
令和元年度の自衛隊記念日に付随する呉地方隊の行事が終わりました。
いつもならそこでわたしの自衛隊記念日も終了なのですが、今年は
「まだだ、まだ終わらんよ」
第一術科学校の行事にお誘いをいただいたため、呉滞在3日目、
わたしはガンダムのクワトロ・バジーナのセリフを脳内に浮かべながら
江田島小用港行きのフェリー乗り場へと車を走らせました。
すると、乗り場には待っている車どころか人影もなし。
少し早めに来たからかな?と思いつつそこにいた係員に聞いてみると、
なんとたった今フェリーは出航したばかりというではありませんか。
「じゃ10時40分発というのは」
「それは小用発呉行きですね」
うーむ、我ながら時刻表もまともに読めない奴だったとは。
自分で自分に心底呆れながら、そこはそれ、こんなこともあろうかと
借りていた燃費の良いプリウスで地道コースをGo!
ちなみに今回借りたのはまだ納車されて6ヶ月の新車でしたが、
そのおかげで広島空港⇄呉⇆江田島と3泊4日運転しても、
最後までガソリン残量のケージは一コマも減らず。
最後に満タンまで給油して料金は600円で心底驚嘆しました。
前もって送っていただいた駐車カードを見せながら進むと、
一般公開出発コースになっている建物の裏に誘導されました。
テントの下の受付コーナーに受付票を見せると、ここではなく
大講堂の中で受付してくださいとのご指示が。
写真に見えている車寄せから一歩中に入ると、
制服と制服でない人がいっぱい待機していて、そこで受付をし、
懇親会の会費を支払い、代わりにリボンをつけてもらえます。
その後待合室となっている一階の応接室に通されたのですが、
誰もおらず、続いて誰かが来る様子もまったくありません。
ひっろーい応接室に、わたし一人です。
とりあえず現副校長と明日から任期交代する新副校長、他にも
顔見知りの自衛官のみなさまにご挨拶をすませましたが、
この辺でわたしは少々早く着きすぎたのではないかと思い始めました。
今回の行事、初めてご招待いただいたので勝手がわからず、とりあえず
開始時間の11時に行けば良いだろうと車を走らせてきたのですが、
そもそもこの日のオータムフェスタは、地元と第一術科学校を繋ぐ
触れ合いの機会として設けられた、いわば文化祭とか普通大学なら
大学祭みたいなノリのお祭り。
それが開門になるのが11時であり、来賓客というのは2時から行われる
この日の目玉イベントである観閲行進に間に合うように、
鷹揚にご来臨するものであることに遅まきながら気づいたのでございます。
「うーん・・・・」
まさかここでお茶をすすりながら式典開始まで待てるか?いや待てない。
ちょうどご挨拶に来られた総務の一佐に外に出た方がいいですよねー?と伺うと、
「もちろんです。
構内はそのすっばらしいカメラで写真をお撮りになるべき
ポイントがたくさんありますし、今日は大講堂の前に特設ステージが設けられ、
そこでもうすぐミュウージックが披露されます」
「ミュウージック」にツッコむべきかどうか一瞬迷いましたが、そこはスルーして、
わたしは集合までの2時間半、江田島を散策することにしました。
一佐が始まるとおっしゃった「ミュウージック」はまだで、このとき
ステージ上ではこの日の司会進行のお二人がMCを行っていました。
この右手にある屋台は人がいっぱいでしたがステージ前はご覧の状況。
ちなみにこの日江田島のお天気は日差しの強い夏日で、湿度も高く、
秋らしくセーター・マフラーに帽子といういでたちでキメてきた女性司会者は、
「暑いですけどわたしこれ脱がずに頑張ります」
と宣言していたものの、かなり辛い状況だったんではないかと思われます。
彼女の装いはおそらくこの日の花火大会に照準を合わせたのでしょう。
この時期江田島は陽が沈むと海から吹く風で寒くなるのだそうです。
自衛官が自分の家族や彼女?を案内しているらしい光景も見ました。
防大開校記念日もそうですが、制服姿の恋人や婚約者にエスコートされると、
制服マジックもあって惚れ直してしまいそうですね。しらんけど。
それにしても暑いのう、と思いながら日陰で写真を撮っていると、
写真に写っている自衛官がわたしが暇を持て余しているのを見抜いたのか、
すたすたっと近づいてきてお話相手になってくれました。
この自衛官が江田島で何をしているかというと、「教官の教官」、
つまりここ術科学校で先生をする予定の自衛官に、
「教え方を教える」
という仕事です。
技術的なことは自分の専門についてよく知っていても、それを
他人に教えるというのはまた全然別のことなので、ということでした。
「どのくらいのタームで授業するんですか」
と聞くと、
「常時開講です。自動車学校みたいなもんですから」
授業をする方もしょっちゅう自らが講義を受けているってことね。
ちなみにこの日のオータムフェスタで海自迷彩を着て、
あちらこちらに立っている自衛官のほとんどがこの教官なんだとか。
「自衛官の仕事って本当にいろいろあるんですよ」
ええそれはよく知ってますともさ。
自己完結が自衛隊の本領ですからね。
ところで、この自衛官氏は学外の近場にお住まいということでしたが、
自転車で四国をほぼ一周したりはしょっちゅうなのだとか。
そのとき近くをたまたま通りかかったEODの先生を呼び寄せて、
「この人は毎日呉から自転車で通ってきてますからね」
「呉から橋を二つこえて?どれくらい時間かかるんですか」
「2時間です(`・ω・´)」
「てことは通勤時間に4時間・・・?」
「アホですよねー」
いやアホとは思いませんが、自衛官って皆こんなのなの?
