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「シルバーサイズ」のタブーとその戦後

2022-10-09 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている「シルバーサイズ」。

その精強さは第二次世界大戦中の米潜水艦トップレベルだっただけあって、
数多くの伝説が残っている上、
調べればいくらでも後世作成された映像資料などが出てきます。

今日はまず、スミソニアン歴史センターが作成した、
「シルバーサイズ」最初の哨戒における漁船との戦いをご覧ください。
ちゃんと漁船の名前「恵比寿丸」も明らかにしています。

A Surprisingly Tense Battle Between a U.S. Sub and a Fishing Boat

東洋系の役者の数が揃わなかったのか、銃手ともう一人しか
「恵比寿丸」の乗員が登場しませんが、この銃手がイケメンなので許す。

問題があるとすれば、「恵比寿丸」は民間漁船なのに、
なぜか乗員が海軍の略帽を被っていることですが、
「シルバーサイズ」が最初に犠牲者を出した戦闘の迫力は伝わります。

ちょっと注目していただきたいのは、1:30〜から、
元海上自衛隊海将の香田洋二氏が登場して英語でコメントしていること。

「彼らが基本的に武装していたのは、
主に機関銃と、2~3個の深海爆雷ですね。
そしてもちろん、無線機も。
『シルバーサイズ』は、この船(漁船)のミッションを

正しく理解していなかったんじゃないでしょうか」

第一次哨戒について取り上げたときにも書きましたが、
「シルバーサイズ」はこの漁船と遭遇したとき、
まさか相手がこれほど重武装しているとは想像していませんでした。

このブログ読者の方を驚かせるほど、莫大な無駄弾を放ち、反撃し、
ようやく相手を倒したときには、貴重な砲手を一人失っていたのですが、
番組制作(スミソニアン)は、その痛い失点を、
「シルバーサイズ」が初めての哨戒で相手を単なる漁船だと思い込み、
侮っていたせいだった、ということを結論づけようとして、
わざわざ香田氏にこのようなコメントを求めた気がします。



■潜水艦の「Superstition 迷信」


当ブログではすでに何度も?取り上げている気がする、
「シルバーサイズ」のお守り、金色の布袋さんことラッキーブッダについて、
博物館の別のコーナーで「迷信」として取り上げていたので、
繰り返しになりますが書いておきます。

【仏像】

「シルバーサイズ」で最もよく知られていた幸運のお守り、
それは金色の小さな仏像です。

Robert Trumbull の著書「シルバーサイズ」によると、
仏像を持ち込んだ人物については二つの説があり、
一人はあの水兵、
マイク・ハービンだったというものです。


彼が最初の哨戒で武装漁船の銃撃の弾を受け亡くなったのは、
わずかその10日後のことでした。

そしてもう一人はというと、艦長の
クリード・バーリンゲームだった説。

ハービン、バーリンゲーム、どちらの人物も仏教徒ではなかったので、
彼らのどちらが持ち込んだかについても謎のままかもしれませんが、
ただ一つわかっているのは、この仏像が「シルバーサイズ」の現役中、
常に後部魚雷室に搭載されており、乗員は魚雷を発射する前に、
願を懸ける意味を込めて、お腹をこすっていたということです。



その「迷信」は戦時中製作された国策潜水艦映画でも再現されました。
実際の仏像を参考にしたのか、大きさも形も全く同じです。

最初の哨戒が成功した直後、魚雷室勤務の乗員たちは
オリジナルと同じ仏像を木彫りで作ってもらい、
それをバーリンゲーム艦長にプレゼントしました。

バーリンゲーム艦長は、それを元にして、オリジナルと全く同じ仏像を
キャストで二体制作させ、一体を司令塔に、そして
前後の魚雷発射室に1体ずつ「装備」するように命じました。


こういう場合に取り上げるにふさわしい言葉かどうかわかりませんが、
「鰯の頭も信心から」といわれるように、森羅万象に神を見る我が日本では、
なんでもない路傍の石や木でも、ある日誰かがそれらしいしつらえをすると、
そこはあっという間に信仰の対象となり、人々が立ち止まって頭を下げ、
拝み、賽銭を投げるようになって、そのうち社殿が建つそうです。

