ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ブラック・ウィングス フライング・イン・シカゴ〜スミソニアン航空博物館

2022-10-19 | 飛行家列伝

アメリカに大恐慌が起こったのは1929年から1933年です。
この間、航空界はリンドバーグの大西洋横断の余波もあって
この恐慌とは関係なく安定して盛り上がっていました。

特にシカゴは、アフリカ系アメリカ人の航空の本拠のようになり、
それは西のロスアンジェルスの隆盛に匹敵しました。

そのシカゴでのブラックウィングスを中心となって率いたのは、

コーネリアス・コフィー
(Cornelius Coffey)1902−1994

とう伝説の黒人アビエイターでした。

■コーネリアス・コフィーのパイロット養成学校



コーネリアス・コフィーは元々熟練の自動車整備士でした。
航空の時代がまさに訪れているのを目の当たりにした彼が
パイロットを夢見たのも当然の成り行きだったといえましょう。

1931年、彼は同じ航空を目指すアフリカ系の同士を集め、
カーチス・ライト航空学校で航空を学ぶために始動を行います。

そして自身が航空技術を身につけた後は、地元シカゴで
アフリカ系が飛行する機会をさらに拡大するため、
「チャレンジャーズ・航空パイロット協会」を組織しましたが、
地元ではなかなかうまくいかず、結局彼らはイリノイ州に出て

「コフィー・スクール・オブ・エアロノーティクス」

という航空養成学校を開設します。

そこが軌道に乗ると、シカゴでも訓練クラスを設立し、
民間パイロット訓練プログラムからフランチャイズを得ました。

彼とその仲間のこの働きによって、黒人飛行家が排出されます。
その中には、後述するショーンシー・スペンサーとデールホワイト、
そしてタスキーギ・エアメンとなる多くのアフリカ系パイロットがいました。

彼の飛行スクールは黒人のみならず白人も排出しており、
航空における人種分離政策の終焉を目指す目的を持っていました。
  
コーネリウスと女性パイロット訓練生。

連邦政府が資金提供し、コーネリウスがフランチャイズ契約した
シビリアン(民間)パイロット・トレーニングプログラム(CPTP)は、
基本セグレゲートつまり人種分離されたものではありましたが、
それでも黒人に前例のない飛行訓練の機会を提供しました。

コフィーがシカゴのCPTPのフランチャイズを取得したのは
第二次大戦の前夜となる1939年のことです。

政府が、当時の世界情勢から「いざ鎌倉」(って言っていいのかな)のために
航空分野の裾野を広げようとしていたらしいことが窺い知れます。

■ ウィラ・B・ブラウン


ウィラ・ベアトリス・ブラウン(Willa Beatrice Brown 1906 - 1992)

は、 パイロット免許を取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性です。

彼女の先駆だったベッシー・コールマンは、人種差別の壁ゆえ、
免許をフランスまで行って取らざるを得ませんでしたが、彼女は
アメリカで免許を取得し、これが黒人女性初となったのです。

のちに彼女はアフリカ系アメリカ人女性として初めて連邦議会に立候補し、
民間航空パトロール隊の最初のアフリカ人幹部となり、
パイロット免許と航空機整備士免許を同時に持った最初の女性となります。

ウィラ・ベアトリス・ブラウンはケンタッキー生まれ。
インディアナ州立教員学校を卒業しました。
10年後、名門ノースウェスタン大学からMBAを取得しています。

卒業後、秘書、ソーシャルワーク、教師など様々な仕事をするうち
コーネリウスが創設したアフリカ系アメリカ人のパイロットグループ、
「チャレンジャーズ航空パイロット会」に入会することになりました。

【航空界でのキャリア】

1934年、ブラウンはコーネリアス・コフィーのもとで学び始めました。
1938年に自家用操縦士免許[10]、1939年に事業用操縦士免許を取得し、
米国で両免許も取得した最初のアフリカ系アメリカ人女性となりました。

ウィラ・ブラウンはコーネリアス・コフィーらと共同で
のちに全米飛行士協会となる全米黒人飛行士協会を設立します。

彼らの主な使命は、航空への関心を高め、航空分野への理解を深め、
両分野へのアフリカ系アメリカ人の参加を増やすことでした。

ブラウンは同協会のシカゴ支部長兼全国幹事を務め、広報を担当し、
アフリカ系アメリカ人に飛行機に興味を持ってもらうために、
大学を訪問したり、ラジオに出演して語ったりしました。



彼女は、当時隔離されていた陸軍航空隊と民間パイロット養成プログラム
(CPTP)に黒人パイロットを統合するため政府に働きかけました。

1925年、アメリカ陸軍士官学校の研究はこう結論づけました。

「アフリカ系アメリカ人は飛行に適さない」

どういう研究の結果こう結論が出されたのかはわかりませんが、
彼女らはこの結果に反証せんと務め、そして
アフリカ系アメリカ人のパイロットを養成する
CPTPの契約を結ぶよう連邦政府に働きかけました。

その努力が実り、1940年、彼女はまずCPTPのシカゴユニットの
コーディネーターに任命されます。

彼女が知的で優秀だったことはもちろんですが、この結果には
その美貌も手伝ったのではと思うのはわたしだけでしょうか。

穿ったようなことを言いますが、彼女の顔貌は黒人といっても、
鼻筋が通り、唇が薄く、いわゆる現代のハリウッド映画に
ポリコレ配慮で出てくる主役級黒人女性と同系統のものに見えます。

彼女が自分の美貌を十分に認識し、それを十二分に活用していたのだろう、
と思われるこんな記述があります。

「スタイル抜群の若くて褐色の肌をしたウィラ・ブラウン
(Willa Brown)、白い手袋、体にぴったりした白い上着を着て、
白いブーツを履いた、そんな彼女が1936年、
私たちのニュースルームに足を踏み入れたとき、全員が息を呑み、
すべてのタイプライターが突然静かになったほどだった。

他の訪問者とは違い、彼女にまったく怖気付く様子がなかった。
自信に満ちた態度で、そのハスキーな声には決意が感じられ・・・」


彼女がこれほどの、つまり白人にも通用する基準の美人でなければ、
ウェストポイントの研究結果を一夜にしてひっくり返したり、
ここまで話をうまく運べただろうか、とふと考えてしまいます。

まあ、いつの時代も圧倒的な美は時として歴史を変えるってことでしょうか。
当時の黒人航空界が彼女を得たことは、一つのチャンスでもあったのです。

この記述をしたのは、シカゴ・ディフェンダー紙の編集者かもしれません。

彼女は宣伝のため、アフリカ系アメリカ人パイロットの航空ショーに
編集者を招待し、実際に彼をフライトに乗せたことがあるからです。

この時のフライトと彼女の魅力が、この編集者によって忘れ難いもので、
その筆によって大いに宣伝されたのはいうまでもありません。


さて、彼女のおかげかどうかはわかりませんが、その後
コフィー・スクールはアメリカ陸軍航空隊のパイロット養成プログラムに
黒人学生を提供するための供給校として選ばれました。

この結果、同校から約200人の学生がタスキーギ飛行隊に送り込まれ、
「レッドテイルズ」として活躍し、黒人の将官を生むまでになります。

彼女自身ももちろんその後、黒人女性として栄光を手にします。


コカコーラを飲むブラウン中尉(マニキュアもしてます)

1942年、彼女は民間航空パトロール隊613-6で中尉の階級に達し、
民間航空パトロール隊で最初のアフリカ系アメリカ人将校となり、
その後、民間航空局の戦争訓練任務コーディネーターに任命されました。


彼女は生涯、航空分野と軍における男女平等と人種平等の擁護者でした。

1945年にコフィー・スクールが閉鎖された後も、
ブラウンはシカゴで政治的、社会的な活動を続けました。

1946年と1950年には連邦議会予備選挙に出馬し、
2回とも白人男性に敗れましたが、出馬自体がアフリカ系女性初となります。

その後は1971年に65歳で引退するまでシカゴ公立学校で教鞭をと理、
退職後、1974年まで連邦航空局の女性諮問委員会の委員を務めました。


上から;

航空での彼女の多くの業績は認められ、
ケンタッキー州ルイビルにゲストとして招待されました

注意、市民航空パトロール副官、全国空軍協会事務局長、
市民航空管理のための戦争任務コーディネーター。
ブラウンはまるで今でも飛行機に乗り空中回転をしているようです

彼女の飛行学校は空軍への黒人の試験的受け入れを実地するため、
陸軍と市民航空局によって選定されました



このムーブメントに、多くの黒人パイロットが参集してきましたが、
その中には女性もいました。

ジャネット・W・ブラッグ(Janet Bragg)1907-1991

は、シカゴで看護士をしていたとき、航空に魅せられ、
コフィーの航空プロモートに加わりました。

彼女の財政的支援は、シカゴの飛行クラブが
最初の飛行機を購入することができるほどでした。

彼女が資金提供できたのは、看護師として働きながらさらに大学院に進み、
キャリアアップしていくつかの病院で正看護師として働き、
十分なお金を貯めていたからでした。

苦労して商業免許を取得し女性航空隊WASPsに入隊しようとするも、
肌の色を理由にあっさり断られています。

戦後も彼女は飛ぶことを諦めず、自費で飛行機を購入し、
クロスカントリー飛行で多くの記録を打ち立てました。



ここに、「チャレンジャーズエアパイロット協会」の集合写真があります。
ここに写っているのが当時のシカゴ黒人航空界の主流メンバーです。

右上の写真はおそらくベッシー・コールマンでしょう。
真ん中にいるのがブラッグ、その左か右がブラウンでしょうか。

黒人によるエアショーの開催


「エア&グラウンドショー」

第二回有色人種空中&地上ショー
9月24日日曜日午後2時より

出演 ドロシー・ダービー嬢(クリーブランド)
アメリカ唯一の女性パラシュートジャンパー

ジョージ・フィッシャー少佐
シカゴ、デアデビルのベテラン
1万フィート上空巨大飛行機からのセンセーショナルなパラシュート降下
アクロバット飛行

ピーター・コンスドルフ
燃えるような木製の火の壁をオートバイで通り抜ける決死の挑戦

レイ・ブリッチャーズ(チャタヌガ)
トンプソンブラザーズ・バルーンアンドパラシュートカンパニー

場所:(省略)
ご来場はお早めに 軽食付き

演奏:キャプテンカリーズ・コンサートバンド
入場料:大人35セント 小人10セント




「マンモス・エアショー」

特別出演;ウィリー’自殺’ジョーンズ
世界記録に挑む 飛行機からのパラシュート降下


どちらも、バイクによるスタントを加えて飽きさせないよう
イベントを色々見せようとしている感じです。

最初にも書いたようにこの頃アメリカは大恐慌に見舞われていましたが、
ロスアンジェルスとシカゴの黒人飛行クラブは
観客を動員するエアショーを後援し開催させることができていたのです。

シカゴの名パラシューター、
ショーンシー・スペンサー


シカゴの黒人エアショーでパラシュートジャンプを決めた
ショーンシー・スペンサー(Shauncey Spencer)の勇姿。

スペンサーはシカゴで最も有名なバーンストーミングパイロットでした。



1939年、フロイド・ベネットフィールドで
シカゴからニューヨーク、ワシントンD.C.と飛ぶデモ飛行中のスペンサー。

スペンサーはこの時ワシントンD.C.で、当時
ミズーリ州の上院議員だったハリー・S・トルーマンや、
その他の政治指導者と会っています。

このことも、航空における人種差別に終止符を打つためでした。


スミソニアンにはスペンサーの飛行スーツとメガネ、
航空帽が展示されて今でも見ることができます。

これらの装備は、当時オープンコックピットの飛行機で飛行するために
必要不可欠なものでした。

ショーンシー・スペンサー(1906-2002)
バージニア州リンチバーグに生まれたアフリカ系アメリカ人の飛行家です。

母親はハーレムルネッサンスの詩人アン・スペンサーでした。

スペンサーは11歳の時に初めて飛行機の飛行を見ました。

家族の友人で、再建後初の黒人下院議員であるオスカー・デ・プリーストは、
スペンサーにシカゴの彼の選挙区に移動して飛行訓練を受けることを提案し、
彼はアフリカ系の飛行士たちと全米飛行士協会(NAAA)を組織しました。

彼はシカゴのレストランの厨房で働きながら、
週給のほとんどを飛行訓練に充てていました。

その後、数人の仲間とともに旧式の飛行機を購入し、フライトを行います。

スペンサーとホワイトの飛行が黒人新聞に掲載されたことは、
第二次世界大戦前の民間人パイロット養成プログラムに
黒人を加えるよう議会を説得するための布石となったのです。


1939年、スペンサーが行った飛行は
民間と軍の航空界における人種平等を推進する一つのきっかけでした。



スミソニアンはなぜかデール・ホワイトとスペンサーが
鳥になって木に止まっているクリスマスカードを保存しています。

枝に止まっている本物の小鳥が『?』となっているのが可愛い。



そしてそのカードの中身です。
シカゴ-ワシントンD.C.フライトが書かれています。

1939
シカゴーオハイオークリーブランドーピッツバーグーニューヨーク
フィラデルフィアーボルチモアーワシントンD.C.ーバーモント
コロンバスーフォルテウェインーシカゴ


「つがいの『鳥』が飛び回っています・・
地上で多くの時間を過ごしていますが、
風が変わり、陽気な季節がやってくると、私たちは囀ります

『メリークリスマス、そしてハッピーニューイヤー』

スペンサー ホワイト

・・・・・1940?

1940年にはまた別のフライトを予定していたのでしょうか。
詩的な言葉が、やはりなんというか、詩人を母に持つ息子っぽいですね。


続く。




大統領夫人を乗せて飛んだ黒人パイロット〜スミソニアン航空博物館

2022-10-17 | 飛行家列伝

飛行の黎明期、アメリカ大陸を航空機で横断することは、
航空の世界の一つの金字塔となりました。

初めて飛行機による大陸横断を成功させたのは、1911年、

カルブレイス・ロジャースCalbraith Perry Rodgers、
1879-1912

ライトフライヤーEX型を使用し、
ニューヨークからカリフォルニアまで総所要時間84日間、
実際の飛行時間は3日と10時間14分でした。

カルブレイス。この直後エアショーでバードストライクによる墜落死

アメリア・イヤハートは無着陸でアメリカ大陸を横断した最初の女性となり、
ジョン・グレンは初めて超音速機で大陸を横断したパイロットとなりました。

しかし、なぜかジェイムズ・ハーマン・バニングの名前は、
大陸横断を成し遂げた飛行士として大きく記されることはありません。

それはなぜか。

彼の記録が、「アフリカ系アメリカ人として初めて」
という特殊な注釈なしでは語れないからです。

■ ジェイムズ・H・バニング



1932年、黒人飛行士による初の大陸横断飛行を成功させたのは、
優秀なバーンストーマー(アクロバットパイロット)であった
ジェイムズ・ハーマン・バニングと、彼のメカニック、
トーマス・アレンで、飛行時間は41時間27分でした。

ロサンゼルスからニューヨークまで飛行したバニングは、
黒人パイロットとして初めての記録を樹立し、
後に続く他の黒人航空記録達成者への道を開いた飛行家と称されています。


バニングとメカニックのアレン

バニングは1932年、アレクサンダー・イーグルロック複葉機で、
メカニックのトーマス・C・アレンと最初の大陸横断飛行を行いました。

この歴史的な挑戦は、黒人飛行士によって行われる
一連の長距離飛行につながっていくことになります。

長距離飛行は、アフリカ系アメリカ人パイロットが
その飛行技術を披露するための劇的な方法となりました。

当時何人かのアフリカ系パイロットが長距離飛行を行いました。
バニングらはその飛行実績をもとに、アフリカ系アメリカ人の社会において
航空への進出を盛り上げるための道作りをしたといえるかもしれません。

彼ら黒人パイロットがこうやって飛行に成功するたびに、
その技量が白人に全く引けを取らないことが証明されることになります。

そして、航空は人種に関係なく、すべての人に対して
平等に開かれたものであるべきだという考えが広まっていきました。


飛行機はアレンと共に余剰部品(スクラップ)を集めて作ったものです。

横断飛行の時に財政的支援を募らなくてはいけなかったので、
彼らは「フライング・ホーボーズ」(空飛ぶ浮浪者)
と屈辱的なあだ名で呼ばれていました。

ものもらい、という意味だったのでしょうか。
彼ら的にはオッケー・・・じゃなかっただろうなきっと。

実際、彼らは一つのフライトが終わって、次のフライトを計画しても、
その度に資金の調達に走り回らなければならなかったため、
フライトとフライトの間には最低でも21日間が必要だったといいます。


バニングは、いわゆる「航空の黄金時代」に多感な時期を過ごし、
空に憧れた「フライボーイ」の一人でした。

■バニングはなぜ墜落死したのか



「ミス・エイムズ」というのがバニングの愛機の名前です。
機体には「バニングと共に飛ぶ」と、飛行機が擬人化された文句が。
この写真は1929年、アイオワで撮られたものです。

バニングは史上最初の黒人飛行士としてライセンスを取ったうちの一人でした。

アイオワ州立大学でエンジニアリングを学んだ後、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」創設者の
(前項でお話しした)ウィリアム・パウエルとロスアンジェルスで会い、
一緒に活動を始めました。

しかしながら、歴史的な飛行からわずか4か月後の1933年2月5日、
サンディエゴのキャンプ・カーニー軍事基地で行われた航空ショー中、
ジェイムズ・バニングは飛行機事故で死亡しました。

その事故には、微妙に人種問題がまつわっていて、
実に後味の悪いものになっています。


バニングは、そのショーで、二人乗りの複葉機を使用する予定でしたが、
エアテック飛行学校の教官が、彼の飛行機の使用を拒否したため、
仕方なく、バニングは海軍機械工兵二等航海士、
アルバート・バーガート(もちろん白人)
が操縦を行い、
自分は横に乗ることしか許されませんでした。

この「拒否」の理由は少なくとも見当たりませんでしたが、
どこにも説明がないということは、白人の教官の拒否の理由はただ一つ、
彼がアフリカ系であったことしかないでしょう。

当時はそれが許されるというか、もしそうしたとしても
何ら咎め立てされるような社会ではなかったのです。

彼が操縦しないなら、何のための航空ショーかという気がするのですが、
操縦席に座れないのならば、助手席に乗って飛ぶしかありません。

おそらく航空ショーには金銭がからむので、
そんなら俺は飛ばねえ!と拒否することもできなかったのかもしれません。

おそらく、彼は助手席から主操縦席のバーガード二等兵に
自分がやっているマニューバに従い飛行指示を出したのでしょう。

ショーが始まり、飛行機は離陸して400フィート上昇した後、
失速して回復不可能なテールスピンを起こし、墜落していきました。

この惨劇を目の当たりにした何百人もの観客が
恐怖のどん底に陥ったことは言うまでもありません。
バニングは残骸から回収され、1時間後に地元の病院で死亡しました。

人種偏見から、黒人が操縦することを禁止した教官によって、
無理やり操縦桿を握らせられた(であろう)バーガードも亡くなりました。

この人にとってもとんだとばっちりですが、
この事故の責任は果たして誰が取ったのでしょうか。
誰もとらなかったんだろうな。

直接事故を起こしたのも白人だし、
事故の原因を作ったのも白人でしたから。



■ アルフレッド・アンダーソン


ローレンス・フィッシュバーンが主人公を演じた、
黒人ばかりの戦闘機部隊「タスキーギ・エアメン」を描いた映画、
「レッドテイルズ」で、フィッシュバーンの飛行機に
視察にきたルーズベルト大統領夫人エレノアが無理やり乗り込んで
操縦させてご満悦、と言うシーンがあったのを覚えていますか。

その実際の逸話で飛行機を操縦したのが、
タスキーギ・エアメンのC・アルフレッド・アンダーソンでした。


アンダーソン(左)とフォーサイス

フィラデルフィア出身のC・アルフレッド・アンダーソンは、
1930年代でおそらくは最も才能のある黒人飛行士の一人でした。

彼は、ニュージャージー州アトランティックシティの医師であった
アルバート・E・フォーサイスとチームを組みました。

パイロットとしての技術はアンダーソン、財政的支援はフォーサイスの担当。

このタッグによって、彼らはバニング-アダムスのように
「フライング・ホーボー」とならずに済んだと言うわけです。

そして彼らは長距離飛行記録の樹立によって名前を上げました。

この頃の黒人飛行士たちは、先駆者として
アフリカ系アメリカ人コミュニティで航空の関心と、
裾野を広げるなどの動きを促進するために意識して
こういった「派手な」フライトにあえて挑戦していました。

■ ザ・グッドウィル・フライト

「飛行の黄金時代」であった1920年代、30年代のキーワードの一つは
「ロング・ディスタンス・フライト」でした。

そして、大陸や海を横断する長距離飛行など、多くの挑戦が生まれます。



たとえばこの航路ですが、フロリダのマイアミからカリブの島伝いに
キューバ、ジャマイカ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、
そしてスペイン領トリニダードからブラジルへと飛ぶコース。

誰も行ったことがないコースを飛び、成功させ、名を挙げることが
当時の飛行家たちの夢となったのです。

アンダーソンとフォーサイスは、1933年、まず大陸横断飛行を成功させ、
次いで、1934年に、上のカリブ海航路を飛ぶことに挑戦しました。


バハマ到着後、現地知事の歓迎を受ける二人

このときの飛行は「The Goodwill Flight」と呼ばれました。


ここにすでに「南アメリカグッドウィルフライト」の文字が見えますが、
グッドウィルの意味を図りかねていたわたしも、これを見て気づきました。

「グッドウィル」は、フライトのスポンサーとなった

「インターレイシャル・グッドウィル航空」

のことだったんですね。納得。

さて、グッドウィル・フライトの目標は、
黒人飛行士のスキルを世界に示すこと。
そして人種への理解を深めることでした。

グッドウィル・フライトは最初ということもあってスリル満ちていました。
その頃バハマには陸上飛行機用の空港がなく、夜間到着した彼らは
自動車のヘッドライトに照らされた未舗装の道路に着陸を行いました。

しかし、彼らは冷静かつ大胆な操縦でそれを成功させたため、
地元にはセンセーションを巻き起こし、大きく報道されました。

彼らの目的は十二分に達成されたと言っていいでしょう。


黒人として初めて民間航空局で航空運送事業の免許を取得した彼は、
その後結婚して家庭を築きながら飛行の仕事をしていましたが、
黒人医師であるパイロットのアルバート・フォーサイス博士と出会い、
一緒に黒人による航空の世界への進出を切り拓く夢を共有します。

この免許は、彼がタスキーギ・エアメンに入隊する前、
ハワード大学の民間操縦プログラムで飛行教官をしていた時のものです。


大陸横断飛行に挑戦中、カンサス州ウィチタで飛行機を降り、
地図を見ているフォーサイス医師とアンダーソン。

遠くから見ても、どちらがフォーサイスかよくわかりますね。
というか、飛行機に乗るのにスーツにネクタイって。

右下の封筒は、彼らのクロスカントリー飛行の記念です。
ニューアークから故郷に宛てて出したもののようです。


ロスアンジェルスに到着し、アトランティックシティに戻るため
飛行機に乗り込むスーツ姿のアンダーソンとフォーサイス。

飛行機の状態は、白黒写真でも大変手入れが行き届いていており、
彼らの飛行が資金の調達を潤滑に行っていたことが見て取れます。

彼らの使用したランバート・モノクープは、洗練された、
かつ信頼性の大変高い民間航空機で、彼らはさらにそれを証明しました。

アンダーソンとフォーサイスは、ナッソーに飛んで、そこで
先ほどのような空港のない島に着陸することに成功しています。

■アンダーソンとフォーサイスのその後

アンダーソンはその後黒人ばかりを集めた陸軍の航空プログラムに採用され、
飛行教官のチーフを担当することになります。
彼のニックネーム「チーフ」はこの頃の呼び名が定着したものです。


大統領夫人エレノア・ルーズベルトを乗せたのもこの頃です。
せっかくですので、繰り返しになりますが、経緯を書いておきます。

1941年4月11日、その日エレノア・ルーズベルト大統領夫人は
アラバマ州のタスキーギ研究所にあった小児科病院を視察していました。

何気なく窓の外を見た彼女はそこに飛行機が飛んでいるのに気づき、
チーフ・インストラクターに会いたいといきなり言い出しました。

そのインストラクターこそがアンダーソンだったわけですが、おばちゃん、
失礼にもアンダーソンに向かって、

「有色人種は飛行機の操縦なんてできないと聞いていたけれど、
この人は飛べそうじゃないの」

と言い出し、慌てる周囲を尻目に

「あなたと一緒に飛んでみたいわ 」

とさらにとんでもないことを言い出すではありませんか。

アテンドの陸軍軍人たちも警護も畏れながらと異議を申し立てましたが、
言い出したおばちゃんはもちろんのこと、
アンダーソンもファーストレディの申し出を断ろうとはしませんでした。

40分後、空から戻ってきた乗客は、

「Well I see you can fly, all right!」
(なんだ、飛べるじゃないのあんた)

と軽〜く言い放ったと伝えられます。

この時の事件は「歴史を変えたフライト」として知られています。

なぜなら、黒人はまだその時点で陸軍航空隊で飛行したことがありません。
ルーズベルト政権は、黒人のパイロットを養成できるかどうかを
タスキーギ飛行士を使っていわば実験を始めたばかりだったからです。

この時の彼女のおばちゃん的行動とその結果が、たまたまだったのか、
それとも実は仕組まれたもので、彼女は最初からそうするつもりだったのか。

もっと深読みすれば、もしかしたらアンダーソンもその整備士も、
薄々それを何処かから聞かされていたという可能性もありますが、
まあ、今はそこまで勘繰るのはよしにしましょう。

いずれにせよ、タスキーギ・エアメンの実戦投入への過程において、
大統領夫人の気まぐれ体験が追い風になったのは間違いありません。

アンダーソンはその後、教官として、のちに黒人で将軍にまでなる
ベンジャミン・O・デイビスJr.ダニエル・"チャッピー"・ジェームズsr.
といった有名な軍用航空のパイオニアたちを訓練することになります。

アンダーソンは戦後もタスキギーで教官を行い、
多くの黒人のみならず白人の航空要員を育て上げました。

1967年には、世界で最も古いアフリカ系パイロット組織である非営利団体
「Negro Airmen International(NAI)」を共同設立し、
後進の育成に尽力しています。

アンダーソンは1996年タスキギーで静かに息を引き取りました。

生前、自分の業績に対して何の名声、評価、富をも求めず、
民間・軍人を問わず何千人ものパイロットの人生に影響を与え続けました。

フォーサイス博士はアンダーソンとのグッドウィルフライトの後、
本業に専念したのか、航空業界の一線からは姿を消しましたが、
妻となった看護師のフランシス・T・チュウは、彼の歴史的偉業を
後世に残すべく、1989年の彼の死後も尽力しました。



セントルイスのランバート国際空港には、歴代の黒人飛行家を描いた
「Black Americans in Flight」があります。



この一番左端には、バニングとベッシー・コールマン、
そして肩を組むアンダーソンとフォーサイス博士の姿が描かれています。



続く。


ブラック・ウィングス「パス・ファインダー」〜スミソニアン航空博物館

2022-10-15 | 飛行家列伝

スミソニアンの「ミリタリー・ウィングス」のコーナーにある
とても印象的な版画です。



「ラウンデル」と呼ばれる、イギリス空軍のマークを翼にあしらった
航空機のパイロットが愛機のプロペラの向こうに見る美しい女性。

彼女は果たして彼の空戦を勝利に導く女神なのか、それとも
彼の運命そのものを見守る死の天使なのか・・・。



と言うわけで、今回取り上げるのは、まだ人種差別が行われていたアメリカで
パイロットとなったアフリカ系アメリカ人の記録です。

「ブラック・ウィングス」と言う言葉はこれまでにも何度か
アメリカの航空博物館の展示をご紹介する過程でこのブログでも使いました。

内容も、取り上げる人物も重複することは避けられないのですが、
そこは「スミソニアンでの展示」という違う視点をお楽しみください。




飛行機の発明は、現代の技術に革命を引き起こしました。
大衆の心の中で、新しい航空時代は冒険とヒロイズムに結びついていきます。

アフリカ系アメリカ人は飛行に対する熱意を幅広く共有しましたが、
当時のアメリカではパイロットや整備士としての訓練を行うにも
その導入の段階で拒否されると言うのが通常でした。

1920年代以降、少数の固い決意を持った空を愛する黒人たちが
人種差別に異議を唱えました。

白人でも簡単なことではなかった当時の航空界。

その並ならぬ困難と障害にもかかわらず、彼らは空を飛ぶと言う夢を
決して諦めず、それを実現させていったのです。


モニターにちょうど映し出されている航空機は、
イタリア戦線に出撃した第332戦闘機群のP-51マスタング。
当時最新鋭とされた戦闘機です。

第332戦闘機群は、通称「タスキーギ・エアメン」と呼ばれた
黒人パイロットで構成されていました。

このパネルでは、ここからブラックウィングスの展示が始まることを
予告しており、6名の名前が記されています。

ベッシー・コールマン

ウィリアム・J・パウエルJr.

