ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

重巡「鳥海」の見た零戦

2012-04-03 | 海軍

この画像を描いていて、ふと気付いたことがあります。
この写真に写る搭乗員たちは、ほとんど全員が傷ついた坂井一飛曹を心配そうに見つめています。
しかし、おそらくこの中の誰よりも帰還した部下の身を案じていたにに違いない笹井中尉は、
まるで自分が坂井三郎であるかのように、目を伏せているのです。

このため、二人だけが周りから隔離され、あたかも濃密な空気に閉ざされているかのようです。


この白黒の写真では怪我の悲惨さが伝わってこない、と以前書いたことがあります。
そう、なんといってもかれが流した血の色が全くわからないのです。
というわけで、以前アップした
「1943年8月7日、ラバウル東飛行場に帰還し自力で歩く坂井三郎と台南空搭乗員」
を血の色を再現する為だけに、カラーで描いてみました。
血は、おそらく航空眼鏡の周りにこびりついていたのではないかと、
また元写真の坂井氏の様子から想像してこのように付着していたのではないかと想像します。


丹羽文雄著、「海戦」の伏字復刻版を読みました。
一日で一気呵成に読み終え、読後は何かとてつもなく心の深いところでしんと響くような、
冷たく冴え冴えとしたなにものかが次第に波紋を広げてくるような、そんな感動でした。

丹羽文雄が報道班員として、新聞記者ではなく作家として旗艦重巡「鳥海」に乗りこみ、
第一次ソロモン沖海戦をその目で見たのは、8月7日のことです。
日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示したと言われるこの海戦については、
ご存じの方も多いでしょうから、ここであらためての説明は避けますが、
この「海戦」は、軍人ではない、作家の目を通してこの戦いを描写した言わば「参戦文学」。

本質を見抜く濁りのない目、そしてその目で見たものを余すことなく掬いあげ、
従軍記者の筆では到底到達し得ない磨き抜かれた表現で文字にし伝え、
さらには、そこにあって本人すら気付かない心理の襞までを描き、真実を超える表現で、
戦争の何たるかを考えさせられずにはいられない境地にまで昇華させています。

これは「従軍作家」の目から見た戦況を国民に伝えるという目的を持ったものです。
しかし、この作家の筆は、戦後数十年を経た今日の価値観を以てしても全く矛盾の無い真理、
すなわち戦争の悲惨さとひいては虚しさまでもを、読む者に突き付けてやみません。

優れた小説はリアリティにおいても凡人の手によるノンフィクションを超える、
という例の嚆矢といえるかもしれません。
ましてやここに描かれた全ては、戦争に参加した人間自らの手によるものなのです。



私は祈った。
祈りながら、手が震えた。当たってくれと祈った。

やがて甲巡の艦尾の方も燃えはじめた。まん中が黒く切れている。煙であろう。
燃える艦首が海に映る反射であろう。
白みをおびた赤い油絵具をどろりと海上に落としたようであった。
すきとおる紅蓮の焔であった。生涯忘れられない色であった。
生涯思い出すたびに、心臓の一部が針を立てられるような痛みを覚えるであろう鮮やかな色の印象であった。
燃えながら敵は討っていた。

「つっこんでくる。つっこんでくる」
そう言われてみると、左舷に向かいサンフランシスコ型甲巡が艦首をこちらに向けて、
ぐんぐん接近してきた。
すでに敵艦は後半身を火焔につつまれていた。(中略)
操舵の自由を失っていたのであろう。
体当たりに突っ込んでくるより他に舵がとれない、悲しい身振りであった。
討ってきた。泣くばかりに討ってきた。私は奇妙な瞬間を待った。
討たれることが判っているのに身動きをしないのだ。無抵抗に最後を待っていた。


「これこそアメリカ海軍がかつて被った最悪の敗北の一つである」
とアメリカ人に言わしめたこの海戦。
鳥海上で戦死34名。負傷48の被害があったにもかかわらず、
その手ごたえに「勝利」を確信し、皆でラジオから流れる大本営発表に耳をすませます。
そして、「子供のようなきれいな笑顔で」静かに微笑みながらその喜びを皆が反芻する様子を、
丹羽はまた書きとめています。


今日は冒頭画像とこの「海戦」との関係について、お話します。

このソロモン沖海戦が行われたのが8月7日。
この鳥海を旗艦とする第八艦隊の出撃と相前後して、同日8時、
ラバウルから坂井三郎機を含む台南空の零式艦上戦闘機17機が出撃しました。

