ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

シリコンバレーの地下高騰とリモートワークの関係〜ベイエリア滞在

2022-09-19 | アメリカ


さて、MKの大学寮の部屋に荷物を入れる仕事が終わりました。


なべて男の子というのは(全てがそうかどうかはわかりません)
パソコンの設置やデバイスの配置などには滅法熱心ですが、
自分のものであっても他の所持品(特に洋服の類)には全く無関心です。

全てをケースから取り出し、ハンガーにかけたり、
引き出しに畳んで入れたり、並べたりという仕事は、母親に任せっぱなし。

「引き出しの上はTシャツ、一番下はジーンズとかね」

「ん」

「ダウンはいつ使うか分からないから袋から出さないでおくね」

「おけ」

といった調子で、何を言ってもその答えは一言。
つまりどうでもいいのです。

わたしなど、ホテルにチェックインしたら、どんなに疲れていても、
トランクから荷物を出してクローゼットと引き出しに収納しないと
気が済まないタチですが、こいつは、もしわたしという母親がいなければ、
全てを引っ越しケースに入れたままにしておいて、なんなら
必要になったらその都度出して使うつもりではと疑われました。

MKと同じような留学生のお子さんをお持ちの方によると、
日用品の買い物なども、彼らは母親に丸投げ?しがちなのだとか。

これが女の子だと自分でやってしまう傾向にあるということなのですが、
男の子供に対しては母親が世話を焼いてしまいがち。
よって彼らは、どこかでそれが当然と思う傾向を持つのかもしれません。

これが重篤になってマザコン化しないよう、うちもそろそろ放置かな。



引越しといえば、仕事でロンドンに住んでいた知人は、
向こうで、ヤマトの「らくらくパック」という、荷造りから運び込み、
梱包も全てやってくれるプランを使って、滅法楽だったそうです。

この日は前を走っていた「米国ヤマト運輸」のトラックを発見。
アメリカに赴任する日本人ビジネスマン家族御用達のようですね。

引越しらくらく海外パック


■ レイバー・デーの弾丸往復飛行

今回の旅行中、一番キツかったのが、帰国寸前の

「サンフランシスコからピッツバーグまで行って、28時間の滞在で帰ってくる」

という弾丸ツァーでした。

どうしてこんなことになったのか、実はいまだによく理解できないのですが、
つまりカードのポイントで取ったチケットを変更しようとして
その結果起こったシステム上のバグみたいなものだと思います。

最初に予定していたサンフランシスコからの帰国を、
諸々の理由により早めようとしたところ、セットで注文していたため
日本行きだけを変更するということができず、やむなく

「ピッツバーグ→サンフランシスコ→日本」

をセットで新たに予約するという形になりました。

どういうことかというと、日本に帰るためには、
「ピッツバーグ→サンフランシスコ」からやり直すのです。

というわけで、まずピッツバーグに戻るわけですが、基本的に
サンフランシスコ→ピッツバーグは直行便が少なく、取れたチケットは23時発。

到着したら朝7時なので、空港近くのホテルにチェックインし、
翌日の朝、サンフランシスコまで帰るという文字通りの弾丸飛行です。

しかも出発の日、アメリカはレイバーデイの真っ最中で、
のちのニュースでは、過去最高というくらい人が移動したらしく、
空港は激混み、深夜便は満席という状態でした。



ホテルは、これも貯まっていたポイントを利用して、
マリオット系列の空港ホテルを二泊分予約しました。

朝7時に到着してそのまますぐ仮眠を取るためです。

28時間の滞在なので必要ないかと最初は思いましたが、
色々考えて、レンタカーを借りることにしました。
ピッツバーグ空港のレンタカーは空港ビルのすぐ隣にあって、
ホテルまでのシャトルバスを待つよりずっと楽と思ったのです。

ところが、車をゲットした後IDチェックしてゲートを開ける係が来ておらず、
誰か来るのをただひたすら待つ羽目になりました。

7時に空港に到着し、30分には車に乗っていたのに、
アフリカ系の眠そうな女性が出勤してきたのは8時10分です。

「10分遅刻しとるやないかい」

「いや、アメリカでは10分は定刻の範囲内」

「しかし眠そうな顔してるね」

「レイバーデイなのに働かされて疲れてるのかな」

などと言いながら、彼女が起動してゲートを開けるのを待ち、
その後ホテルにチェックインしました。

そこでフロントでの第一声、「ハウアーユー?」の挨拶に、こちらも慣例的に
「グッド、ハウアーユー?」と返したのですが、フロント係の中年女性から、

「I’m tired.」

という変則的な返事が返ってきたのには驚きました。

レイバーデイは、労働者の祝日、いわゆる勤労感謝の日なんですが、
夏の終わりの大々的な連休でもあるので、民族大移動状態になります。

日本のお盆や大型連休と同じ状態ですが、今年のレイバーデーは
COVID-19の規制がほぼ全面的に撤廃され、
空港でもマスクは強制されなくなったということもあって、
交通機関を利用して移動した人口はここ何年かで最高だったそうです。

ただし、これも日本と同じで、そういう期間中、ホテルや飲食業、
サービス業のレイバーはいつもより忙しく働かなくてはならないので、
彼女もこの期間、目の回るような忙しさだったのに違いありません。



この日はレイバーデー明けの月曜日だったので、
ポイントでアップグレードもしてもらえました。

「ゆっくり部屋でお休みください」

とフロントに声をかけられてチェックインし、
一寝入りして起きたらお昼の2時。

せっかく車を借りたからには、ピッツバーグ市内にご飯を食べに行かねば。

その頃西海岸は記録的なヒートウェイブでちょっと参りましたが、
こちらは曇りで涼しく、ほっと一息つきます。




車はとりあえず、先日まで住んでいた地域へと向かいます。
借りていたAirbnbの部屋の前を通ったら、電気がついていました。

すっかりおなじみになったアパートの周りを一周通してみたら、
角の家の黒猫、”でんすけ”と再会することができました。



ピッツバーグで一度だけ食事を許されるとしたら、何を食べるか?

この問いに、わたしたちの答えは決まっています。
住んでいたバトラーストリートのはずれにあるタイ・キュイジーヌ、
「プサディーズ・ガーデン」(Pusadee's Garden)一択です。

ピッツバーグ最初の日に訪れ、最後にも行き、
そしてまた今回も来てしまうくらい、このレストランには夢中です。

そして、わたしたちが愛してやまないロティをまず注文しました。



十七種類の食材を使ったサラダというメニューを見つけ、注文しました。
サーブする人が目の前で混ぜ合わせてくれます。



いつもは一つのカレー皿を二人でシェアするのですが、
この日はキッチンのないホテルに泊まっていたということもあって、
次の日に食べるために、多めに頼むことにしました。

アメリカのレストランでは、残した料理を持ち帰ることが可能で、
入れ物も快く提供してくれますので、最初からそのつもりで多めに頼み、
次の日レフトオーバーを温めたりアレンジしたりして食べる人も多いのです。

日本では食品衛生法第6条の縛りで、店が責任を取らされるため、
持ち帰りはできないというのが一般通念となっていますが、
食品廃棄物も出ないし、無理して食べなくても持って帰れるこのシステムは
お店にとっても客にとってもいいことづくめだと思うんだけどなあ。

写真の奥はいつものパンプキンカレー(Kabocha入り)、
手前は初めて頼んだベリーのカレーパスタです。

次の日、出発前に部屋で食べましたが、びっくりしたのは、
一晩経ってレンジで温めたものなのに、完璧に美味しかったことです。



■ ユニバーシティ・ストリート



サンフランシスコのミッションディストリクトを走っていたとき。

この地域は、古い有名なスペイン時代の教会もあって、
ビクトリアン様式の邸宅なども公園の前に並んでいたりするのですが、
このクィーン・アン様式の立派なお屋敷の前を通ると、
家の前に掲げられたユニオンジャックが半旗になっていました。

もしかしたらイギリス大使公館でしょうか。
イギリスのエリザベス女王陛下が崩御されたと報じられてすぐのことでした。




MKの大学のある地域は、地価が高いので有名ですが、
そういう地域の中心街には、お洒落で美味しい飲食店がひしめいています。

MKの大学のキャンパス内からまっすぐ続いている、その名も
「ユニバーシティ・ストリート」沿いは、この地域のおしゃれスポット。

現在、アメリカでそのストリートがどれだけホットかどうかは、
スターバックスではなく、Apple Storeがあるかどうかで決まりますが、
当然ここにもそれはあり、しかも美味しくない店は、どんどん淘汰されて
新しい店に代わっていくという、飲食店の「激戦区」となっています。

COVID-19発生以降、ベイエリアの飲食店は外にテーブルを置くようになり、
そのせいで車を置く場所がどんどん足りなくなっているのですが、
この日お昼を食べに行ったこのカフェも、外のテーブルまで満席でした。



そして、写真に写っている人を見ていただければお分かりのように、
このゾーンには太った人は滅多にいないという特色があります。

総じてカリフォルニアの都市部はその傾向にありますが、特にこの地域、
そしてこの通りを闊歩するアメリカ人は、ほとんどがスマート。

太っている人も勿論全くいないわけではありませんが、
それは失礼ながら、ほとんどこの地域の労働者階級のように見受けられます。

少なくともこんな店に客できて、スパークリングウォーターを飲みながら、
「ブッダボウル」をつついている男性が、太っているわけはないですが。


刺身レベルのツナを使った(と豪語する)アヒツナ、ブラウンライス添え

映画版のSATCで、ニューヨーク在住の主人公がLAに来て、
昔の男友達と食事を食べたところ、彼がステーキを口に含んで噛んだ後、
ナプキンに吐いているので激怒したら、逆ギレされて、
ここでは太ったら人間扱いしてもらえないんだ、とか言うシーンがありました。

カリフォルニアの「ルッキズム」を批判した表現でしたが、
この地域の人々は、いわゆるアッパークラスの人種が多く、
金持ちとエリートにデブなしという法則通りなのだと思います。


ついでに余談ですが、最近リブートされたSATCの
「And Just Like That..」を、今回わたしは
国内便のオンデマンドとアパートのケーブルTVで全部観ましたが、
その出来があまりにも酷くて衝撃を受けました。
世間の評価も低くて10点中1がスコアのほとんどという惨憺たる結果。

多様性の話題をぶち込みすぎてつまらなかった、の一言です。

ミランダの新しい相手になるのが、LGBTQのヒーローみたいな、
新キャラの”チェ”とかいう女性(?)で、わたしはこの人が大っ嫌い。

この背脂が浮いたような女の演説が始まると、迷いなく早送りしていましたし、
それでなくても、大学の教授やら黒人女性とか、富豪のセレブ夫人が
判で押したように黒人ばかりとか、そんな世界ある?
もううんざり、勘弁してくれって感じ。

そんなに多様性多様性いうなら、シャーロットの養女、リリー以外のキャラに、
もっとアジア人を使えば?って思いました。

(ちなみにもう一人の彼女が産んだ娘はいわゆる性同一視障害で悩んでおり、
それを宥めるユダヤ教の女性ラビまでが同性愛者。OK、パーフェクト!)




閑話休題。アヒ・ツナのタコスなどというメニューも「ここ」ならでは。

ユニバーシティストリートですが、小洒落たカフェばかりではなく、
美味しいエスニック系のレストランももちろん、たくさんあります。

一度驚いたのが、NAGIというラーメンの店にお昼を食べに行こうとしたら、
三重に折り返すウェイティングの列ができていたことです。

ものすごい人気なのは分かりましたが、口コミサイトを見ると、
日本式のラーメンを知っているらしい人の評価は概ね辛口で、
チャーシューは「合成肉」で、脂っこく、値段は高いということでした。

二人で食べて四千円って、まあ高いよね。



ヒートウェイブが来ていたころ、お昼を食べに行った
ユニバーシティ通り沿いのカフェ風レストラン、「スウィートメープル」。



全体的にメニューにやたら牛肉がついてくる印象だったのですが、
この肉が・・・なぜか塩辛い。



『OMU-RICE』と名前だけは日本風のメニューなのですが、
これにもなぜか肉。(食べてないけど、これも多分辛かったと思う)

「ははーん、コリアン系の店だな」

メニュー構成とか、ところどころに見える「プルコギ」という文字、
そして何を食べても辛いこの味付けから、わたしはそう判断しました。

居抜きで買ったらしい店の内装はカフェ風で悪くないのですが、
どうも肝心の味がイケてない。というかはっきり言って美味しくない。

おしゃれなカフェ風の内装、店名、雰囲気だけはいいのですが、
肝心の味が全く「スウィート・メープル」らしさを感じさせないのです。

これはあかん、と思ったのは化粧室に行く時にキッチンの前を通ったところ、
それが、雑然として清潔とは言えない状態だったのを見てしまった時でした。

おしゃれなカフェのキッチンどころか、それはまるで
場末の中華料理屋の厨房のようだったのです。がっかり。


清潔そうな整理されたキッチン、そして綺麗なトイレ。
いいレストランは必ずそのどちらもを兼ね備えているものです。

勿論、これらを兼ね備えつつ「美味しくないレストラン」は存在しますが、
どちらも兼ね備えていないレストランが美味しかった試しはありません。

おそらくこのレストランは、この激戦区で長くは保たないでしょう。
次に行った時に、まだあるかどうか・・・。


逆に、せっかく味は美味しいのに、時代についていけなくて、
撤退を余儀なくされたらしい店もありました。

このタイ料理の店は、以前も一度食べにきたことがありますが、
本場の味を出していて、トムヤムスープは絶品と言ってもいいものです。



デザートもここでしか食べられないような変わったもので、
大変美味しかったのですが、店内に客がいないのが気になりました。

確かに、タイには本当にこんなレストランがあるんだろうなと思わせる
異国情緒溢れる内装といえば聞こえはいいですが、
初代店主の写真(多分遺影)や、素人(多分店主の絵)を飾ったり、
全体にあまりにもエスニック色が濃すぎて、飽きられたのかもしれません。

それを裏付けるように、デザートのお皿の下のお知らせには、
10月いっぱいでお店をクローズすることが書かれていました。

おそらく、地価が高くなりすぎて、家賃が払えなくなったのでしょう。
何しろ、このお店の隣にはApple Storeができてしまったのですから。


■リモートワークによる『人口流出」はあるか

最近のシリコンバレーの地価の高騰は凄まじいとここ何年か言われてきました。

それもあって、コロナが蔓延してから、AppleやGoogleなどの社員は
リモートワークを理由に帰ってこなくなってしまったくらいです。

それどころか、ピッツバーグの知人の娘さんのように、
カリフォルニアのIT企業の仕事を入社以来ずっとリモートで行っていて、
入社のインタビューですら、オンラインで済んでしまい、
一度もカリフォルニアに行ったことがないなんてケースもあります。


ところがです。

これはApple社の話ですが、当社に限っては、明らかに
リモートになってからの方が生産効率が落ちているのだそうです。

会社としては、なんとかして社員を現地に呼び戻そうとしているのですが、
笛ふけど踊らず、誰も戻ってきたがらないので困っているのだとか。
(日経新聞情報ですので念のため)

しかし、仮にもしあなたがアーカンソー出身だったとして、
アーカンソーに住みながら、カリフォルニアの給料が貰えるとすれば、
誰が好き好んで、高い家賃、高い食費、高いガソリン代、
朝夕の通勤渋滞を我慢して、ベイエリアに住もうなどと思うでしょうか。

そこで、わたしなど、

「リモートワークがこれだけ進んで、人口が減ったなら、
地価もそれを反映して安くなりつつある
んじゃないの」

という考えに至るわけですが、ここまで高騰したベイエリアの地価は、
テック企業の社員が少々逃げ出したくらいでは、びくともしないようです。


続く。



潜水艦「シルバーサイズ」第8次哨戒〜潜水艦のクリスマスと余暇

2022-09-17 | 軍艦

さて、第二代目艦長であるジョン・コイJr.中佐の指揮の下、
第7回目の紹介を成功裡に終えた潜水艦「シルバーサイズ」。

続いて、第8回哨戒以降を検証していきます。

■ 第8次哨戒〜自分へのクリスマスプレゼント?


第8次哨戒の日付を書いていて、「シルバーサイズ」が哨戒中に
クリスマスを迎えていることがわかりました。

戦争中なので、クリスマスだからといって休んでいいわけもなく、
ましてや戦争している相手はキリスト教ではない日本。

第一次世界大戦の時のドイツとフランスのように、クリスマスは停戦して
その日は中間地帯でサッカーして次の日は戦いましょう、
みたいな心温まるアクシデント的融和があるはずもなく、
イブだろうがクリスマスだろうが、粛々と戦争遂行するしかなかったのです。

戦時中に生まれ、現在も歌い継がれているスタンダードナンバーには、

You'd be so nice to come home to(帰ってくれたら嬉しいわ)1942年

Helen Merrill with Clifford Brown / You'd Be So Nice To Come Home To

I'll remember April(四月の想い出)1941年
Jo Stafford ~ I'll Remember April


など、戦地に行った兵士を思う歌が数えきれないほどありますが、
特にこのクリスマスを家で迎えることを夢見る兵士とその家族のために
特別にクリスマスソングが生まれたりしました。

I'll Be Home For Chiristmas(クリスマスを我が家で)

Have Yourself a Merry Little Christmas(どうぞ楽しいクリスマスを)

などは彼らのために書かれたものですし、ビング・クロスビーの

White Christmas(ホワイトクリスマス)

も戦時中の兵士と留守家族の心を捉えてヒットした曲です。

現代のアメリカ海軍潜水艦の皆さんは、
次のような雰囲気でクリスマスを祝っているようです。

'Twas the Night Before Christmas - Submarine Style!

この年、「シルバーサイズ」の乗員たちは
どんな形でクリスマスを祝ったのでしょうか。

さて、クリスマスの話はともかく、第8次紹介の戦果です。
例によって、「シルバーサイズ」戸棚のペイントから参ります。





● タンカー 7,000トン
●輸送船 5,500トン
●貨物船 3,500トン
●貨物船 3,000トン
●タンカー 6,000トン

これまでの哨戒で「シルバーサイズ」は、撃沈撃破の認定もさる事ながら、
結構いい加減な船名を確信的に記していたわけですが、
今回は怪しげな確定を全く行わず、船種だけの記述に留めています。

艦長が2代目のジョン・スター・コイJr.中佐に代わり、
実際は撃破していたのにそれを撃破とせず、

「戦果なし・魚雷の発射もなし」

と妙に腰の引けた報告をしていたことから想像するに、
このコイ艦長は、超慎重な指揮官なのではと思ったのですが、
今回、そうでもなかったことがのちに判明します。


それはともかく、まずアメリカ側の記述でこれがどうなっているか見ます。

🇺🇸
シルバーサイドは第8次哨戒でパラオ諸島沖を哨戒し、
1943年12月29日に敵の貨物船団に大打撃を与え、
「天保山丸」、「七星丸」、「リュウトウ丸」を沈没させた。

それでは、日本側の記録です。

🇯🇵

12月4日
「シルバーサイズ」は8回目の哨戒でパラオ方面に向かった。

12月26日
午前にパラオ西水道付近で病院船を目撃した後、
午後には北緯07度37分 東経134度29分の地点で
5,000トン級輸送船を発見して魚雷を4本発射したが、
魚雷は全てサンゴ礁に命中して爆発した。


珊瑚礁を傷つけるな〜!!!(怒)


12月29日未明
北緯08度13分 東経134度05分のパラオ北西400海里の地点で
オ806船団をレーダーにより発見。

未明1時50分、北緯08度00分 東経134度00分の地点で
まず艦尾発射管から魚雷を2本ずつ計4本発射し、この雷撃を
陸軍輸送船「備中丸」(日本郵船、4,667トン)は、
1本は回避したものの、もう1本が命中して
損傷する。


これは、アメリカ側の記録にはありませんが、
おそらく戸棚の2番目の輸送船(5,500トン)のことでしょう。

撃沈させていませんし、相変わらずトン数を盛っていますが。

2時48分頃から3時頃にかけて
北緯08度03分 東経134度04分の地点で魚雷を3本ずつ計6本発射し、

陸軍船「七星丸」(興運汽船、1,911トン)
の右舷に魚雷2本を命中させ轟沈させる。



4時前後には北緯07度50分 東経134度21分の地点で
五度目の攻撃として魚雷を3本発射し、
海軍徴傭船「天宝山丸」(菅谷商事、1,970トン)
の船倉付近に1本を命中させて
撃沈


明け方には北緯07度54分 東経134度08分の地点で魚雷を計3本発射し、
輸送船「隆東丸」(中村汽船3,311トン)
の中央部に2本命中させて
撃沈した。

「七星丸」「天保山丸」「隆東丸」と、珍しく
アメリカの記録と日本の記録が3隻も一致しました。



問題は、戸棚の一番上に書かれた7,000トンのタンカー撃沈です。

「シルバーサイズは、年が明けた1944年1月5日に、
北緯11度15分 東経135度08分の地点で2隻のタンカーを発見し、
魚雷を4本発射していますが、いずれも命中せず、逃しています。


もし7,000トン級のタンカーを撃沈していたら、
潜水艦にとってはもう大金星のはずですが、残念ながら、
それに相当する撃沈された船について日本側の記録はありません。

他の船ならともかく、タンカーを仕留めたかどうかは
かなり明確にその結果がわかると思うのですが、
どうして魚雷がかすりもしなかったタンカーを撃沈したことにしたかな。

艦長もえらく大きく盛っちゃったもんですが、

あっ・・・もしかしてクリスマスだったから
自分たちにプレゼントしたとかか?

