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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

靖国神社遊就館~或る海軍兵学校生徒の日記

2014-05-04 | 海軍

自慢するわけではありませんが、わたしは靖国神社に併設されている資料館の遊就館には、
いつでも無料で入館できるという「特権階級」でございます。
何のことはない、靖国神社の崇敬奉賛会の会員であるというだけのことなのですが、
これに入っていると年始の昇殿参拝をあまり待たずにすることができますし、
例大祭のご案内などもいただけます。

まあ実際は特典を最大限に利用しているかというとそうでもないのですが、
立ち寄った際、時間があれば無料ゆえの気楽さでふらりと遊就館に入って、
その日観たいところだけ観て帰る、というぜいたくな?こともできてしまったりするわけです。


あるとき、以前このブログ中でお話ししたことのある

「兵学校の入校初日にあたって、海兵生徒がその感想をしたためた日記」

というのをもう一度じっくり見てみることにしました。
ガラス越しに一通り読んだその日記が、そもそも誰のものであったのか、
そのころ(ブログ開始直後ですから4年前のことになります)には
何の蓄えた知識もなく、よって記憶に残ることにもなかったのですが、
今ならおそらく、というかほぼ確実にその名前に心当たりがあるはずだと思ったからです。


ところで、遊就館内は写真撮影が禁じられています。
そのはずなのですが、ほんの時々、人気がないのをいいことに、
こっそり撮った写真をなぜかこれは堂々とブログにアップしたりしている人がいて驚きます。

以前少し書いた、来栖駐米大使の息子である来栖良大尉の写真とか、
野中五郎少佐の茶器とかをネット上で今まで見たことがあるのですが、
写真を撮るのが禁止なら、それをネットに載せるのはもっとまずいのでは・・・・。

特に命の方々の顔写真は、秘蔵するためにこっそり撮るだけならともかく、
世界中に発信してしまうのは厳に慎むべきだと思うのですが。


さてこの「日記」です。
わたしの場合はそれをさらすのが目的ではありませんし、書き写すのが面倒なので
写真に撮りたかったのは山々でしたが(笑)そこはぐっと我慢して、
その場でメモを取ってきました。


十二月一日 金曜日

兵学校浴槽にて娑婆気を洗いさり、軍服を身につけ、
短剣を帯びて大講堂の入校式に赴く
校長閣下永野(修身)大将の訓示には感激そのものなり。
代表田結保が宣誓書を拠出
校長閣下の「生徒を命ず」の声を聞いたとき思う 
愈々海軍兵学校生徒になれたのだ

御写真奉掲
陛下に海軍軍人として責務を盡すことをお誓い申す

更に感激を増したものは
殿下が同期においでになることだ


この生徒は兵学校71期。
12月1日という異例の季節に入学式が行われました。
一期上には菅野直中佐、特攻第一号とされている関行男中佐がおり、
同期には大和特攻に乗り組んでいた臼渕巌中佐がいます。

彼はこの581名の卒業生の26番というハンモックナンバーで卒業し、
在校中は分隊の隊長を務めた秀才でした。
彼が文中で「感激」した「同期の殿下」とは久邇宮徳彦王のことです。

当時の生徒らしく「なり」という文体で書かれているものの、
どことなく幼い文章を取り繕うこともなく素直に喜びがつづられ、
読むものにもその「感激」が素直に伝わってきます。

やはり彼にとっても「軍服に短剣」は憧れであったのでしょう。


夜自習室の前に整列 上級生に挨拶し
自分等十五名の出身学校 皿に(ママ)生命申告を行う
声が腹から出ずとの理で(ママ)数回声を張り上ぐ
緊張しきっていたものの 上級生は笑いながら叱られるので
終わりになると可笑しくて思わず笑いかける
中には笑ってまた叱られる 然しやっと十五名終了し
冷や汗を流したが、又心中はなんだか芝居のごとき感がした。(終)


よく話題になり「嗚呼江田島海軍兵学校」「海兵四号生徒」という映画でも
出てきた「姓名申告」がこのように書かれています。

昔、(といっても4年前ですが)最初にこの日記を遊就館で見たときに
「地獄の姓名申告」とまで言われたこの「イニシエーション」(通過儀礼)が、
「皆が笑い虫に襲われたような状態で」しかも「芝居のごとき」となっているので、