ジェイムズ・ハーマン・バニング

コルネリウス・コフェイ

ノエル・F・パリッシュ

ベンジャミン・O・デイビスJr.



ここの説明によると、「初期のパイオニア」は
アフリカ系女性として初めてパイロットになったベッシー・コールマン

彼女以降、同族の航空愛好家が増えていくことになります。
ウィリアム・パウエルJr.は「ブラック・ウィングス」の著者です。

彼は飛行家としてロスアンゼルスで飛行クラブを組織しました。

またジェームズ・ハーマン・バンニング
C・アルフレッド・アンダーソンとアルバート・E・フォーサイス
長距離飛行で記録を樹立する飛行家になりました。

コルネリウス・コフェイは、シカゴに黒人飛行士のための
新しいセンターを設立するという働きをしています。

それでは最初に、このパネルの横に立っている
革コート、革ブーツに皮のヘルメットといういでたちの女性、
ベッシー・コールマンからでご紹介しましょう。

■ベッシー・コールマン
「初のアフリカ系女性パイロット」


「The Pathfinder」パスファインダーは「道を切り拓く人」、
または開拓者という意味があります。
彼女のタイトルには敬意を込めてこの言葉が掲げられています。

コールマンは1920年代の航空ショーで、
バーンストーミング(barnstorming)パイロットとして活躍し、
人種偏見の逆風に逆らって飛び続けました。

バーンストーミングとは、チャールズ・リンドバーグの時に説明しましたが、
つまりエアショーなどで技を披露するアクロバット飛行パイロットです。

1920年代という、彼女の人種と性別に最も不利だった時代に、
彼女は誰よりも早く地位をベンチマークすることに成功しました。

バーンストーマーとして認められた彼女は国内をツァーで周り、
全米の航空ショーで曲技飛行を行いました。

しかし、彼女の飛行キャリアは短命でした。

1926年、彼女は飛行機事故によって34歳で亡くなりましたが、
その事故の様子は次のとおりです。

「1926年4月30日、フロリダ州ジャクソンビル。
彼女はカーチスJN-4(ジェニー)をダラスで購入したばかりで、
彼女の整備士ウィルズはダラスから飛行機を飛ばしたが、
整備不良のため、途中で3回強制着陸をしなければならなかった。

関係者は彼女にこの飛行機に乗ることを危険だと忠告したが、
彼女は拒否し、整備士の操縦する機のコクピットに乗り、離陸した。

彼女は翌日にパラシュートジャンプを計画しており、
コックピットから見える地形を調べようと思っていたのである。

離陸から約10分後、飛行機は地上1000mで不意に急降下し、その後スピン。
コールマンは610mの高さで機体から投げ出され、地面に激突して即死。

ウィルズは機体の制御を取り戻すことができず、地面に落下し死亡。
飛行機は爆発し、炎に包まれた。

後にエンジンの整備に使ったレンチが操縦桿を詰まらせたことが判明した。
葬儀はフロリダで行われた後、彼女の遺体はシカゴに送られた。」

彼女が死亡したのは、チャールズ・リンドバーグ
「スピリット・オブ・セントルイス」で歴史的な大西洋横断を行う
わずか一年前のことでした。

活動期間はわずか5年だけだったにもかかわらず、
彼女は最初のアフリカ系アメリカ人女性の才能ある飛行家として、
同じアフリカ系のコミュニティにとっては、航空界でのキャリアを模索する
ロールモデルとなり、永続的な一つのシンボルとなったのです。


フランスで取得したベッシーコールマンの航空ライセンス

彼女がフランスのコードロン・ブラザーズ航空スクール
国際的に認可されたパイロット免許を取得したのは1921年6月15日です。

免許には航空帽に航空眼鏡をつけ、パイロット姿の彼女の写真の下に
彼女自身のサインがされています。

彼女がフランスにわざわざ行かねばならなかった意味がお分かりでしょうか。

それはもちろん、彼女の人種と性別にその理由がありました。
当時のアメリカではアフリカ系の女性を受け入れる
航空の訓練施設はまずあり得なかったのです。

そこで彼女はまずフランス語の読み書きを勉強することから始め、
フランスに渡ってパイロットの国際免許を取得して、
それでアメリカ国内を飛行する手段を得ることを選んだのです。


説明はありませんが、おそらくこれは
フランスの航空学校の学生証というものではないかと思われます。
まだ学校に入る前なので、航空とは無縁の服装で写っていますが、
その表情も気のせいかかなり不安そうで自信なげに見えます。

学校に入って翌年、彼女は見事ライセンスを取得しました。
結果、彼女は男女問わず、史上初めて認可された
アフリカ系アメリカ人パイロット
になりました。



しかしいくら彼女自身にガッツがあっても、フランスへの旅費や
学校の授業代、生活費など、アフリカ系の若い女性が
どうやって用意することができたのでしょうか。

ネイリストだった彼女は、第一次世界大戦から帰還した航空兵から
戦時中の飛行の話を聞き、すっかり空に魅惑されました。
そこでパイロットになることを決意した彼女は、レストランで働き、
マネージャーにまでなって必死でお金を貯めたのです。

彼女を支援したのは、まずアフリカ系の弁護士で、
「シカゴ・ディフェンダー」紙(現在もオンライン配信で継続中)の創立者、
ロバート・S・アボットで、彼女に留学を勧めたのもこの人です。

そしてやはりアフリカ系の銀行家、ジェシー・ビンガ(多分写真の人)
とディフェンダー紙などが金銭的な支援を行いました。

いわば彼女はアフリカ系の希望の星として、フランスに発ったのです。
自分を応援するコミュニティのためにも、猛烈に勉強したのでしょう。


1922年9月4日、ロングアイランドのカ=ティス・フィールドで、
エアショー終了後、彼女にブーケを渡すのは、
エディソン・C・マクヴェイ(Edison C. McVey)
というアフリカ系のスタントパイロットだった人です。



シカゴに当時あった「エリートサークル」(なんて名前だ)と、
「ガールズ・デルーズ・クラブ」が、コールマンに敬意を表して
「エアリアル・フロリック」(空中散歩)の出資を行いました。

彼女はこんな風に航空を目指したその動機を語っています。

「空は偏見のない唯一の場所です。

アフリカ系の男性にも女性にも飛行士がいないのを知っていたので
この最も重要な分野で人種を代表する必要があると思いました。

だから、命をかけて航空を学ぶことが、私の義務だと考えました」


■「ザ・ビジョナリー」〜ウィリアム・J・パウエルJr.



The visionaryとは、「先見の明」とでも言いましょうか。
先を見通す目、またそれを持つ人という感じです。

ウィリアム・J・パウエルJr.(William J. Powell Jr.)

は、初めて「ブラック・ウィングス」という言葉を世に生んだ人です。
彼はアフリカ系がパイロットや整備士としてこの航空の時代に
あるべき場所を見つけることができる世界を夢見ていました。

それこそが、彼のブラック・ウィングスというビジョンそのものでした。



これはいわゆる販促用リーフレットとでもいうもので、
「Black Wings」の発行を宣伝しています。

パウエルJr.は黒人が飛行を行う能力を欠いているという決めつけを
永遠に終わらせるため、若いアフリカ系アメリカ人の若者を
航空業界に採用させることを目標にしました。

「黒人のための100万の仕事」

ブラックウィングスを読む

黒人は南部で分離されて鉄道やバスに乗ることを止めるつもりか?

ブラックウィングスを読む

黒人は飛ぶことを恐れているか?

ブラックウィングスを読む

なぜごく少数の黒人しか産業やビジネス界に携われないのか?

ブラックウィングスを読む

こんな感じの宣伝です。



これがその「ブラックウィングス」実物。
扉裏にはベッシー・コールマンの写真が。


パウエルJr.は、1920年代、ロスアンゼルスにおいて
黒人ばかりの航空愛好家の小さなコミュニティを設立し、
「ベッシー・コールマン・フライングクラブ」
と名付けます。

そして最初の黒人によるエアショーを後援しました。

彼はアフリカ系がパイロット、メカニック、あるいはビジネスリーダーとして
航空の世界に参加していくことを目標に、運動を行います。

その一つが、「ブラック・ウィングス」と題された本を出版することであり、
ドキュメンタリー映画を制作するなどの広報活動を通じて
アフリカ系アメリカ人の若者を航空の世界で羽ばたかせるために
弛まぬ努力を続けました。

当時は大恐慌で経済的に困難な時期だったのにもかかわらず、
パウエルは航空を志す者のための奨学金の基金を作り上げました。



パウエルがアフリカ系コミュニティ内の航空への進出を促進するために
1930年代後半に発行した「クラフツメン・エアロニュース」

この雑誌では、黒人航空愛好家を対象に、パイロットや整備士を育成する
訓練の機会についての最新のニュース、メカニックに関する記事、
そしてさまざまな通知や情報などを提供しました。



空の世界を夢見る黒人少年の図。

多くのアフリカ系アメリカ人の若者はパイロットや整備士を志し、
航空に対して憧れと熱意を持っていました。

これはクラフツマン・エアロニュースに掲載された挿絵です。

■ 黒人ばかりの航空映画「フライングエース」


1927年には大変希少な、全てアフリカ系キャストによる航空映画、

「The Flying Ace」

は、陸軍航空部隊を背景にしたメロドラマです。
ポスターには「オールカラードキャスト」
(全て有色人種による出演)
となっているのが異様な感じです。



本作は、リチャード・E・ノーマン監督がアフリカ系キャストだけで製作した
1926年の白黒サイレントドラマです。

本作のように、アフリカ系観客のために黒人キャストだけで撮った映画を
「人種映画」(race films)と呼びます。
ノーマン・スタジオはこの時代多数の人種映画を制作しています。

黒人映画の市場は未開拓な上、本流で仕事がもらえない
才能ある黒人パフォーマーが多数いたことで需要と供給が成り立ちました。

ストーリーは、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
主人公のストークス大尉(ローレンス・クライナー)が帰国し、
故郷で鉄道警察という戦前の仕事に戻って、活躍する中で、
駅長の娘ルース(キャサリン・ボイド)が飛行機で攫われたり、
ストークスがそれを助けたりして、最後は恋を打ち明けるというものです。

ちなみにヒロインのルースという役柄は、女性パイロットで、
ベッシー・コールマンをゆるーくモデルにしています。

自分をモデルにした映画が撮られることを知っていたコールマンは、
ぜひ映画に出演したいと制作元に希望を表明していたのですが、前述の通り、
1926年4月30日に航空機から落ちて命を落としてしまいました。

この頃の「レース・フィルム」で現存するのは本作ただ一つであるため、
現在でも無声映画祭や映画館でも上映が繰り返されており、
さらについ最近となる2021年には、

「文化的、歴史的、また美学的に価値がある」

として、アメリカ議会図書館によって国立映画レジストリに保存されるよう
選定されたばかりだそうです。

The Flying Ace (Norman, 1926) — High Quality 1080p


高画質の本作フィルムがYouTubeで見られることがわかりました。
全部は無理でも、一部雰囲気だけでもぜひご覧になってください。

攫われたルースの救出方法が、別の飛行機から縄梯をおろし、
それを登らせて脱出させるというのも非現実的ですが、
これは実際に飛行機を飛ばして撮影していないのでできることです。

また女性のヘアスタイルが、当時最新流行の「フラッパーヘア」なのに注目。
黒人女性もフラッパーにしてたんですね。




映画といえば、パウエルJr.は1935年、ドキュメンタリーフィルム
「ベッシ・コールマン・フライングクラブ」の制作もおこなっています。

映像には、フライングクラブに所属した黒人フライヤーたちが総出演。


アメリカ人であればおそらく誰でも知っている(と思う)、
「褐色の爆撃機」(The Brown Bomber)こと、
史上二人目の黒人ヘビー級ボクシングチャンピオン、
ジョー・ルイス(左)夫妻が、
1938年パウエルJr.の航空教室を訪れた時の写真です。

パウェルJr.は大変宣伝上手で、飛行クラブを有名にするために
こうやって他にもデューク・エリントンなどを招待し、宣伝を行いました。

■ パウェルJr.という人

アフリカ系アメリカ人のパイロット、エンジニア、企業家である
ウィリアム・パウエルが若かった1934年当時、米国では
パイロット18,041人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか12人、
整備士8,651人のうちアフリカ系アメリカ人はわずか2人だったそうです。

しかも航空会社はアフリカ系を乗客として認めませんでした。

パウエルはこの状況を変えようと、飛行の黄金時代(1920年代と1930年代)
高い意志を抱いて活動しましたが、早世し、
航空業界のパイオニアとしてのキャリアを閉じることになります。

パウエルは1897年シカゴの中流アフリカ系アメリカ人居住区で育ち、
イリノイ大学で電気工学の学位取得を目指す優秀な学生でしたが、
第一次世界大戦が勃発します。
彼はアメリカ陸軍に入隊し、人種隔離された第317工兵連隊、
そして第365歩兵連隊に中尉として従軍しました。

戦地で毒ガスを浴び帰国し、工学の学位を取得しています。

第一次世界大戦中、アメリカ陸軍の軍服とロングコートを着用した
ウィリアム・J・パウエル。

卒業後、彼はシカゴでガソリンスタンドや自動車部品店を持ち、
成功する傍ら、やはりリンドバーグに夢中になり、
空を飛ぶことを夢見てパイロットになることを目指します。

しかし、それは簡単なことではありませんでした。

飛行学校では、人種を理由に断られ、陸軍航空隊にも断られ、
ようやくロサンゼルスの多国籍学生のための飛行学校で
パイロット免許を取得することに成功します。

しかし彼の夢はパイロットになることだけではなく、
アフリカ系アメリカ人のために航空業界の機会を作ること。

彼は飛行機事故で亡くなったベッシー・コールマンに敬意を表して、
「ベッシー・コールマン・エアロクラブ」を創設し、1931年に初めて
アフリカ系パイロットによる初航空ショーを開催し成功させました。


パウエルの『ブラック・ウィングス』は、パウエル自身が、
また他のアフリカ系アメリカ人がパイロットになるまでの苦闘を、
ビル・ブラウンという架空の人物の目を通して描いた自伝です。

彼は、アフリカ系アメリカ人の若者たちに、

「空中を黒い翼で埋め尽くそう」

と呼びかけ、パイロットだけでなく、飛行機の整備士、航空技術者、
航空機設計者、そして産業界のビジネスマンになるよう奨励しました。

パウエルは、空はアフリカ系アメリカ人の若者にとって
新しいチャンスに満ちていると確信していたのです。

その理由は、航空はちょうど成長期を迎えており、
まだあまり人がいない今のうちに参入すれば、航空の成長とともに
黒人たちも成長することができるからというものでした。

しかし、彼は1942年、わずか45歳で早世しました。
第一次世界大戦で毒ガスを浴びた後遺症
のためとも言われています。

しかし彼は、何百人ものアフリカ系アメリカ人が
航空界に参入する道を最初に切り開いたのです。

彼の死後も黒人差別は全くなくなりはしませんでしたが、
タスキーギ・エアメンと呼ばれる黒人飛行士が
第二次世界大戦で活躍するのを、彼は死ぬ前に目撃したことでしょう。

続く。




映画「金語楼の海軍大将」後編

2022-10-13 | 映画

さて、おそらくこれを読んでいる方々の9割以上が観たことがなく、
これを読んでもそのさらに9割9分が観ようとは思わないであろう戦争喜劇、
「金語楼の海軍大将」後半です。



さて、クラブで水原海軍大将に異常接近してきたのは美形未亡人明蘭。

本来ならば、自分のような男にこんな美人が近づいてくるかどうか疑ったり、
自分の立場を鑑みて、多少なりとも相手の下心に用心するものなのですが、
とにかく水原大将、世の中の女は全て自分に好意を持つものと信じています。

なので、ちょっと色目を使われたら、ホイホイと官舎にご招待。
水原大将の官舎に呼ばれてやってきた明蘭は、
中国4000年の珍しい精力薬と偽って、睡眠薬を飲ませ、



あっさり大将を熟睡させてしまいました。

そして待ち構えていた仲間を呼び入れ、トランクに大将を詰め込んで
拉致しようとしていたら、誰かやってきました。



当番兵の山下三水です。



こいつも「精力薬」の偽パッケージに騙されて、ついつい
眠り薬を飲んでしまい、その場で昏睡。
てか精力剤飲んでどうするつもりだったんだ。

おかげで悪者たちはノーガードで大将の誘拐に成功してしまったのでした。


次の日です。

山下水兵は陸戦隊の分隊士、葛城中尉に呼ばれました。
(この名は当時オリオンズにいた葛城隆雄から)

葛城中尉を演じているのは、新東宝の「ハンサムタワーズ」
(なぜ"タワーズ"かというとご想像通り皆背が高かった《172-182cm》から)
として、菅原文太らと同時に売り出された、吉田輝雄という役者です。

この人もほんの一瞬の出演ですが、この士官たちを含め、
この映画は、脇役に無駄にイケメンを多用しています。

最初の山下水兵の夢にだけ登場する参謀役が丹波哲郎で驚きましたが、
これは、お正月映画と言いながら、主役が金語楼と坊屋三郎では
あまりにも茶渋のようなツヤのない画面になってしまうことから、
脇役にいい男を配して若い女性客に媚びているのでしょう。



さて、なぜ山下が呼ばれたかというと、彼が大将の当番兵だからでした。
葛城中尉は、司令長官が行方不明になった事情を山下に尋ねました。

拉致されたことを知らない山下は、てっきり水原大将、
雲隠れして未亡人の明蘭といいことしていると思い込んでいて、

「こればかりは事が事だけに、ここでは言えない!」

となぜか庇いだてを試みますが、葛城大尉は全くそれを相手にせず、
とにかく長官を連れ戻すよう頭ごなしに命令しました。

「それがどこかは知らんが、とにかく水原閣下を連れて帰れ」

「復唱!」

「復唱はいい!」



一国の軍隊の地方部隊司令官を拉致する。

これだけで、もうこいつらは日本軍の殲滅対象決定ですが、
逆にこんな簡単に拉致される海軍大将ってどうなのよ。

という感想はともかく、一体何のために彼らは大将を誘拐したのでしょうか。
明蘭は、縛られている大将に、

「陸戦隊本部にある機密書類をよこしなさい!」

と言い出します。
はて、確か彼らの当初の目的は陸戦隊を爆破することじゃなかったっけ。
機密書類どこから出てきた。



まあいいや。そんなことは突き詰めてはいけません。

こちら大将の捜索命令を受けた山下、
早速大将が(明蘭と)『シケこんで』いそうなところを探すことにしました。
とはいえ、思い当たるのは二人が出会った先日のキャバレーしかありません。

しかしキャバレーの門番がペーペーの水兵を入れてくれないので、
自分とそっくりの中華芸人、白飯のふりをして、堂々と正面突破。


入り込んだはいいものの、何をどうしていいかわからず
ウロウロしていた山下を、いきなり物陰に引き込んだ男がいます。

それは特務機関「光」の杉浦大尉でした。
脊髄反射で敬礼してしまう山下。(まあ一応帽子は被ってるし)

そして大将が誘拐されたらしいと杉浦大尉から聞かされ、
てっきり明蘭と遊んでいると思っていた彼は仰天します。



その拉致された海軍大将水原ですが、

「一つ、至誠(すせい)に悖るなかりしか。
一つ、気力に欠くるなかりしか。
一つ、無精にわたるなかりしか。」

平静を保つため五省を唱えておりますと、明蘭がやってきて、

「情報を渡す決心はついた?」

だから何の情報なんだよう!
しかし腐っても海軍大将、自分の命と引き換えに陸戦隊を売るわけもなく。

わすは日本人だ!
水原権五郎海軍大将、死して(すすて)護国の鬼(おぬ)となる・・っ」



彼らが去った後、監禁現場に山下が忍び込んできました。
どうでもいいけど見張りくらい置いておけよ。

二人の着ているものを交換し、自分が身代わりになってここにいるから、
脱出したら救援を寄越してください、と必死で頼む山下を尻目に、

「サイナラ〜〜!」

と軽やかに去っていく水原大将でした。


しかし水原大将、案の定、ナイトクラブの門を出たところで、
美女にウィンクされてしまったものだから、


せっかく出てきたキャバレーに戻って、飲み始めてしまいました。

アホなのかこの海軍大将は。



客を遠目に見てヒソヒソ言い合う悪者たち。

「あの男・・大将に似てね?」


大将の監禁現場を見に行くと、それらしい人影が。

「ちゃんといるじゃないか」



遠目には・・・いや、全く似てねーし。


そして悪人たち、海軍大将の有効活用法について会議しています。

日本語による会議の結果、大将のポケットに水素爆弾(!)を入れて
陸戦隊に返し、基地ごと爆破するということに決まりました。

そもそも最初から何のために大将を拉致したのか、
目的が全く定まっていなかったということですねわかります。


爆弾は金庫の中に「時限爆弾」と貼り紙されて格納されています。
はて、時限式爆発を起こす水素爆弾(金庫収納式)とは。

ところで水素爆弾って、アメリカの機密事項で、
いまだにどうやって作るのか正確にはわかっていないんですってね。(雑談)



爆弾を仕掛けられる運命となった、偽海軍大将の山下水兵、
水原大将が早く帰隊して救出してくれることを祈っています。



が、同じ頃、大将は同じナイトクラブの席で居眠り中。
さっきの女にサイフをスられていました。

山下水兵の財布ですから、お金が入っているわけもなく。



女はふん、とばかりに席を立ってしまいますが、
大将、今度は別のホステスにデレデレ。



悪者一味は、ここでまたしても催眠術師の四暗刻(スーアンコー)を使って
大将の格好をした山下に、陸戦隊を爆破する暗示をかけさせました。

四暗刻は大将を拉致するメンバーではなかったので、
いつの間にか大将が山下と入れ替わっていることに気が付きません。

明日の朝7時にセットした爆弾をポケットに入れられ、
すっかり自分を見失った山下、彼らの車で基地に送られて行きます。



そして車は陸戦隊基地の前に停められました。

ところで、この後ろの白いビルですが、



前にもお見せした、今ガンダムになっている場所です。

このGoogleマップの写真は少し前のもので、その後ビルは取り壊され、
ガンダムの隣はバス駐車場になっているということが判明しました。

それはともかく、この撮影は現在の山下公園付近、
マリンタワーの近くで行われたことがわかります。

舗装されていない道と草の生えた空き地。
当時の横浜ってこんなところだったんだ・・・。



車から下され、頭を覆っていた布を取られて、
ほれ、あっち、と指さされたところにふらふら歩いていく山下。



そこは上海陸戦隊でした。



警衛の水兵は、元帥の制服を着た山下を見てハッとして背筋を正し、
捧げ銃を行い、



喇叭手は将官に対し用いられる喇叭譜「海行かば」を吹鳴し始めました。

後年、映画「トラ!トラ!トラ!」では、三船敏郎演じる山本長官が
乗艦の際、楽団が楽曲の方の「海行かば」を演奏して、
心ある人々の失笑を買ったそうですが、さすがはこの頃の映画界。
腐っても軍隊経験者が社会に現役だったことから、
こんな無茶苦茶な喜劇でさえも、抑えるところは抑えています。

まあ、海軍大将が門を一人で入っていく状況が実際にあったのかとか、
その時にも喇叭譜は演奏されたのかとか、色々不思議な点はありますが。


喇叭譜が響く上海陸戦隊・・・・。
と言いたいところですが、どう見ても上海の建物じゃないよね。



皆が立ち止まって敬礼する中、腰のポケットをチクタク言わせながら、
ただ歩いていく山下三等水兵。



真っ先に気がついたのは山下の親友、桑田三等水兵でした。

「班長殿、あの大将は山下であります!」

「あれ・・このやろー!」




「こら山下!ふざけやがって!」

鬼の軍曹は山下を怒鳴りつけますが、その時、



新任の隊長中川大佐が飛んできて軍曹を逆に叱りつけました。
二日前転勤してきたばかりの大佐は、水原大将の顔を知らないのです。

叱責された千葉軍曹は慌てて大佐に、

「この男は山下三等水兵であります!」

と言いますが、中川大佐、聞く耳持たず。

「無礼者!閣下の軍服が目に入らぬか!」

「えっ・・・」

中川大佐は水原大将だと思い込んでいる水兵に向かって、

「閣下、御無礼を申し上げました。
してご用件は何でありますか」

「ソウイン、シュウゴウセヨ」

「はっ!」




♩ソドドミド〜〜〜ソドドドミドドドソドドドミド〜



爆発予定時刻まであと3分。



山下の同僚の水兵たちは皆ざわつきます。

「あの大将山下じゃないのか」

「山下だよ」

「じゃなんで敬礼しなくちゃいけないんだ」


そこで桑田水兵が一言。

「それは大将の軍服を着てるからだよ」

それはある意味至言・・・なのかな。



「大将閣下に奉り、かしら〜なか!」



「んぐ・・あ。」

挙動不審すぎる海軍大将。
何を思ったかその場を立ち去って行きます。



「?」


悪党の本部では爆破のカウントダウンが始まっていました。
爆発まであと1分。

水爆が爆発したら君らも確実に死にますけどね。



そこに、いきなり陸戦隊から姿を消した山下が
ばーん!と戸を開けて、

「陸戦隊は全員集合したんですが、後がわからないから帰ってきました」


「ひいいいいい〜!」



山下の上着を奪い取り、窓から下に投げたら、
そこはキャバレーの客席で、まだ水原大将が気持ちよく寝ていました。
上着は持ち主の元に帰ったというわけです。

それで目が覚めた水原大将、我に帰って、

「しまった!山下を助けなければ!」

ここで上着を持った大将と悪者一味のドタバタ追いかけっこが始まり、



このどさくさで壁で頭を打って正気に戻った山下でした。



それにしてもなぜ爆発しないのか。爆弾。



山下に向かって、

「ちょと上着見ちてくれまちぇんか?」

「どうぞどうぞ」




1時間、セッティングを間違えてたことがわかりました。



その時です。

中華街に・・・じゃなくてナイトクラブ前に、
上海陸戦隊の一個小隊がトラックで乗り付けました。



葛城中尉率いる上海陸戦隊が救出にやってきたのでした。
水原大将、何とか連絡をとったものとみえます。



杉浦大尉、葛城大尉、巴静子、そして桑田三水も駆けつけて、
救出作戦はあっさりと終了し、一味は一網打尽となりました。





そして年が明けました。



水原大将が訓示を行なっております。

そしてなぜか死んでもいない山下三水に、
二階級特進の栄誉が与えられる運びになりました。

海軍大将が訓示の時に腰に手を当てるのはいかがなものか。



新隊長はじめ杉浦大尉、葛城大尉、巴静子も顔をそろえています。
訓示が行われているのはどこかのビルの屋上で、
後ろに見えている風景はどう見ても戦後日本。



一筒、二萬、三竹、水原大将の3人の妾さんまで勢揃い。


今回の活躍のご褒美に、山下は、二階級特進だけでなく、
今日「一日大将」となることを許されました。

「海軍大将山下敬太郎閣下の号令のもとに、
祖国日本の方角に向かって新年の敬礼を行う!」

「日本全国の国民諸君に対し、ささげー」




「つつ!」



この年のお正月、この映画を見た人は、
さぞかしこの馬鹿馬鹿しいお笑いを楽しんだことでしょう。

そして、この種のパロディが許される世の中になったことを以て、
戦後を肌で感じ取ったのではないでしょうか。

終わり。



映画「金語楼の海軍大将」前編

2022-10-11 | 映画

観終わってからとんでもない作品を選んでしまったと後悔しました。

果たしてこのような馬鹿馬鹿しい作品をあらためて紹介する意味があるのか、
とすら考えずにいられなかったのですが、基本当ブログでは
そういう誰も取り上げないキワモノにこそ光を当てる、ということに、
一種の使命を勝手に感じておりますので、やっぱり取り上げることにします。

あらすじは冒頭のイラストを見ていただければ、
柳家金語楼扮する三等水兵が、なんの因果か海軍大将の格好をして
本物と入れ替わり、怪しげな中国人の悪漢と絡む、
というものであることはお分かりになろうかと思います。

本作品は、あの大倉貢制作による新東宝らしさ満点の喜劇で、
終戦後、雨後の筍のように製作された軍隊ものです。

終戦によって日本人の権威に対する価値観が全く変わり、
軍を批判、あるいはパロディにしても叱られなくなった創作界では、
反戦ものや、この作品のような軍隊喜劇が作られ、人々は
記憶にまだ新しい戦争と軍隊を笑い飛ばすのを大いに楽しみました。

本作は、既に落語界の重鎮となっていた柳家金語楼演じる三等水兵が、
海軍大将に入れ替わってしまうという「入れ替わりもの」です。

1901年生まれの金語楼は映画製作時、既に58歳。
海軍大将役はともかく流石に三等水兵は無理すぎ、と思うのですが、
そこはそれ。

思い切ってこの不条理を楽しんでしまいましょう。


タイトルは、水兵風味のコスプレをしたお姉さん方が、
軽やかなルンバのリズムの「軍艦行進曲」をバックに、
それらしいポーズを決めて「静止」しているというものです。

スチル写真を使えばいいのに、なぜか静止画像風にじっとしているので、
時々片足上げたお姉さんがフラついているのがわかります。


けしからんことに、映画は実写の艦隊航行シーンから始まります。



艦橋に立つ海軍大将、その姿は紛れもなく柳家金語楼。

「皇国の荒廃この一戦にあり!各員一層粉糖努力せよ!終わり」



Z旗が翩翻と翻り、今度は普通に「軍艦」が鳴り響きます。



尾翼越しに見えているこの空母、なんだかお分かりですか?



