ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

メンヒスベルグ・崖の上のレストラン〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-22 | お出かけ

さて、「過去と今をつなぐトンネル」を通って、中世ヨーロッパのゾーン、
ホテルザッハに戻ってきたわけですが、夕食に出るまでに時間があったので、
思わず腰に手を当ててそこに立ち、人々の群れを睥睨しながら

「・・World is mine・・・・」

と悪の帝王風につい呟きたくなるようなホテルのテラスから外を眺めていました。

ホテルの前のザルツァハ川の岸では、旅行者らしいカップルが
川の水に脚を浸して休憩中。

今回は時間がなくて見学できませんでしたが、大聖堂の向こうには
ザルツブルグ一の歴史的遺産であるホーエンザルツブルグ城がそびえています。

これは、1077年、当時の大司教が、皇帝派の南ドイツ諸侯の

カノッサの屈辱への報復を恐れて

市の南端、メンヒスブルク山山頂に建設した防衛施設です。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世"バルバロッサ"がザルツブルグを
焼き討ちした時にも、失われることなく現在に至ります。

15世紀後半になるとハプスブルク家など反乱に備えて強化され、鐘楼、
薬草塔、鍛冶の塔、囚人の塔、武器庫、穀物貯蔵庫等が建設され、
防壁が強化されていきました。

城の右側からはどう見ても線路のようなものが下に向かって伸びており、
ホテルにチェックインしたときから気になっていたのですが、
これは

ライスツーク(独: Reißzug、英: Reisszug  Reiszug)

といい、城への貨物搬入を行うための鉄道でした。

正確な敷設年は明らかになっていませんが、少なくとも1500年前後には
もうここにあって利用されていたようで、もし本当ならば
これが世界最古の鉄道となると言われています。

運用形式はフニクラー、つまりケーブルカーのようなもので、
当初レールは木製、牽引は麻のロープでされていたとされます。

1910年までは、人間または動物の力によって動かしていたそうですが、
その後何度も改修され、今日では、鋼製レールとケーブルを使用し、
電気モーターによる牽引が行われています。

最新のアップデートによって、運行を監視するために
閉回路テレビ・システムが使用されているところまできていますが、
動力は手動で、片道5分かかるそうです。

さて、その後、わたしたちはホテルから歩いて、メンヒスブルグ山頂にある
レストランに行くことになりました。

レストランに行くには、やはり山頂に繋がるエレベーターを利用します。

エレベーターに乗るには料金が必要です。
無料にしてしまうと、景色を見るためだけに人が押しかけるので、
已む無い措置だと思われます。

チケットは自動でなく、恐ろしく愛想のないおじさんが
1日に何千回も同じことを言わされているせいか、無表情に
エレベーターの乗り方を説明してくれました。

エレベーターは崖の岩を山頂までくり抜いて60mの高みに達しています。
最上階?に到着すると、エレベーターホールの天井も壁も、
岩肌がそのままの状態になっていました。

メンヒスベルグ山は、昔からこれをくり抜いてトンネルを作ったり、
崖に寄り添うように家屋が建っていたりしますが、よほど地質が堅牢で
崩れることがないということなのでしょう。

この眺めは、ガイドさんによると「ザルツブルグ一番」だそうです。
もちろん、向かいにあるホーエンザルツブルグ城からの眺めもなかなかですが、
そちらからだとお城が見えませんしね。

帝王カラヤンの生まれたという家の全体像も手に取るように見えます。

「愛の南京錠」のおかげですっかり色づいて見える橋もこの通り・・・・
あれ・・・?

ザッハホテルのテラスから下に見えていた川岸のカップルが・・・。

さっき、下を見たら熱烈な愛の交歓中だったんですが、まだやっとる(笑)

ちなみに、わたしがテラスから写真を撮って、歩いてメンヒスベルグまで行き、
頂上に登って展望台にたどり着くまでに軽く1時間半は経っております。

仲良きことは美しき哉。

というわけで、この、ザルツブルグ旧市街らしからぬ建築が近代美術館です。
今日予約したレストランはここの一階にあり、テラス席から見る夜景が売り。

ザルツブルグの観光案内をしてくれたガイドさんが、

「時間がなくて立ち寄ることができない方にはお教えしません。
なぜなら、羨ましがらせるだけであまりに気の毒なので」

と言いつつオススメしてくれた絶景レストラン。
彼女はお願いすると、その場で次の日の夜に予約を取ってくれました。

昔、このメンヒスベルグ山頂には「カフェ・ウィンクラー」なる有名なカフェがあって、
実に何十年もの間、ザルツブルグの名所として人気を博していました。

しかし、ザルツブルグ郊外にあるバロック式宮殿の「クレスハイム」に
カジノが入ることになると、そちらに観光客が流れ、すっかり山上のカフェは
閑古鳥が鳴く状態になってしまったのです。

そこで再開発の計画がたち、建築のデザインをコンペで決定し、
2004年にここに近代美術博物館ができることになりました。

レストランはメインというわけではないのですが、
ザルツブルグを一望できる絶景ポイントとして人気を集めています。

恋人、友人同士はもちろんのこと・・・、

おそらく会社ぐるみで来ているらしい団体のテーブルもありました。

わたしたちの近くのテーブルは、中年のオーストリア男性と、
アジア系の若い女性のカップルでした。

女性はこちらが気まずくなるくらい男性に媚びていて、何かと言えば手を
男性の身体においては耳元で囁いたり、二人の写真を5分おきに撮ったり、
ボーイさんに二人の写真を撮らせたりと大忙しでしたが、
何かそうしなければならないよっぽど切羽詰まった事情でもあったのでしょうか(棒)

などと、周りの様子を見ながらメニューを選び、待っているうちに日が暮れてきました。

パンはサワドー、無塩バターにザルツブルグらしく塩の付け合わせです。

ミートボールの一つ混入したスープですが、やはりこれも辛めでした。
オーストリアの人は塩辛いものを辛いと認識しないのかもしれません。

鮮やかなエディブルフラワーをあしらった前菜。
これを頼んだのはTOですが、花を食べ残そうとするので、

「これは食べなくてはならない花である」

と説得して無理やり食べさせました。

「味がない」(´・ω・`)

だから、食べることができるんだってば。

TOにいわせると、魚は結構いけたそうです。
わたしは珍しくビーフのアントレを頼んでみましたが、
ちょっと、いやだいぶ硬いかなという歯ざわりで、感激するほどではありませんでした。

「これが一番美味しいような気がする」

という声が上がった、マッシュドポテトトリュフ添え。

TOが頼んだスープです。
上にかまぼこのような天ぷらのようなものが乗っていますが、
これがなんだったかは聞きそびれました。

さらに日が落ちると、屋内のバーは赤い照明が点灯されました。

オーストリアは日没が遅いので9時近くになってもこんな明るさです。
ここは、レストランを出てエレベーターに向かう途中にある場所で、
街を一望できるこの展望を楽しみに来る観光客でいっぱいです。

ただしわたしの見たこの日は全員が中国人でした。

エレベーターにはこの中世風石畳の通路を通って行きます。
帰りのエレベーターのチケットはレストランがくれました。

純粋な感覚を超えた色の輝度
眼は必然的にこれを問う
あなたはなぜこれを赤と青と認識し記憶しているのかと
あなたにとって赤と青の色は何を意味するか
どこが赤の始まりでそして終わりであるか
青の始まりで終わりであるか
そしていつそれらは混じり合い一つになるか
と書かれたこれも近代美術館所蔵の作品の一つです。

夕刻のザルツブルグの街を高みから堪能した後は、
ブラブラと歩いてまた「愛の南京錠」の橋を渡りました。

この頃になってようやくこの街は太陽が沈み、夕闇が迫ってきています。

明日は最後のザルツブルグ観光をし、ウィーンに戻ります。

 

続く。

 


ゲオルグ・フォン・トラップ海軍少佐の軍歴〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-12 | お出かけ

 

ザルツブルグの観光案内が終わり、歌手だというガイドさんに
自作のCDを記念に頂いて彼女と別れたのは、
マックス・ラインハルト広場というところでした。

この左にあるのがモーツァルト祝祭小劇場、右に向かって
ウィーンフィルハーモニー通りという道が通っています。

マックス・ラインハルトはユダヤ系オーストリア人のプロデューサーで、
ザルツブルグ音楽祭の原型となる催しを1920年に創始した人です。

彼は1938年、ナチスドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)したのを
きっかけにアメリカに亡命し、5年後、客死しました。

ユダヤ系オーストリア人の芸術家といえば思い出すのが、昔「ヒトラーと映画」
という本で知った、映画監督フリッツ・ラングの亡命劇です。

ラングはある日、宣伝相のゲッベルスに招かれ、ラングを名誉アーリア人として
扱うので、ナチスの宣伝映画を撮って欲しい、と頼まれます。

その日のうちに銀行からお金を引き出してアメリカへの亡命をするため
国外脱出をしようとしていた彼は、土曜日のこととて、
銀行が閉まるまでに宣伝省を辞去するつもりでしたが、
興に乗ったゲッベルスが、ラングの次期作品について夢を語り出してしまい、
結局、解放されたときにはすでに銀行は閉まっていました。

ラングは仕方なく、着の身着のままで現金を残したまま国外に脱出、
危ういところで命永らえた、というのですが、後年、ナチスに背を向けたとは
本人が言っているだけで、実はラングはゲッベルスに自分を売り込んでおり、
その後色々都合が悪くなって亡命しただけ、という説が浮上しているそうです。

さらに歩いていくと、グシュテッテン通りというところに出ます。
この通りには、ご覧のようなうっす〜〜〜い建物が、まるで
崖に張り付くようにして並んでいます。

通りに面しているのはレストランやバー、パブなどですが、
どうも上階には普通に人が住んでいる風なんですよね。

黄色いビルの上部には、「1418 黄金の太陽 1968」
と金色の文字でありますが、まさかこれらの建物、そんなに古くから・・・?

グシュテッテン通り近くを歩いていると、ウィンドウにこんな写真が。
「映画サウンド・オブ・ミュージックショップ」とでもいうんでしょうか、
まあ一種のキャラクターショップみたいなもので、写真や関連本、
あの映画に関したグッズ、民族衣装などを売っている店のようでした。

前回、ザルツブルグ大聖堂に爆弾を落として破壊したせいで、
ザルツブルグの人たちはこの映画に冷淡だった、と推測してみました。

実際の理由はそんな単純なものではないかもしれませんが、
このハリウッド映画がドイツ語圏では全く受け入れられず、
ザルツブルグを除いてオーストリアでは21世紀に至るまで
一度も上映されていないことからみても、冷淡といより無関心、
というのが実際のところかもしれません。

 

ここで映画をご存知ない方のために一応説明しておきますと、

妻に先だたれたやもめの海軍大佐、トラップとその7人の子供の元に
修道院から派遣されてきた家庭教師のマリア。
彼女は子供たちの心を掴み、彼らの父親トラップ大佐と恋に落ち結婚。
トラップ一家合唱団として活動を始めるが、ナチスへの協力を求められ、
コンサートの夜、一家は亡命を図る・・・

というもので、ザルツブルグに実在した一家をモデルにしています。

右側のヒゲの男性がトラップ氏。中央がマリア夫人。

写真には10人いますが、もちろんこれは全員トラップ家の子供たち。
7人が先妻との間の子、3人がマリアとの間にできた子供です。

結婚したとき、トラップは47歳、マリアは22歳という年の差婚でした。

Georgvontrapp.gif

ところで、今日のタイトルが、旅行記の割には本来の当ブログらしいのは、
「サウンド・オブ・ミュージック」の登場人物、

バロン・ゲオルグ・ルードヴィッヒ・リッター・トラップ

が海軍軍人で、今日はこの人のことをお話しするつもりだからです。

この映画について書かれたものは多いですが、トラップ氏の海軍での
軍歴についてフォーカスしたものはあまりないようなので、やってみます。

それでは参りましょう。

 1894年(14歳)海軍兵学校に入学

オーストリアというのは海なし国であるわけですが、かつて
オーストリア=ハンガリー帝国時代には海軍が存在しました。

この時代は海運が盛んだったため、その保護を目的として海軍が創設され、
これが結構強かったようなのです。

普墺戦争ではイタリア軍を撃破していますし、北海まで行って
デンマーク海軍とも交戦しているくらいなので、当然ながら
優秀な青少年を教育する兵学校も存在しておりました。

トラップ少佐が兵学校に入学したのは14歳だったことになりますが、
高等学校の段階で士官教育を施すシステムだったようですね。

ゲオルグは、海軍軍人だった父の跡を継いで、自分も同じ道を目指し、
フィウメにあった(現在はリエカ)海軍兵学校に入学することになります。

兵学校では士官教育の一環として、楽器を専攻させられました。
当時の海軍士官は(今もある程度はそうですが)紳士教育とともに
外交官ともなる社交教育もされており、音楽はその一環だったのです。

14歳のフォン・トラップはヴァイオリンを選びました。

4年後、兵学校を卒業すると、彼は士官候補生として、
練習艦コルベットSMS 「ザイダ II」に乗り組み、2年間の訓練航海を終えます。

この頃は帆船での航海であり、当時のオーストリア=ハンガリー海軍は
二回に渡る遠洋航海を行なっていたのです。
そのうち一回の航海は、オーストラリアでした。

今回、オーストリアで、

「オーストリアにカンガルーはいません」

と書かれたTシャツを目撃しましたが、自国と名前が似ている
この国について、フォン・トラップがどう思っていたのか知りたいところです。

練習航海で各地を訪れたフォン・トラップは、ついでに聖地巡礼を行い、
ヨルダン川で7本の水を購入して帰りました。

この水は、後に生まれた7人の子供たちに洗礼を施すために使われました。

(ということは、フォン・トラップは士官候補生時代、結婚相手もいない頃から
自分は子供を7人作ろうと決めていたということになります。
もちろん、水が7本あるので7人作ることにしたという可能性もありますけど)

それはともかく、最後の水を使う頃には水は腐っていたのではいやなんでもない。

 

1898年(18歳)任海兵隊少尉

オーストリア=ハンガリー海軍の略称はK.u.K
 kaiserlich und königlich (帝国と王国)を意味します。
もちろんこれはオーストリア帝国とハンガリー王国のことです。

1900年(20歳)防護巡洋艦「ツェンタ」乗組

トラップ少尉の乗り組んだ「ツェンタ」は、この年に発生した義和団の乱で
中国大陸に出征しています。


皆さんは皆北京市内の居留民保護を目的とした八カ国同盟軍、覚えてますか?

この写真、教科書にも載ってましたよね。
背丈の順で我が日本国は堂々一番右ですが、ただし、この時の日本軍は
強く正しくたくましく、その精強さで世界を驚嘆させたことも覚えといてください。

左から英・米・英領オーストラリア・英領インド・独・仏、
そしてオーストリア=ハンガリー、イタリア、日本軍。

記念写真は士官ではなく、全員兵士を選抜して撮られたようです。
オーストリア=ハンガリー軍の兵隊のいでたちは水兵ですね。
つまり海軍が派遣されていたことがわかります。

小型巡洋艦ツェンタ

防護巡洋艦「ツェンタ」の艦歴によると、義和団の乱の前年まで彼女は

日本(長崎、佐世保、鹿児島)

を訪問していましたが、義和団発生の報を受けて本国に呼び戻され、
75名の乗員を乗せて天津に向かいました。
この中に我らがトラップ少尉が海兵隊員として乗っていたのです。

「ツェンタ」は装甲巡洋艦カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア
と合流し、両艦の乗員160人がドイツの海兵隊を支援し戦闘を行いました。
この時の戦闘は激しく、「ツェンタ」艦長は戦死。
参加した両艦の乗員の一員として、トラップ少尉も勇猛勲章を受勲されています。

1903年(23歳)Fregattenleutnant の試験に合格 任海軍少尉

フレガッテンレウテナントとは、オーストリア=ハンガリー海軍の階級で、
英語で言うところのフリゲート・ルテナント。
海軍の階級でいうと、サブ・ルテナント、海軍少尉ということになります。

 1908年(28歳)航海科に転科 中尉任官 潜水艦隊に配属

 海兵隊員として10年間海軍に奉職したトラップは、潜水艦乗組になります。

ゲオルグ・ルードヴィッヒ・フォン・トラップは、海軍を志した時から
潜水艦に魅せられ、潜水艦隊の一員になることを希望していました。

1908年、新しく編成された海軍の潜水艦隊、Uブート・ヴァッフェに
転属するという願っても無いチャンスを掴んだトラップは、
その資格となる昇進試験を受け、

Linienschiffsleutnant 中尉

に任官しました。

 

オーストリア=ハンガリー海軍潜水艦隊は、特に第一次世界大戦において
「アドリア海での連合国軍の動きを抑圧した」(wiki)精強部隊だったとされます。

1910年(30歳)新造潜水艦U6「アガーテ号」の艦長に就任

オーストリア=ハンガリー海軍でも、潜水艦はUボートです。
同じドイツ語で「ダス・ウンターゼー・ブート」なのは当たり前ですね。

ここでトラップ(多分少佐)に運命的な配置が行われます。
彼が初めて艦長になったU-6は、数字から見てもわかるように
K.u.Kが所持した6番目の潜水艦で、その愛称「アガーテ」は、
「ホワイトヘッド魚雷」、つまり魚雷の発明者とされるイギリス人技術者、

ロバート・ホワイトヘッド

の孫娘が進水の儀式を行い、命名者になったことから与えられたものです。

おそらく「アガーテ」の艦長になったことが、縁を引き寄せたのでしょう。
翌年、トラップ少佐(多分)は、その当人と結婚することになります。

1911年(31歳)アガーテ・ホワイトヘッドと結婚 

「ロバート・ホワイトヘッド アガーテ・ホワイトヘッド」の画像検索結果 

二人は海軍基地のあった街、プーラに住んで、その後7人の子供をもうけました。
が、1922年、トラップ少佐が海軍を退官してからのことになりますが、
アガーテは、長女の猩紅熱の看病をしていて自分が罹患してしまい、
32歳の若さで夫と子供を置いて亡くなってしまうのです。

