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駆逐艦「梨」物語

2012-08-03 | 海軍









内容から何からやる気のない4コマで申訳ありません。
このエピソードは駆逐艦「梨」の物語にとってさほど重要でないのですが、
チョイネタとして作成してみました。

本土防衛も激しさを増した昭和二十年、瀬戸内海で日本軍はグラマンを二機撃墜。
それそのものは大きな戦果であったのですが、その後米軍のカタリナ飛行艇が一機飛来、
駆逐艦「梨」大砲の射程距離ぎりぎりに着水し、海中の搭乗員を救出して悠々と去っていきました。
向こうも必死ではあったでしょうが、何しろ鈍重な水艇に内海まで侵入を許したばかりか、
黙って去っていくのを見ているしかなかったというこの出来事は、
当時の我が軍がいかに防衛においてアメリカ軍からなめられていたかということを表わしています。

駆逐艦「梨」。
昭和19年から建造された「松型駆逐艦」に続く「橘型駆逐艦」で、昭和20年3月に就役、
終戦直前の7月28日、山口県光基地沖で回天と合同訓練中、米軍の攻撃を受けて沈没しました。

松型というのが、フネ不足の海軍が取りあえず数だけは何とか調達するために
わずか5カ月で作りあげた戦時量産型の駆逐艦でありました。
この型は松、竹、梅に始まり、

(松型)桃、桑、桐、杉、槇、樅、樫、榧、楢、櫻、柳、椿、桧、楓、欅、

(橘型)橘、堵、樺、蔦、萩、菫、楠、初櫻、楡、、椎、榎、雄竹、初梅

の(全部読めました?)32隻が就役にこぎつけました。
重複する木は「雄竹」「初櫻」にするなど、ネーミングに苦労の跡が偲ばれます。

本日の主人公「梨」。
決して果物ではなく「梨の木」という意味の命名ですが、
何となく軍艦にしては迫力を欠くと思われませんでしたか?

木の名前をシリーズにし、「雑木林」と呼ばれていた松型ですが、
これ以外にも建造中止になったり、全く未成のまま終戦を迎えた40ほどの船になると、
だんだん植物のサイズが小さくなり、
「薄」(ススキ)「野菊」
などという、健気に咲く野の花にまでなってしまっていました。
まだ命名されていなかった4143、なんていう仮の名前を持つフネが、
「薔薇」「撫子」「チューリップ」になるのも時間の問題だったでしょう。(たぶん)

もしかしたら、松型駆逐艦の名前を付ける担当の部署は、
この点に関してだけは戦争が終わってほっとしていたかもしれません。


さて、先日、「雪風は死なず」という項において「好運艦雪風」に対して「不運艦」を挙げました。
そのときにこのフネを挙げても良かったと思うほど、「梨」もまた不運でした。

「梨」は第11水雷戦隊所属で、そののち第一遊撃部隊に編入されています。
この部隊は、大和出撃のとき沖縄に突入することになった部隊です。
しかし、「梨」はじめ「雑木林」は、ことごとくこの作戦から外されてしまったそうです。
訓練もろくにできていない「雑木林」では役に立たないと判断をされたのは明白です。

もし天一号作戦に参加していたとしたら「梨」の命運は確実に沖縄で尽きていたでしょうから、
この瞬間は「好運」と言えたのかもしれません。

しかし、「梨」の不運はここからでした。
訓練といっても燃料不足のため、まともな戦闘訓練などできないまま(水泳訓練などをしていた)
「梨」は運命の7月28日を迎えます。

これは、冒頭漫画に描いた、「カタリナ飛行艇目の前で着水」の屈辱からわずか3日後。
国内で、米軍の攻撃により沈められたフネは多々ありますが、「梨」が不運だったのは、
この時攻撃したのが爆撃機ではなく、グラマンF6F戦闘機であったことです。

「梨」は戦闘機に沈没させられた珍しいフネ、という不名誉な記録を担うことになったのでした。

さて。

「梨」の運命はここで終焉を迎えたわけですが、この話にはまだまだ続きがあります。

戦後、スクラップを取るつもりで引き揚げたところ、なんと、「梨」は、ほぼ使用に耐える形のまま
海底にあったことが判明し、日本はこれを護衛艦として再利用することにしました。

しかし、平常であれば引き継がれる旧艦名は使用されませんでした。
なぜだかわかりますね?