1月15日、シルバーサイズは42日間の行動を終えて、
この時はミッドウェー島に帰投しました。

■潜水艦でのエンターテイメント


クリスマスの話が出ましたので、ついでというか、
「シルバーサイズ」におけるエンターテイメントについてお話しします。

乗員の中には、2ヶ月以上日光を見ない人もいます。
当然のことながら、退屈はすぐに艦内に蔓延します。

そのため海軍は、私たちを満足させ、士気を維持させるために、
わたしたちに最高のものを提供することに労を惜しみません。

まだ一部は劇場で公開されていない映画のコレクション。
自分たち専用の映画館と全く同じ機能の素晴らしい映写機などです。
(あまり一般の人には言わない方がいいかもしれません)

艦内の図書館にはゆうに200冊以上の書籍や雑誌 が あり、
しかもそれらは寄港するたびに新しいものに入れ替えることができ、
プレーヤーとあらゆるジャンルの膨大なレコードもあります。




わたしたち乗員のほとんどはトランプを持っています。
艦内では皆がポーカーやエーシー・ドゥーシー・トーナメントをやります。


Acey-deuceyとは、テーブルゲームの一種です。
アメリカの潜水艦を見学したことがある方なら
乗員用の食堂のテーブルにプリントされている模様を見たことがあるはず。

あれはバックギャモンですが、これと似たゲームのようです。


第一次世界大戦以降、アメリカ海軍、海兵隊、
商船隊(つまり海の軍隊ですね)のお気に入りのゲームとなっています。

ところで、こういうゲームの時に、大型艦の艦長と違い、
何かと腰の低い(海軍なのに階級差が見かけ厳格でない)潜水艦長は、
頻繁に下士官兵とこの手のゲームを楽しみ、そして
他の兵士と同様よく負けると言うのが定番になっているようです。

そのことを、ここの説明では

「素晴 らしい イコライザーでした!」

と称賛しているのですが、イコライザーというのはどういう意味でしょうか。

平等をもたらすものと意味で用いられているとすれば、
やはりここは潜水艦らしく、艦長といえども狭い潜水艦の中では、
規律はあれど目線はあくまでもフラットに、言い方を変えれば
水上艦よりは見かけ階級差が緩いことを表しているかもしれません。

そもそも、艦長が兵士とトランプをするということ自体、
戦艦や空母などではほとんどあり得ないのではないでしょうか。

ましてやその艦長が負けがちだなんてことも。


艦長が私室でアロハシャツ、これもある意味潜水艦ならでは。
他の水上艦でこんな格好をすることは許されませんが、潜水艦ならありです。

「潜水艦では規律が破られることは決してないが、
ユニフォームの件に関してはその限りではない」

だそうです。

まあ、そもそも暑いと何も着ない水兵さんも多いしな。


さて、狭い艦内での窮屈な勤務に与えられた特権。
しかしながら、エンターテイメントに関しては、誰にでもそれが
無尽蔵に許されているかというと、決してそんなことはありません。

「完全な資格」を持っていない乗組員は、与えられたテストに合格するまで
映画を見たり、トランプをしたり、本を読むことすら許されません。

そのために彼らが這いずり回ってメモや図を作成し、
全てのパイプ、 リベット、ワイヤー を検査することで
テストに合格しようと頑張っている姿は鑑内でよく見られます。



■ ダベンポート副長のトロンボーン演奏


艦内にはレコードプレーヤーがありましたが、よくしたもので、
必ず乗員にはギターやハーモニカの演奏ができる人がいたし、
歌の上手い人も時々はいました。

我らが副長のダベンポートは、トロンボーン奏者でしたが、
彼の演奏に対する評価は人によりまちまちでした。

わたしたちがオーストラリアに寄港後出発した時、

ダベンポート副長はオーストラリアで人気のある国民歌、
「Waltzing Matilda」を演奏し(ようとし)たのですが、
乗員は皆困った顔をするのみで、誰も歓声を上げませんでした。



ところで、帰国後、バーリンゲーム艦長は、わたしたち乗員が
皆酔っ払いで、しかもずっとその状態だと思われていることを知り、
指揮官として大変心を悩ませていたので、ダベンポート副長は、
艦長をリラックスさせようと、彼の好きなブラームスの「子守唄」を
レコードプレーヤーを先生にして練習し始めました。

そしてある夜、ダベンポートが練習をしようといつもの席に着くと、
艦長は既にカーテンを引き、明かりを消してしまっていました。

副長は、艦長がもう寝ていると思い、トロンボーンを片付けましたが、
1〜2時間後、別の場所でゲームをしている艦長が発見されています。

それ以来、他の士官たちはトロンボーンの「止め方」を知ったのです。


ダベンポート副長・・・(T_T)





ところでこの写真のキャプションには、

「Another Pastime: Creating sewing」
(別の暇つぶし:創造的お裁縫)

とあるわけですが、彼らが縫っているもの・・・ご覧ください。
 旭日旗ではありませんか!


はっ・・・・もしかして?



もしかしてこの時の旭日旗・・・・?

とりあえず暇つぶしで旭日旗作ってんじゃねーし(怒)


続く。


地獄のヒートウェイブ〜アメリカ西海岸滞在

2022-09-15 | アメリカ

さて、わたしのアメリカ滞在における最大の目的である、
MKの大学院寮への荷物運び込みの日が近づいてきました。

元々このベイエリア地域は湿度が低いため、
霧の多いサンフランシスコを除いて夜間涼しく昼間は暑い
(日陰は涼しい)という砂漠型気候であるわけですが、
その昼間の気温が、引っ越しが近づいた頃異常に高くなりました。


この日は、サンマテオの山側に面した貯水池沿いの
長大なトレイルを家族三人で散歩に行ったのですが、
10時を過ぎると日差しがキツくて苦痛を感じるほどでした。

ベイエリアにトレイルはたくさんあるのですが、ピッツバーグのように
森林の木陰だけを歩くような場所が皆無であるため、
散歩は朝早くに済ませないと、地獄を見ることになります。



さて、MKの入居する大学院寮に引っ越しする日がやってきました。

無事大陸を半分横断して西海岸に着いた荷物を出すため、
U-HAULに行ってU-BOXを出してもらったところ、
扉の前にわざわざこんなものが置かれていて、一同呆然。

右側の牽引用のU -BOXは元からそこにあったものです。

「他にもいくらでも空いている場所があるのに、なぜわざわざここに」

「しかも扉の前に」

「嫌がらせかな?」


家族で呆れながらも、とりあえず積み込みを始めました。

荷物が全部コンテナであることと、レンタカーのゴールデンクラブで
インド人の係員が配車してくれたフォードのSUVの搭載力のおかげで、
どうやら引っ越しは2往復で済みそうです。


この頃、MKの大学キャンパスは、人気がなく閑散としていました。

寮への引っ越しは届出をして決められた日に行うのですが、
その日1日を通じて、引っ越しをしているらしいグループはほとんど見ず、
寮の周辺も学生らしい人はあまりいません。


その理由は明確で、セメスターが始まるのが9月26日だからです。
これは普通のアメリカの学校にしては特に遅い開始となります。



キャンパス内で、マスク推奨のポスター発見。

今はブースターショットを受けた人は基本マスク着用は免除されていて、
ヒートウェイブ下のここベイエリアでマスクをしている人は、
もちろん皆無ではないものの、あまり見ることはありません。

おそらくこのポスターは、COVID-19蔓延中、
特にカリフォルニアが酷かった時期に制作されたものでしょう。

MKの卒業した大学は、黒いスコッチテリアという
文句なしに可愛らしいマスコットがいて、何かと和ませてもらいましたが、
この大学のマスコットは・・・。

あまり可愛げがなくて気の毒だなあ、とかねがね思っていましたが、
こうしてみると、木のマスコット、悪くない。いやむしろ可愛い。

マスコットの可愛さは対象そのものではなくデザインが決めるのか。

・・・・とここまで書いたとき、ふと学校のデータを見たところ、
この大学にはマスコットは「ない」と書かれていました。

「ない」って・・。



キャンパスの歩道沿いには大学シンボルである木が植わっていますが、
この気候には、南国を思わせるヤシ科のフェニックスの方がお似合い。

大学院寮であるこの建物も、そこはかとなく南欧風です。

それにしても引っ越しをしているグループは、わたしたち以外に
1〜2組見たくらいで、そもそもあまり構内で人を見ません。

授業が始まるのが9月26日なので、アメリカ人の学生は、親元にいるか、
旅行をしたり、インターンシップをしたりしているのでしょう。



しかし外国人学生であるMKは、インターンシップが終わった今、
行くところもないので入居するしかありません。

居住区の鍵には学生証を使うことになっていますが、
この日、オフィスに取りに行ったらまだできていなかったので、
仕方なくアナログなキーを貸してもらうことになりました。

学生証を作るための期日に間に合わせるために、
親が出動し散々苦労してI-20を取ったというのに。

ちなみにI-20(アイ・トウェンティ)とは、
留学生が必要とされる書類で、入学許可証としての機能を持つほか、
入学後は在学証明書としての役割も果たします。

また、アメリカへの(再)入国審査の際にも必ず提示を求められるもので、
その大学の学生であることを証明する正式な書類です。

写真はこのキーでガチャガチャやっている最中のMKですが、扉開かず。
結局、隣の建物と入り口を間違えていたことが判明しました。



寮のロビーは冷房が効いて涼しく、ほっと息をつきました。
車から、事務所で借りたカートに荷物を積み込んで、いざ入寮です。


この廊下の広さよ。
ちなみに廊下のエンドには会議室、ゴミ捨て室があります。

そして、廊下もひんやりと空調が効いています。



ここが大学院寮(一人部屋)だ!
最近できた建物らしく、何もかもがピカピカ新しい設です。

フルキッチンに大型冷蔵庫、部屋に備え付けのソファ、大きなベッド。
いいなあ・・こんなアパートで学生生活を送りたかった。



普通のアパートのように食器洗い機はありませんが、
大型のオーブンがあるので、料理のできるMKにはありがたい作りです。

ただ、ドアを開けてすぐある大型の冷蔵庫扉が右開きなのはいかがなものか。



キッチンのエンドには小さなカウンターがあって、食事ができます。
一人の部屋なのでダイニングテーブルはありません。


ベッドの大きさはクィーン、机の奥行きはたっぷり。
そしてさすがは今時の大学生用アパート、コンセントがたくさんあります。



こんなに床が広いのに家具を置くことはできない洗面室。
日本では考えられないことですが、バスタブがなく、シャワーのみです。


部屋は自分で選ぶことはできず、自動的に割り振られるので、
眺めとか何階にあるとかは全くの運で決まります。

ここは7階ですが、大学のアイコンとなるタワーは部屋からは見えません。



アパートの一階の駐車場からようやく見える位置関係です。



窓はスライドして外気を入れることができますが、
網戸を開けることはできず、窓を開けるときには網戸下部に設けられた
台形の小さなドアみたいなところに手を突っ込んで行います。

つまり部屋の窓から絶対に人や物が落ちない設計です。

これは大学の寮としては実は大事なポイントかもしれません。



とりあえず荷物を運び込みます。

UーHAULとの往復はきっちり2往復ですんだのですが、
もしあと1つケースが多かったら3往復しなくてはならないところでした。


ここは大学院寮といっても、10階以上の高さのが4棟あり、
寮だけで日本の都心の大学よりよっぽど敷地が広かったりします。

MKの今回の部屋はこの中で最も小さいタイプで、
世帯持ちの院生のためにはファミリー向けの部屋も完備してます。




広大な敷地内ではペットがいなくなることもあるようです。

キャンパス内は結構野生動物もうろうろしているので、
飼い主はさぞ心配していることでしょう。

情報によるとこの猫はマイクロチップを埋め込んでいるようですが、
なのにどこにいるかわからないものなのでしょうか。



週末、ロビーにはちょっとしたパーティでもあったのか、
食べ物やなんかが乱雑に置かれていました。(日本のお菓子もあり)

ちなみにこのアパートには棟ごとに一室ずつ「音楽室」があり、そこには
ピアノが置かれていて、練習などで自由に使うことができます。



■ 各種ヨーロッパ料理

さて、ここで唐突に恒例のベイエリアグルメ紹介ですが、
今日はベイエリアで味わったヨーロッパの料理を。

🇮🇹イタリア

この日は引っ越しの荷物積み込みを終えたということで、お祝いムード。
レッドウッド・シティの中心街にある評判のイタリアンに出かけました。

MKのレストランの探し方は、とりあえず星4.5以上に絞り、
そこから家族の意見を聞いて選ぶというもので、
この日は中華でも、もちろん日本料理でもなく、レッドウッドシティにある
ちょっと華やかで美味しいピザを出すお洒落めの店となりました。


レッドウッドシティは、昔、日系移民の技術革新により、造園業が盛んで、
中でもアメリカ初めての菊の生産地として有名な地域だったのですが、
その後日系人の強制所収容により、産業は廃れ、今日に至ります。

しかし、その名残なのか、サンマテオの中心街は今でも
和食を出す店が多く、日系が経営しているらしい店構えだったりします。
(うちはもうアメリカの日本食に期待していないので行きませんが)


元々は先住民族を追い出した(?)スペイン人が移住していた関係で、
米墨戦争の後、カリフォルニアがアメリカ合衆国になった時も
メキシコ人の大金持ちが広い荘園を持っていたという土地です。

古い建物も多く、レストランの向かいにある図書館なども築100年超えです。

オリジナルの図書館は、アンドリュー・カーネギーが1万ドル寄付して
1904年に完成したのですが、1906年の地震で倒壊してしまいました。

そこでカーネギーがもう一度寄付をして建て直したのが、現在の建物です。

このことにより、レッドウッド公立図書館は、同じ敷地で
2回カーネギーの補助金を受けた全米唯一の図書館
となりました。


わたしが選んだメインは魚とたっぷり野菜。

この日のイタリアンですが、経営しているのはもちろん、
ウェイトレスも間違いなくイタリア系の人たちでした。

こういう安心感というか、単にムードのために、ジャパニーズレストランは
そう見えるだけのアジア系店員を雇うのかもしれません。

それを思うと、アメリカの各種民族料理は、その国の人たちにとっては
必ずしも外国人が思うほど評価されていないのかもしれないと思ったり。



皆で取り分けるために頼んだスモールディッシュ、ズッキーニ。



家族の誰かが頼んだエビの一皿。


ピザは、テーブルの面積を節約するために工夫された
専用のスタンドに乗せられてサーブされます。

まずいピザは耳を食べる気にならないのですが、これは
生地がモチモチしていて端まで美味しく食べられました。



ここまでほぼ満点だったので、きっとデザートも美味しいに違いない、
と頼んでみた一皿目のパンナコッタ。
こちらはなかなかというレベルでしたが、


ティラミスは衝撃的に美味しかったです。
家族三人、夢中になって食べてしまいました。

🇪🇸スペイン

この日はベルモントにあるスペインのタパスへ。
レストランの名前から、おそらくイベリア地方の料理かと思われます。


昔バルセロナ旅行のためにスペイン語をちょっと勉強しましたが、
その時覚えたフレーズでいまだに忘れられないのが
「ウナス・タパス・サブロサス」(美味しいおつまみ)という言葉です。

タパスを「おつまみ」と訳すかどうかはちょっと疑問ですが、
要はタパスとは小皿料理のことだと思います。

バルセロナでは、TOのアメリカの大学の同級生と再会し、
彼におすすめのタパス、「パタータ」の店に連れて行ってもらいましたが、
ここでほとんど同じパタータ(ポテト)が食べられました。

まさにこれが「ウナス・タパス・サブロサス」でした。


そしてスペイン料理に来たら食べずにはいられないパエリア。
お鍋の大きさは、三種類くらいあって、これは三人用です。

後ろの席は六人でテーブルくらいある巨大なパエリアを完食していました。


出てきた時は自分が何を頼んだのかわからず、一瞬考え込んでしまった、
外側が岩のように硬いアイスクリームです。


🇬🇷ギリシャ



ギリシャ料理レストランにも行ってみました。
お店の名前は「タベルナ」です。

地中海沿いの国は総じて野菜中心のヘルシーな料理というイメージですが、
ここのサラータもオリーブオイルと調味料だけで唸るほどの美味でした。

ちなみにテーブルについてくれたウェイターは若い長身の男性でしたが、
この人が、額から鼻先までほぼ一直線の典型的なギリシャ鼻でした。


これね



ギリシャのデザートといえば、バクラヴァ

フィロ生地の間に刻んだクルミ、ピスタチオ、ヘーゼルナッツ、
アーモンドなどをはさみ、焼き上げてから濃いシロップをかけたものです。

昔パリで食べたバクラヴァが激甘すぎた記憶があり、躊躇しましたが、
ここはアメリカ、ちょっと洗練されているかもと思い、
三人で一つ頼んでみたら、これが甘さ控えめで大変結構でした。



アメリカのハーブティは、ポットにティーバッグを入れたものが多いですが、
ここは本物の葉っぱを使っているらしいので、
食後に頼んでみたら、面白いトレイに載せて持ってきました。

携帯を取り出したら、ポーズを取ってくれたので
(この人はギリシャノーズではなかった)
ウェイターさんごと撮らざるを得なくなりました。



上から見ると、下から見るとのポット。
流石はギリシャです。
何がさすがかわかりませんが。

■ヒートウェイブと大学の開始時期の関係


この頃、ベイエリア一帯には、ヒートウェイブ注意報が発令されました。

何しろ、MKの大学構内では気温が43度にまで上がりました。
外に一歩出たら辛くてヒーヒーいわずにいられないくらいの熱です。

日本よりマシなのは、湿気が皆無であることですが、
これで日本並みの湿度なら、まんま熊谷市です。

湿度がなく高温なので山火事が自然発生していました。


そういえば、ピッツバーグからサンフランシスコまでの機内から
地上で火事が起こっているらしい現場を目撃したんだよなあ・・。



さて、繰り返しますが、MKの大学は4セメスター制で、
9月下旬と他と比べて遅い時期に学期が始まります。

MKの寮でヒートウェイブの間過ごした時、あまりに暑いので
部屋のクーラーをつけてくれるようにMKに頼んだのですが、
しばらくスマホで何か調べていたかと思ったら、

「冷房ないんだって」

部屋にあるエアコンと見えた空調は、
10月から3月いっぱいまでの期間暖房をすることしかできませんでした。

フロントや廊下にはひんやりと冷気が来ているので、
そのシステムがビルに備わっていないわけではないのですが、
とにかく学生の個室にはクーラーというものはないのです。

その時、わたしは気づいてしまいました。

この学校は、夏の間、学生がいることを想定していないことを。

昔キャンプで来ていたときから、このキャンパス内の夏の暑さが
とにかく過酷で、異常ですらあるなと思っていたのですが、
だからこそ、大学はその時期を勉強に向かないと切り捨てて、
9月下旬始まりの4セメスター制としたのに違いありません。

知らんけど。



それにしても、誰もいない時期、廊下とロビーだけが
ガンガン冷房されているのは何故なんだろう。

謎は深まるばかりです。


続く。




映画「軍医ワッセル大佐(改め少佐)」The Story of Dr. Wassell 後編

2022-09-13 | 映画

日本軍が侵攻してくるジャワ島に取り残された傷病兵と、士官一人、
出航に間に合わなかった間抜けな一人の兵士。

彼らを率いる海軍士官は、もはや軍医ワッセル中佐だけになりました。


しかも病院に戻ってみると、中は砲撃で無茶苦茶な状態でした。



残骸の影に、スリー・マティーニことトレマティーニが潜んでいました。

他のものがオランダ軍と山中に逃げてしまった後も、
彼女は彼らが戻ってくることを予想して待っていたのです。

翻訳はされていませんが、彼女を見つけたワッセル中佐は、

「(それを予想するとは)水晶占いコンテストで優勝だな」

と言っています。
これ、ちょっとした民族侮蔑表現じゃないか?