それで「サウンド・オブ・ミュージック」の話につながっていくわけですが、
ここは
トラップ少佐の軍歴について続けます。


1914年(34歳)魚雷艇54号の艦長に就任

サラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけに、
第一次世界大戦が勃発しました。

今回は、ウィーンで軍事博物館の見学をしてきたのですが、その中に
サラエボ事件の資料などもあったので、いつかお話しするつもりです。

トラップ少佐は、魚雷艇の艦長に任命され、それと同時に海軍基地のあった
プーラ(現在のクロアチア)からザルツブルグに転居します。 

1915年(35歳)潜水艦U-5の艦長拝命 

ここからが本格的なトラップ少佐の軍歴となるのですが、続きは後半で。



 


ザルツブルグ大聖堂爆撃とその復興〜ザルツブルグの街を歩く

2019-08-10 | お出かけ

ザルツブルグ到着の翌朝お願いしたガイドツァーが続いております。

泊まっているホテル・ザッハの近くのミラベル庭園という、昔風にいうと
お妾さんが囲われていた宮殿は、現在市役所だそうですが、例の
ニシカワフミコさん始め、日本人も、ここでザルツブルグ市役所公認の
結婚式を行うカップルが多いのだということです。

まあ、お妾さんの屋敷といってももう今は誰も気にしないかもしれませんが。

歩いていると、レジデンツ広場に出てきました。
中央には荒ぶる馬のいる「アトラス神の噴水」があり、正面は
現在州庁舎となっている宮殿です。

宮殿であったかどうかは、外壁に紋章があるのでわかります。

それにしても、昔の建築物はこうして拡大してみるとレンズの収差では
こんな風にはならないという歪みが目立ちます。

遠目に見るとなんの問題もないのに、不思議です。

州庁舎の屋上には「グロッケンシュピール」という鐘楼があり、
35個の鐘が一日三回、モーツァルトの曲を演奏します。

今は電動、あるいはコンピュータ制御かもしれませんが、昔は
人が鳴らしていたのかもしれません。

レパートリー?は51曲あるそうですから、とりあえずモーツァルトの
有名どころはほとんどカバーしているという感じでしょうか。

大聖堂の壁に沿って馬車の駐車場になっていました。

広場の奥には「ザルツブルグの息子」モーツァルトの像があります。
モーツァルトの妻コンスタンツェは、夫の死後、奥のピンクのアパートに住んで
銅像のできるのを待っていたそうですが、掘ってみたらローマの遺跡が出てきて、
色々やっているうちに亡くなってしまい、銅像完成を見ることがありませんでした。

広場に面しているザルツブルグ大聖堂の裏側にはスタンドが建てられています。
おそらくこの次の週に行われたザルツブルグ音楽祭の準備だったと思われます。

中に入ってみました。
1628年ということは、400年近く前に建てられた壮麗なバロック建築による聖堂です。

それではこの祭壇も4百年前からのものなのか、と思われた方、
残念なことにそうではありません。
戦災により大聖堂は一度崩壊しているのです。

1600年代からここにあった教会なので、当然ながら、
ザルツブルグ出身のあの人もこの人も、ここに通った可能性があります。

モーツァルトは例えばここで洗礼を受けました。
そして、オルガニストとしても仕事をしていたそうです。

モーツァルトのオルガンの腕前は、

「文字どおりオルガンの名手で、オルガンの即興演奏家としても桁外れの存在」

と、同世代の音楽家からも絶賛されるほどでした。

ところで余談ですが、バッハやベートーヴェンの時代、
オルガンを使った「音楽試合」があったというのをご存知でしょうか。

誰か偉い人(司教とか)が、最初のフレーズをお題として発表すると、
二人の音楽家が、それぞれそのテーマでフーガを即興演奏し、
どちらが優れているかジャッジが勝ち負けを決めるというものです。

 

フーガというのは、一つのテーマが4声とか5声の各声部に、形を変え、
前のテーマを追いかけるように次々と現れてくる形式の楽曲ですが、
基礎を学ぶため、音大でも作曲科なら必ず授業で4声のフーガを書かされます。

これがまた一言でいってパズルのような緻密な調整が必要な作業なんですわ。
これを即興で、しかもオルガン(足ペダルももちろん使う)でやるなんて、
昔の音楽家マジ天才ばかりなんじゃないだろうかと思ったくらいなんですが、
例えばベートーヴェンなど、このフーガ勝負に滅法強かったとか。

わたしは勝手に宮本武蔵みたいな剛腕のイメージをベートーヴェンに
持っているわけですが(笑)その伝でいうと、モーツァルトは天才らしく、
涼しい顔して天使のように無邪気に、大胆に、そして華麗に
テーマを展開させていったんだろうなあと想像しています。

ところで、大聖堂だけあって、オルガンが一つや二つではありません。
まるでボーズのスピーカーのように、四面の角に一つづつ、
計4台のパイプオルガンがあるので驚いてしまいました。

この4台が全部いっぺんに使われるなんて場面があるんでしょうか。

「モーツァルトが弾いたのはどのオルガンなんでしょうね」

ガイドさんに聞くと、そこまではわからないとのことでした。

祭壇左側前方のこれはきっと必ずモーツァルトも弾いたに違いありません。

震災で先生のご都合が悪くなったのでやめてしまいましたが、
わたしは
しばらくの間パイプオルガンを習っていたことがあります。
(バッハの小フーガト短調を弾くところまでは行きました)

壁を向いて演奏するパイプオルガンには、必ずバックミラーがあるのですが、
探してみたら、ここのオルガンにもちゃんとありました。

「オルガン台の下に監視カメラが仕込んでありますね」

ガイドさんにいうと、彼女はとても驚いて、

「えっ、どこですか?あ、ほんとだ。知りませんでした」

何十年もの間見てきて、いつの頃からかカメラが付いたのに
今日気づいたということで、感謝されました。

ここまでかなり歩いたので、椅子に座ってしばし脚を休めていると、
横に設えられた階段状のステージに黒いワンピースの女子が並びました。

出演前、用意しているときに小耳にした会話によると、彼女らはアメリカから来た
学校の聖歌隊で、教会を回ってボランティア演奏をしているようです。
「グロリア」をはじめ聖歌の演奏が電子ピアノの伴奏で始まりました。

うちの息子の高校も、去年夏ウィーンとザルツブルグに来て、ウィーンでは
彼女たちのようにオーケストラ演奏をしています。
こちらの教会はそういう場を貸すのにとても協力的なんですね。
日本の学校の修学旅行も、そういう企画をすればどうでしょうか。

ザルツブルグ大聖堂の入り口正面には、こんなパネルがありました。

1944年10月16日、ザルツブルグをアメリカ軍の空襲が襲いました。
尖塔に爆弾が命中し、大聖堂は損害を受けています。

教会上部から見た被害の様子。

「どうしてこんなところを爆撃しなければならなかったんでしょう。
アメリカ人だってほとんどはキリスト教徒なんじゃないんですか」

わたしが遣る瀬無い思いについこう尋ねると、ガイドさんは、

「あの人たちはほら、自分たちに歴史が無いから文化に敬意もないんですよ」

と、軽蔑したような言い方で答えました。

日本の都市部に爆弾を落としたときに、彼らは

「日本では家内工業で家庭でも武器の部分を作っているから」

などと民間人を殺戮したのを正当化しましたが、ザルツブルグの
300年以上歴史のある教会をわざわざ狙ってこれを破壊したことについて、
彼らは一体どんな言い訳ができたというのでしょう。

単に戦争だから、任務だったからで済まされる話ではないような気がします。

この大聖堂爆撃については、アメリカさんもそれなりに汚点と思っているらしく、
ほとんど英語での記述が出てこないのですが、wikiでも

The Salzburg Cathedral was damaged duringWorld War II 
when a single bomb crashed through the central dome
over the crossing.

なんとなく自然発生的な、攻撃した人間の存在の見えない書き方。
決して狙って破壊したのではない、とでも言いたげなニュアンスです。

戦後ハリウッドが、ザルツブルグを舞台に、あのミュージカル映画
「サウンド・オブ・ミュージック」を製作したとき、現地の人々は
驚くほどこの映画に対して冷淡だったという話がありますが、その理由の大部分は、
この破壊がアメリカ人に対する拭いきれない嫌悪を残したからではなかったでしょうか。

しかし、我が日本の皆さんにおかれましてはご安心ください。
このパネルの左上、一番目立つところには日本語でこう書かれているのです。

「献金をありがとうございました」

ザルツブルグ大聖堂は1959年に爆撃で崩壊した聖堂を立て直し、
その年の5月18日に戦後初めてのミサが行われていますが、
このパネルには、その修復費用を寄せた国の言葉でお礼が書かれているのです。

日本語が真っ先に書かれているというのは、おそらくですが、
日本から教会の信徒などを中心に多額の浄財が寄せられたのではないでしょうか。

お礼の下には、

「入り口の門にはつぎの三つの年号がご覧になれます」

774年 最初に聖堂がこの地建てられた

1628年 現在の元となった大聖堂が完成した

1959年 戦後の復元が完成した

わたしは、ザルツブルグ大聖堂再建のために、戦後の豊かでない生活の中から
捻出したお金で献金を行なったのあろう当時の心優しい日本人たちに、
心からありがとうございましたと心の中で頭を下げずにはいられませんでした。

そして、ザルツブルグの人たちがそんな日本に向ける思いの一端を、
わたしたちは最後にガイドさんが連れて行ってくれた小さな教会で知ることになります。

「この教会は、東日本大震災が起こったとき、日本の人たちに向けて
鎮魂のミサを特別に取り行ってくれたのです」


瓦礫の中から記念に保存されている部分は、何を意味するのでしょうか。

さて、このザルツブルグ祝祭劇場前で、ガイドさんはツァー終了を告げました。

しかしまあ、大聖堂の司教様も昔とは様変わりしているようです。
ポケットに手を入れて歩きスマホとは(笑)


続く。

 

 


モーツァルトハウスとドップラー効”菓”〜ザルツブルグを歩く

2019-08-09 | お出かけ

ザルツブルグでチャーターした女性ガイドは、アラベル庭園で、
石像の表す自然調和の意図を説明しながら、

「今の地球はどうですか?火、水、地、空が汚されていませんか?」

という質問に無理やり賛同させようとして、その手のアピールが大嫌いな
わたしとMKを内心ドン引きさせたものの、その後は彼女もプロらしく
空気を読んで、和やかに案内を続けていました。

このガイドが、ウィーンの男性ガイドと同じく、音楽の勉強に来て、
そのまま現地に住み着いてガイド業をしている人だったと知ったのは、
ツァーが終わって解散するとき、彼女がわたしたちに自分が歌った
CDをプレゼントしてくれたときのことです。

昨今の音大卒業生も経験を積むためにウィーンやドイツ、パリに
留学をするのでしょうが、現地のオケに就職するとかいうならともかく、
ずっとヨーロッパに住んで歌の修行、という人はあまりいない気がします。

彼女やウィーンのガイドさんが若かった頃は、まだまだ芸術に関しては
ヨーロッパ至上主義で他の選択肢がなかったということもあるでしょう。


歌手のアンネット・一恵・ストゥルナートはその中で唯一日本人として
ウィーン国立歌劇場の団員になれたという人ですが、それでも彼女は
オーストリア人に激しい人種差別といじめを受け続けたといいます。

カラヤンが彼女を認める発言をしてからは、虐めだけは収まったそうですが、
最も成功した例でもこんな茨の道だとわかっているのに、あえて、
オーストリアなどという土地で歌手になろうというのは、今時の日本人には
あまり魅力的なチャレンジだと思われていないということかもしれません。

わたしも、楽器、特にピアノやヴァイオリンなどの個人技はともかく、
ヨーロッパで東洋人が歌手として認められるのはかなりハードルが高いと思います。

日本人が主役を張れるのは、かろうじて蝶々夫人かミカドだけ、
というのが常識となっているヨーロッパでは、おそらく今後も
どんなに上手くても東洋人がオペラの主役になることはないでしょう。

「オペラレイシスト」のわたしに言わせると、これは差別でもなんでもなく、
オペラとはそういうものだからです。

歌舞伎や京劇に女性がいないように。宝塚歌劇団に男性が入団できないように。

その点、ダイバーシティをゆるゆるに配慮してしまったアメリカのミュージカルは、
「レ・ミゼラブル」のコゼットアフリカ系(両親はどちらも白人)が登場し、
冷静になって見ればその世界にめまいを覚えるようなところまで来ているわけですが、

まあ、これは観る方も

「何かの事情があってコゼットが黒人でも仕方がない」

という暖かい理解の目で鑑賞することをよしとしているという前提なので、
百歩譲ってよしとします。(よくないけどな)

しかし、わたしは来日したオペラに東洋人を無理やり混ぜてくる一部の
「謎の勢力」には
断固異議を唱えるものです。

例えばあなたが「椿姫」を観にいったら主演が金正日みたいな
チビデブ韓国人のアルフレードだったとしましょう(実話)。

それでもあなたは

「ヨーロッパ貴族を韓国人が演じるなというのは差別だ」

「金正恩似のシークレットブーツ男でもオペラの主役を演じる権利がある」

だからこのチケットに何万円も支払うことになんの痛痒も感じない、むしろ
金髪碧眼のゲルマン系を韓国人に演じさせるという既成の常識破壊に
喜んで出資しよう、わたしは人権侵害はいかなる場合も許さないから。
そう考えるわけですかね?

見た目の不自然さ以前に、

「そういうことに昔から決まっているから」

の一言でどんなポリコレも手を出せない世界があるのだとなぜ思えない?

さて、そんな話はどうでもよろしい。
ガイドさんが例の南京錠の橋を渡って最初に案内したのは、

「Mozart Gebursthouse」

と大きく書かれたモーツァルトの生家でした。

ここでモーツァルトは生まれ、ここが家族四人で手狭になって
川向こうのピンクの家に引っ越しするまで住んでいました。

入り口の脇にあるこの取っ手、なんだと思います?
モーツァルトの時代の「呼び鈴」(正確には違うけど)です。

どうするかというと、目当ての家の表札の下にある取っ手を
引っ張ると、鉄線が引っ張られることになります。

その鉄線は、目当ての家の窓をノックする金具に繋がっています。
窓がコンコンと鳴れば、それは誰かが来た印。

ここからモーツァルトハウスの見学が始まりました。
階段を上っていって、途中にあるブースでチケットを買います。

モーツァルトのお父さん、レオポルドをフィーチャーした特別展のお知らせ。
音楽家であり、マネージャーであり、先生であったレオポルド無くしては
天才モーツァルトはこの世に生まれなかったので注目しましょう、という企画です。

館内はほとんど撮影禁止ですが、展示室の外にある台所だけは
ガイドさんも撮影して構わないと教えてくれました。
ここでモーツァルト家の食事が作られていたようです。

中庭を覗き込んでみました。
おそらくビール瓶やゴミ箱以外は、モーツァルトが見た同じ光景。

館内には、見学するのに1時間はかかるほど資料が展示されていました。
当時のピアノ、楽譜、写真、絵画、家具や持ち物など。

全て館内では撮影が禁止されています。
しかし、いるんですよね。スマホで撮影する不届き者が。

(一人は中国人、一人は白人の中年女性)

わたしたちのガイドさんは、そういう人を見ると、
誰にでもわかるように

「ノーフォト!」

と手を振って注意していましたが、撮影するような人は
わかっていてやっているのですから、その時はやめても
彼女が後ろを向いた途端、平気でスマホを作動させるのです。

「今日はお行儀の悪い人が多いですね」

「そんなにしてまで撮って何がしたいんでしょうね」

話しながら先に進むと、何人かわかりませんが、観光客の小さな子供が
わたしが肩から下げているカメラを指差して、

「写真撮っちゃいけないんだよ!」

というようなことを注意してきました。

「Of course, I won’t.」

わたしは思わず英語で答えましたが、わかったかな?