アメリカ人にそんな「慣習」はありませんが、「シルバーサイズ」では、
戦争という状況の中で「具体的な祈りの対象」が必要とされたのでしょう。

そして「シルバーサイズ」が、その哨戒で幾度となく危機を脱し、
もう最後という状況から生還するというような「奇跡」が重なると、
男たちの仏像に対する「信仰心」はいや増していきました。

哨戒の数が重なってくると、乗員は、この布袋さんのために神棚を作り、
のみならずそこにペニーのお賽銭を入れるブリキ缶まであったそうです。

三体の仏像は、14回の哨戒全てに「同行」しました。

乗員の中には、「シルバーサイズ」が終戦まで生き残り、
素晴らしい成績を上げたのは仏像のおかげと思っていた人もいたでしょう。

彼らはおそらくが全員キリスト教徒だったはずですが、主への祈りより、
この仏像の「ご利益」をあてにしていたかと思うと、不思議な気がします。

いずれにしてもこの類のことは、戦時中ならではで、
平常時では決して起こらなかったに違いありません。

【哨戒中の”ジンクス”】


「シルバーサイズ」初代副長ダヴェンポートは、
当時の若者にありがちな「カメラが趣味」の人でした。

普通では後世に残ることがない、哨戒中の無資格手術のシーンも、
その後無事に盲腸を切ってもらった人と切った人の記念写真も、
全てダヴェンポート副長が熱心にシャッターを切ったものです。



これはどこかはわかりませんが、USS「ポラック」Pollack SS-180
が潜望鏡越しに撮影した、日本の本土の写真です。



USS「プランジャー」が潜望鏡越しに撮った船が沈む光景。
検索すると、潜望鏡越しに撮った、船が沈む写真がいくつか見つかります。
ダヴェンポートはこんな風に記録を残したかったのでしょう。

しかし、この写真撮影については、ある時からタブーとなりました。
船団攻撃の後は決して潜望鏡越しに写真を撮ってはいけないという
「ジンクス」が、「シルバーサイズ」に生まれたのです。


ある哨戒で、「シルバーサイズ」が船団攻撃を行なった後、
ダヴェンポート副長は、バーリンゲーム艦長に、
潜望鏡を通して海面の写真を撮らせてほしいと頼みました。

攻撃後の船がどうやって沈んでいくか記録に残し、
その戦果を確実なものにしようと考えたのです。

しかし、ダヴェンポートが写真を撮るために潜望鏡を上げた瞬間、
船団を援護していた護衛艦がその潜望鏡を発見し、
爆弾を降らせ、危うく「シルバーサイズ」は粉々になるところでした。

しかも、ダヴェンポート副長は急いでいたせいか、
その時フィルムを表裏逆に装填していたため、
高価なフィルムを全てダメにしてしまったというおまけ付きです。

バーリンゲーム艦長はこの後、誰に対しても
潜望鏡越しの撮影を許可しなくなりました。

ただし、コイ艦長、ニコルズ艦長の時代には、ジンクスはなくなり、
事実、潜望鏡越し撮影をしても特に悪いことは起こらなかったそうです。

わたしが気になるのは、この潜望鏡事件でトラウマを持ったはずの
ダヴェンポート副長が、後に艦長となったとき、
部下に潜望鏡撮影を許したかどうかですが・・・。


■ 戦後の活躍:1945年~1969年

グアムで終戦を知った「シルバーサイズ」は1945年9月15日、
パナマ運河を通過し、9月21日にニューヨーク市に到着しました。

コネチカット州ニューロンドンに転属後、1946年4月17日に退役し、
1947年10月15日まで予備艦としてイリノイ州シカゴで
海軍予備役訓練艦として使用されていました。


シカゴ到着時の「シルバーサイズ」
艦体の凹みが目立つ

1949年に乾ドックで最後にオーバーホールを受け、残りの期間、
定置訓練船としてシカゴで海軍予備役訓練の支援にあたりました。

その後予備役艦隊に入り、真鍮製の固体プロペラが取り外されました。


1962年11月6日、「シルバーサイズ」は、係留中のまま
船体分類記号AGSS-236、補助潜水艦に再分類され、
1969年6月30日に海軍船舶登録簿からその名前が抹消されます。