「兵学校とはこんな感じ」

と固定したイメージを持っていたわたしは、大変驚いたものです。

もしかしたらこの大人数クラスの七十期以降、儀式は形骸化してしまっていたのでは、
とその時も書いたのですが、あれから4年経ってもう一度この文に触れ、
やはり兵学校の生徒と言っても、この学年に限らず、所詮若い男の子の集団、
ときにはこんなこともあったのだろうと微笑ましく思うようになりました。
彼らの本来の「幼さ」から見れば、決してありえない話ではなかったのだろうと。


それにしてもこの文章を書きだしてみて改めて思うのですが、
この筆者は(秀才であったわけですが)あまり「文才」はなかったようです。
きっとたまにいる「文章下手な理系の秀才タイプ」だったのですね。


十二月二日 土曜日

起床、始めての(ママ)兵学校「総員起し}を行す
朝の日課を見学す。精神教育にて、兵学校精神を叩き込まる。
短艇の各部の名称、および上げ下しを教わる。
土曜日であるので、総員運動の総短艇を実地さる。
新入生はこれを見学す。
十四分隊は惜しいところで二着となる。
伍長に引率され校内を案内さる。
自習時の後半断間に例規の説明が行わる。
以後十六日まで行われる予定。


新しい環境で、何もかも初めてのことばかり。
珍しさと緊張で少し舞い上がっている様子が垣間見えます。


十二月三日 日曜日

期訓にて古鷹登山を行わる。
天青く澄み、浩然の気を養うに好都合なりき。
遥か彼方に室積を偲ぶ。
午後入校挨拶を方々に出す。
短剣姿を写真に撮る。


室積、というのは山口県光市の室積のことだと思います。
おそらく古高山の頂上から室積の半島が見えたのでしょう。
しかし「偲ぶ」というのは何かが違うような・・・。
まあいいです。彼は理系の秀才だから。(勝手に決めている)


それに、彼がこの時にこの場所を目に留め「偲んだ」と書いていることに
わたしはちょっとした符号というか偶然を感じるのです。


まず、この文章が幼さを感じさせるのも道理。
彼は四天王中学の四年生で兵学校に、しかも上位の成績で入学しており、
これが書かれた時には彼は若干16歳の少年にすぎません。

この日からちょうど5年後の1944年11月20日、 
彼はウルシー環礁において特攻兵器「回天」に乗り、
米油槽艦「ミシシネワ」に突撃し、戦死しました。

彼がのちに回天の訓練を受けることになる徳山の基地は、
彼自身は全く意識にはなかったはずですが、
古鷹山からおそらくこのときにも見えていたはずです。
そこは「室積」からは至近距離にありました。


そう、この兵学校に入校したばかりの出来事を、喜び溢れる、
少しばかり稚拙な筆致で書き残した少年は、あの
仁科関男海軍少佐(戦死後二階級特進)だったのです。


実に迂闊ながら、わたしは最初にこの日記の部分を読んだときには
この名前を記憶していませんでした。
それから4年の間に、回天について書き、あるいは彼らの隊長であった
板倉艦長について書き、すっかりその名前は特別な意味をもって
認識されるようになっていたのでした。


12月4日 月曜日

陸戦は徒手にて行わる。
不動の姿勢、右向け左向け等、中学校の一年にて習ったところを行う。
然し中学校では今や相当困難、複雑なところを習って
基礎を反復練習しておらなかったので、正確に動作することができなかった。
何でも「基」が大切だ。
血液型検査があった。自分はAB型であった。
通信は合調音語について習う。
余程しっかり練習しなければ覚えることができないぞ。


うーん・・。可愛いですね。最後の言葉。

ここにあるのは大学ノートに万年筆で書かれたらしい文字で、
きっちりとした文字は彼の性格を表しているようでもありますが、
ところどころ誤字もあり、間違いを上から書き直しているところと言い、
まるで昨日書かれたような生々しさがあります。

この時には彼自身も夢想だにしていなかったでしょうが、
仁科関男は、潜水学校卒業後「甲標的」の講習員として着任した際、
回天の考案者である黒木博大尉と運命の出会いをします。

この二人が出会ったことで「回天」は実地に至ったともいわれ、
黒木大尉と共に仁科は回天の考案者と呼ばれています。

回天が試作を経て実戦に投入されるまでの期間に、
創案者であった黒木大尉は訓練中の事故で殉職し、
後に残った仁科は黒木大尉の意志を継ぐべく
回天隊を率い、そして自らが出撃して散ったのでした。