最後に例によってモーツァルトグッズや楽譜グッズが
お土産用に置いてあるコーナーがあり、その近くにこんなかまくらのような
オーディオブースがありました。

足も疲れていたことだし、とガイドさんを含め全員で座って、

流れてくるモーツァルトに耳を傾けました。

「この曲、ご存知ですか」

ガイドさんが聞いてくるので、

「ピアノ協奏曲の23番イ長調ですね」

と答えると、彼女は自分の横にあったこの説明を見て

「すごい。当たってます!」

いやまあ、昔レッスンで弾いたことがあるし、普通に有名だし、
ある意味知っていて当然なんですが、彼女はえらく驚いてくれました。

モーツァルトハウスの後は街歩きです。
ザルツブルグも、ファサードを抜けていくと中庭にお店があって、
露店が出ていたりするので、それを冷やかしながら歩いて行きます。

ガイドさんが、「モーツァルトチョコレートの元祖」といったお店。
モーツァルトチョコレートはこのブルーの店が始めたそうです。

ここでわたしたちがアメリカ在住の知人(科学者)へのお土産に買ったのが、
ドップラーチョコレート。


クリスチャン・ドップラーがザルツブルグ出身であることを知りましたが、
ここではちゃんと

ドップラー・エフェクト(ドップラー効果)

に引っ掛けて、

Doppler Kon(Ef)fect

コンフェクトはドイツ語のお菓子ですから、あえて日本語でこじつけると

ドップラー効菓・・・

無理やりですね。すみません。

ヴォルフ・ディートリッヒ・フォン・ライテナウという名前は
日本では知られていませんが、ザルツブルグの大司教で建築家で、
王家の血筋を引いたサラブレッドで、結構なワルでした。

ローマで贅沢三昧の日々を過ごしたのちザルツの大司教になった彼は、
聖職者でありながら(いや、聖職者だからかな)妾を囲い、
彼女との間にできた子供を住まわすために、前回ご紹介した
「ドレミの歌」のミラベル宮殿というのも建てたり、もっさりしていた
田舎町に過ぎなかったザルツブルグのをイケイケにかっこよくした張本人です。

というわけでこのお菓子屋さんは、

「ヴォルフ・ディートリッヒ煉瓦」

というザルツの有名人シリーズを販売しています。

ところで、「第三の男」のハリー・ライムは、ボルジア家ではなく、

「ヴォルフ・ディートリッヒは悪政をしたが、そのおかげで
ザルツブルグの街はこのように整備され美しくなったのだ」

といえば、もう少し賛同されたし、ついでに学があるアピールできたかもしれませんね。
でも、そもそもこの人のことを誰も知らないか。

 

続く。



ザッハホテルで戴くザッハトルテの恐怖〜ザルツブルグ滞在

2019-08-04 | お出かけ

ウィーンから車で休憩と「アドブルー」なる窒素材の補給をしながら
約4時間でザルツブルグにたどり着きました。

こちらが本日のお宿でございます。
ホテル・ザッハ・ザルツブルグ。

ナビが指し示すザルツブルグでのホテルの入り口は、
一流ホテルという割にはこじんまりした構えです。

旅行企画者曰く、今回ウィーンでリーズナブルなホテルにしたのは、
ザルツブルグでこのザッハに泊まることになっていたからでした。

一極集中型、一点豪華主義と言うやつですね。

ロビーもそれほど広いというわけではありませんが、その真ん中に
人の背丈より高い花器がそびえ立っております。
フラワーアレンジメントの気合いの入り具合がいかにも五つ星のロビー。

昔はきっと、もっと重厚な天鵞絨張りの椅子が配されていたのでしょう。
オープン以来、政治家や各界の有名人がこのロビーに姿を表しました。

特に、ザルツブルグ音楽祭の期間中は、このホテルに、綺羅星のような
名だたる演奏家が宿泊してきたはずです。
ホテルのすぐ隣が生家であったという、ヘルベルト・フォン・カラヤンも勿論。

ロビーの上部は天井までの吹き抜けになっており、しかも天井は
ガラス張りの灯り取り仕様になっています。

いつのことかは知りませんが、この写真で見える左の窓のない部分、
つまり最上階は後から増設した部分だということなので、その時に
思い切って屋根をサンルームのようにしてしまったのに違いありません。

改装前はきっともっと室内は暗かったと思われます。

わたしたちが今回宿泊したのは、改装前の最上階になります。
右奥に今荷物が運び込まれています。

部屋の前から見た同じ場所。
この上階の部屋は、「カール・ベームルーム」とか、「カラヤンルーム」とか、
そういう名前のついた「特別室」ばかりだそうです。

もしかしたら、その名前の本人が泊まった部屋なのかもしれません。

ホテル内の壁紙はモーツァルトの自筆楽譜をデザインしたもの。

グランドフロア(日本の一階)にはこのような会議用の部屋もございます。

そしてこちらがわたしたちが泊まった部屋でございます。
広くはありませんが、とにかくインテリアがゴージャス。

ただし、ここに家族三人が無理やり泊まることになったため、
三つ目のベッドはメインの足下にくっつけて置いてありました(笑)

インターネットのスピードは残念ながら極遅で、部屋ではPCはできませんでした。

なんと、部屋にはウェルカムフルーツと、支配人からのお手紙。

一人一つづつ、名物のザッハトルテが用意されていました。
いうまでもないですが、ザッハトルテはホテルザッハーの創業者の父が
もともと菓子職人で、そういうチョコレートケーキを作っていたので、
ホテルを開業した息子がホテルの名前を冠して名物にしたというものです。

「明日の朝10時からティールームでザッハトルテを食べる予約入れたんだけど」(´・ω・`)

「わざわざ予約しなくてもここにあるじゃない」

「キャンセルする」(´・ω・`)

「じゃインペリアルトルテを持ってきたから今夜は食べ比べだ!」

「おー!」

部屋の中を点検すると、さすがは一流ホテル、アメニティの充実半端なし。

あとで使ってみて驚いたのは、シャンプー、リンス、ボディソープ、
ボディローション、その全てがチョコレート味?だったこと。

チェックアウトの際には皆トランクに入れて持って帰りました。

洗面台に一輪刺しに入れて飾ってあった見事な薔薇。

そして窓からの眺めです。
昔のホテルなのでバルコニーに出る扉は大きくないのですが・・。

バルコニーに立つと、思わず歎声が漏れました。
目の前は、ザルツブルグの資源を国内に輸送する役割を担ってきた
重要な水上運送の要、ザルツァハ川です。

で、わたしたちのこの部屋なんですが、

あとで外に出てから、

「もしかしてわたしたちの部屋って、ザッハーって字の下?」

「ど真ん中じゃない?」

「いやー、そんなはずは・・・バルコニー、丸かったっけ」

そんな会話をしておりましたが、結局赤丸のところだったことが判明しました。

いやー、なんかすごい部屋をアサインしてもらったみたいで悪いわー。

実はわたしたちがザルツブルグを去った次の週には、かの有名な
ザルツブルグ音楽祭が行われ、それこそザッハーホテルはVIPで満室となるので、
その直前ということで比較的空いていて、こんな部屋にしてもらえたのでしょう。

部屋から見える橋には、なにやら遠目にきらきらひかる鍵が、
それこそ無数に取り付けられているのが見えます。

タピオカミルクティー並みにごく最近のブームなんだそうですが、
橋に恋人同士で鍵をつけて、恋愛成就を願うのだとか。

部屋のバルコニーから見た、ザ・ザルツブルグな眺め。
そういえば、「サウンド・オブ・ミュージック」のザルツブルグのシーンは
ちょうどこの角度から見る景色で始まっていましたっけ。

アドブルー騒ぎで昼食を食べ損ねたので、ルームサービスを取ってみました。
バーガーは冗談のようですが「ザルツバーガー(Salzburger)」と言います。

ザルツブルグにeをつけると、普通に「ザルツブルグ人」のことですが、
ハンバーガーのburgerでもあるので、当地ではシャレで英語読みしてバーガー、
これをご当地食として売っているのです。

もともとハンバーガー(hamburger)って、ハンブルグが語源なわけですし。
ペテルスブルグにペテルスバーガー、ザクセンブルグにザクセンバーガー、
アウグスブルグにアウグスバーガーフライブルグに以下略、
という風に、現在ではほとんどの土地にあっても不思議じゃないね。

ザッハーホテルのザルツバーガーは大変美味しかったですが、
MKは「佐世保バーガーの方が美味しかった」と言い切っておりました。

問題は下のスープです。
なんだか色が不穏な濃さだと思いませんこと?
これを一口啜ったTO、途端に

「辛っ」

続いてMK。

「辛っ!」

わたし。

「かっらー!辛いわこれ!」


とにかく辛い。塩辛いのです。

「いやー、これ何かの間違いじゃないのかな」

あまりに辛いので、つい人を呼んで何かの間違いではないか、
と聞いてみたのですが、

「当ホテルのスープはお味を濃いめにしてあります」

とのこと。
納得いかないままに三口だけ食べ後を残して持って帰ってもらいました。

シェフが奥さんと喧嘩して家を出てきていると料理が辛いとか言いますが、
そういうレベルではなく、度はずれに辛かったです。

まさか、ザルツブルグのザルツは「塩」という意味だから・・・?


三人でバーガー1個、スープ一口ずつをお腹に入れて、そのあとは
町歩きにいき、帰ってきてから本格的に夕食をとりました。

当ホテルのメインダイニングということで、一応気を使って
TOなどジャケットを着て行ったのですが、通されたのはテラス席で、
周りの人たちはおしゃれではあるけれど半ズボンとか(笑)

一流ホテルといえども、夏のアウトドアではカジュアルになるんですね。
で、それはいいんですが、困ったのがハエの多さ。
食事をしている間、止まりに来るハエを払うのに、ずっと手をひらひらさせて
動かしていないといけないという・・・・。

日本やアメリカの一流と言われるホテルなら、なんとかハエが出ないように
根本から衛生状態を改善するとかしそうなんですが。

この滞在で、文化の重みはともかく、衛生とか清潔とかいうことになると、
ヨーロッパは
決して我々が満足するような状態ではないと知ることになりました。

パリで十分そのことは身にしみていたのですが、ドイツ語圏なので
清潔好きの民族性に期待していたんですがねえ。

あらためて(トイレの歴史を考えても)世界一清潔なのは日本だと確信したものです。

そしてお料理。
さっきのスープの件があったので、嫌な予感がしていましたが、
例えばこのトビコをあしらったサラダなども少し、いやかなり辛めでした。

デザートは取らず、夜、部屋に戻って、ザッハトルテ一つを三人で食しました。
最初に食べたTO、

「甘っ」

続いてMK、

「甘っ!」

わたし。

「あっまー!甘いわ!」

いやー、日本人には甘すぎと聞いていましたが、ここまでとは。

「もういらない」

「もう結構です」

「勘弁してください」(泣)

ここまで言われるザッハトルテって。

この小さな塊で大騒ぎしていた日には、ロビーで売っていた
このワンホールザッハトルテはどうなる。

「これ全部食べたらただにしてあげるって言われたら食べる?」

「食べない」

「お金あげるって言われたら?」

「多分相当もらわないと無理」

ここまで言われるザッハトルテって一体。

そこで、ガイドさんにオススメしてもらったインペリアルトルテですよ。

同じようにチョコレートケーキとマジパンを積み重ねてカットし、
それにチョコレートをかけて仕上げているのですが、
こちら、特にガイドさんの奥様オススメのラズベリー味のトルテは、
羊羹のように2ミリくらいの厚さに切っていただくと、
特に甘くないお茶と一緒に食すとなかなかのものでした。

が、これでも一つ丸々食べるのは、普通の日本人には少し辛いと思われます。

「日本人はよく”甘くなくて美味しい”なんて言いますけどね。
お菓子はもともと甘いもんなんですよ。
甘いのが嫌いならお菓子なんて食べなきゃいい。

だいたい、甘すぎ甘すぎって言うけど、何でも砂糖で味付けして、
甘くて仕方がない日本料理を食べているくせにねえ」

ウィーンのガイドさんは日本人の「甘いもの嫌い」に苦言を呈していましたが、
いや、ザッハトルテの甘さははっきり言ってそういうレベルじゃないっす(笑)

 

続く。


アド・ブルーって何?〜ウィーン-ザルツブルグ車の旅

2019-08-03 | お出かけ

オーストリアには合計1週間滞在し、中三日ザルツブルグに行きました。
今日ウィーンを出発しザルツに移動という日の朝のことです。

ホテルのコンプリメンタリーの朝食にも飽きてしまったので、
外で食べようということになり、スタッドパークに沿って流れる川の
辺りにあるレストランに行ってみることにしました。

おしゃれなウィーンっ子に人気(でも観光客はあまり来ない)、
「メイエレイ」Meierei(乳製品という意味)は、ウィーンの三つ星レストラン、
シュタイラーエックに併設されたカフェ風レストランです。

朝食にもいくつかのコースがあり、三人ともそれを頼んでみました。
飲み物に紅茶を頼むと、可愛らしい牛乳瓶に入れた温めたミルク、
紅茶の葉を入れた袋がポットのお湯とともに出てきます。

卵料理、ハムなどの肉料理、普通のレストランではとても朝食に出ないような
手間のかかった繊細な料理が、アフタヌーンティ用のトレイで出てきます。

店内で爽やかに立ち働いているのは金髪碧眼の若いゲルマン系の男女ばかり。
全員容姿端麗で完璧に英語が話せます。

オーストリアは他の豊かな国と同じく、移民の多い国ですが、
やはり高級な店ほど人は国産にこだわっているようです。

ポーチドエッグのトッピングにあしらわれた穀類、
ヨーグルトにもチアシードとレモンをあしらい、目にも楽しい朝食です。

後から、ここの朝食はいつも予約でいっぱいで、たまたま
通りかかってテラス席が空いていたのは偶然だったと知りました。

川の向こう岸では、スタッドパーク散策で見た変な彫像の下で
市の清掃員が池の水を抜い掃除を始めていました。

カップルの犬が水に入りたがっていたのですが、
清掃員に追い出されたところです。

池の底の栓を抜くと、水は横の川に流れ込む仕組みです。

朝食に満足して川沿いの道を戻る途中、ホームレスに説教している
犬の散歩途中のおばちゃんがいました。

近くを通りながら小耳に挟んだ会話の調子から、
おばちゃんはホームレスにあれこれと質問し、彼の人生について
あれこれとお節介焼いているらしいのがわかりました。

おばちゃんのお節介は世界共通ですが、日本のおばちゃんは
流石にここまでやらんだろうなあ。

橋の欄干で追いかけっこをしていた鳩のつがい。
カメラを向けると急におとなしくなりました。

ザルツブルグにはホテルに荷物を預けて汽車で行こう、
ということになっていたのですが、朝食からの帰り、ホテルのロビーに
地元のレンタカーが店を出していることを知り、急に思いついて
わたしが運転して行くことになりました。

ヨーロッパでは何も言わないとマニュアル車になることがあるので、
とにかくオートマチックね、と強調したところ、割り当てられたのは
なんとジープでした。

オーストリアなのでBMWかアウディになるかと思っていたのですが。

ナビに従って高速道路に乗り、しばらくして気づいたのですが、
他の車のスピードが速い(笑)

それもそのはず、高速道路の制限速度は130キロ。
運転される方は、日本で130キロを継続して出すことは
不可能であることをよくご存知だと思いますが、ここではとにかく
道路が非常に機能的に作られているせいか、なんの問題もないのです。

三車線ある一番右をトラックなどの速度の遅い車が走り、
真ん中を走る車はだいたい130キロくらいで走行、
追い越しをする車は一番左側を140〜50くらいで走ります。

ニューヨーク郊外のフリーウェイでも皆が飛ばすので驚きましたが、
それでも130キロは出ていなかったと思うので、これは
ちょっとしたカルチャーショックです。

もっと驚いたのは、可変式の電光掲示板に制限速度が記載され、
工事をしていたりその他の理由によって、頻繁に
スピードリミットが変わることでした。

130で機嫌よく走っていると、前に「100」と出てきます。
右側にトラックが停まっているとか、工事をしているとか、
そういう事情で制限速度を集中管理しているセンターが変えるのですが、
カーナビとも連動していて、制限速度をオーバーするとたちまち
ナビゲーションが音声で、

「制限速度をオーバーしています」

と警告してきます。
周りを見ると皆真面目にこのシステムを守っているようで、
わたしももちろん厳密に規制を守って走っていました。

オーストリアはドイツではありませんが、(両者の感情的なものは
我々には伺い知ることはできませんが、どうもいる間に知ったところ、
オーストリア人はドイツ人を田舎者と思っているらしい)
ドイツのアウトバーン方式というのか、交通システムは実に機能的で、
やはり同じ民族なのだなとうっすら思わされました。

大型車に多いメルセデス・ベンツ製。
これもドイツ文化圏ですから当たり前です。

機嫌よく走り出してすぐ、わたしはフロントパネルの警告に気がつきました。

それは、禍々しくも大きな文字で、

今すぐDEFを補給してください。

あとXキロで車のエンジンを切ってからリスタートできなくなります」

車の中は騒然となりました。

「DEFって何〜〜〜!?」

「今すぐレンタカーに電話して!」

「えー、次のガソリンスタンドで聞けばいいんじゃないの」

「アメリカみたいに人がいないかもしれないでしょ?」

こういう時に聞き間違いがあってはいけないので(笑)息子に、
(わたしは運転しているのでもちろんできませんが)電話させると、

「”ブルーを入れるんだ”って言ってるけど」

「ブルー?」

「ブルーって何〜〜〜!?」

次に出てきたガソリンスタンドには、確かに「アドブルー」という
何かを補給するガソリンスタンドみたいのがあります。

案の定人がいないので、中で売店の人に聞くと、

「ここはトラック用のスタンドだから普通のところに行って」

としか教えてくれません。

とにかくアドブルーがなんなのか、どうやったら買えるのか、スタンドで
点検してみても全く見当がつかないので、わたしたちはパーキングエリアの
建物の中に入ってwi-fiでアドブルーのなんたるかを調べるところから始めました。

とほほ。

そしてなんとかわかったことによると、アドブルーとは、
ディーゼル車の排気を抑えるための尿素水であるということ。

ヨーロッパ車は普通にディーゼル車のガソリン注入口の隣にDEF口があるのです。

「というか、自分が乗っているのがディーゼル車だって知らんかった」

DEFとはディーゼルエグゾーストフルード(Diesel exhaust fluid)で、
ディーゼルエンジンが排出する窒素酸化物(NOx)を浄化する機能を持ち、
ガソリンと同じように走行によって消費され、無くなると
警告にも出ていたようにエンジンがかけられなくなるのです。

「はえ〜こんなシステムが世の中にあったとは」

またしてもカルチャーショック。
いや、世界は広い。旅行は見聞を広めると言いますが、その通りです。

そこまではわかりましたが、問題はアドブルーはどんな形で売っていて、
どうやって車に注入すればいいのかです。

「仕方ない。とにかくガソリンスタンドで聞いてみよう」

「アイス食べていい?」

「・・・・・」

一刻も早くザルツブルグに着いてホテルを満喫したいTOは
アドブルーのあたりから珍しく超不機嫌になっておりましたが、
唐突にアイスを食べたがる息子に黙って買ってやっていました。

ちなみにオーストリアのパーキングエリアはアメリカと違い、
ものすごく
ちゃんとしたレストランがあります。
アイスクリームをすくってくれるのもシェフコート着用の人だったり。

アイスクリームを持ってレジに並んだところでわたしは目を疑いました。
この棚にあるのは全てタバコのパッケージなのですが、どれにも
グロテスクだったりショッキングな「タバコの害」が印刷されているのです。

心臓麻痺、奇形、白内障、舌癌、うつ病、不妊。

ありとあらゆる、考えられる限りのデメリットがこれでもかと。
どうやらこれは、日本のタバコ会社が

「健康のため吸いすぎに注意しましょう」

とパッケージに書かされているのと同じ目的のもので、
これでタバコを吸うことをためらわせる目的があると思われます。

「つまりこれを印刷したパッケージでないと売らせてもらえない・・・」

「そうなんでしょうな」

「でも、吸う人はこれでも吸うんだ」

「どうしても吸いたい人には焼け石に水でしょう」

でも、タバコを手にとるたびにこんなグロ画像を目にしていたら
とても美味しくタバコを吸うことはできなさそう。

 