「参謀!空母信濃より通信が入りました」

「長官!第一次攻撃隊は敵地爆撃に成功し、損害を与えました」

「長官!第二次爆撃隊により全市火の海であります!」

この参謀、丹波哲郎じゃないですかー。
相変わらずいいところだけちょっと出てくるいいとこ取りの丹波である。

それにしても、なぜ軍艦の上なのに、全員陸戦隊の兜着用なのか。
その理由はこれが夢だからですが、それはともかく。

「長官!第三次攻撃隊の原子爆弾により敵軍事施設は全滅!」

おいおい、原子爆弾落とすなよ。

「長官!第四次攻撃隊により敵戦艦50隻轟沈!」

「ちょーおかん!敵国は早くも降伏を申し出たようであります」


「いや、しかし無条件降伏以外は」

「絶対にダメでありますか!」

「そうだ・・イエスかノーか!」

もうわたしはここで爆笑だったのですが、普通は笑うところじゃないかも。


そして場面はいきなり戦勝凱旋祝賀会に。
会場にはアメリカ合衆国を含む万国旗が飾られています。


記者会見もそこそこに綺麗どころに囲まれる海軍大将。


山下元帥のお目当ては「ミチコ」こと「みち奴」ですが、
髭の千葉という男もちょっかいをかけてきます。


ダンスをするうちに積極的に次の間に強引に連れ込まれ、
強引に押し倒されたと思ったら、



それは上海陸戦隊三等水兵山下源太郎の夢でした。


夢で邪魔だった髭の千葉三等軍曹に叱られながら釣り床収めです。



上海陸戦隊がいるくらいなのでここは上海。
なのですが、ロケを横浜中華街で行った可能性が微レ存。



ここで真昼間から銃撃事件が起こりました。



さて、ここは上海方面指令長官水原権五郎海軍大将の官舎。



ここに、先ほどの銃撃事件の報告をしてきた人物、それは
光機関の(なんかわかりませんが諜報機関的な?)杉浦大尉
殺されたのは重慶に暗躍するテロ団の情報を持っている人物でした。

(さすこの頃の映画、ちゃんと『だいい』と発音してます)



電話を受けているのはやはり光機関の杉浦大尉の部下、巴静香

どこかでお見受けした女優だと思ったら、万里昌代
確か「スパイと貞操」で水責めされていた女スパイの役の人じゃないですか。



この大将、どうも女に見境がなく、つい手を出さずにいられない体質らしい。



特務機関に務める巴御前相手についやっちまって、投げ飛ばされる始末。
かくすればかくなることと知りながら已むに止まれぬ助平魂。

そしてこの困った性癖が水原大将の危機を招くのです。

海軍大将になろうかという軍人であれば、いかに好きであっても、

「ホワイト(素人)に手は出すな、ブラック(玄人)とさっぱり遊べ」

という海軍の掟を若い頃から叩き込まれている上での出世でしょうから、
こんな醜態を世間に曝すこと自体あり得ないのですが、
そこはそれ、映画はこうでなくては話が進みませんからね。

ところで、杉浦、水原といえば、この頃の野球に詳しい方なら
ピンとくる名前ではないでしょうか。
杉浦清、水原茂。いずれもプロ野球選手です。
この映画の登場人物の多くは野球選手から名前を取っています。



そこに大将官舎の雑用をする当番兵が連れて来られました。
山下敬太郎と桑田三等水兵の二人です。


最初の仕事はお洗濯。
大将の3人の妾、一筒(イーピン)二萬(リャンワン)三竹(サンソウ)
の下着です。



大将の現地妻一筒(小桜京子)は餃子屋。
他の男の面倒を見ながら電話で砂糖の横流しを頼んでます。


酒保から砂糖を持って来るのも登板兵の役目。


次に電話した美容師の二萬(リャンワン)も怪しげなマッサージ中。



女優の三竹(サンソウ)は歌手で女優です。
若い男とイチャイチャしながら、電話では

「ワタシパパが恋しくて恋しくて死にそう・・・」



なんだよこの助平親父(死語)とうんざりする山下水兵。


さて、ここは横浜埠頭・・・じゃなくて上海の港のどこか。


特務機関の杉浦大尉と巴の元に、中国人の垂れ込み屋、
清一色が情報を持ってきました。
今日、重慶の秘密工作員がテロ団の仲間と会うというのです。

杉浦大尉のグループはテロ工作を追って活動していました。



清が外に出た途端、



車から銃撃されました。



ちょっとお待ちください。

ここに見えているの、横浜税関本間庁舎(通称クィーンの塔)ですよね?
位置関係から見て、現在の象の鼻パークから見ている感じかな。



その夜、横浜中華街の?ナイトクラブに出演する
歌手の三竹のステージを、山下三水をお供に見にきた水原大将です。



このナイトクラブで剣舞を行う芸人の白飯(パイパン)は、
どういうわけだか山下三水に瓜二つの男でした。



ショーを観ている大将に、清は妖艶な女性を引き合わせました。
有名な伯爵の未亡人、紅明蘭というその女は、
美人に目のない大将にあからさまなアプローチをかけて・・。



カルメンをステージで踊っている愛人の三竹がそれを見て怒り心頭。
おいおい、あんた大将のこと嫉妬するほど好きだったのかい。



三竹、舞台裏でアイロンがけさせられていた山下に八つ当たり。
とばっちりもいいところです。



その頃、山下公園埠頭(でロケしたところの上海港という設定)では、
情報を元にデート中の恋人同士を装った杉浦と巴が張っていました。


ターゲットに男が近づいてきます。


こちらを見られたので慌てて抱き合う二人(笑)



見ていると、ターゲットは埠頭で大勢の怪しい人たちに囲まれていました。



ところで、ここに写っている建物はついこの前までありました。
今ガンダムがあるのと同じ埠頭です。


実は、清のナイトクラブの裏では悪巧みが進行していました。

彼は親日家のふりをして、嘘の情報を流し、最終的には
上海陸戦隊に食い込んでこれを壊滅させるのを目的としていたのです。

そこで集めた仲間ですが、まず明蘭は女好きの大将を色仕掛けで落とす役目。
今入ってきたリーチ(李痴)という男は、さっき埠頭で
清を襲うふりをして杉浦大尉らを欺く手助けをしていました。

要するに日本軍を追い出す組織の手先というわけです。


次の日、門限を過ぎて帰隊した山下水兵を、
鬼軍曹の千葉(巨人軍の千葉茂より)が叱責していました。



千葉軍曹も山下も酒保の「おばさん」みち子が大好きです。

「あたし、一眼でいいから山下さんが海軍大将の軍服着たとこ見たいわ」

つい雑談からそんな伏線を敷くみち子。

「夢じゃいつも海軍大将なんだけど・・」

それはいいのですが、せいぜい18歳くらいしか見えないこの女優に、

「いつも山下さんと夫婦になっている夢見るのよ」

「あたし夫婦になったら毎日甘いもの作ったげるわ」

なんて言わせるのは、あまりに無理がありすぎです。
何度も言いますが、金語楼、この時58歳ですよ?
下手したら孫ってくらいの娘相手に何やってんだ。

しかし、お汁粉を作ってもらったという設定で、
お椀の餅を伸ばして食べる所作は、さすが落語家の風格(笑)


・・・という風に、この映画は、筋書きをこのように述べても
そのおかしさというのは微塵も伝わってきません。

落語家金語楼のちょっとした所作や表情、
おそらく当時は流行語であったらしい言葉の端々から、
当時の空気を思い、今も残る昔の横浜の映像を楽しみながら観る、
これが正しい鑑賞の仕方だと思う次第です。

紹介しておいてなんですが、実際見ないと何も伝わらない映画ですので、
ぜひ機会があったら一度死んだ気でご覧になることをお勧めします。


本作における悪者中国人一味は、重慶からの指令で帝国海軍陸戦隊を
一刻も早く爆破するというフェーズに入っていました。

そして、上海全体を混乱に陥れるという作戦です。

全員中国人なのに、なぜか皆片言の日本語で会議しています。

同じ大倉貢の作品でも「北支那海の女傑」(だっけ)では、
主人公の女性が中国人という設定もあって、何人もの日本人役者が
頑張って中国語で会話していたものですが、ずいぶん手抜きです。



彼らは一味の清が経営するナイトクラブに、
特務機関の巴静子が潜入しているのを発見しました。

この頃の上海は文字通り「魔都」であり、
若い頃、父上(政治家犬養健)の秘書役として大陸におられた
犬養道子氏によると、ダンスパーティで、
ダンサーの手のひらに仕込まれた小さなピストルが
音もなくターゲットの胸に撃ち込まれるなどということが
ほぼ日常的に起こって問題にもされないというような物騒な都市でした

犬養氏の父上犬養健氏は、当時大陸で政府の命を受け、
秘密裏に和平工作を行なっていた時期がありましたが、
有名な美貌のスパイ、鄭蘋茹(ティンピンルー)丁黙邨の暗殺に失敗し、
処刑された事件にも関わったことが、氏の著書に書かれています。

この頃の新東宝系の映画には、やたら上海を舞台に、
中国人の怪しいグループが登場しますが、その頃の混沌の中に、
大衆が嗅ぎ取っていた一種の浪漫みたいなものを映像で表すのが、
創作の世界では流行っていたということなのかもしれません。

それはともかく、中国人グループは、特務機関の巴を
とりあえず始末する計画を立てました。



その方法というのが斬新です。

一味の催眠術師、四(スー)アンコー(平凡太郎)が、
その辺の男に催眠術をかけると、あら不思議、
男はインプットされたターゲットを殺したいほど憎み初め、
さらに自分は不死身であると錯覚し始め、結果、
「不死身の殺人マシーン」となって、殺人の任務を遂行するというもの。

どうでもいいけど、もう少し簡単な方法はなかったんかい。



ここは現在横浜の観光スポットと成り果てたところの赤レンガ倉庫です。
当時は本当の倉庫だったので、全く人気はありません。
撮影のために人払いしたのかもしれませんが。



ここに巴静子が一人で歩いてきました。
何者かに追われる気配を感じ、足早です。

そしてその後を思い詰めた風の男が追ってきます。



大変お節介ながら、同じ場所の写真を撮っておきました。
右側のビル一階はパンケーキカフェ「ビルズ」(美味しい)があります。



赤煉瓦の前に大きなキャプスタンのようなものが並んでいます。



催眠術をかけられた男に襲われる巴。
マシーンとなっているので、ピストルの弾が当たっても、
しばらく気づきません。

ってそんなわけあるかーい。


不死身のように見えましたが、巴に投げ飛ばされ、
銃弾を2発くらって初めて昏倒。(ってか死んだんだよね)

さて、というわけで一味は巴暗殺に失敗したことになるのですが、
この後どんな手を使ってくるのでしょうか。

というか、この連中の悪巧みって、全く方向性がなく、
行き当たりばったりで計画性もないんだよな。

こいつら一体何がしたいのか(笑)


続く!




「シルバーサイズ」のタブーとその戦後

2022-10-09 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている「シルバーサイズ」。

その精強さは第二次世界大戦中の米潜水艦トップレベルだっただけあって、
数多くの伝説が残っている上、
調べればいくらでも後世作成された映像資料などが出てきます。

今日はまず、スミソニアン歴史センターが作成した、
「シルバーサイズ」最初の哨戒における漁船との戦いをご覧ください。
ちゃんと漁船の名前「恵比寿丸」も明らかにしています。

A Surprisingly Tense Battle Between a U.S. Sub and a Fishing Boat

東洋系の役者の数が揃わなかったのか、銃手ともう一人しか
「恵比寿丸」の乗員が登場しませんが、この銃手がイケメンなので許す。

問題があるとすれば、「恵比寿丸」は民間漁船なのに、
なぜか乗員が海軍の略帽を被っていることですが、
「シルバーサイズ」が最初に犠牲者を出した戦闘の迫力は伝わります。

ちょっと注目していただきたいのは、1:30〜から、
元海上自衛隊海将の香田洋二氏が登場して英語でコメントしていること。

「彼らが基本的に武装していたのは、
主に機関銃と、2~3個の深海爆雷ですね。
そしてもちろん、無線機も。
『シルバーサイズ』は、この船(漁船)のミッションを

正しく理解していなかったんじゃないでしょうか」

第一次哨戒について取り上げたときにも書きましたが、
「シルバーサイズ」はこの漁船と遭遇したとき、
まさか相手がこれほど重武装しているとは想像していませんでした。

このブログ読者の方を驚かせるほど、莫大な無駄弾を放ち、反撃し、
ようやく相手を倒したときには、貴重な砲手を一人失っていたのですが、
番組制作(スミソニアン)は、その痛い失点を、
「シルバーサイズ」が初めての哨戒で相手を単なる漁船だと思い込み、
侮っていたせいだった、ということを結論づけようとして、
わざわざ香田氏にこのようなコメントを求めた気がします。



■潜水艦の「Superstition 迷信」


当ブログではすでに何度も?取り上げている気がする、
「シルバーサイズ」のお守り、金色の布袋さんことラッキーブッダについて、
博物館の別のコーナーで「迷信」として取り上げていたので、
繰り返しになりますが書いておきます。

【仏像】

「シルバーサイズ」で最もよく知られていた幸運のお守り、
それは金色の小さな仏像です。

Robert Trumbull の著書「シルバーサイズ」によると、
仏像を持ち込んだ人物については二つの説があり、
一人はあの水兵、
マイク・ハービンだったというものです。


彼が最初の哨戒で武装漁船の銃撃の弾を受け亡くなったのは、
わずかその10日後のことでした。

そしてもう一人はというと、艦長の
クリード・バーリンゲームだった説。

ハービン、バーリンゲーム、どちらの人物も仏教徒ではなかったので、
彼らのどちらが持ち込んだかについても謎のままかもしれませんが、
ただ一つわかっているのは、この仏像が「シルバーサイズ」の現役中、
常に後部魚雷室に搭載されており、乗員は魚雷を発射する前に、
願を懸ける意味を込めて、お腹をこすっていたということです。



その「迷信」は戦時中製作された国策潜水艦映画でも再現されました。
実際の仏像を参考にしたのか、大きさも形も全く同じです。

最初の哨戒が成功した直後、魚雷室勤務の乗員たちは
オリジナルと同じ仏像を木彫りで作ってもらい、
それをバーリンゲーム艦長にプレゼントしました。

バーリンゲーム艦長は、それを元にして、オリジナルと全く同じ仏像を
キャストで二体制作させ、一体を司令塔に、そして
前後の魚雷発射室に1体ずつ「装備」するように命じました。


こういう場合に取り上げるにふさわしい言葉かどうかわかりませんが、
「鰯の頭も信心から」といわれるように、森羅万象に神を見る我が日本では、
なんでもない路傍の石や木でも、ある日誰かがそれらしいしつらえをすると、
そこはあっという間に信仰の対象となり、人々が立ち止まって頭を下げ、
拝み、賽銭を投げるようになって、そのうち社殿が建つそうです。

アメリカ人にそんな「慣習」はありませんが、「シルバーサイズ」では、
戦争という状況の中で「具体的な祈りの対象」が必要とされたのでしょう。

そして「シルバーサイズ」が、その哨戒で幾度となく危機を脱し、
もう最後という状況から生還するというような「奇跡」が重なると、
男たちの仏像に対する「信仰心」はいや増していきました。

哨戒の数が重なってくると、乗員は、この布袋さんのために神棚を作り、
のみならずそこにペニーのお賽銭を入れるブリキ缶まであったそうです。

三体の仏像は、14回の哨戒全てに「同行」しました。

乗員の中には、「シルバーサイズ」が終戦まで生き残り、
素晴らしい成績を上げたのは仏像のおかげと思っていた人もいたでしょう。

彼らはおそらくが全員キリスト教徒だったはずですが、主への祈りより、
この仏像の「ご利益」をあてにしていたかと思うと、不思議な気がします。

いずれにしてもこの類のことは、戦時中ならではで、
平常時では決して起こらなかったに違いありません。

【哨戒中の”ジンクス”】


「シルバーサイズ」初代副長ダヴェンポートは、
当時の若者にありがちな「カメラが趣味」の人でした。

普通では後世に残ることがない、哨戒中の無資格手術のシーンも、
その後無事に盲腸を切ってもらった人と切った人の記念写真も、
全てダヴェンポート副長が熱心にシャッターを切ったものです。



これはどこかはわかりませんが、USS「ポラック」Pollack SS-180
が潜望鏡越しに撮影した、日本の本土の写真です。



USS「プランジャー」が潜望鏡越しに撮った船が沈む光景。
検索すると、潜望鏡越しに撮った、船が沈む写真がいくつか見つかります。
ダヴェンポートはこんな風に記録を残したかったのでしょう。

しかし、この写真撮影については、ある時からタブーとなりました。
船団攻撃の後は決して潜望鏡越しに写真を撮ってはいけないという
「ジンクス」が、「シルバーサイズ」に生まれたのです。


ある哨戒で、「シルバーサイズ」が船団攻撃を行なった後、
ダヴェンポート副長は、バーリンゲーム艦長に、
潜望鏡を通して海面の写真を撮らせてほしいと頼みました。

攻撃後の船がどうやって沈んでいくか記録に残し、
その戦果を確実なものにしようと考えたのです。

しかし、ダヴェンポートが写真を撮るために潜望鏡を上げた瞬間、
船団を援護していた護衛艦がその潜望鏡を発見し、
爆弾を降らせ、危うく「シルバーサイズ」は粉々になるところでした。

しかも、ダヴェンポート副長は急いでいたせいか、
その時フィルムを表裏逆に装填していたため、
高価なフィルムを全てダメにしてしまったというおまけ付きです。

バーリンゲーム艦長はこの後、誰に対しても
潜望鏡越しの撮影を許可しなくなりました。

ただし、コイ艦長、ニコルズ艦長の時代には、ジンクスはなくなり、
事実、潜望鏡越し撮影をしても特に悪いことは起こらなかったそうです。

わたしが気になるのは、この潜望鏡事件でトラウマを持ったはずの
ダヴェンポート副長が、後に艦長となったとき、
部下に潜望鏡撮影を許したかどうかですが・・・。


■ 戦後の活躍:1945年~1969年

グアムで終戦を知った「シルバーサイズ」は1945年9月15日、
パナマ運河を通過し、9月21日にニューヨーク市に到着しました。

コネチカット州ニューロンドンに転属後、1946年4月17日に退役し、
1947年10月15日まで予備艦としてイリノイ州シカゴで
海軍予備役訓練艦として使用されていました。


シカゴ到着時の「シルバーサイズ」
艦体の凹みが目立つ

1949年に乾ドックで最後にオーバーホールを受け、残りの期間、
定置訓練船としてシカゴで海軍予備役訓練の支援にあたりました。

その後予備役艦隊に入り、真鍮製の固体プロペラが取り外されました。


1962年11月6日、「シルバーサイズ」は、係留中のまま
船体分類記号AGSS-236、補助潜水艦に再分類され、
1969年6月30日に海軍船舶登録簿からその名前が抹消されます。

シカゴではしばらく道路に放置されていた模様

本来ならここでスクラップになるところですが、
彼女の戦争中の功績が大きい「殊勲艦」だったため、
シカゴの商工会議所が中心となって、
「シルバーサイズ」をシカゴで保存するよう海軍に要請し
1980年代半ばにシカゴの海軍区画で保存し、商工会議所は、
速やかにアメリカ海軍省に「シルバーサイズ」の保存を申請しました。

■1973年-現在

「シルバーサイズ」は 1973 年 5 月 24 日にイリノイ州シカゴの
五大湖海軍連合協会の一部となりました。

そして、その輝かしい歴史と技術的な驚異に惹かれた
献身的なボランティアの小さなクルーによって、
何年にもわたって管理されてきたのです。

彼らは、何万時間もの修復作業を行い、自費でメンテナンスを行い、
説明員や付き添い役も務めました。

しかし、保存が正式決定されるまでの「シルバーサイズ」の状態は
最善のものどころか、お世辞にも良いとはいえませんでした。

1973年5月24日、当時五大湖海軍協会の所有物だった
「シルバーサイズ」の艦内に入ったボランティアが見たものは、
長年放置されたおかげで船体内部の至る所がかび臭く、
腐食した箇所から浸水した艦内の惨状で、
塗装がはげ落ちた艦内外には、ガラクタが散乱していました。


冷凍室は長い年月を経て、ミリ単位ではなく、
数インチ単位で測れるほど厚く成長していましたし、
前部のコンパートメントには水害の跡が残っていました。
かろうじて後部のコンパートメントはそれなりに良い状態だったとはいえ、
後はデッキも上部構造も相当傷んでいました。

上面では、デッキは風化し、部分的に摩耗しており、
上部構造のいくつかの部分は錆びていて交換が必要と思われました。

ボランティアは総力を挙げて、「シルバーサイズ」の腐食した箇所を
徹底的に修理し、腐ったロープが交換され、船は桟橋に再び固定され、
ビルジはポンプで乾燥され、電力と熱が船内に供給され、
3番魚雷発射管の漏れが塞がれました。

最初に行われた大改装は、水線までの船体の剥離、下塗り、再塗装です。

この作業はミシガン州の厳しい冬の間は中断され、数カ月を要したものの、
完成すると艦体はほぼ新品同様の姿に生まれ変わりました。

デッキの下は、艦体の洗浄と一般的な修復が行われました。

艦内のあらゆる場所に光が届くように配線が大幅に変更され、
配管はかつて凍結したパイプからの漏れを調査し、修復しました。

1975年には主機関の
フェアバンクス・モース38D-1/8 10気筒ディーゼルエンジン
を再稼動させることに成功しています。

1979年7月、1946年以来初めて主機である3号エンジンが、
4号は1984年の米国潜水艦退役軍人大会に間に合うように修復されます。

1979年には海軍区画にとりあえず移動させたのですが、
この間、非営利団体と行政側に収入に関するトラブルが発生し、
司法が介入してゴタゴタが起こってしまいます。

このため「シルバーサイズ」の復活に貢献したボランティアは
最終的に行政側と決別する1985年まで、
行政側からのひどい侮辱?を受ける事態になりました。


1987年、この潜水艦は現在のミシガン州マスキーゴンに移され、
五大湖海軍記念&博物館の目玉として展示されることになりました。

シカゴ・トリビューン紙(Silversides gets Hero's Welcome)によると、
マスキーゴンに到着したとき、この有名な軍艦を新しい居住地に迎えるために
大勢の人が集まり、歓迎の大きな旗が掲げられたと言うことです。

しかしながらここに艦体を移動した際、「シルバーサイズ」内部の備品等
(つまり盗品)が行政側によって売りさばかれるという醜聞がありました。

当時シカゴでは新しい海軍博物館が1億5千万ドルで計画されていましたが、
(多分わたしが最初に見たU-505の展示してある博物館のこと)
「シルバーサイズ」の保存はいずれにせよ行政の眼中にはなかったようです。

その後「シルバーサイズ」の所有権は移り、新たな所有者のもとで
1991年に再改修を施されましたが、吃水線下はひどい状態のままでした。

■ 保存活動

シルバーサイズは以上の経緯で、記念艦として
マスケゴンの潜水艦記念館で保存されています。

通常、アメリカ海軍の潜水艦は現役の間は5年ごとに乾ドックに入ります。
「シルバーサイズ」の保存維持間隔は25年ごととなっていますが、
「シルバーサイズ」が最後に乾ドックで修復されてから55年後の2004年、
記念館と元潜水艦乗組員による退役軍人協会が保存のため、
「シルバーサイドを救う」という名称の基金を設立し、
退役軍人グループと軍事出版物を通じて、寄付を募り始めました。

この先例としては、ウィスコンシン州マニトワックに係留保存されている
「コビア」 (USS Cobia, SS-245) の基金集めがあります。
 
■ 映画「ビロウ」出演

また、当ブログでも紹介しましたが、「シルバーサイズ」は
2002年映画『ビロウ』に出演しています。

わたしがシカゴからわざわざ車でこれを見にきたのも、
そもそも「ビロウ」で取り上げたことがきっかけだったわけですが、
実際に内部を見て、その艦内のあまりの狭さに、
映画で撮影された艦内のシーンは、ほとんどがセットだと確信しました。
(機関類とかの前の撮影はもしかしたら本物かもですが)

当初一体どこの部分で彼女が出演していたのか不思議でもあったのですが、
実は結構大掛かりな話で、「シルバーサイズ」は、
劇中、架空の潜水艦「タイガーシャーク 」(USS Tiger Shark) として
わざわざマスキーゴンからミシガン湖まで曳航され、
海上を航走するシーンを撮影しているのだそうです。

この時「シルバーサイズ」を実際に使ったと思われるシーンをあげてみます。








しかし、
この映画は興行的に全くヒットせず、
収入はわずか58万9000ドルと芳しくない結果でした。

ついでに専門家からの評価もかなり辛辣だったということですが、
その理由は、当ブログの紹介欄を読んでいただければ、
どなたでも「あ、・・・・察し」となるのではないでしょうか。

これだけ大々的に潜水艦を稼働させる話なんて滅多にありませんから、
潜水艦保存協会としては思わず飛びついてしまったのかもしれませんが、
それにしても契約する前に、もう少し映画の脚本を読もうよ・・・。

他でもない、「呪われた潜水艦」の話に出演させたとわかったら、
かつての乗組員たちだっていい気はしないと思うぞ。


■ 週末のキャンプ



実はわたくし、「シルバーサイズ」シリーズを始めてから、
博物館のライブカメラのサイトをしょっちゅう覗いています。

大抵は時差の関係で真っ暗な中、光が揺れていたりして、
そんな時も艦内には明かりが灯っているらしいのが見え、
週末の昼には見学者の姿があるのを確認してはちょっと安心したり。

ある週末、何気なく早朝のライブカメラを覗いてみたら、
艦内から毛布を持った子供が出てきたので驚きました

そういえば、「シルバーサイズ」では、週末に
潜水艦の中で一泊というお泊まり体験ができるんだった。


『USSシルバーサイズ潜水艦に一晩滞在する』

シルバーサイズ・ミュージアムでの宿泊

USSシルバーサイズ・サブマリン・ミュージアムの歴史的な艦船に
一晩乗り込み、歴史を再現するツアーです。
甲板を歩き、潜水艦とカッターを探検し、
かつて勇敢な男たちが国に奉仕した寝台で眠ります。

どんなグループにとっても忘れられない体験となるこの宿泊プログラムは、
スカウトや青少年のグループ、家族や大人だけの
チームビルディングのイベントにも適しています。

宿泊のご予約は、1グループ20名様以上からとなります
宿泊キャンプは5歳以上であれば誰でも参加できます。
USSシルバーサイズは、最大72名の宿泊参加者を収容可能です。
USCGC McLaneはさらに38名まで収容可能です。

ご予約後10日以内に$200.00のデポジット
(返金・譲渡不可)をお支払いください。

宿泊のための最終デポジットは、実際の宿泊日の60日前
(60日以内に予約された場合は30日前)までにお支払いください。
最終手付金は、参加者数×宿泊料金から
200ドルの手付金を差し引いた金額となります。
ノーショーの場合、払い戻しや交換はできません。

価格と登録
金曜日~日曜日: $40.00
月曜日~木曜日: $35.00
20名様以上のご予約が必要です。

価格は1人1泊の料金で、食事は含まれません。


年に一度、70年以上前に任務を終えた後も、
この潜水艦が動くことを証明するために
モーターを始動する特別イベントも開催されています。



どうやら朝起きて解散らしく、甲板に子供と親がいたのは7時ごろ。
見ていたら、通りかかった貨物船に皆で手を振っていました。

こんな体験が実際の軍艦でできるなんて。
アメリカの子供が羨ましくなるのはこんな時です。


続く。



アメリア・イアハート(と上顎洞炎)〜スミソニアン航空博物館

2022-10-07 | 飛行家列伝

今日は久しぶりにスミソニアン航空宇宙博物館の展示をご紹介します。


国立航空宇宙博物館、通称スミソニアン博物館の航空界のレジェンド、
ミリタリーに対して一般の部の代表は以下の人々です。



リンドバーグ夫妻(夫婦でレジェンドってすごくない?)
ドーリトル、そしてアメリア・イアハート。

ちなみに、ここに挙げられているのは上段から下の通り。

アメリア・イアハート

ウィリアム・パイパー
(航空機メーカー、パイパーエアクラフト創業者)

ロバート・ゴダード
「ロケットの父」

ジミー・ドーリトル

ヘルマン・オーベルト(ドイツ)
ロケット工学者

チャールズ・リンドバーグ

コンスタンチン・ツィオルコフスキー(ロシア)

ロケット工学者「宇宙旅行の父」

クラレンス・ギルバート・テイラー
(初期の航空起業家 航空事故死)

アン・モロー・リンドバーグ

この中で、航空に詳しくなくとも写真だけで誰かわかるのは、
リンドバーグとアメリア・イアハートの二人でしょう。

今回は、スミソニアンの展示から、アメリア・イアハートを取り上げます。


■ アメリア・イアハートとロッキード・ヴェガ

スミソニアンには、彼女のトレードマークとなった真っ赤なヴェガが
そのまま展示されて実物を見ることができます。



「この飛行機で、アメリア・イアハートは二つの偉大な
航空記録を打ち立てました。
1932年の大西洋横断飛行とアメリカ大陸無着陸横断飛行で、
そのどちらもが女流飛行家としては初めての記録でした」

アメリア・イアハートってどんな人?

