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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「灰色の淑女とダンス」潜望鏡今昔物語〜潜水艦「シルバーサイズ」博物館

2023-03-09 | 歴史

前回に続き、潜水艦「シルバーサイズ」プレゼンツ、
「潜望鏡の歴史」についてです。


第一次世界大戦の終わりまでに、潜望鏡のほとんどの問題は解決しました。

初期の、取り込まれる映像の見にくさという問題については、
大きな筒の中に2本の望遠鏡やレンズを挿入することで、
画像を拡大したり明るくしたりして解決がなされます。

大きな安定した筒を使うことによって、画面の安定性と、
表面の画像の乱れを軽減し、小さな潜望鏡ヘッドで先端を補足して
画像のバランスを取るというふうに改良されていきました。

レンズとミラーの調整の際、位置合わせをしやすいように、
潜望鏡は二重の筒芯で構成されていました。

外側は圧力と伸縮に耐える厚みを持った素材で、
そして光学系は内側の筒に収容することで衝撃を受けにくくなります。

■ 潜望鏡の発展

潜望鏡には、

反射型(リフレクティング)Reflecting
と屈折型(リフラクティング)Refracting、

leとra、ちょっと違いで全く違う二つのタイプがあります。


   反射型潜望鏡            屈折型潜望鏡

「反射型潜望鏡」は単純に鏡を使用して、
筒の長さの方向に光を反射するものです。

右は屈折型潜望鏡ですが、こちらは鏡の代わりにプリズムを上下に置きます。

上部のプリズムは映像から光を集め、その光を
潜望鏡の筒の長さをつなぐ一連のレンズと2本の望遠鏡を通して、
2番目のプリズムに跳ね返すことで像を送ります。

このプリズムが光を反射して、2枚のレンズからなる二次鏡筒に入り、
接眼レンズで見ることができるのです。

プリズムは反射面にコーティングを施す必要がなく、
鏡より頑丈であるため、鏡よりこちらの方が重用されました。

しかし、入ってきた光がチューブを通る段階で、
どうしても暗くなってしまう
という問題がありました。

潜望鏡開発者たちはこの解決策を見つける必要がありました。


潜望鏡の中で映像が暗くなる理屈はこういうことです。


懐中電灯のビームが、照らした面から遠ざかるにつれて光の輪は大きくなり、
それに従って明度は落ち、暗くなります。

潜望鏡の中で起こるのがこれと同じ現象です。
取り込まれた画像はチューブを降って移動するうち、
距離があればあるほど、ぼやけてかすかになり、見えなくなるのです。

これを解決したのがアイルランドの光学設計者、


ハワード・グラッブ卿(Sir Howard Grubb)1844−1931

という人でした。


これは手持ち用の接眼機ですが、
彼の工夫は赤い部分に内面が銀色に塗装された板ガラスを仕込むことで、
凸面ガラス(Concave)によって取り込まれた像を明るく保つことです。





こちらが、初期の潜望鏡のアレンジメント。
チューブの端にはミラーもプリズムもないことに注意してください。
Lは「レンズ」、Iは画像です。

最初の潜望鏡はレンズだけだったのに驚かれるでしょうか。



こちらがグラッブ卿のアイデアによるのちの改良版。

潜望鏡では、一連のレンズをチューブの正確なポイントに挿入し、
光の焦点を合わせたり、最焦点を合わせたりすることで問題を解決しました。

レンズのさまざまな曲がりが収縮、拡大、反転を繰り返し、
人の目に入る前に画像が出来上がっていることに注目してください。

これにより、画像を明るいまま焦点を合わせることができ、
潜水艦を安全に水中に保つために必要な長さまで
潜望鏡を伸ばすということができるようになったのです。

しかし、筒の中にこれだけのレンズがあるのも大概じゃね?

と思われたあなた、あなたは正しい。
その後、この連続したレンズの組み合わせは、
我々が知るポピュラーな仕組みへと発展していったのででした。



その後、引き込みの仕組みができ、潜望鏡は
使用していない時には潜水艦内深くに引き込むことができ、
波の上でそれが発見されにくいようになっていました。


それから第二次世界大戦になっても、潜望鏡は
「シルバーサイズ」に搭載されているような古典的な外観のまま、
何十年もの間、ほとんど変更されず、実質同じ仕組みが使われていました。



もちろんその何十年もの間、テクノロジーの発達により
倍率などレンズの性能に関わることは向上しましたが、
この第二次世界大戦時の潜水艦「マッケロー」の写真のように、
潜望鏡を手で引き下ろし、ハンドルを握りながら覗き込み、
潜水艦が沈降していく時には、ギリギリまで外を見るために
潜望鏡を引き下げながら自分の体を床に屈めていったりするのです。

それは、奇しくもアメリカ海軍の潜水艦員たちが
「潜望鏡を覗く」の同義語として使う、
"Dancing with the Grey Lady"
(灰色のレディとダンスする)


そのものであり、それは潜望鏡が発明されてから
ディーゼル潜水艦、原子力潜水艦と動力が変わっても
それだけは全く変わることがありませんでした。


USS「ペンシルバニア」で灰色淑女とダンス 1990年代

「ダウン・ペリスコープ」「アップ・ペリスコープ」

という命令は、潜水艦映画で何度も聞くフレーズです。
"Dancing with the gray lady "
とは、潜望鏡を覗きながら見張することそのものなのです。


■ ニュータイプのペリスコープ


コンセントが邪魔〜

ところが時代は進みました。

潜望鏡が「灰色の淑女」ではなくなったのは、
「バージニア」級潜水艦と共に最新鋭型の光学機器がデビューした時です。

「バージニア」級とロイヤルネイビーの「アストゥート」級潜水艦
いずれも潜望鏡を搭載していません。

その代わり、使用しているのが
フォトニック・マスト(Photonics Mast)であり、
水面上に持ち上げるのは潜望鏡ではなく電子画像センサーキットです。

わたしも、「そうりゅう」クラスの潜水艦を初めて見学した時、
すでに潜望鏡という、あのおなじみの「灰色のレディ」は影も形もなく、
外の画像を皆で画面を見ることで認識するようになっていたので、
それこそ価値観がひっくり返るような衝撃を受けたものです。

ところでここでちょっと考えてみましょう。

技術の進歩の過程で真っ先になくなると言うことは、
それなりに変えていかなくてはいけない大きな理由があったはずです。
従来の光学式潜望鏡には、2つの問題がありました。

1つは
潜望鏡を格納するための潜望鏡井戸のスペースの確保

それは艦の高さいっぱいいっぱいが必要なので、その大きさゆえに
セイルや内部のコンパートメントの配置が制約が生まれます。

もう1つは、レディと親密にダンスをできるのは一人だけ、ではなく、
=潜望鏡は一度に一人しか見られない
という、地味に深刻な問題です。



海軍は、この2つの問題を解決するために、
AN/BVS-1フォトニクス・マストを開発しました。

2004年にデビューした「バージニア」級攻撃型潜水艦が、
フォトニクス・マストを搭載した史上最初の潜水艦となりました。

フォトニクス・マストは、艦体を貫通せず(つまり格納されない)
昔の車のアンテナのように、伸縮自在に伸び縮みし、
従来の光学式潜望鏡の画像処理、航法、電子戦、
通信の機能を全て変わりなく提供する機能を持ちます。

フォトニクス・マストには、光学式潜望鏡のプリズムやレンズの代わりに、
電子画像処理装置が使われるのが大きな違いです。

センサーユニット、複数の電気光学センサーは、
回転するヘッドに設置されて、海面から突き出しています。



マストの中には、カラーカメラ、高解像度白黒カメラ、赤外線カメラ
3つのカメラが搭載され、それぞれがイメージを捉えます。

また、耐圧・耐衝撃構造のコントロールカメラと、
正確な目標範囲を提供し航行を支援する
アイセーフレーザーレンジファインダーもマストに搭載されています。




以前ならセイルの先から艦底まで必要だったペリスコープウェル(井戸)も、
これならセイルの中だけで収納ができます。




ペリスコープウェルが小さくなると、ボートの制御室の位置を
より自由にレイアウトすることができるようになります。



従来のレイアウトはまず潜望鏡ありきなので、
潜望鏡を必要とする制御室は狭い上甲板に置かざるを得ませんでした。
ここしか井戸を設置するのに必要な深さがないからです。

左、「バージニア」以前、右、「バージニア」
紫が「ペリスコープ井戸」

「バージニア」級では、制御室はより広い2階デッキ(第2甲板)
に配置され、より開放的なレイアウトになったというわけです。



これは見つかりにくい?
「バージニア」級潜水艦の潜望鏡



さて、フォトニクス・マストが取り込んだ画像は、光ファイバーで
2台のワークステーションと司令官用コントロールコンソールに送られます。

「バージニア」級に2本備わっているフォトニクス・マストは、
これらのどのステーションからでもジョイスティックで操作できます。
ジョイスティックたらあれですよね。
ゲームのコントローラーみたいな。
なんでも「もがみ」型の操縦もこれだと最近聞いたな。

各ステーションには、2台のフラットパネルディスプレイ、
標準的なキーボード、トラックボールインターフェイスが設置されています。
画像は全て媒体に記録されます。

(この辺りの技術も日進月歩なので、iPhone並みに
アップデートが加えられていっているでしょう)



ちなみに現在フォトニクスマストを搭載した潜水艦を建造する国は
米国の他はロシア、英国、日本、フランス、中国のみとなります。


■ エンドスコープ Endoscopes 内視鏡



エンドスコープというと聞き慣れませんが、要は内視鏡です。

この偉大な発明のおかげで、今回わたしも、
一昔前ならたいへん痛みを伴った副鼻腔炎の手術を
快適かつ安心して受けることができたわけです。

そして今回調べてみてちょっと嬉しかったのが、この内視鏡が、
ある意味ペリスコープの一つの発展形と考えられていることです。


胃の内視鏡検査のための先端機器

その恩恵を激しく被ったばかりで全く他人事ではないので、
わたしの受けた歯科性副鼻腔炎による炎症除去手術で説明します。

たった10年前まで、わたしのような症状の患者に対しては、
「経上顎副鼻腔手術」と言って、歯肉(上唇の裏)部を切開し、
上顎骨の一部をノミで除去、上顎洞を中心として粘膜を極力除去、
という、読んだだけで痛くなるような術式が用いられました。

アメリア・イヤハート(頬に膿を排出するためのパイプを出していた)
の頃の手術ほどではないにしろ、10年前のこのやり方だと
術後の痛み、顔の腫れが強い、術後に頬部のしびれ感が残ることがある、
出血が比較的多い、入院期間が長い(両側で2~3週間)、
副鼻腔が本来の生理機能を失う可能性がある、
将来的に膿や粘液が貯まる術後嚢胞という別の病気が発生する事がある、
と、受けるかどうか選択の余地を迫られるものだったのです。

ところがESS(内視鏡下副鼻腔手術)だと、鼻の穴から手術操作を施行、
鼻腔と各副鼻腔の隔壁を開放、病的粘膜のみを除去するだけなので、
術後の痛みが少なく顔の腫れはほとんどなし。

出血が比較的少なく入院期間が短い(両側で1~3日間)、
副鼻腔の生理機能が比較的保たれ、術後嚢胞の発生頻度がきわめて少ない、
とありがたいことばかり。

術者は手術野をはっきりと見ることができ、
手術に必要な切開量は10年前と比べても遥かに小さくなっています。

この10年での変化ですらこれくらい進歩しているように、
内視鏡を使用して行われる医療処置はますます増えていくのでしょう。


内視鏡で見たウサギの肺
最近は獣医も医師と同じくこのテクノロジーを用いて治療する

画像はレンズではなく、デジタルケーブルを介して伝送されるため、
内視鏡は、従来の潜望鏡よりも、どちらかというと
フォトニック・マストとの共通点がより多いと言えます。



それでも、ペリスコープのように、
直接見ることができない部分を見ることができる点は同じ。

内視鏡の発展のその最初の地点には潜望鏡があった、
というのはあながち間違いではありません。

ありがとう潜望鏡(迫真)

続く。




宇宙開発競争と世界初の弾道ミサイルV2〜スミソニアン航空宇宙博物館

2023-02-11 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙開発競争コーナーは、コーナーというには大規模な
ワンフロア全てを占めるその資料によってその歴史が語られています。

■ スペースレースとは

第二次世界大戦後、最強国となったアメリカとソビエト連邦は、
軍事力の均衡を保ちつつ相手を牽制し合う冷戦に突入します。

半世紀にわたり、二つの超大国は、その思想御社会構造の違いから、
方や民主主義国、方や全体主義的共産主義国として、
世界一の覇権を手にするべく、互いにその優位性を競い合ったのです。

そして宇宙は、このライバル関係の重要な舞台となりました。

宇宙空間を舞台としたロケット工学や宇宙飛行の分野で互いが鎬を削りあい、
世界の注目を浴びながらその優位性を示そうとしたのが、
いわゆる米ソ宇宙開発競争です。

宇宙開発の分野は、また、敵を監視するためのツール(秘密衛星)
として、発展していきました。

そして、これから述べていく様々な研究とその実行において、
あるときは成功し、あるときは失敗で貴重な人命を失い、
互いの国の総力を上げて宇宙を目指すための技術を積み重ねていきます。

しかし、冷戦の間、宇宙という一つの方向を見続けたことは、
いざ冷戦が終わってしまうと、そのわだかまりも消えることになりました。
一発の砲火も交えなかったことは、雪解け後の和解もスムーズだったのです。

冷戦終結後、アメリカとロシアは宇宙ステーションの建設など、
宇宙での共同事業に合意することになりました。

恐怖と敵意から始まった競争は、冷戦終結後はパートナーシップに変わった
・・・・・と果たして言えるかどうかは断言できませんが。

アイゼンハワー大統領は、ソ連がスプートニクを打ち上げた、
いわゆる「スプートニック・ショック」の一年後、このように述べました。

「ソ連の脅威が歴史上ユニークなのは、その包括的なものであることだ。

人間のあらゆる活動は、拡大のための武器として利用される。
貿易、経済発展、軍事力、芸術、科学、教育、思想の世界全体・・・。

全てがこの拡大のための戦車に繋がれているのだ。

つまり、ソビエトは完全な冷戦を展開しているのである。

全面的な冷戦を展開する体制に対する唯一の答えは、
全面的な平和を実現することである。

それは、私たちの個人的、国民的生活のあらゆる財産を、
安全と平和が育つ条件を構築する仕事に投入することを意味する。

我々は、ほんの少し前までは、長距離弾道ミサイルに
年間100万ドルしか使っていなかった。
1957年には、アリアス、タイタン、トール、ジュピター、
ポラリス計画だけで10億ドル以上を費やした。

このような進歩は喜ばしいことではあるが、
だかしかし、まだもっとやらなければならない。

つまり、私たちの真の問題は、今日の強さではなく、
明日の強さを確保するために今日行動することの必要性なのである」

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領、1958年

アイクの言う「強さを確保するための行動」とは
具体的にはどのようなことを指すのでしょうか。

アイゼンハワーのこの演説の年、アメリカでは
初の衛星、ヴァンガード1の打ち上げを行なっていました。



ヴァンガード1号は太陽電池パネルを利用した最初の衛星です。
当初はソ連にえらく遅れをとっているとされていたアメリカの宇宙開発ですが、
ちな、このヴァンガード1は、地味にまだ軌道を回っており現役です。

当初の見積でも軽く2000年間は保つと見込まれていましたが、
いろいろ訂正があって結局寿命240年というところで落ち着いています。

ヴァンガード1は、打ち上げ当時と抵抗特性は基本的に変わっておらず、
今日もせっせと大気のデータを地球に送り続けており、
「最も長い間宇宙に存在している人工物」
の輝かしいタイトルを持っています。

とはいえ、この頃総力を上げて宇宙開発に取り組むソ連に対し、
アメリカは周回遅れというくらい後塵を拝する屈辱的な状態が続き、
1961年、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは演説を行うのです。



「最後に、もし私たちが今世界中で起こっている、
自由と専制政治の間の戦いに勝つためには、
1957年のスプートニクのように、
ここ数週間に起こった宇宙での劇的な成果、この冒険
世界中の人々の心に与える影響を私たちが知らなければならない」

ジョン・F・ケネディ大統領、1961年5月25日

1961年初頭にアメリカはチンパンジーを打ち上げる実験を成功させ、
演説の少し前になる5月5日には、ついにアメリカ人宇宙飛行士、
アラン・シェパードを宇宙に打ち上げることに成功しました。

しかし、ソ連がボストーク1号でガガーリンを打ち上げたのは
そのわずか1ヶ月前でした。

しかもガガーリンの軌道上打ち上げに対し、シェパードはただの打ち上げ、
と見かけこそ大きく差がついていたということになりますが、
さすがと言うのか、この時のケネディの演説は
シェパードの「遅れをとった成功」をさらに国民の希望へと押し上げます。

我々は、月に行くべきです。
しかし、この国のすべての市民と議会のメンバーは、
私たちが何週間も何ヶ月もかけて注目してきたこの問題を、
慎重に検討して判断すべきだと思います。

なぜなら、この事業はあまりに負担が多いので、

それを成功させるために働き、負担をする覚悟がなければ、
米国が宇宙での立場を得ることに同意したり、
望んだりする意味はないからです。

しかしもしその覚悟があるなら、今日、今年中に決断しなければなりません」

そしてさらに翌年、1962年、同じくケネディ大統領はこう言いました。

「宇宙開発競争において、私たちは長い道のりを歩んでいます。
私たちは遅ればせながらスタートしたのです。
これは新しい海であるが、アメリカ合衆国はこの海を航海し、
どこにも負けない地位を築かなければならないと私は信じています」


ジョン・F・ケネディ大統領、1962年

■ 宇宙戦争の「軍事起源」

アメリカの「航空の父」、ハップ・アーノルド将軍はかつてこう言いました。

「次の戦争は、海戦で始まるのでもなく、
ましてや、人間が操縦する飛行機の攻撃で始まるのでもない。
一国の首都、例えばワシントンに
ミサイルを落とすことから始まるかもしれない」


彼がこの「未来」を予言したのは、1945年のことでした。

その予言が当たったのかについては諸説あるかと思います。
なぜなら、戦争の始まりというものは、作為的にせよそうでないにせよ、
小さなきっかけから、というのが今のところ定石となっているからです。

しかし、始まりはともかく、攻撃はミサイル発射とイコールであることは
今現在の世界において全ての人々が周知のことでありましょう。


その後冷戦が始まると、米ソの戦略家は同じ課題に直面することになります。

戦争になった時、いかにして敵の心臓部を素早く攻撃するか。

第二次世界大戦後から出現し始めたロケットは、
次世代の新しい戦争のスタイルを予感させました。

それは、核爆弾を世界中のどこからでも敵国土に届けることができること。

それゆえ戦争は前触れもなく、突然、決定的に始まり、
そして戦う前に終わるかもしれない、ということを意味します。

そして地球を横断する爆弾を搭載できるロケットは、
当然ながら機械や人間を軌道に乗せることもできます。

宇宙開発競争は、とどのつまり長距離兵器の開発競争でした。
この両大国アメリカとソ連にとって、宇宙開発用も戦争用も技術は同じ。

宇宙開発競争の名の下に、アメリカとソ連は「長距離兵器としての」
ロケットを製造するようになったということになります。

ところで宇宙開発戦争において、どうしてソ連が当初リードできたかですが、
当時のアメリカはまだ武器の主流が爆撃機であったのに対し、
ソビエトは最初からミサイルを念頭に置いて、
国家単位で戦略的に開発を行ったからでした。


■V-1ミサイル〜巡航ミサイルの元祖



第二次世界大戦後、ソ連とアメリカが目の色を変えて獲得しようとしたのは
ドイツのロケット技術と技術者でした。

ドイツは第二次世界大戦中にミサイル兵器の開発を行っており、
ミサイルに核を積むと言う戦略の未来予想図を思い描く両国にとって
これらはとりあえず喉から手が出るほど欲しいものだったのです。

1944年6月に実戦投入されたドイツのV-1は、世界で初めて実用化された
「巡航ミサイルの元祖」で、スミソニアンに本体が展示されています。

(が、わたしはこの”小さな飛行機”がV-1だと夢にも思わなかったため、
ちゃんと写真を撮っていませんでした。
わたしが撮った写真は巡航ミサイルの後ろにかろうじて写っていたもので、
どこかしらが欠けてしまっています)

V-1のVはビクトリーと言う英語の意味ではもちろんなく、
(どうでもいいけど日本の女子って写真撮る時なんでVサインするんだろう)
ズバリ「報復兵器」Vergeltungswaffeを意味し、
宣伝省大臣、ゲッベルスの命名でした。



パルスジェットで発射されるV-1は、ヨーロッパの都市に向けて
何千発も発射されましたが、(1日平均102発、全部で2万1千770発くらい)
案外低速で精度が低い上、迎撃され、撃墜されやすいものでした。

とはいえ、イギリスに到達した時の死傷者は2万4千165人もおり、
ロンドン市民にとっては大変な脅威となっていたのも事実です。


V-1着弾後、瓦礫の下の生存者を探す民間防衛部隊と消防隊員

連合国ではこれを「バズボムbuzz-bomb」(ブンブン爆弾)とか、
「フライングボム」などと呼んでいました。

ブンブン爆弾って可愛いんですけど。



前にもこの「報復兵器」についてお話ししたとき、
ヒトラーの最終目的はイギリス国民の戦意の喪失だったのが、
彼らのモラル(戦意)はこんなことでは失われなかった、
と言うことを書いたのを思い出しました。

国民全体の戦意を喪失させるまでの爆撃はこの爆弾には不可能で、
せいぜいロンドン市民を恐怖に陥れるくらいが関の山だったともいえます。

つまり、住宅地を狙って国民の戦意を喪失させるより、
戦略地域や軍事施設を狙えばそれなりの効果はあったはずなのですが、
巡航ミサイルの元祖として記されるべき存在と言いながら、
如何せん当時の制御技術ではV-1の誘導着弾は不可能でした。

■ 世界初の弾道ミサイルV-2


というわけで、スミソニアンには本来V-2ミサイルが展示されています。
この写真では手前に見えている白黒市松柄のロケットがV-2です。

が、わたしが訪れた時、V-2の展示は(断じて)ありませんでした。
どこかに貸し出されていたのかもしれません。



もしこんな実物を目にしたら目の色変えて写真撮っちゃうはずだしね。
ちなみにこのV-2の左上にチラッと見えているのがV-1です。

見るからに凸凹ですが、長年乱暴に扱われた結果でしょう。

V-2(Vergeltungswaffe zwei)は、
遠隔地攻撃のために使われた最初の弾道ミサイルでした。

現代における最初の長距離弾道ミサイルであり、これこそが
今日の大型液体燃料ロケットや発射体の祖先と言ってもいいでしょう。

ドイツ陸軍兵器局は、1930年代から長距離ミサイルの開発を目指し、
ロケットエンジンを搭載した航空機の開発を模索していました。

そして1942年10月、バルト海に面したドイツのペーネミュンデから
液体燃料のV-2ミサイルを初めて発射し、成功させたのです。

先代のV-1はイギリス、ベルギー、フランスに多大な物理的、
かつ精神的損害を与えることに成功し、これに続くV-2は、
さらに決定的なテロ兵器となるはずでしたが、ここでも問題が。

このロケットは精度も信頼性もコスト効率も良くありませんでした。

とはいえイギリスに対して発射されたロケット弾は週平均60発ほど。

戦争の残りの期間には3,200〜600発が連合国側に向かって発射され、
このうち、1,115発がイギリスに到達し、1,775発が大陸の目標に命中、
ほとんどはベルギーに向けて発射され、パリにも19発が命中しています。

V-2による死者数は約5,500人、重傷者数は6,500人、
V-1、V-2両兵器によって破壊された家屋や建物の総数は約33,700棟。

それなりに兵器としては成功したといえますが。

戦後、アメリカと他の連合国は、
この革命的な新技術のノウハウを獲得するために、
V-2本体、文書、V-2技術者をできる限り多く捕獲しようと奔走しました。

その中には、イギリス、フランス、そしてソ連が含まれていました。

イギリスは、「バックファイア作戦」「クリッターハウス作戦」
V-2を打ち上げる実験を行なっています。

フランスはヴォルフガング・ピルツをはじめとするV-2研究者の協力を得て、
初の液体燃料ミサイルを完成させました。
この技術はのちにV-2と外観が似ている
ヴェロニク型観測ロケットに生かされることになります。

ヴェロニク


V-2とソ連の研究

そしてソ連です。

1945年5月5日、ペーネミュンデを占領したにもかかわらず、
避難してきたドイツ軍が大部分を破壊し、有用な資材も奪われました。

しかし、ソ連はその後占領したノルトハウゼンから貴重な資料を押収し、
この地域にロケット研究所を設立し、多くのV-2を再建しました。

数千人のドイツ人技術者、科学者、技能者とその家族がソ連に送られ、
その結果、ソ連は復元V-2を発射することに成功しています。

ソ連はV-2の基本技術を大幅に改良しいくつかの派生エンジンを製造。
1948年初めて打ち上げに成功したR-1は、ロシアでは初の
「国家的ロケット」とされていますが、外観はV-2とほぼ同じでした。


つくづく思うV-2の完成度の高さ

R-2は上層大気の研究や、生物学的研究のためにウサギや犬など
動物が打ち上げられ、最終的には
宇宙飛行を視野に入れた研究へと移行していきます。

V-2とアメリカの研究

アメリカもまた、V-2技術が出現するとほぼ同時に入手計画を始めています。

1944年、最初のV-2がパリとロンドンに向けて発射されてから2ヶ月余り後、
米陸軍兵器部隊はゼネラル・エレクトリック社に、捕獲したV-2を研究させ、
ドイツの設計に基づくミサイルを開発する契約を結んでいるのです。

これはプロジェクト・ヘルメスと名付けられました。

1945年5月、ソ連軍が進駐する前に米軍はミッテルヴェルクに入り、
100機のV-2の部品が米国に輸送されました。
そのうちの2機はスミソニアンに引き渡されたと推定されています。

この間、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士とその主要メンバーが
降伏してきて、アメリカはいえーい!と喜びました。

ペーパークリップ作戦(当初はオーバーキャスト作戦)のもと、
最終的に118名が弾道ミサイルや後の宇宙開発用ロケットの開発に関わります。

1946年、アメリカでV-2の静止発射が行われ、1947年には、
パラシュートによるV-2ノーズコーンの陸上回収に初めて成功。

ケープカナベラルのロングレンジ実験場(後のケネディ宇宙センター)では、
合計で67回のV-2の飛行が行われています。


戦後、アメリカやソ連は鹵獲したV-2をもとに、ロケット開発を行いました。
それは次第に変遷を遂げ、究極の兵器を得るという大国の欲望は
ICBM、巡航ミサイル、大陸間弾道ミサイルに結実していくのです。


続く。




窓猫とアレゲニー墓地〜ピッツバーグ雑感

2022-08-28 | 歴史

■窓猫コレクション

わたしたちが住んだ地域の住居には、思い出すだけで数匹の「窓猫」がいて、
住んでいる間にすっかり顔馴染みになったりしました。



この子は一度紹介していますが、着いて早々
AirbnbとMKの職場の中間地点で発見した
「リベラルキャット」
飼い主は急進派リベラルらしく、猫ベッドの横に「堕胎禁止令反対!」
のアジビラを掲示していたことから。

