
本題に入る前に大事なお知らせがあります。
「バーク艦長とトモダチ作戦」で、ネットニュースから拾ってきた情報から
「トムバーク艦長はアーレイ・バーク提督の親戚」と書いたのですが、
これはなんと、米海軍の公式ツィッターで単なる「都市伝説」、
つまり両者は単なる同姓にすぎないとはっきり言明されていたそうです。
あらあら。
それではあの記事はいったいなんだったんだー、ってことになりますが、
とにかく正確を期すべきブログで、”都市伝説”を実しやかに拡散するところでした。
あらためてここで訂正し、お詫び申し上げる次第です。
情報を下さったお節介船屋さん、ありがとうございます。
さて。
第2術科学校には、前回お話しした自衛隊創設に関する資料室と、
旧海軍の資料室の二つが、廊下を挟んで向かい合わせに位置しています。
われわれのグループは先に海軍資料室にいたグループと交代しました。
全体の写真を撮るのを忘れてしまったのですが、この資料室には
ガラスケースがぎっしりと並べられ、写真や本、遺品の刀や書などが展示されています。
正式には「海軍機関術参考資料室」といい、海軍機関学校記念事業の一環として
第二術科学校に資料室の設置が行われました。
これらは全国の関係者から寄贈を受けたゆかりの品であり、大変貴重なものです。
展示保管数は約6,300点に上ります。
豊田副武書、「丹心答聖明」。
「たんしんせいめいにこたう」と読みます。
元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作で、
“真心をもって、天子の聖徳に答える”
という意味です。
戦艦「大和」の海上特攻となった「天一号作戦」を最終決定したのは、
当時連合艦隊長官であった豊田でした。
連合艦隊参謀神重徳大佐が、参謀長を通さずに直接裁可を仰いだものです。
このときのことを豊田は
「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。
しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」
と語ったそうです。
豊田は終戦時に軍令部部長であったことから、戦犯指名を受けましたが、
ここでもお話ししたことのあるベン・ブルース・ブレークニー、そして
ジョージ・ファーネス弁護人二人の尽力によって無罪判決となっています。
こちら元帥、海軍大将古賀峯一の「竭誠盡敬」、
「誠を竭くして敬を盡す」(まことをつくしてけいをつくす)
「竭」も「盡」も尽くすという意味で、真心を尽くして尊敬の念を持つ、
という意味となります。
古賀大将は、1944年、パラオからダバオに飛行艇で移動中に殉職しました。
山本五十六元帥の「海軍甲事件」に対し、こちらを「海軍乙事件」といいます。
戦死ではなく殉職と認定されたことで、古賀は靖国神社には合祀されていません。
ここでわたしが食いついてしまった海軍兵学校のアルバム(笑)
新入生はだめですが、上級学年はタバコを吸っても良かったそうです。
「タバコ盆回せ」とよく聞く?あの煙草盆を囲んで、歓談のひととき。
なぜかこの写真に付けられたキャプションは「低気圧の中心」。
???
