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クラス・ヘッド

2010-12-11 | 海軍

画像は、海軍兵学校七〇期クラスヘッドであった、
平柳育郎中尉。
昭和一九年一月、駆逐艦文月砲術長としてカビエン沖で被弾、戦死。



このブログで何度かご紹介している映画「勝利の礎」のDVDタイトルで敬礼をしているのは、今日画像の写真と照らし合わせると、ほぼ間違いなくこの平柳中尉の兵学校での卒業式でのものと思われます。

公家顔というのでしょうか、気品のあるたおやかなうりざね顔のこの青年は、この学年だけでなく
「明らかにこの時代の兵学校生徒の中で一番優秀だった」
と言われるほどの頭脳の持ち主でした。


ご存知のように、当時の海軍兵学校は超難関校の一つでした。
時勢もあり、優秀な青年たちがこぞって士官を目指したことから
全国からその土地の「神童」というべき少年たちが集まってきたのですが、
地方では天才とまで言われるような生徒であっても

「兵学校にはむやみに頭がいい奴がいるなと思った」

と、六十八期の作家、豊田穣氏がいうように、ほとんどは「上には上がいる」と感じたようです。
その六十八期のクラスヘッドはやはり駆逐艦「風雲」の砲術長でベララベラ沖にて艦と運命を共にした
山岸計夫(かずお)中尉でした。


成績の良い生徒がどの進路を行くかというのは、明らかに戦争末期とそれ以外では事情は変わってきていましたが、一般的にクラスヘッドは例外なくこの二人のように砲術、あるいは水雷を専攻とさせられました。
「未来の連合艦隊司令長官」を視野に入れてのことです。


とくに飛行機の分野は戦争前は「成績が悪いものが行く」とさえいわれており、
それを逆手にとって戦闘機に行きたいのであえて成績で上を目指さなかった、という猛者もいたようです。

しかし、航空戦の重要さに目を向けられるようになってからは必ずしも成績の如何で方向が決まるというものでもなく、六十六期のクラスヘッド坂井知行大尉のように航空を志望する生徒もいました。
坂井大尉は、一七年十一月三十日、ラバウル上空で未帰還となっています。


しばらく前のことですが、日経新聞の「私の履歴書」に
哲学者の木田元(はじめ)氏の自伝が掲載されていました。
氏は昭和二〇年四月に入学した「最後の兵学校生徒」七八期であり、
実に四千人クラスの一人なのですが、入学してからこのような「内部の噂」を耳にして愕然とします。

「一号のときの成績によって卒業後の配属先が決まる。
そして、その配属によっていわば卒業後の生存年数も決まってくるのだ。
成績が良ければ、戦艦・航空母艦のような大きな船に乗る。
成績順に小さくなり、潜水艦から特攻用の特殊潜航艇「回天」などになると、
おのずから寿命も限られてくる」



この日のタイトルは
「寿命は成績順」気付き愕然
となっています。

五カ月とはいえ、そして学生だったとはいえ元海軍軍人がこのように語れば、
「そうか、海軍というのは成績順で寿命を決められる非情な組織なのだ」
という感想を持ちつつも読み流してしまう部分なのですが、

木田生徒の聞いた「この噂」は、どの程度の信憑性を持って語られていたのでしょうか。
いかにも生徒の間で交わされる軽口らしい話題ではありますが、
実際はどうであったかを考えると、この一文が当時からの木田生徒の認識だったのか、
そういう組織であることを強調するための編集側の意図なのか、つい疑ってしまいます。


なんとなれば、前述のように、成績優秀者は砲術などを薦められたのは事実ですが、
成績順に船が小さくなるという説には首をかしげざるを得ないのです。
平柳生徒は大和、愛宕を経たとはいえ戦死時駆逐艦乗組み。 
山岸生徒も駆逐艦乗りですし、坂井生徒は戦闘機。
六九期のクラスヘッドで戦死した山田進大尉も駆逐艦乗りです。
クラスヘッドどころか皇族の方々ですら音羽正彦大尉、伏見博英大尉と、
南方で戦死しているのです。

