一度、この悲劇の潜水艦について吉村昭氏の「総員起シ」を元に書きました。
この稿からお読みになる方のためにもう一度この伊33潜について書くと、
一度事故で沈没、三十三名の犠牲者を出した艦が、
修理の後就航十三日目にして急速潜水訓練のときに浸水、頭部弁に挟まった木片のために沈没し、
艦に残ることを選んだ和田艦長以下102名の乗員は死亡
ハッチから脱出した何人かのうち2名が生還する
9年後引きあげられた艦の前部魚雷発射室からは13名の腐敗していない遺体が発見された
というものです。
その後この小説をお読みになった方もおありでしょうか。
先日、ふとしたきっかけで、この伊33潜に父親が乗っており、事故のとき本人は母親のお腹にいた、
という方が戦後亡き父を偲ぶよすがとして作った本を手に入れました。
出版されたものではなく、ごく限られた人だけに配られたもののようです。
この伊33潜でのものではありませんが、当人のつけた航海日誌もあり、当時の新聞記事もあり、
勿論息子さん本人の幸せそうな現在の姿もあります。
この方にとって初対面の父とは、浮上してきた艦から出てきた真っ黒な頭がい骨だったのだそうです。
それには三葉の写真が添えられていました。
小説を読まれた方は
「まるで生きているかのような全部魚雷発射室の内部の遺体写真」
が六葉あった、という文章を読まれたかと思います。
そのうちの、三枚です。
最初は、何が写っているのか、全く分かりませんでした。
しかし、しばらく眺めていてこれがあの写真だ、と分かったときに背中が粟立つような感覚が
忍び寄ってきました。
「このすさまじい光景に気も転倒したのか、彼は『おい、総員起こしだ、総員起こしだ』
と叫び、戦友の名前をよんで起きろ起きろと冷たい肌を叩くのであった」
と、撮影をした村井茂氏はまたこのように書き残しています。
この一文に対し「本当だったのでしょうか」
と書いたのは戦友であった生存者が
いつ、このように遺体に触れることができたか、という疑問からです。
そして、状況的に村井氏は本当にそれを目撃したのかどうか疑わしい点があり、
村井氏以外にこのことを書いている目撃者が一人もいない、ということから、
今回あえて疑問を投げかけてみました。
この伊潜を引きあげることになったとき、当初から前部には浸水していない区画がある、
ということが話題になりました。
そのため艦を平行に保つことができず、作業は難航を極めたと云います。
海上に持ち上げられた艦のハッチからは猛烈なホルマリン性のガスが吐き出され、
作業員も取材記者団も作業母船の甲板で倒れるという事故も起きました。
ガスは外気にあたって青い炎と化し、波間であたかも人魂のようにゆらゆら点滅したそうです。
ハッチを開けてから三時間後、ガスの臭気も軽くなったと判断し、残水処理が始まったと同時に
静止する手を振り切ってひとりのカメラマンが洞穴のような真っ暗な潜内に入って行きました。
それが村井氏です。
ストロボが魚雷内部の「特用空気」に引火して爆発しかねない危険な状態でしたし、
現に遺体が全部荼毘に付されてからここに入った技術将校がガスで三人死んでいます。
この時と、遺体の運び出しをするときに何故何事も起きなかったのかが不思議でなりません。
当然のことながら、このとき潜内に入ったのはカメラマンのみ。
しかも息をできるだけ吸わず、分単位の滞在です。
遺族は勿論、関係者も潜内には入っていません。
そして遺体の運び出しは「潜水士が一人ずつ背中に背負って運び出した」ということになっています。
これは村井氏の証言です。
吉村氏の小説では
「艦内で遺体を棺につめて、ロープで狭いハッチから引き揚げた」
となっています。
この食い違いが「総員起こしだ」と生存者が本当に言って顔を叩いたかどうかの違いにも
表れている気がします。
吉村氏の小説にはこのドラマチックな記述はありません。
それが真実ならおそらく小説には書かれるであろうこのエピソードが無いのです。
これも、これが事実であったかに疑問を感じる理由です。
そしてハッチがぽっかりと口を開け、一人がそこを覗き込んでいる写真があるのですが、
そこに見えているラッタルが邪魔で、とてもではないが「そこから棺を引き上げる」