「なし」

漢字なら問題のないこの艦名が、あら不思議、ひらがなにすることでネガティブで不吉な二文字に。
そこで「梨」には「わかば」という(一応木シリーズ)新しい名前が与えられました。

護衛艦「わかば」DE-261は、旧軍に存在した戦闘艦艇で、
戦後自衛隊で使用された、これも唯一のフネとなったのです。

しかし、「わかば」としての第二の人生は、必ずしも輝かしいものではなかったようです。
まず、もし時間があればこのような国会審議に目を通していただきたいのですが、

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0106/02801130106003a.html

この国会で、「梨」が一度民間の会社に払い下げられていたのを、国が買い戻した経緯を、
野党が批判する、という出来事がありました。
再デビューにもケチがついたというわけです。


デビューにこぎつけた後も、半年も潮水に浸かっていた「梨」は機関部に凄まじい異音が絶えず、
また、同型艦がないため、運用にはなかなか苦労が絶えなかったといわれています。

また、乗員の多くを「わかば」は旧「梨」乗り組みから採用しました。
沈没の記憶のなせる業か、「わかば」では、しばしば「略帽を被った旧軍乗員を目撃した」
というような幽霊騒ぎが起こったそうです。

「梨」はその沈没時に60名以上の戦死者を出しています。


国会で追求されてまで「梨」のレストアと運用が推し進められたのは、
戦後の海上自衛隊が旧軍を受け継ぐものであるという意志表明の下に、
旧軍艦をその表明のあかしとして持っていたかったのではないか、という説があるそうです。

「わかば」がすでに解体され、その高角砲と魚雷発射管を術科学校内に残すのみ、
ということになってしまった今になっては、本当のところを知る者はもういないのかもしれません。



「大和です」
という漫画を描いたとき、こんなお便りを戴きました。

「大和一隻で戦ったわけではないですから・・・」
「大和」でなかったらこの海自の人達は、どうしたのだろうか?と思ってしまう」

確かに、もしあの話が

「お爺様は何に乗っておられたのだ」
「梨です」

であったら、

「なし?」
「はあ、モモ、クリ、ナシの梨です」
「あったっけなあー、そんなフネも」
(一同)「ほー」

などという展開になり、盛り上がらないことおびただしい。

しかし、「梨」に乗って亡くなった60名の命も、「大和」戦死者となんら変わりない命です。
「大和の物語」がいつまでも人の心をつかんで離さないように、人々が戦争を語るとき、
そこに悲壮な、或いは勇壮な物語を求めるのは世の常かもしれません。

しかし、何に乗って、どんな戦い方をしたとしても、
英霊の死にざまに上下を付けることだけはあってはならないことでしょう。




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3 Comments

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非公開コメントに対する公開返事 (エリス中尉)
2012-08-03 14:36:34
冒頭漫画の「梨」画像がどう見ても「わかば」である、という指摘がございました。

その通りでございます。

しかし、この絵からよくわかるものだなあ~。
「わかば」は、数次にわたって改装がなされていますが、何度目かにレーダーやソナーを備えたレーダーピケット、つまり艦隊の外側で早期警戒に当たる役割を担っていたそうです。
役割としては実験艦というものだったようです。

画像を「わかば」にしたのは、「松型」ならびに「梨」のちょうどいい参考画像がなかったためです。

松型がカッコイイ、というご意見には賛成します。
気になるのは「とにかく数必要であったため建造期間を大幅に縮小した」という点で、粗製乱造となっていたのではないかという点ですが、もし戦争が継続していたらこれらの駆逐艦が錬度をあげ戦線に投入されることになっていたわけで、不謹慎を覚悟で言えばどんな働きをしてくれたのか少し見てみたかった気がしますね。

グラマンに落とされたのはロケット弾で、それが弾薬庫に落ちたのが致命傷となったそうです。

その惨状については航海長(予定)だった海兵72期の左近允尚敏氏の手記に詳しいので読んでみてください。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-nasinosentou-sakonjyou1.html