さて、先ほど立ち寄ったガソリンスタンドにもう一回いき、
お店(アメリカと同じでガソリンスタンドにはコンビニが併設されている)
の女性店員にアドブルーのことを聞くと、案の定一人は英語が喋れず。

若い人に聞いて、店先にある1リットルタンクを20ユーロで購入しました。

「しかし、レンタカーなのにこれくらいちゃんと補充しとけよな」

TOはプンスカ怒っていましたが、このアドブルー、ガソリンと一緒で
頻繁に補充しないとならず、その割にパネルでは残量がわからないため、
点検のときに残が少ないことに気がつかなくても無理はありません。

レンタカー屋は、アドブルーを購入したらレシートを取っておいてくれ、
返金するから、と言ったらしいのですが、TOは何を思ったのか、
アドブルーの空のタンクを一緒に窓口に持って行って見せたようです。

(こういうとき、そんなの意味ないんじゃね?と内心思っていても、
何も言わず好きにさせておくのが長年の夫婦生活で得たわたしの知恵です)

とにかく購入後、苦心してタンクを開け、同梱されているホースで
ガソリン補給口の隣にあるDEF用注ぎ口から投入して警告が消えたのを確かめ、
わたしたちはようやく全員肩で息をつきました。

都会から次第に周りの景色は田園風景になってきました。
高速道路脇にはこのようにソーラーパネル畑?もありましたし、

丘陵一帯に風力発電機が生えている地帯もありました。
オーストリアは1960年以降、国内に二つの原子力発電所を有していましたが、
反原発運動の流れで行われた国民投票によって、わずか2万票差で
反原発に舵を切った「脱原発国」でもあります。

車体中がひよこで埋め尽くされたトラック。
上のドイツ語を翻訳機にかけたところ、

「オーストリア発の七面鳥のひよこ」

だそうです。
シチメンチョウってひよこの時こんななの?
と思って調べてみたら、その通りでした。

「七面鳥 ひよこ」の画像検索結果

 大きくなるとシマシマができて、あのトサカも生えてくるんですね。

のち

ウィーンを出てアドブルー騒ぎを含め4時間後、ようやくわたしたちは
ザルツブルグに到着しました。

TOは

「せっかくホテルにアーリーチェックインできるように頼んでたのに」

とえらくおかんむりでしたが、わたしにはスリリングでとっても楽しかったです♫
違う文化に驚いたり戸惑ったり、解決法を探して右往左往したり。

これが旅の醍醐味ってやつですよね?

 

続く。

 

 

 


皇女エリーザベトの憂鬱〜ウィーンの街を歩く

2019-07-28 | お出かけ

さて、ウィーン街歩きシリーズ、最終回です。

午前中で終わる予定が、カフェ・ツェントラルの昼食を挟んで
まだ延々と続いており、これは昔の日本人らしく義理堅いガイドさんが
昼食をご馳走したことに対するお礼のつもりだったのでしょう。

 

70歳のガイドさんは、外地にあっても、いや、多くの在住外国日本人が
そうなるように、ある意味日本国内に住んでいる人より強烈に
自分のアイデンティティを意識して来られた方のようで、
この日、一緒に歩いていて、こんな出来事がありました。

路上に店舗の立ち並ぶ混雑したところで、観光客か現地人かわかりませんが、
親に放置されて走り回っていた子供が、ガイドさんを見るや、

「チャン・チョン・チン!」

と笑いながら叫んだのです。

何年か前の夏、サンフランシスコ空港でアシアナ航空機が墜落した時、
どこかのテレビ局のインターンシップが、機長の名前として

Sum Ting Wong=Something wrong (なんか変だぞ)
Wi Tu Lo=We're too low (俺ら低過ぎね?)
Ho Lee Fuk=Holy F○○○(説明なし)
Bang Ding Ow(バン!ドン!ワー!)

とテロップを出し、騒ぎになったことがあります。
アメリカ人ちうのは、コリアンもチャイニーズも一緒くたなんだなあと
変なところで感心したものですが、とにかくエイジアンを見ると
非アジア人の程度の悪いのがやるのが、「チャンリンシャン」とか、
(あのシャンプーの宣伝、今なら絶対に問題になってると思う)
目を横に引っ張ってつり目にして見せるとか、
\ /←こんなマークをスタバのカップに書くとかいうイタズラ。

わたしの同級生もドイツ留学中、子供に吊り目ポーズをされたそうですが、
その人は普通のヨーロッパ人より目の大きな人でした。

とにかく、それを聞いたガイドさんは、通り過ぎずにくるりと後ろを向き、
二、三歩子供の方に戻って、わたしのドイツ語の能力でも聞き取れるくらい、
はっきりと子供に向かって、

「今、チャン・チョン・チンって言ったけど、それはとても失礼だよ。
それに、わたしは日本人(ヤパーナー)だ。中国人ではない。
君たちはアジア人を見れば
皆中国人のようにいうが、それも失礼なことだ」

と言ったのです。
悪ガキどもは、(男女合わせて三人いた)気まずそうに黙り込みました。

もしかしたらドイツ語がわからない旅行者の子供だったかもしれませんが、
少なくとも自分が叱られたことだけははっきりと自覚したでしょう。

彼らが今後そういう悪ふざけを慎むかどうかはわかりませんが、
子供相手に正面からそれは間違っている、と叱るガイドさんに、
わたしは海外で生きる日本人の気概のようなものを見た気がしました。

都市開発で地面を掘ったらローマ時代の遺跡が出てきた模様。
わたしたちにはピンときませんが、ウィーンというのは
古代ローマの時代に都市国家として誕生した地なので、
街全体が遺跡の上に立っているようなものなのだそうです。

街のところどころに、レンタルのキックスケーターが設置してあります。
どういうシステムかは知りませんが、ネットとカードで予約する模様。

ガイドさんは音楽家なので、楽譜屋さんにも連れていってくれました。
店先にはグレゴリオ聖歌っぽい(適当)アンティークの楽譜が
実に無造作に飾られています。

ホテルの入り口にワーグナーの彫像を見つけました。

1875年の終わり、ワグナーと彼の家族は、オペラ「タンホイザー」と、
「ローエングリン」の公演の準備のために、ほぼ2ヶ月間、
このホテルに滞在しました。

ワグナー死後50周年記念に当たる1933年に制作されました。

ところで、この時ガイドさんから聞いた音楽家ネタを一つ。

ウィーンの歌劇場の近くで、辻音楽師がロッシーニの曲を演奏していたところ、
自分のオペラが演奏されるので当地にきていたロッシーニ本人が通りかかりました。
黙って通り過ぎることができない彼、辻音楽師に

「その曲はもっとゆっくりやったほうがいいよ」

「なんでそんなことを言うんですか」

「私が作った曲だからさ」

次の日、同じところをロッシーニが通りかかると、昨日の音楽師、
早速こんな看板を掲げておりました。

「私はロッシーニの弟子です」

ロッシーニという人は、自分の像が広場に建つという運びになった時、
その製作費用を聞いて、

「それだけのお金をくれるなら私がずっと立ってるのに」

とぼやいたという、なかなかユーモアのある人物だったそうですが、
この時は商魂たくましい音楽師にしてやられたというところです。

パリでもそうだった気がしますが、花屋というのはヨーロッパでは
街角に花を所狭しと並べているものです。

冬の間はどうなっているのか気になります。

わたしたちはどんどんと歩いて、インペリアルホテルまでやってきました。
ツァーの途中で日本人にはザッハトルテは甘すぎて不評だ、という話になり、
それならばインペリアルに行けば甘さ控えめのが買えるので行きましょう、と
てくてくここまで歩いてやってきたわけです。

ウィーンの帝国ホテルは非常に由緒正しい歴史を持ち、畏れながら
我が日本国の天皇陛下はもちろん皇族の皆様方は、当地にお越しになった際、
必ずここにお泊りになるそうで、インペリアルホテルの英語版ウィキペディアには
わざわざ日本の天皇陛下、皇后陛下がお泊りになった・・と書かれています。

ガイドさんはロビーを通り抜け、二階を案内してくれました。
元々は大公夫人の宮殿だったそうですが、1873年、売却された建物を
万国博覧会のためにホテルにしたのが当ホテルの始まりです。

大理石の円柱の立つ吹き抜けの階段の正面にはライトアップされた女神像。
天井の装飾も、シャンデリアも豪華すぎて息を呑むほどです。

シェーンブルン宮殿も、ザルツブルグのザッハホテルもそうでしたが、
宮殿仕様の階段というのは段差が異常に小さく、上り下りがが楽です。

お年寄りや、裾の長いドレスのご婦人が毎日行き来するので、
まだエレベーターのない時代に建てられたこれらの宮殿は
ストレスフリーの設計としてこの手法が好まれたのでしょう。

ちなみに、世界で初めて電動式のエレベーターを開発したのは、
ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンス(シーメンスの創業者)で、
このホテル開業7年後の1880年のことです。

二階にあったオーストリア皇后エリーザベト(愛称シシィ)の像。

彼女もシェーンブルン宮殿の住人で、かつての居室には、
彼女が膝まで伸ばしていたという髪の毛を解いて立っている
マネキンが後ろ向きに置いてありました。

髪の毛は一ヶ月に一度しか洗えなかったそうです。

エリーザベトの正気の沙汰ではない美容法の数々

一ヶ月に一度の洗髪、庭で用を足していたフランス貴族並みの不潔さです。
そして浪費という点でも、彼女はフランス貴族並みだったそうです。

エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、
若さと美しさを保つための桁外れの美容への出費、ギリシアの島に絢爛豪華な城
「アキレイオン」の建設、あらゆる宮殿・城・別荘の増改築、
彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行などを税金で行っていた。
だが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまることができず、
乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオンなどにもすぐに飽きてしまった。(wiki)

尊大、傲慢、狭量つ権威主義的であるのみならず、
皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみ
ほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によって
ヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりするなど、
自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かったとされる。
当時のベルギー大使夫人は、
「この女性は本当に狂っています。
こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、
この国の国民がまだ寛大だからです」と書いている。(wiki)

それでもやっぱり美化されて宝塚のお芝居になったりするのは
彼女が美しかったから・・・なんでしょうねきっと。
もちろん彼女が慕われる理由はそれなりにあった説もありますが、
興味があれば調べてみてください(投げやり)

ガイドから聞いた話で面白かったのは、彼女が姑から

「歯並びが悪くて歯の色が黄色くて汚い」

と言われた瞬間、鬱っぽくなって人前で話さなくなったという話。
彼女があと100年遅く生まれていたら、なんとでもなった悩みでした。

あと、最初は彼女の夫ヨーゼフ一世は姉の見合い相手だったのに、
エリーザベトを見初めたため彼女が皇后になったという話を聞いて

「じゃ予定通りお姉さんが皇后になっていたら彼女は暗殺されなかったのかも」

というと、ガイドは

「殺した方も無政府主義者で誰でも良かったみたいだからどうでしょうか」

確かにこの場合のイフはあまり意味がないかもしれません。

 

ところで、肖像画が若くて美しい頃のしか残っていないので、わたしは
てっきり彼女は若いうちに暗殺されたのだと思っていたのですが、この時聞くと、
レマン湖で死んだ時、もう60歳になっていたそうですね。

年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のベールと
革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、
それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。
(wiki)

「エリーザベト 晩年」の画像検索結果

(写真を撮られそうになって必死で顔を隠しているエリーザベト)

若い時に美人と称えられた人ほど、歳をとって容姿が衰えることを
受け入れられないという話はよく聞きますが、彼女もまたそうだったのでしょう。

しかもこんなことまで書かれてしまうなんて・・・これも美人税ってやつでしょうか。
(しかしこれも、今の美容技術なら彼女の悩みはほとんど解消されたと思われます)

かつてヨーロッパ皇室一の美貌を謳われたがゆえに、
老いた姿を人目にさらすことが耐え難かったらしい彼女にとって、
永遠に若いイメージだけを後世に残して亡くなったのは、
望むところだったというべきかもしれませんし、
亡くなった年齢の60歳というのは、それ以上歳を重ね、いやでも
人前に老いた姿を晒す場面が永遠に訪れなくなったという意味で
変な言い方ですが、ぎりぎりのタイミングだったように思います。

 

ちなみに、彼女は傲慢で横暴、感情を爆発させ激怒するタイプで、
お付きの者は皆、彼女の機嫌を損ねるのを畏れてビクビクしていたそうです。

やっぱり綺麗でなければここまで持ち上げられてないよなあ。

 

 その日の夕食は、家族で相談してスイス人が経営している
フォンデュの店に行ってみました。

店内はこれでもかとスイスの旗の模様があしらわれております。

サラダとチーズフォンデュ二人前を頼んだら、店主らしいおじさんが、

「もうそれくらいで十分だよ」

とオーダーを止めてくれました。

チーズフォンデュの右側に見えているパン籠が一人分で、
同じ大きさの籠がもう一つこちらにあります。

「こりゃ確かに多いわ」

三人でせっせと食べても、一つの籠すら空にすることができませんでした。

アメリカではいつも超少なめにしても食べきれないほどでてきますが、
ウィーンでも日本人には一人前は多すぎることが多かったです。

でも、オーストリアの人、太ってないんだよなあ。
それどころか、初めてドイツ語圏の国に来て思ったのですが、
若い男に美形が多いんですよ。

移民らしいなに人か分からない人はともかく、いわゆる
ゲルマン系の男性に限り、金髪碧眼、背が高く肌の色は明るく、
神様は本当にうまいこと彼らを造形されたものだと感心せずにはいられません。

そしてそういう見栄えのいいのがザッハとかインペリアルとかのフロントに
惜しげもなく配置されているわけですが、中年以降の男性を見る限り、
オーストリア男性というのは、若い頃はいかに美しくとも、
歳をとると普通に皆世界基準値のおじさんになってしまうようです(笑)

 

さて、ウィーン二日の観光の後、わたしたちは車でザルツブルグに移動しました。

 

続く。

 

 


グラーベンの三位一体像(ペスト記念柱)〜ウィーンの街を歩く

2019-07-27 | お出かけ

契約の時間はとっくに過ぎているのに、一向にツァーを終わらない
ガイドさんの案内で、ウィーンの街を延々と歩いております。

「サウンド・オブ・ミュージック」などを見ていても出てくるのが、独特な形の
教会の尖塔ですが、これらも、屋根の瓦も、全てハンドメイド。
最初からこうなっていたのか、経年の影響でこうなったのかわかりませんが、
写真に撮ってみると、屋根の瓦が波打っているように見えます。

石塔の内部はこのように壮麗な装飾が施されているものが多いですが、
ここでは鳩除けに、ネットが張られていました。

丈夫で軽い素材が開発されるまでは鳥の団地と化していたに違いありません。

「ウィーン建築」という言葉があるくらい、この地には独特の建築文化が、
オットー・ワーグナーアドルフ・ロースなどによって花開きました。

この花模様のビルは、オットー・ワーグナーのマジョリカハウス、右側は
同じくメダイヨン・ハウスと称する1800年代後期の作品です。

マジョリカハウスの花の彩色は、マジョリカ焼といって、
スズ酸化物を釉薬に加えて焼いたものなので、120年近くたっても
その鮮やかさが全く変質していないのです。

この歴史的建造物にも普通に人が住んでいます。

ウィーンのコールマルクトは、宝石店などが並ぶリッチな商店街です。
ここにある「ガードナー」宝飾店は、現代建築の巨匠だった
ハンス・ホラインによって、1982年設計されました。

こちらもホライン設計。
ガイドさんはなぜか、

「私はこの人とはあまり合わなかったです」

と謎の一言をつぶやいていました。
どういう知り合いだったんでしょうか。

ユリウス・マインルはウィーンの高級スーパーです。

「ユリウス・マインル二世は62歳の時に22歳の田中路子と結婚したんです」

ガイドさんの一言で、わたしはオーストリアで活躍した日本のオペラ歌手、
田中路子の最初の夫の名前を思い出しました。
昔、田中路子の伝記を読んだことがあって、かなり鮮明に覚えていたのです。
そこで、

「で、二度目に結婚したのがデ・コーヴァだったんですよね」

(ヴィクトル・デ・コーヴァはオーストリアの俳優。
彼女は夫のことを『デコちゃん』と呼んでいた)

とつぶやくと、えらく驚かれました。

「ええっ、よくご存知ですね!」

東京音大で齋藤秀雄と不倫の噂が立って、逃げるようにウィーンに留学、
そこで社交界にデビューし、40歳年上の富豪の妻になり、
その財力で歌手デビュー、数々の男性と浮名を流し、カラヤンやベーム、
超大物政治家にもタメで付き合いがあったという伝説の女性で、
有名指揮者がステージから客席の彼女にわざわざ挨拶したり、
死ぬ直前まで年齢不詳の若さを保っていたりと、とにかくすごい。

今でもウィーンで最も有名な日本人女性かもしれません。

田中路子

「田中路子」の画像検索結果

レッスンをする田中路子、45歳。

わたしもガイドさんに本で読んだネタを教えてあげました。

「付き合っていた男たちの中で最低だったのは早川雪洲って言ってたそうです」

「へえ、知りませんでした」

ガイドさんのウィーン音大の友人だか知り合いは、亡くなる直前、
田中路子の「かばん持ち」をしていたそうですが、きっと
下の者にはすごい気難しい人だったんじゃないかという気がします。