スリーマティーニが会いたかったのは、ホッピーでした。
彼の方は会えて嬉しいと口で言いつつそんな嬉しそうではありません。

そりゃそうでしょう。

彼にすれば、トレマティーニは単なる戦地の看護師。
ここに残るつもりはもちろん、連れて帰るつもりも全くなく、
現地でちょっとお戯れする相手くらいの認識だったのですから。



病院に戻った兵たちは疲労困憊し、なぜワッセルの元に残されたのか、
呪うように言うマードックのような者もいました。

ワッセル中佐だって、(自分が選んだとはいえ)
こんな状況になって誰よりも困っているのに、まあ酷いもんです。

つい神に祈る心境になっているワッセルに、ゴギング副長が声をかけました。

「君は成功を信じていない・・・。
昔の失敗をいつまでも引きずっているように見えるよ。
中国で何があったんだ。女か戦争か」

この副長は、戦艦の副長にしては歳を取りすぎていて変ですが、
中国人のピンが死んでしまったので、今、
ワッセルのこれまでを語る唯一の相手として、
そこそこ大人な年齢のもののわかった男性として描かれています。

待ってましたとワッセルは語り始めました。

「両方です。豚に故郷を追われ、カタツムリに中国を追われた」


豚というのは、アメリカの村にいたときに、豚を積んだ車にぶつかり、
その拍子に目にした新聞にマデリンの写真があって、
それに一目惚れして中国に渡ってしまったという意味ですが、
それではカタツムリとは。


ピンが死ぬまで語っていた話の続きです。

ワッセルは、ウェイン医師に煽られてマデリンを同行することを諦め、
一人で赴任した長子で、流行っていた疫病の原因を研究しておりました。

しかし研究は遅々として捗りません。
そもそも病原菌となる媒体が全く不明なのでした。

ある日ワッセルは運河で通り過ぎるボートに乗っていた中国女のネックレスに
カタツムリの殻が含まれている(気持ちわるっ)のに気がつきます。

そこで彼らの船の船端に付いているカタツムリをもらって研究したところ、


なんと!吸虫を発見したのです。



ワッセルと助手のピンの二人が夢中で研究していると、
後ろのドアが開き、そこにはマデリンが立っていました。

マデリンさんたら、治安の悪く疫病の多発する長子に単身やってきたのです。
これは、ワッセル医師を追いかけてきたということでしょうか。


ワッセルは顕微鏡を覗いていて全く気がつかないままだったので、
ピンは気を利かせて二人の再会場所を池のほとりに設定しました。


そこがこれ。
あまりムードがあるとは思えませんが、まあいいでしょう。



ポケットチーフまでピンにコーディネイトしてもらったワッセル、
池のほとりで彼女といい雰囲気になり、もう少しでプロポーズという時、
ピンが彼に電報を持ってきました。

それを読むなり彼の様子が変わります。



何があったの?と聞くマデリンに、ワッセルはいきなり
僕は海軍に志願するつもりだ、と言い出すではありませんか。

ワッセルの意図はよくわかりませんが、マデリンは
二人の男を張り合わせるつもりか、ワッセルに求婚させるつもりか、
こんなことを言って行動を迫ります。

「ウェイン先生には求婚されているの」

しかし、それに対し、あっさりと、

「二人の幸せを祈る」

と言い放つワッセル。

マデリン、無念の作戦失敗。
ショックを受け、彼の元を去っていきました。

一体この電報の何が彼を変えたのでしょうか。

原因は、電報に書かれていたニュースでした。
ウェイン医師が、フォーク状の尾を持つセルカリア吸虫を発見したという。

自分もついさっきそれを見つけたばかりなのに、タッチの差で
ライバルに一足先を越されてしまったのです。

よりによってそのライバルが求婚している相手と自分が会っている時に。

ウェインに学者としての業績で負けたワッセルは、
女性も同時に諦めてしまったというわけです。

そして、それは同時にじぶんが中国にいる意味も無くなったということなので、
そこを去る理由として海軍に入隊することを咄嗟に決めてしまったのです。

これが「カタツムリに中国を追い出された」の意味でした。


そこまで話し終わった時、副長がトラックの走行音を聴きました。
偵察に出かけたワッセルは、山中で不恰好な巨大仏像と遭遇します。


彼は思わず仏に祈っていました。

「近づいてくる兵力が日本軍でありませんように」

これが本当の「神も仏もない」ってやつです。



その甲斐あって?隊列から英語の歌が聞こえてくるではありませんか。
彼は「アメリカ海軍の一人として」仏に丁重に礼を言って去りました。



近づいてきた車列はイギリス軍でした。

ワッセルは車上で眠っている唯一の将校を叩き起こし、
10名の怪我人を乗せていいか聞くと、あっさり「どうぞ」。

この将校、60時間寝ていなかったこともあり、適当に返事したようですが、
それをいいことに、ワッセルは彼から
全員をトラックで連れて行ってくれるよう言質を取るのを忘れません。


さて、負傷兵たちを港に輸送する手段は確保しました。
これであとは港に行けば、停泊している護衛艦に乗せてもらうだけです。


負傷兵を乗せたトラックを運転するワッセルに伝令が伝えてきました。

「日本軍が橋まで攻めてきており、砲弾を撃ってくるから、
各車両は45メートル間隔で速度を保つように」

この後「君が代」をアレンジしたスリリングな音楽が流れますが、
これが音楽的になかなか馬鹿にできないクォリティです。



ワッセルの前を走っている車両に砲弾が直撃し、一瞬にして消え失せました。
咄嗟に道を逸れ、斜面を牛を蹴散らしながら突っ切って逃げます。


荷台の負傷者軍団は阿鼻叫喚ですが、なぜかその中で
ハーモニカ(『草競馬』フォスター作曲)を演奏し始めるやつあり。

平常心って大事・・・なのかも。



負傷者軍団を優先すると、全員が一台のジープに乗り切らなかったので、
この時、ホッピーとインドネシア人看護師トレマティーニだけは、
彼女が強く主張した結果、二人で後ろのジープに乗っていました。

ところが彼らのジープは運悪く砲撃を受け、谷底に転がり落ちていきました。



トラック運転手は即死!

ホッピーはただでさえ重症だったのに、さらに車の転落で両足骨折。
しかしトレマティーニは不気味なくらい無傷でピンピンしています。



ホッピーのジープが姿を消したことに皆が気づき、
ワッセルは一人で車から降りて探しにいきました。


戻ってみると、目の前で橋が崩落していきました。
これで彼らと合流する可能性は永久になくなったということです。

「・・・さよなら、アーカンソー(ホッピーのこと)」

ホッピーと同郷人のワッセルは、悲痛な面持ちでつぶやきました。



橋が崩落したことをトレマティーニから知らされたホッピーは、

「ジャワからは二度と出られない気がしていたよ」


と自嘲的につぶやきます。
とにかく彼と一緒に居られればいいトレマティーニは、

「わたしがアーカンソーを忘れさせてあげる」

などとむしろ嬉しげに言いますが、それが彼の心を逆撫でしました。

そら怒るわな。

「聞け、アーカンソーの一握りの土が、お前ら千人より値打ちがある!」

ここで彼の気持ちになって考えてみましょう。

もしこの現地の女性が自分に執着して、余計なことを言い出さなかったら、
彼は間違いなく仲間と同じトラックに乗っていました。
少なくともこんな形で置き去りにされることはなかったのです。

彼女の存在が疎ましく思われたとしても、それは当然かもしれません。


しかし、諦めというのは人の心に変化を与えるものです。
すぐに彼は反省し、酷いことを言ったのを謝りました。

しかし、彼女が「愛してる」というのに対し、彼の返事はただ

”So do I. ”(俺もだ)


その後二人はジャングルで人影に囲まれ、軽機関銃で銃撃戦を行いますが、
その結果どうなったかは描かれないままです。

彼は最後まで彼女に「愛している」とは言わずに死んだでしょう。




ワッセルたちがやっとのことで港に辿り着くと、
まず駆逐艦「ペーコス」は敵駆逐艦が近づいたので出港してしまっており、
40名乗りの船に何百人も既に乗せた民間船も、
天候が悪く雷が鳴ってるので、出港して沖に停泊していました。

とにかくあれに乗ろうと、ジャンク船で接近を試みます。



しかしここまできて、オランダ人艦長は負傷兵の乗船を拒否してきました。

理由は、敵から攻撃されるのは必至なので、
足手まといで助かる見込みのない負傷兵は乗せられないというのです。



しかし、押し問答している間に後ろでこっそり負傷兵の積み込み完了。
乗ってしまえばもうこっちのもんです。

いつの間にか乗り込んで手を振っている負傷兵軍団を見て艦長呆然。

「オランダ人は天国で歓迎されますよ、艦長」



しかしマサチューセッツのアンディ(アンダーソン)は、傷が深く、
船に乗り込む気力が残されていません。

それを励ましたのが、乗船補助をしていた恋敵?ベッティーナの彼氏、
オランダ軍将校のディルク・ ヴァン・ダール大尉でした。

「見たまえ、ベッティーナが乗っているぞ。
私は任務でここに残るが君が船に乗って彼女を守ってやってくれ」


やっぱりいい奴だった、ヴァン・ダール大尉。



ワッセルが船上でアンディの手当てをしていると別の医師がいました。
相手を見ると、あら、恋敵で仕事のライバル、ウェイン先生ではないですか。

ワッセル医師にとってウェイン医師は、吸虫の発見で先を越され、
好きな女性も譲ったという訳ありの相手です。

ところが向こうは、

「ああ・・確かあなたは・・・ウィッスル先生

ちげーし。
っていうか、名前も覚えてないくらい相手にされてねーし。

ワッセル先生、極力平静を装って、

「お、奥様はお元気で?」

すると相手は10分前までは元気だったですよ、と事もなげに言います。
つまり彼女は同じ船に乗っているということですか。

内心の動揺が思わず顔に出てしまうウィッスル先生でした。


身動きできない船内で鮨詰めになっている負傷兵たちに、
一つのニュースがもたらされました。

彼らを置いて出港して行った駆逐艦「ペーコス」は、敵に襲われ、
撃沈してしまったというのです。

皆呆然としました。
戦友たちが乗っていた船。
もしかして自分達が乗っていたかもしれない船です。



その時、船はヴァン・ダール大尉からの無線を傍受しました。
恋人のベッティーナも特別に無線室でそれを聞きます。

ヴァン・ダール大尉は守備隊で日本軍の大艦隊を迎え撃っていました。

「輸送船7隻、軽巡洋艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦6隻です!」

陸地への砲撃に続き、上陸用舟艇が14隻沿岸で待機中、
1隻の船に100人ほどの兵が乗っているという知らせに
人々は真っ青になります。

絶望的なことに、それを見ている守備隊はヴァン・ダール大尉一人でした。



なぜ一人なのに退避しない?と誰もが思っています。
そして彼はすぐに敵に発見されました。

「さようなら、皆さん!」

続いて機関銃の音が・・・・。



「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン・・・」
(-人-)

そのセリフで言われているところのクィーンも先日崩御され,,,、
と思ったのですが、よく考えたら彼はオランダの軍人。

今調べたところ、この時オランダはヴィルヘルミナ女王の治世下でした。



またしても軽快な東洋風旋律が始まり、日本軍の攻撃が近づいてきました。
当然ですが、艦長の指令各種は全てオランダ語で行われます。

戦争映画でオランダ海軍が出てきたのは初めて見ました。


甲板にもデッキにも人が満載なのに、そこに零戦が襲撃してきました。



子供を連れた母親が銃弾に斃れました。



その時、ウェイン医師が撃たれたという知らせを受け、
ワッセルは急いで彼の元に駆けつけます。

「今すぐ奥さんを呼んでください!」

「なぜ僕の妻を呼ぶの?」(´・ω・`)

「なぜっていい看護師だから」


ウェイン医師の妻が看護師のマデリンであるとワッセルは信じきっています。



え、ウェインの奥さんって・・・・。



「え」

ということは・・・。



「よかった〜!」

「な、妻に何を」(怒)

「いや、お会いできて嬉しくて」

「そうみたいだね(怒)」




しかしその後がよくありません。
マデリンは沈没した「ペーコス号」に乗っていたのです。


その時、視力を失ってやたら耳が鋭くなった彼が、
B-17の編隊の爆音を聞きつけました。



「助かったぞ!」


B-17のつもり。



さて、その後彼らはなんとか無事に帰国の途につきました。

最後の場面は、ワッセル中佐がバスタブで熟睡しているところから
始まるわけですが、どうでもいい逸話が残されています。

このシーンで、ゲイリー・クーパーは、
胸毛を剃って欲しいというスタッフの依頼を拒否
したというのです。

まあ確かに度を越して濃い胸毛ではありますが、
剃ることを拒んだクーパーの気持ちはわからないではありません。
そして剃って欲しいと頼んだスタッフの気持ちは確実にわかります。

そこに、海軍大将が呼んでいる、と伝えにきた士官に彼は、

「なんで呼ばれたのかわかってるよ」

力無く答えました。
なぜなら、ジャワの負傷者脱出を独断で行っていたからです。
軍法会議にかけられるのだろうと思っているわけですね。



しかし全くこの副官(大尉)、顔に表情を出さず何も言わないので、
ついおどおどしてしまい余計なことを喋るワッセル。

「私が愚かだったかな?」

「イエス、サー!」


副官、なぜそこでその返事を?

と、このシーンに来て、わたしは思わず目を疑いました。
映画を通じて彼の袖章を初めてこのシーンで見たわけですが、

ワッセルって少佐じゃないですか〜!

どうりで「コマンダー」と呼ばれていたわけだ。

ルテナント・コマンダーの意味だったのね。
字幕では「司令官」と翻訳されていたのでなんか変だと思っていたの。

ということは、邦題の「ワッセル大佐」って全くの間違い?
いや、これなんとかしようよ。

というわけで当ブログタイトルだけなんとか訂正を試みました。


何を言ってもイエスサーしか言わない無表情の副官。
彼に連れてこられたところは、



ベタ金の大集合。

「お・・・・・・・・」

思わず絶句するワッセル少佐。(わかったからには今後少佐でね)


奥から出てきたのは少将。

「私のしたことについて・・」

「その話をワシントンから聞く」

「わ、ワシントン・・・?」

部屋の奥には国旗の前にラジオがどーんと置かれています。
アメリカでも玉音放送みたいにラジオを拝聴するんですね。



彼が案内されて椅子に座ろうとすると、



自分の名前を大統領が呼ばわったので慌てて途中で立ち上がり。

「飾らない内気な人物だが祖国のために志願し
その後海軍少佐に任命された」


あ、少佐って言ってますね。


ワッセルが振り返ると、そこには見たことある将校が・・・。
ジャワで苦楽を共にした「マーブルヘッド」副長ではありませんか。

あの頃はボロボロだったのに、随分と見違えてご立派に・・・(涙)



彼に助けられた負傷兵たちもラジオ放送を聴いていました。



アンディがカンガルーの仔を抱いているということは、
ここはオーストラリアです。

横にはベッティーナがいました。
ヴァン・ダール大尉が亡くなったので、アンダーソンの横にいるのね。


まだ全員完全に怪我は治っていないようですが。



彼を知るオランダ軍の兵士たちもそれを聞いていました。



同じ時刻、輸送機B 24(たぶん)。



海上から救出された「ペーコス号」乗員を乗せた飛行機でも
大統領のスピーチを聞くことができました。


傷病兵を助けて大統領がスピーチに取り上げられている軍医、
その名前を聞いてマデリンは驚きの表情を浮かべます。


その後アメリカで、ワッセルのネイビークロス授賞式が行われました。



傷病兵軍団、副長なども顔を見せています。
副長は車椅子ですが、その横にはマデリンもいます。

二人は再会し、結ばれたということでよろしいか。



ちなみに、実在のワッセル少佐の海軍十字章の内容は次のとおりです。

「 1942年3月1日、オランダ領東インド、ジャワ島で、敵軍と遭遇し、
敵機の攻撃を受けているとき、担当するアメリカ海軍の負傷者を看護し、
避難させるために、特に功労のあった行為、職務への献身、
自身の生命の安全を顧みぬ勇敢な行為に対してこれを授与する」


ワッセル少佐が観客席に目をやると、負傷兵軍団は
皆彼に向かって微笑んで見せました。

目の見えないクラウスには、ジョンが説明してやっています。
クラウスって下士官だったのね。



そしてワッセルの胸に今輝くネイビークロス。



彼が目をやると、そこにはマデリンの美しい微笑みが・・。



授与者の名前はフランク・ノックス海軍長官です。



クラウスが仲間に訊ねます。

「軍医の様子は?」

「もう最高さ」


映画は兵たちの様子で終わります。



最後に、実在のコリドン・ワッセル少佐の写真を。

ワッセル少佐は見ての通り、1942年当時はすでに58歳でした。
ゲイリー・クーパーのロマンスは何から何まで全くのフィクションです。

ワッセルの叙勲とラジオ放送ありきで制作された映画なので、
各種恋愛模様も、映画のための創作だったのは間違いありません。


それにしても、考えずにいられないのは、
あまりにも不運なホッピーとトレマティーニの二人のこと。

彼らに実際のモデルがいなかったことを祈るばかりです。


終わり。






映画「軍医ワッセル大佐」The Story of Dr. Wassell 前編

2022-09-11 | 映画

海軍軍医が主人公であり、さらに舞台は日本が侵攻していたジャワ、
という大変珍しい戦争映画、

「軍医ワッセル大佐」The Story of Dr. Wassell

をご紹介します。

この珍しい映画は、古い戦争映画ばかり、作品解説を一切廃して
低価格に抑えたシリーズの中の収録作品の一つでした。

このシリーズ、これまで3セットを購入してきたのですが、
いわゆる誰でも知っている名作が一つもないのが特徴です。

あえてマイナーな作品ばかりを集めているため、
中には「OKINAWA」のような世紀の駄作も混じっているとはいえ、
「僕は戦争花嫁」とか、この「軍医ワッセル大佐」のような、
変わった視点からの戦争映画も混じっているので、侮れません。


さて、本作「軍医ワッセル大佐」は、1944年作品。
時期的にも国威発揚プロパガンダ映画ということになります。

ゲイリー・クーパー演じる主人公海軍軍医ワッセル大佐は実在の人物で、
映画制作当時本人もバリバリ生存中でした。


■コリドン・マクアルモント・ワッセル博士

コリドン・マクアルモント・ワッセル(1884- 1958)は、
アメリカ海軍の軍医としての活躍で知られる医師であり、
劇中でも触れられている通りアーカンソー州リトルロックに生まれました。

ワッセルは大学で博士号種取得後、医師として活動を始めますが、
これも映画にある通り、医療宣教師として中国に渡っています。

その後1936年、ワッセルは米国海軍予備軍でサービスを開始。
第二次世界大戦中の1942年には、海軍中佐として、ジャワ島で
USS「マーブルヘッド」の負傷者の連絡役を務め、
ジャワ島で日本軍に捕まる寸前の重傷者12人を救い、
安全なところまで導いた功績で海軍十字章を受章したのでした。

ワッセル医師の功績について、ルーズベルト大統領が
ラジオ演説で取り上げたことをきっかけに、この映画が制作されることになり
ワッセル大佐をゲイリー・クーパーという超大物が演じることになりました。

ちなみに、ワッセル大佐は映画でも描かれていたように、
自分を前に出さず、控えめで無私の人物で、映画の撮影では
技術顧問を務めましたが、タイトルに名前は出さないようにと依頼し、
さらに映画で得た収益を、地元の盲ろう者病院に全額寄付しています。

ただし、寄付のことも技術顧問のことも本人が黙っていたので、
ひ孫の証言によって初めて余人の知るところとなりました。

というわけでこの映画ですが、ワッセル博士の功績はともかく、
全体的にポピュリズムに傾いていて、何のことはない
戦争を舞台にした恋愛映画みたいになっているのがちょっと残念です。

まあ、実際に起こったことだけでは、ワッセル博士が真面目すぎたせいで、
映画にするにはあまりにもネタ不足だったのが本当のところかもしれません。



まず、「錨を揚げて」が延々とタイトルをバックに流れたのち、
アメリカの当時の町医者を表す馬車が象徴的に現れます。

新しい命を迎え、人の最後を看取り、
人々に愛され、信頼される医師。
ワッセル博士はそんな医者の一人でした。


アメリカ海軍とオランダ軍が帝国海軍との厳しい戦いに挑んでいた頃、
ワッセル博士は海軍の軍医としてジャワにいました。


そしてその戦いに負けたアメリカ海軍の軽巡洋艦「マーブルヘッド」
必死のダメコンで沈没は免れましたが、大きな被害を出しました。


ジャワの港に着き、降ろされてきた「マーブルヘッド」の負傷者を
岸壁で迎えたのは、赴任したばかりの海軍軍医ワッセルでした。


ワッセルはここで奇遇にも旧知の人物に声をかけられました。
中国で研究助手をしていたピンは、「マーブルヘッド」に乗り組んでいて
不運にも重傷を負っており、助かる見込みがなさそうに見えます。