「いや、さすがにそんなのはわたしたちくらいですが」
そうなのか?
ちなみにEODの教官に聞いたところによると、現在
EOD訓練を受けている女性隊員は3人もいるそうで、資格試験も
体力的な条件に全く男性と差をつけないで受けるのだとか。
岩国の第31航空隊には女性のUS-2パイロットが誕生しそうですし、
潜水艦乗員、掃海艇長と、今まで男性しかいなかった職場に
次々と女性が進出しており、海上自衛隊は政府の提唱する
女性参画推進計画のロールモデルにならんばかりの勢いです。
この光景を見ていつもとの違いに気づいたあなたは江田島通です。
江田島見学では、一般コースは徒歩、ちょっとディープになるとマイクロバス、
と移動の方法は違いますが、そのとき絶対に足を踏み入れないのが芝生。
この日は一般に解放されていて歩き放題どころか、夕刻に予定されている
花火大会ではここで完全に寝そべったりできるのです。
というわけで赤煉瓦の校舎も芝生の上から写真が撮れます。
第一術科学校の玄関前には指揮台が置かれ、その左右に
式典と観閲行進を展覧するための来賓席が並べられています。
迷彩の自衛官が立っていますが、芝生を歩く人たちに
「ここから向こう側には立ち入らないようにしてください」
と注意する係です。
なぜ向こうを歩いては行けないのか。
最初、砂地部分に目立てをしてあるからかと思いましたが、そうではなく、
政治家の来賓席にみだりに人を近づけないようにだったのでしょう。
表桟橋はついにリニューアルに踏み切ったらしく、工事中でした。
桟橋が工事中の関係で、陸奥の砲塔一帯もロープから向こうには行けません。
この時間すでに夜6時から始まる花火大会の場所取りをする人あり。
観閲行進があるのでまったく意味がないんですがそれは。
せっかく芝生を堂々と歩くことができる機会なので、
この旧校舎も姿を留めているあいだに全景を撮っておきましょう。
芝生を時計回りして古鷹山と校舎が皆収まる場所までやってきました。
いつもマイクロバスの中から見ていた「明石」のマストを間近で。
巡洋艦明石(3,000t)は明治32年に国産鋼鉄巡洋艦「すま」型の
二番艦として就役、日露戦争参戦後、大正時代には地中海方面で
駆逐艦の旗艦として活躍し昭和3年廃艦となった。
という説明の看板があるのを初めて見ました。
細かいことを言うようですが、まず、「すま」型というのは
旧軍艦の「須磨」型の間違いですよね。
そして、「大正時代に地中海方面で」とありますが、これ、
第一次世界大戦で青島攻略戦に参戦
となぜもうすこし正確に書かないんでしょうか。
何に、さらに何のために配慮しているのか全くわからん。
かつてはここで海軍兵学校の生徒が棒倒しをしたり、
何重もの大きな円を作って「軍歌演習」を行ったものですよ。
って、いろんな媒体で再現されたものや当時の写真を見ているうちに
すっかり見たことがある気になっているだけなんですけど。
こんなものが展示されていることも知りませんでした。
ボフォースの4連装対潜ロケット発射装置とその弾薬。
「たかつき」「やまぐも」「みねごも」「いすず」、そして
「ゆうばり」型に搭載されていたとありますが、恥ずかしながら
ニワカのわたしには実際に見た護衛艦はどれ一つとしてありません。
ここにあるランチャーは平成22年に除籍になった「ゆうばり」が
搭載していた、ということなので、かろうじてこのブログが
始まった頃にはまだ現役だったようですが・・。
後ろの建物は自衛官の宿舎だったりするんでしょうか。
建物に人が近づかないように警備している自衛官は、写真に写ってもいいように?
