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映画「英国王のスピーチ」

2012-05-28 | 映画

わたしの好きな映画の傾向。
何度か申し述べてきましたが、今一度ここにその条件を挙げさせいていただきます。

「男が」
「集団、或いはグループ、或いはペアで、一人でも可」
「何かに向かって努力し邁進し」
「それを成し遂げる」
そして、
「実話ベースであることが望ましい」

その条件に、久々に当てはまる映画を見つけました。
この「英国王のスピーチ」(原題The king’s speech)です。

1930年代、イギリス。
時の国王ジョージ5世の二人の王子のうち、皇位継承権のある兄エドワードは、
アメリカ人の人妻シンプソン夫人との恋愛に身をやつし、離婚成立した彼女と結婚したいと願い、
いったん手にした王冠を捨ててしまいます。
時期王位継承権のある弟、エドワード。これが本作の主人公、ジョージ6世。
エリザベス女王の父君です。

しかしこの王子には、深刻な問題がありました。
重度の吃音症だったのです。


吃音症(Stammering symptom)は、言葉が流暢に発音できない病気の一つです。
「さ、さ、さ、さ、さかな」というように最初の文字を繰り返したり、
「さーーーーーーさ、さかな」「-----さかな」
のように、最初の文字を伸ばしたりあるいは出て来なかったり、という風です。
人口の約2・5パーセントが持っているといわれ、その原因には大きく

神経因性(聴覚性、運動性、情動性など)
心因性(ストレス、心的外傷、アレルギーなど)
脳内調節系(運動機能、平衡感覚、ホルモン性など)

があります。
このジョージ6世の場合は、幼いころのトラウマ(X脚を矯正された、女中に虐待されたなど)
が主な原因で、これは心因性にあたるものでした。


父王ジョージ5世のの代理で務めたスピーチが吃音のため散々な結果に終わり、
妻のエリザベス妃は、夫のために「口コミ」で、優秀だという噂の言語療法士を探してきます。

オーストラリア出身で、ビール製造業者の息子であるローグは、「権威」ではありませんが、
これまで多くの人々―とりわけ一次大戦の戦闘神経症にかかっている者を―治療し、
また実績をあげてきていました。

いきなりファーストネームで呼び合うことを提案され、さらには大音響でモーツアルトを
聞きながらシェイクスピアの一節を録音させられたアルバートは、怒って治療をやめ、
「二度と来ない」と宣言してローグの診察室を飛び出してしまいます。
しかし、腹立ち紛れに聞いたそのレコードには、全く吃音の無い自分の朗読が録音されていました。

そしてアルバートとローグの一風変わったトレーニングが始まります。
果たして、アルバート、いやジョージ6世は、王として、
国民に「自分のスピーチ」で語りかけることができるのか・・・・。


この、英語のspeechには、いくつかの意味があります。
日本語の「スピーチ」の意味、そして「話し方」という意味。
この映画の題名は「英国王のスピーチ」そして「英国王の話し方」という二つの意味があるのです。

国の象徴として書かれた原稿を読む、それだけの、その一見簡単そうに見えることが、
どんなにこの吃音の青年にとって乗り越えるに困難な壁であったか。
たかがスピーチですが、そのたかがスピーチをもって、ある意味国民は王の全てを知ろうとします。

たまたま王家に生まれてきたからといって、生まれながらにその者が
王の資質を持っているわけではありません。
だからこそ、王室の血をひくものは、帝王学を学ぶ・・・・・・はずなのですが・・。

それにしても史実にも残る実際のこの兄弟王子には、少し首をかしげざるをえません。

弟は、心因性が主な原因と見られる重度の吃音症。
兄は、不倫の末、王の座を捨てて女性の元に走ってしまう。
これ、「次期国王として、一体どんな教育を施したのか」
とどちらも問われそうな事案だと思いませんか。

兄のデイビッドはこう言います。
「どうして平民は愛ゆえに結婚することができるのに、僕はだめなんだ?」
弟の吃音も、そもそも彼が王位継承者でなかったら発症すらしなかったかもしれませんが、
彼が平民であれば、また、彼にとってこれほど重たい心の枷ともならなかったはずなのです。

この兄、デイビッドと、ウォリス・シンプソン夫人のロマンスについては、実にたくさんの話が、
(誉めたたえるものや罵るものにいたるまで)数多く残されています。

決して美人ではない離婚経験者のシンプソン夫人(おまけにアメリカ人)が、
「ある技術」で、エドワード8世(デイビッド)を籠落したのだ、という話も当時からあり、
その噂についてこの映画では、チャーチルがいかにも理解しがたいといった様子で
「あの女性のどこに魅力が?」と聞くと、エリザベス妃が
「知りません。でも、その技術は上海の館で身につけたとか」
とにべもなく言い放つシーンとして描かれています。