ことなど不可能であることが分かります。
棺を入れることすらおそらく全く無理でしょう。人一人がようやくすり抜けられるような穴なのです。
かといって一体ずつ背負って運びだす、というのも物理的に全く不可能です。
村井氏は遺体の運び出しの時、そこにいなかったのではないか、頬を叩いた、というのは、
また聞きの伝聞だったのではないか、と疑うゆえんです。
硬直している遺体は、たとえば写真に残っている遺体のように手足を開いたものは
「そのまま」の状態ではたとえロープで引きあげたとしてもハッチをくぐらなかった可能性すらあります。
別の写真に、伊潜の上に人数分の棺桶と大量のむしろが載せてある作業中のものがあります。
写真から推察するに、むしろで包んだものを一体ずつロープで引っ張りあげたのではないでしょうか。
そして。
この三葉の写真に映る乗員の遺体ですが、やはりどう見ても
「まるで寝ているようには」見えないのです。
大きく脚を広げて手をだらりとベッドから垂らした写真。
片足は一段上の棚かあるいは隣りのベッドにかけ、顎をのけぞらしているので顔は見えません。
そして、うつぶせの姿勢で頭を抱えこんだ遺体。
暑かったのでしょう、上半身の服は脱いでおり、その背中の若々しい肩甲骨と、
贅肉の全くない背中には背骨がくっきりと見えています。
彼は右に横向けた顔を下に回した左手とシーツで覆っていますが、
表情の部分は墨で塗ってあります。
髪は三センチから五センチ程に伸びており、これは当時の医師も不思議がっていたようですが、
九年間腐敗を免れていた区画内では、おそらく皮下細胞の死が緩慢だったのではないでしょうか。
そして、もう一枚の写真には小説にも書かれていた「直立した縊死体」が鮮明に写っています。
これらを撮るとき、区画内は真っ暗で、したがって「起きてきそう」に思われたのでしょうが、
すでにこのとき艦は気温30℃の海上に引きあげられて何時間にもなっています。
さらにハッチを開けて三時間も外気を送りこんだ結果、一番最初の写真でも
皮膚はすでに変色しきっているのが分かります。
さらに白黒の写真でも、その表面から水分が全くなくざらざらで、いたるところ表皮が剥離している様子は
鮮明です。
わずかに、爪先立った縊死体のすらりとした脚に弾力があるように見られますが、
皮膚に不気味なまだら模様がくっきりと浮き出していて、とても「生きているようには」見えません。
九年。
区画内の床に落ちている紙が、誰も触らず太陽にも当たらないのに角が破れ
自然にボロボロになるくらいです。
確かに九年経っているとは信じられない遺体の状態ではありますが、だからといって
「生きているようだった」
「呼んだら起きてきそうだった」
という証言から想像されるものとは全く違ったものがそこにはありました。
「背負って運び出す」
というのも
「頬を叩いた」
というのも、
いかにも生きているようだった遺体ならいざ知らず、
この写真に見られる無残に変色しびらんした遺体に対してはどちらも不可能である気がしていました。
吉村氏の取材や、村井カメラマンの証言が微妙に食い違っているのは、
どちらも「常にそこにいた」からではなく、周辺の話や聞こえてくることなどが
いつの間にか事実として認識されていたからかもしれません。
しかし、真っ先に駆けつけて作業を終始見守っていた二人の生存者が
最初に出てきた真っ黒に変色した頭がい骨を、
両手で、勿論素手で、しっかりと抱くようにして、小さな小さな棺に入れている写真を見たとき、
少なくとも当初の疑問が解けたような気がしました。
彼らは、前部魚雷発射室の遺体収容作業も、きっとずっと間近で見守ってきたのでしょう。
そして、デッキに引きあげられた、一人一人のあの無残な遺体と対面したのでしょう。
自分たちだけが助かり、齢三十になろうとするのに、戦友は冷たい海の底で
ずっと昔のままの歳で、こうやって「死に続けて」いたのだと知ったとき、
それが到底生きているようには見えない死体そのものであっても、
彼らが当時の面影そのままに現れた戦友に思わず
「総員起こしだ総員起こしだ」
と呼び頬を叩いたことは真実だったのかもしれないと。