ばっちりマスクで顔も警備しています。(たぶんね)
写っている不思議な装備は、
54式爆雷投射機「K砲」
なるもので、対潜爆弾を艦体側方から飛ばして撃つ投射機です。
こっちから見たらわかりませんが、横から見ると「K」の字状なので
「K砲」、艦体の両側に同時に投射するのは「Y砲」だったそうです。
海上警備隊発足直後、米軍からの貸与艦に搭載されていました。
この形状をみればヘッジホッグであることは、アメリカで軍艦を
なんども見てきたわたしにはすぐにわかりました。(←自慢している)
これは自衛隊初、いや日本初の対潜ミサイル搭載型であり、後世の護衛艦の
艦体設計、機関設計に対して多大な影響を与えたといわれる、伝説の護衛艦
が搭載していたものです。
この54式対潜発射機で、一度に24発の対潜弾を発射すると、
対戦弾は潜水艦を取り囲むようにして落下していきます。
24発のうち一発でも命中、炸裂すれば、振動によって
全弾が連鎖的に炸裂して破壊力を増大させるという、
潜水艦にとっては実に嫌な仕組みの武器でした。
まあでも、これがなくなったということは、その後の対潜武器には
これを遥かに凌駕する確実性と破壊力があるってことなんですが。
グラウンドではサッカー教室が行われており、その横では
訓練支援艦「くろべ」が積んでいるチャカIIIが展示されていました。
このとき初めて知ったような気がするのですが、チャカって、
「CHUKAR」っていうスペルで鳥の「イワシャコ」のことなんですってね。
なぜ「チャカ」という名前になったかというと、(鳥の話ですよ)
「チャック・チャック・チャカー・チャカー」
という鳴き声だからということですが、
途中から「チャカ」っぽく鳴いています。
ペットにしている人もいるようですが、鳴き出したらなかなか煩そうです。
ちなみにノースロップ社がなぜ標的機に「チャカ」と名付けたかというと、
欧米では(今は知りませんが)ウズラの種類がかつてスポーツとしての
猟銃の射撃標的にされていたことから来ているようです。
柵の向こうはテニスコート。
コートハウスはどうみてもかなりの年代物です。
物置として現在も使用されているようです。
ちゃんと登録がされているらしく、種目は「事務所建」、
建物番号は257番と札が貼ってあります。
海上自衛隊創設期の国産護衛艦「いそなみ」主錨。
「教育資料として昭和63年に現在位置(旧海軍軍艦
千代田艦橋跡)に設置した」
とあるのですが、ということはかつてここに
千代田の艦橋があったこともある、ってことですね。
調べてみると、かつてここには、晩年に兵学校の練習艦を務めた
巡洋艦「千代田」の艦橋部分が置かれて、戦前戦後を通し
号令台となっていましたが、敗戦後撤去されたのだそうです。
「千代田」が標的艦となった時の演習は、お召艦「山城」から昭和天皇が、
「長門」からは高松宮宣仁親王が少尉として天覧されるというもので、
「千代田」にとってはある意味名誉な、華々しい最後だったといえましょう。
グラウンドを一周して帰ってきても集合時間にはまだまだ間があります。
さて、このあとどうやって時間を潰しましょうか。
続く。
これ参加された方のSNSの投稿で見ました。隔世の感があるというか、ここで育った人には畏れ多いことです(笑)
>表桟橋はついにリニューアルに踏み切ったらしく、工事中でした。
カッターのダビット外してますね。総短艇は当分はなし(笑)
>ボフォースの4連装対潜ロケット発射装置
1,200トンの小船いしかり型はこの発射の展示のためにずっと観艦式には来てました。必ず4発を発射する(ヘッジホッグのように潜水艦を囲むように発射する)ので、かなり迫力あります。爆発した時もP-3の対潜爆弾(爆雷)と同じくらいの威力があり、足元からドーンと来ます。
>一度に24発の対潜弾を発射すると、対潜弾は潜水艦を取り囲むようにして落下していきます。
ヘッジホッグ。これは正確に言うと「潜水艦を取り囲むように落下する」場所に落とすための操艦をしないといけません。なかなかに難しいのです。
