出版協同社福井静夫著「日本の軍艦」、光人社福井静夫著「日本戦艦物語Ⅱ」、光人社「写真の日本の軍艦12,13」、
返信する
日本海軍潜水艦救難設備 (お節介船屋)
2023-02-22 11:19:29
参照本の高橋治夫氏著から
事故を知らせる装置
救難ブイ 前甲板と後甲板に設けられ、赤と白に塗分け、電話線が装備、夜間には電燈点滅
ブイ表面に「潜水艦ココニ沈没セリ。スグ近クノ役場マタハ巡査ニ知ラセテ鎮守府ニ電報タノムー伊号第〇〇〇潜水艦」の銘板が取り付けられていました。

信号弾 噴煙信号弾射出筒が装備され火箭を発射する装置でした。

個人脱出 脱出ハッチが二重となっており、救命衣を付けて、このロック内に入り注水し、舷外と水圧差を無くして、個人で脱出する方法でした。

潜水艦高圧空気艦内排水装置 高圧空気によって艦内に進水した海水を排除するものであり、発令所だけでなく前後端区画からも作動させることが出来る装置でした。

なお救難ブイは太平洋戦争前に作戦上の理由で廃止されたそうです。

参照光人社「写真日本野軍艦 潜水艦」
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さすがアメリカ (Unknown)
2023-02-22 17:12:20
こういう機材を具現化するところ、さすがアメリカだと思います。
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