1670年代、ヨーロッパでペストが流行しました。

ペストは元々ネズミなど齧歯類の罹る病気で、ノミがネズミの血を吸い、
そのノミが人間の血を吸うと、その刺し口から菌が侵入して感染します。

かつては高い致死性を持っていて、大流行した14世紀にはペストのせいで
地球の人口が1億5千万人減ったというくらい猛威をふるいました。

罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれていたそうです。

ペストはだいたい100年に一度くらいの割合で流行を繰り返していますが、
この時ウィーンでは死者10万人が亡くなっています。

なんとかその流行も過ぎ去った時、時の施政者レオポルド1世は、

「ペストを終わらせてくれて神様ありがとう」

という意味を込めてこの賑やかな像を建造しました。

ごちゃごちゃしていてわかりにくいですが、ここに
「父と子と精霊」、つまり神(玉を持っている)とイエスキリスト
(十字架を持っている)、そして精霊(多分周りにいっぱいいる人たち)がいて、
この部分が

「三位一体」

を表しているのだということでした。

マリア・テレジアのお祖父さんというレオポルド1世が、
ペストを終わらせてくれてありがとう、とお礼を言っております。

レオポルド1世の下の部分には、天使によって、突き落とされている
醜い老婆の姿があって目を引きますが、これがペストを擬人化したものです。

なぜペスト=老婆なのか、現代の感覚ではちょっと考えてしまいますね。
疫病=老いた醜い女、ってどういう偏見なのっていう。

何でもかんでもポリティカル・コレクトネスの洗礼を受けずに済まされない
昨今なら、たちまち人権活動家の槍玉に上がること間違いなし(笑)

 

続く。

 

 




プリンツ・オイゲンの像〜ウィーンの街を歩く

2019-07-26 | お出かけ

ガイドをチャーターしてウィーンの街を歩くツァーが続いています。
シェーンブルン宮殿はホテルから離れているので、車の送迎がありました。
ウィーン中心部に向かう途中は車窓からの観光です。

この壮麗なギリシャ神殿風の建築物はオーストリア国会議事堂
現在大々的にリノベーション工事中で、完成は2021年。

工事の囲いからにょっきりと女神像が突き出していますが、
本来ならこうなっているところです。

像の足元は広場になっていて市民の憩いのスペースだったんですね。
改装が完成するまでは議事堂見学ツァーもお休みです。

そのあと、車から降りて町歩きに突入したというわけです。

最初はブルクガルテン、ブルク公園です。
あちこちに銅像や石像がある庭園で、フランツ1世が1819年に建造させました。

これはもちろんマリア・テレジア女帝。
何がすごいって、20歳から39歳までの19年間の間に、
16人の子供を産んだという、「子供製造機」でありながら、
君主の座について施政を行なっていたということです。

驚くべきことに、数字を見る限り、妊娠していなかったのはわずか3年間だけ。
まあ、産みさえすれば、あとは周りが育ててくれたわけですけど。

彼女の夫、フランツ1世は生涯あちこちで浮名を流していたと言います。
奥さんが妊娠中に夫が浮気、というのは決して許される話ではありませんが、
結婚生活のほとんど妻のお腹が大きければ、それも致し方ないのかな。

決して共感はしませんが、理解できない気もしないでもありません。

それでも合間合間に出来るだけ子供をたくさん産みたいという女帝の希望に
ちゃんと付き合って任務を果たしたのだから、それはそれで大したものです。


 

子供の名簿を見ていて気がついたのですが、16人の子供のうち、
死産または幼少期で死んでしまったのは女の子三人だけで、
不思議なことにそのうち二人の名前は「マリア・カロリーナ」です。

よりによってその名前をつけた女の子だけが早逝したなら、
普通の感覚ではこの名前は縁起が悪いからもうやめよう、ってなりません?

ところが、マリア・テレジアはチャレンジ精神旺盛な人物だったので、
二人目のマリア・カロリーナ死去から3人目に生まれた女の子に、
またしてもマリア・カロリーナと名付けているのです。

三度目の正直、彼女は成長してナポリ王に嫁ぎ、しかも
50歳とまあまあ長生きしたようで、ジンクスは破られたのでした。

こちらカール大公像。

カール大公といいましてもいろいろいるわけで、確か
ガイドはカール2世と言っていたような気もします。

この彫刻のポイントは、何と言っても造形の素晴らしさで、
馬の後足二本だけで立っているのがバランスの妙だそうです。

カール大公が右手で持っている旗で絶妙なバランスを取っているとか。

「それに比べてこちらは今ひとつ躍動感に欠けるでしょう」

そうガイドが言ったこちらの像は、プリンツ・オイゲン
プリンツ・オイゲンという名前は、海軍とか艦これとかに興味があれば、
誰でも知っているわけですが、意外と当人がどんな人だったかまでは
知られていないのではないでしょうか。

ちなみに、「プリンツ・オイゲン」で検索すると、真っ先に出てくるのが
重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」で、ナチス風味のミニスカ軍服を来た
「プリンツ・オイゲンちゃん」の絵だったりします。

かくいうわたしは、以前、模型展見学の報告のため検索していて、

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

プリンツ・オイゲン

というかっこいい響きからルードヴィッヒ二世みたいなのを想像していたら、

Prinz Eugene of Savoy.PNG

こうだったことがわかり、勝手にがっかりしたものです。(すんません)

像の説明を受けている間、ゴミ捨て場のサンドウィッチの袋に
ウルトラC技で挑戦していたウィーンのカラス。

日本のと羽の色は違いますが、やっていることは全く同じです。

ウィーンの町は、建物が通り抜けできるため、通りに対して横に
なんなと近道ができるので大変便利です。
このファサードにお店が並んでいることも少なくありません。

入り口にお餅のような丸い石が設置してありますが、これは
かつて馬車もここを通行したため、車輪が建物にぶつかることを
防ぐためのガードの役目を果たしています。

寺院や普通の建物の上部には、彫像などとにかく人の姿があしらわれています。
この少年は誰だか知りませんが、錨を持っているので撮っておきました。

そういえば、ウィーン少年合唱団の制服ってセーラー服ですよね。

海無し国なのになんで?と思われるかもしれませんが、昔調べたところ、
ウィーン少年合唱団再建のとき、ヴィクトリア女王が気に入って
子供に着せることでヨーロッパ中にセーラー服が流行していたからなのです。

この少年がなぜ錨を持っているのかはわかりませんでした。

たぶん・・・・ライオン。
でも、顔が微妙に猿っぽくて変です。王冠かぶってるし。

「EINBAHN」=アイン・バーンが一方通行であるのはすぐにわかりました。
そういえばわたし少しだけドイツ語勉強したことがあるんだよな。

昔からの建物と、最新式の建築が混在する街。

「これでツァーはおしまいです」

ガイドさんは最後にウィーンでも有名なカフェ、
「ツェントラル」(セントラル)に入っていき、内部を紹介しながら言いました。
時間を見ると、少し遅めのお昼の時間です。

日本人であれば、ここで如何あっても儀礼的に

「よかったらお昼ご飯をご一緒しませんか」

と誘わざるを得ない雰囲気です。
後から考えると、あれはガイドさんの作戦で、ほとんどの観光客は、
そこではいさようなら、とならないのを経験上知っている感じでした。

まあ、カフェで頼むべきものを教えてもらったり、音楽について
雑談したり、楽しく過ごせたので、こちらはむしろありがたかったです。

入り口で案内してもらうまでちょっとだけ待ちました。

それにしても、最近は日本人より中国人の方がいわゆるブランド好きで、
この写真に写っている女の子二人もおそらく20歳そこそこですが、
二人ともグッチにサンローランという、学生には変えないような
ブランドバッグ(しかもこちらで買ったらしく新しい)を持っています。

バブルの頃の日本人みたいです。

ガイドさんが「ニワトコのジュースが美味しいですよ」と教えてくれたので、
頼んでみました。
少し甘いですが、スッキリしたジュースですっかり気に入りました。
後日、別のカフェで同じものを頼もうとして、

「はて、ニワトコってドイツ語でなんていうんだろう」

すぐさまネットで調べたところ(便利な世の中です)、
エルダーフラワーのことだと判明しました。

ちなみにオーストリアではサービス業は間違いなく全員が
完璧な英語を喋るので、ドイツ語は全くわからなくても大丈夫です。


この時食事をしながらガイドさんの身の上話?を聞きましたが、
お父さんが劇団S季の創立者だったとか、お祖母さんの出自を辿ると
やんごとない某所で止まってしまうとか、なんかすごい人でした。

息子さんはウィーンに育ち、オーストリアで一番有名な大学の医学部を出て
今大学病院で勤務しておられるという話で、本当に世の中には
いろんな人がいるんだなあと感慨深くそんな話を伺っておりました。


ついでにこのとき思ったのは、世の中には自分の話をする人としない人がいて、
自分の話をする人は、必ずと言っていいほど相手に質問をしない、つまり
相手のことを知ろうとしない傾向にあるということです。

わたしは自分のことは聞かれるまで喋らないタチで、会話はほとんど
相手に向けての質問ばかり、つまりタイプで言うと「自分の話をしない人」です。


ウィンナシュニッツェル(MK)ソーセージ(TO)サラダ(わたし)
というメインのあとは、3人で二つデザートを注文しました。

こちらがアプフェル・シュトゥルーデル。
ドイツ語のアップルにはなぜかFが入るので「アプフェル」です。

ケーキ本体が甘いので、甘くないクリームで中和して食べるというノリ。
アメリカ人ほどではありませんが、ウィーンの人も甘いものを好むように思われました。

カフェ裏にある中庭のようなところを案内してもらいました。
このバルコニーでウィーン少年合唱団が演奏することもあったそうです。

元々はお城だったので、お城の偉い人がここから演説するために作られたとか。

お昼をご馳走したせいか、「ここで終わり」と言いながらガイドさんは
午後も延々と観光案内を続けてくれました。

街角の教会に差し掛かると、ひょいとドアを開けて(教会というところは
基本どこでも出入り時自由という開かれた祈りの場なので)
スタスタと中に入っていきます。

ミノリーテン教会のなかで彼がわたしたちに指し示したのは
なぜかレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」でした。

本物の「最後の晩餐」も、わたしたちは息子がまだ2歳の頃、
ミラノで実際に見学していますが、こちらはレプリカなので、
あそこのように厳重なセキュリティの下、時間を制限されて
なんとか網膜に焼き付けようとする的な鑑賞ではなく、心ゆくまで
前に佇んでキリストと使徒の姿を眺めることができます。

そして本物の「最後の晩餐」とこれを比べて決定的に違うところ、それは

「食堂のドアを作るために消してしまった」

キリストの足が、この絵にはあると言うことです(笑)

このレプリカは、ナポレオンが依頼して制作させたもので、
気に入ったのでレプリカを手元に置いておきたかったのか、
パリに持ち帰るつもりをしていたようですが、
なんらかの理由でここに留め置かれたままになっているのです。

わたしたちはやりませんでしたが、絵の横にあるお賽銭箱に
硬貨を入れると、絵にライトが当たる仕組みになっていたそうです。

まあ、この絵ならモザイクだし、ライトを当てようがシャッターを当てようが
全く劣化する心配はないのでやりたい放題ってところです。

ガイドさんは奥様と時々電話で話をしていましたが、彼女が

「女性が(わたしのこと)いるのならプチポワンにお連れすれば」

といったとかで、ウィーン宮殿の女性たちが気の遠くなるような暇な時間を
利用して技術を昇華させたという
刺繍の店に案内してくれました。

わたしはフェイラーとかキルトとかにも、刺繍にも全く興味はないし、
そもそも身に付けるものに過剰な飾りがあると落ち着かないタチなのですが、
この刺繍が、

拡大鏡を使用して手刺繍で 1 平方センチあたり
121-225 目の
ステッチ施したもの

と聞いて、それはそれで大したものだと感心しました。
スマホのない時代、宮廷の女性たちの考え出した究極の暇つぶしです。

wikiには、

「近年では、安価な韓国製機械刺繍のものが多く出回っている」

と書いてありますが、ガイドがここのお店のは皆本物だと太鼓判を押すので、
ちょっと遠目にはエルメスのエマイユにも見えるバングルと、
ト音記号を刺繍したキーホルダーをお土産に購入しました。


それにしてもガイドさん、午前中でツァーの時間は終了しているはずなのに、
この後もずっと案内する気満々です。

「スワロフスキーも行ってみますか?割引券ありますよ」

うーん・・・・一体このツァー、いつ終了するのでしょうか。

 

続く。

 

 


べートーヴェンハウスと「第三の男」のドア〜ウィーンの街を歩く

2019-07-24 | お出かけ

シェーンブルン宮殿でなぜかヒートアップし(笑)解説が長すぎて
大幅に時間を食ってしまったとガイドさんは恐縮しています。

幸い、次の予定のスタッドパークはすでに見学を独自に終えていたので、
そこを飛ばして本格的な街歩きに突入しました。

「ベートーヴェンの住んでいたアパート、見たいですか?」

個人ツァーなので、ガイドさんはこんな風に意向を聞きながら
案内先を即興で決めていきます。

途中で見せてくれた10年前のコンサートのパンフレットによると、
もうお歳は70歳くらいになっておられるはずですが、
案内に半日歩き回るなど、大変お元気です。
むしろ、ガイド業で歩くから元気なのかもしれません。

「この階段を上ったところなんですが、階段脇のこれなんだと思いますか?」

「非常脱出用の滑り台」

(無視して)「これは、上に住んでいる人が汚穢を捨てたんです」

つまりあれですか、家の中で用足しをツボかなんかにしておいて、
溜まったら一気にドバーッと流してああスッキリ、って、
そんなことをしたら町中が大変な匂いになるやないかい!

とツッコむも虚し、昔のヨーロッパちうのは基本それがスタンダードだったのです。

あまりにショッキングなヨーロッパのトイレ史

これを見る限り、我が先祖の日本人って衛生観念においては当時から
世界の最先端だったようですね。

ベートーヴェンがここに住んでいた1804〜1815年ごろというのは、
ペストの流行(1830年)より前なので、当然のことながら、
のちの楽聖も窓からブツを捨てていたということになります。

階段を上っていくと、ハウスの前でランチを食べている人がいました。
昔のヨーロッパだったらとてもこんなところで物を食べられません。
ロンドンでの話ですが、

「夜10時以降に窓から捨てちゃダメ」

という法律があったそうです。
ということは昼間なら普通に上からバンバン降ってきますわね
シェーンブルン宮殿で傘をさしていた中国人のおばちゃんの話をしましたが、
そもそもヨーロッパでパラソルを持つようになったのも、元はと言えば
上から降ってくるものを避けるためだったと言いますから笑えません。

という話はさておき、これがベートーヴェンの住んでいたパスクァラティハウスです。
ウィーンでは史跡となる建物には赤と白の旗が飾ってあります。

パスクなんたらというのは大家さんでありベートーヴェンのパトロンだった人です。

4階にベートーヴェンの部屋があるのでご自由にどうぞ、とあります。
 ヨーロッパでは日本の一階はグランドフロアで二階から一階、と数えますから
ベートーヴェンは5階に住んでいたことになります。

入り口の脇にあるこれは馬車を繋いでおくための杭だそうです。
無人で停めておくこともよくあったということでしょうか。

ここでベートーヴェンは34歳から45歳までの間住んでいた、とあります。
この時期彼が作曲した作品は交響曲第三番(エロイカ)に始まって、
ロマン・ロランいうところの「傑作の森」の樹々を成します。

ただし、ベートーヴェンは引っ越し魔で、生涯に70回住居を変え、
大家兼パトロンがこの家をキープしてくれている間も、
いろんなところを転々としていたということですので、
この家で何が作曲された、とかはわかっていないかもしれません。

「どうしてそんなに引越しばっかりしてたんですかね」

「家賃が払えなかったみたいですよ」

それって食い逃げならぬ住み逃げってやつなのか。
後世に名を残すような人物はもう少し自覚を持つべきだと思うがどうか。

一階には案内所とちょっとしたグッズを売っているスペースがありました。
案の定ベートーヴェンのシルエット入りのマグとかそんなものです。

中庭から建物全体を見上げてみました。
他の部屋には普通に人が住んでいます。

こういう中庭付きのヨーロッパの建物を見ると、

中村紘子著「ピアニストという蛮族がいる」

で紹介されていた大正期の女流ピアニスト、久野久が、ウィーンの
ホテルの中庭に身を投げたという悲しい逸話を思い出します。

当時日本で最高のピアニストと煽てられ、ウィーンに乗り込むも、
当地でレッスンを受けたエミール・ザウワーに技術を根本から否定され、
彼女は絶望して滞在先のホテルで38歳の命を絶ってしまったのでした。

「これ、何をするものかわかりますか?」

アパートのドアの前の馬蹄形のものは、靴の裏を擦り付け、
家の中に泥や雪、何より道に落ちている色んなモノを、
持ち込まないようにする工夫です。

主に一番最後のモノのためにわざわざ作られたと見た( ̄▽ ̄)

なぜか奥にレッドブルの空き缶が捨て置かれていますが、実は
レッドブルってオーストリアの企業だってご存知でした?