写真ではよくわかりませんが、もしかしたら外は雨なのでしょうか。
第1術科学校を見学したときに下から覗いて見た階段のところだと思われます。
「明11日午後220より『何々』(読めない)考査」
「9月11日より改正せる授業時間表により教務を実地す 教務副官」
教務本人ではなく、副官の名前でお知らせをしているのがいかにも軍。
この写真のタイトルは「おめかし」(笑)
おめかしも何も、椅子に座れば有無を言わさずバリカンで刈られるだけと思うがどうか。
床屋さんは一人しかいないので、左の生徒は新聞を読んで待っています。
鏡の前で三人がどうやらヒゲを剃っている模様。
「髭剃りは当店では行っておりません。セルフサービスです」
説明がないので状況がわからないのですが、セーラー服にはもちろん、
カンカン帽のような帽子のリボンにも、艦名が書かれているようです。
かなり古い時代(おそらく大正時代とか?)の写真みたいですね。
冒頭写真は比叡に天皇陛下がご坐乗されたときのものです。
陛下と将官のところを拡大してみました。
陸軍の軍人もひとりだけいます。
艦橋外側と主砲の上にもびっしりと鈴なりになっている水兵さんたち。
主砲に座っている後ろの人たちもちゃんと顔が映るように乗り出しています。
きっとこの人たちは随分早くからこの体勢のまま待たされていたに違いありません。
やっとシャッターが押され、皆さんホッとしたことでしょう。
進水式のスナップなどもアルバムにして展示してありました。
保存のためにガラスケースに入れられていましたが、できうることならば
手にとって1頁ずつ仔細に見てみたいと切に思いました。
これは、「航空母艦起工式」と説明があるだけで、艦名はわかりませんが、
ハンマーを持っているのが「古市少将」とされています。
これが横須賀海軍工廠の工廠長であった古市竜雄 機関少将だとすれば、
これは古市少将の在任中の1935-37年の間のことになり、
これはこの期間に起工した空母「飛龍」のときのものだとわかります。
「飛龍」進水式の様子。
こちらは特務艦「高崎」の授与式。
「高崎」は給油艦(軽質油運搬艦)として1943年に就役していますので、
「授与式」とは今でいう「引き渡し式」のことだとすれば、この写真は
そのときに撮られたものだと思われます。
「高崎」が引き渡し後、初の軍艦旗掲揚を行っているところ。
就役してからの「高崎」は昭南に向かい、南方で任務に従事しましたが、
翌年の6月、同じ給油艦である「足摺」とともに行動中、米潜水艦に
共に撃沈され、わずか1年4ヶ月で没しました。
軍艦旗に向かって立つセーラー服の白線が並んでいますが、
ここに写っているうち何人が命永らえることができたのでしょうか。
ここにはこのような大変貴重な資料が展示されています。
旧海軍用燃料(塊炭)と書かれています。
読んで字の通りこれは炭のカタマリなのですが、これが明治末までは
軍艦の燃料として使用されていたものだそうです。
塊炭は煤煙が多かったため、無煙炭を含む練炭など、よりよい燃料が開発されて、
これに置き換わっていくことになります。
ここに「その後罐も艦本式が大小艦艇に装備せられ」とありますが、
「罐」というのは「汽罐」つまりボイラーのことです。
海軍機関科問題が起きたとき、東郷元帥がうっかり「缶焚き風情が」といってしまって、
顰蹙となったということがありましたが、明治時代の戦艦で
石炭をくべていた機関の乗員を「かまたき」と呼んだのは「かま」=罐だからです。
さて、わたしがここの展示の中で特に心惹かれたのはこのコーナー。
昭和8年に行われた大演習観艦式の資料です。
昭和5年、特別大観艦式が神戸沖で行われ、このことと
「火垂るの墓」のツッコミどころを絡めて、ここでもお話ししたことがあります。
(昭和5年に『摩耶』の艦長だった清太の父が終戦時にも同じ船の艦長はありえないとか)