爆弾を落として鯛を取った話など、面白い話があります。
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コメント (S.I様)
2013-01-22 23:34:34
このログに対して、非常に興味深いコメントをいただきましてありがとうございます。

そのまま掲載するべきかと思いましたが、どうやらご本名での投稿で、さらにはメールアドレスも書かれていたため、こちらで判断してイニシャルにお名前を変えさせていただきました。



初めまして、S.Iと申します。
昨年4月に86才で亡くなった父から生前聞いていた終戦直前の話に、配属されていた駆逐艦が米軍の攻撃を受けて沈没したという話が有りまして、気になっていました。
父は終戦末期の18年に横須賀の海軍経理学校を出てすぐに大和に配属になり、艦長付けの秘書をして居たと言うことです。
秘書と言っても身の回りの世話をするような仕事で、父はかなりの美男で有ったのでそういう役回りが回って来たようです。
しかし大和が沖縄特攻作戦に出撃する際に乗員交替と言う名目で降ろされたと話していました。
その後配属された駆逐艦も瀬戸内海で米軍の攻撃で沈んだとの話でした。
父は口の重い人でしたので余り多くを語らず、断片的にしか戦時中の事は聞いていません。
駆逐艦沈没で命を拾った後にも、8月6日呉の海軍基地から広島に向かう途中に山の陰にさしかかったところで原爆が炸裂して直接被爆することはなかったそうです。
何度も命拾いした父ですが、広島の市内に遺体処理の仕事に狩り出されて二次被爆の憂き目に会って仕舞いました。
沈没した梨の話が父の語った話に一番近いと言う感触が有ります。
貴重なお話を有り難うございました。
返信する
Sさんのお父様のこと (エリス中尉)
2013-01-23 21:23:24
貴重なお父様のお話をありがとうございました。
お聞きになった話というのは大変興味深いです。

艦長などの身の回りをするのは普通は「従兵」の役目だと思いますが、その役職について昔「目が覚めたらそこは・・・」という項で書いたことがあります。
井上大将が艦長だったときかわいがられた従兵の話ですが、ベッドで眠りこんでしまい、目が覚めたら隣に井上艦長が寝ていた、という話。
従兵に選ばれる者の条件として、優秀で気が利くのは勿論、ちゃんと標準語がしゃべれて訛りがあまりないこと、そして容姿が優れていることであったというようなことです。
海軍経理学校卒でしたら主計士官ですから、従兵という扱いではなかったと思いますが、そこはおっしゃるように艦長に容姿を買われたのかもしれませんね。
瀬戸内海に停泊中に攻撃を受けて沈んだフネ、というと、わたしもすべてを把握しているわけではありませんが、この「梨」であった可能性は高いですね。

沖縄特攻から生還した艦で、その後国内で米軍によって撃沈されたのは「初霜」だけですが、その場所は宮津(日本海側)ですし。

ただ、資料によると、松型の駆逐艦は役に立たないだろうということで「梨」は参加しないことに最初から決まっていましたし、対潜のために着いていった「雑木林」の「槇」「榧(かや)」は、瀬戸内海で帰還させられています。

もしかしてお父様はこの「梨」が引き上げられて自衛隊に使用されていたこともご存じだったかもしれませんね。

戦争に行った人たちがすべてその経験を口にしているかというと、決してそうではないでしょうね。
むしろ、思い出したくない、話したくない、ということで一生誰にも語らずにあの世に持っていく人たちもいます。
「歴史を残すために話すべきだ」
と彼らに向かっていうのは、実に傲慢で残酷なことでもあるのかもしれません。

この「梨」はその沈没時にかなりの人数が無くなっていますから、そのとき生き残った方々の中にはほかの生存者がしばしば持つような「死者に対する疾しさのようなもの」を心に抱えているがゆえに寡黙になったとしてもある意味自然なことのように思われます。

その後も戦死の危険を度々潜り抜けたお父様は、戦後、あらゆる思いをずっと抱えて生きてこられたのでしょう。

お話を聞かせていただいてありがとうございました。
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