猫を見る人はビラにも注目してくれるというわけです。


夜、近道をしようと思って細〜〜〜い道を通り抜けていたら、
夜なのに窓の外を見ている三毛猫がいました。

片側にびっしり駐車してあって、通り抜けるのも大変な道でしたが、
通り過ぎた後、わざわざ3mほど戻って写真を撮りました。


いつもスペースが空いている道路の前にお住まいの気品ある猫嬢。
極限の狭い道に縦列駐車していると、むっちゃこっちを見てきます。


あまりの気品に「其方は・・・」とか喋りそう、ということで、
名前が「そなた」になりました。



これも車でぐるぐる回っていると時々お見受けする角の窓猫。
毛がみっしりと密集している=denseから「でんすけ」。



別の日、でんすけの待機位置がいつもとちょっと違っていました。



窓枠に虫か何かを見つけたらしく、そちらを見てヒゲ袋を震わせる、
「かかか」鳴き=クラッキング(英語ではchatterling)の真っ最中でした。

クラッキングは獲物となるもの、例えば窓の外の小鳥や高い所の虫など、
何か気になるものが見えるけれど猫の手が届かないところにある時、
猫が例外なく行う鳴き方です。


最後にでんすけを見た時、彼は(多分彼)伸びの真っ最中で、
これまで見た猫史上初めてというくらい長く伸びていました。


1階の道路脇の窓にばかり注意が行きがちですが、たまに
2階の窓猫を発見することもあります。
鼻の模様から「コアラ」と名付けたこの猫は、
ご飯の後だったらしく、口を盛んにぺろぺろしています。


いつも散歩する公園で、初めて道路沿いに亀がいるのを見ました。



この亀は確かグランドラピッズで見たのと同じ、
アメリカ大陸に生息するニシキハコガメだと思われます。

今調べてびっくりしたのですが、日本ではペットとして売買されていて
ペットショップでは25〜50万円の値段がつくんだとか。

世の中にはこんなもの?にそんな大枚を叩く人がいるんですね。

まあもっとも、亀と同じくらいの値段がつけられたブランドバッグに対し、
たかが鞄にそんなの信じられない、という価値観だってあるわけですが。



公園で歩いていたら、右の茂みから道を横断しようとしていた鹿の一群。
大人の鹿はもう道を渡って反対側にいましたが、そこにわたしがきたので
この子鹿ちゃんは人間に対してビビりまくって固まってしまっています。



すると、後ろから来た若い鹿(多分お兄ちゃん)が、鼻の先っちょで
子鹿をちょんちょん、と突いて、渡ることを促していました。

「ここの人間は悪いことしないから、大丈夫、早くいきな」

といっているようでした。

■ アレゲニー墓地



ピッツバーグに来るようになって以来、何度かこの
アレゲニー墓地については(特に南北戦争関係の記事で)取り上げました。

今回泊まったアパートはこの近くだったので、
ある日思い切って墓地の中を車で通過し、その後、お天気の良い日に
中を散歩してみました。


お墓の中を歩くなんて、と日本人は思いがちですが、
アメリカで墓地はちょっと静かな公園のように認識されている節があり、
この日も歩道をジョギングする人や散歩する人、
ベンチで読書する人などの姿がところどころ見られました。


アレゲニー墓地(Allegheny Cemetery)は、ペンシルバニア州最古にして
最大の埋葬地で、創設は1844年です。


これは創設時当時のままの石造りの正門で、時代を表して
入り口は車がやっと1台通れるくらいの狭さなので、
実質車の出入りは建物の後ろに設けられた道路で行います。

建物左側は墓地の総合事務所となっていて、
これからの「死後の住処」を求める人のための手続きや、
お墓のメインテナンスなどを行っています。

1800年からある墓地に、土葬を新規で受け付けるほど場所があるのか?
とつい心配になりますが、少なくとも中を車で一周したところ、
まだまだスペースに余裕はあるように見受けられました。

とはいえ、墓地事務所としては、年々場所を売っていく関係で、
火葬を推奨する方向のようで、この写真の右側にもその宣伝があります。

あと、墓地を回ってみて、新しく入居する人たちのために、集団霊廟、
ちょっとお手頃な棺のアパートみたいなのがありました。

火葬はしたくないという人向けで、棺をそのアパートの外から
郵便受けのような感じで並べて差し込む形で埋葬?します。
もちろん霊廟の中にも名前があり、そこで死者を偲ぶこともできます。

棺の収まっているスペースに墓碑銘と生年月日、死亡月日が書かれますが、
よく見ると多くの人がまだ生きていることもわかります。
その人たちのほとんどは、連れ合いを亡くして葬り、その隣についでに?
自分の終の住処を用意した未亡人や残された夫でした。



名も無き一般市民の小さな墓石、たった一人の名前が刻まれた
豪壮な霊廟と、その佇まいはその人物が生きていた時の社会的地位を
そのまま表していて、なかなか感無量です。

中には、一族の霊を守護する天使の像を誂えてしまう人も。



ジェームズ B. ホッグの復活の天使
Angel of the Resurrection on James B. Hogg monument


ホッグ家はペンシルバニア州のいわゆる名家で、
ほとんどが銀行業や販売業、運輸、ガラス製造の会社を持っていました。

このジェームズというのは、ピッツバーグで企業をいくつも構えていた
ジョージ・ホッグという人物の息子ジョンの子供のようです。

ジョン・ホッグも第一国立銀行の創設者という人物ですが、
このジェームズに関しては情報がないだけでなく、
記念碑が建てられたのは父親のジョンが29歳の時なので、
もしかしたら、ジョージは幼くして死んだ子供であり、
その死を悲しんだ両親が、息子の霊を見守ってくれる天使の像を
高名な彫刻家に依頼したのではないかと思われます。

このエピソードを知って像を改めて見ると、天使は
地上を指差しているようですが、これはちょうど
そこにジョージが眠っているということなのかもしれません。




墓地は二つの大通りの間に挟まる形であり、
右手のペンアベニューから左手のバトラーストリートまで
中では結構ダイナミックな高低差の斜面になっています。

その中間地点くらいに、池がありました。
カモやリス、ガチョウ、うさぎなど、墓地の中は
動物たちにとっても安逸の得られる住処となっています。



中は普通に車道になっていて、夕方に門が閉められるまでは
中に誰でも自由に入っていくことができます。


YouTubeを検索すると、夜中の3時にガイガーカウンターみたいなのを持って
忍び込み、霊の存在を証明するようなことをしている人もいるようですが、
これは墓地に許可を取ってるんでしょうか。




これは最初に車で中を走ってみた時のもの。
どんよりとした曇天の墓石の間を何人かが走り回っていました。

中を歩いたときには、ふと傍の墓石に目が止まることがありますが、
小さいサイズの墓標により、そこにいるのが
1800年代にわずか6歳で亡くなった子供であることがわかったりします。

するとわたしは100年以上前、たった6年しかこの世にいなかった
アメリカ人の女の子のことについて、色々と考えずにはいられないのでした。

とまれ、墓地というのは、生きている人間に
生と死の彼我を考えさせる場所でもあります。


■グルメ


コロナ以降、テイクアウト中心の店がとても重宝がられて、
このサラダ専門店も、今年になって新しく3号店を構えました。

ここは周りをUPMC(ピッツバーグ大学医学部病院)の施設に囲まれていて、
ランチを食べにくる医療関係者の姿がいつも見られます。

右の女医さんは、製薬会社かおそらく保険関係のセールスの人と
ビジネスランチをしているところです。



わたしが頼んだのはEL JEFE(エル・へフェ)
エルヘフェはスペイン語でシェフのことなので、おそらく
「メキシコ風シェフサラダ」だと思います。

そういえばシラントロやアボカドは標準装備でした。


カーネギー自然史&美術館併設の『The Café』は、
今年の5月にMKが学部の卒業式をした後お昼を食べに来ました。

ただのカフェではなく、もちろんサンドイッチやバーガーもありますが、
ここの得意はラージプレートやこんなスープなのです。

メニューにはちゃんとシェフの名前(女性だった)が記載されています。

これは、確かスイカのガスパッチョ。



珍しいタマリンドの実を使ったエビのソテー。
ソースはタマリンドの色をしており、赤いのはトマトではなくスイカです。


この昼食の後、わたしたちは兼ねてからここで公言していた、
カーネギー・サイエンスセンターのUSS「レクゥイン」の見学をしました。

色々問題のある見学でしたが、そんなこともまたここでご報告します。


MKの卒業した学校は、新しく校舎を増設する工事が進んでいます。
この時アパートからモニターを学校に持って行って、
彼はそれ以降IDを返却しましたから、これが建物内に入る最後になりました。

中を歩いていると、高校生らしい一団が、現役学生に連れられて
「学内ツァー」を行なっているのとすれ違いました。

アメリカでは国土が広いため、実際行ったことがない大学に願書を出し、
合格して初めてそこに行くという学生がいないわけではありません。

でも、夏休みを利用して志望大学のツァーに参加し、
それでアプライを決めるという普通のやり方で受ける人ももちろんいます。

MKはちなみにこの大学のツァーには参加せず合格した口です。



散歩に行く公園にはボブ・オコナーというゴルファーの名前がついた
ゴルフ場があり、この写真の後ろ側が全部その敷地です。

去年道路沿いの木は雷で倒されてしまったのですが、
今年行ってみたらハロウィーン仕様にデコレーションされていました。

ちなみにアメリカではまだ暑いというのに、
インテリアショップやデコレーショングッズを売る店はすでに
どこもハロウィーンの飾り付けが始まっています。


ピッツバーグ最後の外食は、タイ料理「プサディーズ・ガーデン」です。

最後に何が食べたいか?となった時、家族3人の意見が一致したのですが、
週末だったので予約が取れず、ウォークインで順番待ちをして入れました。

これは、おそらく「この世で一番美味しい」ロティ。


MKのノンアルカクテルの後ろにあるのはマンゴーのサラダです。



スティッキーライスのココナッツミルク掛けにマンゴーのデザート。
もう、これ以上ないほど大満足でした。

ただ、お勘定の時になって、TOが、

「UMIの一人分より、安い・・・」

といらんことを呟いたので、またしてもわたしたちは
あの悪夢のジャパニーズを思い出してしまったのですが。


続く。


そのとき真珠湾にいた艦たち〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-12 | 歴史


ミシガン州マスキーゴンのシルバーサイズ潜水艦博物館の展示から、
今日もやたらと詳細にわたる真珠湾攻撃についてをご紹介します。

「真珠湾への道」として日米の動きをタイムラインで表した横には、
真珠湾における攻撃後の出来事が記されていました。



7時55分の第一次攻撃

8時53分の第二次攻撃

ミッドウェイに向かうUSS「レキシントン」(←)

ウェーク島から戻ってきていたUSS「エンタープライズ」(→)

がまず図になっています。
そして、その下には、

「ワシントン」「パールハーバー」「フィリピン・マニラ」

で起こったことがこれも時系列で書き出されています。
今回はそれはさっくりと省略しますが、その代わり、
時刻を追って真珠湾に停泊していた艦船がどうなったかを追います。


■ 戦艦「ユタ」



【現役戦艦と誤認され撃沈】

戦艦USS「ユタ」は、ユタ州の名を冠した最初の艦です。

1931年、「ユタ」は前年に調印されたロンドン海軍条約の条件に従い、
非武装化され標的艦に改造され、AG-16と改称されていました。

また、艦隊の砲手の訓練に使われていた艦です。
「ユタ」はちょうど1941年末に真珠湾に入港したばかりで、
フォード島沖のバースF-11に係留され、対空砲術訓練を終えていました。

12月7日の朝8時前、「ユタ」の乗組員の何人かは
真珠湾を攻撃するために接近してくる最初の日本軍機を見ましたが、
アメリカ軍機だと思い込んでいたそうです。

攻撃が始まったとき、「蒼龍」「飛龍」の中島B5N魚雷爆撃機16機は
空母を探して「ユタ」が係留している場所にやってきました。

いつもはそこに空母が停泊しているはずだったからです。

日本軍の飛行隊長は「ユタ」は攻撃の価値なしと判断したのですが、
中島辰巳中尉率いる「蒼龍」のB5N6機は離脱して攻撃を始めました。


バーベット上の形状が空の穴を覆う箱であることを認識せず、
砲塔である、つまり戦艦であると誤認したと思われます。

6本の魚雷が「ユタ」に発射され、そのうち2本が命中し、
もう1本は外れて巡洋艦「ローリー」に命中しました。

【ユタの沈没】


深刻な浸水はすぐにユタを圧倒し始めました。
ユタは左舷に傾き、艦尾が沈んでいきました。

総員退艦が始まったとき、一人の乗員(機関員ピーター・トミッチ)は
乗員を助けるために持ち場を離れず殉職しました。


トミッチ

トミッチはヘルツェゴビナ系クロアチア人のアメリカ海軍水兵です。

攻撃の時ボイラー室に勤務していた彼は、攻撃によって
艦が転覆することを悟りながらも、ボイラーを動かし続け、
すべての乗員が持ち場を離れるのを確認するまで持ち場に留まり、
そのことによって自らの命を失いました。

彼はその行動により死後名誉勲章を受けています。

その後「ユタ」は横倒しになり、脱出できた乗組員は岸まで泳ぎつきました。

その中の一人、ソロモン・イスキス司令官は、
転覆した艦内に閉じ込められている人々のノックの音を聞き、
有志と共に損傷の激しい巡洋艦「ローリー」から切断の道具を取ってきて
閉じ込められた人を解放しようと試み、4人の救出に成功しています。

Solomon Isquith

「ユタ」では合計で58人の将校と下士官兵が死亡し、
461人が生き残りました。

【沈没墓となったユタ】

「ユタ」は当時軍事的な価値がなかったため、沈没後放棄された状態で
海軍艦艇登録から抹消されました。
錆びた艦体を一部海面上に見せながら。

「ユタ」が沈んだときに死んだ兵士たちは、その後も
運び出されることはなく、長い間「墓」に眠っていました。

その後記念碑が建てられた際、
艦の近くにプラットフォームが設置されましたが、
ここには軍の身分証明書を持つ人だけがアクセスできます。

2008年になって「ユタ」の艦内から7人の遺体が運び出されて火葬され、
その遺灰は再び沈没艦に撒かれました。


■ カシンとダウンズ


「カシン」は攻撃時、「ダウンズ」「ペンシルバニア」と共に
真珠湾で乾ドックに入っていました。

250kg爆弾の低次爆発により燃料タンクが破裂し、
両艦に制御不能の火災を引き起こしました。

「カシン」はキールブロックから滑り落ち、「ダウンズ」に衝突。

両艦とも修理不可能なほど損傷しましたが、
機械類や装備は引き揚げられ、メア・アイランド海軍工廠に送られ、
引き揚げ材をもとに全く新しい艦が建造され、
それらには元の艦の名前と番号が与えられました。



その後、再就役した「カシン」は古巣の真珠湾に戻り、
テニアン、サイパン、マーカス、硫黄島で活動。

江戸の仇を長崎で、とばかり、真珠湾の仇を主に南洋で晴らしていた
「カシン」ですが、一度は国際法の遵守を確認するために
日本の病院船に乗り込み、臨検を行い、
違反がないことを確認すると、ちゃんと船を解放しています。




■ ショー(USS SHAW)


USS「ショー」(DD-373)は、「マハン」級駆逐艦で、
海軍士官ジョン・ショー大尉の名を冠した2番艦です。

1941年12月7日には、パールハーバーの乾ドックに係留されていました。

「ショー」が係留されていたのは補助浮遊式乾ドックYFD-2で、
彼女はそこで深度充電装置の調整を受けていました。

日本軍の攻撃で3発の爆弾を受け、2発は前部機銃台を、
1発は艦橋の左翼を貫通し、火災は艦全体に広がりました。

0925までに、すべての消火設備は使い果たされましたが、
火を消し止めることはできず、総員退艦の命令が出されます。

そして0930過ぎに前部弾倉が爆発しました。

「ショー」は修理の結果、現役に復帰し、戦後に至るまで
ほぼ第一線で活躍し、その功績に対して11の賞を与えられました。

■オグララ(USS Oglala)



「オグララ」は機雷掃海艇です。

ネイティブ・インディアンの「オグララ」族から名付けられました。
(oglala族を変換すると、普通に”小倉裸族”になってしまう件)

建造時は高速貨物船「マサチューセッツ」という名前であった彼女は、
その後ボストンで旅客船となってのち、第一次世界大戦の時に
Uボートに対抗するため、機雷掃海艦に生まれ変わりました。

最初に機雷掃海艦になった時の名前は、「オグララ」ではなく、
USS「ショーマット」Shawmut ID 1255
で、その名前のまま無線操縦船、水蒸気テンダー、掃海艇として
就役していました。

「ショーマット」が「オグララ」に改名された理由は、
当時病院船「ショーモン」(Chaumont)というのがいて、
英語では後者のTを落とさず発音する人が多いことから、
「ショーマット」と「ショーモント」で混同する可能性があったからでした。

1941年、「オグララ」は、機雷掃海隊司令官の旗艦となって、
真珠湾攻撃当時、パールハーバー海軍基地のテンテン桟橋に、
軽巡洋艦「ヘレナ」の隣に係留されていました。

【オグララ沈没】

7時55分頃、「オグララ」の乗員は日本軍の攻撃機を発見し発砲しています。

中島B5N2空母魚雷爆撃機「ケイト」は魚雷を放ち、
それは「ヘレナ」との間の左舷近くで爆発しました。

この爆風で「オグララ」は左舷部が破断し、火室床板が浮き上がり、
着水を始めましたが、それとほぼ同時に日本軍機による空爆が行われます。

艦ドックから電力供給を受けている状態だったため、
乗組員は火災に対処するためのポンプを起動することができませんでした。

この損傷により、後に「オグララ」は

"the only ship ever to sink from fright."
「恐怖によって沈んだ唯一の船」


と異名を得ることになります。

火災が防げなかったのは怖気付いたからだったとでもいうのでしょうか。
実際は決してそうではないと思いますが・・なかなか厳しいですね。


攻撃開始から約5分後、爆弾が「オグララ」と巡洋艦の間に落下し、
「オグララ」のボイラー付近で爆発しました。
左舷5度に傾斜し始め、浮力を維持できぬまま急速に沈没していきます。

当時の指揮官であったローランド・E・クラウス司令官は、
「ヘレナ」から「オグララ」を離して、桟橋に直接固定することを決定。

これは9時頃には作業完了しましたが、30分後には艦隊は20度傾き、
廃艦命令を余儀なくされる状態になりました。

10時頃、船はドックの方向に向かって横転し、
左舷側に沈む際にブリッジとメインマストが破壊されました。



「オグララ」の死者はゼロでしたが、負傷者が3人いました。
この人的被害の少なさについて、指揮官はその報告の中で、

「海軍の最高の伝統」に従って行動した全乗組員

を賞賛し、特に2人の乗員の英雄的行動を讃えました。

ジェラルド・"E"・ジョンソン二等水兵は、ボイラーの爆発を防ぎ、
艦への浸水を抑えるように奮闘し、
アンソニー・ジト掌帆長は、日本軍機の接近に対し、
いち早く高射砲を素早く作動させ、迎撃を試みたという功績です。


「オグララ」はその後3度目の引き上げ作業を経てようやく陸に揚がり、
修理ついでに内燃機関修理船ARG-1に生まれ変わりました。

ニューギニアの作戦などに参加し、戦後退役してスクラップ化されました。


■ カリフォルニア(USS California)



1941年12月7日朝、「カリフォルニア」はフォード島の南東側、
バトルシップ・ロウ(戦艦列)の最南端の艦に係留されていました。

攻撃が始まった直後、当時乗艦していた副長のマリオン・リトル中佐は、
総員配置の命令により砲を作動させ、艦の航行準備を行います。

8時3分、乗組員は、三菱A6M零式艦上戦闘機らと交戦を開始。
しかし、すぐに準備弾薬はなくなり、弾倉のロックを解除しなければ
補給ができない中、中島B5N魚雷爆撃機(九七式艦攻)2機が接近し、
投下した魚雷が前部と後部に命中。

攻撃時、検査で「カリフォルニア」の水密扉はすべて開いており、
また、舷窓や外扉の多くも開いていたため、
制御不能の浸水が艦全体に広がって艦体は左舷に傾き始めました。

リトル副長はダメコンチームに右舷の浸水対策を命じましたが、
左舷の浸水は広がり続けます。

魚雷の爆風で前方の燃料タンクも破裂し、燃料系統に水が入り込んで
電気系統は全てストップしてしまいました。

その後、D3A急降下爆撃機(九九式艦爆)から繰り返し攻撃を受け、
爆雷が右舷に1発、左舷に1発命中。

この時対空砲兵は爆撃機のうち2機を撃墜したと主張しましたが、
混乱した状況下での撃墜は困難として認められませんでした。

0845、アール・ストーン中佐(誰?)が乗艦し指揮を執ろうとしたところ、
(こんな時にも国旗に敬礼とかしたんだろうか)
同時に「カリフォルニア」は徹甲弾らしきものを被弾しました。

この爆弾は上甲板を貫通した後、第二甲板で跳ね返り、艦内で爆発し、
火災を引き起こし、約50名の死者を出します。

その後、乗員の必死の作業で電力とボイラーが回復、
しかし火災が広がったので、攻撃が終了してから他の船が接舷し、
消火と排水作業を行いましたが、艦体は3日間かけてゆっくり沈没し、
最終的に泥の中に沈みました。

この攻撃で98名が死亡、61名が負傷し、
何人かは攻撃中の行動に対して名誉勲章を授与されました。
ある者は持ち場を離れることを拒否し、そこで死亡しています。

その後、「カリフォルニア」はずっと沈没した状態であります。

艦内の遺体25体が今後の身元確認のために引き揚げられたのは、
なんと2019年12月6日
のことでした。



■ メリーランドMeryland

【沈没を免れたメリーランド】

12月7日の朝、「メリーランド」は「オクラホマ」を左舷に並んでいました。

前方には「カリフォルニア」、後方には「テネシー」「ウェストバージニア」
艦尾は「ネバダ」と「アリゾナ」という位置関係でした。

この7隻の戦艦は、最近演習から帰ってきたばかりで、
いわゆるバトルシップ・ロウ(戦艦列)にまとめて係留されていたのです。

「メリーランド」の乗組員の多くは、攻撃が始まった時、
9時の上陸休暇の準備をしていたり、朝食を食べていました。

最初の日本機が現れ、爆発音が船外の戦艦を揺らすと、
「メリーランド」のラッパ手が「ジェネラル・クォーター」を吹鳴。

この時持ち場の機関銃のそばでクリスマスカードの宛名を書いていた
レスリー・ショート水兵は、機関銃で魚雷爆撃機を撃墜しました。
(レスリー・ショート水兵の写真は残っていません)

「オクラホマ」の内側にいたため、魚雷攻撃から逃れた「メリーランド」は、
すべての対空砲台を作動させることができました。

最初の攻撃で「オクラホマ」は沈没したため、
生き残った乗員が対空防御のために「メリーランド」に移乗しました。

その後「メリーランド」も空爆を受け被害に遭いますが、
砲撃を続けながら転覆した「オクラホマ」の生存者救出を試みました。

日本側は「メリーランド」を撃沈したと発表しましたが、
沈没を免れ、翌年6月には大幅改修を加えて戦列に復帰しています。

真珠湾で被害を受けた戦艦としては2隻目の復帰を果たしたことになります。

■オクラホマ

わたしが撮った「オクラホマ」の写真、端が欠けてしまっただけでなく、
写真に壁のコンセントが混在しているという・・・。<(_ _)>

攻撃時、「オクラホマ」は「メリーランド」の隣、
戦艦列のフォックス5番バースに停泊していました。

彼女は「赤城」と「加賀」隊の集中的な標的となって、
3本の魚雷を撃ち込まれ、そのうち2本は
第一煙突とメインマストの間の喫水線下6.1mの船首に命中しました。

この瞬間は、確か映画「パールハーバー」で再現されていたかと思います。

魚雷は対魚雷バルジの大部分を吹き飛ばし、
隣接する燃料バンカーの発音管から油を流出させたものの、
どちらも艦体を貫通しませんでした。

約80名の乗員が甲板上の単装砲に就くために奔走しましたが、
発射ロックが武器庫にあったため使用することができませんでした。

そこでほとんどは喫水線の下にある戦闘配置につくか、
航空攻撃時の規定に従って3階デッキに避難します。

0800、3本目の魚雷が命中、艦体を貫通し、
第2プラットフォームデッキの隣接する燃料バンカーを破壊し、
2つの前部ボイラー室への通路、後部ボイラー室への横隔壁、
2つの前部射撃室の縦隔壁を破裂させます。

艦体が左舷に転覆し始めると、さらに2本の魚雷が命中。
なお、乗員は総員退艦を行う際、航空機から機銃掃射を受けています。

12分以内に、マストが着底し、右舷が水面に浮上し、
キールの一部が露出した状態で転覆していましたが、
多くの乗組員が「メリーランド」に移乗して対空砲を手伝いました。

そのうちの一人、アロイジウス・シュミット神父は、
第二次世界大戦で死亡した最初のアメリカ人聖職者となりました。

シュミット神父は他の乗員とともに、コンパートメントに閉じ込められ、
小さな船窓から乗員が脱出するのに手を貸していましたが、
自分は脱出せず、さらに多くの者を救おうとして沈没に巻き込まれました。

彼は12名の乗員の救出を行なっています。


シュミット神父

これらの他にも多くの人が転覆した船体の中に閉じ込められました。
転覆から数分後には救助活動が始まり、夜になっても救助活動は続き、
数時間後に救出された人の例もあります。

この時亡くなった何人かの軍人の名前は、
この後に建造された駆逐艦名として残されました。

USS「イングランド 」(DE-635)/USS「イングランド」 (DLG-22)
ジョン・C・イングランド少尉

USS「スターン」(DE-187)
チャールズ・M・スターン・ジュニア少尉

USS「オースチン」
ジョン・アーノルド・オースチン工兵長

USS「シュミット」 (DE-676)
アロイジアス・シュミット神父(中尉)

USS「バーバー」(DE-161)
マルコム、ランドルフ、リロイ・バーバー水兵

(オクラホマには『バーバー』という水兵が3人いたということです)

などです。

【再沈没したオクラホマとDNA鑑定】

前にもこのブログで書いたことがありますが、「オクラホマ」は
何度も浮上が試みられたものの、不可能だったので、退役し、
スクラップにされるためサンフランシスコにタグボートで運ばれる途中、
ハワイ近海で嵐に遭い、沈んでしまったという悲劇の艦です。

この時のタグボートの名前が「ヘラクレス」「モナーク」だったというのも
個人的には印象深く記憶に残る事件です。

引き揚げた際回収された乗員の遺体は全部で429体でしたが、
当時、そのうち身元が判明したのはわずか35名だけでした。

2015年になって国防総省は2015年4月、国防総省は、
「オクラホマ」乗組員の身元不明遺骨をDNA分析のために掘り起こし、
特定された遺骨を家族に返還することを発表しました。

その後DNA鑑定は着々と進み、2021年2月4日には300人目となる、
イリノイ州の19歳の海兵隊員のを特定したと発表しています。

2021年6月29日プログラムは終了し、
最終的には身元不明者はわずか33名を残すだけになりました。
33名の遺骨は、真珠湾攻撃80年目の12月7日に再埋葬されたと思われます。





■ ウェストバージニアとテネシー

【沈没後16日間生きていた3人の水兵】


「ウエストバージニア」は「テネシー」と並んで停泊していました。

攻撃が始まってすぐ、彼女は魚雷爆撃機に91式魚雷7本を舷側に、
爆撃機に16インチ(410mm)徹甲爆弾を2本打ち込まれました。

最初の爆弾は上部構造物の甲板を貫通し、
下のケースメイトに収納されていた弾薬が誘爆した結果、
その下の調理室甲板に広がる大火災を引き起こしました。

2発目の爆弾は後部の砲塔の屋根に命中し、
砲塔上部のカタパルトに搭載されていた艦載機、
OS2Uキングフィッシャー・フロートプレーンを破壊し、
甲板上に流れたガソリンが火災を起こしました。

魚雷によって開いた穴による転覆はなんとかダメコンで食い止めましたが
「アリゾナ」から漏れた燃料油に引火し、翌日まで続く火災が発生。

「ウェストバージニア」では合計106名が犠牲になりましたが、
そのうち3人は、16日間気密倉庫で生き延びていたことが後でわかりました。

サルベージ後、倉庫で3人の遺体とともに、12月23日までの
16日の日付が赤鉛筆で消されたカレンダーが見つかったのです。



2019年、国防省は「ウエストバージニア」の35名の不明遺体のうち
8名が特定されていると発表しています。

【テネシー】

攻撃が始まって、「テネシー」の周りはダメージを受け始めました。
「テネシー」も徹甲爆弾の直撃を受け、火災が起こります。

戦闘後、「テネシー」の周りの戦艦はほとんど沈没してしまい、
彼女は身動きできないままそこに残されていました。

その後「テネシー」はメア・アイランドで修復を行い、
近代化改修が施されてアリューシャン方面、タラワ攻防戦、
クェゼリン戦やエニウェトク戦、マリアナ諸島、
ペリリュー戦やアンガウル戦、フィリピン戦、硫黄島戦、沖縄戦、
レイテ沖海戦とフルで参加して1947年に退役、1959年に解体されました。