そして、ワッセル中佐は中国赴任で思いを寄せていた看護師、
マデリンにも偶然再会しました。

まだこの段階では事情は明かされませんが、二人は辛い別れをしていました。
挨拶もそこそこに、ワッセルの汽車は出発してしまいます。



移動の列車の中で負傷者たちの診察が始まりました。
アイダホのカウボーイ、フランシス
フォンデュラク(ウィスコンシン)出身のクラウス・シュラプネル

アンダーソンという水兵はマサチューセッツ出身ですが、
オランダ人の看護師、ベッティーナはこれが読めません。

「僕は戦争花嫁」でもフランス人がこれを読めずに苦労していましたが、
Massachusetts、アメリカ人にとっても普通でないスペルらしく、
(二つあるはずのSが一つしかないので子供が書いたとバレるとか)
何かと間違いがネタにされる州です。



「ホッピー」というあだ名のホプキンス水兵には輸血が必要ですが、
ジャワ人の看護師、トレマティニと血液型が適合しました。

トレマティニを演じているのはアメリカ人女優。
アメリカ人から見てそれらしく見える容貌の人が選ばれたようです。

アメリカ男たちは、すぐに彼女に
「スリー・マティーニ」とあだ名をつけて呼び始めました。


ワッセル中佐は、同じアーカンソー出身のホッピーの治療をしながら、
問わず語りに、故郷で巡回医をしていた頃、
子豚が診療代替わりだったこともある、などと思い出話を始めます。


調子に乗った?ワッセル、その頃アーカンソーの新聞記事で見た
在中国の従軍看護師に一目惚れしてして、
会いたさ見たさで中国まで行ってしまった
、という話までしてしまいます。

むむ、これは先ほど登場したマデリン看護師ではないですか。

いくら何でも雲をつかむような話だと思うけど、医師と看護師なら
向こうで必ず会えるはず!とか思ってしまったのね。



さて、ジャワの病院に落ち着いた海軍兵と医療スタッフですが、
映画の進行上、自然発生的にカップルが出来上がっていきます。

ホッピーに献血してから彼と今や一体だと信じているスリーマティーニは、
早速アーカンソーで一緒になりたい、とアプローチを始めました。

他の患者のケアもしろよって話ですが。



アンディは美人のオランダ人看護師ベッティーナにデレデレです。


ジョニー、こいつはとにかく若い美人なら誰でもいい肉食系。


その時、ワッセルは同僚の中国人医師から、
シンガポールの海軍基地が日本軍の攻撃に陥落したと聞かされます。


そしてその後、我が方の5倍の兵力の日本軍が
ジャワに上陸したニュースに司令部は不安を募らせます。

侵攻してきたら、現在の42人の傷病兵をどうするかが問題です。


しかし、兵隊と一部の看護師は呑気な限りで、病室で歌ったり踊ったり。
3マティーニに至っては、白衣を脱いで半裸になり、
ジャワの踊りとやらを男たちに囲まれて得意になって披露し始めました。


ホッピー、それにむしろ興醒めの様子。
なんか見てはいけないものを見てしまった的な?

トレマティーニはすぐにワッセルに職務怠慢を叱られます。


両手が使えないホッピーにワッセルは故郷から来た手紙を読んでやりました。
女名前の手紙の送り主に、トレマティーニの目がキラリと光ります。

音読していたワッセルは途中で読むのをやめ、目で追ってから、
彼女が彼の同僚と結婚するらしい、と告げました。


その時都合よく?警報が鳴り出しました。
全員で緊急時の避難を行います。

「マーブルヘッド」副長は逃げ隠れはしない!と妙な虚勢を張りますが、
有無を言わせずベッドの下に押し込まれてしまいました。



傷病者は避難壕に入れないので、皆ベッドの下に避難です。



目をやられたクラウスはすっかり音だけで機種がわかる名人です。
ジョニー「そうだな、そして操縦士は出っ歯だ」←おい

あのさー、この人種差別的な表現、いい加減やめてもらえないかな?
日本人が出っ歯というイメージ、どこから出てきたんでしょうか。

プロパガンダ漫画では、東條英機も昭和天皇も出っ歯に描かれていますが、
どちらも全くそうではないんですけどね?



皆、爆撃の中、不安に顔を引き攣らせながら冗談を言ったり、
音楽を演奏したり、ワッセルの陰口を叩いたりして過ごしていました。

マードックが、ワッセルが中国から去ったのは怖かったからだ、
という噂を広めているので、かつて助手だったピンは語り始めました。

ここからは(瀕死の)ピンが語るワッセル軍医のこれまでです。
どうして映画では瀕死の人間が滔々と語り続けるのか。



看護師マデリンに一目惚れし、会いたいという不純な理由だけで中国に渡り、
期待しながら現地で疫病の研究をしていたワッセルでしたが、
ある日、ついに病気の子供たちを引率してきたマデリンに出会うことに。


もうこれは運命?
勝手に決めてかかり、一人で静かに盛り上がるワッセル。
彼女はワッセルの助手を務めるようになり、二人は急激に接近します。

良かったですね。



しかし、好事魔多し。

ワッセルは派遣医師会の命令で、長子への転勤を命じられました。
ここで離れてたまるものかと、彼はマデリンを同行することを主張しますが、



彼の後任に来たウェイン医師は、仕事でもワッセルの競合相手というか、
同じような研究をしていて、まあ言うたらライバル関係です。

そのウェイン医師、ワッセルの言い分を聞いていたと思ったら、
おもむろに、長子というところは前線で疫病もあり危険な場所だよー?
と気のせいか楽しげに言い出すではないですか。

それを聞いたワッセルは、あっさりと前言をひるがえし、
マデリンを連れて行くことをやめてしまいました。
ウェイン医師はむしろこれにはびっくりして、

「連れて行かなくていいのか?私は彼女に興味を持っているぞ」

置いていったら俺が彼女を取っちゃうよという意味でよろしいか。
それでも仕方ない、とワッセルは一人で出発していきました。

ていうかさー、あんたたち、女性の方にも選ぶ権利があるって思わないの?
連れて行くとか行かないとか、それ以前に、
ウェイン医師の、自分がその気なら、即自分のものになるの決定!
みたいなこの自信は一体どこから?




とここまで話した時、爆弾が至近距離に落ち、
爆風で倒れた鉄材に体を貫かれてピンは死んでしまいました。

それまでも瀕死の状態だった割には
ほっぺたがツヤツヤ光っているのは言いっこなし。


こちら、オランダ人看護師ベッティーナに恋してしまったアンダーソン。

直接本人に告白する勇気がないものだから、
マサチューセッツにいる恋人に送る手紙を口述筆記させるふりをして、
自分の彼女への想いの丈を切々と語っております。

書き留めるベッティーナが彼に同情的なのに調子づくアンダーソンですが、
現実はそんなに甘いものではなかった。


そこに颯爽と洗われたオランダ人士官(イケメン)。
ベッティーナはペンを放り出して彼に抱きつくではありませんか。

彼女はオランダ陸軍のディルク・ヴァン・ダール大尉と付き合っていました。
アンダーソンなどまるでいないも同然のベッティーナが、
目の前でヴァン・ダール中尉とキスを交わす様子にアンダーソン呆然。


しかも残酷なことに、アンダーソンをただの患者としか思っていない彼女は
筆記の続きをヴァン・ダール大尉に頼んでいくではありませんか。

「悪いのだけど、この患者さんの手紙の代筆の続きをお願いできる?」

「いいよ。やあ、こんにちは」

挨拶する大尉にあきらめ悪く聞いてみるアンダーソン。

「もしかして彼女の・・・お兄さんだったりします?」

兄妹が人前でディープキスなんかしないっつーの。

彼の態度から、アンダーソンがベッティーナを好きなのだと気づいた大尉は、

「戦時中だからこれからどうなるかわからないけど、
終戦後、運がいい男が勝ちだ。
生き残った方が彼女を守ろうじゃないか」


と男前なことを言い、アンダーソンを感激させます。

しかし、大尉がアンダーソンに言わず、
ベッティーナだけにオランダ語で伝えていたことがありました。

「ここにいる米兵たちはもうすぐ帰国する予定だ」

ふーん。

何を言おうが横恋慕しようが、すぐにいなくなるって思うからこその余裕か。
っていうか、ヴァン・ダール大尉ってば、なかなか人が悪いっすね。



ヴァン・ダール大尉がベッティーナに伝えたニュースは本当でしたが、
ワッセルたちにとって問題だったのは、命令には続きがあったことです。

それは、

「帰国できるのは自力で歩くことができる者のみ」



しかし帰国のニュースはあっという間に駆け巡り、皆興奮の坩堝に。
ニューヨーク出身のジョニーがしている一発芸、「自由の女神」。


「歩けないものは連れて帰れない」

この一言を、皆の興奮と先回りした喜びにかき消され、
なかなか言い出せないうちに、ワッセル中佐は密かに決心しました。

軍の命令がどうあっても、こいつらを連れて帰ってやる!と。


たった一人、ホッピーを失うかもしれないトレマティーニだけが、
必死に、一緒にアメリカに連れて行ってくれと彼に懇願します。

「私たち二人を離さないで!
でないとあなたたち全員不幸に見舞われるわ」

現地の女性の報われない愛への怨念が何かを引き起こすってか?


そして移動の日がやってきました。

各艦船に兵を割り振っていきますが、ワッセルは負傷兵たちに
歩けないと思われるな、健康そうに振る舞え、と一生懸命注意を与えます。

そりゃそうです。歩けなきゃ置いて行かれるんですから。



しかし、歩けないと船に乗せてもらえないという命令を知らない彼らは
何が起こっているのかわからず、現状に不信感を持ち始めていました。



そこに船一隻が到着したので、ワッセルは躊躇うことなく
残った負傷兵を全部積み込んでしまうことを決心します。


しかし、やってきたオランダ軍輸送担当大尉に、
歩けない者を担架で運んでいるのを見つかってしまいます。

「担架の者は乗船させるなという命令だ!」


ワッセルは食い下がりました。

しかしオランダ軍大尉も、輸送船は敵の標的になりやすいから、
彼ら全員を海で死なせることになるぞ、と負けていません。

断固として命令を覆さない(というか上官が海の上なので覆せない)担当。

わたしも兵と一緒に残る、とさらに食い下がるワッセル中佐に、
じゃあ、残って何があっても彼らと行動を共にしろ、と言い捨てます。

「数分後に君はジャワ当唯一の米海軍将校になる。幸運を祈る」


こうなったらもうヤケクソです。

ワッセルは、健康な兵を全員「ペーコス号」に乗船させてから、
初めて今まで言えなかった命令を彼らに伝えました。

「実は歩ける兵だけが帰国できることになっている」







彼らが船に乗り込もうと必死で無駄な努力を続けている間に、
「ペーコス」号は舷門を上げ、出航してしまいました。



岸壁に取り残され、呆然と出航していく船を見送る負傷兵軍団。

唯一歩けるのはジョニーですが、彼は女性を口説いていて
出航の集合に間に合わず置いていかれたという相変わらずのていたらく。

この人は健常者なのに、いわば性癖に問題があったといえます。



自嘲する者、悔しがる者。
しかしそんな彼らにワッセル中佐はいうのでした。

我々はアメリカ海軍だ。
生きている限り米国海軍の一員として振る舞え。
私の命令に従い、行動してほしい。
海軍兵であることを忘れるな。

これから我々は病院に戻る。そして・・・」


「・・日本軍を待つ(笑)」


即座に誰かが混ぜっ返します。

彼らの絶望した眼差しの中、夕陽に包まれた輸送船が
港を出ていくのが見えました。

さあ、どうなる?ワッセル軍医と負傷者軍団!

続く。



サンフランシスコの一日

2022-09-09 | アメリカ

MKの大学院入学のために、西海岸にやってきました。
間にコロナ禍があったため、実に3年ぶりのベイエリアです。

着いて早々に、かつて住んでいたサンフランシスコに行くことにしました。

MKがバックパックの買い替えのためにセレクトした店があり、
さらに、日本酒専門店、お茶の専門店にも行ってみたい!
ということで、車で30分ほど走って市内に到着です。

■ピークデザインのバックパック



まず、バックパックを購入するためヘイズエリアへ。

ここはシンフォニーホールやジャズ音楽院があって、
アーティスティックな人たちが集まる活気のある界隈です。

お洒落なお店が並ぶ一角に、オリジナルのカメラバッグ専門店があります。


peak designというこのブランドは、日本でも商品購入可。
売りはバックパック型のカメラバッグです。

「2010年、アメリカのキックスターターで資金募集を成功させ、
一躍その名を世界の写真業界に轟かせた」


という企業で、カメラマンである 創業者が、
アウトドアでの撮影時の不満を解消するための画期的なものだとか。

「スキーをしながら写真を撮りたいと思ったとき、止まり、
ストックを地面に刺し、バックパックのストラップをはずし、降ろし、
カメラを取り出す。撮り終わったらその逆…
毎回そんなことはしていられなかった。
撮りたいと思った瞬間はあっという間に去ってしまう」

彼はその経験から、いつでもすぐに簡単にカメラにアクセスでき、
かつ安全にそれを持ち運ぶ方法を考え、デザインし、製品化しました。

peak design

こちらで買うと、日本の代理店よりはもちろん安価です。

軽くて中には仕切りがあり、レンズなどを入れるのに便利。
MKは軽さと完全防水と仕切りの多さでこれを選んだようです。
実際に見て、グレーのバックパックが気に入ってお買い上げ。

昔、中高生くらいの時にもう少しルーズな形の
オリジナルバックパックを買ったTIMBACKの本店は、
偶然この向かいにありました。

Timbackはもういいの?と聞くと、MKは「卒業した」と答えました。


■ 日本酒専門店 TRUE SAKE



さて、次はTOとMKの希望で、日本酒専門店、
TRUE SAKEへ。



「True Sake」はピークデザインの道を隔てて向かい側。
アメリカ国内唯一の本格的な日本酒専門店です。

日本からお酒を送るのが大変なので、ここから何度かアメリカ国内に
(お礼とかMKのお祝い用とかで)お酒を送ってもらったことがありますが、
実店舗に行ったのは、もちろんこれが初めてです。

わたしはお酒を飲まない飲めない体質なので、
二人が選ぶのをぼーっと横で見ていただけですが、結局、
「作」 ZAKU ざく 穂乃智 ほのとも
というお酒をを購入したようです。



「ZAKU」は、世界一おいしい日本酒を決める、
世界最大の日本酒コンペティション「SAKE COMPETITION」にて
第1位に輝いた、三重県 清水清三郎商店の定番純米酒です。




買い物を済ませて車に戻ろうとすると、街角に
「かき氷(シェーブドアイス)の店 NAYA」というお店がありました。

ジャパニーズカレーというメニューもあったので日系の店かと思ったら、
かき氷は日本風ではなく・・どこだろう?とにかく南国風です。

まずこの「氷」ですが、水を凍らしたものではなく、
なんだか物凄くふあふあしていて甘いのです。

「なんだこれ・・・甘い」

「練乳凍らしてるのかな」


何かわからないままに三人で美味しく食べてしまいました。
後で調べたら、練乳混じりのかき氷は台湾風なんだそうです。


■ SONG TEAでお茶の葉購入

さて、次はピッツバーグで贔屓にしていたコーヒー専門店、
「コンステレーション」のクリフとエイミーおすすめの、
お茶専門店、SONG TEAのあるサッター通りへ。


「コンステレーション」で、わたしたちは時々
コーヒー以外のお茶なども楽しんでいたのですが、特に気に入ったのが

「佛手 ブッダズパーム(仏の手のひら)」

という紅茶のように甘い美味しい台湾烏龍茶でした。

彼らに、それを仕入れている店がサンフランシスコにあると聞いて、
ぜひ行ってみようと前々から言っていたのです。



するとその前の教会から見たことのない民族衣装の人たちが
大量に出てきたので、思わずなんだろうとそちらに注目したら、
教会には「マセドニア・バプテストチャーチ」とあります。

「マセドニア・・・マケドニア・・?どこのことだっけ?」

マケドニア文明というとギリシャ的なイメージがあるから、
あの辺の人たちなのかしら。

しかし、やっぱりアメリカっていろんな人種が暮らしているんだなあ。


SONG TEAでは、烏龍茶「佛手」の他に、
人参茶、マシュマロ茶、などのノンカフェインセットを買いました。

MKがお茶を飲むための急須と湯呑みが欲しいと言っていましたが、
ここで扱っている陶器は作家ものなのでお値段に手が出ず。

「どこに行ったらあるかな」

「やっぱりジャパンタウンでしょう!」



■ ジャパンタウン

ということで、この後ジャパンタウンに車を停め、昔からある
ジャパンタウンの荒物屋さん、「SOKO」(倉庫)に行きました。


SOKOで湯呑み3個と急須を買いました。
湯呑みの模様の処理が日本で売っているものにはない雑さですが、
これはアメリカだから仕方ない・・・のかな。


この日ジャパンタウンに行ってびっくりしたことは、
普通のモールにはあり得ないようなその人の多さ。
今まで何度もここに来たことがありましたが、
こんなに人が溢れかえっているのを見るのは初めてです。

日本人にとっては扱っている商品はともかく、その佇まいも
実に昭和な感じの臭みみたいなのがあって、
決して居て心地の良い空間というものではないのですが、
どこに行っても金太郎飴のように判で押したようなアメリカのモールに
飽きた人たちにとっては、たまには来てみたいところかもしれません。

それにしても、この日は人大杉。
一体ジャパンタウンに何があった。

「もしかしたら鬼滅の刃のヒットとか関係あるかな」

「鬼滅とは限らないけど、まあ、日本のアニメとか文化に
興味を持つ人が前より増えたってことなんじゃないかな」




なぜか突如現れる大阪城。
訪れている人の人種は圧倒的に東洋系が多いのですが、
これが皆日系とは思えないんだよなー・・・。



文化祭のデコレーションみたいなこのチープ感よ。



夕ご飯にはここでうどんを食べようということになりました。

お店の入り口には名前を登録するiPad状のものがあり、受付は無人。
時間が来た時に前に戻っていれば案内してくれるという仕組みです。

雰囲気は昭和ですが、この辺は普通にハイテク日本です。(意味不明)

しかし、予約時間に店の前に全員が揃っていなければ入れてくれません。
後から一人くるから、という言い訳は一切できない厳しい掟でした。
(TOが時間に帰ってこなかったのでしばらく入れなかった)

で、頼んだうどんですが・・まあ普通か、ちょっとその下くらいかな。
30分も待って食べる価値があったかというと、もちろんそれはありません。

ここがアメリカだから我慢して食べてやるというレベルでした。


MKが頼んだカレーうどんの方が美味しそうです。

■サンフランシスコ北西岸



今回サンフランシスコに来て、とても残念なニュースを知りました。

映画「1941」の冒頭で、三船敏郎艦長の日本の伊号潜水艦が浮上し、
その時に潜望鏡に全裸の女性が捕まっていたシーンで有名な(有名かな)
サンフランシスコの右肩部分海岸にあった絶景レストラン、

「The Cliff House」

が、2020年12月31日に閉店していたのです。

理由はやはりCOVID-19による影響ですが、
家主である国立公園管理局(NPS)が長期リースを遅らせたせいです。

ただ、サンフランシスコの象徴的な建物であり、場所なので、
サンフランシスコ監督委員会はNPSに対し、テナントを探す一方で
レストランの業者をすぐに見つけるように促す決議案を可決しました。