その3年後の昭和8年、横浜沖で行われた観艦式も、その規模は同じくらいのものでした。
昭和8年(1933年) 特別大演習観艦式
とりあえず、このときの映像をご覧ください。
もし現代、8月25日に観艦式なんぞやった日には、熱中症でおそらく
一個連隊くらいの急病人がヘリ搬送されることになるでしょう。
当時は今ほど夏が暑くなかったんですね。
もっとも当時の観艦式は関係者が観閲艦に乗るだけで、今のように一般人、
特に女性などは一切参加することはできなかったと思われますが。
写真は当日の参加者に配られた「観艦式のしおり」と軍艦「高雄」の陪観券。
「陪観」というのは一般的に「身分の高い人に付き添って見物すること」で、
この陪観券の官姓名は岡崎貞伍海軍中将、となっています。
そこで岡崎中将(右下の写真の人物)についてググってみると、
海軍機関学校2期生であり、確かに1924年(大正14)に機関学校長になっていました。
ここに岡崎少将の乗艦券があったのも、その関係でしょう。
ただ、あれっと思ったのは、この観艦式のとき岡崎はもう予備役であること。
一線を退いていても、陪観券の官は「海軍中将」となっていることです。
「予備役」はまだ一応現役の軍人なので階級もそのままってことなんですね。
岡崎中将はこの観艦式に賓客(たぶん宮様)のエスコート役として
駆り出されたらしい、ということがわかります。
左上の旭日旗は「市電優待乗車券」。
横浜市が発行したもので、桜木町から埠頭までの市電(いまならシャトルバス)
にこれを見せれば無料で乗れたようです。
岡崎少将はこのときの観艦式の資料を一切大事に置いておいたようですが、
このチケットも見せるだけで、あとは持って帰ってよかったんですね。
いまでも自衛艦に乗ると、必ずその名前の由来やスペックを記した
パンフレットがもらえますが、それはこのころからの慣習です。
「高雄」の案内、艦名の由来については
「京都高雄山に因みしものなり」
そして、艦内神社についてもちゃんと、
「高雄山に縁故ある京都護王神社の祭神たる和気清麻呂公を祭祀す」
と書いてあります。
「高雄」は昭和7年、つまりこの観艦式の前年度に就役したばかりの
当時の「最新鋭重巡洋艦」だったため、わざわざ海軍中将が乗り込んで、
賓客に説明を行うということをしたのかと思われます。
この後、ソロモン、マリアナ沖、レイテ海戦と戦い続けて、傷つきながらも
終戦まで生き残った「高雄」でしたが、敗戦となったとき、
「妙高」型のネームシップであった「妙高」とともに自沈処分されています。
余談ですが、「妙高」と「高雄」は、
同一船台(横須賀)で建造され、
同一海戦(レイテ沖)で大破し、
終戦時同じ場所(シンガポール)に居合わせ、
ほぼ同じ地点(マラッカ海峡)で自沈処分される
という超腐れ?縁でした。
どちらもネームシップであったということも縁といえば縁ですね。
字が小さくて見にくいのですが、これが当日の観閲航行図。
お召し艦は「比叡」。先導艦「鳥海」に先導されて、「比叡」以下、
「愛宕」「高雄」「摩耶」
の供奉艦が(現代でいうところの観閲部隊)続きます。
その動線が描かれていますが、これを見る限り、このときの観艦式は
現在のように受閲艦艇と観閲艦艇の双方が航行しながら観閲する方法ではなく、
観閲会場(海面)に停泊している艦艇の間を、観閲部隊が通り抜ける形だったようです。
停泊している軍艦の列は全部で7つ。
一番下に「番外列」として、「丸」のつく船、仮装巡洋艦として日露戦争に参加した
「日本丸」や、なんと!「氷川丸」(今横浜にいるあれ)などがならんでいます。
「氷川丸」は昭和5年、3年前に就航したばかりでした。
お召し艦が最初に侵入する第2列には「加賀」「鳳翔」の空母に始まり「青葉」「衣笠」。
左手の第3列には戦艦「陸奥」「日向」「榛名」「金剛」が続きます。
では戦艦「長門」は?