■ ネバダ



攻撃時、「ネバダ」は「アリゾナ」の後部に係留されていましたが、
単体だったため、他の7隻の戦艦とは異なり、操艦することができました。

司令官フランシス・W・スキャンランドが攻撃開始時不在だったため、
甲板士官であるジョー・タウシグ少尉(同名の提督の息子)が
再先任として攻撃と対処を指揮することになりました。



あれ?こんな話どっかの映画で見ましたよね。
ジョン・ウェインのアレだったかな。

「ネバダ」は91式改2魚雷1本が爆発し、継ぎ目からの漏水により、
傾斜を始めましたが、艦を出港させることに成功しました。
しかしタウシグ少尉は攻撃で脚を失うことになります。

第二波攻撃がやってくると、「ネバダ」はヴァル急降下爆撃機
(九九式)の主要なターゲットとなります。

日本軍のパイロットは、水路で「ネバダ」を沈めて
港を封鎖しようと考えたのです。(それなんて旅順港閉塞作戦)。

しかし、常識的に考えて250kg爆弾で戦艦を沈めることは不可能。

この時の戦術的目標選択は大いに間違っていました。
というか、もし日露戦争の記憶がなければ、日本軍の搭乗員は
このようなことを考えなかったんじゃないかと思われますがどうでしょう。

攻撃は「ネバダ」にいくつもの穴を開け、火災を起こすことに成功。
しかし、沈めることはできず、当時「ネバダ」の主弾倉は空だったので、
被害は最悪を免れることになりました。

その後「ネバダ」は深い海での沈没を防ぐために、
移動しながらも航空機を何機か撃墜し続けています。

午前中に合計60名の死者と109名の負傷者を出し、
翌年2月7日になって行われた引き揚げ作業中には、
腐敗した紙や肉から出た硫化水素ガスに侵されてさらに2名が死亡しました。
(この人たちも戦闘による戦死と認められたんでしょうか)

【原爆実験を生き延びて、退役】

着底した「ネバダ」は引き揚げられて大改装を施され、
アッツ島攻略作戦、ノルマンディー上陸作戦、につづき、
硫黄島、沖縄攻略作戦に参加しました。

沖縄では特攻隊による攻撃を受けて死傷者を出しています。


戦後、「ネバダ」はビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)
標的艦に供用されることが決定しました。

「ネバダ」は同作戦中の、空中投下実験における目標とされ、
視認性を高めるために全体を赤く塗装されて実験に投入されましたが、
2回にわたる核爆発(エイブル実験/ベーカー実験)を生き残ったため、
結局真珠湾へ戻って、8月29日に静かに退役しました。


■ アリゾナ



「アリゾナ」では、7時55分ごろ空襲警報が発令されました。

「加賀」と「飛龍」隊のそれぞれ5機ずつ、
計10機の九七式艦攻が「アリゾナ」に襲いかかります。

「加賀」搭載機は高度3,000mから爆撃を行い、
その直後、「飛龍」の爆撃機が艦首部を攻撃しました。

爆弾は命中4発、ニアミス3発で、うち1発は砲塔の表面で跳ね返り、
甲板を貫通して艦長用食料庫で爆発し、小火を引き起こし、
もう1発はメインマストの横で命中し、対魚雷隔壁の付近で爆発、
次の爆弾は左舷後部の5インチAA砲付近に命中しました。

【弾倉爆発】

最後の爆弾は08:06にII砲塔付近で命中し、
艦の前部にある弾倉付近の装甲甲板を貫通したと言われます。

命中後約7秒で弾倉は大爆発を起こし、前部内部構造の大部分が破壊されて、
前部砲塔とコニングタワーは下方に、マストと煙突は前方に倒れ、
艦体は事実上真っ二つになりました。

その爆風は凄まじく、横付けされていた修理船「ヴェスタル」は
火災を起こしていましたがこの風で消し止められたほどでした。



この爆発によって当時の乗組員1,512人のうち1,177人が死亡、
真珠湾攻撃時の犠牲者の約半数を占める数です。

「アリゾナ」爆発の原因は、艦体がほぼ壊滅状態で沈んだため、
検証のしようがなく、いまだに議論されているようです。

【アリゾナ・メモリアル】



よく知られているように、「アリゾナ」は生きた墓として
現在も沈没時の姿のまま真珠湾でメモリアルとなっています。

ここでちょっと耳寄りな情報を。

「アリゾナ」の真珠湾攻撃の生存者は、希望すれば、自分の死後、
遺灰を戦友と一緒に艦内に納める権利を有しており、
また、「アリゾナ」に勤務したことがある退役軍人は、
その遺灰を艦の上から海中に撒くことを許されています。

ちなみに沈没した艦体からはいまだに1日に2リットル以上の油が
港に漏れ続けているため、海軍は、港のさらなる環境悪化を避けるために、
油の継続的な漏れを軽減する非侵入型の手段を検討しているところです。
(ロボットに作業させるのだと思われ)

これを知って写真を見ると、確かに記念館の上の海面に
油が作り出している膜のようなものが確認できますね。


「アリゾナ」は永久に就役しない(できない)艦ですが、
いまだに米海軍の所有権下にあり、永久的に、
現役で就役中の海軍の艦艇と同様、合衆国旗を掲揚する権利を保持します。

■ パールハーバーの「最後の犠牲者」?



このコーナーには、
The Last Victims of Pearl Harbor?
として、二人の軍人の名前と写真が掲げられています。

ハズバンド・エドワード・キンメル提督、
そしてウィリアム・キャンプベル・ショート将軍

どう「犠牲者」なのかと言いますと。

真珠湾攻撃について、多くは誰が責任を負うべきかを知りたがった。

海軍と陸軍の司令官だったキンメルとショートは、
議会の調査によって、非難を受け、降格され、引退を余儀なくされる。

今日、歴史家は、キンメルとショートが攻撃への備えがなかったのか、
それとも(真珠湾攻撃そのものが)意図的に仕組まれていて、
適切に準備できるような情報が得られなかったのか、意見が分かれている。

戦後、海軍上層部は、その指揮下における施設や装備が
非常に限られていたことを考えると、キンメルは

できる限りのことをした有能な指揮官であったと主張した。

チェスター・ニミッツ提督はキンメルを擁護し、

もしキンメルが艦隊を出撃させて日本軍を捜索する指令を出していたら、
空母6隻とその護衛艦38隻からなる聯合艦隊によって、
おそらく米艦隊は壊滅させられていたかもしれない
(だから彼の判断は
リスクマネージメントの点からベストではないがベターだった)と述べた。

実際、パールハーバーでは、被害こそ大きかったものの、
すぐに活動を再開し、わずか数週間でほぼ平常に機能を取り戻している。

1995年になって、議会は、真珠湾攻撃の責任を負うべきは

この二人だけにあらず、他の高級将校も同じである、と結論づけたが、
キンメルとショートの名誉が挽回されることはなかった。

1999年、議会はついに二人の無罪を証明する決議を行い、
post humously(死後)階級を復活させようというところまでいったが、
当時の大統領ビル・クリントンは署名を拒否。

ジョージ・ブッシュも、それ以降の歴代大統領も
悉く署名を拒んでいるため、

この問題は未解決のままである。

さて、なぜでしょうか。(意味深)


続く。




パールハーバーへの道〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-10 | 歴史

ミシガン州マスキーゴンにある潜水艦「シルバーサイズ」をメインとした
潜水艦博物館の室内展示は、日米開戦のきっかけとして
真珠湾攻撃について大変こだわりを持っているように見えます。



館内はこのようなパネルによる通路に沿って歩いていくわけですが、
潜水艦博物館という割に手前の真珠湾攻撃の写真が大きすぎ。


天井からはさらに零式艦上戦闘機の模型が吊り下げられ、
この角度で見るとより一層迫力ある展示になるというわけです。たぶん。


天井から吊られているのは零戦のみ。
つまり、真珠湾攻撃のパネルに効果を与えるための展示なのです。



何というか、真珠湾攻撃に全振りしている感じです。
それにしてもこの写真、本物なんでしょうか。

上空の航空機、脚が出ているということはこれは米軍のだと思いますが、
遠方にいるのに妙にはっきりしすぎてないか?


前回、当博物館の真珠湾攻撃展示を解説したのですが、
ここでまたもや、

「The Road to Pearl Harbor」
(パールハーバーへの道)

とタイトルされた気合の入ったパネルが現れました。
そこまで気合を入れて真珠湾攻撃について語りたい何かが
この博物館にはあったということなのでしょう。

●1931−1940

日本は満州に侵攻し、中国での影響力を
万里の長城と沿岸沿いに拡大し続けていた。

日本も中国も互いに宣戦布告をしなかったため、
米国の中立条約(US Neutrality Acts)の下で
両国との貿易停止を余儀なくされていたルーズベルトは、
貿易を継続することを許されるようになった。

日本は国内で必要な鉄くずとオイルの80%を米国からの輸入に頼っていた。
中国の輸入品にはやがて武器が含まれるようになる。

●1940年1月

日本海軍の山本五十六提督は、アメリカが日本に対する石油の供給を
遮断
した場合に備えて、真珠湾攻撃を模索し始めた。

主なターゲットは空母と戦艦であった。

その数日後、アメリカ大使はペルー大使館を通じてこれを発見したが、
ワシントンはその報告に対し、不可能な作戦であるとして取り合わなかった。


■ 真珠湾攻撃についてー
実は米大使がペルー大使から事前に聞いていた説

世の中には、開戦に至るまで、日本が経済的に追い込まれていったとされる
ABCD包囲網(当時の日本人は一般国民でもこの言葉を知っていた)すら、
日本が戦争を起こす動機ではなかったとする説もあるくらいです。

ましてやアメリカ側の解説にこの辺りへの言及がないのは当然です。

しかし、その割に、赤字の部分を史実として言い切っているのが、
何ともバランスが悪いとわたしは思ってしまうわけです。

この部分こそ、陰謀論がまつわる真偽不確かな話だからです。

このペルー大使館云々の噂について解説しておきましょう。
噂は噂らしく、3通りの説があります。


【噂 その1】

当時駐日アメリカ大使館員だったフランク・シューラーの追想です。
ペルーの特命全権公使リカルド・シュライバーが、
駐日アメリカ大使であったジョセフ・グルーに、

「日本が真珠湾を攻撃する計画をしているらしい。
このことを至急アメリカ政府に通報してほしい」


と伝えたのですが、グルー大使は

「あなたは、米国と世界に偉大な貢献をされました。
すぐに国務省に電報を打つことにしましょう」


と感極まった口調で言ったものの、
本国に通知をするのを意図的に避けたという噂です。

だとしたら一体何の目的で?


ジョセフ・グルー駐日大使
日本贔屓だったという噂もあり(←この辺りが噂の元かも)

【噂 その2】

コーデル・ハル国務長官

ハル国務長官の回顧録によるとこうなります。

グルー大使が東京から1月27日、次のように打電してきた。

『日米の間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃をかけることが、
日本の軍部によって計画されている』


と云う話を、駐日ペルー公使が、
日本人を含む多数の筋から聞いたと言っている”

また、この時ペルー公使は、グルー大使に対して、


『自分としては日本側の
このような計画は奇想天外だと思うが、
たくさんの筋から聞いたのでお伝えしようと思ったのだ』

と告げたらしい。

そこで国務省としては翌日、この公電の内容を陸軍省と海軍省に伝達した。

【噂 その3】

駐日アメリカ大使館員、一等書記官クロッカーが、シュライバーから
「一日本人(ペルー公使館の日本人通訳)を含む複数の情報」
として聞いた話。

「万一日本がアメリカと紛争になった場合、日本は
全軍事力を使用して真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ」


それを伝えられたグルー大使が電報を打ち、その内容は
アメリカ海軍にも伝えられたが、海軍作戦部長のハロルド・スターク
太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルに対して

「海軍情報部としてはこの
流言は信じられないと考える」
「予測できる将来に、こうした行動が計画されているとは
考えられない

という内容の電報を2月1日付で送った。

噂;以上


「ワシントンはそれを実現不可能として取り合わなかった」

という説に一番近いのは「噂その3」でしょうか。
「その1」の噂は、グルー大使が本国に打電しているのが本当なら、
全く間違っていたことになります。

「その2」の噂は、ハルの回想録の話によると、
グルー大使は国務省にその話を電報で伝えていたことになりますが、
ハルはその話を「取り合わなかったのかどうか」については書いていません。

さて、噂はともかく、展示の続きです。

●1940年5月

通常はサンディエゴに駐留している太平洋艦隊は
ハワイのパールハーバーに恒久的に移転することになる

●1940年7月5日

アメリカは日本への武器などにつながる機械、そして
交換部品の全ての輸出を停止したが、
石油・鉄鋼は停止しなかった

●1940年9月27日

日本全権代表がベルリンでの会議に参加し、
ナチスドイツ、イタリア、日本による枢軸国を正式に確立
(三国同盟)

●1940年11月

ルーズベルトは、先に攻撃されない限り、
アメリカは戦争しないと公約し、前例のない3期目の大統領に就任


「あなた方の息子たちを戦場に送らない」

というこの時のルーズベルトの公約があったからこそ、
彼は「日本に先に撃たせた」とする説がいまだに存在します。

●1941年4月

日本側の暗証番号が解読され、全ての通信が傍受される

● 1941年6月24日

アメリカが日本に対し石油と鉄鋼の禁輸措置をとる

●1941年9月24日


日本の諜報機関からのメッセージが傍受される
内容は真珠湾のすべての艦船の係留場所を示すグリッドの要求だった

そのことを真珠湾関係者の誰も伝えられていない


ということは、やっぱりアメリカは真珠湾攻撃のことを
少なくとも3ヶ月前に知っていたことになりますよね。
もちろんこの報告はルーズベルトにも上がっていたに違いないのです。

ここまで知っていながら、なぜ奇襲を許したのか。

●1941年11月

日本は外交団をアメリカに派遣し、平和的解決策を模索する
どちらの側も立場を譲ることはせず、交渉は決裂


いわゆる「最後通牒」ハルノートのときですね。
これを受けて、日本は開戦やむなしと判断し、
真珠湾への道が開かれることになります。

●1941年11月26日

423機の航空機と護衛部隊を乗せた6隻の航空母艦が
真珠湾に向けて日本を出発

● 1941年11月27日

真珠湾の艦隊司令官キンメルとショートは、和平交渉が再開されない限り、
日本軍はフィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオで
可能な攻撃を発動するかもしれないという
最初の警告を受ける

キンメル提督とショートは警戒体制をとり、弾薬装填、人員配置、
対潜網を張って真珠湾の入口を封鎖した

あれ・・・?

キンメルもショートも知っていて、ここまで準備していたのか。
しかもこれ、攻撃の10日前ですよね?
なんで奇襲攻撃を成功させてしまったんだろう。

というか、恥ずかしながらわたし、このことを初めて知りましたが・・。


●1941年11月28日

航空母艦USS「エンタープライズ」は、艦載機を引き渡すために
ウェーク島に向けて真珠湾を出発した


「エンタープライズ」と護衛艦艇は12月6日に帰港する予定であった

これって、深読みするならば、真珠湾攻撃を知っていた「誰か」が、
被害を空母に及ばせないように真珠湾から「逃した」
っていうことかもしれないと思ったり。(とする説も実在しますね)

これだと、真珠湾に残された艦艇群は、アメリカからある意味
デコイ扱いされていたということになります。

これは当事者たちの心情としてはとても受け入れ難い仮定かもしれません。



●1941年12月3日

真珠湾で第2の戦争メッセージが受信された
アメリカとイギリスの領土にいるすべての領事館が、

暗号を破棄し、
文書を燃やしていた(らしい)

開戦準備であるとの警告


●1941年12月

航空母艦「レキシントン」は真珠湾を出港し、ミッドウェイに向かった

12月6日、米国諜報機関は日本からの14パートからなるメッセージを
解読することに成功している

それによると、南太平洋のどこかに攻撃が迫っていることが示されていた

「レキシントン」とエスコートは巨大な嵐に足止めをくらい、
パールハーバーの200マイル真西にいて到着が遅れそうになっていた


パネル左側の

「知っていますか?」

というところには、何とこんなことが書かれています。

1940年以前、太平洋艦隊は毎年夏真珠湾で訓練を行なっていました。
1932年と1938年の2回、真珠湾はこの模擬演習として
アメリカ軍に「攻撃」されていたことになります。

どちらの演習も、真珠湾の艦隊にとっては完全な「奇襲」となり、
攻撃は完全な成功を収めたとされます。

そして1932年の演習は、「本物」と全く同じとなる
日曜日の明け方に行われていたのでした。


知っていますか?いや、わたしは知りませんでした。

つまりこれによると、模擬攻撃が2回成功していたのに関わらず、
直後の同じような日本の攻撃を許してしまった
ということでよろしいか。

って、何のための模擬演習やね〜ん!

こういうのを見ると、アメリカはいまだに(この博物館もある意味そう)
日本の奇襲攻撃ガー!という立場に立っていますが、
攻撃があるかもしれないと思いながら何もしてなかったくせに、
被害者ぶりっこも大概にせいよ、とついツッコんでしまうのよね。




ツッコむといえば。

ちょっと皆さん、見てくださいよ。
アメリカ人にはこれが真珠湾攻撃の演習に見えるんですってよー。

これってあれですよね。

戦後、あまりのリアルさにてっきり実写だと思われてフィルムを没収された
映画「ハワイ・マレー沖海戦」の撮影セットじゃないの。

いくら慎重に行われるべき大作戦であったとしてもですよ。

本来紙の上の図演で済むところ、こんなリアルに真珠湾を再現し、
艦船の模型まで縮尺をきちんとしていたといまだに信じてるのね。

日本人、どれだけ几帳面だと買い被られているんだろうか。

そういえば、この勘違いをアメリカではいまだに誰も訂正しないらしく、
マイケル・ベイの怪作「パールハーバー」でも、
同じようなことをしていた怪しい日本人軍団がいたような気がするな。

確かプールの入り口に巨大な鳥居が立っているシュールなもので、
あのシーンには大笑いさせていただいた記憶があります。

今回もわたしはついこれを見てふふっとなってしまったのでした。

歴史にはある意味完全な真実というものはない、
ということを思い知らされる一枚の写真です。


続く。





日米開戦とアメリカ潜水艦隊〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-08 | 歴史

ミシガン州マスキーゴンにあるシルバーサイズ潜水艦博物館。
まずは潜水艦「シルバーサイズ」ではなく、前庭に艦橋のある「ドラム」、
「シルバーサイズ」の隣の沿岸警備隊のカッター、そしてなぜか
入口を入るとすぐに現れた触雷潜水艦についての話になりましたが、
これはまあいわゆる前座的な潜水艦の世界への導入とお考えください。

沿岸警備隊のカッター「マクレーン」についても、ここにある理由として
アラスカで日本軍の呂32号潜水艦を撃沈したとされるから、
ということだと理解することにしましょう。

もっとも、前回も説明したように、これはアメリカ側の誤認で、
「マクレーン」が撃沈したのは呂32ではなく、それどころか、
本当に撃沈したという証拠もないということがわかったわけですが。

潜水艦博物館的にはそうであってはあまり好ましくないので、
訂正された情報を頑なに受け入れず、展示のアップデートもしていない、
ということが重々理解できたところで、次に進みます。



■真珠湾攻撃〜全ての始まり




「シルバーサイズ」と潜水艦隊を語るために、まずこの博物館は、
真珠湾攻撃が全ての始まりだったとする解釈のもとに、
(それまでの両国の関係、歴史的経緯などに対する考察はスッパリとなしで)
アメリカの潜水艦隊が、第二次世界大戦にどのようにその力を求められ、
最終的にはアメリカの勝利に寄与したか、という流れを構成しています。

日本人であるわたしがアメリカの軍事博物館に立って、
諦めにも似た無力感に苛まれるのが、こういうアメリカの意志を見る時です。

なぜならわたしは、戦争という国益のぶつかりあいにおいて、
歴史を刻むのは勝者であり、そのことは神の目から見るところの
「善悪」とは何の関係もない、という考え方に立っているからです。

そもそも戦争が始まるに至る経緯について、
よほど中立を意識する、スミソニアン博物館のようなところでもない限り、
アメリカ側の正義に立ってしか語られることはないというのが
わたしがこれまで見てきたアメリカの軍事博物館の基本的姿勢であります。

それでも毎回こうやって地方の軍事博物館を訪れるたび、
もしかしたらアメリカという大国のどこかに、
戦争という普遍的なものが、ただパトリオティックな立場からではなく
科学的に論じられている場所があるのではないかと
心のどこかで期待している自分がいるのです・・・・

・・と言うようなドリーマー的ポエムはそこそこにして。

ここシルバーサイズ潜水艦博物館の説明は、先ほども言いましたように、
真珠湾攻撃から全てが始まったとされ、その解説に力を入れています。




日本帝国海軍の機動部隊がその日どうやって真珠湾を攻撃したか。
このパネルでは、空母から発進した航空隊の航路を図解で示しています。

「奇襲攻撃は午前7時48分に始まりました。
当時、日本の代表団はワシントンで
介入しないことを交渉していました。

どうやらそれは我々の軍隊の不意を突くためだったのです。
策略はうまく働きました。


353機の日本軍の戦闘機、艦攻、艦爆機が真珠湾に降下し、
それが午前9時30分に終了したとき、2402人のアメリカ人が殺害され、
8隻の戦艦が沈没又は深刻な損傷を受け、
数百機の航空機が損傷又は破壊されました。」



開戦の際の通知が、現地大使館の不手際により、攻撃より後になり、
その結果意図せぬ国際法違反になったこと。

そしてその前段階で、日本に最後通牒として突きつけられたハルノート。

これらは歴史的にも検証されていることであるにもかかわらず、
ここではそういった日本側の事情や言い訳は全く斟酌されることなく、
とにかく日本が悪いという姿勢を清々しいくらいきっぱり貫いています。

「介入しないことを交渉していた」とおっしゃっていますが、
ハルノートという名の事実上の最後通牒を、アメリカが突きつけてきたのは
まさにそのワシントンではなかったでしたっけ。

ま、いいんですけどね。
ミシガンの田舎で歴史的な中立を叫ぶ気はわたしにも全くありません。



とはいえ、この部分の展示、日本側が真珠湾攻撃を行った時の経緯は、
非常にわかりやすく、段階的にまとめられており感心しました。

ある意味、今まで見てきた真珠湾攻撃の資料の中で
一番わかりやすく時系列が語られているような気がします。



まず、下の地図からご覧ください。

日本列島とハワイが線で繋がれ、攻撃までの動きが
番号に従って説明されています。

1、山本五十六提督が率いる攻撃の秘密の計画は、
41年初頭から海軍の艦隊本部で開始されました。

目標は迅速な日本の勝利であり、アメリカの艦隊が、オランダ領東インドと
マレー半島の日本の征服に干渉するのを防ぐのが目的です。

日本軍は、主要な米艦隊のユニットを破壊することによって、
彼らの海軍力を高め、侵攻を強化する時間を手に入れんとしました。

2、11月22日までに攻撃隊は日本の北、千島列島の単冠湾に集まりました。

3、南雲忠一提督が指揮を執る機動部隊は、11月26日に出発し、
連合国からの探知を回避するために北ルートをたどりました。

艦隊には「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」
の六隻の空母が参加していました。


4、機動部隊は12月3日、油槽船団から洋上補給を受けました。

5、艦隊は、12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前8時に
攻撃を開始しました。

2400人以上の人員を殺害し、8隻の戦艦を沈没又は損傷せしめ、
数百機の航空機を使用不可能にしたのち、午後3時までに離脱しました。

この攻撃はアメリカ海軍と真珠湾に破壊的な大混乱をもたらしました。

6、12月16日、空母「蒼龍」と「飛龍」が帰還した艦隊から分かれ、
ウェーク島の攻撃に加わりました。

7、残りの艦隊は12月23日に日本に帰着しました。

8、ワシントンにいた日本の代表団は勾留されましたが、
1942年に日本に帰国を許され釈放されました。






1、艦隊は12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前6時に攻撃を開始しました。
日本の艦隊本部から無線で送信された命令は、

「ニイタカヤマノボレ」

408機の航空機が二波の攻撃によって熱帯の朝の空に唸りを上げました。

2、日本の潜水艦は、オアフに「ミゼット・サブ」を運んでいました。
特殊潜航艇のこと)
午前1時、それらは真珠湾に潜航するために発進を行います。

最初の潜航艇は午前3時42分に
駆逐艦USS「コンドア」に発見され、
6時37分に撃沈が確認されました。

これが太平洋戦争におけるアメリカの最初の「1発」となりました。

しかしこの出来事にもかかわらず、アメリカ側で
警戒警報は発令されず、
アメリカ軍もまた全くこれらに対応することをしなかったため、
迎撃も行われず、日本軍の波状攻撃を易々と許したのです。

3、183機の最初の攻撃波は、午前7時48分に真珠湾に到着し、
攻撃という名の破壊を開始しました。
この攻撃で艦爆と艦攻がアメリカの戦艦を沈めました。

4、さらに多くの水平爆撃機と急降下爆撃機を含む
第二波の171機が、午前8時50分に到着しました。

この時までに第一陣の攻撃隊は艦隊に戻っていました。

5、空襲の総指揮官である
淵田美津雄少佐は、
午前11時に偵察飛行を開始し、戦果を確認してから
午前1時に艦隊に戻って、報告を行いました。

6、淵田は、艦隊をすぐに帰還させるのが最善であると決定した
南雲忠一提督と、第三波攻撃について話し合いました。

最初の2回にわたる攻撃は大きな犠牲を私いました。

日本軍は真珠湾の攻撃そのものには成功したものの、
最もターゲットとすべきアメリカの
三隻の空母の位置がわからず
さらに天候は悪化しつつあり、今やアメリカ軍の防衛と警戒体制は
最初と違いより緊密なものへとなってきています。

さらに、第三波の攻撃は100機以上の飛行機に燃料を補給する必要があり、
それが日没後に行われなければならなくなっていました。

日本軍の機動部隊は、確実な夜間の作戦手順を開発しているべきでした。

もし第3回目の攻撃が行われていたら、それは
アメリカ軍の潜水艦をノックアウトし、燃料補給中のそれを炎上させ、
さらに造船所を無力化させた可能性がありましたが、
それには日本側のリスクはあまりに大きく、

数十機の航空機を失うことになり、南雲はそれを懸念したのでした。




■ そしてアメリカ潜水艦隊は


そして、この「サドンリー・アット・ウォー」を受けて、
潜水艦隊がどうなっていったか、と話が続くわけです。

「1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃は、
アメリカを第二次世界大戦に突入させました。

当時アメリカ海軍の太平洋水上艦隊は非常に弱体化していたため、
55隻の潜水艦は日本の領土内で活動できる
唯一の攻撃部隊として
就役を余儀なくされたのでした」

アメリカが随分と受け身で一方的な被害者として語られていますね。

それはともかく、水上部隊が弱体化していたというのは、
ワシントン軍縮条約の結果を受けて、ということでよろしいか。

というわけで、戦力の重きが潜水艦に置かれていったということなのですが、
ここでアメリカ海軍の潜水艦戦術についての説明があります。

やっぱりここは潜水艦博物館ですのでね。


【アメリカ軍の潜水艦技術】

Torpedo Direction Computer(TDC)
は、1940年から41年にかけて開発されていました。

そのメカニズムによって、移動する潜水艦から移動するターゲットに
魚雷を命中させるデータが魚雷の誘導システムに搭載されるようになります。

これは、必要なデータを入力した瞬間に魚雷を発射できるため、
潜水艦の戦術を簡略化することができました。


Target Bearing Transmitter(TBT)
は、
オペレーターが夜間の消灯時にブリッジからターゲットのベアリングを感知し
乗員に送信することができました。
このデータを使用して彼らはTDCを設定し、魚雷を発射するのです。