公園管理局はそれを受諾したので、次に来た時には
素敵なレストランがオープンしてくれていることを祈ります。


レストランがオープンしていないと、車を停めるのだけは楽ですが。


この日はいい波が来ているらしく、たくさんの詩人か馬鹿か、
あるいはその両方が、波間に浮かんでいるのが見えました。


■ ゴールデンゲートビーチ



サンフランシスコに来たら一度は行かねばならぬ。
それがゴールデンゲートビーチのクリッシーフィールドです。

ジャパンタウンとは別の日、散歩を目的にやってきました。



アルカトラズも健在。



日差しは強いですが、空気が冷たいので本機の散歩には絶好の日和です。
歩きながらバードウォッチングも楽しめます。



ヒッチコックの「めまい」のシーンにも登場する岸壁の鎖。
これは、人のためというより車が飛び込むのを防止しています。

経年劣化で鎖どめにレイヤーケーキのような層が現れていますが、
これってそろそろ車が突っ込んだら倒れるんじゃないだろうか。



その昔、この建物、パレスオブファインアーツの横に
サンフランシスコの科学館があって、サマーキャンプに参加したものです。

この一角は、1915年サンフランシスコ万国博覧会の用地として
土地を埋め立て平坦にし、この壮麗な建物もそこに建造されました。

科学館はその後フィッシャーマンズワーフの並びの埠頭に移転しました。


■残念だったミッション地区のディムサム



レストラン探しは主にMKの検索能力とカンに頼ることが多く、
それは概ね成功していつも美味しいご飯を食べているこの頃ですが、
この時行ったミッション地区は、レストラン以前に、
街が少し物騒なところなので、それがちょっと問題でした。

どう物騒かというと、ホームレスがやたら多く、その結果、
街角を一人で歩くのは無理、という雰囲気です。
おそらく夜になったらもっとやばいことも起こっていそうな気配が。

サンフランシスコはホームレスが路上で楽に生息できる気候なので、
その結果、ダウンタウンの目抜き通りを一筋外れると、
昼間でも女性一人では怖いくらいそこここに人が座り込んでいます。

問題は、夏場は雨が降らないので一帯が物凄い臭いになることですが、
ミッション地区繁華街もそういう地域の一つです。



この時の中華点心は、確かにとてもおいしかったでのすが、
トイレに行くとgの死骸が転がっていたり、最初に通されたテーブルも
真横に子供用のハイチェアが積み重ねてあったり、
それが嫌で外のテーブルにしてもらうと、下水臭い空気が漂ってきたりと、
まるで中国本土の食堂のような猥雑さが、わたしには今ひとつでした。



■ かつて住んだ地区モールの変貌



昔住んでいたストーンズタウンという街の横には、
閉店した大型本屋のあるモールがありましたが、今回横を通りかかると
ここになんとWhole Foods Marketができているので、驚きました。

かつてこの隣に住んでいた時は、サンフランシスコ中心に二つしかなく、
わたしは買い物のたびにそこまで車を走らせていたのですが、
もしその頃ここにあればどんなに楽だったことか。



おそらくここは、メイシーズか何か、
大型デパートがあった場所で、異常に店内が広々しています。



そしてもっと驚いたことに、モールの一角に丸亀製麺が登場していました。

うどん県香川とはなんの関係もないという丸亀製麺、
そして香川の人には滅法評判が悪いという丸亀製麺ですが、
サンフランシスコなんぞに出店するまでグローバル化していたとは。

香川の人は決して行かないでしょうが、わたしたちは行ってしまいました。



カウンターを進みながら基本のうどんにトッピングを足す方法は
日本国内と同じシステム。

やはりお客さんはアジア系が多いように思われます。



で、肉うどんを食べてみました。
まあ、ジャパンタウンよりは美味しい気がしましたが・・・
そもそも丸亀製麺で食べたことが2度しかないわたしには
評価のしようがなく・・・というかちょっと辛めで辛かったです。
(からめでつらかったと読んでください)

■ やよい軒@ヒルズデール

実際、アメリカで食べた日本食で美味しかったことはほとんどありません。

日本人だから何かと粗が目に付くし、当然ながら点数も辛くなるし、
アメリカ人にはわからない小細工も容易に見抜けてしまうしで、
行ってはみたものの、いつも期待を裏切られるのが常です。

ラーメン店だけはなかなかのレベルのところが多いような気がしますが、
それはラーメンという料理の素材が地域を選ばないからでしょう。

そして、失望するかもしれないと思いながら、
パロアルト店に引き続き、またしても行ってしまった、やよい軒。



お昼を大分過ぎた時間で、店内はガラガラでした。
注文はパロアルト店と同じiPadで選ぶ方法でしたが、
ここではお運びもロボットがしてくれるシステムを導入していました。

このロボットの横をウェイターが付き添って歩いてきて、
テーブルに料理を置くと、ロボットは帰っていきます。

ウェイターの腰には優しい技術かもしれんね。



サバ塩焼き定食を頼んでみました。
副菜が少なすぎ!そして辛い!
どうしてアメリカの日本食はどれもこれも味つけが濃いのか。



緑の餃子も、日本の食堂で出るものと寸分変わりない味でした。
(美味しかったとは言っていない)



結論:日本人はアメリカの日本食に期待してはいけない。
決して。


続く。

「ジャック」・コイJr.艦長就任〜潜水艦「シルバーサイズ」第6、7次哨戒

2022-09-07 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」の哨戒の履歴を
第1次から第5次までたどってみました。

6次からは、艦長がクリード・C・バーリンゲーム少佐から
ジョン・S・’ジャック’・コイ少佐に変わります。

なぜジョンなのにあだ名がジャックなのかはわかりません。



この写真は、「シルバーサイズ」の艦長室なのですが、
さすがは潜水艦、どんなに頑張ってもこんな範囲しか写りません。

これならiPhoneの広角で撮るんだったと激しく後悔しています。

サンフランシスコに展示されていた潜水艦「パンパニート」などは、
乗員の部屋に女性のフォトフレームが置いてあったり、
大抵の水上艦の艦長室には制服がかけてあったりと、
それなりの演出がされているものですが、「シルバーサイズ」には
そういった名残を感じさせるものは一切ありません。

■ 新司令の元に(第6次からの哨戒)


5回のパトロールが終了しました。

バーリンゲーム艦長とダベンポート副長は移動で『シルバーサイズ』を去り、
我々は新しい艦長、ジョン・C・コイ少佐と
ボブ・ウォーシントン(Worthington)副長を迎えることになりました。

上の写真には、「勤務初日のコイ艦長」とキャプションがあります。
コイの名前は John S. "Jack" Coye, Jr.で、
我々には聞きなれない変わった苗字ですが、イギリス系の家系の名前です。

時々男子のファーストネームとして使用されることもありますが、
ファミリーネームとしてはイギリスでも珍しい名前だそうです。

ここで艦長は上下逆さまにした「戦利品」の旗を持っていますが、
おそらく漁船の船名であろうと思われる「徳島」が読み取れます。
(昔は旗の根元から右に向かって読んだため)

続きです。

ウォーシントン少佐は、下士官(junior officer)からスタートして
潜水艦副長にまでなった人です。


ジュニア・オフィサーは「尉官」と訳されることもありますが、
この場合は、ウォーシントンが下士官出身、旧海軍の特務士官、
世間で言うところの「叩き上げ」であると解釈すべきでしょう。

帝国海軍では歴然とした士官学校卒とそれ以外の「身分差」があり、
下士官からオフィサーになっても「特務士官」と色分けされましたが、
アメリカ海軍は、実力次第では(特に開戦以降の潜水艦は)
副長にもなれた、ということのようです。

そういえば、映画「ハンターキラー」でも、主人公の原潜艦長は
兵学校卒ではなく、叩き上げの下士官出身でしたっけ。

最初はずいぶん兵学校卒の副長に反発されていたようですが。


「コイ艦長は6次にわたる哨戒と、その間の
オーバーホールの期間を通じ、
我々を率いて、敵船14隻の撃沈スコアを挙げました」


■ 6回目の哨戒


「可愛い魚雷」が寝ております。
シュールですが、なかなかキッチュで和むデザインですね。

第6次哨戒では、魚雷を1発も発射しなかったってことでしょうか。

見ていきましょう。

🇺🇸
6回目の哨戒では、新任のジョン・S・"ジャック"・コイJr.中佐のもと、
7月21日から9月4日までソロモン諸島とカロライン諸島間をパトロールした。

魚雷の不調と目標の少なさに悩まされ、手ぶらでブリスベンに帰還した。

英語の記録ではこれだと攻撃を全くしなかったように書かれています。
ただ、これがわたしにはなぜなのか、ちょっとよくわからないのです。

なぜなら、日本側の記録によると、以下の通りだからです。

🇯🇵
7月21日、シルバーサイズは7回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。

8月2日朝、シルバーサイズは、北緯04度36分 東経149度20分の地点で、
13ノットから16ノットの速力で航行する
神川丸級輸送船に対して
魚雷を4本発射し、次いで浮上して砲戦を行おうとしたが、
間もなくスコールが目標をかき消してしまった。

8月5日には、北緯01度53分 東経153度32分、
ラバウル北北東340海里の地点で
敷設艦「津軽」を発見し、
艦尾発射管から
魚雷を4本発射して2本を命中させ撃破する。

いや、これ・・・魚雷全く寝てないんですけど。

敷設艦「津軽」

このとき撃破されたという「津軽」の艦歴を見てみましょう。

敷設艦「津軽」は、ラバウルで空襲を受け、
その修理を横須賀で行って、再びラバウル、ブイン、トラック泊地間で
魚雷輸送任務等に従事していました。

8月4日、トラック泊地を出撃してラバウルに向かったところ、
8月5日、米潜水艦「シルバーサイズ」から雷撃されて損傷し、
ラバウルで応急修理後、再び横須賀で修理と整備を実施しています。

「津軽」は機雷敷設艦ですが、ある時は航空隊の無線で
戦艦だと認識されていたことがわかっているくらい大型艦でした。

そこでさらに疑問が湧きます。

機雷敷設艦といえども、この大型艦に雷撃で損傷を与えたことは、
彼らにとって誇るべき記録のはずです。

なのになぜ、当時の「シルバーサイズ」は、魚雷を眠らせていたとし(笑)
さらに英語の記録でも、このことが全く書き残されていないのでしょうか。

「津軽」撃破後は、確かに不調だったようですが。

🇯🇵
「津軽」撃破後はなかなか攻撃の機会がなく、
8月21日に北緯05度00分 東経149度50分の地点で
病院船

「ぶゑのすあいれす丸」(大阪商船、9,625トン)を確認した。



この時の「ぶゑのすあいれす丸」は、潜望鏡を通じて
このように写真が撮られています。

Periscope Photo
Hospital ship, that's safe,
cargo ship that wasn't

(病院船は見逃すが、貨物船はそうはいかない)

というキャプション、そして次のこの写真と共に。


貨物線ではなく漁船に見えますが

さて、この後も、日本側の記録は続きます。

🇯🇵
8月29日
北緯04度30分 東経150度48分地点で
9ノットで航行する輸送船を発見し、浮上して追跡を行う。

8月30日
日付が変わった未明、北緯02度40分 東経150度00分の地点で
「シルバーサイズ」は水上攻撃で
魚雷を6本、20ミリ機銃による射撃を行う。

やがて5つの爆発音が轟き、間もなくレーダーの反応もなくなったが、
目標を沈めたとは判断されなかった。


うーん、おかしい。おかしすぎる。

これまでの戦歴では、もっと曖昧な確認でも「撃沈」「撃破」認定したはず。
なぜ今回はこんなに認定に慎重だったのでしょうか。


いずれにしても、結果的には目標と遭遇するチャンスがなく、
たまの機会もそもそも魚雷が不調だったりして、
「戦果はなし」と言わざるを得ない状態だったのは確かです。

実際そうだったかどうかはともかく、初代艦長のバーリンゲームは
初回哨戒から派手に戦果を上げたとされていたので、
後を引き継いで新しく艦長になったコイ少佐は、
内心プレッシャーを感じていたのは確かだと思います。

しかし、攻撃を仕掛け、爆発音を確認し、
レーダーから敵が消えたのにも関わらず、撃沈撃破としなかったのは、
この新艦長の慎重さと、自己評価に対する厳しさ、
あえて言うなら誠実とか正直と言った言葉を彷彿とさせる、
その人物像にもつながるのではないかと思うのですが、
果たして実際はどうだったのでしょうか。

9月12日、
「シルバーサイズ」は53日間の行動を終えてブリスベンに帰投しました。


■ 第7次哨戒



● TAIRIN MARU 7,600 TONS

● FREIGHTEN 7,000 TONS

●JOHORE MARU 6,182 TONS

 KAZAN MARU 7,000 TONS

● FREIGHTER 5,000 TONS

まず、第7次哨戒の英語Wikipediaは非常に淡々と記されておりますが、
判明している船名は一部正確で、艦内のペイントと一致します。

🇺🇸
「シルバーサイズ」は10月5日に第7次哨戒に出航し、
ソロモン諸島からニューギニア沖にかけての海域で敵艦4隻を撃沈した。

10月18日には
貨物船「タイリン丸」
10月24日には
貨物船「テンナン丸」「フウリン丸」
客船・貨物船「ジョホール丸」を相次いで沈没させる果敢な攻撃を行った。


艦内ペイントは「カザンマル」、戦後記録は「フウリンマル」・・・?

なぜここで武田信玄。

さて、それでは今のところ最も正確な(喪失した側ですのでそれも当然かと)
日本側の記録を見てみましょう。

🇯🇵
10月5日
「シルバーサイズ」は7回目の哨戒で
「バラオ」 (USS Balao, SS-285) とともにビスマルク諸島方面に向かった。



「バラオ」は「バラオ」級のネームシップです。

10月17日午後
「シルバーサイズ」は北緯00度23分 東経142度03分の地点で
5隻の輸送船と2隻の護衛艦からなるソ406船団を発見し、
「バラオ」と連携して船団の追跡を開始。


やがて「バラオ」が先に攻撃を仕掛けたらしく、
「シルバーサイズ」は爆雷攻撃の音を聴取します。

日没後浮上し、「バラオ」から船団の様子を聞いた上で追跡を再開。


10月18日
北緯00度20分 東経143度02分のアドミラルティ諸島北西300海里の地点で
船団に追いつき、魚雷を6本発射して2本が命中するのを確認。

この攻撃で
陸軍船「大倫丸」(大洋海運、1,915トン)を撃沈する。


「シルバーサイズ」が撃沈地点付近を捜索すると
 "TAIRIN MARU KOBE" 
と記された浮遊物を発見します。




喜色満面で海から浮き輪を引き揚げる乗員



浮き輪から顔を出しているのは新艦長のコイ中佐。


この後も10月19日まで「バラオ」とともに船団追跡を行うが、
スコールや爆雷攻撃で時間を取られ、いつの間にか引き離される。

10月22日
夕刻、南緯00度10分 東経147度39分の地点で、
ラバウルからパラオに向かっていたオ006船団を発見し、
再び「バラオ」とともに追跡を開始する。

オ006船団に対する攻撃も「バラオ」が先に行うが、
船団を一時的に乱したものの駆潜艇の制圧で退散してしまう。

次いで「シルバーサイズ」が攻撃する番となり、
魚雷を4本発射して爆発音を聴取するが、
船団に変化はなく命中しなかったと判断された。

浮上して追跡を続けるが、そのうち「バラオ」とは離れてしまう。

10月23日深夜
レーダーによりオ005船団を再び探知し、魚雷を6本発射。
6つの激しい爆発音と物体の圧壊音、爆雷攻撃の音を同時に聴取した。

この攻撃により、

海軍徴傭タンカー「天南丸」(日本製鐵、5,407トン)を魚雷2本で撃沈、
陸軍船「華山丸」(関口汽船、1,888トン)
陸軍船 「浄宝縷(じょほーる)丸」(南洋海運、6,182トン)撃破

あっ、「火山丸」じゃなくて「華山丸」だったのね。
風林火山じゃなかったのか。

攻撃を受けて撃破された陸軍船2隻は、最終的に自沈処分されたわけですが、
「シルバーサイズ」はどうやら一隻にとどめを刺したと見られます。

🇯🇵
爆雷攻撃の音が遠ざかり、潜望鏡深度に戻して観測すると、
航行不能状態で漂っていた「華山丸」と「浄宝縷丸」を発見。

「シルバーサイズ」が浮上して周囲を捜索すると、
「華山丸」の名が入った救命浮き輪を発見しました。

そのとき「華山丸」は「シルバーサイズ」から約1,400メートル離れた場所に
自沈処分されて浮いていましたが、間もなく沈没しました。

浮いていた「浄宝縷丸」に、「シルバーサイズ」が
4インチ砲と20ミリ機銃の射撃および1本の魚雷を撃ち、
北緯02度45分 東経140度41分の地点で沈没しました。

10月26日未明
「オ005船団の残党」と思しき輸送船団を発見し、
最初と二番目の目標に対して艦首発射管から4本、
船団最後尾の目標に対して艦尾発射管から2本と魚雷を計6本発射し、
爆発音と最後尾の目標から発せられる閃光を確認し、
魚雷は1本が命中したと推定された。

これが、「シルバーサイズ」のワードルーム戸棚に、
「貨物船」5,000トン、と書かれていた日本船のことです。

7回目の哨戒では魚雷が寝ていた(に等しい)と自己評価した
「シルバーサイズ」ですが、8回目になって大船団に出くわすといった
幸運に恵まれて、大がつくほどの戦果を挙げることに成功しました。

初の哨戒で不本意な結果に終わったコイ艦長は、
これでようやくプレッシャーから解き放たれたのではなかったでしょうか。


ちなみに、どの記録においてもニューギニア北方で雷撃により
撃沈されたことが一致している「大倫丸」ですが、
「シルバーサイズ」が7,600トンと認識しているのに対し、
実際は1,950トンとほぼその4分の1くらい小型となります。

何をどう勘違いしたらこんな誤認が起きるのでしょうか。


11月8日、「シルバーサイズ」は36日間の行動を終え、
主に改装のため真珠湾に帰港しました。

続く。




MK学生寮の下見と美味しいエスニック料理〜ベイエリア滞在

2022-09-05 | アメリカ

サンフランシスコに到着し、サンマテオの住居に落ち着き、
翌日はとりあえずMKの新しい住居となるレジデンスを見に行きました。

マスターを取ることになった大学は、偶然ですが、
彼が高校生のとき参加していた業者主催のITキャンプ開催地の一つです。

何年間か連続で同じキャンプに参加し、この周辺に住んだお陰で
わたしも地域や大学の中にもとても詳しくなっていたのですが、
そのときは、また帰ってくることがあろうとは思っていなかったので、
(MKは規模の大きすぎる大学を避けて受験もしなかった)
こうやってここにいる今となっては、何やら縁を感じずにはいられません。



キャンプの時にはこの教室でやったとか、
週末の「ショーケース」(展示日)にはあそこで表彰式をやったとか、
そしてショーケースの日は外で待機させられて死ぬほど暑かったとか。

そんな思い出を話しながらレストランやスターバックス、
人気のジュース屋さんのある一角までやってきた時でした。

わたしがふと思い出したことがあります。

「そういえば、キャンプの教室に忘れ物をしたかなんかで、
連絡したら、学生さんがここに届けてくれたことあったよね?」

と言うと、驚いたことに、MKはそれを覚えていたどころか、

「あの人、大学助手でまだここにいるよ」

なぜそのことを知っているのか聞くと、その時、
忘れ物の受け取りのやりとりをメールでしたのでアドレスを持っていて、
今回、ふと思いついて検索したら、本人の情報が出てきたそうです。

その人はMKと同じエンジニアリング専攻だったということで、
これもなんか縁を感じるなあと思ってしまいました。

忘れ物がなんだったかも忘れてしまいましたが、その時の彼の、
頭の良さそうな雰囲気と容貌に、内心感嘆した覚えはあります。



これからしばらく自分が生活し、勉強する場所になるという気持ちからか、
どうしてもMKの歩調は「ホームスピード」的に速くなってしまうようで、
わたしたちを置いてスタスタ先に行こうとします。

この後、広くて品揃え豊富なユニバーシティショップに立ち寄って、
大学のロゴが入ったコーヒーマグと散歩用のサンバイザー、
フーディとTシャツ(別名;親馬鹿セット)を買い込みました。



そして忘れちゃいけない、大学院生の寮の位置をチェックすること。
Googleマップで既にそれが、キャンプの時に毎日通っていた
道沿いにあることは既に確認済みですが、やはり実際に見たいよね。

ただし、引っ越しの日になるまで部屋はどこになるかわからず、
学生証もその時に受け取るので、中に入ることはできません。

それにしても、これが大学院生の寮ってすごくない?
内部には食堂やカフェなどがあって、一歩も外に出なくても生活できるとか。
引っ越しの日に中を見るのが楽しみです。

■ 美味しいエスニック料理


着いてすぐ、家から車で5分の所にあるモールに行きました。

MKは服を買うことに全く興味がなく、何か買ってやると言っても
あるからいい、と言っていつも同じ服を着ているタイプです。

しかしまあ、さすがにお洒落と関係なく膝が破れたジーンズとか、
肘が抜けて襟の端が破れてきたシャツは良くないと思ったのか、
この際、着るものを買い揃えると言い出し、さらに、
『カリフォルニアは日差しが強いから』と言って、
度付きのサングラス(レイバン)を誂えることにしたのです。

このモールは昔、やはりMKの服を買いに一度来たことがありますが、
久しぶりに来てみたらリノベーションと増築がされたばかりで、
新しくなってお店もずいぶん気の利いたものが増えていました。

ついでにあちこちに猫とかウサギとかを象った妙な石像が・・・。

ジーンズを買うことにして、最初にあったラッキージーンズに入って、
そこにいたやたらプロフェッショナルな店員さんに相談しながら、
気に入ったジーンズをあっという間に2本お買い上げ。

続いて、ノードストロームでカーキのパンツ、
バナリパで上に着るシャツをお買い上げ。
好き嫌いがはっきりしている彼の買い物は決断が早く、
瞬時も迷わないので、あっという間に済んでしまい、付き添いは楽です。



この日、モールのフードコートに行ってみたら、なんと
KURO-OBIという名前の中身一風堂ラーメンの店がありました。

ニューヨークでも人気でしたが、ここにも進出していたとは。



早めの夕食を食べてしまおうということになり、
3人がそれぞれ別のラーメンを選んで食べてみました。

普通に美味しかったです。


ピッツバーグの知人とお別れディナーをした時、

「カリフォルニアに行ったら美味しいものがたくさんあるからいいわね」

と言われたのですが、本当にここは、巷に美味しくて安価な店があり、
毎日の外食に全く困りません。
特に、メキシカン、インディア、チャイニーズの「三大エスニック」!