●当時最も有名だった飛行家の一人

●記録を打ち立てたパイロット

●航空業界のプロモーター

●メディア界のスター、セレブリティ

●女性にインスピレーションを与えるロールモデル

●永遠の謎の中心である悲劇の伝説のヒロイン

ロッキード5B ヴェガ

ヴェガはその後の偉大な航空機会社の一つとなった
ロッキードエアクロフトによって製造された最初のモデルです。

頑丈で、広い居住性を誇り、合理化されたシステム、高速で
革新的なヴェガは、速度、距離でさまざまな記録に挑戦していた
当時のパイロットたちに熱い支持を受けるようになりました。

イアハートは、1930年から1933年まで、
この真っ赤なヴェガを所有していました。

■ アメリア・イアハートのバイオグラフィ


アメリア・メアリー・イアハートは1897年カンザス州アチソン生まれ。

父親のエドウィン・イアハートは弁護士になろうとしていましたが、
元連邦判事で、アチソン貯蓄銀行の頭取であり、町の有力者という
母親の父は、当初娘とこの男性の結婚に賛成していなかったそうです。

一族の慣習により、2人の祖母の名前をとって
アメリア・メアリーと名付けられたイアハートですが、
そんな古き良き慣習を持つ家系でありながら、
母親は子供たちを「いい子」に育てようとは考えていなかったため、
例えば女の子がスカートを履くのが当たり前だった当時、
彼女ら姉妹は自由に動けるという理由でブルマーを穿かされていました。

祖母たちはもちろん孫のブルマーにはいたく不満だったようです。

【おてんばアメリア】


イアハート家の姉妹は冒険心いっぱいの幼少期を過ごしています。
毎日近所の探索に出かけて木に登り、ライフルでネズミを狩り
そりを「腹ばいにして」滑降して長時間遊び続けました。

まあ、この頃そういう幼少期を過ごす子供は珍しくもないと思いますが、
多くの伝記作家は幼いイヤーハートをおてんば娘と評したがるようです。

姉妹は「ミミズ、ガ、キリギリス、ヒキガエル」を飼い、
外出のたびにそのコレクションは増えていきました。

ある時彼女は、セントルイス旅行で見たジェットコースターを模して作り、
道具置き場の屋根にタラップを取り付けて、実験を行いました。

この「初飛行」はソリが破壊され、劇的な幕切れとなってしまいます。

しかし、彼女は唇に怪我をし、破れた服で、
ソリ代わりの壊れた木箱から「爽快な感覚」を味わいつつ、出るなり、

「ああ、ピッジ、まるで空を飛んでいるみたいだった!」

1907年、父親はロックアイランド鉄道の保険金支払担当者に転職したため、
家族はアイオワ州デモインに転勤したのですが、
ここで彼女は初めて複葉機を見ています。

父親が飛行機に興味を持たせるために載せようとしたのですが、
彼女はメリーゴーラウンドの方がいいと冷淡でした。

後に彼女は複葉機については

「錆びた針金と木のもので、全く面白くなかった」

としか思わなかったようです。
なんか思ってたのと違った、って感じだったのでしょうか。
飛行機に対してはそう過大な期待も持っていなかったようですね。


幸せな子供時代を過ごした彼女ですが、父親はアルコール依存症で
家計は困窮し、家と家財道具を売るまでになります。
そう言った家庭環境が影響したのか、彼女の高校の卒アルには、

「A.E・・・いつも一人で歩いている『茶色ばかり着ている子」

という、彼女の隠キャぶりが窺い知れる言葉が書き込まれています。

彼女は問題の多い子供時代を過ごしながも、決して自暴自棄にならず、
将来のキャリアについてはそれなりに夢を持っていました。

映画監督や制作、法律、広告、経営、機械工学など、
主に男性向けの分野で成功した女性について
新聞の切り抜きをスクラップブックにしていたということです。

【看護助手として】


第一次世界大戦が激化した頃、イヤハートは
帰還した傷病兵を目の当たりにして、赤十字で看護助手としての訓練を受け、
陸軍病院のヴォランタリー・エイド分遣隊で働き始めました。

仕事内容は、厨房で特別食の患者のために食事を用意したり、
病院の診療所で処方された薬を配るというものでしたが、
ここで彼女は将来を決定する大きな出来事に遭遇します。

帰還してきた軍のパイロットから話を聞き、
飛行に興味を持つようになるのです。


【スペイン風邪と上顎洞炎】

1918年にスペイン風邪が大流行した際、イヤハートは
陸軍病院での夜勤を含む過酷な看護業務のせいで、肺炎になり、
続いて上顎洞炎を経験しています。

ちょっと驚いたのは、何を隠そうこのわたしも、
歯性の上顎洞炎のため、帰国後に入院手術を予定しているってことです。


というか、皆様がこれを読んでいるときには、
手術が済んでいる頃となります。

今回、たまたまお中元のお礼の電話をかけてくれた知人の医師が
ほとんど同じ症状で今から病院に行くところだと聞き、
何たる偶然の一致、と驚いていたのですが、その後、まさか、
アメリア・イアハートと自分が同じ病気だったと知ることになろうとは。

彼女がこの症状を発症した原因は 1918年11月初旬にかかった肺炎でした。

発病から2ヶ月後の12月には退院したのですが、副鼻腔炎を併発してしまい、
片目の周りの痛みと圧迫感、鼻孔と喉からの多量の粘液排出を見ています。

わたしの場合は、昔の歯医者の歯根の治療がいい加減だったため、
上の奥歯の根の先が溶けて、と薄い骨一枚で隔てられている上顎洞に
虫歯菌というか細菌が入り込んで炎症を起こしたものです。

アメリアのように痛みや圧迫感はありませんでしたが、
ヨガなどしていて長時間俯いていると、粘液がつつーっと出てきて
鼻の奥の異臭に「あれ?」と違和感を感じだしたのがきっかけです。

手術を受けるに至ったきっかけは、足首のアザでした。

ある日、両足首外くるぶしの上に、綺麗にお揃いのアザができてしまい、
すわ、急性骨髄性白血病か?夏目雅子か?と調べてみたら、
副鼻腔炎で脚にアザができることがある、と書いている医師がいたのです。

念の為検査したところ、血液の方には異常がなかったので、
この大元はもしかしたら副鼻腔炎で、咽頭を通過して体に吸収された膿は
引力の法則で体液に混じって下の方に運ばれ、
足首にアザを作っているんではないかと自分なりに診断したわたしは、
(二人の医師に持論を展開してみたところ、それは違う!と言われましたが)
これは放置してはいかんだろう、とまず大学病院に行くことにしました。

手術の前に一応抗生物質を飲んで様子見したのですが、効かなかったので、
アメリカから帰ったら手術でバッサリやってしまうことにしたのです。

アメリアの場合は抗生物質がまだ普及していない時代だったので、
彼女は根治のため患部の上顎洞を洗浄する、痛みを伴う手術を受けています。

この頃の副鼻腔炎の手術がどんなものだったのかはわかりませんが、
わたしの予定している内視鏡による手術でも、入院は一週間と
かなり大変そうな感じなので、多分彼女はもっと辛かったと思います。

しかも彼女の手術は成功せず、頭痛はさらに悪化したそうです。

こののち彼女がいわゆるセレブリティ、時代の寵児になってからも、
慢性副鼻腔炎は後年の飛行や活動に大きな影響を与え、

「小さな『ドレインチューブ』を隠すために
頬に絆創膏を貼らなければならないことがあった」


と書いてあるのを見てひえええ〜と怯えました。

電話の医師も

「昔は外から穴をあける手術しかなかったんですよ」

とおっしゃってましたが、まさかパイプを頬から外に出していたとは・・。

辛かったねアメリア・・・。



■ 飛行機との出会い

イアハートは後年、

「私がコロンビアで経験した最初の冒険は、空中を飛ぶことだった。
図書館の最上階に登り、それから入り組んだトンネルの中に降りていった」

と自分と飛行機との出会いをこう語っています。

ある日イアハートは若い女性の友人と一緒に
トロントで開催されたカナダ国立博覧会の航空フェアを訪れました。

その日のハイライトは、第一次世界大戦のエースによるデモでしたが、
上空のパイロットは、人々から少し離れたところで見ていた
イヤハートと彼女の友人二人に向かって飛んできたといいます。

誰だかわかりませんが、彼はきっと自分に言い聞かせたのでしょう。

"Watch me make them scamper "
(あの娘たちがびっくりして逃げるのを見よう)

と。

パイロットも所詮は若い男性。
クラスの気になる女の子にきゃーと言わせたい的な、
子供っぽい悪戯ごころのなせることだったのに違いありません。

しかし飛行機がが近づいてきても、イヤーハートは動きませんでした。

「聞き取れなかったけれど、あの小さな赤い飛行機は、
通り過ぎる時、わたしに何か言っていたと思う」

彼は後年、自分が目をつけて脅かした若い女の子が
歴史に残る飛行家になったと知っていたでしょうか。


彼女は1919年にはスミス大学への入学を準備していましたが、
気が変わり、コロンビア大学の医学部などに入学しています。
どちらの大学もいくら当時でもそう簡単に行けるところではありません。
(スミスはリンドバーグ夫人となったアン・モローの大学です)

ところがわずか1年後、カリフォルニアの両親のもとへ行って
一緒に暮らすために、大学をやめてしまいました。

この即決ぶりは、よっぽど学校が肌に合わなかったんだろうな。


■『わたしは空を飛ばなければならない』

1920年12月28日、イアハートは父親とともに、
ロングビーチで行われたドーハ「エアリアル・ミーティング」に参加して、
そこで父親に体験飛行と飛行訓練について質問してもらい、早速翌日、
10分間で10ドルという体験飛行を予約しています。

この時彼女を乗せたパイロット、フランク・ホークスは、
イヤーハートの人生を永遠に変えることになる乗り物を彼女に与えました。

「飛行機が地上から60-90m離れたとき、
わたしは空を飛ばなければならないと思いました」

と彼女はのちにこの時のことをこう語っています。


 ネータ・スヌークとイアハート1921年頃

翌月、イヤーハートは女流飛行家、
ネータ・スヌークに飛行のレッスンを受け始めます。

それまでに写真家、トラック運転手、地元の電話会社の速記者など、
様々な仕事をしながら、飛行訓練のための1000ドルを貯めていました。

1921年、ロングビーチのキナーフィールドで最初のレッスンを受けたとき
スヌークは訓練に、復元した墜落事故機である
カーチスJN-4「カナック」を使用しました。

エアハートは飛行場に行くために、バスで終点まで行き、
そこから6kmの道をテクテク歩いて通っていました。

彼女は飛行を始めてから、 イメージチェンジのために、
他の女性飛行士がよくやっているスタイルを真似し髪も短く刈り上げました。

わずか6か月後の1921年の夏に、イアハートは、
まだ早いのでは、というスヌークの助言にも関わらず、
明るいクロームイエローのキナーエアスターの中古複葉機を購入し、
「カナリヤ」とあだ名を付けています。


初の単独着陸に成功した後、彼女は新しい革製の飛行コートを購入し、
早速飛行に着用しますが、新品なのでからかわれてしまったので、
コートを着て寝たり、航空機用オイルで染めたりして「熟成」させました。



ここにはそんなレザーコートの一つがありますが、
これが「アメリアが一緒に寝たコート」かどうかはわかっていないそうです。

アメリアはお洒落だったので、きっと革コートも
何着も持っていたはずですから。

裏地はツィードが張ってあります。

■ アメリア・イアハートという女性


子供たちにサインするアメリア

アメリア・イアハートは、全米各地で講演やインタビュー、
展示飛行を行い、航空や女性の社会的・政治的問題の普及に努めました。


彼女は、挑戦とインスピレーションを与える遺産を残しました。

彼女は必ずしも「最高の」パイロットではありませんでしたが、
必要に応じて再飛行や自己改革を行う勇気と意欲を持ち、
夫であり実業家ジョージ・パトナムの助けを借りて、広報活動を行いました。

また、講演、執筆、事業など多方面で活躍し、
「最も賞賛される女性」と言われることもあれば
「最も着飾った女性」のリストに常に名を連ねるなど、
その複雑な人物像は、彼女に永続的な人気を与えることになります。


彼女のキャリア、フェミニズム、人生、そして謎に満ちた死は、
数え切れないほどの本、記事、演劇、映画、エッセイ、広告キャンペーン、
特集の題材となって繰り返されています。

そう、私たちは彼女に何が起こったのか知りたいのです。

なぜか?

アメリア・イアハートがあえて人と違うことをした女性だったからでしょう。


続く。(と思う)




「サイレントパトロール」で語られる潜水艦「シルバーサイズ」

2022-10-05 | 軍艦

Torpedoed By USS Silversides (SS-236), The Japanese Ship "Johore Maru," Burns, Sinks, 10/43 (full)

ミシガン湖沿いに係留展示されている潜水艦「シルバーサイズ」。
その誕生から戦時哨戒14回を修了したところまで検証してきました。

ここであらためて動画を検索したところ、
「シルバーサイズ」がその第7回目の哨戒で、
浄宝縷丸(じょほうるまる 淨寶縷丸)南洋海運
に攻撃をし、それが爆発炎上する映像が見つかりました。

これは、「シルバーサイズ」艦上から撮影されたものです。
動画を撮影できる機材を潜水艦に持ち込んでいたことに、改めて驚きます。

■炎上イコール沈没?

「シルバーサイズ」に発見された時、「浄宝縷丸」はオ006船団として
「天安丸」「華山丸」など5隻の輸送船と航行していました。

この時、ラバウルを出港してきた「浄宝縷丸」は、
ガダルカナルで戦死した兵士の遺骨三千柱を搭載していたということです。

「浄宝縷丸」が受けた魚雷は一発だけでしたが、
動画ではそれが命中した後から始まっていて、追加の攻撃はありません。

これは後述しますが、潜水艦攻撃では割とよくあることで、
大体一発魚雷が当たると民間船は火災を起こし、爆発、
それから沈没となることが多かったので、「シルバーサイズ」は
撃沈の確認をするためだけにビデオを撮っていたと思われます。

動画を見る限り、後半で派手に爆発しているので、
このまま沈むのだろうなと思っていたら、結局そこで終わります。

結局、「シルバーサイズ」が去るまで「浄宝縷丸」は沈むことなく、
生存者が退船を済ませてから駆潜艇によって砲撃処分されました。

この場合は、「シルバーサイズ」側の記録では「撃破」となり、
「撃沈」という扱いにはならなかったものと思われます。


それにしても気になるのは船内に積まれていた遺骨の行方です。

総員退船まで猶予があったとしても、物理的に船員たちが
沈む船から三千柱の遺骨を持ち出すのは不可能だったはずですから。


ところで、この動画を紹介していたサイトによると、
「シルバーサイズ」の攻撃について、このような解説がされています。

「シルバーサイズ」は非常に「効果的な」潜水艦で、
主に日本のタンカーや輸送船を餌食にしました。

「シルバーサイズ」の乗員が撮影したビデオ、


「Torpedoed by USS Silversides (SS-236) (United States Navy)」

でも見ることができるように、彼女が沈めた船の多くは
潜水艦の攻撃によって火災を発生し燃え上がるという経緯をたどりました。

前述したように、「シルバーサイズ」が撃沈した船の多くは、
一度火がつくと、ほぼ間違いなくそのまま沈んでしまいました。
海上での火災は非常に消し止めることが難しいからです。

また、かつて「シルバーサイズ」の指揮を執ったことのある人物は、

「一旦攻撃によって致命的な損傷を与えたら、船は沈むに任せて放置し、
その間、もう次の目標の砲撃にかかっていることが多かった」

と話しています。

こういった場合の撃沈認定は、船が沈むのを見届けるまでもなく、
ほとんどは燃料に火がつくと必然的に起こる爆発によって確認されました。


■ 超”優秀艦”だった「シルバーサイズ」

潜水艦「シルバーサイズ」は、第二次世界大戦中、
その戦績においてトップクラスに入る成功した潜水艦でしたが、
「深海棲艦」であったがゆえに、就役中かなりの危機を経験しました。

「シルバーサイズ」の行動記録には、自艦からそれほど遠くない場所で
他の潜水艦が爆発していたことが、複数記録されています。

「シルバーサイズ」は、幸いにも、最後までその戦闘能力に
決定的な損傷を受けることなく、終戦まで生き残ることができました。

そして、その戦果の多さによって有名になりました。
これは第二次世界大戦の海軍の公式年表で簡単に見ることができます。

その優秀さは、第二次世界大戦中、潜水艦の挙げた記録44件のうち、
28件が「シルバーサイズ」の作ったものだった、という事実にも表れます。

■日本海軍潜水艦の戦法

危険な海域で自ら生き残りながら、相当数の敵艦を沈めたことが、
「シルバーサイズ」の評価となり、その名声を高めることになりました。

一方、日本海軍の取った、対アメリカ軍の潜水艦のための多数の方法、
その強力な方法の一つは、

「浮上している潜水艦を見つけ、認識される前に航空機爆撃する」

というものでした。

潜水艦はその構造上、素早く反応し潜ることができないので、
航空機から爆弾が投下されたことが分かった時にはもう遅いのです。
(その時敵に手を振って相手の虚をつき、誤魔化して逃げた、
板倉光馬艦長という人がいましたっけ。『敵機に帽を振れ』

もう一つの日本海軍が行った潜水艦破壊の方法は、
機雷原をうまく利用することでした。

これに飛行機による爆撃を組み合わせるのは大変有効な方法で、
実際、USS「シルバーサイズ」の姉妹船、
USS「ワフー」S S 228 Wahoo
は、日本軍の用いたこの戦法によって、日本海に沈むことになりました。
ワフーの最後

一般に日本軍は対潜戦に潜水艦を使う攻撃を好みませんでした。

このことは、当ブログでも、映画の解説ついでに書いたことがあります。
大西洋でのアメリカの潜水艦とUボートの海中での一騎打ちはなかった、
という史実についての説明でしたが、日米潜水艦の間の戦闘も、
ほぼ同じような理屈であまり行われなかったと言われます。

その理由は、まず、潜水艦同士だと、
敵からの反撃がすぐさま返ってくること。
一方、その逆説のようですが、

潜水中の潜水艦を、別の深度から潜水艦が攻撃するのは難しく危険

というのが、世界の潜水艦業界の常識?だったからです。

結局、日本海軍は、敵潜水艦を排除するための第4の方法として、
最も効果的な深度爆雷(デプスチャージ)を取りました。
(もちろんこのことは日本海軍の専売特許ではありませんが)

深度爆雷とは、通常駆逐艦が投下する機雷のことで、
一定の深さに到達すると爆発するように設定されています。

爆雷の爆発による威力は水圧によって大きく倍加され、
潜水艦周囲のエアポケットに集中するため、非常に危険なものとなります。
つまり、爆雷を直接艦体に当てる必要はなく、
潜水艦の近くで爆発させるだけで沈めることができるのです。


■ アメリカ軍が恐れた人間魚雷「回天」

「シルバーサイズ」は強力な艦でしたが、日本海軍の潜水艦艦隊は、
世界で最も多様性に富み、強力と言われていました。

第二次世界大戦という戦争では、ある意味、どちらもが
最高の潜水艦を競うのにふさわしい相手であると任じていましたが、
日本海軍にはアメリカには真似のできない方法があったからです。

このサイトには、日本の潜水艦と戦った「シルバーサイズ」の
弱点がこのように明言されているのです。

率直に言って「シルバーサイズ」の弱点は
「回天」を持っていなかったことである。

以下その説明です。


日本のC1型潜水艦は、「回天」魚雷を装備していた。
「回天」は、一人の人間が自らを犠牲にして、
目標まで操縦する大型の有人魚雷である。

combinedfleet.comによると、
「回天」クラス魚雷は、セオドア・クックによって、

『艦というよりも、非常に大きな魚雷に人間を挿入したようなもの』

と評された。

これらの魚雷は通常通りに武装され、人間が魚雷をリダイレクトして、
ターゲットに当たる確率を大幅に増加させることができるものであった。

これらの魚雷は、本質的に
水中の神風パイロットであり、
命中率を高めるために自滅を余儀なくされるものであった。

回天魚雷は、複数の米艦をに沈めることにおいて
残酷なほど効果的であった。
魚雷に人を乗せるという倫理的な懸念はあったが、効果は絶大。


「シルバーサイズ」はこの自己目標魚雷を持たなかったために
不利な状況に置かれたということもできる。


弱点というか・・・・もしかしたらこれ、嫌味ですか?
と思ってみたりするのですが、決してこのサイトには揶揄の調子はなく、
むしろ、「回天」の武器としての有効性については称賛するかの勢いです。

戦後、アメリカ海軍の艦艇乗組の指揮官が、
日本との戦闘で、最も警戒すべきかつ心理的恐怖を与えられたのは
「回天」だった、と語っていたことを今ふと思い出しました。

続きを見ていきましょう。

日本軍の乗組員はまた、その点非常に献身的であった。

日本社会では歴史的に名誉が非常に重要であり、
それは第二次世界大戦でも大いに発揮された。

日本人の乗組員たちは、自分たちの名誉のためであれば、
どんなことでもやるというのが一般的だった。

だから回天は強力だったのだ。

回天に乗る者は、大日本帝国のために命を捧げることこそが
大きな名誉であると信じていたのだ。


「回天」の誕生に関わる数々の逸話、そこにいた若者たち、
その生と死に直面した時の彼らの覚悟と残したもの・・。

心ある日本人であれば、彼らがただ単に自分の名誉のために
狂信的な考えに取り憑かれ喜んで死んでいったわけではないと知っています。

しかし、それはそれとして、その、私を捨て去り、
公に殉じた自爆攻撃が、相手を震え上がらせた事実は動かせません。

ここは素直に、「回天」が戦法として承認されていると考えましょう。
だからと言ってアメリカ人がこれを賞賛しているとは限りませんが。


「シルバーサイズ」のもう一つの欠点は、航続距離であった。

C1級潜水艦が14000海里というかなりの航続距離を誇っていたのに対し、
「シルバーサイズ」は補給なしでは11000海里ほどしか進めない。

一般的に潜水艦は、沿岸ならば、過ごす時間が短ければ短いほど
敵艦に潜水艦の位置を知られにくく、逆に
航続距離は、長ければ長いほど有利となります。

航続距離の短い艦は遠くまで移動できないため、
一度の索敵で位置を推測される可能性が高くなるからです。

このように、USS「シルバーサイズ」は、日本のC1級潜水艦と比較して、
明らかにいくつかの欠点もあったのです。

■ 「シルバーサイズ」の長所


シカゴに寄稿した「シルバーサイズ」

【小型が生む海中での静音性】

「シルバーサイズ」の大きな強みは、水中での移動能力でした。
海軍歴史遺産コマンドによると、この艦の水中変位は2,424トン

同規模の日本の潜水艦C1の水中排水量3,561トンよりかなり少なく、
つまり「シルバーサイズ」は、水中で占めるスペースが小さいので、
機雷や魚雷が当たりにくく、攻撃するのがより困難とされました。

日本の船、特に「C-1」級潜水艦は非常に大きいので、
発見されれば簡単に標的にされてしまいますし、
その大きな船体は、まず、音を反射しない小型の潜水艦よりも
ソナーで簡単に位置を特定されてしまいがちです。

ちなみにここでの「C-1級」とは、伊号16級と同義であり、
「伊16」「伊18」「伊20」「伊22」「伊24」等を指します。

「シルバーサイズ」の強みは、裏返すとC1級潜水艦の欠点でもあります。

C1級潜水艦の第二の欠点、それは艦体が大きいので、同じ速度を出すのにも、
小さな艦体よりはるかに多くの馬力が必要であることです。

「シルバーサイズ」もC1級も、潜航速度は8ノット程度でしたが、
「シルバーサイズ」の小型の艦体でこの速度に達するには、
より少ないトルクで事足りました。

「シルバーサイズ」が8ノットに達するためにはの11,800馬力とすれば、
日本のC1潜水艦では同じノット数に対して12,400馬力が必要です。

今更ですが、馬力を上げるためには、モーターのスピードを上げて
プロペラをより速く回転させる必要があるため、その結果、
必然的により多くの騒音が発生することになってしまいます。