暗視潜望鏡(The Night Vision Periscope)
は、1942年に使用されるようになった、強力で非常に人気のある
目標補足装置であり、さらに大幅に改良されたものは
1944年から使用されるようになりました。




第二次世界大戦の太平洋戦線での1941年から2年までの状況です。
番号のついたところで日米の戦闘が行われています。

1、真珠湾

日本の空爆では潜水艦基地は攻撃を免れ
港の4隻の潜水艦は無傷のままでした。

当時、フィリピンのペアトに27隻の潜水艦、カビテに28隻の潜水艦がおり、
平時のパトロールと偵察の訓練を受けていましたが、
多くは戦時中の攻撃などの戦術に移行することができませんでした。
このため、135名の潜水艦長のうち、40名が交代
させられています。

2、ジャワ沖

1942年2月、日本軍はオランダ領東インドを占領しました。
総称して、ジャワ・キャンペーン(ジャワ沖海戦)と言われる

4回の海戦の過程で、日本は南西太平洋の広大な資源を確保し、
シンガポールからスマトラとジャワに至り、ニューギニアの北岸を越えて、
ニューブリテンのラバウルまで広がる防御線を確立したのでした。

3、珊瑚海

1942年5月4日から8日までの珊瑚海の戦いは、
日本の南方への侵攻の勢いを止めました。

これは航空機によって戦われた最初の海戦となり、しかも
艦船同士は視覚的にすら接触することなく終わりました。

日本軍の輸送船団と航空機の多大なる損害は、
アメリカのミッドウェイでの勝利への道を準備することになります。

4、ダーウィン


チャールズ・ロックウッド少将は、1942年5月、
アメリカ軍南西大西洋潜水艦隊の指揮を執り、
魚雷の技術的問題の解決に取り組みを始め、
潜水艦隊をますます強靭にするための戦術的革新を行いました。




ちなみにロックウッド少将ですが、やる気がないと思われる潜水艦長を
闘志に溢れた者に躊躇いなく入れ替えて人事刷新を行うだけでなく、
乗員の待遇改善も進め、任務から帰還した潜水艦乗りたちに
充実した休暇を提供するため、ロイヤル・ハワイアンホテルを開放し、
航海中の食事を豪華にし、生野菜やアイスクリームを提供させました。

アイスクリーム製造機が故障した潜水艦は出撃を禁じたという話もあり。

実際、アイスクリームはアメリカ軍人にとって
日本人にとっての白いコメ同様「やる気の源」だったからねえ・・・。


5、ミッドウェイ

ミッドウェイ海戦は1942年6月4日から7日に起こりました。
ここで我々の海軍は大日本帝国海軍の攻撃を打ち負かし、
日本の航空隊に取り返しのつかない損害を与えました。

この時から日本は守勢に回らざるを得なくなります。

6、ガダルカナル

42年8月から43年2月までのガダルカナルキャンペーン中の戦闘は、
連合軍による最初の攻撃であり、日本の最初の陸上戦の敗北でした。

日本は戦略基地となるヘンダーソン飛行場を奪還できませんでした。




そして、1941年8月26日、カリフォルニアのメア・アイランドで
潜水艦「シルバーサイズ」は就役を行いました。

写真は進水式で海上に滑り出した直後の「シルバーサイズ」です。



続く。


ピッツバーグ・グルメ〜怒涛の悪評価ジャパニーズレストラン

2022-07-29 | 歴史

ピッツバーグに到着してからあっという間に二週間が経ちました。
Airbnbの部屋を住みやすくするための立ち上げもすみ、
唯一の心配だった、ガレージがないという問題についても、
駐車禁止の時間と場所を把握することによって、路上駐車に慣れてきました。

さて、今日は到着以来ここピッツバーグで訪れたレストランの中から、
アジア系と日本料理をご紹介しようと思います。


バッファローからピッツバーグに到着した夜は、
前回ピッツバーグで最後の夜に行って感激した高級タイ料理、
「プサディーズ・ガーデン」でMKとの再会を祝いました。


ここのタイカレーはいつ食べても感動的に美味です。
そしてこのパパイヤとスティッキーライスのココナッツ和えは最高。


去年はCOVID19のせいでオープンしていなかったお店です。
カジュアルなベトナム料理の「ツーシスターズ」。

お店の名前通り、二人の姉妹が経営しているレストランで、
オーナーらしい姉妹はキッチンでなくフロアとレジで頑張っています。

今回行ってみると、お店は大変繁盛しているように見えましたが、
壁には「人手不足でサービスが十分にできずすみません」
みたいなことを書いた張り紙があり、実際にもオーナー姉妹が
一人で運んで片付けてレジもしてオーダーも取るとキリキリ舞いしていました。


そんな中でも以前から品質を落とすことなく、
美味しいベトナム料理が提供されていたのは嬉しいことです。

前菜がわりにまず生春巻きをひとつ。



ここでは3人が3人ともいつも同じものを注文します。
それがこのチキンフォー。
自由にトッピングする野菜もたっぷりで、見かけより量が多く、
わたしなど全部食べ切ることができないほどです。

味は少し物足りないかなくらいのあっさりで、
その透明なスープもその気になれば全部完飲できるレベル。

コストパフォーマンスの点でも高評価を差し上げたい良店です。


今住んでいる通り沿いにあるジャパニーズレストラン「UMAMI」。

「旨味」という日本語がアメリカで市民権を得たのは、
ネットの発達によるところが大きいのではないかと思います。

西海岸、シリコンバレーに「UMAMIバーガー」が登場し、
その言葉選びに驚いたのが4〜5年前だったでしょうか。

わたしたちがアメリカに住んでいた頃には、日本食を謳うストランでも、
出汁を取っていない(つまりお湯に味噌を溶かしただけの)味噌汁を
平気で出してくることがあり、もしかしたら日本人以外には
昆布だしの旨味は味として認知されていないのか?と思ったものですが、
今では、たとえ日本人など見たことがないような地域の人でも、
ネットで本物の日本食の調理について簡単に知ることができます。

まあ問題はいくら知識があっても味わうことはできない、つまり
本物の味を知ることができないという点については
ネット以前と何も変わっていないということですが。

「UMAMI」という店の名前から受ける印象は悪くありません。
なまじ日本人がやっているというだけで、別に美味しくもない日本食を
これぞ本物、とばかりに海外で広めている微妙な店よりは、
ずっと日本の食について理解が深そうな予感を抱かせます。

そんな「UMAMI」については、MKがすでに友人と行った事があり、
評価については「まあまあ」という事だったので、
特に大きな期待もせず軽い気持ちで一度食べに行ってみました。



お水のグラスがパンダなのはいかがなものかと少し思いますが、
枝豆にはちゃんと塩が振ってあるし、味噌汁も出汁は取れています。
具も豆腐にわかめにネギと実にオーソドックス。


鉄火丼。
悲しいのは、ちゃんと紫蘇を使ってくれているのはいいとして、
それがほとんど黄色い色をしていた(つまり枯れかけ)ていたことです。

それから、アメリカのきゅうりは日本のと種が違うため、
日本の胡瓜の1.5倍太く、胴体にくびれもイボイボも全くありません。


これはわたしが頼んだ海鮮丼。
問題のシソは刻まれていて、生のうずら卵、トビコがあしらわれています。
ご飯はちゃんとすし飯の味がしました。

これ以外に、ここではお好み焼きも食べる事ができ、
MKいわく「まあまあ」ということです。

アメリカ人にも美味しく手頃なジャパニーズと認識されているようで、
この二日後、MKが友達と夕ご飯に行ったらまたここになったそうです。


日本料理、特に寿司レストランは、アメリカ人には少し高級で、
たとえばデートに選ぶ店みたいな位置づけの店が多い気がします。

値段が高いのは、生魚を扱うことから仕方がない部分がありますが、
いわゆるインチキジャパニーズの経営者は、
高い値段を取るためにろくに寿司のことを知らないで、
聞き齧り、見かじりの偽寿司を提供しているところがほとんどです。

もちろん前述のように日本人が経営しているからといって
必ず美味しいとは限りません。
日本にある店が全て美味しいわけでないのと同じです。

しかし今回遭遇したジャパニーズレストランほど、値段だけは一流で
中身はとてもじゃないけど日本からは味も中身も、程遠い、
残念なレストランはありません。

しかし、ブログのネタとしてはもう最高の逸材だったので、
早速ここで、ネットの低評価(太字)と共にご紹介していきます。ネタだけに。


昨年の夏に行った、SOBAというレストランに併設されているUMI。
UMIはピッツバーグでも数少ない高級和食の店と自称しています。

SOBAは決して悪くなかった(特に良くもなかったけど)ので、
高いのは分かっていましたが、家族で一度は行ってみようとなり、
MKになかなか予約が取れない中取ってもらい、出撃しました。

このレストランに入るのはとても難しい。
いつも予約でいっぱいで、一流レストランのような錯覚を覚えるからだ。
しかし、金曜日の夜、私たちがいた2時間の間、
多くの空きテーブルがあり、決して忙しいわけではありませんでした!!
要約すると、この経験はすべて気取った見せかけのように感じられました。


この人は「忙しく見せかけて高級なふりをしている」としていますが、
わたしが実際に行ってみたところ、要するにテーブルはあっても、
作る人がいないのだと思われました。

延々と続く階段を三階まで上っていくと、ドアを開けた途端、そこに
寿司カウンター(決して誰も座らない)が出現します。

あれっと思ったのは、そこにいた職人からなんの挨拶もないことでした。
見かけだけは日本人風のアジア系職人は、日本語が喋れないらしく、
「イラッシャイマセ」(ニューヨークの一風堂では金髪の店員にも言わせる)
どころか、助手らしい黒人女性と無言でこちらを眺めるのみ。

実はわたしはこの時点でかなり失望していました。



写真の右手は掘り炬燵風のテーブルですが、土足で利用します。
「掘り」の部分の掃除はどうしているんだろうとか、
土足で出入りするその座る部分はつまり地面に座っていることになるのでは、
とか、掘り炬燵ゾーンにサービスする従業員は、日本仕草のつもりか、
床に指や膝をついているけど、ここは(略)とか、色々と考えさせられました。

「書」のつもりで壁に貼られた「花鳥風月」は、日本なら
小学生高学年の部なら学校で優等賞をもらえる程度のレベルの達筆です。
っていうか、額にするのに、こんな練習用の半紙選ばないっつの。

心あるアメリカ人もこんなことをおっしゃっておられる。

私たちは日本のミニマリズムが大好きなのですが、
このスペースは完全に的外れで、アップデートが必要です。
照明が貧弱で、頭上のスポットライトは何も強調していません。



照明が当たっていないしょぼい滝、
(画面の右側にある水が流れる石段のようなもののこと)



効果のない照明に紛れてしまっている二つの壁画、



テーブルはあまり目立たない蛍光灯のある勝手口を向いていて、
(わたしが座ったのはまさにその席)
拭いたばかりでびしょびしょに濡れたテーブルに座らされたため、
さらにずさんな第一印象になりました。


日本のミニマリズムが好きな人にとってはインチキ以外の何物でもない、
これは確かにその通りですが、まあ日本人に言わせると、
この程度のインチキさはまだ許容範囲というものでしょう。

ここが料金の高い高級レストランを謳っていなければの話ですが。

ウェイトレスはなぜか全員がアフリカ系の女性でした。
カウンター内の助手もアフリカ系でしたが、ここは西海岸と違って
日本人風味のアジア系のウェイトレスは調達しにくいのかもしれません。

しかし、彼女のサービスはフレンドリーで丁寧で、
説明もちゃんとしており、悪いものではありませんでした。

問題は料理の内容そのものです。
って、レストランでこれに問題があればその時点でもうダメなんですが。

ここはピッツバーグで最高の日本食レストランとして宣伝されています。
しかし、先週の金曜日の夜、私たちの体験はひどいものでした。

料理は最悪で、満足感がなく、値段も高く、せいぜい平均的なものでした!!!

このレストランはおまかせの7コースか11コースしかなく、
ニューヨークのNobuより高いし、とてもがっかりしました。


ふざけたことに、ここは夕食しかやっておらず、
しかもチョイスできるのは「OMAKASE」のみ。
オーダーを聞いてその都度一皿作る、ということをできる料理人が
おそらくはいないのだと後からわたしは確信しました。

この人が言っている「7コース」「11コース」は皿数のことです。



こんなこともあろうかと、わたしはいつになく熱心に
皿の写真を全部撮ってきました。
写真がどう加工しても暗いのは、店内の異様な暗さのせいです。

これがその一皿目なのですが、まず、上に載っているものはともかく、
それが白くて丸い洋皿に乗ってきたのに猛烈な違和感を覚えました。

高級日本料理を自称するなら、器にもう少し気を使わないか?
こんな皿で出された日には、海原雄山でなくとも味見前にブチギレ確実だ。

皿の上は、なんか忘れましたが魚の身をツミレにしたものに、
甘いソースがかかっているもので、特に感銘も受けず。

いや、でも、最初の一皿くらいはね?前菜だし。



ところが2皿目、魚の切り身に同じようなソースをかけたものが
全く同じお皿で出てきて、あれっと思いました。

ま、まあ、これもまだ前菜ということなのかも。

写真は拡大していますが、切り身の大きさは寿司に乗っているのと同じくらい。



三皿目、今度はサワラの味噌焼き的なものが出てきましたが、
これにかかっているソースもほとんど同じもの。

ここで嫌な予感が萌してきました。

まさかとは思うけど、ずっとこんな感じなの?
お皿も白い丸皿のままだし・・・。

さて、この辺でアメリカ人の意見を聞いてみましょう。

「7品とも魚が同じに見えました。
真っ白な皿に紙のように薄い切り身、野菜は一つもありません。
海草のサラダ、緑の野菜のスチーム、野菜の天ぷらはどうでしょうか?」

客にメニューの提案をされてるし。

「シェフはベストを尽くしていますが、味はお互いを引き立たせておらず、
すべてのソースは嫌な甘さです。

11品のコースのうち7品が2ピースの小さな刺身でしたが、
どれも同じような味で、独自性、味、創造性が欠けています」


全くその通り。
日本料理に砂糖を使うという噂を間に受けて、
どのソースにも甘みをつけてしまったって感じです。

わたしたちは行く前に次の中国系らしい人の感想を読んでいたのですが、
店を出てから、その人の意見に100%賛同していました。

「11品のおまかせコースが進むにつれ、
失望という言葉では言い表せないような感覚に陥りました。


コースのほとんどが魚の薄切りで
甘すぎる醤油ソースは魚の味を消してしまっている」

提供されたわさびは本物の生わさびではない。
本物のわさびは、まろやかな味とほのかな甘みがあるが、
偽物のわさびは非常に強く、甘みはない。
135ドルのおまかせコース(11品コース)で、
新鮮な食材を提供すると言っているのに、これは全く納得がいかない」

「ウニもない」

全くその通り。もはやこの意見はわたしのものではないかみたいな。
わたしたちは後からこう言い合いました。

「あの中国人の意見そのまんまだったね」

「きっとあの人は孔子様の生まれ変わりだったに違いないだ」

そしてこの「孔子の生まれ変わり」の意見のうちで、
一番参考になったのがこの情報でした。

「白マグロ(エスカラール)が出てきた。
油分が多く、たくさん食べると下痢になるため、日本では違法な魚である」



英語ではホワイトツナなので、なんの問題もなさそうですが、
日本語の「アブラソコムツ」のことです。

アブラソコムツの恐怖

日本では幼稚園での集団食中毒?が起きたこともあり、
法律的に売ってはいけない魚として指定されているものが、堂々と。

脂が多いため、危険とされているこのアブラソコムツですが、
毒というわけではないので大量に食べなければ大丈夫。

というわけで、アメリカでは禁じられていません。
しかし、ロスアンゼルスの多数の韓国系寿司屋でこれを偽装して出し、
弁護士事務所から巨額の賠償を請求されたという事件もあったそうです。

孔子様のおっしゃった通り、前菜の最後にこれが出てきたので、
わたしは一切れだけ食べてパスしました。

問題は、この「外道魚」を出す店がいやしくも一流店を気取っていることです。

あーだんだん腹たってきた。

そして、6皿目までがこの白い洋皿の連続だったことで、
呆れ返ったわたしたちは、

「まさかこのまま最後まで行かないよね」

「最後にお寿司が出るよね」

「大丈夫、カウンターでおじさんがお寿司作ってるのが見える」

「11品コースだけ寿司が出ますだったらどうする?」

「もうその時にはテーブルひっくり返して帰る」

とヒソヒソ言い合っていました。


そして初めて白い丸皿以外で出てきた最後の希望、いや最後の一皿。
寿司の上にトマトのトッピング(笑)

寿司の大きさだけは一流っぽく小さくまとまっていましたが、
これは単に材料をケチるための握り方でしょう。

すし飯はいつ炊いたのか冷たくて硬く、粒が感じられる舌触りで、
日本では決してやらないトッピングは、味を誤魔化すため。

「トッピングに溺れ、魚の味をほとんど感じることができませんでした。
魚の寿司でないことを事前に言ってほしかった」


しかもサーモンの握りにはクリームチーズが。

「この夜一番がっかりしたのは、クリームチーズ入りサーモンの握りだろう。
立派な「おまかせ」料理でありながら

クリームチーズの入った握りを出したところは初めて見た気がします」

「握りにクリームチーズ?がっかりです :( 」

それより何より、お高いコースなのにたったこれだけで終了!というのに、
わたしたちはもうほぼ茫然としてしまいました。

おそらく出された全品は全部かき集めても一皿に軽く乗るくらいしかなく、
最後の寿司以外は全部白い丸皿に乗ったカルパッチョ的前菜。

まさにふざけんなでございます。



かろうじてマシだったのはこの偽寿司風デザートでした。
巻き寿司のようなピスタチオをかけたチョコファッジ、
醤油のようなチョコソース、そしてワサビのようなクリーム、
ガリそっくりのマスクメロンの薄切り。

これはアイデアとして面白いし、楽しい話題にもなります。


このコースが一人100ドルでなければ、もう少し寛容になれたでしょうけど。

それでは最後に、この店に対するアメリカ人たちの罵詈雑言をどうぞ。

「シェフは、美味しくない魚や料理の失敗作でこの値段を取る前に、
ロサンゼルスやニューヨーク、デンバーなどの
素晴らしい日本食レストランを経験するべきだ」

「ピッツバーグには選べる日本食レストランが限られているので、
非常に高価で質の悪い寿司と日本食しか知らない客は
こんなところでも満足してしまうのでしょう」

「しかし、本当にがっかりしたのはその量です。
3コースとデザートをいただきましたが、お腹が空いたまま帰りました。
夕食後、そのままブリトーを食べに行きました。
前菜が全部で2オンスの生魚で構成されていたので笑ってしまった」

「お金を貯めて、もっといいところで本物の寿司を食べましょう」

「Gi-jinの方が断然価値があるし、美味しいです」


最後の「GI-JIN」とは、ピッツバーグのもう一つの有名高級寿司店です。

この意見は、孔子の生まれ変わりさんのものだったので、
わたしたちはピッツバーグを去る前に、この店(Gi-jinは漢字で外人と書く。
日本人にとっての外人がやっている寿司屋であると標榜しているらしい)
に予約を入れ、行ってみることにしました。

美味しくてもそうでなくても、またとんでもなら尚のこと、
ここで紹介するネタとなってくれることを祈りつつ。






ナイアガラフォールズとニコラ・テスラの関係

2022-07-23 | 歴史

gooブログの〇〇機能のせいで、せっかく仕上げた記事が
ほとんど全て記憶されておらず、ゼロからやり直す羽目になりました。
こういう時には本当にやる気がなくなるのですが、頑張ります。
(独り言です)

さて、空前絶後に不味かったバッファローウィングスの夜から一晩空け、
次の日、後述するナイアガラフォールズ観光を済ませてから、
わたしたちは懲りずに美味しいバッファローウィングスを求めて
ナイアガラからもう一度ホテルのあった市街に戻ってきました。

昨日のあれをバッファローでの最後のウィングスにしてしまったら、
もうバッファローウィングスの存在そのものを嫌いになりかねない、
とTOが言うもので、(わたしはそうは思いませんでしたが)
今一度、バッファローにチャンスを与えることにしたのです。

って何様だよ。
というか、どれだけバッファローウィングス好きなのわたしたち。



ナイアガラの滝近くから、ピッツバーグに戻る道ぞいにある
目ぼしいウィングの店の情報を片っ端から検討して行った結果、
市街の飲食店が立ち並ぶ通りにあるレストランなら堅いだろう、
と店を決め行ってみたところ、何やら良さげな雰囲気の店。



ピンときて入ってみると、専門はハンバーガーで、しかもこの店は
エイジドビーフを使ったバーガーもあるというのです。

そんな店ならバッファローウィングスも普通に美味しいんじゃないかな。

店内はオールドアメリカンな感じで、壁には至るところに
LPレコードのジャケットが飾ってあって、店主の趣味がうかがえます。

ビリー・ジョエル、ジョーン・バエズ、ビートルズ、スティング、
ロッド・スチュアートにモンキーズ・・・。

写真右側に写っている3人の初老の男性たちは、ドンピシャの世代なのか
顔を巡らせてジャケットの曲について話題にしていました。

ここもオリジナルのTシャツなどを扱っているようですが、
少なくともオバマ来店の写真や新聞記事などを飾ってはいません。

日本でも有名人の色紙を壁に貼っているところって、
碌なもんじゃねえ、とまでは言いませんが、有名人が来ることと、
美味しいことは全く関係ないことだと思うんだな。



ウィングとバーガー、サラダを頼むことにしました。
サラダは果物やナッツ、ドライフルーツがたっぷりです。

このサラダもゴートチーズが当たり前のように入っていましたが、
わたしはヤギも羊も苦手なので、抜いてもらいました。



これがバッファローウィングス(本物)ですよ。
テリのある表面、食べるとチリパウダーとカイエンの刺激がピリッとして、
淡白なチキンの身を楽しく美味しいものにしてくれます。

辛くなった口を人参とセロリで少し宥め、なんならほんの少し
ドレッシングを香る程度につけると「味変」にもなります。

これですっかりわたしたちのリベンジは成立しました。

左は、おそらくアメリカで初めて食べるアヒツナバーガー。
マグロの身は「たたき風」でシアーという半生状態です。

ビーフバーガーがメインですが、ビーフが食べられない人のために、
チキンはもちろん、ダック、ひよこ豆のパテ、そして
なんとマグロのたたきのバーガーも提供しているお店でした。

その意気や良し。



さて、時間を戻して、その日の朝、我々はナイアガラフォールズの
手前にある公園の入り口の駐車場に車を停めていました。

これが今回借りているホンダのCR-Vなる4WDです。

シカゴのレンタカーでは、大都市の空港ハーツということで
膨大な数が展示されたVIP会員専用サークルから車を選べたのですが、
わたしは、こういう時には迷わずドアを片っ端から開け、
車内に首を突っ込んで、匂いを嗅いで車を選びます。

車内の匂いで車の経年が瞬時にしてわかるからです。

臭いのチェックをしながらも、車内に置かれた鍵を視認して、
インテリジェントキーかどうかを確かめるのも怠りません。

そういういわばプリミティブな方法で、今回は
走行距離1000キロも行かないほぼ新車をゲットすることができました。

HPを調べたら、WLTCモード14.2km/L(今は10モードじゃないんだ)
ということで、燃費もなかなか悪くありません。

実際、五大湖沿いを走り回っていた頃は毎日給油が必要でしたが、
街中を走るようになってからは給油は一週間に一度で済んでいます。

ただし、皆様もご存知かと思いますが、今アメリカでは物価高、
特にガソリン代が急騰していて、昨日一番安いunleadedを満タンにしたら、
なんと53ドル(日本円で7,000円くらい)かかってしまいました。

今の車の二代前、ハイオク車に乗っていたことがありますが、
円高のせいもあってそれ以上なのにちょっとびっくりです。



このナイアガラ公園の駐車場には、前回MKときた時にも停めています。

もし万が一、今後ナイアガラ観光を車で行うという方のために
何度も書いていますが、くれぐれも車は滝の近くに停めず、
地元の人が散歩に来て停めるこの無料の駐車場をご利用ください。
このロットが満車でも、もう一つ奥に無料の場所があります。

ここに車を停めるメリットは、無料であることの他に、
滝に向かって流れていくドラマチックな流れを見ながら歩いて行けること、
そして夏は鳥たちの姿が川の近くに見られることです。



さっそく変わった鳥が姿を現しました。

黒に羽の付け根だけが赤と黄色のナイキマークというこの鳥は、
Red-winged Blackbird、和名を ハゴロモガラス (羽衣烏)といい、
オスだけがこの模様でメスは茶色だそうです。



サンドパイパー=イソシギではないかと思います。

スタンダードナンバーになっている「The Shadow of Your Smile」
という曲がありまして、この曲の題は日本語で「いそしぎ」です。

Andy Williams ~ The Shadow Of Your Smile (Live)


「いそしぎ」というのは原題「Sandpiper」という、
エリザベス・テイラー主演の映画で、ヒロインのテイラーが
翼の折れたいそしぎを保護して連れて帰るというシーケンスがあります。

もっと大きな鳥だと思っていましたが、こんなに小さかったのね。



川面にコロニーを作って生活しているらしいいそしぎの集団。
この辺りはまだ流れがそう激しくないので、水鳥が多く見られます。



右側のイソシギ、首を傾げていてかわいい。



隣の草地はグースの縄張りでした。
皆しめしあわせたように川面に体を向け、くちばしは後ろに向けて。

何かあったら水に逃げるための習性でしょうか。



その横手に、なんとガチョウの保育所がありました。
本日の預かり児童は三羽、保育士さんはちゃんと子供たちを見守っています。

そういえば、イルカもペンギンもコロニーを作る動物の中には
子供だけを集めた保育所があり、面倒を見る保育士がいるらしいですね。



マザーグースが雛鳥を引率中。
雛鳥歩いてないし。



これがグースの赤ちゃん。
身体の大きさに比べて脚の比率が大きい。



しばらく(と言っても数分)歩くと川面も水鳥の姿も無くなりました。
そして川の流れがご覧のような激流になります。

しかし、人がここに落ちれば確実に命はないような場所でも、
護岸工事や柵は必要最小限しか行われていません。

日本ならガチガチにコンクリで岸を固めて柵をつけ、ご丁寧に
川の横には「危険!」「水遊び禁止」と立て札を立てるでしょう。

そんなこと言われなくてもわかっとる、と誰でも思うことを
あえて呼びかけて憚らないのが、日本の行政というものなのです。

もっとも、景観を重んじて行政の手を入れるのを住民が拒み、
その結果災害の規模が大きくなるということも実際にはあるので、
一概にそれが悪だとはいいませんが、まあ少なくとも観光資源に対しては
極力手をつけないで自然のままに残す方向でお願いしたいものです。





ただし、夜になるとこの激流をライトアップするために
実にたくさんの投光器が岸に取り付けられています。



ライトアップといえば、これはMKが冬友達とカナダに行った時の写真。



時間ごとに色が変わっていくそうです。



絶対カナダ側から見る方がいいですよね。



というわけでアメリカ滝の横にたどり着きました。
いつ見てもこの凄まじい眺めには心を掴まれるような気がします。

ここからは向こうにカナディアンフォールというカナダ側の滝が見えます。



滝つぼから巻き上がる水滴が虹のアーチをかけ、
そのアーチの下を滝巡りの遊覧船が通過していきます。



赤い遊覧船は、向こう岸のカナダから出ています。
カナダの国旗の色から赤い船に赤い水滴よけコートというわけです。

見たところ観光客は圧倒的にアメリカ側の方が多く、
遊覧船の待ち時間もカナダはアメリカの5分の1くらいのようでした。

滝の眺めもカナダ側からの方がいいらしいし、
一度はカナダからナイアガラを見ておくべきだったかな・・。


前回はコロナ禍下でしたし、真冬だったので、
人影がなかったアメリカン・フォールの向こう側に人の姿が見えます。


アップしてみました。
あれ?この写真の上の方に何か銅像がありませんか?