この日のお昼は家族でやっているような小さなお店のインド料理。
MKは迷わずバターチキンカレーを頼んでいましたが、
わたしは適当に選んだカレーが辛すぎたので交換してもらいました。



小さな店内で客はわたしたちだけでしたが、時間がかかったのは
もしかしたらナンとロティを手作りしていたせいかもしれません。



家の近所を検索しただけで、美味しそうな店が
次々と出てくるのが、ここベイエリア。
この日のメキシカンは大当たりでした。

メキシカンというと安価で庶民的なイメージですが、
ここは少しだけお洒落で少しだけ高級なイメージ。

大きな壁画の前のグループは、お誕生日のテーブルを囲んでいて、
最後にはケーキが出されていました。




どこでも食べられるウワカモーレですが、ここのは
チップスの歯応えからして違っていて、まずここで衝撃です。



わたしは全ての日本人と同じくあまりメキシカンに詳しくないのですが、
MKがそこそこ友達との交遊で知識があるため、
メニュー選びはほとんどお任せにしています。

これは彼が選んだ「セビーチェ」。
南米風の魚介マリネのことで、これは三種類の味が楽しめます。


名前は忘れましたが、サフランライスを使った魚介のパエリア的料理。
マッセル(カラス貝)も入っていて豪華版です。



見るからに美味しすぎなシーフードタコス。
野菜と共に混入しているのはそれぞれフライしたエビやタイです。


これだけ美味しいところならデザートも期待できるよね?
と3人で頼んでみた渾身の?チュロス。

チュロスというと、わたしを含め多くの人は
ディスニーシーで食べるあれしか知らない向きが多いかと思いますが、
こんな風にお洒落デザートになって出てくると、別物のようです。

いうて基本は同じ揚げたパンには違いないんですけど、
何が違うのか、チュロスなのに高級風なかほりがしました。


■ U-BOXとの再会

荷物の中に入れておいたAirTagのおかげで、ピッツバーグを出発し
今どこにいるのか刻々と追跡することができたU-BOXの引っ越し荷物。

順調に西海岸に向かって進んでいましたが、
われわれがピッツバーグからサンフランシスコに移動した時、
ちょうどわたしが写真を撮っていたあたりにいて、
追い越していたことが後でわかりました。

その後荷物がベイエリアのハブであるヘイワードに到着、そこで一泊して、
動き出してレッドウッドシティに到着したことを確認した次の日、
U-HAULから正式にコンテナの到着を通知してきました。


早速中身の確認と必要なもの(わたしも荷物を入れた)
の取り出しに、レッドウッドシティに駆けつけます。

ピッツバーグと違い、敷地のほとんどが駐車場で、そこでカスタマーは
わたしたちがやったように荷物を車からBOXに入れたり、
また出したり、とにかく自由というか勝手にやるというシステムです。

わたしたちの近くでは、テキサスナンバーの車の3人の親子が、
BOXに荷物を詰め込んでいるところでした。

うちのBOXは荷物が少なくて上がガラガラでしたが、
本来はここの家族のように家具やベッドのマットレスなど、
それこそ空間がなくなるくらい詰め込むものなのです。




オフィスにBOXの取り出しを依頼すると、このお兄ちゃん
(便宜上ジミー・ブラウンと命名)が、手足のようにフォークリフトを操り
BOXを車の後方にまで持ってきてくれます。

このフォークリフトはTOYOTA製で、ジミーは乗る前に
青いガスボンベのようなもの(おそらくLPガス)を積んでいました。



というわけで、ジミー・ブラウンが持ってきてくれたBOXと
ピッツバーグ以来の再会です。

大陸を(北東部からとはいえ)横断してきたと思うと、
滅多にこんな体験をすることのない日本人には感無量です。


いざ!と鍵を開けようとしたら、ドアが釘でシールされていました。
移動中ドアは開けていませんよという印です。

ジミー・ブラウンは、持ってくるだけ持ってきて、
全く封印については言及せず行ってしまったのみならず、
開けるように頼んだところ、持ってきたねじ回しの大きさが違い、
巨体でのそのそと事務所に取り替えに戻ったりしていました。

なんというのか・・・これもまた西海岸っぽい。


扉を開けて、荷物に異常が全くないことを確認後、記念写真。
この後、わたしが手荷物を入れたコンテナと、
MKがプアオーバーを入れるための道具を取り出しました。

わたしのコンテナには蓋にマークをしておいたので
(ピッツバーグで向かいにあったドーナツ屋さんの猫シール)
すぐわかりましたが、コーヒーのグラインダーなどをどこに入れたか
透明のケースなのに全くわからず、いくつかの箱を出して
蓋を開けては戻すということをしなくてはなりませんでした。

今後の教訓として、引っ越し荷物には中に何が入っているか、
外側にラベルで明記することにします。

果たして今後があるのかどうかは謎ですが。



家族三人でいられるのももう後わずかとなったので、
できるだけ三人で散歩も行っています。
かつてわたしが一人きりで開拓した西海岸のトレイルを順に巡るのですが、
また今回も、このコヨーテポイントにやってきました。

コヨーテポイントは、以前ここでも何度かご紹介した、
戦時中にマーチャント・マリーンの養成学校があったところで、
今はゴルフ場、キャンプ場とヨットハーバーになっています。



空港にまで漂っていた「レッドウッド」の林の中を歩くコースは
公園利用料(6ドル)を支払う価値は十分です。

今回久しぶりに行ってみると、キャンプ場は美しく整備され、
ビーチには海水浴客のために砂浜が整えられていました。



こんなところで誰が泳ぐんだ?とわたしなど思ったりするのですが、
(昔ここには遊園地があってプールも併設されていたが、
あまりの寒さにプール利用客がなく、それだけでは理由ではないけれど
閉園になってしまっている)波の穏やかなこの日、なんと
沖を見ると泳いでいる人がいるのを発見!

実は、この後散歩が終わって車に帰ったら、横に駐車していた人が
バスタオルで体を拭いていたので、さっき泳いでた人かしら、
とこっそり横目で様子を観察したところ、年齢は六十代、
筋骨隆々というほどでもない普通の白髪の男性でした。

「元オリンピックの水泳選手とかかな」

「フェルプスじゃない?」

「フェルプスもっと若い。顔もフェルプスほど長くないし」

などと失礼なことを言い合いました。
(単にアメリカの水泳選手の名前を他に知らなかっただけです)

わたしの西海岸在住の友人の隣人は、昔NASAにいて、
アポロ計画に関わっていたという素性の人なんだだそうですが、
そういう経歴の人が普通にたくさんいるのがアメリカという国。

この人がオリンピック選手で、ミュンヘンオリンピックに出たことがある、
という過去を持っていたとしても全く不思議ではありません。



食べ物の画像ばかり上げるので、外食ばかりしていると思われがちですが、
もちろん、材料を買ってきて家で料理を作って楽しんでいます。

アメリカは普通にオーブンが大きくて使いやすいので、
この日はMKが検索したレシピにより、チキンと野菜のグリルを作りました。

味のポイントは、MKがこちらで気に入って使っている、
MOMOFUKUのピリ辛ソースをブロイルの前にかけて味付けをするところです。

モモフク(Momofuku)はニューヨークを本拠とするレストラン・チェーン。
韓国系アメリカ人のシェフ兼実業家デイビッド・チャンが創業したブランドで
ニューヨークを中心に実店舗を展開していますが、
麺やソースなどの販売も、全米でおこなっています。

コリアン・アメリカンなのになぜ日本語の名前を?と思うのですが、
創業者曰く、日清食品創業者、安藤百福へのオマージュであり、
ラッキーピーチ(桃福)はおめでたい意味だからなんだとか。

ただし、この人は日清食品または安藤氏とは全く無関係です。
もしかしたら単に「日本系の食品会社と思わせたい」
ということなのかもしれません。知らんけど。

ちなみに、モモフクの商品はターゲットなどでも買え、
インスタント焼きそばなど、よく日清を研究していると思いました。


さて、わたしたちのここベイエリアでの生活はもう少し続きます。
最大のイベントは、MKのドームへの引っ越しです。


続く。

無資格手術と「ネプチューンの法廷」〜潜水艦シルバーサイズ

2022-09-03 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに係留展示されている「ガトー」級潜水艦、
「シルバーサイズ」の哨戒を順に語ってきました。

進水以来日本近海と太平洋で日本と戦ってきた「シルバーサイズ」。
最初の哨戒での銃撃戦で戦死者を出し、
哨戒途中に盲腸患者の緊急手術を行ったかと思うと、
敵に見つかり極限の深度まで沈んで敵をやり過ごして
助かったと思ったら今度は魚雷が管に詰まってさあ大変。

これでもかというほどの危機を乗り越えて4回の哨戒を終えました。

ところで、4回目の哨戒で行われた盲腸の手術ですが、
別の記述が見つかりましたので写真と共に挙げます。


■第4回パトロール:無許可の手術

哨戒に出て四日目、クリスマスの二日前のことです。
我々の消防士の一人、ジョージ・プラッターが腹痛を訴え始めました。

「ドク」トーマス・ムーアは、彼が虫垂炎であることに気づき、
すぐさま手術室の設備のある大型艦に彼を移すか、あるいは
どこかに上陸して陸上で手当を受けさせるべきだと考えました。

問題は行くにしても戻るにしても、その100マイルの航路上、
周りに敵しかいないということでした。

ムーアは戦前に受けた医療訓練の過程で手術を何十回も見ていましたが、
もちろん自分ではやったことは一度もなく、というか
医師ではない彼には手術をする資格はありません。

しかし、プラッターは虫垂切除しないと死んでしまいますので、
艦長と本人の同意を得た上で手術を決行することにしたのです。

そこで我々は「シルバーサイズ」を潜航させ、
海中に止まることで動揺しない手術室を彼らに提供しました。

虫垂を切除する手術のために士官用ワードルームが用意され、
テーブルが手術台になりました。

ムーアは手術に必要な器具を全て持っていなかったので、
リトラクター(開創器)の代理としてスプーンを二つ曲げて代用しました。

海軍は、こういうことが起こることを全く想定していなかったのです。



我らが副長、ロイ・ダベンポートがプラッターを眠らせるため
エーテルを管理し始めた時から、オペレーションの写真を撮りました。

このことは、軍法会議が行われていたら関係者に不利をもたらしたでしょう。
(ばっちり証拠写真となるからですねわかります)

幸運なことに手術はうまくいき、プラッターは無事に回復し、
6日後には任務に復帰することができました。

わたしたちが持っている写真はこの時のものだけですが、後から聞いたところ、
「違法手術」は、この後2回、潜水艦内で行われたのだそうです。

*「ドク」ムーアはファーマシスト・メイトでした。

一般的に潜水艦任務は医師や看護師など、高度な技術を持つ人を配置するには
危険すぎるとされ、
(それだけ生還の可能性を低く見られていたということ)
衛生兵と同様の訓練を受けたファーマシスト・メイトが乗務しました。

彼らの仕事は、医療援助ができるようになるまで、
とにかく乗員を生かしておくこととされました。

手術以外にプラッターを生かしておく方法が何かあれば、
ムーアはそれを選択したでしょうが、虫垂炎の場合は、それは
手術という方法しかなかったということです。

もちろん無資格なので建前上彼は手術をするべきではありませんでしたが、
結果が良かったのと、場合が場合なのとを考慮され、
ムーアはお咎めなしだっただけでなく、ファーマシストメイトの
チーフに昇進したということです。

「ドク」というあだ名は、最初からついていたのではなく、
プラッターの手術後、乗員がそう呼び出したのに違いありません。



おそらくダベンポート副長が撮影したに違いない、
このときの「手術クルー」(患者含む)の記念写真が残されています。
説明がありませんが、「ドク」ムーアは帽子に手をやっている人でしょう。

手術で命を助けられたプラッターは左から2番目。
彼が抱えているのは、ホームメイドの彼専用おまるなんだとか。

おそらく手術後の安静時に彼のために仲間が制作してやったのでしょう。

( ;∀;) イイハナシダナー

■5回目の哨戒




4回目の哨戒は虚実ないまぜに(笑)戦果も盛りだくさんだったのですが、
5回目の哨戒では旭日ペイントは一つだけです。


「シルバーサイズ」第5次哨戒は5月17日から開始され、
哨戒範囲はソロモン諸島地域、第一の任務は機雷敷設であり、
敷設場所はニューアイルランド島沖となっていました。

6月4日夜、予定通りニューハノーバーとニューアイルランド間にある
ステフェン海峡北口付近で機雷敷設を実施。

その後、「シルバーサイズ」が撃沈したと認識することになる
輸送船を発見することになります。

●輸送船 10,000トン

🇯🇵
6月10日
スコールの中で3隻からなる輸送船団、第2082船団を発見し、1日かけて追跡

6月11日
日付が変わった直後、北緯02度42分 東経152度00分、
トラックの南200海里の地点で浮上攻撃により魚雷を4本発射

特設運送船「日出丸」(栃木商事、5,256トン)
そのうち3本が命中したものと判断される

駆逐艦「朝凪」が発砲してきたので、
艦尾発射管から魚雷を1本発射して戦闘海域を離脱

この間に「日出丸」は沈没した


🇺🇸
6月10日から11日の夜、5,256トンの貨物船「日出丸」を沈めたが、
そのために激しい深度充電に耐えることを余儀なくされた。

栃木商事の特別運送船「日出丸」がトラックで雷撃により戦没したのは
記録にも残されており、撃沈の認識は正確だったことになります。

ただし、実際のトン数が5,256に対し1万トンとほぼ倍盛っていますが。


■ 世にも珍しい事件?(言うほどではない)

5月28日、哨戒中の「シルバーサイズ」で珍しい出来事が発生しました。
第5回戦争哨戒報告書には次のように記されています。

指定された位置に向かって海面を進んでいた28日、
敵のフリゲートバード(艦載機)が我々に高高度爆撃を行ったが、
それはOOD(Officer Of the Deck、甲板士官)であるビエニア中尉の

裸の頭(bare head)とひげに直撃(direct hit)

と記録された。

攻撃はレーダーによる表示はされなかった。


まず、この件で死者はもちろん怪我人も出なかったことから、
「直撃」というのは、髭と「裸の頭」をかすめたことを指すのでしょう。
髭はともかく裸の頭を直撃したらもうあかんのでは?と思いますが。


7月1日、シルバーサイズは44日間の行動を終えてブリスベンに帰投し、
7月16日からブリスベンで改装を行いました。


■ イニシエーション「ネプチューン王の法廷」

さて、この第五次哨戒は、初代艦長、バーリンゲーム少佐にとって
最後の勤務となり、この後、艦長は
ジョン・S ”ジャック”・コイに交代しますが、
バーリンゲーム艦長時代の「シルバーサイズ」のこんな逸話が
博物館の「シルバーサイズ」の写真に添えられているので最後に挙げます。

「水上艦であるティン・カン(駆逐艦)では、
新入りの水兵(polliwogs・オタマジャクシ)に
『ネプチューン王の法廷』なるイニシエーションが行われますが」

特にアメリカでは駆逐艦のことを「ティン・カン」(ブリキ缶)と呼びます。
新入り水兵のことをオタマジャクシと呼ぶのは初めて知りましたが、
これはそのうちカエルになると言うことで説明は要りませんね。

イニシエーションとは「通過儀礼」のことです。
しかし、

「我々の『シルバーサイズ』には
それをする場所がありません」

さて、それではこの「ネプチューン王の法廷」ってなんですか、
ってことなんですが、とりあえずこれを見てください。

King Neptune's court in session during Shellback Initiation ceremony aboard USS I...HD Stock Footage

こんな感じのイベント、どこかで見たことあるぞ、と思いませんか?
そう、帝国海軍でも行われていた「赤道祭り」です。

英語ではこの儀式を「ラインクロッシング」と呼びます。

一般に、海軍の伝統やそこで使われている言葉には、
受け継がれてきた神話が元になっているものがたくさんあります。

例えばオデッセイの「セイレーン」や海の怪物、
「ボースンズ・コール」と言う言葉もそうです。
海軍の伝統は何百年、何千年も前にその源流があるのです。

「ネプチューンの秩序」とも言われるライン・クロッシング・セレモニー。
いつ、どのようにして生まれたかは、よくわかっていません。

しかし、少なくとも400年以上前の西洋の航海術にさかのぼります。

わたしも、これまでは「赤道祭り」は赤道を越えた記念の儀式、
と言う認識しかなかったのですが、本来は、
「まだ赤道を越えたことがない」船乗りのオタマジャクシから、
ネプチューンの息子または娘とも呼ばれる信頼すべきシェルバック
(Shellback、ベテランの船乗り、赤道ごえを経験した水兵、
  シードッグ”Seadog”とかバーナクル”Barnacle”ともいう)
への変身を見守るという意味合いを持つ儀式なのです。

そしてこのイニシエーションは、船乗りが航海に耐えられるかどうか、
を試すために慣例的に行われるようになったのです。

上のビデオを見ていただくと、登場人物はネプチューン王、
そして、なにやら手を二人一組で繋がれた水兵さんがいて、
ネプチューンは艦長らしき人に法廷が開かれることを宣言しています。

一般的に、船が赤道を越えると、ネプチューン王が乗り込んできて、
おたまじゃくし、ポリーウォッグが船乗りを装っているだけで、
海の神にきちんと敬意を表していないという罪を裁く、
というのがこの儀式のあらすじとなります。

船の中でも地位の高い者や「シェルバック」歴の長い者は、
凝った衣装を身にまとい、それぞれがネプチューン王の宮廷人を演じます。

軍艦ではあまり見たことはありませんが、民間船では
船長がネプチューン王を演じることもあるのだとか。

目的は、お祭りを通じて、乗組員同士の親睦と団結を深めることです。


帽子の形から、1900年〜1920年頃でしょうか。
ネプチューンとその付き人を演じる3人の階級が知りたい(笑)

おそらく右で腰に手を当てている人が艦長でしょう。



文字通りの「ティン・カン・セイラー」駆逐艦乗りのポリウォークが
赤道を越えた時の「法廷」の様子です。

駆逐艦なのであまり凝った衣装が用意できなかったのか、
とりあえずな感じが否めませんが。

この写真のDD401 USS「モーリー」は、写真が撮られた42年5月は、
珊瑚海海戦にて「ヨークタウン」と「レキシントン」を支援した後、
その後ミッドウェー海戦に参加しています。


■ライン・クロッシングの儀式を行う方法

船ごとに伝統やニュアンスは異なるかもしれないが、
基本的な構成は次のようなものとなります。

赤道通過の前夜、ネプチューン王と王妃、デイヴィ・ジョーンズ、
王室の赤ん坊、その他の高官たちが船に到着します。


ネプチューン王(左)とその王妃(右)

ここからが問題です。

ポリーウォッグはタレントショーで王室をもてなさなくてはなりません。
ダンス、歌、寸劇、詩など、盛りだくさんの内容ですが、
自分たちへの裁きを甘くしてもらおうという懐柔策です。


ショーが終わると、おたまじゃくしたちは、デイビー・ジョーンズから
法廷への召喚状を受け取るのです。


思い出してください。これは「法廷」の前夜祭ですよ。

召喚場を受け取ったおたまじゃくしたちは、翌日法廷に立ち、
シェルバック(ベテラン)の告発に答えなければなりません。

そして当日の朝、なぜか彼らは食べられないくらい辛い朝食をとり、
ネプチューン王の前に出て、裁きを受けることになります。

これに対してポリウォグたちはこれも伝統のパフォーマンス、
服を裏返しに着たり、甲板を這ったり、
食べられない朝食を取り除くなど、色々とやって見せなくてはいけません。

これは一説によると、祭りの1ヶ月前からポリウォーグは
シェルバックから散々馬鹿にされ続けるので、
頭に来て反乱を起こすということの表現なのだそうです。

次に、ポリウォグたちは王の前にひざまずき、
油で覆われた王室の赤ん坊のお腹(意味不明)にキスをします。


そして最後に海水を張ったプールで入浴し、そこで初めて
シェルバックになったことを宣言され、その証書を受け取るのです。


大海原ではこの時のネプチューン王の権威は絶大で、艦長はもちろん、
たとえ大国の指導者であっても例外は認められません。

1936年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領もまた、
海神の前に出頭し、敬意を表するよう召喚されています。

その時の罪状は以下の通り。

海の伝統を無視したこと。
ネプトゥヌス・レックス陛下の魚類を勝手にに扱ったこと。

ネプトゥヌス=ネプチューンになったのがレックスという人だったのかな。
それにしても一体何をやったルーズベルト。



現代の「ネプチューンの法廷」
おそらくロイヤルネイビーのみなさん


■「シルバーサイズ」の”ネプチューンの法廷”

さて、潜水艦「シルバーサイズ」ではこの儀式をする場所がない、
と言うところまでお話ししました。

「しかし、バーリンゲーム艦長が、わたしたちを楽しませることを
決して止めるはずがありませんでした

お、・・・おお?