>これがなくなったということは、その後の対潜武器には、これを遥かに凌駕する確実性と破壊力があるってことなんですが。
ヘッジホッグは数百メートルしか飛びません。第二次世界大戦当時なら、潜水艦は水上艦に見つかるまで水上航行で、水上艦を回避あるいは襲撃する時にだけ潜航していたので、潜水艦に数百メートルまで肉迫出来ましたが、今の潜水艦は常時潜航出来、ヘッジホッグを発射出来る数百メートルに肉迫することは出来ない(潜水艦に先制攻撃されてしまう)ので、時代遅れとなり、なくなりました。
明石須磨といえば源氏物語ですが、政争と色恋沙汰の物語と軍艦の名前はミスマッチのような気がします。何らかの含意があるのでしょうか、それとも単なる地名か(;´・ω・)
ちなみに昭和14年海野十三の「浮かぶ飛行島」では二艦は練習艦隊として復活しています。
千代田艦橋は昭和34年の「ああ江田島」では出てきますので、その頃までは現存したのでしょうか('ω')
横須賀造船廠で明治32年竣工、速力20ktで使いやすく、北清事変、日露戦争に参加、艦隊勤務だけでなく、外地警備に使用、第1次世界大戦では東南アジア、インド洋方面警備につき、大正6年、第2特務艦隊旗艦として佐藤少将座乗で地中海方面に派遣、活躍しました。昭和3年除籍、昭和5年標的処分。
要目
常備排水量2,657トン、垂線間長93.5m、幅12.3m、吃水4.6m、レシプロ蒸気機関2基、2軸、8,500馬力、20kt、兵装15㎝40口径単装砲2基、12㎝40口径単装砲6基、47㎜単装砲12基、45㎝魚雷発射管2門、甲板装甲51㎜、乗員256名
参照海人社「世界の艦船」No441
なお第2特務艦隊の地中海での活躍は
原書房紀脩一郎著「日本海軍地中海遠征記」、河出書房新社片岡覚太郎著「日本海軍地中海遠征記」、祥伝社秋月達郎著「マルタの碑」に詳しい。
小説では文芸春秋刊C・W・ニコル著「特務艦隊」が面白いです。
兵学校の生徒の死去法要が行われた事から兵学校生徒が多く訪れるようになり津久茂帖と呼ばれるサイン帖が残されています。
詳しくは下記に張り付けましたが、連絡しておけば見れます。私も遠い昔見せて頂いて住職に話を聞いた記憶がありますが、その住職も亡くなられ、本堂も30数年前土砂崩れでお参りに来られた信者数名を巻き込んで崩壊したとの事でした。現在は再建され住職も変わっておられると思いますが、下の記事によれば幹部候補生も訪れているようです。
今度時間がありましたら訪れてみてください。本当に田舎のお寺ですので京都等のお寺のように観光目的に訪れる場所ではありませんのでその点は断っておきます。
標的は航空集団第31航空群(岩国)隷下の標的機整備隊が江田島市大原で一括整備しておりますので披露したのではと思います。
https://kankaizan-honkakuji.jimdo.com/
https://533etajima.com/tsukumotyou/
「千代田」は明治19年12月、フランスで建造、内地回航中行方不明となった「畝傍」の保険金124万円を充当し、その代艦として明治21年イギリスへ発注されトムソン社で建造、明治24年竣工しました。舷側に92㎜の装甲帯を設けており、厳密には装甲巡洋艦でした。
日清戦争で19ktの優速で三景艦とともに本隊に編入され黄海海戦での勝利は本艦の活躍が大きかったと言われます。
極めて長寿命の艦で不良な汽車缶をベルビール缶に換装し、日露戦争、第1次世界大戦に参加、大正11年除籍後も、潜水母艇、練習船として使用され、昭和2年8月5日、豊後水道で昭和天皇展覧の連合艦隊戦技で実艦標的として処分されました。
要目
常備排水量2,439トン、垂線間長92.0m、幅13.0m、レシプロ蒸気機関2基、2軸、5,678馬力、19kt、兵装12㎝40口径単装砲10基、47㎜単装砲14基、11㎜10連装機砲3基、36㎝水上魚雷発射管3門、水線装甲92㎜、甲板装甲35㎜、乗員350名
参照海人社「世界の艦船」No441