これは、公園の入り口にあった案内図ですが、TOが指差しているところの
左側は、アメリカの「ゴート・アイランド」といいます。

さらに調べたところ、アメリカンフォールの横手には、

ニコラ・テスラのモニュメント

があるということがわかりました。
はて、なぜナイアガラの滝にテスラの像が・・・・?



そこでこれですよ。

前回人気のないナイアガラで、この写真を撮った時、当ブログでは
昔ホテルでもあったんだろうか、などと適当なことを書いたのですが、
これは廃墟などではなかったのです。


「ナイアガラパークスの発電所のトンネル体験。
100年以上前に建設され、復元された水力発電所を探検してみてください。
インタラクティブな展示、魅力的なモデルなどを発見してください」

などという言葉があり、特にこの「トンネル」から
ナイアガラを眺めるというのは、ぜひ体験してみたくなります。



今回発電所の存在に気づいたのは、この写真を拡大したら
デッキの上に黄色い制服らしきものを着た人がいて、
さらにエレベーターの装置らしきものがあることを確認したからでした。


HPによると、発電所の中にはいつでも入れ、中にはかつての
発電所の遺構がそのままの形で保存展示されて見学することができるとか。

で、この発電所なんですが、ここにニコラ・テスラが関わっていました。

かつてナイアガラフォールズにあった世界初の大規模水力発電所は、
他ならないニコラ・テスラの残した業績の一つでした。

ニコラ・テスラはジョージ・ウェスティングハウスと共に、
ナイアガラの滝に世界初の水力発電所を建設し、
世界を「電化」の第一歩に導くという偉業を成し遂げています。

この旧ナイアガラフォールズ発電所の唯一の遺構である
アダムズパワーステーション(パワーハウスNo.3)が、
そのとき建造された水力発電所の一つでした。

人類が電気というものを生活になくてはならないものとして
使い始めてからの歴史の中で大きなターニングストーンである
このアダムズパワーステーションは、国定歴史建造物に登録されており、
さらに今後、ここには科学博物館を作るという話もあるそうです。

ナイアガラの滝のアメリカ側を訪れる観光客は年間約800万人。
カナダ側には年間約2,000万人が訪れます。
(あれ?ということはカナダ側の方が多いんだ)

よく、人はナイアガラフォールズのことを、

「死ぬまでに一度は見ておくべき場所」

と呼びますが、ここにあるのは、自然が作り出した造形美のみにとどまらず、
世界を今日の「電化」に導いた歴史的遺跡でもあったのです。

ナイアガラ・フォールズの「電気的な意味」は、
テスラの生み出した多相交流電流(AC)の最終的な勝利であり、
今日、地球全体を照らし続けているのはそのシステムです。


こちらがアメリカ側のニコラ・テスラ像。
上の写真に写っているのがこちらです。



こちらは2006年に除幕された、カナダ側、
クイーン・ヴィクトリア・パークにあるテスラモニュメント。

テスラが特許を取得した700の発明の一つである、交流モーター
(交流誘導電動機、多相交流を用いて回転磁界を作る原理を元にした装置)
の上に立っています。

アメリカとカナダ、どちらにも一つづつテスラ像があるというのも、
彼の成した偉大な功績を思えば、もっともなことかと思われます。


続く。




「ハンドシェイク・イン・スペース」アポロ-ソユーズ実験プロジェクト

2022-07-15 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙事業関連展示を見ていて、
かなり驚いたのは、米ソが共同で行っていた宇宙開発事業があったことです。

アポロ-ソユーズは、1975年7月に米ソ共同で実施された
初の有人国際宇宙ミッションです。

アメリカのアポロ宇宙船とソビエト連邦のソユーズカプセルが
ドッキングする様子を、世界中の何百万人もの人々がテレビで見守りました。

このプロジェクトと宇宙での印象的な握手は、
冷戦下の2つの超大国のデタント(緊張緩和)の象徴であり、
1957年にソビエト連邦がスプートニク1号を打ち上げたことで始まった
宇宙開発競争の終わりを告げるものと一般には考えられています。




それは、見学に来た人が疲れたら座り込むのにおあつらえむきの場所、
高さといい広さといいちょうどいい設置台の上に見ることができます。





■アポロ-ソユーズ実験プロジェクトASTP

ちょうど今日、7月15日から24日は、"宇宙での握手 "で有名な
アポロ・ソユーズ テストプロジェクトから47年目にあたります。

このミッションは正式にはアポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
ソ連ではもちろんソユーズ・アポロと呼ばれています。
Экспериментальный полёт "Союз" - "Аполлон"(ЭПАС)
Eksperimentalniy polyot Soyuz-Apollon (EPAS)

また、ソ連は公式にこのミッションをソユーズ19と命名しています。

アメリカはすでにアポロ計画を中止しており、使っていない機体を
番号をつけずに「最後のアポロ」として飛ばすことにしました。



ASTPは、アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船をドッキングさせる試みでした。

この世界の2大プレーヤーが共同作業に至った理由、それは
1972年に締結された二国間協定に基づくものでした。

間接的には、米ソの間で締結された、核兵器の保有数、運搬手段の制限、
複数弾頭化の制限が盛り込まれた

「第二次戦略兵器制限交渉」

の流れからきていたと思われます。

目的は、将来の米ソ宇宙船のドッキングシステムの研究で、
宇宙空間の平和利用のための協力に関する覚書に基づいて計画されました。

■緊張期

アポロ・ソユーズの目的は、ズバリ、
冷戦時代の超大国である米ソのデタント政策でした。

つまり政治目的事業というやつです。

アメリカが「赤化から世界を救う」ためのベトナム戦争に参戦している間、
当然ですがこの2つの超大国の間には緊張が走っていました。

ソ連の報道機関は一貫してアメリカのアポロ宇宙計画を強く批判し、
例えば1971年のアポロ14号打ち上げの写真には、

「アメリカとサイゴンの傀儡によるラオスへの武力侵入は、
国際法を足元から踏みにじる恥ずべき行為」

というキャプションをつけたくらいです。

一応ソ連のニキータ・フルシチョフは1956年のソ連共産党20回大会で
「平和共存理念」としてソ連のデタント政策を公式化してはいますが、
両国の緊張緩和はなかなかそのきっかけを掴めないでいました。

それは1962年、ジョン・グレンが地球周回軌道に乗った
初めてのアメリカ人となった後のことです。

ジョン・F・ケネディ大統領とフルシチョフ首相との間に交わされた
手紙をきっかけに、NASAのライデン副長官とソ連の科学者、
アナトリー・ブラゴンラヴォフが中心となって
ある計画について一連の話し合いが行われるようになりました。

驚くべきことに、科学者同士の話し合いは、
キューバ・ミサイル危機の真っ只中にあった1962年10月に、
ドライデン-ブラゴンラヴォフ協定として正式に結ばれることになります。

その内容は、気象衛星のデータ交換、地球磁場の研究、
NASAの気球衛星Echo IIの共同追跡などの協力などです。

この時、トップがケネディとフルシチョフであったことは大きく、
雰囲気としては、もう少しでケネディはフルシチョフに
有人月面着陸の共同計画を持ちかける可能性すらあったと言われていますが、
1963年11月ケネディが暗殺され、その一年後フルシチョフが罷免されたため、
それぞれの指導者がいかなる個人的な希望を持っていたとしても、
もう物理的かつ永久にそれは無理となってしまったわけです。

ご存知のように、この後両国の有人宇宙計画間の競争は過熱していき、
この時点でさらなる協力への努力は終わりを告げることになりました。

■宇宙競争と更なる緊張

その後は極度に両国の関係は緊張し、さらに軍事的な意味合いから、
米ソ間の宇宙協力は1970年代初頭にはあり得ませんでした。

1971年6月、ソ連は初の有人軌道宇宙ステーション
「サリュート1号」の打ち上げに成功しており、一方、アメリカは
その数ヶ月前にアポロ14号を打ち上げ、人類を月に着陸させるための
3度目の宇宙ミッションを行っていました。

月競争は終わりを告げたと言っても、そこで両国の関係が変わるはずもなく、
この計画が立ち上がってからも、米ソ両国は
お互い相手の工学技術に対して厳しい批判をし合っていました。

まずソ連ですが、アポロ宇宙船を「極めて複雑で危険」と批判。

ソ連の宇宙船は、ルノホド1号とルナ16号が無人探査機、
ソユーズ宇宙船は、飛行中に必要な手動制御部分を極力少な口することで
ヒューマンエラーによるリスクを最小限に抑えるように設計されていました。

一方、アポロ宇宙船は人間が操作することを前提に設計されており、
操作するためには高度な訓練を受けた宇宙飛行士を必要とする、
というのがソ連の考える「ダメな理由」です。

しかしアメリカはアメリカで、ソ連の宇宙船はダメだと盛んに批判しました。
例えば、ジョンソン宇宙センター所長のクリストファー・C・クラフトは
ソユーズの設計についてこんなことを言っています。

「私たちNASAは冗長構成に頼っている。
たとえば飛行中に機器が故障した場合、クルーは別の機器に切り替えて
ミッションを継続しようとするが、
ソユーズの部品はそれぞれ特定の機能に特化して設計されており、
一つが故障すると、宇宙飛行士は一刻も早く着陸しなければならなくなる」


ソユーズ宇宙船は地上からの制御を前提としていたため
アメリカソユーズ宇宙船を非常に低く評価していたということですが、
自動制御で特別に訓練された宇宙飛行士がいなくても遂行できるのと、
インシデントを予測して人間に対応させるのと、
さて、どちらが安全でしょうという命題となります。

という風に互いのやり方を否定し合っている同士が、
政治的案件で一緒にプロジェクトを成功させなくてはなりません。

しかも今回の計画は、これまでのアポロ計画とは全く違い、
カプセルから飛行することを前提とした実験となるわけです。

結局、アポロ・ソユーズ試験計画のマネージャーであるグリン・ルニーは、
ソビエトを怒らせるようなことを(たとえそう思っていたとしても)
マスコミに話すな!と関係者に注意をしたと言われます。

ルニー「ソ連様を怒らせちゃいけねえだ」

NASAは、アメリカ流の軽口がソ連に理解されにくいことを知っており、
ちょっとした言動や批判が原因でソビエトが手を引き、
ミッションが廃棄されることを心から恐れていたのです。

1971年の6月から半年にわたり、ヒューストンとモスクワで
米ソのエンジニアは会議を行い、宇宙船のドッキングの可能性について
相違点を解決してすり合わせを行いました。

その中には、ドッキング中にどちらかが能動的にも受動的にもなれるという、
2隻間のアンドロジナス周辺アタッチシステム(APAS)設計も含まれます。


そしてベトナム戦争が終結すると、アメリカとソ連の関係は改善され始め、
宇宙協力ミッションの実現性も高まってきました。

アポロ・ソユーズは両国の緊張の融解によって可能となると同時に、
プロジェクト自体にアメリカとソ連の関係を改善する働きが期待されました。

フルシチョフの後任となったソ連の指導者レオニード・ブレジネフは、


いいこと言ってみた

「ソ連とアメリカの宇宙飛行士は、
人類史上初の大規模な共同科学実験のために宇宙へ行くことになる。
彼らは、宇宙から見ると我々の惑星がより美しく見えることを知っている。
私たちが平和に暮らすには十分な大きさだが、
核戦争の脅威にさらされるには小さすぎる」


と述べました。

1971年、ニクソン大統領の外交顧問であったヘンリー・キッシンジャーは、
このミッションの計画を熱心に支持し、NASA長官に対して、

「宇宙にこだわる限り、やりたいことは何でもやってくれ」

と激しくゴーサインを出しています。

そして1972年4月までに、米ソ両国は

「平和目的の宇宙空間の探査及び利用に関する協力に関する協定」

に署名し、1975年のアポロ・ソユーズ試験計画の実行を取り決めました。



ASTP実験の画期的だったところは、初めて外国人飛行士が
ソ連の宇宙船にアクセスすることができるようになったということです。

ソ連の宇宙計画はソ連国民に対してすら情報が秘匿されていたのに、
アポロの乗組員はその宇宙船、乗組員の訓練場を視察することが許され、
ソ連の宇宙開発について情報を共有することになったのですから。

もちろん逆も真なりで、ソ連の関係者は
決してアメリカの宇宙事業に関わることは許されませんでしたが。

まあ、なんというか非常に融和的なおめでたいニュースなのは事実ですが、
ASTPに対する反応がすべて肯定的だったわけではありません。

多くのアメリカ人は、ASTPがソ連の宇宙開発計画に過大な評価を与え、
あるいはNASAの高度な宇宙開発努力を譲り渡すことになると危惧しました。

一方ソ連ではそういうアメリカ側の懸念について、

「ソ連との科学協力に反対するデマゴーグ」

と批判する人もいました。

とはいえ、この事業によってアメリカとソ連の間の緊張は軟化し、
このプロジェクトは将来の宇宙における協力プロジェクト、
シャトル-ミール計画や国際宇宙ステーションなど、
共同作業の前例となったのは動かし難い事実でもあります。

■ 乗組員



アポロ乗組員

司令官:トーマス・スタッフォード(後ろ)
ヴァンス・ブランド(前列真ん中)
ディーク・スレイトン(前列左)


覚えておられる方もいるかもしれませんが、
スレイトンはマーキュリーセブンの一員でした。

彼は心臓に疾患が認められたため、打ち上げをずっと見送って
NASAのディレクターとして宇宙船を「見送る側」でしたが、
ついにこのプロジェクトで宇宙に行く唯一の機会を得ました。

ソユーズ18号乗組員

司令官:アレクセイ・レオーノフ(後ろ右)
フライトエンジニア:ワレリー・クバソフ


レオーノフといえば、人類最初に宇宙遊泳をした男。
絵を描くのが得意で、宇宙でスケッチをしたあの人です。

■打ち上げ



1975年7月15日、2人乗りのソ連のソユーズ宇宙船19号が打ち上げられ、
その7時間半後に3人の飛行士を乗せたアポロ宇宙船が打ち上げられました。





両宇宙船は、7月17日に地球を周回する軌道上でドッキングしました。

その3時間後、ミッション指揮官のスタッフォードとレオーノフは
ソユーズの開いたハッチから宇宙で初めて握手を交わしたのです。


国際握手会開催中

この歴史的な握手により、軌道上での約47時間に及ぶ
ドッキング作業が開始されました。
写真は16ミリ映画フィルムの1コマを複製したものです。


2隻の船が停泊している間、3人のアメリカ人と2人のソビエト人は、
共同で科学実験を行い、旗や贈り物(後に両国に植えられた木の種など)
を交換し、音楽を聴かせ合いました。

ちなみに、ソ連側からは
Maya Kristalinskaya - Tenderness

アメリカ側からは
WAR - Why Can't We Be Friends? (Official Video) [Remastered in 4K]

こんな選曲だったそうです。

「どうして僕たち仲良くなれないんだろうね?
調和して暮らしていけるなら肌の色なんて関係ないのに」




そして彼らは証明書に署名し、お互いの船を訪問して一緒に食事をしました。


スレイトンとレオーノフ

彼らはお互いの言語で会話をしました。
つまり、お互い相手の言葉を勉強していったということです。

この時、オクラホマ出身のスタッフォードのロシア語がソ連側にウケました。
レオーノフは後に、こんなことを言っています。

「ミッションでは3つの言語が話されていました。
ロシア語、英語、そして『オクラホマスキー』です」


ドッキングや再ドッキングの際には、2つの宇宙船の役割が逆転し、
ソユーズが「活動的」な側となることもありました。



そしてその一つがこの「プラーク合体」です。
アストロノー(アメリカの宇宙飛行士)とコスモノー(ソ連の宇宙飛行士)
は、国際協力のシンボルとして、軌道上で記念プレートを持ち寄り、
合体させて完成させました。

■アポロ-ソユーズテストの科学的成果

このミッションで行われた実験のうち4つは、
アメリカの科学者が開発したものです。
発生学者のジェーン・オッペンハイマーは、
無重力が様々な発達段階にある魚の卵に与える影響を分析しました。


あのオッペンハイマーとは関係ありません

44時間一緒にいた後、2つの船は分離し、
ソユーズの乗組員は太陽コロナの写真を撮り、
アポロは人工日食を作るために操縦を行い、短いドッキングの後、
二つの船は分かれてそれぞれの航路をたどりました。

ソ連はさらに2日間、アメリカは5日間宇宙に滞在し、
その間、アポロのクルーは地球観測の実験も行っています。

ASTPで、アメリカは宇宙から地球を体系的に観察・撮影し、
軌道上から地球を探査・研究するための新しいデータを取得しました。

このミッションで、スミソニアン国立航空宇宙博物館が
重要な役割を果たしたことはあまり知られていません。

ファルク・エルバズ博士は、博物館の地球惑星研究センターの創設者であり、
ASTPの地球観測・写真撮影実験の主任研究員でした。
この光地質学実験がミッションに含まれるようになったのも、博士の功績です。

エルバズ博士は、アポロの宇宙飛行士が月を周回する際の
目視観測を訓練した経験があり、今回は地球がターゲットとなりました。

博士は、宇宙飛行士がT-38飛行機で上空から地質を観察し、
写真に撮る練習をするための飛行計画を立てました。

宇宙飛行士は宇宙空間で約2,000枚の写真を撮影し、
そのうち約750枚は雲に隠れていないなど、質の高い写真でした。



地球観測・写真撮影実験 アンゴラ
アフリカ南西部のアンゴラを撮影したもの。(出典:NASA)

エルバズ博士は、地質学、海洋学、水文学、気象学などの分野で
画像を分析する科学者チームを結成しました。
軌道写真は上空を広くカバーしているため、大きな構造物や広い分布、
従来の現地調査が困難な地球上の遠隔地やアクセスしにくい場所などを
直接調査することが可能です。

地図の更新や修正、地球資源のモニタリング
動的な地質学的プロセスの研究、海洋地形の調査など、
これらの写真の用途は広範囲にわたります。


博物館の宇宙戦争ギャラリーでは、ドッキングした状態の
アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船を見ることができます。

展示されているアポロのコマンドモジュールとサービスモジュールは試験機で
2つの宇宙船をつなぐドッキングモジュールは
バックアップフライト用のハードウェアとなっています。

ソユーズ宇宙船は、ソユーズを最初に製造した
エネルギア設計局によって作られた実物大模型です。



最後に、スミソニアン所蔵のソ連の国旗を。

この旗は、米ソ共同のアポロ計画で、アポロ司令船に搭載された
特別な「ギフトバッグ」に含まれていた10枚のソ連国旗のうちの1枚です。

また、アメリカの国旗10枚、白トウヒの種の特別な箱、
宇宙船がドッキングしたことを証明するASTP証明書も含まれていました。

1975年7月、アポロとソユーズが地球周回軌道上でドッキングしている間に
宇宙飛行士の間で贈呈され、交換されたものです。


続く。




靖国神社のチャールズ・リンドバーグ夫妻〜スミソニアン博物館

2022-07-08 | 歴史

前回に引き続き、スミソニアン博物館のリンドバーグ展示をご紹介します。



「ヒストリカル・エアプレーン」の一つとして、それは
ここスミソニアン航空博物館に展示されています。

ロッキード・シリウス ティングミサートゥク
Lockeed Sirius Tingmissartoq

この水上機はセレブリティ夫婦、チャールズ・リンドバーグ夫妻を乗せ、
霞ヶ浦に着水して民衆に熱狂的に歓迎されたことがあります。

680馬力のライト・サイクロンを搭載したロッキード低翼単葉機
シリウスは1929年にジョン・ノースロップらによって設計された新型で、
このモデルは、着水用のポンツーンフロートと地上用の車輪、
いずれかを装着して飛行するよう、特別に設計されています。

チャールズとアン・モロー・リンドバーグ夫妻は、
このロッキード・シリウスで2回の長く危険な飛行旅行を行い、
航空会社の海外ルートを開発するという調査を行なっています。

【1931年、アジア航路の開拓】

一度目、1931年に彼らを乗せたシリウスは東洋へ飛びました。
これが「大圏航路」によって極東へ到達した最初の航空機となります。

のちにリンドバーグは、この旅のことをこう表現しています。

「始まりも終わりもなく、
外交上も商業上の意味も持たず、
求めるべき記録もない休暇」

航空会社の調査とはいえ、この飛行がいかに自由気ままで冒険に富み、
彼らにとっての「心の飛翔」でもあったことがわかる気がします。



グリーンランドのゴダブに訪れたとき、いかなる経緯かはわかりませんが、
エスキモーの少年がこの機体に、現地の言葉で
「ティンミサートク」(『鳥のように飛ぶ者』『大鷲』)と名付けました。

機体の側面には、その少年の手によってこの名前が描かれています。



リンドバーグがパンアメリカン航空の技術顧問を務めていた1933年、
リンドバーグ夫妻はこのシリウス号を使って大西洋を横断し、
パンアメリカン航空の飛行経路を開拓する2回目の任務を行いました。

いずれの飛行も、広大な水域と未知の人口の少ない地域を巡る旅で、
商業飛行という概念を芽生えさせるきっかけを作ったリンドバーグが、
今度は国際的な空の旅のルートを航空会社の要求に応じて探索したのです。

全く商業的な意味が絡まないわけではありませんでしたが、
彼らが心からこの飛行を楽しんだ大きな理由の一つは、
1927年に国民的英雄となって以降、リンドバーグに常に付き纏っていた
世間の目からしばし解放されたことが大きかったかもしれません。

写真は、ロングビーチに到着し、陸揚げされたシリウスと夫妻の姿。


アラスカのエスキモー部落で、犬ぞりに座るアンと後ろに立つチャールズ。



赤線が1931年、破線が1935年の航路を記したものです。
1931年の航路は以下の通り。

ニューヨーク→オタワ→チャーチル→ポイントバロー(アラスカ)
→シスマレフ(アラスカ)→ノーム(アラスカ)
→ペトロパブロフスク(カムチャッカ半島)→ケトイ島(千島列島)
→紗那村(択捉島)→国後→根室→東京→大阪→福岡
→南京→漢口

霞ヶ浦に到着したリンドバーグ夫妻の乗った車を取り囲む人々 

リンドバーグ夫妻が来日した時の詳細は次のとおり。

8月23日、アラスカから千島列島を伝って北海道へ到達

根室に2日間滞在後、26日霞ケ浦へ飛来

フォーブス駐日米国大使、安保清種海軍大臣、杉山元陸軍次官、
小泉又次郎逓信大臣(小泉純一郎の祖父)
ら、
日米の政府高官や海軍関係者など約1000人が出迎える

同日列車で東京へ向かい、
聖路加病院トイスラー院長邸に滞在、
トイスラー邸が東京での根拠地となる

27日から31日まで多数の歓迎式典や表敬訪問

9月1日から4日までフォーブス大使の軽井沢別荘で休養

5日は日光を周遊し
金谷ホテルで1泊、6日に東京に戻る

チャールズが逓信省航空局で飛行計画の打ち合わせや、
霞ケ浦で愛機の点検と試運転など出航準備を進ている間、
アン夫人は博物館の見学や茶道・華道の体験

13日大阪へ飛来後、自動車で京都に入洛し、都ホテルに宿泊

奈良から大阪を経て、福岡へ向かう

9月17日福岡を離陸

冒頭の靖国神社の写真はこのときのもので、
案内をしている陸軍軍人は杉山元陸軍大臣であろうと思われます。

アン・モローはこの時の記録として『NORTH TO THE ORIENT 』を著し、
その中に、関西滞在中、京都の少年がリンドバーグ夫妻の飛行機に潜入し、
密航を企てる事件
が発生したことが書かれているそうです。


ところでこのときリンドバーグがなぜアラスカを経由したかですが、
地球の形状から、アメリカ本土とアジアを最短距離で結ぶには
アラスカに北上する必要があると考えられたからでした。

このとき初めてリンドバーグが飛行機で飛んだことで、
新しく北極圏の航空路が開拓されたわけですが、皆様もご存知の通り、
現在でもアジアとアメリカを結ぶ旅客機のほとんどは
アラスカを経由するルートを飛行します。


前回アラスカ上空で撮ったiPhone写真

アメリカへの行き来の際、アラスカ上空をいつも飛行しているわけですが、
これがリンドバーグが「パス・ファインダー」として成した開拓の賜物で、
後世の我々にあまねく齎した恩恵だったをいうことを今回初めて知りました。

今更ですが、ありがとうリンドバーグ夫妻。



で、このアン・モローの写真ですが、彼女がが着用しているのは、

「パーソナル・フライングエキップメント」

彼女以前に飛行機に乗って極寒の地に飛んだ女性はなかったので、
全ての装備装具は彼女が自前で開発することになりました。

彼女が着用しているのは「ハドソンベイパーカ」「ハドソンベイキャップ」
そしてハンドメイドのストッキング型ブーツ、ミトン。

リンドバーグ夫妻がソ連のレニングラードに到着した時の装いです。
彼女が着ているからオシャレに見えますが、フライト用の実用スーツです。

何しろ飛行機には重量物を積むのはご法度、というわけで、
彼らは自分がフライトで着るアウターウェア以外に
それぞれたった18ポンド(8kg)の服しか持っていませんでした。

靖国神社での彼らの装いを見ると、夏服ですが、
フライトには完全防寒と風避けのため
大使館でのパーティ用の服もあったに違いありません。

今と違って軽い合成繊維の衣類などありませんから、
背の高いリンドバーグのスーツは重く、きっと一着を着回していたでしょう。



スミソニアンはこの「ハドソンベイ・シリーズ」現物を展示しています。

パーカは白のウールで胴のラインは黒。ポケットは二つ。
パーカには取り外しできるフード(左上)が付いています。

ブーツもウールで、これで歩くのはなかなか大変そうですが、
赤と緑の刺繍がなかなかかわいいですね。

ミトンもウールで、赤と青のメランジ風の編み込みがされており、
アン・モローがお洒落にこだわりを持っていたことが窺えます。



アン・モローが驚嘆したアラスカ山脈を越える瞬間を
後世の人が絵にしたものだと思われます。


アウチ。

リンドバーグ夫妻の飛行は最後まで順調でしたが、
中国の漢口で事故が起こります。

イギリスのエアクラフトキャリア「ハーミス」号から
シリウスを揚子江に降ろす際、片方の翼が船のケーブルに当たって
横転したまま川に転落してしまったのです。

ひっくりがえった愛機の上に半裸で乗って、点検しているのは
他でもないリンドバーグ本人です。

破損した飛行機はアメリカに戻さざるを得なくなり、
1931年のリンドバーグの飛行はここで終了となりました。

もしここで飛行機が破損しなければ、リンドバーグ夫妻は
もしかしたらこの後中国国内を何箇所か巡っていたかもしれません。

【1933年の飛行〜大西洋航路開拓】



パンアメリカン航空と他の四つの大手航空会社は、
商業用航空路の開発にビッグビジネスの活路を見出していたため、
リンドバーグに今度は可能な大西洋ルートの調査を依頼しました。

リンドバーグはパンアメリカンのテクニカルアドバイザーとして
ニューファンドランドからヨーロッパへのルートの開発を目的とした
調査飛行に派遣されました。

この時の航路は大体以下の通り。

ニューヨーク→ニューファンドランド→ラブラドール
→グリーンランド→アイスランド
→コペンハーゲン→ストックホルム→ヘルシンキ
→レニングラード→モスクワ→オスロ
→サウザンプトン→パリ→アムステルダム→ジェノバ
→リスボン→バサースト(ガンビア)
→ナタール(ブラジル)→マナウス→サンフアン(プエルトリコ)
→マイアミ→チャールズタウン→ニューヨーク

ニューヨーク出発は7月9日、到着は12月19日でした。
総飛行距離は3万マイル(4万8000キロ強)、
訪れた国は合計で21カ国にのぼりました。

この時彼らの調査で分かった気象条件と地形についての報告は、
航空会社が商業航空路を計画する上で大変貴重な資料となりました。

つまりこの時の調査飛行も、現在の航空会社の航路として生かされています。
ありがとうリンドバーグ夫妻。


【ティングミサートクに積まれた装備と必要品】


リンドバーグ夫妻は、自分たちが歴史に名を残す存在であることを自覚し、
旅行のために用意した品々の大半を大切に保存していました。

スミソニアンではこれらを近年初めて公開し、展示について、

「リンドバーグの素晴らしい計画への洞察力を認識すると同時に、
旅行の時に持って行く荷物に頭を痛めたことのある来館者なら、
長旅のために彼が何を選んだかに共感することでしょう。 」