「陸奥」と上座下座を決められなかったせいか、「長門」は
お召し艦が最後に通り抜ける第5列の左に「扶桑」「霧島」「伊勢」「足柄」
と並んで観閲されるということになっています。
ところでこれによると、潜水艦は一番端の列に11隻が並んでいたようですが、
2列離れたお召し艦から見えたのかなあ。
あと思ったのは、今の自衛隊が取っている「全艦稼動式観閲式」は
大変技量を要する方法であると言われますが、 これだけの艦船をきっちりと
海上に並べて停泊させ、観閲を受けるというのも大変なのではないでしょうか。
この当時は、「この日は観艦式だから民間船は横浜沖で航行一切まかりならぬ」
の一言ですんでしまったから、その意味では楽だったかもしれませんが。
その後、自分たちの末裔が、観艦式どころか日常の訓練も
民間船に異常に気を遣いながら行い、また自分たちの国が、ひとたび事故が起きれば
マスコミを筆頭に、推定有罪で自国の軍を責め立てるような国になろうとは、
このころの観艦式に参加していた関係者のだれに想像できたでしょうか。
続く。
後部甲板に背負い式で搭載されているので、妙高型か高雄型の重巡洋艦ではないかと思います。
高崎の主兵装は12.7センチ高角砲(現在の護衛艦の主砲と同じ)で、明らかに格好が違います。
停泊観艦式は、最近だと東京湾で2002年に国際観艦式が行われたと思いますが、確かに多数の船が所定の位置に投錨するまで大変ですが、走りながら方式より、難易度は低いと思います。
現在の方式で一番大変なのは、観閲部隊が観閲を終え、反転して、再度、列を立て直すところです。
最近は「ひゅうが」や「いずも」のような大型艦が登場しましたが、船は大きさによって旋回径が違います。しかし、あらゆる船が同じ旋回径で回らないと、反転し終わったところで直ちに列を組み直すことは出来ません。
見ているとなんてことないようですが、やって見ると結構大変です。トラックと軽自動車が同じ旋回径で回っているようなものです。
停泊式だと、投錨さえしてしまえば、受閲部隊は、あとは時間に登舷礼さえしていればいいだけなので、簡単なんじゃないかと思います。
昔江田島を訪ねた時のことなど思い出しながら、今回の記事も面白く読みました。
そこで一つ。岡崎中将のくだりですが、旧軍の軍人は終身官だったので現役でも予備役でも、後備役でも、階級の呼び方は海軍中将で良いのではないでしょうか?
「日本補助艦艇物語」光人社刊から
給油艦「高崎」同型監「洲埼」
基準排水量4,465トン、長さ106m、幅15m、速力16kt
備砲12cm単装2門、25mm機銃連装2基
揮発油運搬艦(小)、中型空母2隻にガソリンを補給する能力、空母機動部隊随伴用、三菱横浜造船所で建造、1943年完成。
「足摺」は揮発油運搬艦(中)、同型艦「塩屋」基準排水量7,951トン、130m、16kt 備砲12.7cm高角連装2基、25mm機銃連装2基
中型空母2隻にガソリンを補給する能力、爆弾、魚雷、補用機等の補給、整備工場もあり、空母機動部隊随伴用、三菱長崎造船所で建造、1943年完成。
>かなり古い時代(おそらく大正時代とか?)の写真みたいですね。
艦橋から一等巡洋艦「春日」か「日進」ではないかと推定します。
アルゼンチン発注、イタリア建造装甲巡洋艦、日露戦争から昭和の時代まで在籍。7,700トン
大正時代南洋警備等実施、日進は第1次世界大戦では地中海派遣(第2特務艦隊)
資料館の写真は古市龍雄氏の寄贈、と書かれてあり、この名前を検索したところ
海軍機関学校15期のクラスヘッドだったらしいことがわかりました。
アメリカの駐在武官を終えた後は一環して造船畑を歩き、艦政本部で終戦を迎え、
昭和10年頃には横須賀の海軍工廠長でした。
そんな人が艦名を間違うだろうかという気もしますが、
隣に「高崎」の進水式の写真が貼ってあったので、展示のために写真を編纂した
第2術科学校が勘違いしたという可能性もないではないですね。
自衛隊が今の移動方式で観艦式を始めたのはいつのことだろうか、