シカゴではしばらく道路に放置されていた模様

本来ならここでスクラップになるところですが、
彼女の戦争中の功績が大きい「殊勲艦」だったため、
シカゴの商工会議所が中心となって、
「シルバーサイズ」をシカゴで保存するよう海軍に要請し
1980年代半ばにシカゴの海軍区画で保存し、商工会議所は、
速やかにアメリカ海軍省に「シルバーサイズ」の保存を申請しました。

■1973年-現在

「シルバーサイズ」は 1973 年 5 月 24 日にイリノイ州シカゴの
五大湖海軍連合協会の一部となりました。

そして、その輝かしい歴史と技術的な驚異に惹かれた
献身的なボランティアの小さなクルーによって、
何年にもわたって管理されてきたのです。

彼らは、何万時間もの修復作業を行い、自費でメンテナンスを行い、
説明員や付き添い役も務めました。

しかし、保存が正式決定されるまでの「シルバーサイズ」の状態は
最善のものどころか、お世辞にも良いとはいえませんでした。

1973年5月24日、当時五大湖海軍協会の所有物だった
「シルバーサイズ」の艦内に入ったボランティアが見たものは、
長年放置されたおかげで船体内部の至る所がかび臭く、
腐食した箇所から浸水した艦内の惨状で、
塗装がはげ落ちた艦内外には、ガラクタが散乱していました。


冷凍室は長い年月を経て、ミリ単位ではなく、
数インチ単位で測れるほど厚く成長していましたし、
前部のコンパートメントには水害の跡が残っていました。
かろうじて後部のコンパートメントはそれなりに良い状態だったとはいえ、
後はデッキも上部構造も相当傷んでいました。

上面では、デッキは風化し、部分的に摩耗しており、
上部構造のいくつかの部分は錆びていて交換が必要と思われました。

ボランティアは総力を挙げて、「シルバーサイズ」の腐食した箇所を
徹底的に修理し、腐ったロープが交換され、船は桟橋に再び固定され、
ビルジはポンプで乾燥され、電力と熱が船内に供給され、
3番魚雷発射管の漏れが塞がれました。

最初に行われた大改装は、水線までの船体の剥離、下塗り、再塗装です。

この作業はミシガン州の厳しい冬の間は中断され、数カ月を要したものの、
完成すると艦体はほぼ新品同様の姿に生まれ変わりました。

デッキの下は、艦体の洗浄と一般的な修復が行われました。

艦内のあらゆる場所に光が届くように配線が大幅に変更され、
配管はかつて凍結したパイプからの漏れを調査し、修復しました。

1975年には主機関の
フェアバンクス・モース38D-1/8 10気筒ディーゼルエンジン
を再稼動させることに成功しています。

1979年7月、1946年以来初めて主機である3号エンジンが、
4号は1984年の米国潜水艦退役軍人大会に間に合うように修復されます。

1979年には海軍区画にとりあえず移動させたのですが、
この間、非営利団体と行政側に収入に関するトラブルが発生し、
司法が介入してゴタゴタが起こってしまいます。

このため「シルバーサイズ」の復活に貢献したボランティアは
最終的に行政側と決別する1985年まで、
行政側からのひどい侮辱?を受ける事態になりました。


1987年、この潜水艦は現在のミシガン州マスキーゴンに移され、
五大湖海軍記念&博物館の目玉として展示されることになりました。

シカゴ・トリビューン紙(Silversides gets Hero's Welcome)によると、
マスキーゴンに到着したとき、この有名な軍艦を新しい居住地に迎えるために
大勢の人が集まり、歓迎の大きな旗が掲げられたと言うことです。

しかしながらここに艦体を移動した際、「シルバーサイズ」内部の備品等
(つまり盗品)が行政側によって売りさばかれるという醜聞がありました。

当時シカゴでは新しい海軍博物館が1億5千万ドルで計画されていましたが、
(多分わたしが最初に見たU-505の展示してある博物館のこと)
「シルバーサイズ」の保存はいずれにせよ行政の眼中にはなかったようです。