オーナーが航空機収集を会社ぐるみでやっていて、ウィーン空港の近くに
「ハンガー・ジーブン」という航空博物館を持っています。

今回はそれも見てきましたので、またここでご紹介します。

ベートーヴェンの部屋はこの螺旋階段を上っていった最上階です。
健脚とはいえ70歳のガイドには5階まで階段を登るのは辛いらしく、

「上ってみられますか?わたしはちょっと下で待ってます」

それでは、と階段を上りだして、この同じ景色を、
あのベートーヴェンが見ていたんだなあという感慨に浸る間もなく、
下から呼ばれました。

「すみません、今日は休館日で営業してないそうです」

わたしはすぐに踵を返しましたが、NKは一応ドアの前まで行って
そこから中庭の窓ぎわで寝ていた猫の写真を撮ってきていました。

内部にはベートーヴェンのピアノなどもあったそうですが、
これはまたいつかのお楽しみ。

ヨーロッパ人は建物に人間をあしらうのが好き。
INLIBLIという何かを持っている人(女性)の像がシュールです。

ベートーヴェンの部屋のある建物を左に見ながら石畳を下っていくと、
ガイドさんが、

「第三の男、って映画観ましたか」

「観ましたが・・・」

「オーソン・ウェルズが演じるハリー・ライムが、暗闇の中
このドアに佇んでいるシーン、覚えていますか」

「いえ、さっぱり・・・」

「とにかくそのシーンでオーソン・ウェルズが立っていたのがここです」

全く覚えていなかったので、このシーンだけ動画で探してみました。
石畳の形や様式も違いますが、映画が撮影された1949年から
70年の間に少しずつ整備されたのかもしれません。

暗闇の中佇むハリー・ライムの足元に、猫が近づいてきます。
この猫がどういう由来で映画に出演したのかわかりませんが、彼女は
歴史的な名画の、重要なシーンに登場する映画史上最も有名な猫になりました。

猫はオーソン・ウェルズのピカピカの靴を熱心に舐めだします。
どうも靴に何か猫の喜ぶものが塗ってある模様。

靴の大きさとの比較で、まだ小さな猫とわかります。

ハリーは恋人のアンナ(アリダ・ヴァリ)の部屋を見張っています。

実際には、オーソン・ウェルズの立った場所の向かいにはアパートはありません。
これは全く別の場所で撮られたシーンだと思います。

ピカレスク映画の印象的な悪役として名を馳せたウェルズの、
世紀のキメ顔。歴史に残る名シーンの一つです。

当時の映画ポスターはこのシーンを採用していたようですね。

わたしはこの映画のハリー・ライムのセリフを昔から、
というかここしか記憶にないくらいはっきり覚えています。

Remember what the fellow said…

覚えておくといい。こんなことを言ってたやつがいるんだ。

…in Italy, for thirty years under the Borgias, they had warfare,
terror, murder, bloodshed, but they produced Michaelangelo –
Leonardo Da Vinci, and the Renaissance…

イタリアでは三十年間のボルジア家の時代、戦火、恐怖、殺人、
流血に見舞われたが、一方彼らはミケランジェロやダ・ヴィンチなど
ルネサンス文化を生み出した。

In Switzerland, they had brotherly love.
They had five hundred years of democracy and peace,
and what did that produce?…The cuckoo clock.

スイス国民は同胞愛ってのを持っていてな。
彼らは五百年間というもの民主主義と平和を謳歌してきたが、
その結果何を生み出した?・・・鳩時計だよ。

 

ボルジア家はルネサンス文化のプロデュースをしたか?
というとそうでもない気がしますが、その根拠のない断言も
おそらくはハリー・ライムという悪人の独善性を表す演出だったのでしょう。 

後ろに見えている「KUDAS」という字の書かれた家が、冒頭写真の
女性が出てきている扉部分に当たります。

TOは、オーソン・ウェルズの立ったドアの前に立ち、
写真を撮るといいと言われて本当にやっていました(笑)

あの映画のシーンに登場する場所に実際に行って以来、
「第三の男」をもう一度みてみたいと思っています。

ウィーンは観光都市なので、特に今の時期、暑い中市街を歩いているのは
ほとんどがお上りさんばかりです。
市内観光の方法として、わたしたちのようにとにかく歩き回るか、
さもなければこんなオープンカーで回るという手があります。

冬はとんでもなく寒いそうですが、冬の観光客もこれに乗るんでしょうか。

馬車に乗って街をガイド付きで回るというのも楽しそうです。

馬車は普通に車道を闊歩するので、ただでさえ狭い道は塞がれて
車が渋滞する原因になっていますが、ウィーンっ子は慣れているのか、
こんなものだと思って諦めているのか、粛々と馬車と同じ速さで
車をのんびりと走らせていました。

 

続く。

 


シェーンブルン宮殿のパンダ〜ウィーンの街を歩く

2019-07-23 | お出かけ

ウィーンに到着した次の日、ガイドをチャーターして観光をしました。
初めての土地に来たときによくやる方法で、最初にツァーで見所を抑え、
ガイドに残りの日に自分たちだけで行くべきところを教えてもらうのです。

朝10時にホテルからチャーターした車で待ち合わせ場所の
シェーンブルン宮殿前に行くと、そこで待っていたのは
日本の音大を出て若い頃ウィーンに留学し、それ以来ここに住んで
音楽活動の傍らガイド業をしているという男性でした。

ヨーロッパ留学組で現地に骨を埋める音楽家のうち多くが、
ガイドを兼業して生計を立てているというのはよく聞く話ですが、
まさか実際に観光地で遭遇するとは思いませんでした。

ハプスブルグ家の夏の離宮として建造されたというこの宮殿には、

御前演奏をした神童モーツァルトが、マリー・アントワネットに求婚した

●ヨーゼフ一世が宮殿の一室で息を引き取った

●マリア・テレジアがウィーン少年合唱団の団員だったシューベルトの
声変わりした声を聴いて、アレは辞めさせろと言った

●「会議は踊る」で有名なウィーン会議の会場。座長はメッテルニヒ。

と、有名な逸話がそれこそ星の数ほどあります。

ハプスブルグ家の紋章である鷲があしらわれた門柱。
現在のオーストリアの旗は赤白二色のシンプルなものですが、
1945年、ナチス・ドイツによる併合が終わってから
再び国章は鷲の意匠になりました。

ヨーロッパの建造物には、やたらと人間があしらわれています。
これは天使のようですが、普通の子供ですね。

庭園のランプ越しにグロリエッテという戦勝記念碑を臨む、
ガイドオススメの撮影スポットだそうです。

どんなスポットにも中国人観光客が写り込んでくるのは
もう世界中どこの観光地でも逃れようがありません。

階段を上り、かつて宮殿の住人たちが姿を現したバルコニーから
庭園と戦勝碑が左右対称の完璧な姿で見えます。

庭には惜しげも無く大理石を使った彫刻が規則的に配されています。
ちなみに、ウィーンはこの時期日中の日差しの強さはかなりのものなので、
外を歩く人は帽子が欠かせませんが、なぜか中国人の中老年女性は、
折りたたみの雨傘を日除けにしてどこでも闊歩しています。 

シェーンブルン宮殿は、それ自体がオーストリアの「観光のドル箱」
(ユーロ箱?)で、稼ぎ頭です。
観光用に公開されている40室を全部歩いただけで、その広さに驚きますが、
実はシェーンブルン宮殿には部屋が1441室あって、かつては侍従や使用人が住んでいた
「普通の部屋」は、貸し出されて一般人が住んでいるのだそうです。

シェーンブルン宮殿が住処というのは話のタネとしては洒落ていますが、
何しろ昔の建物なので、不便すぎてウィーンっ子にはあまり人気はないそうです。

かくいうわたしも現在、アメリカはペンシルヴァニア州の、おそらく
100年くらいは経っているに違いない家を借りていますが、空調や水回り、
細かいところの経年劣化など、外見がたとえ趣があって美しくとも、
実際に住むとなるとなかなか辛いものがあります。

今世紀に建った普通の家でもこうなのですから、築269年の元使用人の部屋は、
いくら歴史的建築物の一隅でも住みたいと思う人は少ないでしょう。

ウィーンの街は観光用の馬車が現役です。
広大なシェーンブルン宮殿の庭を全部見て回るのは、歩くより
馬車に乗るのがいいかもしれません。

オーストリアは乗馬が盛んで、オリンピックでもいつも
上位入賞をするのですが、歴史も裾野も広く、ウィーンには

「ウィーン・スペイン式宮廷乗馬学校」

という、貴族階級のために作られた乗馬学校があります。
訓練された白い馬だけがいる特別の乗馬学校ですが、同じ白馬でも

「出来の良くない馬」

は、馬車に売られてしまうのだそうです。
それでも、白馬というだけで馬車界に行くと大事にされるようです。

手前の白馬仕立ての馬車が他の馬より高いのかどうかは聞きそびれました。

宮廷の一階エントランス部分にあったブロンズ像。
殴られているかわいそうな怪獣の口は「手洗い場」だったとか。

床の材質は木です。
六角形の杭を縦に埋め込んでいって、まるで敷石のように見せています。
なぜここまでするかというと、ウィーンの冬は大変厳しく、
大理石の床では人間が耐えられないからなんだそうです。

宮殿の内部は撮影は一切禁じられています。
海外の展示にしては珍しく、大抵はフラッシュ不可でも撮影は可ですが、
絹の調度品や洋服など、光が当たらないように細心の注意を払って
管理しているものが多い関係で、そのようになったようです。

最初にハプスブルグ家の家計を示すパネルがあったので、わたしが
ガイドにふと、

「ハプスブルグ家の唇っていいますけど、こういうのですか」

と一人の写真を指差して聞きますと、特に醜かったとして、
カルロス2世の肖像を指し示し、

「血族を維持するために近親婚を繰り返したせいだと言われています」

こちら、ウィーン市内の三位一体像の中に登場する、レオポルド1世。

「ハプスブルグ家の唇じゃなくてこれは顎ですね」

「皇帝レオポルト1世」の画像検索結果

同一人物です。肖像画補正が入っていてもこれ。

しかし、ガイドによるとハプスブルグ家はフランスの王家のように
贅を貪ることもなく、市民に宮殿を公開し、国民とふれあい、
革命どころかたいへん慕われた王家だったということです。

そんなハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアは、娘マリー・アントワネットが
フランス王室に嫁いだあと、国民の困窮をかえりみず贅沢をしているらしいと

肖像画や周りの報告によって聞き及び、大変心配していたそうですが、
彼女の心配は杞憂に終わらず、その贅沢が娘を死に追いやることになります。

女帝にとって幸せだったのは、娘が自分の心配通り、革命によって
断頭台の露と消えてしまったことを知る前に死んだことでしょう。

丘の上にある「グロリエッテ」の近くにももちろん行けますが、
ツァーの内容には含まれていません。
個人ツァーなので、ガイドの采配で時間配分が自由に変わるのですが、
宮殿の内部見学でそれはそれは熱心に話をしてくださったので、
外に出た時には大変な時間オーバーとなっていました。

現在のオーストリアの国章は普通の鷲ですが、かつて
ハプスブルグ家のオーストリア=ハンガリー帝国の紋章は
双頭の鷲で、頭が二つありました。

それにしても思うのは、若い人は国籍を問わず自撮りに命かけてますね。

この写真に写っている二人は、まるでモデル撮影のように気合をいれて、
日本人なら人目があるところでは恥ずかしくてとてもできない
恥ずかしいポーズ(腰に手を当てて片方の手を高く上げ、斜めモデル立ちをして
ウィンクするというような)を次々と決め、相手にシャッターを押させて
それを熱心に確認し、またもう一度、と飽きることなく繰り返していました。

シェーンブルン宮殿も庭園も、素敵なわたしを引き立てる背景に過ぎないのでしょう。
きっと自撮りが許されない宮殿な内部の見学はさぞ辛かったことと思います。

 

彼女らがポーズを研究しているこの街路樹の間をまっすぐ歩いていくと
シェーンブルン動物園があります。

昔、メナジェリーという「宮廷の小動物園」として設立したものが
今でもシェーンブルン動物園として営業しているのだそうです。

神聖ローマ帝国のヨーゼフ二世(マリー・アントワネットのお兄ちゃん)
の時代には、動物を捕まえるためにアフリカとアメリカに遠征隊を派遣し、
その結果連れて帰ってきたキリンが、当時ウィーンに「キリンブーム」を起こしました。

皆が挙ってキリンのデザインのファッションを身につけ、戯曲家パウエルは
「ウィーンのキリン」というお芝居まで作ったそうです(笑)


その後、当動物園が話題になったのは、パンダの飼育かもしれません。
当動物園では、ヨーロッパでは初めて、自分たちで生まれた仔を育てることに成功。

ジャイアントパンダの飼育にかけては世界でも貴重な技術を持っているそうです。

おかげで最初のパンダは中国に返してしまい、中国共産党の「パンダ外交」に
乗っかる必要もまったくなくなった訳で、これはめでたい(嫌味です)

しかし、その反面、当動物園は、

● 2002年、ジャガーが給仕中に飼育員を襲い、入園客の目の前で彼女を殺害
園長は救助を試みたが、腕に重傷を負った

● 2005年2月20日、若いゾウのアブが飼育員を圧死させた

などという(これだけではないらしい)悲劇に見舞われています。
どんなところか今回は見ていないのですが、飼育するケージの広さとか、
動物にストレスを与える環境が何かあるのでしょうか。


続く。

 

 


ウィーン到着〜出国前の大騒動とスタッドパーク

2019-07-20 | お出かけ

みなさま、長らくコメントに対する返事等全くできずに申し訳ありませんでした。

色々あって、現在日本から遠く離れたウィーンにおります。
今年の出国は7月半ばになり、そのおかげで散々日本ならではの
蒸し暑い梅雨を味わうことになったわけですが、今、
日差しは適度にあれど湿度の少ないオーストリアに身を置いて、
出国までのスリルとサスペンスに満ちた日々を思い出しております。

出発は7月某日の羽田空港、25時発。
ラウンジに着いたとき、深夜発のせいか人の少なさにまず驚きます。

そして、同時にここに辿り着けたことに心からホッとしたわたしたちでした。

今回、MKが

「パスポートがない」

と言い出したのは、出国予定日の11日前のことです。

まず、家の中どこを探してもないことを確認したのち、警察に電話。
遺失物の届け物のなかにないことを確かめると同時に。翌日の朝一番で
戸籍のある文京区に車を飛ばしてパスポート発行のための戸籍謄本を取りに行き、
そのまま住居地のパスポートセンターで再発行の手続きを怒涛のように行いました。

出国まで時間がないので、もう探している余裕はありません。

彼の場合、パスポートだけでなく、アメリカ大使館からビザを受け取り
パスポートに添付しないとアメリカ入国できないのですから、
探すことを放棄して、一日も早く再発行することを選んだわけです。

パスポートセンターの窓口の係員(仕事できそうな感じ)は、

「どんなに急いでも4日が最短です」

と恐縮しておられましたが、待っている間にすることはあります。
まず、大使館への面接の申し込みを優先してもらうための色々。
学生ビザを貰うには、大使館で面接を行うことになっているのですが、
普通に申し込むと、面接をしてくれるのは17日後、完全にアウトです。

そこで、HPに入ってからイマージェンシーを選択し、面接を早めるために
知人二人にレター(これこれこういう理由で彼は何日までにMKは
アメリカに行かねばならないのでよしなに、という内容)をお願いしました。

一人はMKがインターンシップをしていた日本の会社の社長、もう一人は
アメリカの大学の研究室の教授で、このお願いは皆TOがしてくれました。

そして、4日後。
朝一でパスポートを受け取ったらすぐに家に戻り、パソコンで
大使館に申込み、その後出発の5日前に面接が決まりました。

そして面接当日、6時半に家を出て、ホテルオークラに車を停め、
朝食を食べて時間を待ち、面接に突入。(わたしはずっとカメリアで待機)

面接の時、MKは、一応ダメもとで

「パスポートを出来るだけ早く送ってもらえないだろうか」

と言ってみたそうですが、返事は、

「我々には面接を早くすることしかできない」

そして、ビザの添付されたパスポートは通常通りなら
5日以内に届くであろう、というものでした。

5日で届いたとしても、それは出発の日の朝ということになります。
もうギリギリもいいところです。

その日から週末まで家を空けないようにし、トラッキングで
今どこまでパスポートが来ているか1時間おきにチェックさせました。

そもそも、パスポートが来なかったら、大変なことになるのです。

と言いますのは、今回我が家は、三大陸周遊チケットといいまして、
地球を同じ向きに移動しながら、たとえばわたしたちのように

日本ーヨーロッパーアメリカー日本

と各地24時間以上滞在すれば要件を満たし、二都市間往復の
ほぼ半額くらいの値段で世界一周ができるという航空券を取っており、
秋学期のためにアメリカに戻るMKも、

アメリカー日本ーヨーロッパーアメリカ

というアメリカ起点での同じ周遊システムで移動する予定だったのですが、
もし予定の便に乗れなければ、最悪、彼だけが米国までの片道を
ほぼ正規料金で買って、1週間後に単身渡米、アメリカで落ち合うことになるのです。


そして、パスポートが今日本郵便の手に渡った、というトラッキングにより、
どうやらなんとか間に合いそうだ、と安心しかけたその朝のことでした。

出入りのクリーニング屋さんが、仕上がった服と一緒に、

「これ、入ってたんですけど・・・」

と半笑いで渡してきたのが、MKのパスポート。

なぜ?