この大きさの違い=静音性により、「シルバーサイズ」は
伊号より攻撃されにくく、したがって若干の優位性を持っていたのです。


【機雷の使用】

また、USS「シルバーサイズ」の日誌によると、
自前の機雷を使って敵船を沈めたという記録が散見されます。

機雷は、設置されている場所への敵のアクセスを、触雷への恐怖から
それだけで封じることができる非常に強力なツールです。

日本海軍は機雷敷設艦が別に存在していたため、
C1級潜水艦は機雷設備を備えていませんでした。

もちろん潜水艦が機雷を備えていたからといって、
一対一の戦闘で役に立つことはありませんが、重要な航行区域に、
前もって機雷を敷設する能力は、いざという時それなりに有利だったのです。


【乗員の練度(民族性含む)】

乗組員の質を考慮に入れずに両潜水艦を効果的に比較することはできません。

「シルバーサイズ」の乗組員は慎重かつ正確で、
魚雷の発射を見逃すことは滅多にありませんでした。

日本海軍の乗員がその能力を欠いていたということはありませんが、
彼らがあまねく備えていた、何があっても降伏しないという
非常に強い名誉意識は、しばしば、彼らの潜水艦を
自ら沈めてしまう傾向にあったということは否定できません。

アメリカの乗組員は「生き残ること」に常に慎重で、
そのためにリスクを極力回避することを優先する傾向にあり、
このことが結果的により多くの任務を遂行することにつながりましたが、
何かとアグレッシブな日本の乗員たちは、任務を遂行する際、
その安全度より優先度の高い目標を選択した結果、
生き残れない場面が多々あったというのです。

もう少し言うと、名誉を何より重んじるという教義に自縛されていた彼らは、
何があっても命令を遂行することを優先しすぎた結果、機会を逃したり、
危険な状況に自らを破滅させることがあった、という意味です。



まとめると。

「シルバーサイズ」はステルス性と安全性で優位に立ち、
C1型日本潜水艦は火力と潜航能力で優位に立っていました。


各艦の長所と短所を比較すると、かなり拮抗しており、もし両者が
ガチの戦闘を行ったとしたら、決定的な勝敗はつかなかったでしょう。

その勝敗を決めるのはただ、「運」の一言に尽きます。
どちらが先に魚雷を発射できるか、運だけがそれを左右するのです。



■ 映画で観る「シルバーサイズ」物語

今日の最後に、とっておきのショートムービー、
「シルバーサイズ・ストーリー」をご覧ください。

これは、戦後アメリカで放映されていた、
「サイレント・パトロール」というテレビ番組のために制作されたもので、
退役した元提督(レギュラートーマス・ダイカーズ少将)が司会を務め、
第二次世界大戦中の有名な潜水艦を取り上げて、
俳優を使った映画風ストーリー仕立てでその足跡を紹介します。
潜水艦の戦時活動と、彼らが「いかに戦ったか」を広報する目的でした。

最後には必ず当時まだ現役だった指揮官などが呼ばれ、
実際にその時のことを言葉少なに語るという視聴者サービスもあります。

この映像におけるタイムラインを書き出しておきましたので、
ぜひ我慢して?飛ばしながらでも最後までご覧になってください。

わたしがこのブログで順を追ってお話ししたことが
映像で網羅されているのでおすすめです。

出演:マイク・ハービン、レーン(語り手的な主人公)、
バーリンゲーム艦長、ダヴェンポート副長、プラター
(全員を役者が演じている)


USS Silversides 'The Silversides Story'

1:21
「シルバーサイズ」出港前、乗り込む水兵たちの会話
ハービン水兵が「ラッキーブッダ」を持ち込み、皆がバカにする

6:47〜
初戦闘、日本海軍の潜水艦(本物)内部が映る
「シルバーサイズ」に一発で撃沈される

8:23
日本貨物船を魚雷攻撃、爆発沈没
「妙義丸」の船名、海に漂う日本人船員の遺体が映る

9:32
武装漁船(さっきと同じ海軍士官が映る)との戦い
マイク・ハービン水兵銃撃によって戦死

14:30
爆雷に耐えている時、プラターが盲腸で苦しみ出す

15:38
ファーマシスト「ドク」、俺が手術するよ!と力一杯宣言

16:28
手術開始

18:57
魚雷攻撃していたら6本目が詰まって出ないのに気づく
上から爆雷がジャンジャン来てピーンチ

21:44
チーフが魚雷を排出するため発射室に残る「決死隊」を募集、
定員3人に対し全員が手を挙げる
ブッダのお腹を撫でて魚雷排出成功
一同ホッとして笑い合う

23:47
映像は終わり、ゲストのクリード・バーリンゲーム少将登場

最後の、司会とバーリンゲーム少将の会話を翻訳してみました。

「クリード、見た限り、
シルバーサイズの哨戒には一瞬の退屈もなかったようですね」

「物事を色々やらかす人が集まってたんでしょうね」

「その通りですが、色々やりすぎというか、

盛り込みすぎな場面もあったように思えます」

「と言いますと?」

「プラターの手術だけでも大変なのに、そこに爆雷が降ってきて、
魚雷が詰まって、結局どれも無事に切り抜けてしまうとは」

「そうですね。多分あなたのいう通りです。

魚雷がチューブに詰まること自体、もし他の艦長だったら
この事態を(他の方法で)クリアできたかもしれないし、
この深刻な事態に対処できたかもしれない。

ただ、我々はその時爆雷の攻撃を受けていましたからね。
その時弾頭が爆発しなかったのは幸運だったとしか言えません」

「事実、それらを実行決断するあなたの才能は、
『シルバーサイズ』の大きな遺産となり、

その成績は傑出したものになりました」

「はい、すべての潜水艦の中で、撃沈成績は3位となりました」

「本当に素晴らしい艦でした。
あなたと、あなたを補佐したジャック・コイ大佐には、
おめでとうございますと言わなければなりません」

「しかし、我々の乗員の
偉大な協力があってのことだと
忘れてはいけないと思います」

「この先ずっと、そのことに誰も異論はないでしょう。
今日はどうもありがとう、クリード」

「ありがとうございました」

司会者とものすごく近くに座っているのに、
全く目を合わさずセリフを棒読みしているバーリンゲーム少将・・。


ちなみに、繰り返しになりますが、爆雷下での盲腸手術について、
前述の潜水艦サイトではこう書かれています。

また、「シルバーサイズ」は緊急手術の場となったことで有名である。

第3次哨戒中、ジョージ・プラターは虫垂切除手術が必要となったが、
問題は医師が乗艦しておらず、当時「シルバーサイズ」は
安全に立ち寄れる港の範囲内にいなかったことだった。

結局、汚れのないスチール製の食事テーブルの上で、
本来は救急隊員が担当する手術を行うことになった。

手術がより安定した環境で行われるように、クルーは部屋を徹底的に掃除し、

「シルバーサイズ」は揺れを少なくするために水中に先行した。

麻酔に難があったものの、手術は成功し、
「シルバーサイズ」が港に到着すると、そのニュースはすぐに広まった。


手術した人(右)とされた人



当時の新聞でも大きく報じられました。


続く。


潜水艦「シルバーサイズ」最後の哨戒

2022-10-03 | 軍艦

さて、ニコルズ艦長の指揮下で、案外無事に12回目の哨戒をこなした、
第二次世界大戦中の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」。

前回、ふとしたきっかけから、「シルバーサイズ」の、
歴代艦長と副長のその後の華々しい軍歴に話が及んでしまいました。

今日は改めて、第13次哨戒から検証します。


■ 第13次哨戒1945年3月9日〜4月29日

🇺🇸
13回目の哨戒で、「シルバーサイズ」は
「ハックルバック」(SS-295)、「スレッドフィン」(SS-410)

と共に九州沖を哨戒し、連携攻撃群の一員となった。

🇯🇵
3月9日
「シルバーサイズ」は13回目の哨戒で
「スレッドフィン」 (USS Threadfin, SS-410)
「ハックルバック 」(USS Hackleback, SS-295) と
ウルフパックを構成し日本近海に向かった。


僚艦2隻とウルフパックを組んだということになります。
「シルバーサイズ」行動調書の13回哨戒プロローグは次の通り。

「シルバーサイズ」は1945年2月12日にミッドウェイで12回目哨戒を完了。
通常の改装は、USS「エーギル」(Aegir)と潜水艦部門241が担当した。



Aegirはeagreというスペルもあり、
「潮の流れが原因で起こる高波」という意味を持ちます。
「エーギル」なのか「イージア」なのか読み方はわかりませんが、
潜水艦テンダー、つまり潜水母艦です。

潜水母艦は、前進根拠地や泊地などにおいて潜水艦を接舷させ、
食料、燃料、魚雷その他物資の補給を行う役目を持ちます。
「イージア」(エーギルかも)がそうだったように、
補給だけでなく修理・整備能力を持つものもあります。

ミッドウェイでは本格的な設備がないので、
「エーギル」(イージア)と現地の部門で改装を行いました。

改装した部分は右舷サウンドヘッドの更新

SJAレーダートランスミッターを新しいユニットに変える


耐圧外殻を通す全ての回路に、
ドレインホールを備えた追加のジャンクションボックスを設置する


燃料バラストタンクベントバルブの上に
ワイヤースクリーンケージとデッキハッチを設置


前方燃料油充填接続の取り外し

JPソナーマウントの解放の防止


ダミーログとして使用するためのピットログへの変更


チューブ・ポペットバルブのトリップ機構にローラーを取り付け
艦内の排気管機ターミナルを撤去


一応翻訳してみましたが、なんのことかさっぱりです。
なんとなく雰囲気だけでもお伝えするために、書いておきました。
改装は二週間ほどで完成しています。

改装後、士官と乗員は艦に戻り、2月27日2月2日、
全ての装置、音響設備のテストを実施し、潜水、
演習魚雷6発を発射するなどの訓練を行いました。

次の士官は修理及び訓練期間中に離職しました。

CF・リー中佐(USN) 副長兼航海長
CC・エイデル予備大尉(USNR) 機関長
WJ・ツェウィンスキー少尉(USN) 砲雷長

次の士官はこの期間の乗艦が記録されます。

 中佐 WC・ヴィックレーJr. (USN)
予備大尉 LLT・アレン(USNR)
少尉 LJR・ハモンド(USN)

面白いのは、転勤した機関長が予備大尉であり、
新しい機関長もまた同じ予備大尉であることです。

機関士官は、特により専門的な知識を必要とするため、
大学で工学などを専門に学んだ予備士官が充填されたのかもしれません。


🇯🇵
4月6日夜
潜水艦USS「スレッドフィン」が探知した、
戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊(伊藤整一中将)を、
情報に基づいて捜索したが見つけられず、都井岬方面に引き返した。


通信を受けた時には大物の捕物に関われるチャンス!と盛り上がったのに、
結局空振りとなって、さぞがっかりしたことでしょう。

この部分、「シルバーサイズ」行動日誌からです。

0525 都井岬沖で日中哨戒のため潜水
0900 数隻の漁船を南西で視認
1028 正体不明の単発エンジン偵察爆撃機北方コース上空
1125 210−245に漁船数隻
1727ー1923 いくつかのはっきりした爆発音が東方から聞こえる、明瞭
1955 海面に浮上、コース艦首方向に設定
2130 「スレッドフィン」からの内容報告を受信、
敵の位置、進路、速度を表す内容
速度を最大に上げコースを変更
(略)
SJが正常に作用していないと確信する。
サンドスウィープのために遅くなる。コンタクトなし。

現在の機機動部隊は今夜浮上した地点、
ヴァン・ディーメン海峡方面に向かっている。


現在FOXのスケジュールで多くのコンタクトを取得しているが、
全ては時間が経過した情報なので、我々の手の及ばないところにある。

一部の報告は不明瞭なため、位置が特定できなかった。


こっちは一生懸命やりましたが、「スレッドフィン」の報告が不明瞭で、
そのため、機動部隊に近づくことはできませんでしたよと。

そう言いたいわけだな?

🇯🇵
4月11日深夜
北緯30度45分 東経131度57分の種子島近海で
特設監視艇「白鳥丸」(愛知県、269トン)に魚雷を3本発射したが回避され、
さらに4本発射し1本を命中させて撃沈。


「シルバーサイズ」の方では、この相手を

「ゴールポスト2つ、煙突ひとつの2,000トン小型貨物船」
ついでに
「タイプD ・シュガー・チャーリー・ラブ」
(Type D: Sugar Charlie Love)
と識別しています。

「シュガー・チャーリー・ラブ」ってなんですか?と思って調べたら、
戦争中アメリカが、日本の民間船につけていた認識名でした。


肝心のタイプDの船体の絵がありませんご容赦ください


「シルバーサイズ」日誌によると、
このシュガーチャーリーラブに2300に魚雷発射し、失敗。

翌日0012に2本目を発射、爆発音を聞き、内部で爆発したらしく、
すぐに沈没を始めたことが確認されたようです

🇯🇵
4月19日
北緯32度57分 東経145度03分の小笠原諸島海域で
特設監視艇「海龍丸」(大澤半兵衛、180トン)を砲撃により破壊した

「海龍丸」についての撃沈記録は、
「シルバーサイズ」日誌によると以下の通り。

「艦首から4基の魚雷を発射。震度3フィート、
レーダーレンジとTBTベアリングを夜間水上攻撃にセット。
発射前のソリューションはTDCとプロットによって完全にチェックされた。

最初の魚雷、ヒット。
ターゲットは爆破されて沈没。

命中部分は船体中央部わずか後方の位置。
深度のために1.1節のスピード補正を使用した」

アメリカ側の記述によると、簡単に、

🇺🇸
この時も価値のある目標はほとんど見つからなかったが、
4月29日に真珠湾に戻る前に、大型貨物船に損傷を与え、
トロール船を沈めることに成功した。


撃沈させられた船が2隻もあるというのに、
「価値ある目標はほとんど見つからなかった」
とはご挨拶ですなあ。(嫌味)


■ 第14次哨戒 1945年5月30日〜7月30日

さて、名実ともにこれが「シルバーサイズ」最後の哨戒となりました。



ニコルズ艦長になってから、ほぼ同じ海域に3回出動し、
ほぼ同じ地域での哨戒となっていたわけですが、
第14次哨戒は、真珠湾からサイパン、紀伊水道と四国の下側を哨戒し、
そこからサイパンに戻ったところで終了しています。

その理由は、7月30日に第14次哨戒を終了し、
サイパンで次の哨戒の準備をしていたら、終戦になってしまったからです。

それでは、最後の2ヶ月、彼女はどのような活動を行ったのでしょうか。

この時期、日本はもうほぼ海運手段を破壊され尽くしており、
(そもそも聯合艦隊すら消滅していたという状態だったので)
潜水艦の哨戒任務は通商破壊ではなくなっていました。
むしろ、今後のことを考えたアメリカ首脳部によって、
民間船舶の攻撃は禁じられていた頃です。

そこで、哨戒と言いつつ、潜水艦は、本土空襲の支援で、
海上に撃墜されたパイロットの救出を行ったり、
機雷の処分といった補助作業に終始していました。

哨戒中「シルバーサイズ」が救出したパイロットは二人。
この時のことは、行動日誌に以下のように記されています。

7月22日

0430 USS「スキャバード・フィッシュ」の通信をキャッチ。
(『スキャバード・フィッシュ』はこの時7名のパイロットを救出している)

0544 ピート(ゼロ式観測機)を視認。

1030 ピート、『S(?)tono岬』近くの航空基地に着陸

1243 B-29数機、ムスタング戦闘機を視認する

1415 ボーイング戦闘機が激しく攻撃を受けているという通信を受ける

1418 パイロットが機体よりベイルアウトするのを視認。
その直後、機体は海にダイブしてクラッシュ。
パイロットの救出に落下地点に直ちに急行する。
イマージェンシー・スピード。

1434 
パイロットを救出、

ジェームズ・E・〇〇NKIE中尉
陸軍認識番号0-829861 、USAAF。

少々の外傷と打身の痕を除き、外見は問題なし。
救命ボートは壊れて沈んだとのこと。

(その後ライフガードステーションに搬送)

7月24日

1238 パイロットが沖ノ島近海で救助要請という通信を傍受
救出に向かう

1430 乗っていた飛行機はもう沈んでおり、
パイロットは海上で我々の救出を待っている状態と連絡あり

1435 V.●URTOH大尉、125053 USNRを救出
USS「インディペンデンス」艦載機乗組。
健康上の問題なし。


パイロットの名前が悉く伏字になっていますが、
別に彼らの個人情報に配慮したというわけではありません。

この頃の日誌を清書した時のタイプライターのインクカートリッジが
切れかかっていて、インクが薄くて字がかすれて読めないのです。

パイロットの名前だけでなく、至る所文字を解読するのに苦労しました。
いくら哨戒中でも、インクのカートリッジはちゃんと取り替えて欲しいです。

🇯🇵
7月14日
北緯33度57分06秒 東経136度21分02秒の地点で
450トン級トロール船に対して魚雷を2本発射したが命中せず、
この哨戒唯一の攻撃は成功しなかった。

このことは行動日誌にこう記されます。

攻撃タイプ:晴天、波穏やか、白波立たず。中位のうねり。
ターゲットは潜望鏡によって補足される。
ジグザグ航行はしていないが、前進全速で航行中。

魚雷を深度6フィートにセット。
ターゲット、魚雷発射に対して警報なし。

魚雷は普通にターゲットの下方を通過、
ターゲットは木造で選手と船尾が丸みを帯びており、
上部構造物の側面に191の文字が描かれているように見えた。

船は100度の曲線の外にあり、
ダイオウサキからミキサキ?までのコースで
高速で海岸線を下っていった。


再び接近して攻撃することは不可能であった。

トルネード管の故障は、インターロック・システムの
「発射準備」レバーを上げることができなかったために起こった。
このチューブの発射を試みた。
このため、次回の改装時に調査する予定である。


魚雷がうまく発射できなかったのは、
レバーを上げることができず、故障してしまったからです、

という言い訳でよろしいか。

ともあれ、この哨戒唯一の失敗した魚雷発射が、
第二次世界大戦の強豪艦「シルバーサイズ」の最後の攻撃となりました。

 PEACE!(終戦)



ところで冒頭のこの写真は、「シルバーサイズ」が
第14次哨戒を終えて、サイパンではなくグアムにいたとき、
日本が降伏するという知らせを受けてのち撮られた記念写真です。

終戦となって初めて撮られた写真というのに、
写っている人の誰一人、笑っていないのが不思議です。

全員で戸惑っているんでしょうか。
まだ実感がないのか、それとも気が抜けたのか。

ピース!

14回目のパトロールを終えたわたしたちは、
グアムに創設された新しい潜水艦基地でのんびりしていました。

わたしたちの任務はそれまでと変わり、人命救助になっていました。

既に壊滅状態だった補給船の攻撃はむしろ禁じられることになり
その代わりに、墜落した機体のパイロットを救出するのです。

今回の任務でも帰還までに二人を救出した「シルバーサイズ」は
15回目の紹介に向けて修理が行われていました。

乗員たちは誰もが、日本本土への上陸について話していました。

ヨーロッパで疲弊した連合軍の部隊は、
「最後の一押し」のために太平洋に送り込まれていました。

その時、広島が一発の閃光の元に消え去り、
数日後には長崎も同じ運命が訪れました。

日本はついに陥落し、わたしたちは家に帰ることになったのです。




そして、帰還の時の記念写真。

「潜水艦勤務に伴う興味深い『副作用』のひとつ、
それは『髭コンテスト実施』でした」




そして、ニコルズ中佐の件で一度アップしたこの写真ですが、
その節は失礼しました。間違いでした。
これは哨戒前の壮行会の写真ではなく、このパネルによると、

「戦争が終わり、『シルバーサイズ』が退役することになったので、
その『デコミッショニング・パーティ』をした時のもの」


あったことがわかりました。

最後の方は老体に鞭打って働いていた感のある「シルバーサイズ」ですが、
戦争も終わったことなのでもうお役目ごめんとなったのです。

本来ならばスクラップになって次の軍艦に生まれ変わるところですが、
彼女は違いました。

「彼女が残した偉大な記録は、彼女を廃棄から救い、
訓練艦としてもう一働きするためにシカゴに曳航されていきました」

さて、次回ですが、ここでまとめの一つとして、
「シルバーサイズ」の評価と日本の潜水艦との比較を行います。




続く。




「シルバーサイズ」二人の艦長と一人の副長

2022-10-01 | 海軍人物伝

ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている
第二次世界大戦次の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」。
その哨戒活動を研究する試みも、いよいよ最後となりました。

謎の艦長ジョン・ニコルズ中佐の指揮のもと、第12次哨戒で
当事者は確認できぬまま、陸軍輸送船だった「馬来丸」を撃沈していた、
ということを前回検証しましたので、今回は、前回とほぼ同じコースで
哨戒活動を行った、第13次哨戒からです。

しかしながら、またもやちょっとした資料を見つけてしまったので、
まず、これまでにも登場した「シルバーサイズ」初代艦長、
バーリンゲーム中佐と、コイ中佐について、その軍歴を記すことにします。

■ クリード・カードウェル・バーリンゲーム少将


1941年12月15日、メア・アイランドで行われた
「シルバーサイズ」の就役式に出席したバーリンゲーム中佐

Creed Cardwell Burlingame
 (February 27, 1905 – October 21, 1985)
 Rear Admiral in the United States Navy

ニックネーム  バーリー
1905年2月27日生まれ
ケンタッキー州ルイビル
1985年10月21日没(享年80歳)
アーリントン国立墓地にて埋葬
所属・支部 米国海軍
在籍年数 1927-1957
階級 少将
担当コマンド USS Roanoke
潜水艦部門 182
USS「シルバーサイズ」
USS S-30
USS S-36

賞 海軍十字章 (3)
シルバースター (2)
レジオン・オブ・メリット

1927年6月、海軍兵学校卒業
戦艦USS「ユタ」乗組
1930年にコネチカット州ニューロンドンの潜水艦学校を卒業

1936〜1939 USS 「S-36」艦長
1939〜1940 ニューロンドン潜水艦基地
1940〜1941 USS 「S-30」艦長
1941年12月15日〜1943年7月20日 USS「シルバーサイズ」艤装、艦長


ここまでが「シルバーサイズ」艦長までの軍歴です。
「シルバーサイズ」指揮については以下の通り。

一応アメリカ海軍公式の記録となります。

潜水艦 USS「シルバーサイズ」(236)

1942年4月4日
試運転と初期訓練を終え、真珠湾に到着した。

1942年4月30日
第1回哨戒のため真珠湾を出発した。
日本本国海域の紀伊水道沖の哨戒を命じられる。

1942年5月7日(位置33.14、150.58)
マーカス島の北約540海里、北緯33度14分、東経150度58分で、
警備船第五戎丸に砲撃を加えて損害を与えた。

1942年5月17日 (位置 33.28, 135.33)
本州南部、潮岬沖で、
兵員輸送船鳥取丸 (5973 GRT) と
商船テームズ丸 (5871 GRT) に魚雷を撃ち、損害
を与えた。

1942年5月22日(位置33.30、135.27)
紀伊水道の河口、一夜崎と潮岬の間、33°30'N、135°27'E位置で
輸送船旭山丸(4551 GRT)を魚雷攻撃し、損傷させた。

1942年6月21日
真珠湾にて第1次哨戒を終了。

1942年7月15日
第2次哨戒のためパールハーバーを出発した。
再び日本本土の紀伊水道沖の哨戒を命じられた。

1942年8月8日(位置33.33、135.23)
北緯33度33分、東経135度23分の一夜崎付近、紀伊水道で
商船日経丸 (5783 GRT) を魚雷で沈没させた。

1942年8月31日 (位置 33.51, 149.39)
北緯33°51'、東経149°39'の太平洋北部で、
漁船2隻を砲撃で沈める

1942年9月8日
真珠湾にて第2次哨戒を終了した。

1942年10月3日
第3回目のパトロールのため真珠湾を出発した。
カロリン諸島方面への哨戒を命じられる。

1942年11月25日
オーストラリアのブリスベンで第3次哨戒活動を終了した。

1942年12月17日
第4次哨戒のためブリスベンを出発した。
ニューアイルランド沖の哨戒を命じられる。

1943年1月18日 (位置6.19、150.15)
トラック南西約90海里、北緯06度19分、東経150度15分の位置で
タンカー東栄丸 (10022 GRT, offsite link) を魚雷で沈め、轟沈させた。

1943年1月20日 (位置 3.52, 153.26)
北緯03度52分、東経153度26分の位置で、
トラックの南約290海里の日本軍輸
送船明王丸 (8230 GRT)、
スラバヤ丸 (4391 GRT) とシンデン丸 (5148 GRT) を魚雷で沈没
させた。

1943年1月31日
パールハーバーにて第4次哨戒を終了。

1943年5月17日
オーバーホールの後、第5次哨戒のためパールハーバーを出発した。
ソロモン諸島方面での哨戒を命じられる。

1943年6月4日
ニューハノーバー、ニューアイルランド間ステファン海峡に機雷を敷設する。

1943年6月10日 (位置 2.43, 152.00)
北緯02度43分、東経152度00分、ニューアイルランド北部で
輸送船日の出丸 (5256 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1943年7月15日 (位置 -2.36, 150.34)
軽巡洋艦長良は、南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖で触雷
(1943年6月4日に「シルバーサイズ」または
オーストラリアのカタリナ飛行船が設置した可能性)により損害を受ける。

1943年7月16日
ブリスベンでの第5回哨戒を終了した。


「乗員」が自慢していたように、バーリンゲーム中佐は、その後、

1943〜1945年 潜水艦第10082師団長
1944〜1945年1月 潜水艦第18戦隊司令官代理

と、潜水艦隊で出世していっていますが、それは戦争中の
「シルバーサイズ」の哨戒を成功させたからに他なりません。

公式な記録として残されているその戦績は、

5回の哨戒で、8隻の敵艦、合計44,000トンを撃沈

となっています。

バーリンゲーム艦長指揮下で、艦と乗組員は大統領表彰を受け、艦長として
2つのシルバースターと3つの海軍十字勲章を獲得しています。


第二次世界大戦後、もバーリンゲームは海軍でのキャリアを歩み、
1957年に退役すると同時に少将の階級となりました。


■ ジョン・スター・『ジャック』・コイ少将



John S. Coye Jr.
(April 24, 1911-November 26, 2002)
 Rear Adm. in USN 

次に、やはり少将にまでなったというコイJr.についてです。

二次世界大戦中、潜水艦U.S.S.「シルバーサイズ」艦長として
6回の哨戒を行い、それに対して各種勲章を受けた海軍士官とされます。

「シルバーサイズ」艦長として記録されている軍歴は以下の通り。

潜水艦 USS「シルバーサイズ」(236)

1943年7月21日
第6回目の哨戒のためにブリスベンを出発した。
ソロモン諸島とカロリン諸島の間の哨戒を命じられた。

1943年8月5日(位置1.53、153.52)
ラバウルの北北東、01°53'N, 153°52'E の位置で
機雷船ツガルに魚雷で損傷を与える。

1943年9月4日
ブリスベンでの第6回哨戒を終了した。

1943年9月16日 (位置 -2.36, 150.34)
補助砲艦「セイカイ丸」(2693GRT)触雷沈没。
南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖に
「シルバーサイズ」が1943年6月4日、設置したもの。

1943年10月2日 (位置 -2.36, 150.34)

Kavieng沖の02°36'S, 150°34'Eの位置で日本の
掃海艇W-28触雷損害
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

1943年10月5日
第7回目の哨戒のためにブリスベンを出発した。
ソロモン諸島/ニューギニア方面の哨戒を命じられる。

1943年10月18日(位置1.00、143.16)
ニューギニアのWewakの北、北緯01度00分、東経143度16分の位置で
貨物船Tタイリンマル(1915 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1943年10月23日 (位置2.30, 144.45)
ビスマルク群島の北西で
タンカー天南丸 (5407 GRT) と
貨物船ジョホール丸 (6187 GRT) と華山丸 (1893 GRT) を撃沈。

02度30分北、144度45分Eの位置。

1943年11月4日 (位置 -2.36, 150.34)
貨物船「リョウサン丸」と測量船「筑紫」(1400トン)触雷沈没。
南緯02度36分、東経150度34分のKavieng沖に、
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