その後「シルバーサイズ」の所有権は移り、新たな所有者のもとで
1991年に再改修を施されましたが、吃水線下はひどい状態のままでした。

■ 保存活動

シルバーサイズは以上の経緯で、記念艦として
マスケゴンの潜水艦記念館で保存されています。

通常、アメリカ海軍の潜水艦は現役の間は5年ごとに乾ドックに入ります。
「シルバーサイズ」の保存維持間隔は25年ごととなっていますが、
「シルバーサイズ」が最後に乾ドックで修復されてから55年後の2004年、
記念館と元潜水艦乗組員による退役軍人協会が保存のため、
「シルバーサイドを救う」という名称の基金を設立し、
退役軍人グループと軍事出版物を通じて、寄付を募り始めました。

この先例としては、ウィスコンシン州マニトワックに係留保存されている
「コビア」 (USS Cobia, SS-245) の基金集めがあります。
 
■ 映画「ビロウ」出演

また、当ブログでも紹介しましたが、「シルバーサイズ」は
2002年映画『ビロウ』に出演しています。

わたしがシカゴからわざわざ車でこれを見にきたのも、
そもそも「ビロウ」で取り上げたことがきっかけだったわけですが、
実際に内部を見て、その艦内のあまりの狭さに、
映画で撮影された艦内のシーンは、ほとんどがセットだと確信しました。
(機関類とかの前の撮影はもしかしたら本物かもですが)

当初一体どこの部分で彼女が出演していたのか不思議でもあったのですが、
実は結構大掛かりな話で、「シルバーサイズ」は、
劇中、架空の潜水艦「タイガーシャーク 」(USS Tiger Shark) として
わざわざマスキーゴンからミシガン湖まで曳航され、
海上を航走するシーンを撮影しているのだそうです。

この時「シルバーサイズ」を実際に使ったと思われるシーンをあげてみます。








しかし、
この映画は興行的に全くヒットせず、
収入はわずか58万9000ドルと芳しくない結果でした。

ついでに専門家からの評価もかなり辛辣だったということですが、
その理由は、当ブログの紹介欄を読んでいただければ、
どなたでも「あ、・・・・察し」となるのではないでしょうか。

これだけ大々的に潜水艦を稼働させる話なんて滅多にありませんから、
潜水艦保存協会としては思わず飛びついてしまったのかもしれませんが、
それにしても契約する前に、もう少し映画の脚本を読もうよ・・・。

他でもない、「呪われた潜水艦」の話に出演させたとわかったら、
かつての乗組員たちだっていい気はしないと思うぞ。


■ 週末のキャンプ



実はわたくし、「シルバーサイズ」シリーズを始めてから、
博物館のライブカメラのサイトをしょっちゅう覗いています。

大抵は時差の関係で真っ暗な中、光が揺れていたりして、
そんな時も艦内には明かりが灯っているらしいのが見え、
週末の昼には見学者の姿があるのを確認してはちょっと安心したり。

ある週末、何気なく早朝のライブカメラを覗いてみたら、
艦内から毛布を持った子供が出てきたので驚きました

そういえば、「シルバーサイズ」では、週末に
潜水艦の中で一泊というお泊まり体験ができるんだった。


『USSシルバーサイズ潜水艦に一晩滞在する』

シルバーサイズ・ミュージアムでの宿泊

USSシルバーサイズ・サブマリン・ミュージアムの歴史的な艦船に
一晩乗り込み、歴史を再現するツアーです。
甲板を歩き、潜水艦とカッターを探検し、
かつて勇敢な男たちが国に奉仕した寝台で眠ります。

どんなグループにとっても忘れられない体験となるこの宿泊プログラムは、
スカウトや青少年のグループ、家族や大人だけの
チームビルディングのイベントにも適しています。

宿泊のご予約は、1グループ20名様以上からとなります
宿泊キャンプは5歳以上であれば誰でも参加できます。
USSシルバーサイズは、最大72名の宿泊参加者を収容可能です。
USCGC McLaneはさらに38名まで収容可能です。

ご予約後10日以内に$200.00のデポジット
(返金・譲渡不可)をお支払いください。

宿泊のための最終デポジットは、実際の宿泊日の60日前
(60日以内に予約された場合は30日前)までにお支払いください。
最終手付金は、参加者数×宿泊料金から
200ドルの手付金を差し引いた金額となります。
ノーショーの場合、払い戻しや交換はできません。

