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真珠湾攻撃 九軍神慰霊祭〜酒巻少尉の写真

2019-12-21 | 海軍

真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇で突入した艇長と艇附、
士官と下士官9名の英霊「九軍神」の慰霊祭にお誘いいただいたとき、
どのような経緯で12月8日の慰霊がこのようなところで行われてきたのか、
全くその経緯についてわたしは知識がありませんでした。

参加の意思を伝えてから、茶封筒にボールペンの手書きで
三机からの案内状が届いたのですが、何日かして追いかけるように届いた
もう一通には、先の案内状の電話番号の訂正だけが書かれていました。

どうして今時メールという通信手段を使わないのだろうと思いつつ、
その丁寧さに驚いた、と誘ってくださった提督にお伝えすると、

「会えばわかりますが、茶髪やピアスをした普通の青年です。
ただ子供の頃から九軍神の話を聞いて育ち、自分たちと同世代の若者の生きざま、
自己犠牲の精神には尊敬の念を持って自然な形で代々慰霊祭を続けています。
我々海自OBは銃数年前にそのことを知り、陰ながら応援しています。」

という返答をいただきました。

戦史にその名を仰ぎ見た九軍神の慰霊に参加できる感激もさることながら、
今の若い人たちがどんなふうに英霊の顕彰を受け継いで、
後世に伝えようとしているのかぜひ見てみたい、と思ったのはそのときです。

街全体の面積に比してこの須賀公園というのは広すぎる気もするのですが、
もともとあったらしい八幡神社を中心に、キャンプ場や炊事場、広場を作り、
ここをちょっとしたレジャー地にしようとしたようです。

九軍神慰霊碑はここにもしっかりその名称が記されています。

整備の際に設置されたと思われるプール。
ということは、こんな静かな内海なのに海水浴はできないのでしょうか。

砂浜がない、ということはとりもなおさず海の深さを表しています。

かつてこの三机で特殊潜航艇・甲標的の乗組員が訓練をしていたとき、
この三机湾の沖には母艦「千代田」が停泊し、その威容を見せていました。

真珠湾攻撃の半年前の昭和16年春になると、十人の男たちは
三机の旅館に泊まり込みとなり、毎朝8時になると、旅館の女将が作った
弁当を持って出て行き、夕方6じごろには戻ってくるという
まるでサラリーマンのような生活をしていたそうですが、
地元の人々との接触はなく、もとより村の人々も、彼らが
何をしているのか尋ねることもなかったということです。

訓練終了後の潜航艇には厳重にカバーで覆われ、村の人々は
彼らが何をしているかわからないなりに、厳しい訓練を行っているらしいと
なんとなく察していましたが、同年の11月中旬、十人の軍人が
休暇から帰ってきてすぐに、三机湾沖の「千代田」は突如姿を消しました。

そしてほどなく、大東亜戦争開戦の知らせがこの小さな漁村にも伝わりますが、
まさかその海戦にあの軍人たちが関わっているとは誰も思わなかったといいます。

大本営が酒巻少尉を除く九人が特殊潜航艇で真珠湾に突入し、
戦死を遂げて「軍神」となったことを発表したのは、翌年の3月6日。
その日、三机村の人々は、あの軍人たちがここで何をしていたのか、
初めて知ることになったのでした。

強い潮風から護られるように周りを深い木々で囲まれた広場に
「大東亜戦争級軍神慰霊碑」はありました。
注連を巻かれ、清酒や供物が供えられています。

慰霊碑の前には、九軍神の写真が並んでいます。
海軍の慣習に倣って、全員の真ん中に隊長の岩佐直治中佐(海兵65期)。
その両脇に67期の古野繁実・横山正治少佐

横山少佐は、わたしが再々ここで扱っている獅子文六の小説、
「海軍」のモデルとなりました。

兵学校68期の広尾彰大尉は、古野少佐の左。
本来なら横山少佐の右には酒巻少尉が二階級特進して
酒巻大尉となり、並ぶはずでした。

四名の両側に、下士官であった五名の艇附の写真が並びます。
映画「海軍」では、艇附が中年のおじさんになっていましたが、
最年長であった岩佐大尉の艇附、佐々木直吉少尉ですら28歳、
酒巻艇の艇附稲垣兵曹長26歳、あとは25、24、23歳と
全員が二十代前半の若者たちでした。

海軍という組織の不思議なところで、艇附は必ず艇長より年上です。
年齢が上でも士官と下士官では士官が上級であり先任ですが、
この組み合わせは、海軍での経験豊かな優秀な下士官を
士官の補助に付け、実質指導させることが目的だったと思われます。

 

本日は慰霊祭なので慰霊碑前に遺影が飾られていますが、
ここにはふらりとキャンプなどで訪れる人たちにも
慰霊碑の示すところの意味を広く知らしめるべく、このような
立派な説明のプレートが設置されているのでした。