また、
軽巡洋艦五十鈴と日本の駆逐艦五十風も損害を受ける。

8 11月 1943
パールハーバーで第7回哨戒を終了。

1943年12月5日
第8回目哨戒ためパールハーバーを出発した。
パラオ沖の哨戒を命じられる。

1943年12月29日(位置8.09、133.51)
パラオ沖の日本軍輸送船団に対する攻撃中に、
北緯08度09分、東経133度51分の位置で
輸送船天保山丸(1970トン)
北緯08度00分、東経133度51分の位置で
貨物船七星丸(1911トン)
北緯08度03分、東経134度04分の位置で
商船龍虎丸(3311トン)
魚雷攻撃して沈没させた。

また、
陸軍の貨物船、備中丸に損害を与える。

1944年1月15日
パールハーバーで第8回哨戒を終了。

1944年2月15日
第9回目のパトロールのために真珠湾を出港した。
マリアナ諸島西方への哨戒を命じられる。

1944年2月22日(位置-2.36、150.34)
日本の
補助潜水艦29(130トン)が触雷沈没。
Kavieng沖の位置02°36'S、150°34'Eに
「シルバーサイズ」が1943年6月4日に設置。

パラオの南東約225海里、北緯00°28'、東経136°56'において、
貨物船コウフク丸 (1919 GRT) を魚雷で沈没させた。

1944年3月28日
ニューギニアのマノカワニ沖で
上陸船SS-3 (948トン)を魚雷で沈没させた。

1944年4月8日
オーストラリア・フリーマントルで第9次哨戒を終了。

1944年4月25日
第10次哨戒のためフリーマントルを出発した。
マリアナ諸島沖の哨戒を命じられる。

1944年5月10日 (位置 11.26, 143.46)
グアムの南南西約120海里の日本輸送船団に対し、魚雷を撃ち、
敷設船沖縄丸(2221GRT)と日本の補助砲艦第2長安丸(2632GRT)
と第18御影丸(4319GRT)を沈没
させる。


1944年5月20日 (位置 13.32, 144.36)
サイパン沖の北緯13度32分、東経144度36分の位置で、
補助砲艦松星丸 (998 GRT) を魚雷攻撃し沈没させた。

1944年5月29日 (位置16.23、144.59)
サイパンの北北西約100海里、16°23'N, 144°59'E の位置で
輸送船蓬莱山丸 (1998 GRT) とショウケン丸 (1942 GRT) を魚雷で沈めた。

1944年6月11日
真珠湾にて第10回哨戒を大成功に終える。
オーバーホールのため、メアアイランド海軍工廠に送られる。

1944年9月12日
オーバーホールを終え、真珠湾に帰還する。

1944年9月24日
11回目哨戒のためにパールハーバーを出港した。九州沖の哨戒を命じられる。

1944年11月15日 (位置 30.10, 137.23)
USS「スターレット」とともに、
警備船第12那智隆丸(97GRT)に損傷を与える

1944年11月3日
ミッドウェイでの第11次戦時哨戒を終了した。

以上です。
ついでと言ってはなんですが、コイ提督の「墓碑銘」は以下の通り。

コイ少将と彼の乗組員は、太平洋で3位となるトン数を沈め、
彼は「並外れた英雄的行為に対して」2つの金星を持つ海軍十字章を受けた。

ジャックは、5人の孫と2人のひ孫の訪問を楽しみながら、
カリフォルニア州オーハイで、91歳の生涯を閉じた。

1775年にマサチューセッツ州レキシントンでミニットマン隊の隊長を務めた
ジョン・パーカーの直系の子孫、5番目の甥である。


1933年に米国海軍兵学校を卒業後、35年間、
潜水艦、重巡洋艦、水陸両用軍団、NATOの司令官の任務に就いた。

1968年、カリフォルニア州コロナドに引退し、30年間、
自身のヨットCal-25「シー・ドッグ」でセーリングとレースを楽しんだ。

生涯の趣味は、オルガン演奏、木工、世界一周クルーズの写真撮影。



■ コイ少将の娘



ちなみに少将の娘、ベス・コイ(Beth Coye)
も海軍軍人になりました。

父親の転勤のため、彼女はほとんど1年ごとに転校させられていました。
海軍軍人の妻の中には、転勤しない(つまり夫を単身赴任させる)
人もいましたが、彼女の母は一緒にいることを選んだのです。

彼女は当然のように父の後を追って海軍に入りました。
彼女自身がインタビューで、
「自分の血は青と金でできている」
と言っていることから考えても、彼女に
父親の仕事に対する反発はなかったものと思われます。



アメリカでは、昔から、海軍軍人の親を持つ海軍軍人のことを、
「ネイビー・ジュニア」と言います。

陸軍では陸軍軍人を親に持つ人のことを、
「Born, Raised, Transferred」で「BRATSーブラッツ」と言い、
海軍でも「ネイビーブラッツ」と呼ばれることもあるのですが、
ベス・コイはまさにネイビージュニアであり、ネイビーブラッツでした。

超難関ウェルズリー大学卒の優秀な軍人で、情報将校を務めましたが、
当時は女性ゆえ、その能力に対し出世の道は限られていました。

60年代前半の当時は、女性が出世するチャンスはあまりなく、
35歳になって初めて下級幹部になることができるという状態。
今はそんなことはありませんが、当時はそういう時代だったのです。

さらに問題?だったのは彼女がゲイだったことでした。

海軍での女性の扱い(彼女は常に男性軍人の中でもトップだったが、
優秀な男性軍人がたどるようなコースには決して乗れなかった)
に限界を感じていた彼女が、41歳の時、
ゲイであることをカミングアウトして海軍をやめると言ったとき、
コイ准将は、娘に、

「ベス、お前は海軍にいるべきだ。
少なくともキャプテンになれるし、女性提督にだってなれるんだから」

と言って引き止めましたが、彼女は自分の意見を変えることなく退役し、
外側から海軍の同性愛者の人権のためにロビー活動を続けました。

彼女が後に、その「戦い」についての本を出版する計画を立てた時、
父コイ少将は、軍での自分の立場もあり、反対したと言います。

ベス・コイによると、父少将は、娘が本を書くのであれば、
自分が乗っていた「シルバーサイズ」について書いてくれることを
望んでいたというのですが、最終的には娘の意思を尊重し、
本の出版費用を1万ドル出資しています。


■ロイ・ダヴェンポート副長



もう一人、趣味のトロンボーン演奏で「シルバーサイズ」総員を
恐怖のどん底に陥れたことが個人的に忘れられない、
ダヴェンポート副長のその後についても書いておきます。

Roy Milton Davenport
Rear Admiral in United States Navy
June 18, 1909〜December 24, 1987 (aged 78)

「シルバーサイズ」は、その第二次世界大戦中の哨戒を成功させ、
戦果を挙げたことから、指揮官は悉く出世していますが、
(第3代艦長ニコルス中佐のぞく)
副長だったダヴェンポートがもしかしたら一番有名かもしれません。

その紹介には次のような一文があります。

He is the first sailor to be awarded five Navy Crosses, 
the United States
military's second highest decoration for valor.

「セイラー」というのは彼が兵卒だったという意味ではありません。
念のため。


■「シルバーサイズ」副長として

海軍兵学校を1933年卒業したダヴェンポートは、
戦艦USS「テキサス」乗組後、
コネチカット州ニューロンドンの潜水艦学校を卒業します。

第二次世界大戦が勃発した1941年、USS「シルバーサイズ」で、
クリード・バーリンゲーム中佐の下、副長として勤務。

4回の哨戒を終えた時、バーリンゲーム中佐は、
優秀な彼を自らの指揮下に入れるよう推薦しています。

彼の優秀さについてはいくつも逸話が残されているようですが、
時にはその機転が乗員全員の命を救ったこともあります。

「シルバーサイズ」がその紹介で艦船攻撃を行った後、
日本機に直接3つの爆弾を落とされたことがありました。

直撃は免れましたが、「バウ・プレーン」(艦首部の潜舵)が
何らかの原因で固まってしまったまま急速潜航し、
そのため艦体が設計深度を超えて沈んでいったのです。

そのまま海底に激突するかと思われた最後の瞬間、
ダヴェンポート副長は咄嗟にコッター・キー?を外し、
潜水艦を水平にすることに成功し、危機から脱出しました。

また、(これは当ブログでも取り上げましたが)
魚雷が発射室に半分詰まってしまい、再射撃を行うことになった時も、
副長は艦長と共に冷静に問題を解決しました。

また、ある時は、サイコロゲームでイカサマをされたと思い込み、
酔っ払って暴れた砲手を取り押さえ、銃を取り上げるというような仕事も
ダヴェンポート副長は無事に治めています。

(この水兵は拘束衣を着せられて潜水艦から降ろされることになりました)

コイ中佐、「シルバーサイズ」では、少なくともトロンボーン以外では
満点の副長として皆に信頼され、尊敬されていたことがよくわかります。



潜水艦隊司令ロックウッド少将に「シルバーサイズ」哨戒に対し
授与されたシルバースター勲章を付けてもらうダヴェンポート副長。

冒頭の写真で、ダヴェンポートはおそらく
真ん中のバーリンゲーム艦長の左側にいる人物だと思われます。

■「シルバーサイズ」以降の指揮

「シルバーサイズ」の任務を降りたダヴェンポートは、
アート・テイラー中佐の後任として、USS「ハドック」艦長に就任しました。

ちなみに、このテイラー中佐は、当時現場の潜水艦指揮官クラスから
絶賛不評だった当時の潜水艦隊司令、ロバート・イングリッシュ少将
その側近を批判する文書(subversive literature破壊文学と書かれている)
を流したとして、解任されたという話があります。

「ハドック」では3回の哨戒を率い、
第一次哨戒でのパラオ諸島沖で「東洋丸」・「有馬丸」を撃沈。
第2次哨戒では5,533トンの「サイパン丸」を沈め、
初の海軍十字章を、そしてその次の哨戒で2度目を授与されました。

3回目の哨戒では3隻、合計39,200トンを撃沈。

4回目の哨戒では、2隻のタンカーを撃沈したと報告し、
第二次トラック哨戒で護衛艦を含む5隻32,600トンの撃沈、
1隻4,000トンのダメージを主張しています。

が、これらの被害は、戦後にJANACで照合したところ存在しませんでした。

しかし、ダヴェンポートと彼の副官らは、最後まで日本側が、連合国に、
タンカーが健在であると思わせようとしていたと考えていたようです。

てか、そんなことをして今更日本に何の得があるかって話なんですが。


ちなみに、JANACによる「シルバーサイズ」の現実の戦果は以下の通り。
括弧の中青字は、「シルバーサイズ」の戦時中の主張です。

哨戒次数 14

撃沈数23隻(26隻)

撃沈撃破 総トン数90,080t 
(143,700t)


撃沈数だけはまあまあ近い線行ってますね。

「ハドック」を降りたダヴェンポートは、USS「トレパン」艦長に就任。
1944年9月から1944年12月まで、10回の哨戒を行い、
「トレパン」での通算成績として、
合計22本の魚雷を発射し、4隻35000トン撃沈を主張しましたが、
戦後にこれは13000トン、魚雷3本という数に減らされました。

■その後の経歴と引退

艦を降りたダヴェンポートは陸上勤務を希望し、
アナポリスで海事工学の教官を務めました。

彼は、ディック(リチャード)・オカーン(オケイン)などの
名誉勲章受賞者を除けば、潜水艦部隊で最も勲功のある軍人と言われました。

彼が少将に昇任したのは、やはり退役と同時のこと。
1987年のクリスマスイブに78歳で死去したということです。



続く。

撃沈されていた「馬来丸」〜潜水艦「シルバーサイズ」第12次哨戒

2022-09-29 | 軍艦

さて、潜水艦「シルバーサイズ」のウォー・パトロール(哨戒)を
残された資料から検証していく作業も終わりに近づいてきました。

前回は、第3代目艦長となったジョン・ニコルズ中佐
不可思議な軍歴について取り上げてみたわけですが、
潜水艦「スクアーラス」の沈没事故から生還した後、艦長となって、
「ソーリー」「スティールヘッド」の任務を、それぞれ5日、12日という
非常な短期間で辞めてしまったその理由についてはわからないままです。

そもそも本人の軍歴が「シルバーサイズ」でストップしているため、
何をどう推測しても、今や真実が明らかになることはありません。

ただ、第11次哨戒を終えてコイ艦長が艦を降り、艦長就任して1カ月後、
少なくとも普通に次の哨戒に出撃するに至ったことから、
ニコルズ艦長と「シルバーサイズ」乗員の間には、
前2隻のクルーとの間に軋轢などは起こらなかったことは確かです。


■ ニコルズ艦長指揮下最初の哨戒


ニコルス艦長の指揮下行われた哨戒は、合計3回。

いずれも判で押したように、真珠湾かミッドウェイからサイパン、
そしてそこから東シナ海付近で行動して、帰るという同じコースです。

これは何を表しているかというと、日本軍が死守しようとした
サイパンが、1944年7月に玉砕して、ここを足がかりに、
米軍が本土と近海への攻撃を激化させていったということでしょう。

ここまでアメリカ有利に来れば、哨戒にやってくる潜水艦にとっても
ある程度のプライオリティは約束されていたわけです。

ゆえに、真珠湾から太平洋を通過し、オーストラリアに寄港するまで、
強力な護衛艦と航空機の攻撃を絶えず受けながら、
輸送船団を探して哨戒していたバーリンゲームとコイ艦長の頃に比べると、
言うてはなんですが、段違いに楽勝な任務という気がします。


■デパーミング(船体消磁)


しかし、口で言うほど戦時哨戒とは簡単でも楽でもないのは当然です。

これは、残された実際の「シルバーサイズ」の行動日誌の1ページですが、
潜水艦の行動日誌というのは、何かあっても何もなくても
分刻みでその記録を残さなければならないものなので、
正直、気が遠くなりそうなくらい辛気臭い記述が続きます。

念のために、このページを解説を入れながら翻訳しておきます。
第12次哨戒が開始された最初のページであり、それは
11回目の哨戒の終了と、艦長交代について記すところから始まっています。

(A) 前記

「シルバーサイズ」は11月19日に第11回目の哨戒を完了した。
通常の再任務は、ミッドウェイ潜水艦基地と、
第61潜水艦隊のリリーフ・クルー(交代した乗員)によって行われた。

入渠

11月19日、ジョン・C・ニコルズ(USN)中佐は、
ジョン・S・コイJr.(USN)中佐を指揮官として解任した。


「ニコルズ中佐着任、コイ中佐転出」を形式的に書くとこうなります。
[A relieved B] と書くと、まるでAがBを辞めさせたように見えますが、
面白いので?そのまま直訳してみました。


1944年12月8日、乗組員と士官が乗艦。

12月9日、サウンドテストを実施。

12月11日、8日間の訓練期間が開始され、演習用魚雷を6基発射。

12月19〜20日、2日間の積み込み期間完了。
署名後は
デパーミング、ワイプせず。


「デパーミング」については説明が必要です。

この用語は艦艇乗り組みの海上自衛官ならご存知のことと思いますが、
「船体消磁」主に軍艦の艦体を消磁(磁力を消す)することです。

軍艦は、磁気を帯びた艦体のままだと、敵に発見・攻撃される恐れや、
磁気感応式機雷に反応するリスクが高まるので、それを行うのです。

わたしたちが普通に生きていたら一生知らないことの一つですが、
海上自衛隊は、横須賀に「消磁所」なる設備を持っており、
そこで船体の永久磁気を定期的に消磁する作業を行っています。

そして、日本では「デパーミング」というと、
特に水上鋼鉄艦艇の艦首艦尾方向の消磁のことを言います。

具体的にどうやるかというと、船体外周に大きなコイルをゆっくりと通して、
電流の極性を変えながら徐々に弱くしていくことで、磁気を消すのです。


横須賀消磁所で絶賛消磁中の「すおう」(wiki)

しかし「シルバーサイズ」の頃と違い、現代の潜水艦は、
あらかじめ誘導磁気を打ち消す、船体永久磁気を付けているそうです。

また、垂直方向の消磁作業のことを「フラッシング」と言います。



さて、話を戻して、「シルバーサイズ」行動日誌、続きです。

1944年12月21日 出港準備。

士官二名転勤、新士官二名着任。

修理は潜水艦師団242リリーフクルーによって完了す。

●修理中の主な変更点

1、 ピコメーターとログ・ロッドメーターのポジティブストップ

2、 
4インチ砲を後方に移動しアンテナを前方に移動



え?4インチ砲ってこれのことですよね。
やっぱりこれは、元々後方ではなく、前方にあったものなのか・・・。



確かにこれは前甲板であるように見えなくもありません。

ちなみに、この写真は第一回目の哨戒で漁船と銃撃戦になった時のもの。

砲弾を装填しているハービン水兵が、この直後、
機関銃の弾に当たって死んだ、ということについては先に述べました。



ということは、このプレートは、本来、ハービン水兵が亡くなった場所、
前甲板に置かれるべきだったのではないのかしら・・・。

まあいいや。よくないけど。

続きです。

B)ナラティブ

12月22日 

0800
COMSUBPACの作戦命令413−44に従い、

USS「タウトッグ」(Tautog)と共に第12次哨戒開始。
サイパンに向かう。

0845-0925
ツリムダイブ実施。

12月22日〜30日
毎日の潜水訓練、レーダー追跡訓練、
レーダーと潜水攻撃のシミュレーション、銃撃テスト、
サイパンまでの航路でウルフパック訓練コード周波数、
VHFとSJ信号でCWと音声による通信の演習を行う

12月22日
180度子午線を越え、12月23日を暦から落とす

12月25日
🎅クリスマスを祝う🎄
ホノルルの赤十字社から寄贈されたプレゼント🎁は、
USS「エーギー」(Aegir、潜水艦母艦?)の従軍司祭を通じて受け取り、
乗員全員には大変感謝された。👏

12月30日
0677
(77ってこの時間は何?)
USS「PC 1126」と、サイパンへの西回り安全な航路でランデブー。
1303右舷側を「PC 1126」に接舷。
給油艦「フルトン」に「パイプフィッシュ」「タウトッグ」共に接舷。

12月31日
USS「フルトン」から29,340ガロンの燃料油を補給受ける


まあ、こんな感じで行動日誌は延々と続くわけです。

■ 第12次哨戒



「シルバーサイズ」第12次ウォー・パトロールは、ミッドウェイを出発し、
サイパンを経て東シナ海の哨戒活動を行いました。

「積極的な探索にも関わらず、彼女は価値ある目標を
全く見つけることができないまま1ヶ月が経過しました」


と、日本側、アメリカ側ともに同じ記述があります。

「しかし、ようやくチャンスが訪れ、
『シルバーサイズ』は、それを最大限に活かしました」

先ほどの行動日誌より、この日のページの内容を書き出してみます。

●攻撃データ

USS「シルバーサイズ」魚雷攻撃No.1
第12次哨戒 1945年1月25日 1350
北緯31度18分 東経130度09分

ターゲットデータ 撃破

●ターゲット詳細(EU)

縦列2隻の貨物船が海岸より0.5マイルの位置にあり、
ピート(零式観測機)1機、フランシス(銀河)1機、
ベティ(一式陸攻)1機
の航空援護あり。

先導1隻、大型AK(貨物船)同型エンパイアクラス、6,800トンAK、
他の船は小型の沿岸AK

●沈没・・・・・・・・・なし

損傷を与え、沈没させた可能性あり・・・・大型貨物船(6,800トン)

ダメージは次のように判断される;
2つの明確な強い衝撃、
最初の激突音の後、プロペラ音が消滅。
のちに1つのプロペラ音が復活する。
列2番目の船と判断される。

●ターゲットドラフト(省略)

●自艦データ

速度3ノット、コース057 深度六十五フィート 角度3ダイブ

●射撃管制と魚雷データ

タイプ:日中水中攻撃

発砲開始時:デプスコントロールが失われる。
最初の2発は狙い通りに広がり、
最後の狙ったポイントから1.5乖離にシフトした。

5番と6番の魚雷発射管故障。
5番発射管は再装填できず、6番も発射せず。

夜間浮上時に詰まっていた魚雷を排出する。

発射に際するバラストタンクからの気泡の排出で
ターゲットになる恐れがあった。

●アタックデータ(下図)



●対潜対策と回避戦術

全ての船団のサイトは低高度で近接カバーを可能にする空中援護あり。
わずか1隻の水上護衛が坊ノ岬付近で確認される。
大船団は確認されず。

ある夜、ダンジョ・グントウの西で、2隻の小型護衛艦からなる
「ハンターキラー」らしきグループあり、
絶えずピンを打っているのが確認された。

ハンターキラーというのは映画のタイトルにもなりましたが、
軍事用語で、航空機や艦船を組み合わせて行う、
対潜水艦掃討作戦、またはそれを行うグループを指します。

ダンジョグントウとは男女群島のことだとすれば、
これは五島列島福江島の南南西およそ70kmの東シナ海に浮かぶ島嶼群です。

陸上レーダーを使用して多くの接触が行われたが、
攻撃後の瞬間を除いて、我々が検出されることはなかった。

レーダーを搭載した夜間探索機に満月の夜の前後発見され2回爆撃を受けた。
夜間飛行機は300mcsのレーダーを搭載していた。



■ 第12回哨戒の戦果〜「馬来丸」撃沈

行動日誌を見ると、「シルバーサイズ」は、貨物船に損害を与え、
魚雷が1発は命中したように思える、と認識していましたが、
実は、この時攻撃した戦時徴用船、

輸送船「馬来(マレー)」丸(八馬汽船、4,556トン)

は、戦没していたのです。


「馬来丸」

「馬来丸」は陸軍に徴用され、1945年1月、満州の陸軍第三大隊を乗せ、
やはり陸軍部隊を乗せた「くらいど丸」「明秀丸」と共に出港、
「明秀丸」が引き返したため「くらいど丸」と船団を組み、航行していました。

そして鹿児島県久志湾口北側付近を航行中、
第12次哨戒中でそれまで全くターゲットに恵まれていなかった
「シルバーサイズ」に補足されてしまうのです。

「シルバーサイズ」の放った最初の魚雷は、監視兵に発見されますが、
その直後右舷二番艙付近に、そして第二弾が船橋下部に命中し、
「馬来丸」は、1353、海中に没しました。

「シルバーサイズ」の記録によると、攻撃開始が1350、
つまり攻撃が始まって3分後には轟沈していたことになります。

「戦時徴用船」のページによると、この時の状況は以下の通り。

湾の沖で大きな爆発音が二回して地響きが起こり、大爆発と共に
水柱をたてて海中に沈んでいくのが山の畑からも見えたという。

しかし、このような状況だったのにも関わらず、
「シルバーサイズ」が撃沈を認識していなかったたのはなぜでしょうか。

推察されるその理由は、「シルバーサイズ」の行動調書にあるように、
この時の攻撃が水中からのものであったからです。

水中に居ながらの攻撃で、魚雷がヒットしたかどうかは、
激突音とか、プロペラ音が消失したとか、聴覚に頼るしかなく、
その時は、最初の魚雷の激突音と同時に轟沈していることなども、
確認のしようがなかったのであろうと思われます。

加えて、当時の天候は「北寄りの風が吹き、波浪が高く、
水平線一帯に雪が混じった降雨」
であったことから、
潜望鏡を出しての確認も不可能だったのでしょう。


この時の「シルバーサイズ」の戦果は、せいぜい撃破とされていましたが、
戦争が終わってから、実は撃沈であったことが明らかになり、
戦果も訂正されることになりました。


また、「戦時徴用船」のページには、こんなことも記されています。
 
漁師達は一勢に船を駆り出して救助に向かったが、
その日は雪まじりの悪天候で風・波ともに強く、
村人の必死の救助にもかかわらず、時化と寒さで作業は困難を極め、
救助を待ち切れずに亡くなっていったらしい。

一帯の海岸には多くの将兵の遺体が並び荼毘に付された。
乗船部隊・船砲隊・船員 1,612名が戦死。


鹿児島県の坊津町には、この時「シルバーサイズ」に撃沈されていた
「馬来丸」の戦没者慰霊碑が建立されてます。

碑文は以下の通り。

碑文

大東亜戦争の苛烈を極めていた昭和二十年一月、
陸軍輸送船馬来丸(四、五五六屯)は、

ソ連国境警備隊から南方転進を命ぜられた第十二師団隷下部隊
(関門周辺で編入された部隊を含む)の兵員二、〇五五名を乗せ、
ほかに軍馬、軍需品を満載して門司港を出航し、
途中、海軍艦艇の護衛を受け、伊万里湾、牛深港に仮泊のあと、
同月二十五日午後一時五十分、鹿児島県川辺郡坊津町久志湾の沖合を航行中、

突如として、見張兵が敵潜水艦の雷跡を発見、
「魚雷」と絶叫した瞬間、第一弾は、右舷二番船倉付近に大音響を発して命中、
続く第二弾も、船橋下部付近に命中し、
船体は急速に右舷に傾斜して沈下しはじめ、
輸送指揮官が総員退船を命じたときは、既に船首より鯱立ちとなり、
午後一時五十三分、船影は完全に海中に没したのであります。
 
沈没地点、北緯三一度一八分。東経一三〇度一〇分、水深一二六米
 
当時、海上は北寄りの風強く、波浪高く、
水平線一帯に雪まじりの降雨という、視界不良の悪天候でありました。

天地を揺がす爆発音によって、馬来丸の遭難を知った地元久志湾沿岸の住民は、
直ちに、あらゆる発動船、漁船を出動させ、
枕崎湾から馳せつけた軍用救助艇と共に、
必死の救出活動を展開したのでありますが、時化と寒気に阻まれて、
作業は困難を極め、実に、
          
一、船体と運命をともにし、再び浮上することなく、
或いは、脱出後、海中に呑まれて戦死。一、四九九名。
          
一、陸地に漂着して遺体が確認され、或いは、陸地で力尽きて戦死。七六名。
          
一、殉職した船員。三七名。

併せて、一、六一二名の尊い犠牲を強いられたのであります。


戦う術のない徴用船の船員たちは、敵の襲来があれば、
それによって死を覚悟するしかありませんでしたが、
しかし、それ以上に、逃げ場のない船倉にただ詰め込まれたまま、
沈没する船と運命を共にすることを知った時、「馬来丸」の陸軍軍人たちが
最後に直面した死への恐怖は、いかほどのものだったでしょうか。


この日から2月12日まで、「シルバーサイズ」には戦闘はなく、
50日間の行動を終えて、ミッドウェー島に帰投しました。



続く。





新艦長ジョン・ニコルズ中佐の謎〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-09-27 | 軍艦

ミシガン湖沿いに現在係留展示されている潜水艦「シルバーサイズ」。

彼女が第11回哨戒において、「トリガー」(SS-237)
「スターレット」(SS-392)ともにウルフパックを組んでいた
「サーモン」の救援要請を受けて現場にかけつけ、
第22号海防艦との死闘で傷ついた「サーモン」をサイパンへ護送した。
(ただし相手との戦闘は一切していない)

ということを前回検証しました。

繰り返しになりますが、「シルバーサイズ」の艦歴には、

「シルバーサイズ」は「サーモン」「トリガー」と群狼作戦を行い、
「サーモン」が魚雷を打ち込んで瀕死の状態のタンカー、
「たかね丸」に魚雷を打ち込んでトドメを刺し、
第22号海防艦と死闘を演じて傷ついた「サーモン」を庇って、
自らが囮になり敵の目をくらまして離脱に成功させ、
無事にサイパンに送り届けた功労者である

と解釈するしかないことが書かれています。

しかしながら、それはほぼ創作に近いストーリーだったのです。


わたしのような素人が、ネットの情報を突き合わせただけでも
簡単にその矛盾点から真偽が突き止められるようなことが、
なぜ堂々と真実としてまかり通っているのでしょうか。

あまりにも事柄が瑣末すぎて誰も検証しようとしなかった?

それともベテランに配慮して戦果にケチをつけられなかった?

あの頃はよくあることとして見逃されてきた?