と自画自賛しています。
そのグッズとは。


当時のグラノーラバー的な麦芽乳のタブレット
グリーンランドの氷冠に不時着したとき用、全長約11フィートの木製ソリ、
スノーシュー、アイスアイゼン
海に不時着したときのためのマストと帆をつけたゴムボート
虫除けや牛タンなどの食料缶色々


また、スミソニアンにはこんな展示もあります。


「これはなんでしょう?」と興味を引くように書かれた水筒のようなもの。



アームブラスト・カップといいます。

顔に装着することで、呼気の結露を飲み水に変えるという不思議なもので、
海に不時着するような非常時を想定したサバイバルグッズです。

飛行機には重量制限があるため、限られた量の水しか積めません。
リンドバーグは、大西洋単独横断飛行の前にこの新発明について読み、
1つ手に入れて持って行ったのです。

彼はこれをシリウス号での旅行にも持参していました。
シリウスでの飛行は順調だったので使われることはありませんでしたが、
いざという時のため、 重さに見合うだけの価値があると考えたのでしょう。

スミソニアンではこの物体の名称がいくつも表記があって、
どれが正しいのかわからなかったそうです。

アンの著書には"armburst "カップと書かれていましたが、学芸員が
この商品の特許を取った人物チャールズ・W・アームブラストの名前から
”Armbrust”が正しいことを突き止めたそうです。

でっていう話ですが。



リンドバーグがシリウスに搭載したものの中には、ソリ、
ピスヘルメット(イギリスの防暑用のヘルメット兼帽子、サファリ帽とも)
蚊除けネット・・と並べると奇妙な取り合わせがありました。

彼らは最も寒い気候の国を通り抜け、最も暑い国に移動したため、
(北極圏に近いところからアフリカ、ブラジルのアマゾンまで)
グリーンランドで氷冠に緊急着陸する場合に備えて組み立て式のソリ、
そしてアフリカやブラジル、南半球ではピスヘルメットで頭部を守り、
さらには虫から顔を守るためのネットも必要だったのです。



スミソニアンには、このロッキード・シリウスが陸上機だった時の
ホイールタイヤが展示されています。
タイヤはグッドリッチ・シルバーストーンというメーカーによるものです。

現在はミシュランのブランドの一つ、「グッドリッチ」となっています。



同じくホイールカバー(英語ではホイールパンツというらしい)。

【チーム・リンドバーグ】



二人の後ろに船員らしき男性の姿が見えていますが、これは
1933年の飛行旅行の際、チャーターされたデンマークの蒸気船、
SS「ジェリング」Jellingの船長ではないかと思われます。



リンドバーグ夫妻の調査旅行に随伴した「ジェリング」は、
調査を依頼したパンナムがチャーターしたもので、リンドバーグの飛行を
燃料などの補給やサポートすることを目的に、カナダの探検飛行家で、
パンナムの社員だったロバート・ローガン指揮するチームが乗っていました。

「ジェリング」は地図で緑色の線で記されている航路を航行して
その間シリウスの後を置い、同時に海上で調査プロジェクトを行い、
気象条件の観察、空港候補地の地図作成、海の深さと潮流の科学測定、
港の地図作成なども行っていました。

このことはパンアメリカン航空の社史のページに、
次の動画とともに掲載されています。

With Charles and Anne LIndbergh in Greenland, 1933


写真でアンが抱えているのは無線機器です。

1931年と1933年のフライトで、彼女は無線手順、モールス信号、
そして天体航法までを完全にマスターしていました。

このフライトで妻に遭遇させるかもしれない「潜在的危険」について
記者に尋ねられたリンドバーグは、このように答えています。

「しかし、覚えておく必要があります。
彼女は乗員であるということです」


すでに彼女は同伴者ではなく、フライトチームの一員である、
ということを言いたかったのでしょう。


続く。




パーシングとパイオニア、レーガンとゴルバチョフ〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-30 | 歴史

わたしが国立宇宙航空博物館、通称スミソニアン博物館を見学したのは、
まだこの世にCOVID19が存在していない頃でした。



これまで紹介してきた歴史的な航空宇宙化学の結集が一堂に。
この様子も壮観ですが、フロアに溢れる人々が誰もマスクしていません。

街ではほとんどマスクを着用しなくなったアメリカですが、
3月11日より見学者のマスクは不要となっています。
ただし、

「訪問中にフェイスマスクを着用した方が快適だと感じる訪問者は
全員、着用することが推奨されます。」


と「マスク派」についても気を遣っています。
ワクチン接種の証明も必要ありませんが、
可能な限りソーシャルディスタンスを保ち、
できるだけ平日の空いた時間に訪問することを推奨しています。


さて、このフロアに立つと、案外目を引くものは
実は地味に奥にある中距離弾道ミサイルだったりします。



特に、表面に升目と文字が描かれたソ連製のミサイルは
その一種異様さで目立っている気がしました。

 ソ連のSS-20と米国のパーシングII

1987年の

中距離核戦力(INF)条約

で禁止された2,600発以上の核ミサイルのうちの2つです。
弾道ミサイルを禁止した条約は、核戦争からの後退の一歩であり、
冷戦終結の前触れとなりました。



ここになぜその二つのミサイルが並んでいるかというと、条約によって、
いずれかの博物館的なところに展示することを指定されたからなのです。

もちろん不活性化してあります。

今日は、そのソ連製SSー20ミサイルと、横に並べられた
アメリカ製のパーシングーIIミサイルについてお話しします。

■パーシングII



  パーシングIIは、1983年から西ドイツの米軍基地に配備された
移動式の中距離弾道ミサイルです。

マーティン・マリエッタが設計・製造した固体燃料式2段式で、
1973年、パーシングの改良型として開発が開始されました。

パーシング1aはかなりの過剰威力だったため、
精度を向上させるという目的でIIを生産することになりました。

攻撃目標はソビエト連邦西部です。

各パーシングIIは、TNT5〜50キロトンに相当する爆発力を持つ
可変収量の熱核弾頭を1つずつ搭載していました。

これに対抗し、ソ連がRSD-10パイオニア(SS-20セイバー)を配備。
こちらが4,300kmの射程と二つの弾頭を持っていたので、パーシングは
東ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア到達する仕様に変更されました。

つまり、この2基のミサイルは、かつて米ソにあって
互いに向けて攻撃するために「睨み合っていた」一対なのです。


■ RSD-10パイオニア SS-20セイバー

RSD-10パイオニア(ракетасреднейдальности(РСД)は、
1976年から1988年にかけてソ連によって配備された弾道ミサイルです。

SS-20セイバーはNAT Oによるコードネームになります。

本体に書かれた「CCCP」表記はキリル文字によるUSSR、つまり
ソビエト社会主義共和国連邦の意味であることはご存じですね。

かつてオリンピックなどで見るソ連選手のユニフォームには
必ずこの4文字が書かれていたものです。



パーシングと比べてもかなり大型で、高さ16.5m、直径が1.9mとなります。

弾頭部分を見ていただくとそのデザインの異様さでお分かりのとおり、
核弾頭を三個搭載することができます。

このミサイルは液体燃料でなく固体燃料を搭載しており、
そのため液体燃料を注入する危険な作業を必要とせず、
命令が出ればすぐさま発射できるというものでした。

ソ連がSS-20を開発した理由については、いろいろな説があります。

1、ソ連のグローバルパワーへに対する挑戦の一環であった

2、SALT条約(米ソ第一時戦略兵器制限交渉)で、
長距離ミサイルが量的制限を受けたため、中距離ミサイルに注力した

3、失敗したSS−16ICMBミサイルプロジェクトのリベンジ企画
あるいはSS16のための技術と部品のリサイクルが目的

4、ソ連がそれまで欠いていた
第二次攻撃力の強化
(第三次世界大戦に向けた洗練された核戦略のため)



4の第二次攻撃能力について少し解説しておくと、これは核戦略用語です。

相手国から第一撃が先制的に打込まれたのちに、
残存している核ミサイル、核搭載有人機などを用いて、
相手国にただちに報復攻撃を加えられる能力を言います。

戦略的にはこの能力をしてそのまま核抑止力とするという考え方ですが、
1960年代国防長官だったアンドレイ・グレチコ元帥は、
第一撃を選択する、つまりし第三次世界大戦が始まったら、
ソ連はNATO諸国に対しすぐさま核攻撃を行う
という考えを持っていました。


グレチコ元帥(映画化の際には配役リアム・ニーソンの予定)

つまり、最初の核先制攻撃で相手の核報復力を破壊するということです。
しかし、これはあくまでグレチコ個人の意見ですよね?(ひろゆき構文)

この意見にソ連内部で反発する意見ももちろんあって、

「洗練された第二次攻撃能力で抑止力を目指すべき」

というものでした。

ちなみにグレチコ元帥は在職中に(いうて72歳でしたが)急死しています。
死因は動脈硬化と冠状動脈不全だったとか。


ともあれ、RSD-10は、ソ連にそれまで欠けていた戦域内での
「選択的」標的能力を提供することになりました。

それはすべてのNATOの基地と施設を破壊する能力を持ち、
ソ連の望む抑止力として十分機能する、とされたのです。

こうしてソ連は、サージカル・ストライク(正当な軍事目標にのみ損害を与え、
周囲の建造物、車両、建物、一般民衆のインフラや公共施設には全く、
あるいは最小限の付随的損害を与えることを目標とした軍事攻撃)
によってNATOの戦術核戦力を無力化する能力を獲得したのでした。




■冷戦における核配備競争への懸念


パーシングIIが飛翔する写真を表紙にしたタイムズ紙。
タイトルは、

「核ポーカー」
掛け金はどんどん高くなる


核の装備が、常に相手を上回ることを目標にしているうちに、
どんどんリスクが高くなっていくことを懸念する内容です。

冷戦下で激化した軍拡競争は、世界中に武器の配備が進みました。

万が一使用すれば、たった1発でも壊滅的な被害をもたらす武器が
世界中を埋め尽くしていくかのような勢いでした。



中距離弾道ミサイルの配備をめぐって、1980年代は
抗議の動きに火がついていくことになります。


■ レーガンとゴルバチョフ




アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンとソビエト連邦書記長、
ミハイル・ゴルバチョフ
の間の相互尊重関係がなかったら、
INF条約の調印はうまくいかなかったかもしれません。

1986年10月11日、12日に開催されたレイキャビク・サミットは、
レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連書記長の2度目の会談でした。

前年のジュネーブ首脳会談に続き、核兵器削減の可能性について議論し
合意を進めた両首脳は合意に至らなかったものの、
多くの外交官や専門家はこのサミットを冷戦の転換点と考えています。

1985年のジュネーブ・サミットで、両首脳は
攻撃型兵器削減の重要性では一致していたのですが、
レーガンが提案した戦略防衛構想(SDI)をめぐる意見の相違が、
交渉の大きな障害となりました。

ゴルバチョフは、もし米国がSDIを効果的に開発すれば、
核の先制攻撃でソ連は不利になるという懸念を持っており、
レーガンの、SDIをソ連と共有するという申し出を信用しなかったのです。

とはいえ、両者はそれまでの米ソの指導者に比べて
はるかに友好的な関係を築くことができていたのは有名です。

その効果もあって、核兵器削減の協力をうたう共同声明が作成され、
米ソ双方に前進への希望を与えることができました。

首脳会談後、レーガンはゴルバチョフに手書きの書簡を送っています。
核兵器廃絶の希望と、ゴルバチョフの協力を確認しようとしたのです。

ほぼ同じ時期に、ゴルバチョフもレーガンに手紙を送っており、
米国がソ連の核実験モラトリアムに自発的に参加することを求めました。

ただ、モラトリアムに同意するということは、
アメリカの SDI 開発を停止することを意味します。
結局レーガンはこの要請に応じることはありませんでした。

ゴルバチョフはレーガンの最初の書簡への返信で、

「宇宙攻撃兵器は、防御と攻撃いずれもの能力を持っており、
極めて危険な攻撃的潜在力の蓄積をもたらす技術です。
これが軍拡競争を激化させることは避けられないでしょう」

と、繰り返し懸念を表明しています。
つまりSDIが交渉の障害になっているのは確かでした。

ゴルバチョフが提案したのは、2000年までに
「核兵器を完全に廃絶する前例のないプログラム」
でした。

その内容は、3つのステージから成っていました。

第1段階
5年から8年で、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の50%削減、
宇宙兵器実験の相互放棄、ヨーロッパからのすべての核兵器の撤去

第2段階
5〜7年で、すべての核実験を中止し、中距離核兵器を整理。
この段階には、他の核保有国(イギリス、フランス、中国)も含む

最終第3段階
残りの核兵器をすべて廃棄し、
「1999年末までに地球上から核兵器を根絶する」


ゴルバチョフはまた、

「これらの兵器が再び復活することのないよう、世界的な合意をすること」

を強く求めました。
(BGM ジョン・レノン『イマジン』で)


彼は、ソ連の核実験に対する自主的なモラトリアムを更新し、
再び米国に参加を呼びかけ、もし米国がこれに応じるならば、ソ連は
以前から争点となっていた相互立入検査に同意する、と書いています。


当然ながら、ゴルバチョフが目指した核兵器廃絶に、
ソ連指導部のすべてが賛成していたわけではありません。

特に軍部が反対していました。

軍部は核軍縮案を提出しましたが、これはソ連が完全な軍縮を支持していると
世界に示すプロパガンダの役割を果たすものにすぎず、
アメリカがこの提案に同意しないであろうことも折り込み済みでした。

レイキャビク会談で、レーガン、ゴルバチョフ両首脳は、
この会談が大きな賭けであることを認識しました。

レーガンは、

「世界に戦争と平和のどちらを残すかを決めるまたとない機会だ」

ゴルバチョフも、

「軍備交渉で行き詰まった外交を解決するのが目的だ」

と同意しました。

この最終会談でのアメリカの提案は、次のようなもので下。

「双方、5年間に戦略的攻撃兵器の50%削減を達成する。
残りのすべての攻撃型弾道ミサイルについて削減のペースを維持し、
2回目の5年間の終わりまでにすべての攻撃型弾道ミサイルを全廃する。
10年後に攻撃型弾道ミサイルが全廃されれば、
どちらかが防衛策を導入する自由を有する」


対してソ連の提案は

「ABM条約の非撤回期間を5年ではなく10年とし、
「対弾道ミサイル防衛のすべての宇宙構成要素」を研究所に限定する。
戦略兵器を5年で50%削減し、10年で全廃する」

というものです。

そこでレーガンとゴルバチョフは、2つの異なる提案のうち、
どの兵器を対象とするかについて具体的に話し合いました。

レーガンは、すべての核兵器を廃絶してもかまわないと言ったそうですが、
この「核兵器のグローバルゼロ」といわれる提案は、
米ソ関係においてかつて前例のないものとなりました。

ゴルバチョフもレーガンに同意し、国務長官だったシュルツも

 "Let's do it."(やりましょう)

と言ったそうです。

やってます


そしてゴルバチョフとレーガンは中距離核戦力全廃条約・INF条約に調印。
1987年12月、ワシントンD.Cでのことです。



今更ですが、INFとはIntermediate-range Nuclear Forcesのことです。

これを受けて米ソ両国は配備していたミサイルを退役させ、撤去しました。

撤去されたミサイルは解体、ないしは破壊されましたが、15基のみ、
博物館への展示を目的に使用不能の状態で保有することが許されたので、
退役したミサイルの一部は博物館に寄贈されました。

というわけで、ここスミソニアン博物館とモスクワの航空博物館には
米ソ双方の政府から、退役したミサイルが寄贈され、
どちらの国立博物館にもパーシングIIとSS-20が並んで展示されています。



スミソニアンのSS-20とパーシングIIミサイル。
SS-20がパーシングIIに比べて太く長いのは、
SS-20の方がペイロードが多く、また射程がより長いためです。


条約の定めるところにより以下に示すミサイルは退役しました。
その後ミサイルは廃棄され解体、または破壊されましたが、
作業は検証の対象となり、ソビエトでの爆破によるミサイル破壊作業は
マスコミにも公開されたそうです。

アメリカ合衆国
  • MGM-31A パーシングIb
  • MGM-31B パーシングII
  • BGM-109 地上発射巡航ミサイル

    ソビエト連邦
    • R-12(SS-4 Sandal)
    • R-14(SS-5 Skean)
    • OTR-22(SS-12 スケールボード)
    • OTR-23 Oka(SS-23 スパイダー)
    • RSD-10 Pioner(SS-20 セイバー)
    • SSC-X-4 Slingshot - Kh-55(AS-15 Kent)
      空中発射巡航ミサイルの地上配備型

OKA(スパイダー)



最後のオカー廃棄に関する報告書に署名する米ソ担当者の図



また、スミソニアンでは、このような部品を見ることができます。

パーシングIIのロケットケーシングから排除された部分で、
楕円形のアクセスプレートには八つのネジ穴があります。



写真を失敗してよくわからないのですが、右側がその部品、



これはSS-20を破棄のため爆破した際残った部分です。


本条約はソビエト連邦が崩壊した後はロシア連邦に引き継がれましたが、
2010年代、ロシアは巡航ミサイルの開発を進めていたため、
アメリカは、これが条約違反に当たると指摘しています。

世界が感動したレーガンとゴルビーの努力も、喉元過ぎればというのか、
時間が経つとどちらの側にも条約違反がみられ、
条約を守らないことが対立の火種になるというスパイラルに陥りました。

さらにややこしいことに、この条約に参加していない中国が
ミサイル開発を推し進め始めたため、アメリカは2019年、
トランプ大統領政権下で本条約の破棄を表明することになりました。

ロシア連邦もこれを受けて条約の定める義務履行を停止し、
本条約は2019年に失効しました。



スミソニアンのこのコーナーには、ロナルド・レーガンの言葉、

「私とゴルバチョフの間の最初の手紙は、
我々の国の間のより良い関係だけでなく、
二人の人間同士の友情の基礎となるものの両側で
慎重に始まりを示したことを私は理解しています」


そして、ミハイル・ゴルバチョフのソ連政治局会議での言葉、

「世論で外の世界に印象を与える最大のステップは、
私たちがパッケージを解き、私たちの最も強力なミサイルを
1000発削減することに同意するかどうかにかかっている」


という言葉が並べられています。


続く。


ソ連のムーンショットは成功する可能性があったのか〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-12 | 歴史

「宇宙開発戦争」(Space Race)というテーマであるスミソニアン展示から、
これまで、まずは先んじたソ連のボストーク計画、
そして追いつけ追い越せのアメリカがマーキュリーとジェミニ計画で
着実にソ連の後を追ってきたところまで紹介しました。

今日は、ソ連の最後の頑張り?となった月探索計画についてです。


1958年から1976年まで、ソビエト連邦は、宇宙に自動探査機を送り込み、
月を周回、着陸させ、探査機を実際に歩かせることができました。

3機の探査機が月の土サンプルを採取し、地球に持ち帰ったこともあります。
しかし、ソ連は宇宙飛行士を月面に着陸させる、とは表明しませんでした。

アメリカが、ジョン・F・ケネディの目標で月に人を送る、と宣言しても、
ソ連はそれまでわかりやすくアメリカに勝つことに挑戦してきながら、
それでもその目標を言明することがなかったのです。

これはなぜだったのでしょうか。

徹底した秘密政策のため、それらがわかったのは冷戦終結後となりました。
そのとき、ソ連の月探査計画の実態もまた明らかになったのです。

新たに公開された日記、技術文書、宇宙機器などから、後世の人々は
ソ連の野心的な有人月探査計画の一端を垣間見ることになりました。

人類の月着陸を言明しなかったにもかかわらず、その資料の中には
月着陸のための宇宙服のプロトタイプなどが見つかったのです。

これは、ソビエト連邦が月着陸に本気で取り組んでいたことを意味します。

■ ミーシン日記



ソ連のトップ技術者だったセルゲイ・コロリョフが急死した後、
後任となったのは、実験設計局でコロリョフの副官であるロケット科学者、

ヴァシリー・パブロビッチ・ミーシン 
Vasily Pavlovich Mishin
 Васи́лий Па́влович Ми́шин (1917 – 2001)

でした。

コロリョフの下で彼は多くの宇宙プロジェクトを共に手掛けていたので、
1966年に彼が亡くなると、ところてん式に主任設計者に就任し、
ソ連の有人月探査計画の責任を引き継ぐことになったのです。

ミーシンは第二次世界大戦末期に、やはり
ナチスドイツのV-2施設を視察しています。

そして、コロリョフの副主任時代、ソ連初のICBMやスプートニク計画、
ボストーク計画にももちろん参加しています。

主任としてL1、N1-L3有人月探査計画、ソユーズ有人宇宙船、
サリュート宇宙ステーション、さらにMKBS軌道基地をはじめとする
いくつかの無名の計画の飛行試験段階において、同局を率いました。


コロリョフが大腸癌摘出手術中に死亡、つまり急死したので、
ミーシンがコロリョフ主導でやりかけていた開発を引き継いだのですが、
これは全体的に、ソ連の、とにかく世界初ならあとはどうでもいい的な、
拙速で人命を軽視した計画であったと言われています。

ソ連は、1961年にケネディの人類月着陸宣言が行われる前から、
アメリカに先んじることだけを目標に、人類の月着陸計画を進めました。

しかし、そのN1ロケットプログラムとは、
主に資金不足からなる致命的な欠陥をはらむものであり、
ミーシンはその負の遺産を引き継ぐ形で責任者となったのです。

全てに失敗したN1(エーヌ・アヂーン)計画

(横に倒してお見せしております)

N1の開発はミシンが指揮を執る10年前の1956年から始まっていました。
そのミッション目的は月着陸

しかし、コロリョフの下では、資金不足で適切な設備にお金が回らないため、
そして試験飛行を少しでも早く行うという目的のため、
通常の地上試験の多くを省くという、
どう考えても拙いんでないかい的な前例が始まっていました。

ミーシンはそんな状態のプロジェクトを引き継いだのですから、就任後、
技術的失敗に直面したとしても、必ずしも彼のせいではないともいえます。

ミーシンの名誉のために付け加えておくと、
彼が非常に優秀な技術者であったことに間違いはなく、
例えばエンジンの故障に対処するため、KORDシステムといって、
もしモーターが故障した場合、自動的に反対側のモーターを
ロケット基部で停止させて(バランスのため?)
自動計算によって欠けたモーターを補うと言う装置を導入したりしています。

このシステムは、1969年の最初のテスト飛行で早速正常に作動し、
配管が原因で火災が起きたにもかかわらず、大ごとになることを抑えました。

しかし、N-1ロケットは結局4回の試験打ち上げ全てに失敗しました。

その失敗は、全て引き継ぎが行われた段階で、ミーシンがもし
さらなる試験を行っていれば、回避できたかもしれないものでした。

ミーシン日記

さて、ここスミソニアンには、そのミーシンが
多忙な仕事の合間に残した日記が展示されています。

日記と言ってもこれらは1960年から1974年までにミーシンが残した
ソ連の宇宙開発における日々の動きと、決定されたことなどのメモ、
会議のメモ、To-Doリスト、プレゼンテーションのアウトライン、
そして技術的な計算メモなどで、完全な文章はほとんどありません。

メモなので略語も多く、原文はロシア語が読めても理解不能だそうですが、
略語の専門家による解釈が入った「完全版」が2015年に発行されています。

ちなみに解読チームはここまで漕ぎ着けるのに何年もかかっています。


それによると、ミーシン日記は、ソ連の宇宙開発をめぐる
多くの謎と論争に洞察を与えてくれるものだそうです。

また、これにより、ソユーズ有人軌道シリーズ、
ソユーズ・コンタクト・ドッキングシステム実験、月着陸船Ye-8、
ソユーズ-Sなど、不可解なプログラムの根拠が明らかになりました。

ここに経年劣化で破損しそうな手帳のページのコピーが展示されています。


この、1965年の記述で、ミーシンは、今後のソ連の宇宙活動は
設計局が主導的な役割を果たすであろう
とその根拠を要約しています。

そして、軍事衛星、宇宙ステーション、宇宙飛行機、
月での様々な活動について言及し、また、月への有人着陸に必要な道具、
地図、宇宙服などの品目、そしてそこで行う作業も数多く列挙しています。

ナンバーが項目ごとに振られていますね。


1967年、ボルシェビキ革命50周年記念のために計画された
宇宙開発の概要、月周回有人飛行とN-1の実験がリストアップされています。


1968年の日記で、ミーシンは3つの主要な宇宙飛行計画のため、
宇宙飛行士候補の名前をリストアップしています。

地球軌道、周回軌道、月着陸の3つの宇宙飛行計画の候補者には、
アレクセイ・レオーノフ、コンスタンチン・フェオクティストフ、
その他エンジニアやソビエト空軍のパイロットの名前が書かれていました。


このページは他のと違い、日記の体をなしているように見えます。
この1960年の時点で、ミーシンはこんな爆弾発言をしています。

「コロリョフは、月や火星への有人飛行を含む
長期的な科学的宇宙探査の基本計画を採択するための議論と、
政府の遅れに非常に
失望していた」

結局、ソ連が有人月探査を決定したのは、
アメリカが宇宙開発競争の究極の目標である月面着陸を実現した後でした。

その他、ミーシン日記にはこのようなことが書かれていました。

「我々はもはや、ソ連の有人周回飛行では、乗組員を着陸船と切り離して
別に打ち上げなければならなかったことは間違い無いだろう」

「ソ連の有人月面着陸は、N1スーパーブースターを2回打ち上げ、
2回目の打ち上げでホーミングビーコンを月面に着陸させ、
バックアップの月面着陸船も一緒に打ち上げるというものであっただろう」

果たしてその方法が可能だったのかどうか。

アメリカに初の月面着陸を奪われて以降、ソ連はその研究を中止したので、
それは永遠の謎となってしまいました。

ミーシンに対する評価

ミシンはロケット工学者としては優秀な人物でしたが、行政官、
リーダーとしては有能とはいえず、月面着陸計画の失敗の責任者とされます。

仕事のストレスのせいか、元々そうだったのかはわかりませんが、
アルコールを大量に摂取したため、それも非難される原因となりました。

ついにはソビエト首相のニキータ・フルシチョフが

「(彼は)彼の肩にかかっている何千人もの人々もの管理に対処する方法、
かけがえのない巨大な政府の機械(ロケットのこと?)を
なんとかして働かせるための方法を全く考えていない」

と詰るまでになります。

非難の声は現場からも上がりました。

1967年5月、ユーリ・ガガーリンとアレクセイ・レオノフは、
ミーシンの

「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知識の低さ、
飛行や訓練活動において宇宙飛行士と協力することの欠如」


を批判し、ガガーリンにとってはこれが一番の理由だと思いますが、
確実に失敗すると分かっていたのに決行して、

ウラジーミル・コマロフが亡くなったソユーズ1号の事故

に関する公式報告書に彼の責任を書くべきだと言いました。


ソユーズ1号とその事故現場、そしてコマロフ

また、 レオーノフはミーシンについてこうも断罪しました。

「いつもためらっていて、やる気がなく、決断力に欠け、
リスクを取ることを過度に嫌がり、宇宙飛行士の管理が下手」

うーん、これは決定的にリーダーシップに欠けるってことですかね。

彼の任期中の失敗は、ソユーズ11号のコマロフの事故死以外には、
3つの宇宙ステーションの損失、
火星に送った4つの探査機のコンピュータ障害などがあります。


4回のN1テスト打ち上げがすべて失敗し、その責任を取らされる形で、
1974年5月15日、おりしも入院中だったミーシンは主任を解雇されました。
後任となったのは彼のライバルだったヴァレンティン・グルーシコでした。