その最後の日々、仁科中尉の様子は鬼気迫るものだったということです。


この日記に記された兵学校のまさに最初の日の、
少年のような仁科関男の目に映った徳山の海岸は、
その時どのような色を讃えていたのでしょうか。

仁科関男は特攻戦死後二階級特進し、

わずか21歳の海軍少佐になります。

71期の生徒で、同じく大和特攻に参加し、二階級特進した臼渕巌少佐とともに
少佐に進級したのは二人だけでした。 


ところで、わたしがその後一度遊就館を訪ねたとき、
仁科生徒の日記はそのままの場所にありましたが、どうしたわけか、
ページが閉じられて表紙を見せるだけになってしまっていました。


今ではその日記の文章を読むことはできなくなっています。




 



 



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4 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
自分が死ぬよりもつらいこと (雷蔵)
2014-05-04 07:13:10
21歳だったら、独身で子供もいなかったことでしょう。自分が死ぬことで残された家族に何もしてあげられないことのつらさがなかったのはせめてもの幸いだったと思います。

派遣されていた時、湾岸戦争がありました。部隊から志願して出征していく同僚が何人かいました。同じ部署だった者は海軍で言う特務士官。兵隊上がりでした。

彼は優秀でしたが、それでも兵学校(Annapolis)出に押されて、定年まで海軍に残るには勤務評定がStraight Aでなければならないんだと言っていました。出征すればかなりのポイントを稼げるんだと。

彼には家族がいました。愛車は奥さんにプロポーズしたという自慢の真っ青なBeetle。雨の少ない西海岸にはよく合っていました。幸せそうでした。出征の日。お約束の「少佐」の階級章を司令からもらっていました。

仁科少佐のように「死を決意して」という任務ではありませんが、もしものことがあればもう家族には会えないし、路頭に迷わせるかもしれない。自分が親になった時、自分の人生がそこで終わることより、家族に与える影響に対して、自分が無力であることの方が心残りであると分かりました。

21歳であれば、やりたいこともやり終えていなかったでしょう。仁科少佐には、言い尽くせない程、やり足りないことがあったと思います。でも、自分が死んでしまってから残された家族に対する無力感がなかったのはせめてもの幸いではなかったかと思います。
返信する
 (Coral)
2014-05-05 11:38:20
エリス中尉

遊就館に限りませんがこの手の記念館などを訪ねますと展示されている遺書をよく見かけます。
書いてある内容は今更言うまでもありませんが、一様に字が上手だなと感心します。
昨今すっかり字を書くことが少なくなり、日本語、毛筆など文化を大切にしたいと思いつつ今もキー入力です。
返信する
仁科少佐のこと (エリス中尉)
2014-05-05 16:24:20
21歳で逝った仁科少佐の「心残り」については、彼の上官であった板倉光馬少佐に第一子が生まれたとき
「わたしには子孫を残すということはもうできませんが、お子さんを大事に育てて下さい」
と言ったという話などを挙げて何編か語ってきました。
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/s/%BF%CE%B2%CA%B4%D8%C9%D7

特攻についてもいくつかのエントリで私見をその都度述べていますが、たとえば

「二度とその道は歩んではならないが、この覚悟を持った若者たちの存在が、
日本と言う国を戦後精神的に支え、世界から評価されてきたことまで否定してはいけないと思う」

というのもそのひとつです。
仁科少佐にとっては自分の死によって板倉少佐の子供に象徴されるところの
「未来の日本人」が生きる、ということが後顧の憂いすら全て超越する
大いなる希望だったとわたしは解釈しています。
返信する
 (エリス中尉)
2014-05-05 17:55:50
わたしもいつも思いますね。
あの異常な達筆って一体なんなんだろうって。
あのころの日本人の方が優れていた、とは安易に言いたくはありませんが、
10代の青年でも信じられないくらいの達筆だったりして、その内容もさることながら
負けてるなあという感を持ちます。

coralさんのおっしゃる「キー入力」の方が実際に字を書くよりもずっと時間も長いんですよね。
(わたしの場合には特に)
ペンを持って書いたときに漢字をど忘れして書けなかったりすると大変焦り、
「こんなことでは・・・」といつも思うのですが、思うだけで終わります(笑)
「ウォーリー」というアニメで、未来の地球人が人口の惑星に住んでいるという世界では
皆が自分の車に乗ったままどこにでも移動するので地球人は凄いデブばかりになってしまっていた、
というのをふと思い出してしまいました。
そのうち人類にとって字は書くものではなく「打つもの」になってしまうかもしれません。
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