と前々から気になっているのですが、そういうことが書かれた文献がありません。
「観艦式の歴史」についてだれか研究している人はいないでしょうか。
鉄火お嬢さん
はい!そんなあなたのために。
http://www.geocities.jp/yokosukastudio/kannretuzu.html
これだとかなり実際に見た気分になれると思います。
ちゃんと満艦飾をしている軍艦はそのように描かれているのがいいですね。
海ほたるさん
初めまして!ようこそおいでくださいました。いや、そうなんですよ。
今まであらためて考えたことがなかったのですが、旧軍の軍人を称して
「元中将」とか「元中尉」とか言いませんよね。そういえば。
井上大将のことを「最後の大将」とは言っても「元大将」とはいいません。
自衛隊の方は退官したら「元海将」「元1佐」となり、身分上は一般人です。
「終身官」というのはつまりそういうことなんですね。
おそらくこれは世界のほとんどの軍のスタンダードで、日本だけが特殊なのでしょう。
お節介船屋さん
「日進」か「春日」ですか。
そういえば、日露戦争のとき、上村艦隊がリューリックの乗員を救助しましたが、
助け上げている水兵がこんな帽子をかぶっていたのが印象的でした。
「まるでベニスのゴンドラ漕ぐ人みたいだな」と思ったものですが、
今にして思えばこれと同じ帽子ですね。
ということはこの写真は大正時代のものというのは当たっているかもしれませんね。
ところでお節介船屋さんは、雷蔵さんの指摘通り
これが「高崎」ではないとしたら、なんだと思われます?
軍艦旗掲揚の写真は後部に背負式の砲塔2基があり「高崎」でない事は確かです。
雷蔵さんが言われるように妙高か高雄型のようですが、「高雄」は就役時から砲塔に遮熱板が取り付けてありますので違うと思います。
「妙高」型は就役時後部2砲塔は島のように分離されていますのでこのような写真は撮れないのですが改造で上部構造物が増設されています。妙高砲塔も就役後、いつの頃から分かりませんが遮熱板が砲塔に取り付けられて砲塔の恰好が違うように思われます。その前に撮影?
エリス中尉の記述、雷蔵さんのコメントも違うと言っていながら推定も出来ないで本当に申し訳ありません。
砲塔支筒が砲塔より大きいという特徴がありますので、この部分の写真があればと思うのですが、なかなか見つかりません。
「妙高」型かもしれませんのでもう少し調べてみます。
海上自衛隊移動観艦式について
海上自衛新聞刊「海の護り50年」海上自衛隊半世紀の航跡から
(平成15年3月10日発刊)
昭和43年(1968)東京湾停泊観艦式(佐藤首相)、44~46年記述なし、昭和47年、48年、相模湾で移動観艦式(防衛庁長官)、49~55年中止、昭和56年11月3日(1981)相模湾で8年ぶり移動観艦式(鈴木首相)、平成8年から3自衛隊持ち回り、平成9年(1997)10月26日相模湾移動観艦式(橋本首相)、平成14年10月13日(2002)海上自衛隊発足50周年国際観艦式(東京湾、停泊、小泉首相)
博多沖、名古屋沖での実施もあったのですが利便性から相模湾が多い。
近年は観閲官が首相であるが過去は防衛庁長官が多かった。
以上
軽巡「最上」型の15.5cm3連装砲塔の特長(支筒の形状、砲塔の形、上部の手すり、右舷の突起物の砲台長展望塔)があると思います。
20cm2連装に換装し、重巡となった時は砲塔の形状、防熱板の装備があり、違います。
よって大胆な推定ですが、軽巡時代の「最上」型とさせてもらいます。
誤りかもしれませんが、詳細な写真がありません。
エリス中尉、雷蔵さん違う推定ですみません。
最上は呉工廠、三隈は三菱長崎、鈴谷が横須賀工廠、熊野が神戸川崎で古市少将提供の写真であれば「鈴谷」?
ついでで本当にすみませんが、授与式の写真は海軍軍人同士です。
引き渡し式であれば三菱横浜の所長か三菱の社長かが一方になるのではと思います。
軍艦旗が飾ってあり、何かの授与式であり、「高崎」の引き渡し式ではないと思います。