この碑は、昭和16年12月8日大東亜戦争の先陣として
ハワイ真珠湾攻撃に挺身決死隊として散った
九人の軍神を慰霊するために建立されたものである。

軍神は戦いに赴く前に、三机湾を真珠湾にみたてて
極秘の訓練を受けるために、この地に滞在したが
同地方の人々との交流も深く、彼等の逸話美談が
今も町民の間の語り草となっている。

この解説板の背景の九本の柱は、
軍神のみたまの数をあらわしたものである。

金属のプレートは、この日の青空と緑とともに、
彼らのみたまを表すという九本の柱を映しています。

この下線部分は、「秘密保持のために交流はなく」
とされた先ほどの記述と正反対なのですが、これは矛盾するものではなく、
彼らは村人に礼儀正しく、旅館の人々などには青年らしさを見せながら
訓練については厳に口を謹んで一言も言わなかったということなのでしょう。

わたしが解説の前に立ち、写真を撮っていると、
髭を蓄えた紳士が近づいてきて解説板の足元にある大理石を指差しました。

「ここには、何年か前まで酒巻少尉の写真があったんです」

えっ、とわたしは息を飲みました。
全員が戦死した甲標的の乗員の中で、たった一人生き残った酒巻和男少尉。

ジャイロが故障し(というか出撃前からわかっていたらしい)
目標を見失った甲標的で迷走したのち、艇附の稲垣兵曹とともに
艇を捨てて海に飛び込んだ結果、自分だけが砂浜に打ち上げられ、
米軍の「捕虜一号」となった酒巻少尉については、当ブログでも
何度となく折に触れて語ってきました。

真珠湾攻撃の「九軍神」の戦死が公表されて以降、
群馬、鹿児島、福岡、佐賀、鳥取、島根、広島、岡山、
そして三重と、見事に一つも重なっていない彼らの故郷には
軍神詣での人々が絶えなかったということです。

しかし捕虜、そして「真珠湾で死に損なった男」として、ある意味
他の誰よりも過酷なその後の人生を送ったのが酒巻少尉でした。

酒巻和男という人間の立場から見ると、「九軍神」という称号は
捕虜になってしまった彼の存在をなかったことにするものであり、
これこそ海軍によって日本中に膾炙された残酷な欺瞞でもあります。

酒巻少尉の写真を最初に九軍神の碑の足下に供えたのは誰だったのだろうか。

そして、それはいつからあって、なぜある日突然無くなったのか。

いくら問うても、誰が、いつ、なんのために、という疑問が湧くばかりで、
それでは
何が正しいのか、どうなるべきなのかに対する答えは見つかりません。

何よりもわたしが考えずにいられなかったのは、
この地を慰霊のために訪ねてきたという酒巻和男氏
(戦後ブラジルに渡りトヨタ・ブラジルの社長になった)は、
ここに置かれた自分の写真を見ることがあったのか、ということです。

おそらく彼ならば、自分の写真がここにあることを望むまい、
とわたしは漠然と思うだけですが、いずれにせよその疑問に対する
答えが明らかになることは永久にないでしょう。


慰霊碑の横には飛行機のプロペラが飾ってありました。
夜間戦闘機「極光」のものです。

陸上爆撃機「銀河」を夜戦用に改造したB29迎撃用の
レーダー付き双発重戦闘機で「月光」を応援して夜間
B29に対する本土防空戦に参加することになっていたが、
性能不足で活躍の場がなかったという悲しい運命を持つ

全長15メートル 全幅20メートル 乗員三名
全重量 1350 最大速度毎時282キロ

武装20ミリ旋回銃二挺 20ミリ機銃1挺

「悲しい運命を持つ」という一文がなんかじわじわきますね。

なぜここにプロペラがあるのかの説明はありませんが、
石碑とともに設置されたのは平成2年のことだそうです。

慰霊碑の後ろには九軍神の名前と階級の下に、碑文があります。
カタカナで書かれているのを読みやすく直してここに掲載しておきます。

臆 殉国忠勇平和礎石の九軍神 昭和16年12月8日未明
大東亜戦争の先陣として ハワイ真珠湾攻撃に挺身決死隊第一号
面目躍如輝く戦果を揚げ また能く我が空軍爆的の烽火(ほうか=のろし)
となり 海空呼応壮絶無比 一大緒戦を展開

自らは従容艇と運命を与にし 壮烈湾深きところ 浪の華と散行きし九軍神
三机湾は 当時日本の真珠湾として 緒勇士と特殊潜航艇が一心同体
生死諦観 決死の猛訓練基地となり 海軍を哭かしめる門外不出の秘境であった。