「艦長はポリウォグたちに、1日中食べ物を手で食べるように命じ、
その上で夕食にはチャプスイを作らせました」

チャプスイと言うのは、アメリカ人の考えるところのチャイニーズ料理で、
広東料理、炒雜碎(チャーウチャプスイ)が語源です。

モツまたは豚肉や鶏肉、野菜を炒めてスープを加え煮た後、
水溶き片栗粉でとろみをつけ、主菜としてそのまま、
あるいは白飯や中華麺に掛けて食すものですが、
流石にこれを手で食べるのは、手掴み上等のインド人でも辛かろう。

しかしこれ、「ネプチューンの法廷」となんか関連あるか?

「何人かのポリウォグたちは頑張ってこれに耐えました。

そして新入のトム・キーガン中尉は、

24時間どこにいても命令をされました。

コニングタワーにいる艦長とダベンポート副長に
『コーヒーと砂糖』を持ってこい!と命令されましたが、
キーガン中尉はバーリンゲーム艦長には砂糖の代わりに塩が渡され、
ダベンポート副長はかろうじて『コーヒーと砂糖』を手に入れました。

ただし、
『コーヒーの粉と砂糖』のみ、お湯無しです。

キーガン中尉は、ダベンポート副長に、

『水を持ってくるようにという命令は受けていません』

と答えました」


水兵だけでなく、潜水艦勤務が初めてなら士官も
ポリウォグ扱いされたってことがわかりました。

しかし、重ね重ねこれって「ネプチューン」と無関係よね?
単なる「パワハラvsとんち」合戦になってないか?


続く。


サンフランシスコ到着&ブースターショット接種

2022-09-01 | アメリカ
1ヶ月以上を過ごしたピッツバーグを去る日の朝。
早朝からどんよりした空模様だったのが、7時から雷雨⚡️になり、
よりによって荷物を車に積み込む時にピークになりました。



前日まで毎日のように通ったコーヒーショップ「コンステレーション」。
この日は最後ということで、コーヒー豆をいくつか見繕ってもらって、

「出発の朝、空港に行く前に立ち寄れたら寄ります」

と約束して去ったのですが、雷雨のせいで
予定より到着が遅くなってしまいました。



開店前でもいいよ、と言ってもらっていたので、
MKだけが店に入ってテイクアウトのコーヒーをもらい、
最後にお別れを言って去りました。



こんな雷雨でちゃんと飛行機飛ぶのか、と心配したのですが、
荒天だったのはピッツバーグだけで、しかも飛ぶ頃には晴れていました。

しかし、何の都合か離陸が遅れ、(多分これは雷雨のせい)
乗っていた便では、

「乗り継ぎの便があるお客様から先に降機していただきます」

と気を遣ってくれ、わたしたちはぎりぎり間に合いましたが、
中には機内にいる間に予定の便が出てしまったという人もいたようです。



シカゴ・オヘア空港からは無事に出発しました。
今回、アメリカ人がどうして手荷物を機内に持ち込みがちなのか、
そのわけが初めてわかりました。

それは、荷物を預けるとお金を取られるからです。

国際線はエコノミーなら1個まで、ビジネスなら2個まで無料ですが、
アメリカ国内はどうも全ての預け荷物が有料になったらしく、
意地でもお金払いたくないマンが、でかい荷物を持ち込むため、
機内の荷物入れが毎回大変なことになってしまうのでした。


自分のiPadでUnitedのHPにアクセスし、
好きな映画などを観たり、空港で買ったサンドイッチを食べたり、
(国内線エコノミーは食事は基本的に出ない)
ウトウトしながら過ごし、しばらくして窓を開けると、
前にも見たことがあるような気がする湖がありました。

後から地図で調べたところ、ヨセミテ国立公園を超えたところの
山脈を流れる大きな川が作る巨大なリザボア(貯水)湖で、
シェラネバダにあるマックルー(McClure)湖だとわかりました。


この写真には「アトウォーター」と地名が出てきたのですが、
何だか聞き覚えがあると思ったら、昔見に行って、ここで紹介した
「キャッスル航空博物館」のあるところではないですか。



あらためて地図を見るとかなり内陸です。
まあよくこんなところまで一人で車を運転して行ったもんだよ。

ここに写っている湖はトゥーロック(TurLock)湖で、全体が
カリフォルニア州立の巨大なレクリエーションエリアとなっています。

この時ふと「今どこにいるのか地図でわかるかな」と思い、
マップを出すと、もうこんなに西海岸に近づいていました。



チャウチラという面白い名前の地名が表示されていました。



この近辺は企業的な大規模農場がびっしりと並ぶので、
上空から見ると地面がこんなことになってます。


いつもここを飛ぶと感嘆せざるを得ない、山の高低と関係なく
あくまでも真っ直ぐリボンのように連なる送電線。

これだけの山に真っ直ぐ送電線を通すのに、何年かかったのでしょうか。



これも貯水湖で、カラヴェラス(Calaveras)湖といいます。
カラヴェラスとはスペイン語で「スカル」=骸骨のことだとか。

もうここはミルピタスという聞き慣れた街の山の隣で、
ここまでくればあとは空港まで8分という位置関係です。


そしてこれを見るといつもサンフランシスコにやってきた、と思う、
フリモントの塩田跡とそこにつながる野生動物保護地域。

元々塩池があったところなので、その後も塩分の濃度の違いによって
バクテリアや藻が、それぞれカラフルな色合いに染まっているのです。
赤いところほど塩分濃度が濃い場所なのだとか。


サンフランシスコは3年ぶりとなります。

かつて住み、その後も必ず夏に1ヶ月を過ごして
「心を置いてきた(I left my heart)場所」なので、
3年間はわたしにとってそれはそれは長い時間に感じました。

この写真はサンマテオのフォスターシティを上空ですが、
今回はこのフォスターシティにAirbnbを借りました。

空撮写真をご覧になってお分かりのように、
フォスターシティ(City of Foster City)は計画都市です。
その計画を行ったのが、T・ジャック・フォスターという人です。

1971年から都市となったというフォスターシティは、
計画的に湾岸を埋め立ててラグーンを造成して作られました。

広大な公園を配置し、街の真ん中に運河のような水を流し、
水辺には住宅地をこれも計画的に配置しています。

オラクルなど、サンマテオ郡南部からシリコンバレー北部にかけて所在する
IT企業の従業員や、日系企業の駐在員が在住する
ベイエリアの高級住宅街となっています。



さて、いよいよ飛行機は滑走路にアプローチ。

アメリカのパイロットらしい、ちょっとラフだけど、危なげのない
見事なランディングの後、飛行機を降りたわけですが、
レンタカーセンターに向かうモノレールを降りて、外の空気に触れた瞬間、
すっかり忘れていた匂いが、過去の記憶を伴って全身を包みました。

「あ・・・サンフランシスコの匂いだ」

わたしが感無量で呟くと、家族全員がうなずいて、それに同意しました。

それは、他のどの都市にもない、独特の香りです。

あえていうなら、潮の香りに、この一帯に特有の、
コースト・レッドウッドと呼ばれるセコイアの種類の木の香が混じり、
それに湿気のある空気を介在させたと言ったらいいでしょうか。

毎年訪れていた時には、森林の横を通り過ぎる時くらいしか
その匂いを意識したことはありませんでしたが、
しばらくぶりにそこに立つと、空港からその香りが懐かしく漂っていました。



空港からフォスターシティのAirbnbまでは、車で10分くらいです。

今回ここにAirbnbを選んだ理由は、価格の安さ。
今回のMKの落ち着き先である大学の寮の周辺は、シリコンバレーで
昨今異様に家賃が高騰しており、ホテルはもちろん、
Airbnbであっても、広さの割にお値段が・・・なところが多いからでした。

ここなら物件を選べば、ちょっとだけですが、お得に借りられます。



車は、小さなセダンで契約しておいて、ハーツゴールデンクラブという
VIPカスタマー特典で、大きなSUVを借りるという作戦を立てていましたが、
今回、車の選択をハーツのカウンターのおじさんに任せてみたところ、
フォードのエクスプローラーというゴツい車をアサインされました。

もし、シカゴの時のように自分で選んでいたら、
日本車のミニサブを選んでいたと思うのですが、おじさんに、

「日本車が良いんですけど」

と横から口を出してみたら、日本車はありませんと言下に言い切られました。
本当か?と大いに疑いましたが、今回はMKの引っ越しがあるので、
大きな車に越したことはないと考え直しました。

路上駐車を狭い路地にしなければならなかったピッツバーグと違い、
ここは広い駐車場が家の前にドーンとありますし、
日本ならいざ知らず、アメリカで車が大きくて困ることは一つもありません。

早速空港で荷物を積み込みましたが、
3人分のトランク合計6つと手荷物を軽々積むことができました。



今回借りた家は二階家の一階部分で、過去借りた人のコメントの中に
「二階の人の足音がうるさい」と言うのがあり、
確かにそれだけが気になる物件ですが、静かな住宅街で、
前に車が通ることも、週末に酔っ払いが前で騒ぐこともありません。
もちろん、どこに停めても駐車料金は必要ありません。

そして改めて感激したのは気候の素晴らしい快適さ。
何しろ、カリフォルニアは、基本砂漠の気候なので、
昼間の日差しは死ぬほど暑いですが、影に入ればひんやり。
朝夜は外では寒いくらい涼しくなります。

蒸し暑い夏が大嫌いなわたしには、願ってもない気候です。

物件はエアコンがない、という情報だったのでで少し心配しましたが、
実際はインテリジェント・エアーコンディショナーが完備していました。

夜になると外気は13度くらいになるので、
時おりエアコンから暖かい空気が出てくるくらいです。



広いキッチンダイニングはオーブンと大型冷蔵庫完備。
もちろん超大型洗濯機、乾燥機、食器洗い機も当たり前にあります。



寝室は二つ、バスルームも二つ、ベッドは三つ、
ワーキングデスクは二つと、わたしたちのためにあるような部屋です。


次の朝から早速近辺を探索がてら歩きに行きました。

3年前、最後のサンフランシスコとなった滞在で泊まった
バーリンゲームの豪邸から、いろんなところに歩きに行きましたが、
このベイトレイルもその時のお気に入りとなったところの一つです。



今回フォスターシティに滞在して初めて歩いたのは、
市内を流れるクリーク沿いの遊歩道。

さすが計画された都市だけあって、最初から水辺に道を作り、
その手前に住宅の庭が並んでいます。



古くからある街には、このような統制された計画はできないでしょう。
この人工的な眺めを感性が良しとするかどうかですが、とりあえず
IT関係の人々が住まうための高級住宅街として、評判は良いようです。



サンフランシスコに来るたびに、ゴミの捨て方が変わっています。

ピッツバーグにいた時には、それこそ何でもかんでも同じ袋に入れて、
同じゴミ箱に放り込んでおしまい、という(日本人には良心が痛んで
いつまで経っても慣れない)大雑把な方法でよかったのですが、
カリフォルニアはそうはいきません。

今回来たところ、

1、「コンポスト」=生ごみ類
2、「ランドフィル」=燃えないゴミ
3、「リサイクル」


と三つに分別するようになっていました。

生ごみを日本のようにプラスティックのバッグに入れて良いものか、
と悩んでいたら、部屋に備え付けの説明に、

「コンポスト(燃えるゴミ)を分けるのは、
それを地中に廃棄すると、メタンガスが発生するからです」

と書いてあって、納得がいきました。

まず、プラスティックなど、燃えないゴミは、ランドフィル、つまり
燃やさないで(燃やすと空気を汚染するので)埋め立てて処理します。

しかし、生ごみは必ず燃やして処理します。
燃えないゴミのように土中に埋めると、メタンガスが発生するからです。

ちなみにわたしの悩んでいた件ですが、がプラスティックバッグは
一緒に燃やしてしまえるので、生ごみを入れて出してもOKです。



わたしたちが着いた次の日がごみ収集日でした。

住民は、ゴミの日の前日夜に、三つのゴミ箱を
自分の家の前に出しておくことが義務付けられています。

まず青いゴミ箱=リサイクルごみを集める車が来ました。

どうやって集めるのかなとキッチンの窓から見ていたら、
うちの前ではドライバーが降りてきて、
ゴミ箱を移動させているではありませんか。

どうやらわたしは車を駐車するために、彼らにとって
収集しにくい場所か向きにゴミ箱を動かしてしまったらしいのです。

実にすまんかった。



ドライバーは運転席で車に備え付けのアームを作動させました。
ゴミ箱をしっかりとアームが捕らえ、



上部からゴミの中身をトラックに振り入れて・・・、


そっと下に戻すところまででワンセット。

午前中までにランドフィル収集車、コンポスト収集車が
合計3台やってきて、見事にゴミを収集していきました。

道に置かれたゴミ箱は、その日の午後に
Airbnbのオーナーが、元のガレージの前に戻してくれていました。


■ COVID-19ブースターショットを受ける



サンマテオに着いてすぐ、日本政府が入国前の現地PCR検査を
9月7日に廃止するという大朗報が飛び込みました。

廃止の動きがあるというニュースが報じられた時、
わたしたちが帰るまでに実施してくれないかなあ、と言っていたのですが、
その願いはどうやらなんとか日本政府に届いたようです。

条件はワクチンを3回接種していること。

わたしは昨年ピッツバーグで2回接種をしていたので、
初めてのブースターショットとなる3度目を受ければOKってことね。

というわけで、ニュースを聞いてすぐにオンラインで予約をし、
翌日にはRite Aidという大型ファーマシーに受けにいきました。

わたしは去年と同じファイザー、同時に受けたTOは
やはり去年と同じモデルナを打ちました。

わたしは当日から腕が重く、翌朝から本格的に熱っぽくて
その日1日病人モードでずっとベッドでうつらうつらして過ごしましたが、
驚いたのは、TOの症状が全く翌日出なかったことです。

朝はMKと一緒に散歩に出て近所を歩き、
近くの台湾ベーカリーでパイナップルケーキを買ってきて、
前日の残りのお惣菜を調理して二人で食べたりして、

「なんでそんなに元気なの」

と思わずちゃんと打ったのかどうか心配になるくらいでしたが、
副反応は、体質とか年齢とか、ファイザーかモデルナかでも違うようで、
TOは一日元気に過ごし、夜になって、

「あ、熱が出てきた・・・寝る」

と言ってベッドに行き、翌日元気になって起きてきました。

日本政府が今回検査を廃止したのは、先進国中、
入国制限を厳しく行なっていた唯一の国のくせに、
感染者数が爆発的に増えていたりと、その対策に疑問の声と非難が上がり、
外国人が入りにくいということで困り果てた企業団体や経済界など、
各方面からせっつかれて辞めざるを得なかったのだと思っています。

その方法も、なんというか大変人をイラつかせるものでしたし。
例えば、入国に必要な書類に検査者のサインが必要な件。

実際、アメリカ検査者のサインが欲しいというと、

「は?検査者って言われましてもそれは」

みたいな感じで全く噛み合わず、これで苦労した人は多かったと思います。

いうたら「リアル」というのを全く考慮しない、日本のお役所的な、
いまだに蔓延るハンコ絶対主義みたいなのが反映されたやり方は、
経験した人なら誰もがその無意味さに首を傾げずにはいられないものでした。

まあともあれ、これで入国前の検査も、
入国後の訳のわからん検査も待機も必要無くなったわけだ。

めでたい。


続く。






「マーフィーを招待したのは誰?」〜潜水艦「シルバーサイズ」第4回目の哨戒

2022-08-30 | 軍艦

潜水艦「シルバーサイズ」シリーズ、
第二次世界大戦中の「ガトー」旧潜水艦「シルバーサイズ」の
第3回目の哨戒戦果なし、という結果になったところまでお話ししました。

少なくともこれまで艦内とセイルに誇らしくペイントされた、
彼らの思っていたところの「やっつけた敵艦」の数と現実は
戦後の双方の照合から実際とは大きく違っていたことがわかったのですが、
まあ、その齟齬そのものは「シルバーサイズ」に限ったことではなく、
全世界的な傾向にあるということも理解して、
この際暖かい目で見てあげることにした当ブログです。

しかし、

彼らの主張と現実の戦果を検証するという作業を
止めるわけには行かないのだった。

というわけで、今日は4回目の哨戒からです。

■ 第4回目の哨戒



第4回哨戒は、この地図でいうブルーの矢印で、
前回の第3回哨戒の終了したブリスベーンから真珠湾までの航路です。

そして、よくよく見ると、ブリスベーンからニューギニアまでの間に、
赤い赤十字マークが付けられていて、説明にも

+ Appendectomy(盲腸)

とあるではないですか。

【盲腸と手術と駆逐艦と敵機】


「シルバーサイズ」の勤務日誌が見つかりました。
これによると、

12月22日 

午前中、消防士のジョージ・プラッターが痛みで倒れ、
虫垂炎の疑いがあることが報告されました。

彼は午後3時に急性発作を起こしたので、
2100、緊急手術が行われることになります。

2152、「より安定したプラットフォームを得るために」
潜水艦は潜水を行い、当潜水艦の医療係(軍医は潜水艦に乗っていない)
一等薬剤師であるトーマス・ムーアは手術を開始。

麻酔の代わりにエーテルを使い、ほとんど台所用品を使って
盲腸の切除手術を行いました。


医師ではないムーアにとって、この手術は大変な大手術となりました。
結局5時間後に終了していますが、さぞ冷や汗をかいたことでしょう。

手術が終わったので「シルバーサイズ」は午前4時に浮上しましたが、
すぐに日本の駆逐艦に発見され、再び急いで潜水。

駆逐艦からは爆雷を雨霰のように落とされ、それに耐えることになります。

盲腸の患者の発生、手術が終わったばかりでこの展開。

潜水艦映画でもこんなスリリングなストーリーはそうないだろう、
ともしかしたら乗員は思ったかもしれません。

爆雷に耐えることしばし、静かになったので
もう大丈夫だと思って浮上したら、

駆逐艦はまだそこにいました。

しかも、航空機の救援まで駆けつけて、爆雷を落としてくるではないですか。

落とされた3発の爆弾のうち1発は艦首部分を大きく損傷しましたが、
「シルバーサイズ」は限界までの深度ギリギリまで深く沈んでそこで耐え、
最終的に敵が現場を去ることで危機を脱することができました。