「シンプソン夫人肯定」説によると、実に彼女は生き生きとウィットに富んだ、
いわゆる「頭の回転の速い、気のきく女性」であった、ということなのですが、この映画では
アメリカ人特有の無神経ななれなれしさ、礼儀を重んじないくだけ過ぎた態度が強調され、
実に下品な女性であるかのように描かれています。

それは、王冠を捨てて彼女を選んだ兄のデイビッドの描写にも同じことが言えます。
シンプソン夫人と結婚することを咎めた弟に向かって、デイビッドは
「スピーチの練習をしているそうじゃないか。
兄弟の王位を狙うなんて、まるで中世だな」
と、しかもアルバートのどもりを真似しながらからかうように言い放ちます。

このエドワード8世が何となくサルっぽく、どう見ても品の無い顔をしており、
そしてシンプソン夫人も不必要に不細工な女優の起用、けばけばしい化粧、
さらにシャンペンの飲み方や、アゴで侍従を使う様子に悪意が感じられます。

これはどう見てもエドワード8世サイドから文句の出そうな映画的演出です。

わたしは、このアカデミー賞、ゴールデングローブ賞を総なめにしたこの映画を、
「名作」と呼ぶのにやぶさかではありませんが、この
「実在の人物を敵に仕立てて話を盛り上げる」
という手法については、大いに疑問を唱えるものです。


吃音の原因にもいろいろあり、その原因によってアプローチは違って当然ですが、
この療法士は、まず国王を「陛下(Your Majesty)と呼ばず、ファーストネームで呼び合い、
心の垣根を少しずつ壊して行くことから治療を始めます。
その段階で、「日頃は決して口には出せない卑猥な言葉を思いっきり叫ばせる」
という治療を行うわけですが、この部分が「映画興行的に」問題となりました。

なんと、この台詞のために映画がR15(15歳以下の入場禁止)指定されてしまったのです。
監督始め制作側は
「これはティーンエイジャーが観てもよい映画である」
とこれに抗議し、レイティングはイギリスでは12A(親と同伴なら12歳以下でも観てよい)
に変わりました。
しかし、アメリカではレイティングは覆らず、製作者たちは
「ソルト」や「007カジノロワイヤル」が12AでこれがなぜR指定なのかと怒っているそうです。
ごもっとも。
こういうところは、アメリカも「本質よりもお役所仕事」が優先されますからね。
映画の内容を深く見て「これなら卑猥な言葉は表現の一手段で、児童の教育上無問題」
と判断するような、そういう組織ではない、ということなのでしょう。

ドイツがポーランドに侵攻したのを受けて、イギリスは宣戦布告します。
ここで、ジョージ8世が国民に向かってスピーチするシーンが、この映画の最後の、
そして最大の「見どころ」となっています。

マイク越しに、王と向き合って、ライオネル・ローグは立ち、
「私に向かって話しなさい 友人に話すように」と言います。
そして、指揮者のようにその手を振り、眼で励まし、時には小声で「キーワード」を投げかけつつ
一身同体となって王とそのスピーチに臨むのです。

そして・・・・・・・。


この場面で使われている音楽はベートーヴェンの交響曲第7番第二楽章
スピーチをしながら王が様々な感情と戦い、過去と戦い、しかし、ローグと共に雄々しく、
健気にも手を取り合って進んでいくその姿に、この曲の旋律が静かに寄り添います。

そして、スピーチを終えて退却する国王の姿に重なる音楽は
ベートーヴェンのピアノ協奏曲5番「皇帝」より、第二楽章。

この二曲はまさに選曲の妙です。
自分の声を聞かせないために、ローグが王にヘッドフォンをつけさせ
大音響で聴かせる曲はモーツァルトの「フィガロの結婚 序曲」
オリジナル曲も、この「健気な男の物語」に相応しいナイーブな美しさを湛えており、秀逸です。

全体的にかっちりした枠を感じさせるストーリー運びと、けれん味の無い硬質な作り、
そして「王室のある国」にしか作ることができないこのテーマ。
久しぶりに良きイギリス映画を観た、という気がしています。

ここまで書いて、わたしの好きな
「炎のランナー」「リトル・ダンサー(Billy Elliot)」
そして、この「英国王のスピーチ」
どれもが、冒頭の五つの条件を満たすイギリス映画であることに気づきました。


ところで、国王が、その家族と共に、ヒットラーの演説をフィルムで観る場面があります。
王は、多くのドイツ国民を催眠術のようにとりこにしたかのヒットラー演説を見ながら、
どんなことを演説しているのか、イギリス国王としてその内容に関心を持つよりもまず

「何を言っているのかわからないが・・・・・上手い演説だ」

と感心したようにうっとりと呟くのです。
哀しくて、可笑しなシーンでした。