その空戦中、ドーントレスの銃撃で傷ついた坂井が、
不自由な視力、そして流血と戦いながらラバウルに帰還ました。

この帰路のできごとを坂井はこう記しています。

(「一万トン級の巡洋艦らしい」艦二隻を認め)
「列機と別れてから初めて味方を見た。わたしは泣き出しそうにうれしくなった。
助かった。
すぐ着水したら、助けてくれるかもしれない」
「わたしは高度を下げ、この二隻の軍艦の上を旋回し、すんでのところで着水しようとした」


一方、鳥海にいた丹羽が、同日このような出来事に遭遇しました。

「爆音じゃないか」
「敵機か」
辺りが騒がしくなった。私の耳にも、闇の中からかすかな爆音が聞こえてきた。
音のありかが判らなくていらいらした。
「味方の戦闘機が一機、かえりつつあります。傷ついています」
見張員が怒鳴った。彼の双眼鏡は空の闇まで見透かせるようであった。爆音が近づいた。
艦橋にぶつかりそうに唸り声が迫った。

「無事に基地まで戻ってくれよ」
爆音がさっと艦全体を包んだように聞えた。夜目にもはっきりと機体が見えた。
びっくりするほど低いところをとび、艦とゆきちがえた。
「よたよたしてる。飛行士は傷ついているのではないか」
「基地まではかえれないだろう。不時着だ」
「水艇でないから、さあ、うまくとび出せるかな」

私は胸の中で手を合わせた。
無事に基地まで戻ることが無理であろうと、戻ってくれと祈らずにはいられなかった。
私の瞼は熱くなった。それは暗かった。


いかがでしょうか。
これを読んだとき、わたしはこれが坂井機であることを信じて疑わなかったのですが、
肝心の坂井は「我が零戦の栄光と悲劇」(だいわ文庫)で、
「それは(重巡ではなく)巡洋艦で、青葉と衣笠だったことを知った」と書いています。
この記述ゆえ、丹羽のいた鳥海とすれ違ったのが坂井機であったという見解が、
その後どこからも出て来ないのだと思われます。

しかし、その時の坂井の視力がどんな状態であったかを考えてみましょう。
片目がまったく見えない状態で、しかも出血してから相当時間がたっており、
まさにたった一人で自分の体力と気力の極限に挑んでいた坂井が、
艦の種類(全長200mの鳥海に対して青葉、衣笠は185m)を見間違えたとしても、
何の不思議もありません。

もっとも、鳥海とすれ違ったころすでに夜になっていたのに、ラバウルに着いたときには、
画像を見てもお分かりのようにまだ陽は高く、明るくさえあり、
これも丹羽が見たのが坂井機と断定するには疑わしい材料です。


しかし「傷つきながらよろよろ飛んできて艦にぶつかりそうになるまで低空飛行をした」
というこの一文から、どう考えてもわたしにはそれが坂井機であるとしか思えないのです。

これが仮にこの推測通り坂井三郎の零戦だったとしましょう。

だが、わたしは思いとどまった。
この二隻の軍艦は、ガダルカナル沖の戦場へ急いでいるのだ。
もし彼らが、わたしを拾いあげるために止まったら、
わたし一人のために、戦場に急いでいる何千人もの足を止めることになるのだ。

この坂井の判断はまさに正鵠を誤らなかったと言えます。
坂井機が着水したら、その救助のために艦船は止まったかもしれませんが、
もしかしたらこの日の夜戦に大きな後れをとっていた可能性もあるのですから。


それでは、世間と坂井の認識の如く、これが坂井機でなかったとしましょう。

「水艇でない単機の飛行機」が、零戦であるとは、素人の丹羽は判断できなかったのか、
あるいは零式の名を知らなかったのか、機種については述べられていません。
因みにこの日出撃したのは
零戦17機、一式陸攻27機、九九式艦爆9機。
この機体が零である確率は高いと思われます。

この日、台南空からは河合四郎大尉の二番機吉田元綱一飛曹
大木一飛曹の三番機西浦國江二飛曹が行方不明になっています。


鳥海とすれ違ったこの飛行機の操縦士が、この日行方不明となったこの両人のどちらかで、
かれはやはり坂井三郎のように傷つき、ラバウルを目指して必死に飛んでいたが、
この後、誰にもその最後を看取られることなく、ひっそりと漆黒の海に消えて行った・・・・・。


この考えも、そう突飛な想像でもない気がしているのですが、いかがお考えでしょうか。


 

 





最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。