価格と登録
金曜日~日曜日: $40.00
月曜日~木曜日: $35.00
20名様以上のご予約が必要です。

価格は1人1泊の料金で、食事は含まれません。


年に一度、70年以上前に任務を終えた後も、
この潜水艦が動くことを証明するために
モーターを始動する特別イベントも開催されています。



どうやら朝起きて解散らしく、甲板に子供と親がいたのは7時ごろ。
見ていたら、通りかかった貨物船に皆で手を振っていました。

こんな体験が実際の軍艦でできるなんて。
アメリカの子供が羨ましくなるのはこんな時です。


続く。




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3 Comments

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3インチ砲 (Unknown)
2022-10-09 07:07:57
スミソニアンの映画?見ました。香田さんが出て来られたのにはビックリでした。確かアナポリスの教官?をなさっていたと思いますが、英語は聞き取りやすかったです。

概ね史実通りに作られているだろうと思いますが、ビックリしたのはワイヤーフレーム動画の3インチ砲。薬室より前は3インチ砲ですが、薬室よりうしろは40ミリ機関砲ですよー。

3インチ砲は一発一発、うしろから装てん手が込めますが、40ミリ機関砲は5発入りの弾倉で給弾します。スミソニアンともあろうものがいい加減というか、どこからあんな、実際にはないものを考え出したのか(謎)

コロナ禍前の自衛隊では、募集対象者に体験入隊?で、船でのお泊り会をやっていました。
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特設監視艇 (お節介船屋)
2022-10-09 10:12:08
>なぜか乗員が海軍の略帽を被っていることですが、

漁船を主に小型船舶を多数動員しました。特設特務艇として駆潜艇、敷設艇等があり、監視艇は哨戒業務に従事しましたが100t内外の漁船で甲、乙の2種類があり、甲は100t以上の遠洋漁船、乙は100t未満から50tの沿岸漁船であり、兵装の無い船もありましたが7.7㎜機銃1丁装備が基本で甲が船首に乙が船橋上としていました。昭和17年以降爆雷2~4個搭載、昭和19年以降砲や25㎜、13㎜機銃増備が行われました。電探は19年以降大型艇若干に装備されました。
船は徴用され海軍特設特務艇でしたが占領地で拿捕したりした船に無籍艇もありました。

海軍艦艇ですので乗員は軍人であり、基本は准士官2名と兵員で、固有の漁船員が若干参加していました。漁船時代より多くの兵員数であり、船倉等を改造し、居住していましたが狭く、出動期間が長いため、真水、糧食、燃料等の搭載が多い上に、兵装の増備があれば増員があり、一層苦しい状況となってしまいました。

写真にも多くの海軍事業服で船橋上で業務する姿が撮影されています。

船首から機銃の発射が見られ、甲
であり、7.7㎜機銃と見えますので史実をなぞっての撮影と思います。
このようには敵発見が艇の最期となった場合が多いです。

参照光人社福井静夫著「日本特設艦船物語」
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潜望鏡から撮影された商船 (お節介船屋)
2022-10-09 10:42:53
大きく撮影された貨物船
中央に船橋があり前後に門型ポストデリック1組とその前後にメーンマストを持った約8000総トン級の高速大型平甲板型貨物船であり当時の優秀船であり陸海軍に徴用され、特設運送船とされた1隻と思います。

もう1枚スキップジャックからの撮影は中央に船橋があり、前後にメーンマストのみであり、デリックがないので1万総トン前後のタンカーと思われますが煙突が中央にあり、このころのタンカーは船尾に機関室がありましたのでちょっと違う船影ですがあまり鮮明でないので判断が難しいです。
いずれにしても徴用された特設運送船でしょう。

なお商船乗り組みの高等商船学校卒の高級船員は予備士官であり、おそらく戦時でそのまま海軍士官として乗船しており、機銃や砲の取り扱いに海軍兵員が乗り組んでいたのでしょう。

このように撮影された以上攻撃され撃沈されたように思われ、護衛や対潜戦状況がないようで非常に残念な状況です。
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