その後、ミーシンはモスクワ航空研究所のロケット部長として
教育・研究を続け、宇宙開発における功績により、
社会主義労働英雄の称号を授与されています。

そして、2001年10月10日、モスクワで死去、享年84歳でした。



■ソ連の月着陸計画

さて、話をまだミーシンが主任だった頃に戻します。

コロリョフは在任中月面着陸のための宇宙船の設計にも着手していたので、
ミーシンが指揮をとるようになってからハードウエアの製作が引き継がれました。

ソ連は数種類の異なるプログラムを月探索のために立ち上げていました。
以下それを列記します。

【ルナ】 1959〜1976
各種自動軌道周回機、着陸機、土壌サンプルリターンカプセル


Luna2



【L-1/Zond】1965~1970
自動周回飛行、『有人月周回飛行』の試運転



2人の宇宙飛行士を乗せて月面を1周する有人宇宙船L-1は、
度重なる機器の故障により、クルーを乗せずに飛行しました。



しかし、有人月探査に必要な宇宙船と操縦方法をテストするため、
L-1の無人宇宙船がZond(プローブ)という名前で5回月面に飛んでいます。
1968年9月、ゾンド5号は初めて月を周回し、地球に帰還しました。

【ソユーズとコスモス】1966〜1969
月探査機とマヌーバをテストするための

地球軌道上での有人および自動ミッション

ソユーズ1号のコマロフ、ソユーズ11号では宇宙飛行士3名が酸欠で死亡

【ルノホード Lunokhod】1970~1973
 自動月探査機



1970年と1973年の2回のルナ・ミッションでは、
着陸地点周辺を歩き回るロボット探査機「ルノホード」が搭載されました。

乳母車じゃないよ

ルノホードは、写真撮影や岩石・土壌サンプルの分析など、
宇宙飛行士が月で行うのと同じような作業を行うことができました。

このようにソ連のロボット探査機は成功を収めていたのにもかかわらず、
アメリカの有人探査の影に隠れてしまいました。

【L3 】1968年末予定
「マン・オン・ザ・ムーン」実行されず


アメリカのに似ているような

有人月面着陸計画(L-3)は、軌道船と着陸船で構成されていました。
(ミーシン日記に書かれていた通り)
月着陸船のプロトタイプは、1970年と1971年に3回、コスモスという名前で、
乗員を乗せずに地球周回軌道上で実験に成功しています。




ソ連の月着陸船は、アポロ月着陸船の半分の大きさ、重さは3分の1でした。

月面に降り立つ宇宙飛行士は一名、
もう1人は月周回軌道に留まることを想定していたそうです。

しかし、度重なるロケットの不具合により、
有人飛行に至らず計画は中止されることになりました。



スミソニアンには、ソ連が開発していた月探査用の宇宙服があります。

「クレシェット(黄金の鷹)」と呼ばれるこの宇宙服は、
アポロの宇宙服とはいくつかの点で異なっています。

まず、バックパックの生命維持装置がドアのようにヒンジ式になっていて、
宇宙飛行士がスーツに足を踏み入れて着用する仕組みです。


展示されていない後ろから見たスーツ。
宇宙服というよりもはや人体用カプセル。

手足は柔軟に動かすことができますが、胴体は半剛体のシェルとなっており、
胸部のコントロールパネルは、使用しない時は折りたたんで収納できます。
そしてブーツは柔軟なレザー製。

ヘルメットはアポロのものと同じような感じで、
ゴールドコーティングされたアウターバイザーは、
明るい日差しから身を守ります。

生命維持装置のバックパックも同様で、酸素供給、スーツ内圧、
温度・湿度調整、通信のためのシステムが搭載されています。

同様の宇宙服を、ロシアの宇宙ステーション「ミール」で
外部活動する宇宙飛行士が使用しました。


しかし、ソ連が人類を月に打ち上げる日は来ませんでした。
月着陸船、月探査船、そしてこんな高性能な宇宙服まで持っていたのに。

それはなぜか。

彼らに欠落していた重要な部分は、ただ一つ。
有人宇宙船を月に送るのに十分協力で信頼性に足るロケットの存在
でした。

コロリョフが死なず、ミーシンが上に立たなければ、
あるいは共産党政府が資金をふんだんに出し、
目先の「初」にとらわれず、人命を重視した宇宙開発をしていれば、
結果はあるいは逆転していたのかもしれません。

誰もが考えずにいられませんが、所詮歴史に「もし」はないのです。


ちなみに1959年から1976年までにソビエトが打ち上げた
約60機の月探査機のうち、成功したのはわずか20機だったということです。



続く。


宇宙のトイレ事情(大変)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-10 | 歴史

さて、当ブログ的にも画期的なシリーズとなった「宇宙のトイレ事情」。

前半では発射台でお漏らしをさせられたアラン・シェパードから、
NASAから渡されたラテックスの筒に行ったジョン・グレン、
そしてそれを踏襲したアポロ11号の月面着陸メンバーに至るまで、
歴代宇宙飛行士の「小事情」を「小編」としてお送りしました。

というわけで今日は「大編」となるのですが、
タイトルの「大変」は決して変換ミスではありません。

その実態を知ると、あえてこのように言い換えずにいられなくなったのです。

■ アメリカ宇宙飛行士と”袋”の関係



それまで見て見ぬふりをしていたNASAが、初めてその問題に取り組んだのは、
1960年台のジェミニ計画が始まってからのことです。

しかし、取り組んだと言っても、そのために最初に作られたのは、
宇宙飛行士のお尻に貼り付けるだけの「袋」でした。

そう、またしても袋です。

NASAというところは、この問題についてどうしてこう投げやりなのでしょうか。
もしかしたら君ら、エンジンの機能とかを考える人の方が、
快適なトイレを設計する人より偉いとか考えてないか?

そんなNASAが宇宙飛行士に課したミッションとは次のようなものでした。

「排便後、クルーは袋を密封し、液体の殺菌剤を中身に混ぜて練り、
望ましい程度の固形の安定化を図る必要がありました」

「望ましい安定状態」ってどんなのだよ!
「混ぜて練る」って宇宙飛行士に一体何させるんだよ!

これってあれですよね。
通常なら見るのもアレな自分の●を袋ごしにねるねるねるねろと。

しかしさすがのNASAも、これを当たり前と思ったわけではなかったらしく、

「この作業は著しく不快であり、膨大な時間を必要とするため、
低残渣食品と下剤が一般的に打ち上げ前に宇宙飛行士には使用されました。」

低残渣食品とは、泊まりがけのドックを経験した人ならご存知、
検査前日の夜に食べさせられるアレです。

流動食のように腸に長時間とどまらない食べ物で、
人間ドックで大腸の内視鏡を行う前の日は、昼夜食べさせられます。
その上で腸を空っぽにして搭乗するように推奨していたというあたりからも
いかにこのミッションが恥辱に満ち、不評だったかがわかります。
(まあ好評なわけないんですけど)

でも、・・・あれ?
マーキュリー計画時代、アラン・シェパードが打ち上げの日取った朝食は、

オレンジジュース、フィレステーキのベーコン巻き、スクランブルエッグ

というガッツリ高残渣が予想されるもので、ミッションが成功したため、
その後しばらく、宇宙飛行士たちは、飛行前にステーキと卵を取るのが
一種の「伝統」になっていたと聞きましたよ?

証拠写真。シェパードとジョン・グレン朝ご飯。



証拠写真もう一つ。奥、ガス・グリソム。
ジェミニ3の打ち上げ前です。
これもステーキとスクランブルドエッグがテーブルに並んでいます。



もう一つ。「伝統食」を前に、アポロ11号付き着陸メンバー。
左からニール・アームストロング、コリンズ、バズ・オルドリン。
(手前の人は知らん)

もしかしたら、歴代飛行士、袋を揉むという作業の不快さを甘く見て、
というか考えもせず、そんなことより出発前のステーキウエーイ!
って感じだったのか。

そして、案の定、
写真でステーキやら卵やらを平気で食っているアポロ11号のクルーには、
他のすべてのアポロミッションと同様に、
悪臭を放つ袋と格闘する運命が待っていたのです。

その過程はこうでした。

NASAの報告書によると、

「体内からあれを除去するための積極的な手段を提供するシステムがないため、
機内でのあれ収集は、極めて基本的なシステムに頼らざるを得なかった」

「使用された装置は、あれを捕らえるために
臀部にテープで固定されたビニール袋であった」



左下にあるのがその「袋」となります。
「Facial bag」と書かれているものですね。

この袋には、トイレットペーパーを入れるスペースがあり、
指をかけるカバーが内蔵されているので、
お尻に袋を乗せても清潔に保つことができました。(意味不明)

使用時にはどうするか。

その時は宇宙服の背中にある小さなフラップの中に袋をセットするのですが、
この作業は決して簡単ではありませんでした。
あるアポロの宇宙飛行士は、その準備に約45分かかったと推定しています。

それでも、このトイレ袋の仕掛けは完璧ではなく、事故も起こりました。


1969年5月のアポロ10号のミッション中、
宇宙飛行士のトム・スタッフォードがアラートを発声しました。

そのログは、NASAの公式記録に残されています。

「ナプキンを・・早く持ってきて!
空中にあれが浮いてる!」


左より:ユージン・サーナン、スタッフォード、ヤング

「それ」が誰のものだったかは今に至るまでわかっていないそうです。
ジョン・ヤング飛行士(右)は、

”I didn't do it. It ain't one of mine."
「俺じゃない。俺のものじゃない!」

と否定したとNASAの記録にはあるそうですが、のみならず、
この時3人とも全員が自分のじゃないとシラを切り続けました。

NASAのために言い訳するつもりは全くありませんが、どうしてNASAが
頑なに袋にこだわったかというと、それは検査のためでした。

人体の宇宙における生理的いろいろのデータを取るために、NASAは
宇宙飛行士がすべての排泄物を持ち帰ることを主張したのです。

そこでアポロ宇宙飛行士は用を足した後、報告書の詳細にあるように、
袋を密閉して「練り」、排泄物を安全に地球に戻すため、
殺菌剤を混ぜて、終わったら
よりによって食料品を入れる箱に入れて持ち帰りました。

しかし、もし、その練るという工程で少しでも手を抜くと、
袋の中でガスが発生し、袋が破裂して中身が漏れ出す
という大惨事が起こるのでした。

ジェミニ7号には、あの「アポロ13号」の船長も務めた
ジム・ラヴェルとフランク・ボーマンが乗っていましたが、
この事故で船内には復路の中身が飛び散りました。

しかし、どうしようもないので帰還まで1週間の間、
ただ我慢していたそうです。
ドライブと違って、そのくらいの事故では帰るわけにいきませんしね。

ちなみにこのラヴェル-ボーマンはアポロ8号でも悲劇に見舞われています。

ボーマンが宇宙酔と下痢で、上からも下からも液状のものを排出したため、
乗員3人は(特にやらかした本人のボーマンは)泣きながら掃除をしました。

この時、ラヴェルは、NASAの連中の「気の利かなさ」について、

「NASAの理系野郎たちは、
No.2に液体が存在しないと思っていたんじゃないか」

と皮肉っています。
ナンバーツーとはそれを婉曲に言うための隠語です。

さて、薬を混ぜて練られた後、袋は
「できるだけ小さく丸められて」保管されることはお話ししました。
そのやり方は、バックパッカーの掟、
「詰め込んで、詰め込む」という、マントラに忠実に。

現在、アポロ11号ミッションにおける5つの宇宙での
排泄物の完全なログが残されているそうですが、
この「完全なログ」の状態がどんなものかはどこにも記されていません。

しかし、当然のことながら、アポロ計画の最終トイレ報告書には、
「臭いの問題が絶えず存在した」と当然の結果が記されることになりました。

そして、このように結論づけられています。

「アポロの廃棄物管理システムは、
工学的見地からは満足のいくものであった。
しかし、クルーの受容性の観点からは、

システムには悪い評価を下さざるを得ない」

NASAの理系野郎たちにとってたとえ問題がなくとも、
現場の人たちには我慢できないものだった、と言っているわけですな。

宇宙で排泄することは、非常に気持ち悪く、時間もかかり、
済んだら済んだで臭いも耐え難く、何と言っても精神にきます。

そこで宇宙飛行士は打ち上げ前に下剤を服用したり、
腸の動きを遅くする薬に頼る人までいました。

早めるか遅めるか、という選択で、できるだけ現地での運用を避けたのです。
それだけこれは嫌な「仕事」だったということです。


■アポロ11号の場合

さて、打ち上げ前にガッツリステーキやら卵やらベーコン食ってた
アポロ11号のメンバーはどうだったでしょうか。
彼らは他のミッションと違い、月着陸を目標としています。

アポロ計画でそれまでは「袋」を着用していたと述べました。
が、月面で宇宙服を着たままでは、流石に
この袋で排泄物を受け止めることができません。

そこで、アポロの宇宙飛行士は、宇宙船を離れるときに

「fecal containment(封じ込め) system」

という、基本的にはおむつのようなものを身につけました。
これはNASAの誇る技術の粋を集めたもので、
吸収素材を何層にも重ねたアンダーショーツで構成されていました。

今なら高分子ポリマーとか、なんなといい素材ができていますが、
この頃の吸収素材がどの程度だったかはわかりません。

月面着陸をしたバズ・オルドリンとニール・アームストロングが
21時間36分の月滞在中にこの「システム」をフル活用したかどうかは
NASAの記録はわかりませんが、公式にははっきりしていません。

しかしバズは他の天体でNo.1をした最初の人間であると主張しています。
なんでも、月着陸40周年記念の講演会か何かで、彼は、

「外は地獄のように寂しかった」

といった後、こう付け加えたのだそうです。

「私は宇宙服の中でPをしたんです」

なぜそのセリフの後にそれが来る。


バズ・オルドリン(オムツ着用中)


1975年にアポロ計画が終了した後、無重力状態で「する」ための仕掛けは、
それ以来、少しずつではありますが、快適になっていきました。

少なくとも宇宙飛行士は、排泄物が周囲に浮かないように
「する」のが上手になりました。

そんなこと上手になってどうする。

■ 女性宇宙飛行士の場合

NASAで665日という記録的な宇宙滞在をした女性宇宙飛行士、
ペギー・ウィットソンは、
宇宙でのトイレは無重力空間中の行動で最も嫌いだと言っています。


最初のPキャッチャーをNASAはロールオンカフと呼んでいましたが、
この器具は、そもそも女性が使うようには設計されていませんでした。

いわゆる「袋の時代」を経て、1973年にNASAが
最初の宇宙ステーションであるスカイラブを建設したとき、
何カ月も宇宙で生活することになる宇宙飛行士のためには
いよいよ本当のトイレが必要になってきました。

スカイラブは1973年と1974年に3回の有人宇宙飛行を支援し、
最後の最長ミッションは84日間にものぼりました。

スカイラブの宇宙飛行士の「トイレ」は、基本的に壁に穴が開いていて、
扇風機と袋が接続されているというものです。

スカイラブに搭乗した男性は、排泄した後、排泄物を熱で真空乾燥させ、
廃棄物タンクに捨てたり、研究したりしなければなりませんでした。

そして、スペースシャトル時代の到来とともに、
宇宙での女性(とトイレ!)の活躍も始まったのです。

女性宇宙飛行士が打ち上げ時や宇宙遊泳時にトイレができるように、
NASAは使い捨て吸収式コンテナトランクを作りました。

開口部の幅は4インチ以下で、通常のトイレの穴の4分の1程度の大きさです。
そのため、宇宙飛行士はまず地上でトイレの訓練を受けなければならず、
また、特殊なシート下カメラを使って狙いを定める試験も行われました。

トイレに紙を入れることは許されず、それは別に捨てなければなりません。

マイク・マシミーノ宇宙飛行士は、宇宙トイレに座るときを
このように表現しています。

「まるでチョッパーバイクに乗っているような姿勢になるので、
地上では大腿部の拘束具を使って壁に貼りつきました。
宇宙で『イージー・ライダー』のピーター・フォンダになった気分です」

と。

いつしか時代は変わりました。
宇宙飛行士は袋を揉むミッションから解放されました。

宇宙飛行士が用を足した後廃棄物は、ビニール袋に入れられ、
最終的には地球に向かって疾走する間に燃え尽きてしまうのです。

しかも、それはサステイナブルなリサイクルまで可能となりました。

現在、ISSのトイレはかなり効率的に尿を回収することができ、
約80~85%がリサイクルされて宇宙飛行士の飲み水になります。

自給自足というわけです。

また、宇宙飛行士は、宇宙遊泳時や打ち上げ・着陸時、
また男女の宇宙飛行士が同空間?で宇宙遊泳をする場合には
吸水速乾性ガーメント(オムツですね)を使用し、配慮します。

■これからの宇宙トイレ問題

2017年、NASAは宇宙飛行士が(例えば火星へのミッションのように)
何日も宇宙服に拘束された場合に起こりうる問題を解決するために
「Space Poop Challenge」を立ち上げました。

NASAは民間に問題を丸投げする作戦に出たのです。

最優秀賞の15,000ドルを獲得したサッチャー・カードン博士のシステムは、
宇宙服や衣服の股間にある小さなアクセスポートを使い、
そこに付けた沢山のバッグやチューブから排泄物を逐一回収するもの。

この発明は、飛行士が宇宙服を脱がずに下着を交換するのにも役立つでしょう。

サッチャー・カードン博士は空軍将校、家庭医、航空外科医でもあり、
同じ設計コンセプトで、体の他の部位にも緊急手術が可能だと述べています。

「へその真上にこのようなポートをつければ、
腹部の手術ができるようになるかもしれません。

宇宙飛行士が宇宙で小惑星の採掘のような外傷を伴う状況になった場合、
そのポートが命を救うという場面もあるはずです。」

■ ミールの宇宙トイレ

ミール宇宙ステーション、女性型汚物処理装置

さて、そこでスミソニアンの展示です。



アルミニウム製の大型タンクにキャップを取り付け、
ゴム製とプラスチック製の2本のホースを、
グレーのラッカー仕上げの台座に取り付けています。


1986年から2001年までの地球軌道で、ミールは
長らく運用されていた宇宙ステーションでした。

ミールユニットには、宇宙ステーションの
主調な廃棄物処理タンクに接続するチューブがあります。

このトイレには女性用アタッチメントが取り付けられています。


つい最近、日本の富豪が宇宙飛行を経験していましたが、
そこでの生活は、少なくともトイレとかお風呂に関する限り、
リッツ・カールトンのように快適とではなかったことは想像できます。

時代を経て進化したとはいえ、最後はオムツ頼み。
これが現在の限界なのです。

1975年にNASAがぼやいたように、その問題は
宇宙と関わる人間にとって、最後まで完璧には解決できないかもしれません。

もうこれは仕方がないかな。


続く。



フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフの「手品師の杖」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-05-08 | 歴史

米ソの宇宙開発では、多くの組織で何十万人もの人が働いていました。

どちらの側にも多くの優秀なエンジニア、有能な管理者、
そして「ドリーマー(夢見る人)」がおそらくはたくさんいましたが、
二カ国のそれぞれの頂点に立って、重要な技術的、
管理的役割を果たした二人の人物のキャリアには、
この両大国における違いのいくつかが物語られていると言えます。

アメリカ側に君臨したのは、チーフデザイナーとして実力もあり世評が高く、
アメリカの一般社会で大変よく知られた人物でありましたが、
方や、秘密主義のベールで覆われたソ連側の人物については、
その情報の多くが彼の死後まで公にされることはありませんでした。

今日は、「宇宙開発競争のライバル(Competitors)」というタイトルで
フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフについてお話しします。

■ ヴェルナー・フォン・ブラウン



「ミサイル・マン・フォン・ブラウン」

などとタイムの表紙で呼ばわれております。
サー・エルトン・ジョンかな?・・あれはロケット・マンか。

陸海軍が別々に宇宙開発(というかミサイル開発ですね)を行なっていたため、
要するにこんなことだからソ連にスプートニクられたんと違うんかい、
と考え、反省したアメリカは、三軍の垣根を取り払った宇宙開発組織、
NASAを立ち上げたわけですが、その創立直後、
ドイツ出身の科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン率いる
陸軍の弾道ミサイル研究所は、民間の宇宙開発組織になり、
そして1960年にはNASAの一部として、アラバマ州のハンツビルにある
マーシャル宇宙航空センターの中核をなすことになりました。

1970年まで、フォン・ブラウンはマーシャルセンターの初代所長として
アメリカの月ロケットである巨大なサターンVを含む、
ロケットとロケットエンジンの開発を担当しました。

フォン・ブラウンは宇宙探査開発研究の熱心な支持者でした。

1950年代、それは世界中の人の関心が宇宙に向けられつつあった頃ですが、
彼はこの頃将来必ず訪れるであろう宇宙時代を描いた一連の雑誌記事、
そしてテレビ番組に出演し、その存在は有名になります。

Disneyland 1955 - Man in Space - Wernher von Braun

途中からフォン・ブラウン(英語ではフォンではなく”ヴォン”と発音する)博士の
解説が始まりますが、さすがドイツ人、英語がわかりやすい(笑)
英語の字幕をつけるとさらにわかりやすくなりますのでお試しください。

【初期の人生】

ヴェルナー・フォン・ブラウンは1912年3月23日、
当時のドイツ帝国の小さな町ヴィルジッツで生まれました。

政治家だった父も、母も中世ヨーロッパの王族を祖先とする貴族で、
父の名前には「フライヘア」という称号がついています。

彼のバイオグラフィを見ていて、当ブログ的に大いに驚き興味深かったのは、

フォン・ブラウンはチェロとピアノを習い、作曲家志望で
パウル・ヒンデミットから直接レッスンを受けていた


という事実でした。

「ヒンデミット:シェーンベルクらの無調音楽に対しては、
自然倍音の正当性を守る立場から否定的で
教育も一風変わっておりヴィルヘルム・マーラー式和音記号を採用せず、
数字付き低音の正当性を主張したドイツ人作曲家」

の薫陶を受けたフォン・ブラウンの現存する曲の作風は、
どうしてもヒンデミットに似ているんだそうです。

うーむ、聴いてみたいぞこれは。

探してみたら物好きな人が彼の曲をCDにしているのが見つかりましたが、
再生できないようになっていました。

代わりに?ミュージックコメディアンが歌う
「ヴェルナー・フォン・ブラウンの歌」が見つかりました。

Tom Lehrer - Wernher von Braun


忠誠心が便宜によって支配されている男
偽善者というよりむしろ政治的だと呼んでくれ


だそうです。(適当)

学校時代決して数学の天才とかではなかったようですが、
宇宙に興味を持ち出した彼は物理学と数学に専念し、
ロケット工学への関心を追求し始めました。

そのきっかけは、少年時代に読んだSF作家の作品だったようです。
好きが高じて微積分と三角法をマスターし、
早いうちからロケットの物理学を理解していたとか。

ベルリン工科大学で機械工学を学んだ彼は、留学して物理学で博士号を取得し、
さらに大型で高性能のロケットを作るという夢を膨らませていきました。

ある日、高高度気球飛行のパイオニアであるオーギュスト・ピカール
講演を行ったとき、若い学生だったフォン・ブラウンが近づき、

「あの、僕いつか月に行こうと思ってるんですよねー」

と言ったそうです。
ピカールは、お、おう・・・となりましたが、とりあえず
この無謀な夢想家らしい若者を励ましたということです。

そんな彼が選んだ就職先とはドイツ軍。

そこで液体燃料ロケットの開発に携わることになったのでした。
陸軍での研究をもとに、フォン・ブラウンは物理学の博士号を取得しました。

【V2ロケット開発】


どうしてこうなった。

V -2の研究施設があったペーネミューデで、
ナチスの偉い人たちに囲まれるフォン・ブラウン。

ここで何度となく話していますが、大陸間弾道ミサイルや
宇宙ロケットの前身であるV2弾道ミサイルは、
フォン・ブラウンのロケットチームが中心になって開発したものです。

ここでちょっと面白い?話を一つ。

ベルサイユ条約で武器開発に制限が設けられたドイツですが、
この時禁じられた兵器開発のリストにロケット工学が含まれていなかったのです。
フォン・ブラウン自身、この「不思議な見落とし」のおかげで
ロケット科学者としてのキャリアを積むことができた、と感謝していたという。

まあ、それを取り決める担当者が時代を読めなかったってことですね。


V-2は、弾頭を200マイル離れた目標に打ち込むことができるミサイルです。

Vは「報復」を意味する「Vergeltungswaffeヴェルゲルトングスヴァッフェ」
の頭文字で、宣伝省のヨーゼフ・ゲッベルス閣下直々の命名だったとか。

目標はとりあえずイギリスとベルギーで、100機製造されましたが、
誘導システムの精度が低く、確たる戦果を上げることはできなかったようです。

この時期フォン・ブラウンはゲシュタポに逮捕されていますが、
その理由は、彼がヒトラーのことを

「チャップリンの口髭をつけた尊大な愚か者」
「全く良心のない、自分を唯一の神と考える無神論者」
「もうひとりのナポレオン」

と断じていたのがバレたから・・・・では、勿論ありません。

フォン・ブラウンは後年、こういった「ナチス・ディス」を盛んに行い、
ヒムラーにSSに誘われて入ったが、制服を着て写真に写ったのは一度きりで
言うたらコスプレみたいなもの、階級も便宜上と言い訳をしたそうですが、
実際は公式の会合には毎回制服で出席していたし、
少尉任官後、きっちり少佐にまで昇進もしていますし、
V-2ロケットの収容所囚人労働のことも、

「いかなる死や殴打も個人的に目撃したことはない」

と断言していながら、囚人への残虐行為を黙認どころか、
なんなら囚人に鞭打ちをさせていたこともある、などと証言されており、
後からなかなかツッコミどころ満載な話がボロボロ出てきているんだとか。

まあしかし、保身上の理由から彼がナチス時代そのものを否定したとしても
アメリカ人にフォン・ブラウンの嘘?を責める資格はないと思います。

ナチスとの関わりを全て知った上で、技術と頭脳欲しさに
西側に引っ張ってきたのは、他ならぬアメリカだったのですから。

上のYouTubeのコメントにもこんな皮肉がありますよ。

"Are you a Nazi?"
"Yes"
"Were you part of the leadership that sent millions of innocent men, 

women and children to their deaths?"
"Yes"
"Do you know anything about rockets?"
"Yes"

"Well that's alright then; welcome to America!"