17年3月 九軍神の勲功氏名の発表せらるるや 沈黙果敢天晴の最後に
驚嘆し 三机の人々は感涙した。

当時若桜の九軍神 マダガスカル・シドニー等で散華した緒勇士が
三机に遺した逸話美談は 一斉に花と咲いた。

歌書よりも軍書に悲し三机湾も 今や戦争の真珠湾から平和の真珠湾に衣更え
日米を真珠で結ぶ山紫水明の平和境となり 観光客も次第にその数を増しつつある。

九軍神は戦争の犠牲となり また平和の礎石ともなる
戦争放棄 平和憲法治下 国土平安民生安定の福祉国家として
新生日本はたくましく前進する。

嗚呼 芳しきかな護国の英霊 瀬戸町有志は広く浄財を募って
軍神由緒の地に 慰霊碑を建立して その功績を敬仰する。

旧軍神の英霊永久に冥せられよ。

昭和41年8月吉日健之

前半がまるで戦時中のような語調だったのが、後半にきて
いきなり「戦争放棄」「平和憲法」というのが不思議といえば不思議ですが、
まあつまりこれが昭和41年ごろの日本国民というものかもしれません。

石碑の土台には瀬戸町長をはじめ建設委員であった
当時の町会議員の名前が刻まれていました。

おそらくは当時の町長、町議会議員のほとんどが
三机で訓練を行っていた軍人たちを記憶に止めていたことでしょう。

知らない者に対しては、その逸話を知る者たちが、彼らがいかに礼儀正しく、
また地元の人々に対し「美談」が生まれるほどの印象を与えたかを語りました。

現在の瀬戸町の若者たちも幼い頃から彼らの物語を聞いて育ったのです。

慰霊式の時間直前になって、青年団の若い人が
国旗と自衛艦旗掲揚のやり方を自衛官に指導してもらっています。

毎年の慰霊祭には海上自衛隊から派遣されて自衛官が出席し、
烏帽子に直垂の装束を纏った神主までいて大変立派なものです。

慰霊碑の前にしつらえられた椅子に参加者が揃ったところで
定刻となり、いよいよ九軍神慰霊祭が開始されることになりました。

 

続く。

 



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2 Comments

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九軍神 (お節介船屋)
2019-12-21 10:53:35
戦時中は遺族の生活に差し障る詣でがあったと聞いていますが戦後の手のひらを返した冷たい仕打ちがあったとも聞いています。
前にもコメントさせて頂きましたが「海軍」のモデル横山少佐の家族のその後は胸が痛みます。
日本人の性格や思考、志に疑問を生じます。
三机の人々の慰霊には本当に感謝します。
慰霊碑や墓石等今後の維持が不安であり、志のある方が居られ継続できればよいですが各地にある慰霊碑の存続については国等の配慮が必要と思います。

何時頃からでしょうか練習艦隊国内巡航で毎年ではないようですが三机に寄港し慰霊が行われています。
今年も5月4日実施されましたが前練習艦隊司令官梶元大介海将補(現護衛艦隊幕僚長)の長い長い敬礼に感激を覚えました。
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若い人を行かせた (Unknown)
2019-12-21 16:59:52
>真珠湾攻撃の半年前の昭和16年春になると、十人の男たちは三机の旅館に泊まり込みとなり、毎朝8時になると、旅館の女将が作った弁当を持って出て行き、夕方6時頃には戻ってくるというまるでサラリーマンのような生活をしていたそうですが、地元の人々との接触はなく、もとより村の人々も、彼らが何をしているのか尋ねることもなかったということです。

>訓練終了後の潜航艇には厳重にカバーで覆われ、村の人々は彼らが何をしているかわからないなりに、厳しい訓練を行っているらしいとなんとなく察していましたが、同年の11月中旬、十人の軍人が休暇から帰ってきてすぐに、三机湾沖の「千代田」は突如姿を消しました。

当時「千代田」は甲標的の母艦に改装されていたようですが、甲標的乗員の居住区画はなかったんですかね。機密保持を考えると、乗員が陸上で民間の旅館に泊まっていたというのはちょっとびっくりです。

>海軍という組織の不思議なところで、艇附は必ず艇長より年上です。年齢が上でも士官と下士官では士官が上級であり先任ですが、
この組み合わせは、海軍での経験豊かな優秀な下士官を士官の補助に付け、実質指導させることが目的だったと思われます。

これは年上の下士官に士官を指導させるというよりも、甲標的のような複雑な機器は専門性が命の下士官に操作させるものだからです。下士官は例えば、甲標的マーク(があったのかどうか知りませんが)だったら、甲標的の操縦しかしません。専門性では士官は及びません。一方、士官の職務は機器の操作ではなく判断であり、操作は出来なくてもいいのです。

酒巻少尉を描いた小説(題名失念)を読んだことがありますが、ハワイ作戦では発進前にジャイロは壊れていて使えなかったようです。普通だったら発進は断念だと思います。任務を達成出来る可能性は極めて低い。兵学校出たての少尉だから、そうは言えなかったんでしょうね。生還の可能性が低い作戦に若い人を行かせたというのは、ちょっと違和感があります。今だったら、もうちょっと年長者が出るんじゃないかと思います。
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