さて、どれでしょう。


11月3日無事「サーモン」をサイパンに送り届けてから20日後、
「シルバーサイズ」はミッドウェイ島に帰還し、第11次哨戒を終了しました。


■ 艦長交代〜ニコルス艦長という人物

第11次哨戒は、第二代目艦長、ジャック・コイJr.中佐の最後の指揮でした。
第12次紹介から、「シルバーサイズ」は新艦長を迎えることになります。

ジョン・カルバー・ニコルス中佐
(John Culver Nichols)

については、uboat.netという潜水艦サイトに名前と軍歴があるのみで、
写真などは全くネットに残されていませんでした。

しかし、その軍歴を見て、わたしはまたしても
ある歴史の「どうでもいいが不穏な真実」に気がついてしまったのです。

今日はそのことについてお話しします。

ニコルス中佐は、アナポリスの1934年クラス。
(1934年卒業。アメリカは卒業年次でクラスを呼ぶ)で
ランク昇進年度は以下の通りです。

1934年5月31日 少尉

1937年5月31日 中尉
1941年7月1日 大尉
1943年3月1日 少佐
1944年2月1日 中佐


これをみる限り、ごくごく一般的な昇進をした軍人です。
中佐を最後に軍歴はストップしており、これは、
戦争が終わると同時に退役したということを表しています。

ちなみに、「シルバーサイズ」艦長就任時の中佐のランクは、

 T/Cdr.

と記されているのですが、この「T」が何のTかご存知でしょうか。
戦争中ということで、特に付けられたタイトルかな?

そして、艦長としての職歴なのですが、これが問題なのです。
とりあえず、ご覧ください。

  USS「マーリン」(Marlin) 205 1943年5月〜1944年5月 少佐

USS「ソーリー」(Saury) 189 
1944年8月26日〜1944年8月30日 中佐

USS「スティールヘッド」(Steelhead )280 
1944年10月15日〜10月26日

USS「シルバーサイズ」(Silversides )
236 1944年11月29日〜

これを見て、不思議なことに気が付きませんか?
赤字で記した「ソーリー」の艦長就任期間はたった5日
2カ月後に就任した「スティールヘッド」艦長職は12日で辞めているのです。

そこで潜水艦「ソーリー」の歴代艦長就任期間を調べてみました。


          Commander
From
To
          1
Lt.Cdr. George Warren Patterson, Jr., USN
3 Apr 1939
Jul 1941
          2
Lt.Cdr. John Lockwood Burnside, Jr., USN
10 Jul 1941
Jun 1942
          3
Lt.Cdr. Leonard Sparks Mewhinney, USN
Jun 1942
17 Apr 1943
          4
T/Cdr. Anthony Henry Dropp, USN
17 Apr 1943
26 Aug 1944
          5
T/Cdr. John Culver Nichols, USN
26 Aug 1944
30 Aug 1944
          6
T/Lt.Cdr. Richard Albert Waugh, USN
2 Sep 1944
Oct 1945
          7
Allen R. Bergner, USN
Oct 1945

彼女が6年間の就役中、7人が艦長を務めましたが、
ニコルス以外の全員が、普通に約1年前後の任期をこなしています。


そして「スティールヘッド」を指揮した艦長は3名。
しかしニコルス中佐以外の二人の任期は、どちらも長めで約2年と1年半。
   

Commander
From
To
              1
T/Cdr. David Lee Whelchel, USN
7 Dec 1942
 
15 Oct 1944

              2
T/Cdr. John Culver Nichols, USN
15 Oct 1944
 
26 Oct 1944

              3
Robert Bogardus Byrnes, USN
26 Oct 1944
29 Jun 1946


書類上の都合でたまたま数日間艦長を充てる必要でもあったのか?

という考え方もできないでもありませんが、変ですよね。
それぞれの潜水艦の艦歴にも、ニコルス艦長のことは一切書かれていません。

その艦歴によると、ニコルスが「ソーリー」の艦長になったのは、
「ソーリー」が第10回目の哨戒から帰ってきて3日目のことでした。
次の哨戒に出た時には、ニコルスの次の艦長に代わっていたのです。

どうも、就任して5日の間に何かあったとしか思えないのです。

そして、「スティールヘッド」の艦歴によると、彼女が新しく
司令塔部分を換装する工事期間、ニコルス中佐は艦長に就任。
しかし12日で辞めてしまい、次の哨戒を指揮したのは
ニコルスの後の艦長となります。

一体この人、「ソーリー」と「スティールヘッド」で何をやらかした?


こうなると俄然気になりますよね。
ニコルス中佐ってどんな人だったのか。(どんな顔をしてたのか)

この写真には、

「1944年、コイ艦長は新たな乗員を育成する任務で艦を去りました。
ジョン・ニコルス艦長は、カメラに写るのが苦手なのに、頑張っています」

という不思議なキャプションが付けられています。


「海軍の写真撮影の法則」によれば、艦長は前列の真ん中と決まっています。

この写真は端が切れていて、誰が真ん中なのかわからないのですが、
おそらくこの三人のどれか(そして多分真ん中の人)が
問題のニコルス艦長なのではと推察されます。

ニコルス艦長は、1944年8月から11月の三カ月の間に、
3隻の潜水艦の艦長になるという不思議な経歴でここにいるわけですが、
それにしてもこのキャプションも変ですよね。

「写真嫌い」(Though he was camera shy)
「頑張って写っている」(did very well)


一体これはどういう意味なのでしょうか。

おそらくこれは、新艦長を迎えて最初の全体記念写真だったと思われます。
全員が軍服を着て、しかも、彼らの後ろに見えている
「偽装のために手作りした日の丸と旭日旗」から見て、
おそらく室内で行われた壮行会だったのではないでしょうか。

就任記念&哨戒壮行会で「頑張って写っている」艦長とは一体・・・。

■沈没潜水艦から生還していたニコルス

ここで、「シルバーサイズ」博物館のパネルに、気になる部分を見つけました。
「シルバーサイズ」乗員の一人が語っているという設定で
写真のところどころに付け加えられたキャプションです。

それには、「シルバーサイズ」がいかに優れた指揮官に恵まれたか、
ということを称揚・自賛する形で書かれていました。

戦争中、わたしたちは素晴らしい指揮官に恵まれました。
バーリンゲーム艦長コイ大尉はいずれも後に提督になりました。

(副長の)
ロイ・ダベンポートは、「シルバーサイズ」を去った後、
2隻の潜水艦を指揮し、海軍十字賞を授与された最初のセイラーになりました。

キーガンとウォーシントン(副長)も、後に艦長になっています。

「シルバーサイズ」は多くのサブマリナーにとって故郷であり、
キャリアを積むための試練の場となったのです。


さて、わたしはあえてニコルス艦長の記述を飛ばしました。
彼について書かれていたのは以下の一文です。

「ニコルズ艦長は、もちろん、
10年前の『スクアーラス』沈没を生き延び、すでに有名でした」


何がもちろん(of course)かわかりませんが、
ニコルズ中佐の艦歴に書かれていなかった、

潜水艦「スクアーラス」
USS Squalus (SS-192)

の事故についてはかなりのことがわかっています。

海軍調査局が学生と行員向けに制作した歴史書からの抜粋になりますが、
「スクアルス」事故については以下の通り。

USS「スクアーラス」(SS-192)は、ポーツマス海軍工廠で建造され、
1939年3月1日に就役したディーゼル電気潜水艦。

同年5月23日0740、ショールズ島沖で試験潜航中、
致命的なバルブ不良に見舞われ、水深40ファゾム(240フィート)で
キールダウンの状態で静止した。

海軍の潜水士と救助船が、翌日生存者を救出する作戦を行う。
当時乗員32名、民間人一人が艦前方の区画で生存していた。

5月24日11時半、USS「ファルコン」(ASR-2)が、
チャールズ・B・モムセン中佐の発明したモムセンラング潜水鐘を改良した
新開発のマッカン・レスキューチャンバーを下ろし、
その後13時間かけて生存者33人全員を救助した。

その後艦体は引き上げられて一旦退役し、1940年、
「セイルフィッシュ」と改名して同年再就役した。


引き揚げられたドックの「スクアーラス」

つまり、ニコルズはこの沈没潜水艦から生還した32名の乗員の一人でした。

「乗員の日記」は、「スクアーラス」の事故を10年前としていますが、
これがニコルス艦長就任時と仮定すると、10年前ではなく、5年前です。
これがなぜ間違っているのかが気になりますが、それはいいでしょう。

ニコルスは「スクアーラス」事故に遭遇した時、海軍中尉でした。

「スクアーラス」は乗員55名の潜水艦で、艦長は少佐だったことから、
おそらく彼は水雷長とか機関長とか船務士兼通信士とかだったのでしょう。

最新鋭のチャンバーが投入され、貴重な人命が救われたこの事故は、
当時海軍の中で知らぬ人のないショッキングな出来事であり、
生還した人たちは、おそらく海軍中の注目を浴びたことでしょう。
その冷静沈着さと幸運な生還はヒーローと称えられたに違いありません。

然は然り乍ら、「シルバーサイズ」に乗務したところの
他の歴代艦長や副長が、全員その後の出世を称えられているのに対し、
ニコルズ艦長については、このことしか言及されていないのです。

ニコルズ中佐は「シルバーサイズ」を降りてから退役し、
その後の出世はもちろん、戦時に潜水艦に乗っていたというのに
勲章の一つも叙勲されなかったので、材料がなかったのかもしれませんが、
海軍軍人として誉められる点が「沈没潜水艦から救助された」ことしかない、
というのは、何かちょっと問題です。

稀有な体験と修羅場を乗り切ったサブマリナーであれば、
それを自分の指揮官としての強みにできなかったのでしょうか。

それとも、二つの潜水艦で、あまりにも短期間に艦長職を降りたのは、
その経験が逆に何かマイナスとなって現れる出来事でもあったのでしょうか。



それでは次回、この謎の艦長ニコルズ中佐の元で、
「シルバーサイズ」がどのような哨戒活動をしたのかを見ていきます。


続く。



「彼女は群狼作戦に加わったのか」第11次哨戒〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-09-25 | 軍艦

ミシガン湖はマスキーゴンに係留展示されている、
第二次世界大戦時の「ガトー」級潜水艦、「シルバーサイズ」について、
その哨戒活動を順を追って検証してきましたが、今日は
第二代艦長、ジャック・コイJr.少佐の最後の指揮となった、
第11回哨戒を取り上げたいと思います。



「シルバーサイズ」は第10次哨戒から帰還後、直ちに
生まれ故郷であるメア・アイランド海軍工廠でオーバーホールを受けました。

入渠したのが1944年の6月11日。
オーバーホールを終えて真珠湾に帰還したのが9月12日とされていますので、
およそ3ヶ月の間、乗員たちは戦闘に出ない日々を過ごしたことになります。


■第11次哨戒の目的

真珠湾に到着してから12日後、「シルバーサイズ」は出撃しました。

目的は東シナ海。

台湾の北東と九州を結ぶ海域の哨戒で、「シルバーサイズ」は
哨戒活動の他に重要な任務を請け負っていました。

それは、マイク・ミッチャー中将率いる第38任務隊が予定している
台湾と沖縄での大々的な空襲の間、
海上に墜落した航空機のパイロットを救出することです。


ミッチャー中将

ミッチャー中将が司令官となって創設された第38タスクフォースですが、
「シルバーサイズ」が日本海域に到着したと思われる頃、
(つまり10月1日前後)大規模な空襲が行われたという記録も、
「シルバーサイズ」がパイロット救出活動をしたという事実もありません。

しかし、英語の方の記録には、この時「シルバーサイズ」が
姉妹潜水艦の救助を行った、と書かれています。

その前に、この時「シルバーサイズ」が
どういう形態で現地の哨戒に当たっていたかを説明します。


■ ウルフパック(群狼作戦)

ピッツバーグのMKの住んでいたアパートのすぐ近くに、
「ウルフパック・トレーディング」という名前の家電中古販売店があって、
前を通るたびに、一人で密かにウケていたわけですが、
ここの店主がどういうつもりでこの名前を選択したのか、
果たして本当の意味を知っての上だったのかは、気になるところです。


群狼作戦(独Wolfsrudeltaktik ヴォルフ・シュルーデル・タクティク)は、
第二次世界大戦中、ドイツ海軍潜水艦隊司令(BdU)
カール・デーニッツ少将
によって考案されました。

当ブログでも一度説明したことがありますが、
ドイツ海軍では、潜水艦のことを「灰色の狼」と称していたことから、
複数の潜水艦が協同して敵輸送船団を攻撃する戦術をこう呼んだのです。


元々これが生まれたドイツ海軍における群狼作戦は、
複数の潜水艦(3隻以上)で行うことになっていました。

やり方は至極シンプル。

先発の潜水艦が、偵察機の情報を元に
敵船団が侵攻してくるであろうと予測される海域で待ち伏せをし、
船団が来たら、残りの潜水艦で周りを包囲し、撃滅するという方法です。

これに対し、アメリカ海軍潜水艦の群狼作戦の攻撃方法は、
3隻1組で行うというのはUボートと同じですが、
包囲殲滅よりも、波状攻撃を主としていたようです。

事実アメリカのはドイツの群狼作戦のパクリなので、
オリジナルをそのまま翻訳した「ウルフパック」という名称は
現場で普通に使われていたのですが、さすがに公式にはあからさまにできず、

コーディネーテッド・アタック・グループス
(coordinated attack groups )

「調整攻撃グループ」

という名称にしていました。

しかし、現場でこのお役所的なイケてない名称は使われることなく、
誰もが「ウルフパック」で通していたものと思われます。

アメリカ海軍で最初にウルフパックを指導したのは、
チャールズ・モムセン(Charles Momsen)という軍人なのですが、
この「マンセンorモムセン」という名前に聞き覚えはありませんか?

潜水艦の事故における人命の確保のために発明されたアクアラング、
「マンセン・ラング」の発明者です。


こんな顔が後世に残ることになった水兵くん気の毒すぎ

モムセンが艦長クラスとその上官たちに伝授したウルフパックの戦術とは、

●3隻の潜水艦を1組とする

●1隻が船団に対し最初に攻撃を仕掛ける
この1隻を「トレーラー」と称する

●その後残りの2隻が左右から交互に攻撃を行う

というものでした。

「トレーラー」には先任の指揮官が乗艦しており、
基本的に残る2隻は統制に従うということも決まっていました。

そしてモムセン本人は1943年10月13日、

「グレイバック Grayback(SS-208)」 
「セロ Cero(SS-225)」
「シャド Shad(SS-235)」


からなるアメリカ初のウルフパックを率いて出撃しています。

チャールズ・モムセン少将(最終)

ところで、昔も今も、潜水艦の任務は全てが謎に包まれています。
潜水艦そのものが秘密の塊であるとともに、その行動も秘匿され、
同じ海軍同士でも潜水艦については知らされないことも多そうです。

もちろん我が海上自衛隊でもそれは同じで、
昔水上艦の乗組員とお話をした時、

「潜水艦は不思議ですね。
出港先で『あれなんでこんなところにいるの』
なんてところにいてびっくりさせられたりします」


と聞いたことがあります。

当時、アメリカ海軍は軍機漏洩禁止の目的で、潜水艦に限らず、
個人が日記をつけることすら禁じていました。

今なら乗員の個人的なSNS禁止というところです。

少し前、艦艇乗組の自衛官が自分の艦の入港先をSNSで発信してしまい
大騒ぎになったとかいうニュースがありましたが、
コンプライアンス以前に、この頃の漏洩は命に関わることでした。
従って、日記禁止も決して厳しすぎる措置ではなかったと思われます。

個人の日記だけでなく、潜水艦は戦果報告も60日後と決められました。

これは、ある時、政治家がうっかり報道陣に対して

「日本海軍の爆雷調定深度は浅いため、アメリカ潜水艦の被害は少ない」

と軍内部から聞いたことを喋ってそれが報じられてしまった途端、
アメリカ潜水艦が10隻立て続けに撃沈されたことがあったからです。

とにかく、念には念を入れた個人への記録禁止の結果、
アメリカ軍の群狼作戦については、公式記録以外の、
つまり詳細な現場からの記録はほとんど残っていません。

ところが、一人、いたんですねー。
群狼作戦について記録していた乗組員が。



当ブログで昔アップしたサブマリナーシリーズの扉絵ですが、この右上、
「ラッキー・フラッキー」とあだ名された、


ユージーン・B・フラッキー(Eugene B. Fluckey)少佐

が艦長を務めた、「バーブ(SS-220)」の魚雷員が、
こっそり日記をつけていたというのです。
この日記の内容は、フラッキーの著書『サンダービロウ!』に残されました。


英語の書評です。

大胆不敵な艦長ジーン・フラッキー大佐の指揮のもと、「バーブ」は
第二次世界大戦中アメリカの潜水艦の中で撃沈総トン数最多だっただけでなく、
潜水艦が獲物を追跡して撃沈する方法を永遠に変えた。

フラッキーは、記録、報告書、手紙、インタビュー、そして

最近発見された魚雷員の一人による違法な日記をもとに執筆している。

そして本書には、当時のアメリカ軍の群狼作戦についてが書かれています。

1チームは3隻、最大で4チーム12隻で行う

群指揮官は序列に関係なし

作戦海域を区切ってパックごとに割り当てる

敵を発見したら協同で攻撃

僚艦との会合は主としてレーダー波による誘導を用いる

アメリカ式の、
「1隻が正面から待ち伏せ攻撃して怯ませておいて、
もう2隻が横から波状攻撃を加える」

というやり方は、フラッキー少佐が「バーブ」で行った戦法でした。


■ 僚艦「サーモン」救出

さて、「シルバーサイズ」の第11次哨戒に話を戻します。

延々とウルフパックについて説明したのは、この時「シルバーサイズ」は、

「サーモン」 (USS Salmon, SS-182)

トリガー (USS Trigger, SS-237)


の3隻でウルフパックを組み、哨戒を行うことになった、
と「シルバーサイズ」の艦歴に書かれていたからです。


ちなみにこの時、もう一隻ウルフパックに予定されていたのは
「タング」 (USS Tang, SS-306) だったということになっています。

つまりわざわざ4隻で作戦にあたらせようとしたことになりますが、
これを読んで、ウルフパックの基本は3隻なのに、おかしくね?
と思ったあなた、あなたは正しい。

これが史実だったかどうかについても、今回は検証します。

「タング」の艦長は、当ブログでも似顔絵を描いた
(ので無理やり出してくる)

リチャード・オカーン(Richard  O'Kane)艦長

でした。
のちに日本軍の捕虜になった時、捕虜の権利を国際法の観点から捲し立て、
取り調べ者が呆れて尋問を諦めたという逸話のあるオカーン艦長は、
「タング」を指揮して錚々たる戦果を挙げた猛将でしたが、
この群狼作戦に指名された時も、

「一匹狼で暴れることのできる台湾海峡を単艦で哨戒することを選んだ」

ため、「タング」は別行動となりました。
艦長の判断で作戦を断ったりできるのかどうかは少々疑問ですが。


しかし、この選択をした結果、「タング」は、哨戒1ヶ月目の10月25日、
船団攻撃中に護衛艦の1隻第46号海防艦によって探知され、
しかも、回避行動中に自らが発射した魚雷が
自分の艦の後部魚雷室に命中し、沈没してしまうことになります。

自分で自分を撃沈してしまうって、一体どういう状況なのか、
お分かりになる方、おられますか?

海上に脱出したオカーン艦長は他の8名の乗員と共に救出され、
日本の捕虜収容所に収監されて戦後生還しました。

なお、日本側は「タング」の沈没地点が浅いことから、
捕獲を試みましたが、失敗に終わっています。

さて、この時のウルフパックがどうなったかというと・・・?

まず英語による「シルバーサイズ」の記録から見ていきましょう。

🇺🇸
「シルバーサイズ」の第11次哨戒は非生産的であったが、
この時、被災した姉妹潜水艦の救助に協力した。

「サーモン」(SS-182)は激しい深度充電で大破する中、不利な砲戦で
敵の護衛艦と戦いながら浮上し、脱出を試みていたのである。


ウルフパックの僚艦である「サーモン」が被災したとあります。

それでは日本語では?

🇯🇵
10月30日
僚艦の「サーモン」が都井岬の沖合い130海里の海上で、
補給部隊の護衛、第22号海防艦と砲戦の末、大破する。

この部隊は、エンガノ岬沖海戦に出動した機動部隊
(指揮官小沢治三郎中将)への補給を行っていた。


群狼作戦によって、「サーモン」はこの時すでに
タンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)
を北緯29度18分 東経132度06分の地点で航行不能にしていました。

「シルバーサイズ」はこれに対し魚雷を6本発射して、
おそらく1本を命中させて沈没させた
と書かれています。
(この部分、覚えておいてね)

「シルバーサイズ」は「サーモン」を守るため、
砲撃の閃光によって護衛艦の注意を引いてからすぐに潜航して逃れ、
群狼作戦の僚艦、
潜水艦「トリガー」(SS-237)
そしてそれに
スターレット(SS-392)とともに、
被災した「サーモン」を警護しながらサイパンに護送し、
11月3日に無事に到着を果たした。


はて、「スターレット」はいつの間にここに現れたのか?

ウルフパックの戦果が文書で残されなかったせいか、
よくわからないことになっているので、ここで
助けられたという潜水艦「サーモン」の記録を見てみます。

■「サーモン」視点

「サーモン」の記録によると、11回目の哨戒で彼女が群狼作戦を組んだのは
「トリガー」および「スターレット 」 
となっています。

そう、「シルバーサイズ」とは最初から組んでいなかったということですね。

この群狼作戦でモムセン少将のいうところの「トレーラー」だったのは
潜水艦「トリガー」だったと考えられます。

10月30日、「トリガー」は小沢治三郎中将機動部隊の補給部隊を発見し、
まず「たかね丸」(日本海運、10,021トン)に魚雷を2本命中させます。

「サーモン」は群狼作戦のセオリーに則り、続いて「たかね丸」を攻撃。
魚雷を4本発射し、2本を命中させました。

ちなみにこの時護衛についていた4隻の中に、過去に
サム・ディーレイ艦長の「ハーダー 」(USS Harder, SS-257) 
を仕留めたことのある第22号海防艦
のちに「トリガー」の撃沈を幇助した第33号海防艦がいました。


「サーモン」は直ちに護衛艦らによる激しい爆雷攻撃を受け、
深度300フィート(90メートル)の深いところまで潜航して、
そこで一旦は水平になって耐えていたのですが、損傷を受けていた上に
続けての激しい爆雷攻撃を受けたため、さらに
500フィート(150メートル)まで潜航することになりました。

おそらく潜水艦映画でお馴染みの、艦体が圧力で軋む音と、
爆雷の振動に全員が息を潜めて天井を見るという、
あの光景が実際に「サーモン」の中で行われていたのでしょう。

しかし(ここからの展開も実に映画的なのですが)漏水が始まり、
ついに深度の維持をコントロールできなくなったため、
「サーモン」のナウマン中佐は、浮上して戦闘を行うことを決定しました。

現場で「たかね丸」乗員を収容していた第22号海防艦は、
浮上してきた「サーモン」を発見するや、全速で追跡してきました。


第22号海防艦

しかし、慎重に第22号海防艦が潜水艦の様子を覗っていたため、
「サーモン」は数分で艦の傾斜を修正し、数カ所の損傷を修理しました。

座して死を待つのではなく、戦うつもりで浮上した「サーモン」は、
相手との距離をジリジリと詰めながら、
4インチ砲や20ミリ機銃を準備して戦闘体制を取りました。

第22号海防艦も、抜かりなく第33号海防艦を援護に呼んでおいて、
12センチ高角砲や25ミリ機銃を構えて接近していきます。

先制攻撃は「サーモン」の方でした。

敵側面から50ヤード以内を通過し、20ミリ砲と甲板砲で彼女を攻撃し、
両艦は500メートルもない至近距離で砲撃戦、銃撃戦を展開します。

至近距離での銃撃戦となると、乾舷の高い海防艦は、被弾により
乗員4名が戦死し、24名が負傷する他、艦橋部分も損害を受けます。

そこに第33号海防艦が到着し、ウルフパックではありませんが、
2隻で「サーモン」を挟んで攻撃を加えてきました。

「サーモン」は第33号海防艦にも果敢に反撃しながら、
友軍潜水艦に対して戦闘位置を連絡し救援を求めました。

この時それを傍受したのが「シルバーサイズ」であったと考えられます。

「シルバーサイズ」視点では、彼女が中心となって戦い、
彼女の働きで「サーモン」が生還したかのように書かれているのですが、
実際は「サーモン」は、援護があったからというより、
ほぼ単独で強力な海防艦2隻を相手にして一歩も引かず、
おりからのスコールに紛れて自力で逃げ切っています。

友軍潜水艦「トリガー」「スターレット」「シルバーサイズ」が
救援要請を受けて駆けつけた時、「サーモン」は爆雷による損傷以外に、
海防艦からの砲撃で艦体の117箇所に損傷を負い、満身創痍の状態でした。

そして、先ほど、「たかね丸」にとどめを刺して沈めたのは
「シルバーサイズ」であった、とわざわざ赤字で書きましたが、
「スターレット」の記録によると、とどめを刺したのは「スターレット」で、
「シルバーサイズ」ではありません。

最後に、念には念を入れて、沈没した「たかね丸」の記録を見てみます。

■タンカー「たかね丸」視点

「たかね丸」は、
「第22号海防艦」「第29号海防艦」「第33号海防艦」と共に
第1補給部隊を編成し、1944年10月21日に徳山を出航、
23日に古仁屋沖に到着の予定で奄美大島に向かった。

任務はレイテ沖海戦に参加する小澤機動部隊への補給だった。
部隊は古仁屋沖に23日午後6時に到着し、
28日から29日に海戦後の小澤機動部隊に対して、
奄美大島で約9500トンの燃料の補給を行った。

 補給後、部隊は奄美大島東口を出航したが、(略)
「たかね丸」の後部機械室付近右舷に2本が命中し、
同船は航行不能となった。
 
この時
「たかね丸」を雷撃したのは米潜水艦「トリガー」だった。
最初に艦首発射管から魚雷6本を発射したが命中せず、
次に艦尾発射管から魚雷4本を発射して
全てを命中させて航行不能にしたという。

これに続いて
米潜水艦「サーモン」が「たかね丸」に
魚雷4本を発射して2本を命中
させたという。

 2隻の米潜水艦のうち「サーモン」は護衛艦の爆雷攻撃で損傷し、
浮上して戦闘を行うことを決意した。

「第22号海防艦」と「サーモン」は大砲や機銃で激しく撃ち合い、
両艦共に被弾したが、「サーモン」はスコールを利用して
燃料を流しながら戦場を離脱した。

交戦した「第22号海防艦」はこの戦闘で戦死者5名、
負傷者20数名を出し、艦首付近に若干の浸水を生じた。

 米潜水艦と海防艦が交戦中、
「たかね丸」は右舷中部に魚雷(3本と推定)を受け
重油に引火し大火焔をあげて沈没した。

これは
米潜水艦「スターレット」による雷撃だった。
同艦は魚雷6本を発射し、4本を命中させたという。



「シルバーサイズ」ははっきり言って何もしてません。


潜水艦の個人的記録が禁じられていたのと、戦果報告が
2ヶ月も後という措置がとられたせいで、この期間に
色々と書き換えやら記憶違いやらが起こった結果でしょう。

わたし個人も、状況から考えて、「シルバーサイズ」は
単にたまたま「サーモン」からのSOSをキャッチして駆けつけ、
サイパンまで警護していっただけで、ウルフパックどころか
攻撃も行っていないのが真実だと考えます。


ちなみにこの時「サーモン」と死闘を演じた第22号海防艦
艦首が大きく沈み、排水作業を行いつつ11月1日に呉に帰投しました。

その右舷には「サーモン」との激戦による無数の弾痕が残されていましたが、
この後も船団護衛などに従事しつつ、無事に終戦を迎えています。

続く。




帰国〜アメリカ滞在

2022-09-23 | アメリカ

わたしたちがピッツバーグからの「弾丸飛行」(ジョン・グレンのじゃないよ)
を済ませてサンフランシスコに帰ってきたそのころ、
まだベイエリアは絶賛ヒートウェイブの真っ只中でした。