さて、フォン・ブラウンが逮捕された話に戻ります。

V2計画を含むすべてのドイツの軍備計画を支配しようと企てたヒムラーが、
技術の問題解決協力を餌にフォン・ブラウンを抱き込もうとしたところ、
彼はV2の問題は技術的なものなのでそれには及ばない、と断りました。

その後彼はSDの監視下に置かれていましたが、ある日の同僚との会話で、
武器開発でなく宇宙船の開発がしたい、などと言っていたこと、さらに
戦争がうまくいっていない、と「敗北主義」的態度を取ったことを、
SSのスパイであった若い女性歯科医に報告されてしまうのです。

それから共産主義者のシンパっぽいとか、政府支給の飛行機を定期的に操縦し、
いつでもイギリスに逃げる準備をしていると疑われ、ゲシュタポに逮捕されました。

彼はなぜ自分が勾留されたのか全く知らされないまま独房で2週間過ごしましたが、
当時の軍需・戦争生産省大臣だったアルベルト・シュペーア
彼が研究に不可欠であることをヒトラーに認めさせ、放免となりました。

ちなみに彼のSSでのキャリアは次の通り。

  • SS 番号: 185,068
  • ナチス党員番号: 5,738,692
階級
  • SS-Anwärter:  1933 (候補生、SS騎馬隊?)
  • SS-Mann:  1934 (上等兵)
  • SS-Untersturmführer:  1940 (中尉 Second Lieutenant)
  • SS-Obersturmführer: 1941 (大尉 First Lieutenant)
  • SS-Hauptsturmführer: 1942 (大佐 Captain)
  • SS-Sturmbannführer:  1943 (少佐 Major)

【アメリカでのキャリア】

1944年末には、ドイツが破壊され占領されることは明白となり、
フォン・ブラウンは戦後の計画を立て始めました。

連合国がV-2ロケット施設を占領する前に、フォン・ブラウンは南下し、
そこで他の主要なチームリーダーとともにアメリカに降伏したのでした。

ペーパークリップ計画と呼ばれる軍事作戦の一環として、
彼と125人の初期グループがアメリカに送られたという話もしましたね。

彼らがアメリカで当初どういう待遇を受けたかについてはあまり語られませんが、
とにかくアメリカの料理の不味さ?には参ったようです。
物資不足のドイツでしたが、ペーネミュンデでは特別扱いだったため、
そんな彼らにとってアメリカの「ゴム引きの鶏」は耐え難いものでした。

しかも引っ張ってきておいて、アメリカではフォン・ブラウンは
工学部を卒業したというだけの26歳の陸軍少佐の下で、
「ウェルナー」呼ばわりされて研究など何もさせてもらえない始末。

その後、ドイツからV2実物が送られてきて、ようやく彼の出番となります。
この時も、彼らは一種の軟禁状態で、軍の護衛なしに
実験場敷地を出ることができなかったため、彼らは自分達のことを

「PoPs=Prisnors of Peace(平和下の捕虜)」

と自嘲していました。

そのうちアメリカをスプートニクショックが見舞うと、
ようやくアメリカは、「ペーパークリップ作戦」なんてのを発動して
苦労してかき集めてきたはずのドイツからの頭脳を、
持ち腐れさせていたことに気づくのです。

1960年、陸軍のレッドストーン工廠にあったロケット開発センターが
フォン・ブラウンごと新設のアメリカ航空宇宙局(NASA)に移管されました。

NASA創設は、つまりフォン・ブラウンをはじめとするドイツ人の
「再利用」を意味し、その主な目的は、巨大なサターンロケットの開発でした。

NASAのマーシャル宇宙飛行センターの所長となったフォン・ブラウンは、
人類を月に送り込むサターンVロケットの設計責任者となるのです。

その後のマーシャル宇宙飛行センターでは、初の宇宙飛行士アラン・シェパードを
軌道下飛行させるためのロケット、レッドストーン・マーキュリーの開発を行い、
シェパードの飛行が成功するや否や、ジョン・F・ケネディ大統領は、
「10年後までに人類を月へ送る」という目標をぶち上げました。

そして、1969年7月20日、人類初の月面着陸成功により、
アポロ11号は、ケネディ大統領のミッションと
ヴェルナー・フォン・ブラウン博士の生涯の夢の両方を達成したのです。



■セルゲイ・コロリョフ


Sergey Pavlovich Korolyov (Сергей Павлович Королёв)

1930年代、ロシアのエンジニア兼飛行士であったセルゲイ・コロリョフは、
モスクワを拠点とする愛好家のグループであるGIRDを率い、
ソビエト連邦初の液体推進剤ロケットを製造してテストしました。

第二次世界大戦後、コロリョフはソ連のミサイル開発設計局のトップに任命され、
1975年までに彼はそこでR-7を建造して打ち上げました。
それは、スプートニク号を地球軌道に乗せ、
ルナ宇宙船を月に向けて推進させるために使用された、
史上初の運用可能な大陸間弾道ミサイルでした。

コロリョフの残した偉大な功績は、ボストークとソユーズの有人宇宙船
さまざまな弾道ミサイルとロケット、ゼニット(Zenit)偵察衛星
モルニヤ(Molniya)通信衛星有人月面宇宙船などです。

コロリョフが指揮した設計局は、その後進化し、
エネルギア・ロケット&スペースコーポレーション、(RSC Energia)
として、現在も活動しています。

【初期の人生】


10代の頃。あらイケメン

ロシア軍人の父と裕福な商人の娘である母の元に1907年生まれたコロリョフは、
幼い頃は両親が離婚するなど、なかなか複雑な環境で育ったせいか、
頑固で粘着質、口が達者で友達が少なく、いわゆる陰キャのぼっちだったそうです。

勉強ができ、教師からは好かれたので、同級生から嫉妬されたという説もあります。

建築職業学校で大工の職業訓練を受けていた頃、航空ショーを見て、
航空工学に興味を持つようになったコロリョフは、勉強の傍ら、
気晴らしに独学でグライダーの設計を始め、自分でも乗っていました。

1924年にキエフ工科大学航空分校に入学したころ、彼は
グライダーで墜落し、肋骨を折る大怪我をしています。

ちなみに指導教官はあのアンドレイ・ツポレフだったということです。

【初期のキャリア】

卒業後は実験課航空機設計局 OPO-4 でソ連の優秀な設計者と共に働き、
1930年、ツポレフTB-3重爆撃機の主任技師として働きながら、
液体燃料ロケットエンジンの可能性に興味を持つようになります。

パイロット免許を取得したコロリョフは、自分の操縦する飛行機の
高度限界の先には何があるのか、どうすればそこに到達できるのか、
その限界を探っていたのです。

これが彼の宇宙への興味の始まりであったと考えられています。


1931年。
コロリョフはソビエト連邦で最も早く国営ロケット開発センターとなった
反応運動研究グループ (GIRD) の設立に参画し、
そこで3種類の推進システムを開発し、それぞれ成功を収めました。

1933年にソ連で初めて液体燃料ロケットGIRD-Xを打ち上げます。

コロリョフはその後 ジェット戦闘機、巡航ミサイル、そして
乗員付きロケットエンジン搭載のグライダーの開発を指揮しました。

ちなみにコロリョフの奥さんも科学者で、最初の彼のプロポーズを
勉強に多忙という理由で断ったそうですが、コロリョフは
その後めげずにトライして結婚に漕ぎ着けています。
ちなみにこの奥さん、子供ができた後も、夫とは全く別に研究者として
バリバリキャリアを積んでいたそうです。

コロリョフも優秀なエンジニアリングのプロジェクト・マネージャーでした。

部下に対する要求は高く、勤勉で、規律正しい管理スタイルを持ち、
最初から最後まで自分の責任で作業を監視し、細部にまで細心の注意を払う。
実にカリスマ性のあるリーダーとして各方面からの信頼を集めていました。

しかし・・・・。

【逮捕・収監】


なんと、戦後の米ソ宇宙技術者のトップは、かつてどちらも
祖国の手で逮捕される経験をしていました。

コロリョフの逮捕は、ソ連を席巻した「大粛清」によるものです。

コロリョフは研究所の仕事を故意に遅らせたという疑いで逮捕され、
拷問を受け、裁判にかけられて死刑の判決を受けました。

しかしこれは表向きの嫌疑で、逮捕された本当の理由は、
ロケット研究所の専門家同士の技術的な齟齬からくるものでした。

どういうことかというと、当時国内で
多連装ロケットを推していた専門家筋が計画した
弾道ミサイル派に対する粛清と言われているのです。

この説が本当なら、中世の魔女裁判のように、大粛清というパージを利用して
自分の対立するグループを消そうとする計略にかかったということですね。

何人かの同僚が処刑された後、コロリョフはシベリア極東の収容所にやられ、
金鉱で労働をさせられる身分になりました。
収監中は心臓発作を起こし怪我を負い、壊血病で歯の大部分を失う、
という壮絶な目に遭いながらも、労働収容所にあった
昔の恩師であるツポレフの技術施設で働き、なんとか生き延びます。

彼に対する「容疑」が最終的に晴れたのは1957年のことです。
これはとってもおそロシア。


その後の人生で、コロリョフは収容所での体験をほとんど語りませんでした。

自分が知る軍事機密のために処刑される恐怖に晒され続ける日々。
長かった収容所での生活は、彼を極端に控えめで慎重な性格に変えました。

後にコロリョフは、自分を告発したのが設計局の局長だったことを知ります。

それを知ったとき、彼はその局長の下の副設計長として
一緒にロケットの設計を行なっていたのだそうですが、
コロリョフがそれを知ってどうしたかはわかっていません。




【弾道ミサイル】


左:コロリョフ

戦争が終わると、コロリョフはドイツのV-2ロケットの技術回収のため、
他の多くの専門家とともにドイツに連行されています。

ソ連とアメリカとの間に「ドイツの技術争奪戦」が起こったわけですが、
ソ連は2000人以上のドイツの科学者と技術者を確保しました。

スターリンはロケットとミサイルの開発を国家の優先事項とし、
コロリョフは特別設計局の長距離ミサイルの主任設計者に任命されました。

彼らはV-2ロケットを分解して作った設計図をもとにレプリカを製作し、
R-1ロケットとしてとテストを行いましたが、このテストでは
11発のうち5発しか目標に命中せず、V-2の信頼性の低さが証明されました。

ちなみにコロリョフ自身は、ドイツ人専門家と仕事をすることを拒否し、
実際に会うことさえしようとしなかったそうです。

2年後、コロリョフのチームはR-2をV-2の射程の2倍にし、
独立した弾頭を利用して、計算上イギリスを射程に入れることに成功します。

その後、世界初の本格的な

大陸間弾道ミサイル(ICBM)セミョールカ 
(Семёрка, Semyorka)-7

を開発しました。

【宇宙開発】

コロリョフは、ICBMとして設計されているロケットの軌道上に
R-7で人工衛星を宇宙に上げる提案をしましたが、共産党に却下されます。

宇宙開発?なにそれ美味しいの?
そんなことよりアメリカにミサイルぶち込む方が先だろうが!みたいな?

そこでコロリョフらは、一計を案じました。

まず、ソ連の新聞に宇宙計画について派手に書かせ、餌を撒き、
それにアメリカの新聞が食いつけばアメリカ当局は興味を示すはず。

目論見通り、アメリカがソ連に触発されて衛星を上げることを思いつき、
予算獲得のために議会で騒ぎだしたのを確認すると、
コロリョフらはおもむろに共産党にこう提案します。

「アメリカより先に衛星を打ち上げることが国際的な威信につながる」

そしてまんまとプロジェクトを承認させることに成功しました。

策士やのう。

ところで、どうしてこの頃の宇宙開発戦争でソ連が圧勝だったかですが、
こんな説もあります。

アメリカは、当初、宇宙事業技術者の血筋にこだわって、
「100%アメリカ人」であることを優先し、
最も「近道」であるはずのフォン・ブラウンを
意図的に設計の根幹から遠ざけ、宇宙飛行学の講義をさせたり、
ウォルト・ディズニーと遊ばせたりしていたので、
ロケット設計作業をスピード優先でやってのけたコロリョフに勝てなかった。


わたしはかなりこれは正しいと思います。

現に、フォン・ブラウンらが関わるようになってから、アメリカはじわじわと
ソ連に追いつき、最後についに月面着陸で追い抜いたのですから。

さて、コロリョフがスピード優先で自ら慌ただしく組み立てを管理し、
わずか1ヶ月で完成したビーチボールほどの大きさの金属の球体、
スプートニク1号は、無事に完成し、1957年10月4日、
史上初めての衛星として宇宙へ飛び立ちました。

この快挙に対する国際的な反応はかつてないほど衝撃的であり、
政治的な影響は数十年にわたり続いたとされています。

コロリョフは実用宇宙工学の父と称されています。

この後、スプートニク2号による犬のライカの打ち上げ、
続くスプートニクとボストーク計画の初期の成功を監督し、
1961年、ガガーリンの人類初の地球周回ミッションを成功させました。


しかしコロリョフの人生の最後は壮絶なものでした。

コロリョフはシベリアでの収容所生活の間に体(特に腎臓)を悪くしており、
これ以上仕事をしたら死ぬと医師からも忠告されていましたが、
休むことなく無理をし続けました、

その理由は、彼はフルシチョフが真に宇宙開発の意義を理解しておらず、
大掛かりな宣伝としか考えていないことを知り尽くしており、
もしソ連がアメリカに主導権を奪われ始めたら、
宇宙開発を完全に中止するだろうと恐れていたからと言われています。

腸の出血で入院、心臓の不整脈、胆嚢の炎症と彼の体はボロボロでした。
さらに重なる仕事のプレッシャーから疲労が蓄積し、また、
大音量のロケットエンジン実験に何度も立ち合い難聴にもなっていました。

コロリョフは突然死去しましたが、死因は明らかにされませんでした。

大腸の出血性ポリープの切除手術中出血し、挿管を行おうとするも、
収容所時代に痛めた顎のせいで呼吸チューブの取り付けに支障をきたし、
このせいで亡くなった、と推測されているそうです。

合掌。

しかも、スターリンの政策により、コロリョフの存在は世間から隠され、
ソ連国民は彼の功績を死後まで知ることはありませんでした。


■手品師の杖

コロリョフとヴェルナー・フォン・ブラウンは、
宇宙開発競争の立役者としてしばしば比較されます。

フォン・ブラウンもそうでしたが、コロリョフはソ連国内において
月への飛行計画を持つライバルと絶えず競争しなければなりませんでした。

しかもアメリカに渡ったフォン・ブラウンとは異なり、彼はまた、
特に電子機器やコンピュータなどの多くの面でアメリカに立ち遅れた技術で
仕事をしなければならず、また極度の政治的圧力に耐え続けていました。



コロリョフ死後の後任は、彼の右腕として活躍した優秀なエンジニア、
ヴァシリー・ミーシンVasily Pavlovich Mishin
 (Russian: Васи́лий Па́влович Ми́шин) (1917 – 2001)
でした。

設計責任者ととして欠陥だらけのN1ロケット計画を受け継ぎますが、
1972年、打ち上げに失敗して解雇され、
ライバルのグルーシコに任務を譲り渡すことになります。

しかもその頃、アメリカがすでに月へ到達するという目的を達したため、
白けた?ブレジネフ書記長によって宇宙計画は中止されてしまいました。

政治のトップは変わっていましたが、アメリカが先を越したら
ソ連は宇宙開発に興味を失うだろうというコロリョフの予言は当たりました。





スミソニアンには、二人の名前とそれぞれの計算尺が展示されています。

まず、上のがフォン・ブラウンのもので、下のがコロリョフの
「スライド・ルール」であると説明されています。

フォン・ブラウンのは勿論ですが、コロリョフのものもドイツ製です。
コロリョフを知る人たちは、この計算尺のことを

「The Magician's Wand」(手品師の杖)

と呼んでいました。



フォン・ブラウンは、共にV2を開発したドイツのロケット工学者、
ヘルマン・オベルト(Herumann Oberth)から大きな影響を受けています。

実験中の爆発で右目を失ったというこの科学者について、彼は、

「ヘルマン・オベルトは、宇宙船の可能性について考えるとき、
スライド・ルーラー(計算尺)を手に取り、数学的に分析した
コンセプトとデザインを提示した最初の人でした。


私自身、彼のおかげで人生の道標ができただけでなく、
ロケット工学や宇宙旅行の理論と実践に初めて触れることができたのです。
科学と技術の歴史において、宇宙工学の分野における
彼の画期的な貢献に対して名誉ある地位が確保されるべきです」

と語っています。

続く。



「赤は言う 次は月だ」 スプートニク・ショック〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-05-02 | 歴史

このブログを始めて以来、何度かこの言葉を必要上挙げてきました。

「スプートニク・ショック」

米ソが宇宙開発競争に入ったのは、宇宙ロケット開発に必要な技術が
イコール最終武器となるミサイルであり、戦後の東西2大国となった米ソが
互いの軍事バランスを保ちながら相手より少しでも先んじようとしたからでした。

それまでなんの根拠なく自国の優位性を信じて疑わなかったアメリカが
天狗の鼻をへし折られ、実は周回遅れというくらいこの方面において
ソ連に引き離されていると知った事件、それがスプートニク打ち上げだったのです。

今日はスミソニアンの展示から、スプートニク・ショックに始まる
アメリカの挫折と、ソ連への挑戦についてお話しします。

まず、冒頭のパネルには、

SPUTNIK!

という!付きの一言がタイトルになった記事があります。
この一言だけで、アメリカ国民の当時のショックが如何なものか、
今の人たちにも十分に伝わるということなのでしょう。

その下の「First Satellite」は、もちろんスプートニクが人類初めての
人工衛星であったことを意味します。

ところで、皆様は、その後しばらくアメリカのトラウマともなった
スプートニクとは、どんなものだと考えておられましたか?
衝撃の大きさの割に、その実寸はあまりにも小さなものでした。

「1957年10月4日。
ソビエト連邦は、スプートニク衛星の打ち上げで世界を驚かせました。
無線送信機を含む光沢のある
バスケットボールサイズの球体であるスプートニクは、
まさに宇宙時代の始まりを告げるものとなったのです」

「バスケットボールと同じ大きさ」ですよ。
わたしもこの事実を知ったとき、思わず嘘でしょ、と声に出してしまいました。

■スプートニク



スプートニク(Спутник、ロシア語で『衛星』の意)は、
ソ連の宇宙開発計画で打ち上げられた宇宙船です。

18世紀からあった言葉で、接頭辞s-は「共に」、「旅人」のputnikで
「仲間の旅人」を意味し、英語の「衛星」の起源である
ラテン語の語源satelles(「護衛、従者、仲間」)に対応する意味を持つので、
これ以降、『衛星』『人工衛星』という意味になりました。
それ以前は衛星という物体がなかったんですから、名前もなかったんですね。

スプートニク1号はソ連の宇宙計画の一環として、地球低軌道に打ち上げられ、
電池が切れるまで3週間ほど軌道を周回し、1958年1月4日、
大気圏に突入するまでの2ヶ月間、地球を静かに周回していました。


形状は直径58cmの磨き上げられた金属製の球体で、
4つの外部無線アンテナを持ち、無線パルスを発信します。
電波信号はアマチュア無線家に容易に探知され、傾斜角65°の軌道の長さにより、
飛行経路は人が住む地球全体をほぼカバーしていました。


この衛星の予期せぬ成功は、アメリカの「スプートニク危機」(クライシス)
を引き起こし、冷戦の一環である宇宙開発競争の引き金となります。

■スプートニク・クライシス(危機)


1957年10月13日、日曜日のニューヨークタイムズに掲載された戯画です。
窓の外を通過するスプートニクがけたたましく鳴らす警報に
眠りから叩き起こされた老人がこう言っています。

「起きたぞ。やっとな!」

さて、この爺さんは一体誰なのでしょうか。
どうもあの「君が必要だ」の「アンクル・サム」(U.Sでアメリカの擬人化)
みたいな気がするのですが、ベッドのヘッドボードを見るとこう書いてあります。

「complacence」

コンプラセンスとは、自己満足とか独りよがり、そんな時に抱く気持ちのことです。

アンクル・サムがスプートニクに警鐘を鳴らされて飛び起きた寝床は、
アメリカ合衆国がこれまで甘んじてきた我こそ世界一の科学技術大国、
という「自己満足」に過ぎなかっただろう、とNYTは言っておるわけですな。


このパネルに、「マイルストーンコーナーにスプートニクのレプリカがある」
と書いてあったので、慌てて写真を全部調べて見たら、
なんとか小さく写っていたのが一つだけ見つかりました。

こりゃ普通に見ていたら気づかないわ・・・。



ロスアンジェルスタイムズ。
一面全部をスプートニクのニュースに上げています。
ヘッドラインは、

「ロシアが史上初の地球衛星を560マイルの空に打ち上げる」



カナダのデンバーポスト。
「ロシアの”月”(衛星のこと)560マイル上空を18,000MPHで周回」

560マイルは901キロくらいとなります。
さすがカナダ、対岸ならぬ北緯49度の向こうの火事とばかり、
ショックを受けるアメリカの象徴として、慌てる科学者の写真を
なぜか一面トップに持ってきたのがちょっと人ごとという感じです。

3人の科学者(字が潰れてしまい誰かわかりません)は、
コースタイムのチャートを作成しているところなのだとか。


ニューヨークタイムズも大体同じような感じですがちょっと長いですね。
一応3行でまとまっていますが、ヘッドラインとしてはいかがなものか。

「ソヴィエトは宇宙の衛星から地球を攻撃する;
地球を18,000MPHで周回;
184パウンドの球体からの信号を感知」

83キロのドッジボールは地球を「攻撃」fireしたわけではありませんが、
これこそがアメリカ国民が一斉に考えたことでした。
かつて日本軍が空母から発進した飛行機で本土を撃したとき、
「その手があったか」と驚愕し、総パニックに陥ったのとほぼ同じ状態です。

このドッジボール地球周回の成功が、つまり空からの攻撃につながる、
という人心の不安をそのまま言葉に表したのが、このヘッドラインと言えます。

デンバーポストは、またこうも書いています。

Red Say ’Moon Next’  In Race Into Space
「次は月だ」赤は言う レースは宇宙へ

ソ連をわかりやすくレッドと一言で呼ばわっております。



各新聞が一斉に掲載したスプートニクの地球周回航路。
さすがにアメリカ上空は飛ばなかったんですね。当たり前か。

■ RACE BEGINS(レース開始)


と言うわけで米ソの宇宙開発競争が始まってしまうわけですが、
スプートニク・クライシス以降は、ずっとソ連のターンのままでした。

「スペースレース」の初期の頃、「成功」とはつまり「ファースト」=
最初のヘッドラインをマークすることを意味しました。

「最初の衛星」「月への最初の無人宇宙船」「最初の宇宙」、
「最初の宇宙に行った女性」「最初の船外活動」・・・・。

これらの「ファースト」はことごとくソビエト連邦によって達成され、
アメリカはその度に失望を焦りを繰り返すことになるのです。

しかしながら、このことは、負けず嫌いのアメリカにとって、結果的に
ソ連に追いつき、ソ連を追い越すための強いモチベーションの起爆剤となりました。


【スプートニク2と宇宙犬ライカ】


ライカさん・・・(涙)

アメリカ国民の「オクトーバー・サプライズ」からわずか1ヶ月後のことです。
ソビエトは次の衛星を打ち上げました。

今度のスプートニク「2」は先のものより大型で、
しかも「ライカ」と言う名前の犬を乗せていました。

スプートニク2号は重いペイロードを打ち上げることによって
ソビエトの高い優位性を示し、これによってソ連が間も無く
人間を宇宙に投入する可能性があることを示唆したのです。

1958年〜1961年の間、さらに6機のスプートニクが打ち上げられました。
これらは全て最初のものよりも大型で、人類の飛行のために
再突入と回収のための技術が改善されていました。

余談ですが、このライカがどうなったかというと、死にました。
享年2歳か3歳でした(-人-)

そもそもどうして矢継ぎ早に2号を打ち上げたかというと、
フルシチョフが重要とみなす、10月革命40周年記念に当たる日が、
1号の1ヶ月後だったからというだけの?理由だったのです。

ソ連はそれまでにも12頭の犬を弾道飛行で打ち上げており、
初めての軌道上飛行に犬を乗せれば世界が驚くんでないかい?
とフルシチョフの側近が思いついたのがライカ嬢の不幸でした。

そんな事情だったので2号の建造はほぼ突貫工事状態で、
最低限の「打ち上げた」と言う結果だけを求めたものでした。

ライカはモスクワの街角拾われた雑種の雌でした。

小さな檻に長期間閉じ込められるという「訓練」の後カプセルに乗せられましたが、
ミッション当時は、宇宙飛行が生物に与える影響についてほとんど知られておらず、
そもそもカプセルは軌道離脱の技術もまだ開発されていません。

ライカはとりあえず生命体を打ち上げると言う実験に使われただけで、
事実オーバーヒート(90℃以上)で打ち上げ数時間で死亡したと言われます。

その後スプートニク2号は死んだ犬を乗せて5ヶ月間軌道を回っていましたが、
ソ連政府は、ライカが数日は生きていたと微妙な嘘を広報しました。

ソ連の宇宙ミッションでは、通算で犬が71回打ち上げられ、
そのうち14匹が死亡しました。

バーズとリシチカは1960年7月28日にR-7ロケットが発射直後に爆発して死亡。
プチョルカとムシュカは1960年12月1日にスプートニク3が大気圏再突入後、
軌道を外れたため、カプセルに仕込まれた爆発物で破壊されました。

これは他国の手にカプセルが渡らないための策です。


ロシアの宇宙飛行士訓練施設であるスターシティには、
耳を立てて宇宙飛行士の後ろに立つライカの銅像とプレートがあります。

1964年に建てられた「宇宙征服者記念碑」にもライカの名前が刻まれています。
また、2008年にも宇宙ロケットの上にライカを乗せた記念碑が除幕されており、
 ライカを描いた切手や封筒、ブランド物のタバコやマッチが存在します。

■スプートニク5のリカバリー


スプートニク回収の指示カード

1960年8月、ソ連では最初にカプセル回収に成功したスプートニク5号。
これには、ベルカとストレルカと言う二匹の犬を乗せていました。


中に人入ってね?

ご安心ください。
今回のベルカとストレルカは、最初から「回収」が目的だったため、
訓練で最も優秀な成績を残したエリートとして彼らが選抜され、
同じく打ち上げられたうさぎ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、
そしてたくさんの植物や菌類と共に地球を17周して帰還したのです。

カプセルに内蔵された写真のカードには、回収ゾーンを外れた場合に備えて、
見つけた人は必ずすぐに地元の役人に連絡するようにと書いてありました。

カプセルは開けないこと、着陸した場所に置いておくこと、
とも書かれているようです。

ちなみに二匹の犬は無事に帰還後、ソ連の研究所で余生を送りました。
ストレルカが産んだ子犬プーシンカは、おそらくマウントを取るために、
その後ジョン・F・ケネディへの贈り物にされてアメリカに渡り、
そこでテリアのチャーリーとの間に子犬を産みました。

■ ルナLUNA3 の月周回


最初のスプートニク打ち上げからちょうど2年後の1959年10月4日、
ソビエト連邦は最初の宇宙船で月の周りを回りました。

ルナ3号は、月の裏側の画像を記録し、地球に放送したのです。


裏側画像

1ヶ月前、ソ連は合計5回のトライに失敗しており、
さらにルナ2号宇宙船が月に衝突するという失敗を乗り越えての快挙でした。



月の裏側の画像は、1959年に出版された、ソビエト宇宙計画のチーフである
セルゲイ・コロリョフが妻に送ったルナ3号の画像本からのコピーだそうです。

コロリョフ

コロリョフについてはまた別の日に、アメリカのカウンターパートである
フォン・ブラウン博士と共に語ることがあるかもしれません。

書かれた文字は彼の自筆で、

「ソビエト科学の素晴らしい業績の良き思い出と共に」

とあるそうです。

■ ソビエトの「秘密」

ソビエト連邦は当時宇宙技術における世界のトップを走っていましたが、
その宇宙計画について、西側諸国ではほとんど知られていなかったのも事実です。

ミッション、プログラムマネージャー、エンジニアの身元に関する詳細な情報は、
厳重に守られた最高レベルの国家機密でした。

何十年にもわたってその存在が隠されていたエンジニアであり宇宙飛行士、
コンスタンチン・フェオクティストフのノートには、
1958年から1959年までの初期のソビエト宇宙計画に関する
舞台裏の洞察が記されているのだそうです。


フィオクチストフ(Konstantin Feoktistov)

ナチス占領下で彼はSSに捕まり、銃殺刑に処されるも、
弾丸が貫通したため死体置き場から這い出して命永らえたと言う人です。


「極秘」と記された検閲スタンプが押されたフィオクチトフのノート。
1989年に公開されました。





このメモは、各宇宙船コンポーネントを担当する研究機関と設計局のリストです。
これらの組織はソビエト科学アカデミー、国防省、その他の組織から集められ、
彼はその名称を全て略語で記しています。



有人宇宙船のスケッチが含まれており、これは
スプートニクの直後から宇宙飛行士の打ち上げが勘案されていたことを示します。

ちなみに1969年10月、フェオクティストフはNASAのゲストとして
アメリカ国内を旅行し、好きな都市を訪ねています。

この旅行には、ユージン・サーナン、ニール・アームストロングなど、
アメリカの宇宙飛行士たちもホストとして参加していました。

ハリウッドでは、カーク・ダグラスらがレセプションを開き、
ユージン・サーナンに連れられて行ったバーなどにバンドがあれば
必ず「Fly Me to the Moon」が彼のために演奏され、
カリフォルニアのディズニーランドでは「Trip To The Moon」と言う
月探検のアトラクションを楽しみ、アメリカの宇宙飛行士たちと
「月じゃなくて、ディズニーランドに行ったんだ♪」
と冗談を言い合うなどして大いに国際的な友情を育んだようです。

国同士は冷戦中でも、同じ宇宙飛行士同士、
互いに尊敬し親密になるのはある意味当然と言ったところでしょう。

いやー、いい話だなあ。

続く。