彼の着ていたコートの内ポケットをチェックせずに
(まさか内ポケットがあるなどと思ってもいなかったため)
クリーニングに出したのは他ならぬこのわたしですが、もし業者が
洗濯がすんだ彼のコートと一緒に2週間前に届けていてくれさえすれば、
MKが紛失したと気づく前にことは終わっていたのです。

どうしてコートの配達を終えてからさらに2週間の間、パスポートという
誰が考えても大切なものを取得しておきながら、届けてくれるどころか

一言の連絡もくれなかったのか。

わたしは自分の過失を棚に上げて
クリーニング屋の気の利かなさに呆れました。
そして、

「クリーニングに入れたまま出してた・・・」

平謝りしながら家族にそのことを話したのでした。


今回の事件で、今になって本当に良かったと思ったのは、パスポート紛失が
確実となったとき、わたしもTOも、MKに向かってそれを
一言も責めたり、怒ったりするようなことを言わなかったことです。

モノを紛失した人間に対して、不注意を咎めても出てくるわけでもなく、
もちろん自分自身も山ほどそんな経験をしてきているわけだし、
なんといっても、人を責めている間に、再発行に向けて、家族一丸で
ことに当たらなければならない時に、そんなことで互いを傷つけても、
なんの生産性もない、とそんな時我が家では全員が考えるのです。

果たして、パスポート紛失はわたしのミスだったことがわかっても、
TOもMKも、わたしを一言も責めませんでした。

わたしたち以上に人間ができているところがあるMKなど、

「いいこともあるよ。
今回更新したから大学在学中にパスポート作り直さなくて良くなった」

と超前向きな発言をしていたほどで、全くいい家族を持ったなあと感謝した次第です。

今回の便でもらえる機内セット、提供はグローブトロッター社です。

今回、もし彼のパスポートが一日遅れていたら、家族三人とも便を遅らせる、
という案もありました。
我が家ではMKが高校生になってから、親とは別に彼だけエコノミーですが、
どうしても一緒に行くならわたしたちのビジネスクラスが確保できなくなるのです。

しかも、その際、ビジネスクラスの料金を払っていながら、
差額返却なしでエコノミーと聞いた途端、わたしは非情にも、

「やっぱりそれは辛いからそうなったらMK一人で飛行機乗ってね」

と言い放ちました。
わたしがMKだったら、てめーが失くしたんだろうがてめーが!
とキレていたかもしれません。
しかしMKは人間ができているので、
母親に向かって
そんな暴言は決して吐いたりしませんでした。(-人-)

とにかく、結果良ければで無事に予定した便に同じクラスで乗れたため、
わたしは非情な(しかも勝手な)母親にならずにすみ、しかも
このオリジナルポーチを手に入れることができたというわけです。

今回は25時発なので、機内に入ってからの食事はありません。
到着3時間前に朝ごはんが出てきました。

出発したとたんすぐに眠りについて、起きたら時間は
朝の9時半、という理想的なフライトで、体はとても楽です。

みなさん、ヨーロッパ行きの深夜発はおすすめですよ。

機内では映画を一本だけ観ました。
クリント・イーストウッドの「運び屋」。
イーストウッドに仕事をやらせる麻薬の売人のレベルが、
次々とレベルアップしてきて、ラスボスが出て来る頃には
最初に出てきた(それでも最初は怖かった)売人たちが
可愛く見えて来る、という興味深い演出あり。

エンディングに少し不満はありますが、いい作品だと思います。

年老いてゆく全ての人々に送る応援歌みたいなエンドロールも👍。

到着寸前に窓の外を見るとこんな景色が。

この辺の畑全てを所有しているハンスさん(仮名)の豪邸です。

ヨーロッパに来るのは本当に久しぶり。
しかも、これまでの渡欧は全てアメリカ経由だったので、
日本から直接飛んだのはこの人生で初めての経験になります。

空港のドイツ語表示も、駐機している機体も珍しいものばかり。

空港からは、荷物が多いのでタクシーに乗りましたが、
前もって調べておいた(TOが)定額タクシーのブースにいき、
大型車を手配してもらいました。
ウィーン空港から市内のホテルまで43ユーロです。

ウィーン市街も、いたるところこのような落書きにあふれています。

ホテルは「スタッドパーク」という彫刻のある公園の前です。
「キャノン」という彫像があるので、

「もしかしてキャノン砲と関係ある?」

と色めき立ったのですが、こちらは画家でした。
スタッドパークの彫像は芸術家ばかりのようです。

ウィーン空港に着いたのは朝の6時でした。
街角を歩く人影はまばらです。

ホテルはヒルトン。
予約を決めたTOによると、便利で割と安かったそうです。

ロビーに、ヒルトンを訪れたセレブリティの写真がありました。
ダライ・ラマの左の男性は、ロジャー・ムーアだそうです。

ヒルトン家のご令嬢パリス・ヒルトン。
左はオーストリア出身の俳優シュワルツネッガーが、
最初の映画に出た後、ホテルで記念パーティをした時に
シェフがザッハトルテ風チョコレートケーキを焼いたとか。

ホテルを一歩出たとたん、オーストリア出身のレハールのオペラ、
「微笑みの国」のポスターがありました。
この衣装を見てもわかりますが、オペラの舞台は中国です。

さすがはウィーン、しょっちゅうレハールなど、典型的な
ウィーンオペレッタの公演が行われているんですね。

ホテルのチェックインまで時間があったので、荷物を預け
前のスタッドパークを散歩することになりました。

池を泳いでいた母艦と駆逐艦のカモ艦隊。

ウィーンのカラスは首が灰色です。

ものすごく変な彫像発見。
近くのモダンアートスクールの生徒の仕業か?

シュレティンガーといえば猫、猫といえばシュレディンガー。
その理論物理学者、

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー

がオーストリア出身だということは今回初めて知りました。

アントン・ブルックナー。
第四番交響曲「ロマンティック」がわたしは特に好きです。

シュレディンガーもそうですが、なんとなくドイツ人だと思っていたのが
実はオーストリア出身だった、ということがよくあります。
アドルフ・ヒトラーも実はオーストリア出身ってご存知ですよね。

顔だけ黒いシャネルズみたいな鳥さん。

有名人の像ばかりではなく、ペンギンもいます。

花時計?葉時計?の向こうにはレストランがあります。

ここにあったんだー!

のヨハン・シュトラウス像。
「名曲アルバム」の画像で何度これを見たことか。

本当にこんな顔をしていたんでしょうか。

ものすごく楽しそうな周りにあしらわれた人たち。

この後、歩いていくと、女性がヨハンシュトラウス像はどこですか、
と英語で話しかけてきました。

わたしが後から、今の人イギリス人の英語だったね、というと、MKが

「アイリッシュだったよ」

「あれだけの会話でそこまでわかるんだ・・・」

「まあ日本人も関西人かどうかすぐにわかるもんね」

公演は市民の憩いの場となっており、木陰には
大学生のサークルが語らいを楽しんでいました。

フランツ・シューベルトもウィーン出身です。
今回、ウィーンでお願いした個人ツァーのガイドさんから、
シューベルトの身長がわずか157センチしかなかったことを聞きました。

魚に当たって腸チフスとか、梅毒の薬の水銀のせいとか
言われていますが、それにしても低身長な上、31歳で死んでしまうとは。

モーツァルトも35歳で若死に、身長も163センチだったとか、
いや150センチしかなかったとかいわれていますがとにかく低身長。

栄養状態というよりはモーツァルトの場合、物心ついた頃から
ほとんど一生涯馬車で旅をしていたので、つまり成長ホルモンが
潤滑に分泌されていなかったせいであるともいわれていますね。

ウィーン市内を走る「はとバス」的二階建て観光バス。

午前中にホテルの部屋にいれてくれそうにもないので、
近くの近代美術館の中にあるカフェでウィーン名物、
ウィンナシュニッツェルを食べてみました。

ポークに衣をつけて薄く焼いたもので、レモンをかけ、
クランベリーソースを乗っけていただきます。
美味しかったですが、案の定量が多すぎでした。

この美術館、窓をガラス張りのドアに変えた時にくり抜いた部分を
作品としてその前に展示してあります。

これからウィーンとザルツブルグに計一週間滞在します。
このブログ的にお話しすべきところも見学してくるつもりですので、
またよろしくおつきあいください。

 

 


平成最後の八戸を歩く

2019-04-30 | お出かけ

海上自衛隊八戸航空基地の観桜会あらため意見交換会に出席し、
行き先が滅多に訪れることのない八戸という土地だったので、
会が終わってから車で何となくその辺を走ってみました。

アメリカでいつもやっているように、車さえあれば
気の赴くままに探索するのがわたし流の観光のスタイルです。

この日は朝から雨が降り、連休前だというのにさすが東北、
というくらい寒かったので、車を借りていてよかったかもしれません。

全く土地勘がないので、とりあえず蕪島を目標に走り出しました。
海沿いに出てくると、舗装されていない港にいきなりイカ釣り船?

昔北海道で見たイカ釣り船はは温かみのある電球を満艦飾のように付け、
実にノスタルジックなものでしたが、これは一体何の船でしょうか。

今回コンデジで写真を撮ってみて、現像しながらどれもこれも
一眼レフと比べるともうどうしようもないくらい眠たい画像ばかりなので
本当に嫌になってしまいました。

RAW画像で撮っても現像には限界があり、それと反比例して
フラストレーションはマックス。

つくづく素人ほどせめていいカメラを使うべきだと肝に命じました。

ところで、あの東日本大震災ではここも津波に襲われたわけですが、

このピンク色の建物、被災ビデオでみた覚えがあります。

最初にちらっと写ります。

漁業関係の団体が入っていたと思われるこのビル、
震災以来廃墟になっているのかどうかはわかりませんでした。

過去のブログなどを検索すると中にも入れたようですが、
少し前まで「売地」になり、今は立ち入り禁止になっているので

買い手がつき、処分を待っている状態なのだと思います。

廃墟になっても花を咲かせていたらしいこの木は
その時どうなるのでしょうか。

左の立て札は八戸の教育委員会が立てたもので、

「鮫の艀」跡

とあります。
はて、鮫とは?と思って調べてみると、そもそもここは
鮫港という名称なんですね。
昔はここから艀が出ていたということのようです。

二回めとなる蕪島が見えてきました。
前回来た時に調べたところによると、昔蕪島は文字通り島だったのですが、
海軍が埋め立てて地続きにしてしまったのです。

なぜわざわざそんな大工事をしたかはわかりません。(どこにも書いてないので)

とにかく前回漏電で焼けてしまい、修復工事中だった神社が復活していました。

左側の船は地震で持ち主がいなくなってしまったとか?

とにかくすごい数のうみねこが乱舞しています。

前回行きそびれたマリエントという水産科学館に行ってみることにしました。

日本水産界の立役者的な偉人、長谷川藤次郎の銅像がありました。
鮫で雑貨商をしていた人ですが、画期的な網を発明し、漁業王となったとか。

銅像の碑銘が「漁業王」ではなく「漁業翁」となっていました。

ドアを開けるといきなり長い階段が!(驚愕)

階段を登りながら変わった魚類の写真を鑑賞するという仕掛けです。
「階段展示コーナー」というのだとか。

上に到達すると、水槽の掃除をしていた長靴のお姉さんが、
自動販売機で切符を買うようにといいに来ました。
大人300円、子供150円です。

部屋の中心に大水槽があります。

カサゴかな・・・煮付けにすると美味しい系の。

アオウミガメがひかりと命名されたというくす玉がありました。
ピントの合わないコンデジゆえ、とうとう撮れませんでしたが、
ここにはウミガメが三頭がいます。 

ひかりちゃんは去年の10月、カレイの刺し網に引っかかっていたところ、
救出されてここの住亀になったということでした。

名前は公募で決まったそうですが、亀なので性別は不明だそうです。

深海探査船「ちきゅう」の特大模型がありました。

深海における掘削などによる巨大地震・津波の発生メカニズムの解明、
地下に広がる生命圏の解明、地球環境変動の解明、そして、
人類未踏のマントルへの到達という目標を掲げています。

東日本大震災当時、「ちきゅう」は八戸港に係留して、市内の小学校の生徒や先生が
見学に訪れていたそうです。
地震を受けて「ちきゅう」はすぐさま沖に避難し、小学生たちは
船内で一泊を過ごした後、海自のヘリコプターで下船しました。

また、2009年には南海トラフについての研究で掘削を予定していたのですが、
民主党の事業仕分けの俎上に上がり、中断を余儀なくされました。

こちらは深海探索船「しんかい6500」によって撮られた写真。

頭についている耳みたいなのはヒレらしいんですが、
このため英語ではこのジュウモンジダコ

「ダンボ・オクトパス」

と呼ぶこともあるんだそうで。
いや、世の中には実にいろんな形の生物がいるもんだ。

水槽の中のうなぎ(みたいなの)に見つめられている気がする。
そんなわたしは自意識過剰かしら。

クラゲのことを英語でジェリーフィッシュといいますが、これは
同じ種類なのに個体で色が違う「カラージェリー」。

体内の藻によっていろんな色に見えるらしいです。

傘をもふわふわと動かしながら移動している様子は
いつまで見ていても飽きない可愛らしさです。

寝ておられる?

魚類が目をつぶっているのを初めて見たような気がしますが、
これデンキウナギだったかな?
小さいのでまだそんな強力な電気は起こせないらしいです。

しかし、デンキウナギ、電気を発生させながら自分も感電しているそうですね。
でも脂肪が多いので大事には至らないのだとか。

ヒトデや貝などを手で触れるコーナー。

ヤドカリやカニもいるようですね。
この時、来館者はわたしと他府県から来たらしい親子三人連れ、
計四人で、体験していたのは男の子一人でした。

トルコの温泉に住む鯉の仲間で、「ガラ・ルファ」という魚は
古い角質を食べてくれるので、お肌がツルツルになるそうです。
ここでは手や足を入れて角質取り体験ができます。(タオルあり)

やってみたいようなみたくないような。

ピラニアにも種類があって、こちらはナッテリーというそうです。
他の種類もいましたが、ピラニアってなぜキラキラしてるんでしょう。

思わず見入ってしまったハイギョ。さすがは生きている化石です。
外に飾ってあった造花が映り込んで、まるでハイギョがお花をつけているみたい。

普通に金魚もいました。
この頭に何か乗っけてるリュウキン?わたしどうも苦手なんです。

アロワナ。
穏やかな性質なのでペットとして人気があります。

さりげなく一角を海上保安庁が広報コーナーとして独占していました。

最上階は展望デッキだそうですが、その一階下はこんな眺めのレストラン。
お天気のいい日には、ぜひここでお茶を飲むことをお勧めします。
もちろんメニュー豊富で食事もできますよ。

ここから東日本大震災を撮影した動画がありました。
水産翁が台のところまで水に浸かっているのが見えます。

画質が悪いのが残念ですが。

レストランから見た蕪島。

マリエントを出たら、カラスが木ノ実を道路に落として割っていました。
つぎは車に轢いてもらおうとしているのかもしれません。

蕪島に行ってみることにしました。
こういう看板が他人事に感じられないのは、なんどもここが
津波に襲われる動画を観たからです。

しかし、八戸の津波による死者は1名、行方不明者も1名にとどまりました。

やはりここに来たらうみねこの観察をするべきでしょう。
一帯には彼らのニャーニャーという啼き声が響き渡っています。

一方的に襲いかかるうみねこ。

上空から羽をバタバタさせてちょっかいをかけますが・・、

あまり相手にされていない模様。

しばらくここでうみねこを観察していたのですが、あまりに寒い上、
風が強くて、フン避けのつもりで差した折りたたみ傘が
あまり役に立他ないのでやる気がなくなりました。

階段を上がっていく気力も無くなったので蕪島神社はまた次の機会に見ることにし、
途中で見つけたスターバックスで休憩しました。

山形でも見た、ドライブスルー付きの広々した郊外ならではのスターバックス。
いいなあ。こんなのが近所にあったら毎日行ってしまいそう。

前回連れて来ていただいた八食センターに行ってみました。
もう鮮魚売り場は皆店じまいしています。

魚や貝などを持ち込んで焼いて食べるコーナーも、テーブルにいるのは一人だけ。

自衛隊で幹部の皆さんといただいた食事の汁物は「せんべい汁」でした。
この南部せんべいを入れた汁物は全てせんべい汁と呼ぶようです。

迷った末、ここならきっと美味しいに違いないと回転寿司に入ってみました。
意見交換会でのあとであまりお腹が空いておらす、マグロ、サバ、イカの3皿で打ち止め。

悪くはありませんでしたが、八戸基地で出たお寿司の方が美味しかったかな。

せっかくだからといちご煮を頼んでみました。
ホタテとウニが入っている力技料理ですが、やはりここでは身が少ない。
そしてこれが1000円というのは高いのかどうなのか・・。

あ、そして食べてみて思ったことは、わたしはおそらくいちご煮を
今後一生食べなくても全く構わないだろう、ということです。
好きな方には失礼かもですが、一種の裸の王様的料理なんじゃないかって気が。

まあ、回転寿司で食べたくらいで全てを評価するなという説もありますが。

せんべい汁を大量に提供するために科学力と膨大な予算をつぎ込んだ
八戸せんべい汁研究所が作った最終兵器、マ汁ガーZ。

一気に1000食のせんべい汁を提供することができるそうですが、
問題は2万円で買ったなべをイベント会場に運ぶ運賃が数十万かかること。

だそうで、これもう、どこかに固定するしかないんじゃないかしら。

 

さて、この晩もう一泊して次の日八戸を発ったのですが、翌日も寒く、
さすがは東北、と感心しながら帰って来たところ、東京も激寒で驚きました。


八戸基地の方にも、暑くなる前にもう一度いらっしゃいませんか、と
お誘いをいただいているので、蕪島神社まで上がってみること、
そして美味しいいちご煮でイメージを払拭することを主な目的に、
ぜひもう一度足を運んでみたいと思います。




AMANEMU(アマネム)でのお正月

2019-01-09 | お出かけ

初日の出を見て帰り道、家の近所でこんな光景を目撃しました。

ところで、今連鎖反応的に思い出したのですが、昨年の一般参賀は
例年以上の人出だったため、7回ものお出ましであったということですね。

平成最後であり今生陛下にとっても最後の一般参賀となるため、
わたしも是非行きたかったのですが、当日どうしても外せない所用があり、
泣く泣く諦めました。

今回の伊勢参拝で同行してくれた神宮の達人(祝詞も読める)は
参拝の後、車で志摩のアマネムまで送って下さったのですが、
同行中、天皇陛下の「御威光」について、いわゆるオーラが見える人が、

「陛下が乗っておられるセンチュリーが近づいて来たら、
車の天井を突き抜けるように光が立ち昇っていた」

と証言していたという話をうかがいました。

わたしはスピリチュアルな話をむやみに信じる方ではないのですが、
もしそういうものが可視化できるなら、天皇陛下のオーラとは
当然特別なものであるだろうと思っているので、納得して聞いていました。

さて、そんな話をしながら渋滞を避けて海沿いの信号のない道を小一時間。
いきなり現れたうえあまりにも小さくて見過ごして通り過ぎてしまった
「AMANEMU」の看板のある小道を入っていくと、セキュリティゲートが。

宿泊者以外は何人たりとも立ち入らせない構えです。

二人いる守衛に名前を告げると、おもむろに門が開きました。
確か24部屋しかないのに、この人たちは一日、
滅多にない戸の開け閉めのためにここにいるわけか・・・。

ゲートを入っていくと、道案内されずともいきなり現れるのがこのパビリオン。
あまりそんな風に見えませんが、ここがフロントとなります。

パビリオンの椅子で歓迎のオリジナルティーをいただきながら、
ホテルの支配人(女性だった)のご挨拶を受けました。

日本で二つ目のアマンリゾートホテルの支配人になるくらいですから、
さぞかしキャリアのあるホテルマンなのだろうと思われますが、
女性ならではの柔らかな物腰からは、まるでモダンな温泉旅館の若女将
(もちろん社長兼)
にお迎えされているような気がしました。