そもそも船が大きいと戦死しない、などという意見が、
連合艦隊が壊滅していた当時においてまだ兵学校生徒の間で語られていたとは、
全くの部外者から見ても信じがたいのですが・・・。


さて、平柳生徒に話を戻しましょう。

この「神童」平柳育郎中尉は、大正十一年五月二十三日、浦和市の生まれです。
浦和中学校より、昭和十三年十二月に兵学校へ入校しました。
入校時は五番だったそうですが、以降常に一位で、「開校以来最も優秀な生徒」
の名を欲しいままにしたそうです。

しかし、写真を見ても何となく覗えるように、
穏やかで機知に富んだ、懐の広い好青年でもあったようです。
小柄で女性的な容姿でありながら、水泳や剣道、器械体操にも秀でていて、
文武両道を地で行く生徒でした。


海軍士官として兵を統率するにあたり、平柳中尉は人心に溶け込むことを心がけたようで、
少尉時代は下士官に交じってよく酒を飲み、
「平柳少尉は未来の長官だ。あまり飲まさないように」
と同期生が注意した(そう見せかけて実は本人に向かって言ったのでしょう)という話があります。


もし命永らえて戦後の日本にあったら、どんな偉大な功績をこの世に残してくれたのだろう
と思わされずにはいられない平柳生徒ですが、母校で行った後輩に向けての演説で

「諸君はいたずらに軍人に憧れてはいけない。
軍人は一部の者だけが使命とすればそれでいい。
我々は海に出て戦うことになるが、諸君はおのおのの志を貫いてほしい」


と語ったそうです。

先日、たまたまNHK制作の
「15才の志願兵」
というドラマの再放送を観ました。

これについてはまた書くこともあろうかと(あまり乗り気ではありませんが)思いますが、
愛知一中に卒業生の配属将校(陸軍)が、時局を説き、青年の覚悟を説き、
国民としての責任を説き、その結果、熱に浮かされたように生徒が、
皆予科練を志望してしまったという実話が元になっています。

このように、陸士なり兵学校なりに行ったものは、帰郷の際に錦を飾る形で母校で演説し、
いわば後輩を「スカウト」するのが普通でした。
かっこいい短剣姿に憧れ、これをきっかけに軍人を志した若者は多くいたといわれます。
それが時流でもありましたが、先輩の「アジ演説」に、無垢で柔軟な心は、
いともたやすく煽動されてしまったようです。

しかし、平柳生徒のこの演説はそのような「スカウト演説」「アジ演説」とは趣を異にしており、
このときこの演説を聴いて、自分の進むべき道を文学に定め、後年詩人になった者もいました。


天才的な頭脳の持ち主は、また決して物事を大局によって狭窄的な視野で見ることのない
柔軟でリベラルな本物の「フレキシブルワイヤー」でもあったようです。
(アングルバーつまり鋼鉄ではなく、常に柔軟な鋼索であれというのは海軍のモットーの一つ)


文月はカビエン西方のステッフェン水道を近道する際百機近い大戦隊の攻撃を受け、
撃沈は免れましたが、執拗な銃撃に遭い上甲板の乗員は全員戦死。
腹部と胸部を撃たれた平柳中尉はラバウルの病院で息を引き取りました。
享年二十一歳。

このときかつて七十期の卒業を見送った元校長の草鹿仁一中将が、
南西方面艦隊司令官としてラバウルにおり、病院に駆け付けました。
火葬場に伝説のクラスヘッドを見送った草鹿中将はこう書きのこしました。



「彼七十期の首席として晴れの卒業式の光景なお記憶に新たなり」




参考:海軍兵学校出身者の戦歴 後藤新八郎 原書房
   回想のネービーブルー 実録海軍兵学校 元就出版社
   別冊一億人の昭和史 江田島 日本海軍の軌跡 毎日新聞社
   同期の桜 豊田穣 光人社NF文庫