高速道路を走ると、電光掲示板に、「ヒートウェイブ・注意」とあります。

一体何をどう注意するんだと思ったのですが、これは要するに、
極力スピードを抑えてガスの排出を抑えましょう、ということらしいです。

その後ヒートウェイブは去り、わたしたちが帰国すると同時に
現地の気温は昼間23℃、夜間17℃というレベルに下がりました。
これで湿度の低いベイエリアは過ごしやすくなるだろうと思いきや、
現在は雨が続いているのだとか。

アメリカでは、すでに台風で浸水の大被害が出た地域もあり、
ここでも異常気象などという言葉が囁かれているようです。


さて。

わたしがピッツバーグに行くまでに、寮への荷物運び込みと整理を済ませ、
ついでに基本的な食材も一緒に買い物に行って買い整えてやったので、
さっそくMKは新しい寮での新生活をスタートさせ、自炊も始めたようです。

しかし、いかに料理が好きといっても所詮は学生の「男の料理」ですから、
百戦錬磨の主婦ほどの応用力も素材を見分ける力もなく、
最初に挑戦した料理は失敗してしまったようです。

初めてオーブンを使って野菜と肉をグリルしてみたようなのですが、
冷蔵庫にトレイのまま手付かずで残っているのを見て聞いたら、

「肉が硬くてすげー悲しかった」

ということでした。

どうやら敗因は肉の種類に合った調理法をしなかったことです。
(煮込み用の肉を叩かずにさっとグリルしてしまったとかね)

MKよ、まあこれも勉強だ。
次からはどうやったら美味しくなるか工夫するんだね。



■イエロージャケット・スカベンジャー



ある日、MKが検索してくれて、ゴルフ場併設のレストランに行きました。
まだヒートウェイブ真っ最中の頃でしたが、夕方なのと、
日陰のテーブルなので、外でご飯を食べるくらいなら大丈夫です。

わたしはゴルフをしないのですが、アメリカのゴルフ場を見るたび、
もしアメリカにずっと住んでいたら始めていたに違いない、と思います。

日本のゴルフ場はたいてい山の中とかにあって、
プレーしない人がグリーンを目にすることはありませんが、
アメリカは街からそう離れていないところに、しかも公園の道沿いとか緑地、
道沿いにあって、ほとんどは周りに柵もありません。

文字通り敷居が低そうで、手軽に始められそうですし、
おそらくは日本でするよりフィーも安いでしょうしね。

このレストランからも、壮年、主婦らしい人、老人、若い人と、
雑多な年代や男女問わず気楽にコースを回っていて、
プレーをしているのが見て楽しめるようになっていました。



このレストランは普通のアメリカ料理がメイン。
MKのリクエストでフライドチキンを一皿頼みました。

料理そのものは普通。
とにかく目の前に広がるゴルフ場のグリーンが目に気持ちよく、
ほとんど場所に価値のあるレストランという感じでしたが、
外ということで、時々虫が飛んでくるのです。

チキンを食べていると、黄色と黒の蜂が一匹、しつこく周りを飛び回り、
手で払っても払っても、すぐに戻ってきて困りました。

(チキンの骨閲覧注意)

あまりにしつこく周りを飛び回るので、全部食べ終わったこともあり
追い払うのをやめたところ、確信的にチキンの骨部分に止まりました。
骨に取り付いて一生懸命何かやっています。

家族三人で、つい観察してしまったのですが、なんとこの蜂、
フライドチキンの骨から、ガシガシっと肉を食いちぎっているのでした。

「もしかしてこの蜂、肉食いちぎってない?」

「うえー、ほんとだ。肉を外してる」

「蜂ってチキンなんか食べていいの?食物連鎖的に」

「奈良で鹿が観光客の捨てたフライドチキン食べてるの見たことあるけど」

「こいつ、この肉を巣に持っていくつもりなのかな」

「こんなの持っていったら女王蜂に追い出されるんじゃない?」

そうして見ていると、大きな肉の塊を食いちぎった蜂は飛んで行き、
そして、2〜3分経った頃、また戻ってきて、
全く同じところに止まり、同じように肉を食いちぎっています。

(次:虫閲覧注意)

後で調べたところ、これは北米に生息するハリナシミツバチ種の一種で、
その名もハゲタカバチという種類の鉢であることがわかったのです。

ミツバチは蜜と花粉から栄養分を得るのに対し、ハゲタカバチは
その名の通りハゲタカのように、彼らは花粉の代わりに
死んだ動物の死骸の肉を食べ、肉を集め、肉の蜂蜜?を生産します。


こういう生物をスカベンジャー(屍肉食動物)と言いますが、
この蜂も、ゴルフ場に隣接したピクニック場のゴミ箱などを目当てに
近くに巣を作っているのだと思われます。

彼らの最も好物なのはまさにこの鶏肉で、なぜかというとそれは
タンパク質の摂取のためと言われています。

英語で黄色い蜂のことを「イエロージャケット」と言いますが、
それこそこいつらをヒーロー戦隊もの風にいうなら、

「イエロー戦隊・スカベンジャーズ」

といったところでしょうか。


■ 友人との再会〜噴火しない溶岩ケーキ

サンフランシスコに住んでいた時からの友人と、3年ぶりに会いました。
コロナ蔓延以降、そもそもわたしが西海岸に行けなくなったので、
世間が平常化した今年、何としででも会いたかった人です。

彼女の夫はアーバインに本社がある有名なゲーム会社のアーティストで、
LA近郊に家があるのですが、彼女自身はアート関係の仕事を引退し、
今は物件を持って賃貸業を営んでいます。

テナントがサンフランシスコ市内にあるので、いつもわたしが渡米すると
彼女は、仕事がてら7時間の距離をドライブして会いにきてくれていました。

今回はそれに加えて、娘さんがサンフランシスコの大学にいるため、
彼女の引っ越し手伝いと、彼女のボーイフレンドに会うという用事を兼ね、
わたしの滞在に合わせてやってきたのでした。



彼女がきた時、家族三人と合計四人で昼ごはんを食べに行きました。

サンマテオの中心街にある、アメリカン・ダイナーとカフェの間みたいな、
ハンバーガーもイタリアンも食べられるというレストランです。

皆で突っつけるように小皿料理をいくつか取りました。
これはそのうちの一つ、ニョッキです。



野菜たっぷりのハンバーガー。これはTOが頼んだもの。



わたしが頼んだのはツナのステーキ(ミディアムレア)。



デザートの一つ、クリームブリュレ。
薄いお皿上のプリン(的なもの)の表面をバーナーで焦がして仕上げます。


「Lava cake」とメニューにあったので、これに目がないMKのリクエストで
頼んでみたんですが、出て来たのを見て、MKがっかりして一言。

「ラーバ、噴火してないし」

アツアツのチョコケーキにフォークを入れるt、
中からあたかも溶岩(ラーバ)のようにチョコレートソースが出てくる。
これをラーバケーキ、日本ではフォンダンショコラと言ったりします。

コロナの影響で閉店してしまったザ・クリフという太平洋沿いのレストランは
ラーバケーキが自慢で、MKはいつもこれを食べたがりました。

ところが、ここのは、そもそもチョコレートの溶岩が流れる前に
クリームソースをかけて固めてしまった状態。
いわば噴火前で、ラーバと呼べる要素はどこにもありません。

「これ・・・もしかしたら失敗したんじゃない?」

「中まで焼けてしまったので、溶岩が流れず、代わりにソースをかけた?」

ヒソヒソ言いながら全員で突っつきましたが、
味は普通にチョコレートケーキでした。


ちなみに、彼女の娘さんとMKは小さい時かなり仲が良く、
わたしたちが会っている間、ほとんど恋人同士のように戯れあっていましたが、
そんな彼らもある夏から急に他人行儀な付き合い?になりました。

そして、今は彼女にも母親に紹介するようなBFがいるというわけです。
(ちなみに前彼は医者志望で、MEDにも合格した優良株だったけど、
あまりにも束縛してくるので嫌になって別れたらしい)

MKには今のところそれらしい気配はありませんが、
彼と同じ年頃の娘息子を持つアメリカ在住の知人たちからは、
いきなり息子が大学からGFを連れて帰ってきて家に泊めたとか、
いつの間にかBFと一緒に暮らしている、などという話を聞かされます。

昔も今も、アメリカの青年たちというのは、気軽にお付き合いを始め、
結婚するしないに関わらずステディな関係を親に公言するのね、
とそのオープンさには文化の違いを感じずにはいられません。

日本もこんな感じなら、少子化はもう少しマシだったのかな、
などとつい考えてしまいました。


■ スタイリッシュ・インディアンキュイジーヌ

日本に帰国する前夜、家族でオシャレ系インド料理に行きました。


一口にエスニック料理のレストランといってもさまざまで、
前回の家族経営のインド料理屋は、キッチンから大きな声で
英語ではない会話と笑い声が筒抜けに聞こえてくるような小さな店で、
まるでインドの家庭の台所でご飯を食べているような気分でしたが、
ここのはバーリンゲームの一等地に新しくできた、謳い文句も

「スタイリッシュ・アップスケール・南インド料理」

upscaleというのは、高級という意味。
そして店名は「サフラン」Saffron と何やら趣味のいい感じです。

昔、ミシュランの星を持っていたこともあるとかで、
(なぜそれが今は無くなったのかはわかりませんが)
家族で食べるアメリカ最後の記念すべき夕食に相応しいという気がしました。



インド料理でエディブルフラワーをあしらったお皿を初めて見ました。

これは、ビーツを使ったサラダで、本来は山羊チーズが乗っていますが、
わたしたちは苦手なので抜いてもらいます。

店内もお花のお皿にふさわしく看板通りのスタイリッシュさ。

来ている客層も、近所のリッチそうな白人ばかりの奥様グループ、
シリコンバレーのテック関係っぽいインド人とアメリカ人の男性、
完璧な英語で会話している白人とインド人のおしゃれな女子、
と、いかにもバーリンゲームという高級住宅街の住人らしき人ばかり。



「Our Secret Recipe」(当店秘伝のレシピ)で作られたという、
お店のシグネチャー、バターチキンは外せません。

一皿25ドルとお高いですが、三人でたっぷり食べられて、
スパイスが効いたスモーキーな味わいのするこのチキンカレー、
お値段以上の価値があると思われました。



追加で頼んだロティとガーリックナンをつけて、
いくらでも食べられてしまうカレーです。



せっかくなのでデザートも頼んでみることにしました。
青のりを乗せたたこ焼きではありません。
こちらでいうところのパフクリーム=シュークリームです。

上の青のりの正体は多分チョコレートだと思います。



■ 出国

次の日、サンマテオのAirbnbをチェックアウトして、
三人で空港に向かいました。



このAirbnbの良かったところは、一にも二にも清潔さ(土足厳禁)。
Whole Foods Marketに近い、280と101どちらの高速にもすぐアクセスできる、
家の前に駐車スペースがある、バストイレが二箇所、とたくさんありますが、
何と言っても空港まで10分で行けるという安心感でした。

MKの寮生活はもう始まっていましたが、偶然この日から二泊、
サンディエゴの知人の家に招待されていたこともあって、しかも
たまたま出発時間がわたしたちの国際便とほぼ同じだったため、
前の晩は家族三人最後に一緒に過ごすことができたのです。



MKを国内線乗り場で降ろして、別れの挨拶をしました。

「ちゃんと野菜食べなさいよ」

「野菜食べるわ」


母親というのは、顔を見れば息子に
野菜を食べろと言わずにいられない生物であると彼は心得ています。

その後レンタカーを返し、チェックインを済ませると、
搭乗時刻まで新しくできたユナイテッドのポラリスラウンジで過ごしました。



ここは中に、オーダーしたものを持ってきてもらえるレストラン
(もちろん無料)があったので、試しに入ってみました。



おすすめは、特別のミートを使用したハンバーガー、とあったので、
一つ頼んでみましたが、これはおすすめというより、
「忙しいキッチンと給仕をする人のためのメニュー」という気がしました。

美味しくないことはなかったですが。



デザートも、あまりに普通。

わざわざ入っておいてなんですが、外のカウンターの料理やデザートの方が
何だか美味しそうで、そっちにすればよかったと思ったのはここだけの話。


さて、いよいよ出発です。



これから滑走路へアプローチ。



離陸。空港の建物が瞬く間に眼下へと。



二本線になって横切っている道路は280号線。
手前の街並みはサンブルーノ市街となります。

ついでに、手前右下のビルはウォルマート地域本社です。



あっという間に西海岸線が見えました。(この間2分くらい)
パシフィカと総称する海岸線です。



最後に見るアメリカ大陸は、ペドロポイントと呼ばれる岬でした。



さて、海の上に出たら窓を閉め、早速映画鑑賞です。
「マーヴェリック」が機内上映されていたので当然これを選びます。



「マーヴェリック」の興行収入は前代未聞というくらい良かったそうですが、
確かに、面白い。
面白いだけでなく、このシーンで一度は涙ぐんでしまいましたよ。

ネタバレになるので詳しくは書きませんが、
これはおそらくフォトショしまくった写真のアイスマンです。



トム・クルーズのファンだったことは一度もないわたしも、
この映画を観て、不覚にも良いなあと思ってしまったほど。

それから、中国資本ということで懸念されていましたがご安心ください。
マーヴェリックのボマージャケットに、ちゃんと日本の国旗ありましたよ!

やっぱりこういうことをちゃんとしたからこそのヒットでしょう。

細部は専門的な目で見ればツッコミどころも多いのだと思いますが、
エンタメとして近来稀に見るよくできた作品だと思います。

今はアマプラなどで有料配信しているようですので、
ぜひ迷っている方は騙されたと思わず、ご覧ください。

このわたしが自信を持ってお勧めいたします。



ここで恒例の機内食シリーズです。
相変わらず全く美味しそうに写っていませんが。



ちょっとはマシかなと思って、写真を撮る時だけ窓を開けてみました。



鯖の煮付け・・・ヒルズデールのやよい軒のより美味しかったです。



朝食は魔がさしてパスタを選んでしまいました。

オリーブオイル主体のトマトソースが液体状だったのが災いして、
パスタ(カネロニ)がソースに落下し、
サンフランシスコのリサイクルショップで買った新品のロロピアーナの
(しかも白)タンクトップの胸にシミがついてしまいました。

悲しかったです。

■入国



さて、わたしたちが帰国したほんの二日前のこと。
日本政府が、3回目のブースターショットを受けた人に限り、
PCR検査を免除するという措置をとることになりました。

しかし、成田に到着した時の機内アナウンスは、前と変わらず
降機したら係員の指示に従って云々、というもの。

まさかまた唾をはかされるんじゃあるまいな?と思っていたら、
途中で書類を回収し、何やらQRコードを入れさせられて、
それでもこれまでからは考えられないくらいスムーズに出ることができました。



途中でこんなものももらいましたが(なぜか赤だったのが今回は青)
入国審査を今は自動受付で行うため、誰にも見せずじまいでした。

というわけで、帰ってきたわけですが、帰った途端、MKから
iPhoneの新しいアップデートで、写真が切り抜けるよー、
というお知らせが入りました。

健康カードと検疫カードは、その新しい機能を試したものです。



こんなこともできるわけだ。





ところで前に住んでいたアパートの道向かいにあった、
このダイナー兼カフェ兼レストラン。

バタージョイントという名前のこのレストランをMKは滅法気に入っており、
わたしたちがいる時も、何かにつけて行きたがり、
ときには友達を誘って、最後の最後の日までリピートしていました。

家族三人で行ったときには、ウェイトレスのお姉さんと世間話をし、
お姉さんは大学院進学おめでとう、向こうで頑張って、
などと激励してくれている様子を見るに、彼はアパートでの一人暮らしで
ここによっぽど通い詰めたんだなと思ったものです。

勉強で忙しい時は、自炊もままならないので、
毎日のようにお世話になったのかもしれません。



おそらく彼にとってのピッツバーグの心の故郷の一つなのでしょう。


アメリカ滞在シリーズ終わり

おまけ;



日本に帰ったら、マンションの入り口で早速お出迎えしてくれた
同じマンションの住民の飼い猫、ひめちゃん。

猫の世界では、目を凝視するのは失礼ということになっているので、
流し目しながら「おかえりー」と挨拶してくれました。




「沖縄丸」撃沈・第9・10回次哨戒〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-09-21 | 軍艦

さて、ミシガン州マスキーゴンのミシガン湖沿いに係留展示されている
潜水艦「シルバーサイズ」の哨戒行動を順に検証しています。

ところで、ピッツバーグ在住の知人にこの話をしたところ、
彼らはマスキーゴンという地名を全く知りませんでした。

まあ、アメリカ広いんで、全ての地名を知っている人なんていませんが、
アメリカに生まれ育った人が、全く耳にしたことすらないというほど、
マスキーゴンというのは知名度がないことだけは確かです。


■ 第9次哨戒と”ダチョウ”?



さて、「シルバーサイズ」の哨戒活動について、そのワードルームの
棚の扉にペイントされた、「乗員が哨戒中描いた撃沈撃破敵船マーク」。

第9次哨戒のそれは冒頭写真のものとなります。

● 貨物船 3,000トン

●貨物船 4,000トン

という彼らが撃沈したとする2隻の日本船を表すマークとともに、
ダチョウのシルエットが描かれています。

第9次哨戒は、1944年の2月15日から4月8日まで行われました。
英語の資料は次のようになっています。

🇺🇸
2月15日、9回目の哨戒のため「シルバーサイズ」は真珠湾を出港し、
マリアナ諸島西方海域に進路を取った。

3月16日、
貨物船「コウフク丸」を撃沈。


この「コウフクマル」が、戸棚に書かれた2隻のうちの一つでしょう。
それでは、日本の資料を見てみます。

🇯🇵
3月5日
グアムアプラ港を偵察して港内に2隻の輸送船がいるのを発見
パラオ方面で哨戒をするも攻撃の機会はなかなかつかめなかった。

しかし、3月15日未明に至り北緯07度12分 東経134度30分の地点で
千鳥型水雷艇と3隻の駆潜艇らしき艦艇に護衛された
3隻の輸送船団を発見する。

船団がラバウルかウェワク方面に向かうと判断し、浮上して追跡を行う。

幾度となく行われた爆雷攻撃をかいくぐって、
3月16日午後に北緯04度28分 東経136度56分の地点で魚雷を3本発射。

魚雷は

陸軍船「光福丸」(大光商船、1,920トン)
に2本命中、これを撃沈した。

「光福丸」の記録は戦没戦時徴用船のデータにも残っていて、
沈没地点はビアク島北東沖、となっています。
             
戸棚に描かれた3,000トンの輸送船が「光福丸」を指すと思われます。

攻撃後はマノクワリ近海での哨戒に転じ、3月28日午後には
南緯00度55分 東経134度20分で
日本陸軍の海上トラックに対して
魚雷を4本発射し、1本の命中を得て撃沈した。

この時の「海上トラック」については、それ以上の資料はありません。

海上トラックとは、おそらく揚陸艦の一つである
陸軍の機動艇のことであろうかと思われます。

陸軍機動第19号艇



4月8日、「シルバーサイズ」は52日間の行動を終えます。
その後ブリスベンに帰投した訳ですが、ここで今一度、
艦長がコイ少佐に交代してからの哨戒行動を見てみます。


第9次哨戒の航路をわかりやすく青で上書きしました。
真珠湾は赤い丸、そして「光福丸」を撃沈した地点が
塗りつぶした赤い丸で示しました。

というわけでダチョウです。

オーストラリアにダチョウっていたのか・・・と思ったのですが、
ふと、「オーストラリアの国鳥(非公式)はエミュー」と気付きました。



なるほど、シルエットはブリスベーンに戻ったことから、
エミューのつもりだったんですね。


■ 「撃沈ペイント扉」が無くなった第10次哨戒

ここであることに気がつきました。

ワードルームの物入れの扉を利用した「シルバーサイズ」撃沈艦ペイントが、
第9次のエミューを最後に、なくなってしまったのです。

写真を隅から隅まで見ましたが、他の部屋にもそれはありません。

その理由を考えてみたのですが、単に
哨戒数がペイントするための扉の枚数を超えた
ということに過ぎなかったようです。

哨戒が始まった時には、ワードルームの両側に並ぶ扉を
撃沈ペイントで埋めていくというのはいい考えと思われたでしょう。

ただ、そのことを決めた初代艦長はじめ、誰一人、
扉が9枚しかないということ、つまりそれを使い切ってしまったら
その時はどうすればいいのかを考えもしなかったようなのです。

哨戒の回数がそれ以上になる可能性について、
初代の乗組員と艦長は誰も言及しなかったのでしょうか。

そうかもしれません。

このことは、あの戦争で、潜水艦任務という任務に身を置く彼らが、
自分たちの運命に対してさえ恬淡と有ろうとするあまり、
むしろそのことは暗黙の了解のもとに誰も口にしなかったのでしょう。

ペイントするべき扉がなくなる第10次哨戒まで
「シルバーサイズ」が駆逐艦や航空機の爆雷に遭わずにいられるか。

不慮の事故や触雷もせずに生き残ることができるかどうか。

10枚目の扉が必要になるまで、この艦が沈まず生き残れるかどうか。

彼らはむしろその先について、考えることをやめたのだと思うのです。



それでは第10次哨戒を、日米の記録から検証します。
第10次哨戒は、ブリスベーンを4月26日に出発し、その後
マリアナ諸島海域へと哨戒海域を定めました。

🇺🇸
5月10日
貨物船「沖縄丸」
客船・貨物船「御影丸」
砲艦「第二長安丸」

を沈没させるという快挙を成し遂げた。


🇯🇵
5月8日
北緯13度42分東経144度22分の地点で
5隻の護衛艦がついた6隻か7隻の輸送船団を発見。

艦尾発射管から魚雷を4本発射して
5,000トン級輸送船に1本の命中を得たと判断される。


日本側の記録にあるこの5,000トン級輸送船については、
相当する船名がわかっておらず、さらには
アメリカ側の、つまり「シルバーサイズ」の行動日誌にも残されていません。


5月9日
アプラ港外で東松七号船団(往航)から分派された輸送船団を追跡開始。


5月10日
朝に北緯11度26分 東経143度46分の地点で魚雷を6本発射する。
魚雷は、

輸送船「沖縄丸」(広南汽船、2,254トン)
特設運送船(給炭油)「第十八御影丸」(武庫汽船、4,319トン)
特設運送船「第二号長安丸」(東亜海運、2,631トン)


にそれぞれ命中して撃沈した。


■ 撃沈された船団

まず、「第二号長安丸」は、昭和2年から10年まで
神戸と天津の間を往復していた貨物船ですが、
昭和11年に陸軍に徴用されてからは関東軍隷下で兵の輸送を行い、
その後戦争が始まったので三菱重工で艤装工事を加えて
昭和16年には軍艦旗を掲揚する特設砲艦となりました。

「シルバーサイズ」の攻撃を受けた時は、特設運送船として
トラックの第四艦隊の第四根拠地隊に所属していました。

「第十八御影丸」は船歴などは検索できませんでした。
特設運送船(給炭)、特設運送船(給炭油)は、
海軍に徴用された5千トン以上の貨物船のことを言います。

この時撃沈された「第十八御影丸」ですが、「シルバーサイズ」が
少なくとも48発あった爆雷攻撃の後浮上してみると、
周囲海域には、そのバラバラになった残骸が漂っていたということです。


「沖縄丸」についてはちょっと説明が必要です。
皆様は、日露戦争関連でこの船名に聞き覚えはないでしょうか。

「沖縄丸」は日本の逓信省に所属した海底ケーブル敷設船で、
日本最初の本格的海底ケーブル敷設船でもあります。

明治維新後、日本の対外電信線の敷設は、
デンマークの大北電信会社が独占して行っていました。

これに対し日本は国内線の海底ケーブルの敷設を決め、
1890年(明治23年)に敷設を成功させていましたが、
日清戦争で獲得した台湾に、海底ケーブルによる電信敷設することが
喫緊の情勢となったため、イギリスに本格的海底ケーブル敷設船、
受注し建造させたのが「沖縄丸」でした。

ちなみに船名の由来は、台湾への経由地である沖縄県という説の他、
「沖の縄」で海底ケーブルの意味だとする説もあるそうです。


「沖縄丸」は、最初の任務として台湾軍用線のために
日本本土と台湾の間で全長1935kmの海底ケーブル敷設を行いました。

そして、日露戦争が勃発します。

「沖縄丸」は、徴用船に準じた扱いで日本海軍の指揮下に入り、
正規海底ケーブル敷設船として、戦場各地の軍用通信網の整備を行いました。

開戦が約1か月前に迫っていた1903年(明治36年)末、
「沖縄丸」正体を偽装するための工事を施され、
(機密保持のため、乗員は誓約書を提出させられている)
船名も「富士丸」として作業を行います。

与えられた任務は、朝鮮半島の木浦(八口浦)と佐世保、
馬山浦(鎮海湾)と対馬を結ぶ軍用電信線を敷設することでした。

開戦後は旅順要塞付近で軍艦による護衛を受けながら、
あるいはバルチック艦隊の来航に備えて、
対馬海峡周辺の海軍望楼などを結ぶ海底電信線の敷設も行いました。

「沖縄丸」の活躍により構築された濃密な警戒網は、
日本海海戦における日本海軍の勝利にも貢献したとされ、
船尾に日本海軍軍艦の艦首と同様、菊花紋章の飾りが取り付けられ、
1905年の東京湾凱旋観艦式には海軍艦船以外で唯一参加しています。

wiki

日露戦争後に撮影された沖縄丸の船尾には、
菊花紋章の飾りが見えています。


第一次世界大戦に日本が参戦すると、「沖縄丸」は再び
軍用通信線の敷設に動員され、青島の戦いに際しては、
防護巡洋艦「新高」や「笠置」援護の下、海底電信線を敷設しました。

その他の活躍により、第一次世界大戦後の観艦式は
再び海軍艦船以外で唯一参加を許されています。

第二次世界大戦が始まったとき、「沖縄丸」は老艦になっていました。
一度は記念艦として保存が検討されたこともあったようですが、
戦況が切羽詰まってくると、海軍に徴用されることになります。

最後は松輸送の東松7号船団に参加して、5月6日にサイパン島へ到着、
さらに別の船団に加わってグアム島経由、ヤップ島に向かう途中、
「シルバーサイズ」の雷撃を受けて沈没したのでした。


■ 第10次哨戒のその後

その戦果を記すべき戸棚の扉を持たなくなった「シルバーサイズ」が
おそらくそれ以前の全ての哨戒をはるかに凌駕するほど、
日本の艦船を次々と撃沈し続けたのは皮肉なことです。

🇺🇸
その10日後、またもや
砲艦「松清丸」(998トン)を沈め、戦果を挙げた。
5月29日には、
貨物船「昭建丸」「蓬莱山丸」

を魚雷で撃沈する。

最終的にマリアナ諸島沖で
敵艦6隻、総トン数14,000トン以上を撃沈した。

🇯🇵
5月20日

北緯13度32分 東経144度36分の地点で大型輸送船と護衛艦4隻に
魚雷を4本発射して2本が命中したと判断される。

5月28日
輸送船2隻と第16号海防艦からなる第3519船団を発見、追跡。

5月29日
北緯16度19分 東経145度21分のサイパン島西岸沖で
魚雷を3本ずつ計6本発射。

陸軍船昭建丸(東和汽船、1,949トン)
海軍徴傭船蓬莱山丸(鶴丸汽船、1,999トン)


を撃沈し船団を全滅させた。

5月30日
北緯15度33分 東経145度23分の地点で新たな輸送船団を発見し、
ピンタド (USS Pintado, SS-387)、
シャーク (USS Shark, SS-314)、
パイロットフィッシュ (USS Pilotfish, SS-386) 

からなる別のウルフパックを呼び寄せて攻撃を行う。


ウルフパックを召喚した時には戦果に結びつけることはなかったようです。

この時、「シルバーサイズ」は連続してフィーバー状態だったため、
魚雷が底をついてしまい、哨戒を切り上げて帰ることにしました。



第10回哨戒において、「シルバーサイズ」が文字通り
阿修羅のように日本船を撃沈しまくったのは、赤丸の地点となります。


6月11日、「シルバーサイズ」は47日間の行動を終えて真珠湾に帰投。

メア・アイランド海軍造船所に回航されオーバーホールを行った後、
9月12日に真珠湾に帰投しました。


続く。