アマンリゾートのホテルを手がけて来たオーストラリア人の建築家、
ケリー・ヒルの建築によるものです。
大変な日本びいきで、生涯に80回以上来日をしていたヒルですが、
昨年の8月、亡くなったということです。

その作品群からは、いずれの作品もシンプルでモダンでありながら
土着の文化に寄り添う懐の広さがあるように感じられました。

合歓の郷にあるから「アマネム」と名付けられたここもまた、
伊勢志摩の海沿いにあって全く違和感なく日本の村に溶け込んでいます。

作品を通じて共通する印象は「連続する縦の線」「黒に近い茶色」でしょうか。

英虞湾を眺めていると、中華な色合いの遊覧船が繁く行き来します。

「賢島エスペランサという遊覧船です」

失礼、中華ではなくエスパーニャでしたか。
エスパーニャといえば、確かこの辺に「志摩スペイン村」なるものがあった気が・・。

「まだあのパルケエスパーニャってあるんですか」

「なんとか生き残ってるようですよ」

ところでなんだって三重県がスペインなのかというと、
この理由は、カルメン、ドンファン、闘牛、ドン・キホーテ等が、
日本人に馴染みがあるからとかいろんなことが言われていますが、
結局のところ実利的な理由、

「ほかではあまり取り上げられていないから」

「明るい太陽と海辺というイメージのこじつけ」

というあたりで深い意味はないそうです。
これと同じく、地中海と地形が似ていなくもない、という理由で、

「瀬戸内のエーゲ海」

などと自称するセンスはもうバブル期の終焉とともに終わった感があります。
今にして思えば、気候風土が全く違うのに、ちょっと似ているというだけで

なぜ「何処かの国」を名乗らなくてはいけないのかと思いますが、
(全国にあった〇〇銀座と同じ発想?)もはや今は外国人の建築家が
日本のイメージを取り入れて造ったAMANEMUが持て囃される時代です。

テラスにくり抜いたようなソファとテーブルのスペースがあります。

端っこのものをてっきりアメリカのホテルのような暖房器具だと思い、
ここで暖まりながら満天の星を見よう!と盛り上がったわたしたちでしたが、
ホテルの人に「これつけてください」と頼んだところ、
暖房ではなく単なるライト(しかも故障中)であることがわかり断念しました。

この夜は恐ろしいほど空気が澄んで都会では決して見られないほどの星空。
もしその気ならバーには天体望遠鏡が置いてあったので、

それで天体観測と洒落ることができたと思うのですが、いかんせん寒すぎました。

ライブラリの蔵書は部屋に持ち帰ることもできます。

チェックイン時間にはまだ早かったのですが、達人を囲んで
ランチをいただくことにしました。

伊賀で作っているから「忍ジャーエール」。
名前が面白いからというだけで注文しました。

ランチはTOがホテル予約の時に4種類別々のものを注文してあり、
それぞれ自分の食べたいものを主張して出て来たものを取ることに。

達人はこの、あまりにも具の多い海鮮チラシを選択。

わたしは息子に「松坂牛ビーフカレー」を取られたので、
中華膳かひつまぶしの二択になり、
散々迷った末後者にしました。

後半は出汁をかけてお茶漬け?にして食べることができます。

松坂牛カレー。

いずれのお料理も「外国人サイズ」でした。

食事の後はこの建物、バーに移動。

デザートは升に入った和風パンナコッタを息子と半分ずつ。
何が和風かというと、金箔と黒豆が載っているところ?

食事が終わり、達人をお見送りしているうちにチェックイン時間になり、
カートで荷物と一緒に部屋まで運搬してもらいました。

ホテル内の敷地はカート移動、というとバリのブルガリホテルを思い出します。
そういえばパビリオンもブルガリと似ているなあ。

「ブルガリホテルみたい」

ふと呟くとカートを運転していたホテルマン(女性)が

「スタッフには先日までブルガリホテルで働いていた者がおります」

ブルガリホテルは同じお正月でも天候は真夏と同じでしたが、
こちらは寒いのでカートは幌付き。
乗ると外からファスナーを閉めてくれますが、それでも
隙間から風が入って寒いので膝掛けをかけてしのぎます。

一棟につきふた部屋が並んでいる仕組みで、これと同じのが
12棟あるということになります。

聞けばこの日は稼働率は50パーセント(つまり12組くらい)で、
そういう時には一棟に1滞在客しか割り当てないことになっているようです。

24部屋の大きさは皆同じで、値段の違いはロケーションのみ。
目の前が海、という部屋が一番高いのだとか。

部屋は広いのでエキストラベッドをおいてもなお余裕たっぷり、
木のフロアは床暖房入りで裸足でも歩けます。

隣は棟続きの部屋なので庭には出られません。

蛇口の一つからは60度くらいの温泉が出て来ます。
前面ガラス張りで、外を見ながら温泉に浸かれるというわけですが、
ただし夜になると外は暗闇となり、夜景を見ながらというのは不可能。

最初鏡張りかと思った向かい合わせの洗面台。
部屋のいたるところにミネラルウォーターのボトルがあり、
冷蔵庫の
アルコール類以外のソフトドリンクは無料です。
(というか宿泊代込みというべき?)

地元のみかんやおかき、みかんジュースに牛乳なども備えてありました。

ベランダにはソファがあって、寒いけど無理やりくつろぎました。

昔ここはゴルフ場だったそうですが、山中ゆえ夏場は虫が出るようで、部屋には
各種虫除けの他にムカデキラーと、外国人客のために英語で
「これがムカデです」という写真入り注意書きまで備え付けてありました。

ホテルの人によると鳶の害はままあるようですが、ブルガリホテルの猿のように
流石に部屋までは来ないので、
ベランダで朝食というのも悪くなさそうです。

チェックイン後部屋で休憩してから、スパ棟を見学させてもらいました。
立派な機材を備えたジムはもちろん、ヨガ教室も随時行われています。

そしてここがアマネム自慢のスパ。温泉です。
水着をフロントで借りて入ります。

浴槽?は場所によって温度が少し変えてあり、

「交代にどちらも入ることで血行が良くなります」

プールではないので浅く、全周囲が階段なので泳げません。

夜、スパでオイルマッサージをしてもらい、部屋で一人温泉に浸かっていると
息子とTOがこの露天風呂から電話してきて、

「野外温泉おいでよ。絶対に来ないと損だよ」

というので、部屋のお風呂からこちらにやってきましたが、
彼らのいう通りで、ここにきてこのお風呂に入らなければ
来た甲斐がないと思ったほどでした。

三人でお湯に浸かりながら星を眺め、いろんな話をしましたが、
特に留学中の息子の来夏のインターンシップについて
本人の意向と方向性について会話できたのが良かったと思います。

明けて翌朝、お楽しみの朝食です。

アメリカンブレックファーストを選択すると、こんな美味しそうな
テーブルに乗ったサラダと果物がやって来て、取り分けてもらえます。

それにしても食材のことごとく贅沢なこと。

昨日の達人が地元で聞いた話によると、ホテルができる当初、
取引を申し込んだある業者がいて、その業者はうちと契約すれば
これだけ安く食材を納められますよ、という切り口でセールスしたのですが、
ホテルの返事はなんと、

「うちは安くなくてもいいので、とにかくいい食材を入れたい」

で、業者はしおしおと引き下がった、ということでした。

メニューに「ホワイトオムレツ」と書かれていたホテルは初めてです。

TOが注文した和食は、鯛茶漬けの具付き。
ご飯は「熊野古道米」で、こちらも聞けば、ごく少量丁寧に作った米だそうです。

こういう「縁のないプール」、世界中で流行していますよね。

この後はホテルアンドリゾーツ?だかなんだかの特典で、
4時までのレイトチェックアウトだったため、
息子とベッドて跳ねたり、温泉に浸かったり、パソコンしたり音楽聴いたり、
思いっきりのんびり時間いっぱいまで部屋を楽しみました。

チェックアウト後は宿泊者全員、ホテル所有のレクサスで駅まで送ってもらえます。
荷物を車に積むとき、

「ホテルからのプレゼントです」

と、『AMANEMU』と刻印の入ったラゲッジタグ(こちらの名前入り)
をいただきました。

わたしとTOには二人で一つでMr.and Mrs.なんとかだったのに、
息子は彼の名前だけが書かれたタグを別にもらい、ご満悦でした。

送っていただいた鵜方から名古屋まではビスタカーで。
鳥羽を通りかかるときには御木本真珠島(橋の向こう側)が見えます。

 

神宮参拝に次ぐAMANEMU。
気持ちを新たにし、
かつ清々しく気の良い場所に身を置いたことで、
旧年の憂いはすっかり清められ、今年も良い年になりそうな気がします。





祇園白川 漁夫の利ショー〜京都

2018-11-16 | お出かけ

一日花二日で終わらせるはずだったのに三日目に突入してしまった
京都祇園を訪ねる旅。
その理由は、冒頭写真でもお分かりのように、今回泊まった旅館
白梅の「通い鷺」”おうちゃん” の餌やりシーンに遭遇したからです。

鴨川の河原を上流に向かって歩いていく散歩を終え、
家を出てから1時間20分で祇園新橋に戻ってくると、
白川沿いの町家が昇ってきた朝日に照らされていました。

朝食は遅めの9時に予約を入れました。

日頃は朝ごはんの代わりに搾りたての野菜&果物ジュースで
軽く済ませてしまうもので、こんなたっぷりした朝ごはん、
しかも何を食べても美味しい御膳は楽しいけれど食べるのに苦労しました。

特にだし巻き卵は卵を3つは使っているのではないかというくらい
どっしりしていて、これ一つでお腹がいっぱいになってしまいそう。

御膳の左下にあるのは嶺岡豆腐。
初めて食べたのですが、まるでチーズケーキです。

びっくりして聞いてみると、これを作らせたのはあの八代将軍徳川吉宗。

日本での酪農は吉宗が房州嶺岡で軍馬を育成するため
インドから調達した馬と一緒に連れてきた牛の飼育で始まったそうです。

ここにある日吉宗が視察に来て食事をすることになって、
いきなり気まぐれを起こし、

「わし豆腐が食べたくなった」

と言い出したわけです。
東郷平八郎がイギリス留学のとき食べたビーフシチューが

どうしても食べたくなって、

「あれと同じの作って。肉と玉ねぎと人参とじゃがいもが入ってた」

と言われた料理人が想像で作り上げた肉じゃがのように、
この料理人も、大豆もニガリもない嶺岡でこのリクエストに
なんとか応えようと、牛の乳を葛の根から取った葛粉で固め、
見た目だけは豆腐のようなものを作り上げました。

果たして吉宗はこれを気に入り、料理人はお褒めに預かりましたが、
これ要するに「牛乳かん」だよね。

「嶺岡豆腐って、どこかで買えるんですか」

「クックパッドにも載ってます」


嶺岡豆腐の作り方

女将が一人一人の客に心を込めて書く絵手紙。
味のある柿と栗の絵もですが、いまだに女将は
先生についてお習字のお稽古をしているのだそうです。

「いまだに先生には怒られてばかりです」

と仰いますが、いやいやなかなか。

ところで、白梅が養っている?鷺の”おうちゃん”ですが、
一本足で立っているので王貞治から名前を取ったそうです。

これは鴨川で見かけた同じアオサギですが、おうちゃんもまた
鴨川のどこかに住んでいて、ご飯の時(朝10時)にやってきます。

川沿いに巣を作り、子供を養うことになってから
以前よりガツガツとやってきて食べるようになったのだとか。

朝ごはんを食べて部屋に戻ると、外でぎゃーすぎゃーすと
鳴き声がしました。

「あ、おうちゃんの餌やりタイムだ!」

慌ててカメラを掴んで外に出てみると・・・。

橋のところに板さんが魚の身を持って立っているのに、
なんだかおうちゃん落ち着きがありません。

屋根からいきなりバサーっと飛び立ちました。

どうやら、いつもの食事タイムに、別のアオサギが
自分も何かもらえるのではないかとやってきたようです。

おうちゃんはテリトリーを同族のアオサギに荒らされ、激怒していたのでした。

相手が川に降りるとおうちゃんも追いかけて川へ。

羽を大きく広げて威嚇しながら別サギを追いかけ回します。
動きが激しくて、なかなか両者をカメラに捉えることができません。

敵が川に降りれば川に、そして屋根に登れば屋根に。
板さんはどちらがおうちゃんかわかっているようでしたが、
わたしたちにはあまりにも右往左往する鷺たちの
どちらがどちらなんて全くわかりません。

左がおうちゃんでしょうか。

いや、勝利の雄叫びをあげている(メスかもしれませんが)
これがおうちゃんかも?

よそ者鷺を白川のはるか向こうまで追い払い、
「ナワバリ」である白梅の屋根まで矢のように戻ってきました。

一応この頃にはよそ者を追い払うことに成功し、
鼻息荒く屋根を闊歩しているおうちゃん。

わけもなく羽を大きく振るったりして屋根を衛兵のように練り歩きます。

「これがおうちゃんかな」

独り言を言うと、板さんが、

「これがおうちゃんです」

屋根の上を行ったり来たりしているおうちゃんに、
板さんはおそらく毎日やっているように刺身を投げてあげました。

あの白梅の刺身を毎日食べてるなんてなんて贅沢者。

と・こ・ろ・が(笑)

おうちゃん、怒りのためアドレナリンが噴出状態でそれどころではなく、
刺身を屋根に乗るように投げてもらったのに見向きもしません。

いつもなら急いで食べるのだと思うのですが・・。

「あららー」

「なんで食べないのよ」

「おうちゃーん、お刺身だよー」

知らせを受けて出てきた全員が思わず声をかけますが、
そんなことでおうちゃんが刺身に気づく様子は全くなく。

それだけではありません。
板さんがもう一度刺身を投げてやったら、なんとおうちゃん、
一度キャッチしたのをプイッと川に投げ捨ててしまったのです。

なんでやねん。

こんなこともあろうかと白川を泳いでは流れ、泳いでは流れして
川面に待機していたカモさんがすかさずやってきました。

もちろんおうちゃんが川に投げ捨てた?お刺身を美味しくいただくためです。

「うーん・・・なんて本末転倒な」

おうちゃん、怒りのあまり本来の目的をすっかり忘れている模様。

しかしおうちゃんの怒りはこれをもってしても全くおさまらず、遠くに
よそ者鷺の姿を目ざとく見つけるやいなや、きえええ!
と飛び立ち、
ひとしきり追いかけ回しに行ってしまいました。

「うーん・・・・」

「もしかしたらおうちゃんアホですか」


ところで屋根の上には、先ほどおうちゃんが無視した

プリップリのお刺身がまだ乗っかっているわけですね。

おうちゃんがよそ者を追いかけてどこかに行ってしまったのを
どこからか見ていたのが、カラスのみなさん。

カラスというのは本当に頭がいい鳥らしいですが、
この日、少なくとも彼らが鷺より確実に賢いのを目の当たりにしました。

ためらいなく刺身片を咥えたカラス。
写真に撮ってみて驚いたのですが、彼(彼女?)はこの時
間違いなくカメラの方を窺いながら素早く刺身を拾い、
同時に高いところに飛び立つ準備をしています。

それにしてもこの刺身、美味しそう・・・タイかしら。

「こういうのを表すちょうどいい言葉があったねえ」

「漁夫の利 」

この場合、「漁夫」はカラスと鴨ということになります。

しかしあまりに刺身片が大きくて、カラスさん飲み込むのに四苦八苦。
結局この場では食べることができず、咥えてどこかに飛んでいきましたとさ。



最後におうちゃんの「漁夫の利ショー」ですっかり盛り上がり、
心から満足して宿をチェックアウトしたわたしたちは、
四条に当てもなく歩いて行き、新幹線の時間まで、昔懐かしの喫茶店、
「フランソア」でお茶を飲むことにしました。

「フランソア」は今やただの飲食店ではなく、国の登録有形文化財です。

入店するとかかっていたのはブラームスの交響曲第3番。
昔来た時にも同じ曲がかかっていたような気がします。

この空間にブラームスの重厚な響きのなんと馴染むことか。

ここに来るたび、このメニューも、内装も、流れる音楽も
何もかもが寸分変わりないことが奇跡のように思われます。

喫茶「フランソア」は昭和9年、社会主義者の立野正一が創業し、
1940年(昭和15年)に改装されて以来今に至ります。

改装を手がけたのは当時京大にいたイタリア人で、豪華客船の船室をイメージ。
室内の華やかな彫刻、壁のピカソや竹久夢二などの絵画、
ヨーロッパの古いランプや赤いビロードの椅子も昔のままです。

かつて藤田嗣治や太宰治もここの客でした。

社会主義者だった創業者が自由な思想を語り合う拠点として
作った喫茶店で、戦争中には立野は治安維持法違反で収監され、
喫茶店は名前を変え、さらに物資の不足でコーヒーも出せなくなり、
番茶を出していたということですが、それでも建物は
何度か行われた空襲の目的地からも外れていて生き残り、
現在もそのままの姿を残しています。

わたしがここに前回来た90年代にはまだでしたが、その後、
「フランソア」の一部(写真に写っている部分)は2003年(平成15年)
国の登録有形文化財(建造物)に登録され、店内
全席禁煙になっていました。

そのあとは京都駅まで行くために阪急電車に乗りました。
久しぶりに見る特急が、これも昔と全く変わっていないのに感激。
懐かしいなあ、この小豆色の車体。


それはそうと。

この日、結局鷺のおうちゃんは自分の敵を追い払うのに夢中で、
結局わたしたちが見ている間何も食べていませんでした。

おうちゃん、後からこう思ってたんじゃないかな。

 

 

京都祇園旅行シリーズ終わり。