そこで彼女はバッテリーの充電と緊急修理のために浮上したのでした。


【マーフィーを招待したのは誰?】

さて、盲腸の手術に敵駆逐艦の攻撃と、盛りだくさんなイベント。

潜水艦「シルバーサイズ」博物館には、
上記のような嘆きがタイトルになった日記風の文章があります。
この時のことが書かれています。

何もかもが一度に降りかかってくるという言葉が当てはまるとしたら、
それはまさに第4回目の哨戒のことでした。

まず『シルバーサイズ』は盲腸の手術のため
ほとんどのバッテリーを使い果たしてしまっていました。

手術を終えたジョージ・プラッターを回復のためベッドに押し込むや否や、
「シルバーサイズ」は充電のために航走しなければなりませんでした。

そのため浮上すると、敵の駆逐艦が突然霧の中から突進してきて、
わたしたちの艦尾に爆雷を浴びせてきました。

色々あって()やっと静かになったと思ったら、
飛行機が上空を旋回して爆雷を落としてくるではありませんか。

この日は何もかもが悲惨なことばかりで、
修理が必要な損傷がいくつもできてしまいました。

プラッターはといえば、手術が終わったばかりなのに

この騒ぎで寝かされていたバンクから投げ出されて気の毒でした。

ちなみに「シルバーサイズ」はこの時駆逐艦に対し反撃を試みたようで、
南緯06度30分 東経154度00分の地点で魚雷を2本発射した後、
数度にわたる爆雷攻撃が終わるのを待った、と日誌には書かれています。

ガスケットが緩んだり、第二潜望鏡のプリズムにクラックが生じたものの、
奇跡的に「シルバーサイズ」は任務を続けることができました。




4回目の哨戒で「シルバーサイズ」が沈めた・撃破したとする
5隻の艦船も、戸棚に描かれているものと日本、アメリカの記述を
比較していきます。

● 伊号1潜水艦 損傷

🇯🇵北緯07度06分 東経151度17分のトラック南西海域で
伊一型潜水艦型と思しき大型潜水艦を発見し、
魚雷を3本発射して1本を命中させて損傷をさせたと評価される

日本側の記述は、基本「シルバーサイズ」の日誌をもとにしています。

●GEWYD MARU 10,000 トン

🇺🇸 1943年1月18日
トラック沖で「シルバーサイズ」はこの
哨戒で最大の目標である
10,022トンの石油タンカー「東栄丸」を魚雷で沈めた

🇯🇵1月18日未明
北緯06度21分 東経150度23分の地点で
護衛艦1隻を従えた特設運送船(給油)東榮丸(日東汽船10,023トン)
を発見し、艦尾発射管から魚雷を4本発射して3本命中させて撃沈した

「シルバーサイズ」には、「東榮丸」の名前は不明だったらしく、
哨戒中ということで全く違う(しかも日本語でもない)
船名としてペイントされていますが、後の情報は正確です。

【特設給油船東榮丸】

特設給油船とはタンカーのことです。
現場は普通にタンカーと呼んでいたと思うのですが、英語なので
公式にはこのような名称が使われたのではないかと思われます。

海軍所有の給油艦では手が足りなくなったため、
戦争が始まると徴用されて民間タンカーが原油輸送や
燃料・物資輸送、泊地内での燃料備蓄や輸送、洋上補給を行いました。

当時(今でもそうですが)石油の供給を輸入に頼るしかない日本にとっては
「石油一滴は血の一滴」

そもそも日本が戦争に踏み切ったのも、石油の禁輸が堪えたからです。

それだけに特設給油船の働きは日本にとっての命運を握っていましたが、
それは同時に敵からの攻撃目標になるということでもあります。

タンカーを撃沈することは、連合軍の戦艦にとって「大金星」。
そのためタンカーの受ける攻撃は熾烈を極めました。

おそらく、当時、特設給油船として徴用された民間船の乗員は、
戦地に赴く際には任務で命を落とす覚悟だったと思われます。


そして、事実、大東亜戦争ではほとんど全ての特設給油船が失われました。

「東榮丸」は1933〜43年の間に川崎造船所、および川崎重工業で建造された
タンカーで、「川崎型油槽船」と呼ばれることもあります。

海軍艦艇建造で実績があった川崎が海軍からの要求を盛り込み、
有事の際の弾火薬庫を想定したスペースなどが設けられ建造された
      1万トン級タンカー13隻は、  戦争突入前に整備され、
戦争が始まると軍に徴傭されてすべてが失われました。

「東榮丸」は昭和13年4月に川崎造船所で起工され、
昭和14年2月に竣工し日東鉱業汽船に引き渡されます。
 
竣工翌年には帝国海軍に徴傭され、特設運送船(給油船)に編入されました。
11月26日に単冠湾より出撃、真珠湾攻撃をこれから行わんとする
帝国海軍南雲機動部隊への補給を行いました。

つまり「東榮丸」は真珠湾攻撃に参加しているのです。



その後はトラック島を根拠とする作戦、
第一次印度洋作戦の機動部隊に随伴、
ミッドウェー海戦においては、主力部隊に随伴しました。

「シルバーサイズ」に発見されたとき、「東榮丸」は、
 シンガポールからトラック島へ重油等を輸送する任務遂行中で、
トラック島の南西100浬を航行していました。

「シルバーサイズ」の魚雷は「東榮丸」機関室に2発命中、
彼女は乗組員36名と共に沈没しました。


■はねかえされて帰ってきた魚雷のかけら

この「快挙」のことを、「シルバーサイズ」の英語版ウィキには
「哨戒の最大の目標」と記していますが、
日記風の回想録にはこんな記述もあります。

「タンカーを沈めて何日か経ったとき、
潜航中やたら爆雷が投下される現象が続きました。
不思議に思っていたのですが、ようやく謎が解けました。

あのタンカーの護衛艦が我々を攻撃した時、
燃料タンクを破損させて小さな漏れを起こさせ、
それが海面に明らかな油膜(潜水艦の痕跡)を残していたのです。

その後、発電機の一つが発火してしまいます。

数時間後、海面に浮上し、エンジンのために

エアバルブを開きましたが、それだけなのに
肝心のエンジンはプスンと言ったきり死んでしまいました。

それからはまるでカモにしてくださいと言わん状態のまま
(We were sitting duck.=座っているアヒルになって)
動かないエンジンの原因を必死で探し、そして見つけました。

「クリーム・オブ・ウィート」(朝食用のインスタント粥)の箱が、
落ちてパイプを詰まらせていたのです。

ようやく出発できるという時に、ダベンポート副長が点検していると
甲板で金属片が光っているのが発見されました。

そこでローランド・フルニエに拾いに行かせたところ、
なんとその正体は
我々が撃った魚雷の破片でした。

我々が発射し、タンカーに当たった魚雷の破片が跳ね返され、
4分の3マイルの距離を飛んで戻ってきたものだったのです。




つまらなさそうな顔で、戻ってきた機雷の破片
(想像していたのより大きかった)を持つ乗員、ローランドさん。

写真には、

魚雷の破片は「アメリカ産隕石」と名付けられました

とキャプションがあります。

もしかしたら、この博物館のどこかには、
「東榮丸」で炸裂してから奇跡的に「シルバーサイズ」まで跳ね返されて
甲板に落ちた魚雷の破片が展示してあるかもしれません。


【ビューティフル・コンボイ(見事な船団)】

「その後、私たちはきれいに並んで攻撃もよりどりみどりな、
見事な船団を発見しました」

こんな文章で始まるこの日の船団攻撃。
相変わらず当時の「シルバーサイズ」には船名まで確認できなかったらしく
実際のものとは全く違っていますが、逆に珍しく、
自分自身が評価した攻撃の効果より、実際のダメージは甚大でした。

まず、艦内のペイントによると、戦後まで乗員たちは、
この時攻撃した船団の貨物船は撃破だったと信じていたようです。

● セイワマル 7,300トン 撃破

●パラオマル 5,270トン 撃破

●ベルギーマル 5,822トン 撃破


しかし、実際は3隻のうち2隻が撃沈されていました。

🇺🇸 日中、輸送船団に並走した後、日没とともに先回りして
待機(エンド・アラウンド・ポジション)した
目標が射程内に入ると、「シルバーサイズ」は重なった目標に魚雷を発射し、
貨物船「スラバヤ丸」「染殿丸」「メイオウ丸」の3隻を沈めた


アメリカの戦後の記録だと、これが3隻全部撃沈となりますが、
日本の記録だとこうなります。

🇯🇵 1月20日午後
北緯03度24分 東経154度13分のモートロック諸島近海で、
第六師団(神田正種中将)の将兵を乗せて
ブーゲンビル島に向かっていた六号輸送C船団[60]を発見

C船団に沿うように追跡し、日没近くにC船団の前部に出て待機した。

17時57分、「シルバーサイズ」は魚雷を6本発射し、
2隻の
陸軍輸送船、「すらばや丸」(大阪商船、4,391トン)
「明宇丸」(明治海運、8,230トン)に命中

「すらばや丸」は船首部に魚雷が命中して左舷に傾斜後間もなく沈没し、
同船への魚雷命中と相前後して船倉に魚雷が命中した「明宇丸」も、
左舷側に長く傾斜した後沈没していった


【詰まった魚雷の処理方法】

この時の「ビューティフルな攻撃」についてですが、
こんなことにもなっていたようです。

私たちは彼女らに忍び寄り、狙いを定め、
6本の魚雷を発射して5回の爆発音を聴きました。

もちろん護衛艦からの「お仕置き」が待っていましたが、
それも我々のやったことを考えれば、当然予想されることでした。

ただ、6番目の魚雷が飛んで行かなかった件は想定外でした。

装填した6番目の魚雷は発射管の途中で止まって動かなくなり、
護衛艦の爆雷を受けている間もずっとそこにあったのです。

我々がこの状態で生き残ったのは神のご加護としか言いようがありません。



さあ、魚雷チューブに詰まった魚雷をどうやって処理するか。
あなたならどうしますか?

「シルバーサイズ」は、次の朝、志願した6名の乗員を
問題の発射管のある全部魚雷室に閉じ込め、じゃなくて隔離しました。


魚雷を解除することは不可能であったため、
艦長の下した決断は、魚雷を再点火して発射することでした。

これは大変危険な行為でしたが、魚雷が詰まったまま
爆雷を受けでもしたら、それこそ全員がおしまいですし、
艦長は一か八かで逆進しながら魚雷を発射することにしたのです。

さらに、発射管から出た途端爆発する可能性もあったので、
6人だけを前部発射管に隔離して、被害を最小に止めようとしたのでした。

残りのメンバーは潜水艦を全速力で後進させ、
十分速度が出たところで魚雷が発射されました。

幸運なことに魚雷は無事発射され、水平線に向かいながら消えていきました。


「ありがたいことに、その夜私たちは新しいオイル漏れを発見しました」

これはもちろん皮肉というか自嘲というやつです。

「シルバーサイズ」の艦体からは深刻な油漏れと空気漏れがあったため、
予定より二日早く哨戒区域を離れて真珠湾に帰港しました。

最後の最後まで色々あった第4回目の哨戒。
「マーフィー」というのはもちろん、あの法則のマーフィーです。
文章化するとこんなところでしょうか。

「哨戒中、最悪これだけは起こって欲しくないアクシデントは必ず起こる」


続く。


 

窓猫とアレゲニー墓地〜ピッツバーグ雑感

2022-08-28 | 歴史

■窓猫コレクション

わたしたちが住んだ地域の住居には、思い出すだけで数匹の「窓猫」がいて、
住んでいる間にすっかり顔馴染みになったりしました。



この子は一度紹介していますが、着いて早々
AirbnbとMKの職場の中間地点で発見した
「リベラルキャット」
飼い主は急進派リベラルらしく、猫ベッドの横に「堕胎禁止令反対!」
のアジビラを掲示していたことから。

猫を見る人はビラにも注目してくれるというわけです。


夜、近道をしようと思って細〜〜〜い道を通り抜けていたら、
夜なのに窓の外を見ている三毛猫がいました。

片側にびっしり駐車してあって、通り抜けるのも大変な道でしたが、
通り過ぎた後、わざわざ3mほど戻って写真を撮りました。


いつもスペースが空いている道路の前にお住まいの気品ある猫嬢。
極限の狭い道に縦列駐車していると、むっちゃこっちを見てきます。


あまりの気品に「其方は・・・」とか喋りそう、ということで、
名前が「そなた」になりました。



これも車でぐるぐる回っていると時々お見受けする角の窓猫。
毛がみっしりと密集している=denseから「でんすけ」。



別の日、でんすけの待機位置がいつもとちょっと違っていました。



窓枠に虫か何かを見つけたらしく、そちらを見てヒゲ袋を震わせる、
「かかか」鳴き=クラッキング(英語ではchatterling)の真っ最中でした。

クラッキングは獲物となるもの、例えば窓の外の小鳥や高い所の虫など、
何か気になるものが見えるけれど猫の手が届かないところにある時、
猫が例外なく行う鳴き方です。


最後にでんすけを見た時、彼は(多分彼)伸びの真っ最中で、
これまで見た猫史上初めてというくらい長く伸びていました。


1階の道路脇の窓にばかり注意が行きがちですが、たまに
2階の窓猫を発見することもあります。
鼻の模様から「コアラ」と名付けたこの猫は、
ご飯の後だったらしく、口を盛んにぺろぺろしています。


いつも散歩する公園で、初めて道路沿いに亀がいるのを見ました。



この亀は確かグランドラピッズで見たのと同じ、
アメリカ大陸に生息するニシキハコガメだと思われます。

今調べてびっくりしたのですが、日本ではペットとして売買されていて
ペットショップでは25〜50万円の値段がつくんだとか。

世の中にはこんなもの?にそんな大枚を叩く人がいるんですね。

まあもっとも、亀と同じくらいの値段がつけられたブランドバッグに対し、
たかが鞄にそんなの信じられない、という価値観だってあるわけですが。



公園で歩いていたら、右の茂みから道を横断しようとしていた鹿の一群。
大人の鹿はもう道を渡って反対側にいましたが、そこにわたしがきたので
この子鹿ちゃんは人間に対してビビりまくって固まってしまっています。



すると、後ろから来た若い鹿(多分お兄ちゃん)が、鼻の先っちょで
子鹿をちょんちょん、と突いて、渡ることを促していました。

「ここの人間は悪いことしないから、大丈夫、早くいきな」

といっているようでした。

■ アレゲニー墓地



ピッツバーグに来るようになって以来、何度かこの
アレゲニー墓地については(特に南北戦争関係の記事で)取り上げました。

今回泊まったアパートはこの近くだったので、
ある日思い切って墓地の中を車で通過し、その後、お天気の良い日に
中を散歩してみました。


お墓の中を歩くなんて、と日本人は思いがちですが、
アメリカで墓地はちょっと静かな公園のように認識されている節があり、
この日も歩道をジョギングする人や散歩する人、
ベンチで読書する人などの姿がところどころ見られました。


アレゲニー墓地(Allegheny Cemetery)は、ペンシルバニア州最古にして
最大の埋葬地で、創設は1844年です。


これは創設時当時のままの石造りの正門で、時代を表して
入り口は車がやっと1台通れるくらいの狭さなので、
実質車の出入りは建物の後ろに設けられた道路で行います。

建物左側は墓地の総合事務所となっていて、
これからの「死後の住処」を求める人のための手続きや、
お墓のメインテナンスなどを行っています。

1800年からある墓地に、土葬を新規で受け付けるほど場所があるのか?
とつい心配になりますが、少なくとも中を車で一周したところ、
まだまだスペースに余裕はあるように見受けられました。

とはいえ、墓地事務所としては、年々場所を売っていく関係で、
火葬を推奨する方向のようで、この写真の右側にもその宣伝があります。

あと、墓地を回ってみて、新しく入居する人たちのために、集団霊廟、
ちょっとお手頃な棺のアパートみたいなのがありました。

火葬はしたくないという人向けで、棺をそのアパートの外から
郵便受けのような感じで並べて差し込む形で埋葬?します。
もちろん霊廟の中にも名前があり、そこで死者を偲ぶこともできます。

棺の収まっているスペースに墓碑銘と生年月日、死亡月日が書かれますが、
よく見ると多くの人がまだ生きていることもわかります。
その人たちのほとんどは、連れ合いを亡くして葬り、その隣についでに?
自分の終の住処を用意した未亡人や残された夫でした。



名も無き一般市民の小さな墓石、たった一人の名前が刻まれた
豪壮な霊廟と、その佇まいはその人物が生きていた時の社会的地位を
そのまま表していて、なかなか感無量です。

中には、一族の霊を守護する天使の像を誂えてしまう人も。



ジェームズ B. ホッグの復活の天使
Angel of the Resurrection on James B. Hogg monument


ホッグ家はペンシルバニア州のいわゆる名家で、
ほとんどが銀行業や販売業、運輸、ガラス製造の会社を持っていました。

このジェームズというのは、ピッツバーグで企業をいくつも構えていた
ジョージ・ホッグという人物の息子ジョンの子供のようです。

ジョン・ホッグも第一国立銀行の創設者という人物ですが、
このジェームズに関しては情報がないだけでなく、
記念碑が建てられたのは父親のジョンが29歳の時なので、
もしかしたら、ジョージは幼くして死んだ子供であり、
その死を悲しんだ両親が、息子の霊を見守ってくれる天使の像を
高名な彫刻家に依頼したのではないかと思われます。

このエピソードを知って像を改めて見ると、天使は
地上を指差しているようですが、これはちょうど
そこにジョージが眠っているということなのかもしれません。




墓地は二つの大通りの間に挟まる形であり、
右手のペンアベニューから左手のバトラーストリートまで
中では結構ダイナミックな高低差の斜面になっています。

その中間地点くらいに、池がありました。
カモやリス、ガチョウ、うさぎなど、墓地の中は
動物たちにとっても安逸の得られる住処となっています。



中は普通に車道になっていて、夕方に門が閉められるまでは
中に誰でも自由に入っていくことができます。


YouTubeを検索すると、夜中の3時にガイガーカウンターみたいなのを持って
忍び込み、霊の存在を証明するようなことをしている人もいるようですが、
これは墓地に許可を取ってるんでしょうか。




これは最初に車で中を走ってみた時のもの。
どんよりとした曇天の墓石の間を何人かが走り回っていました。

中を歩いたときには、ふと傍の墓石に目が止まることがありますが、
小さいサイズの墓標により、そこにいるのが
1800年代にわずか6歳で亡くなった子供であることがわかったりします。

するとわたしは100年以上前、たった6年しかこの世にいなかった
アメリカ人の女の子のことについて、色々と考えずにはいられないのでした。

とまれ、墓地というのは、生きている人間に
生と死の彼我を考えさせる場所でもあります。


■グルメ


コロナ以降、テイクアウト中心の店がとても重宝がられて、
このサラダ専門店も、今年になって新しく3号店を構えました。

ここは周りをUPMC(ピッツバーグ大学医学部病院)の施設に囲まれていて、
ランチを食べにくる医療関係者の姿がいつも見られます。

右の女医さんは、製薬会社かおそらく保険関係のセールスの人と
ビジネスランチをしているところです。



わたしが頼んだのはEL JEFE(エル・へフェ)
エルヘフェはスペイン語でシェフのことなので、おそらく
「メキシコ風シェフサラダ」だと思います。

そういえばシラントロやアボカドは標準装備でした。


カーネギー自然史&美術館併設の『The Café』は、
今年の5月にMKが学部の卒業式をした後お昼を食べに来ました。

ただのカフェではなく、もちろんサンドイッチやバーガーもありますが、
ここの得意はラージプレートやこんなスープなのです。

メニューにはちゃんとシェフの名前(女性だった)が記載されています。

これは、確かスイカのガスパッチョ。



珍しいタマリンドの実を使ったエビのソテー。
ソースはタマリンドの色をしており、赤いのはトマトではなくスイカです。


この昼食の後、わたしたちは兼ねてからここで公言していた、
カーネギー・サイエンスセンターのUSS「レクゥイン」の見学をしました。

色々問題のある見学でしたが、そんなこともまたここでご報告します。


MKの卒業した学校は、新しく校舎を増設する工事が進んでいます。
この時アパートからモニターを学校に持って行って、
彼はそれ以降IDを返却しましたから、これが建物内に入る最後になりました。

中を歩いていると、高校生らしい一団が、現役学生に連れられて
「学内ツァー」を行なっているのとすれ違いました。

アメリカでは国土が広いため、実際行ったことがない大学に願書を出し、
合格して初めてそこに行くという学生がいないわけではありません。

でも、夏休みを利用して志望大学のツァーに参加し、
それでアプライを決めるという普通のやり方で受ける人ももちろんいます。

MKはちなみにこの大学のツァーには参加せず合格した口です。



散歩に行く公園にはボブ・オコナーというゴルファーの名前がついた
ゴルフ場があり、この写真の後ろ側が全部その敷地です。

去年道路沿いの木は雷で倒されてしまったのですが、
今年行ってみたらハロウィーン仕様にデコレーションされていました。

ちなみにアメリカではまだ暑いというのに、
インテリアショップやデコレーショングッズを売る店はすでに
どこもハロウィーンの飾り付けが始まっています。


ピッツバーグ最後の外食は、タイ料理「プサディーズ・ガーデン」です。

最後に何が食べたいか?となった時、家族3人の意見が一致したのですが、
週末だったので予約が取れず、ウォークインで順番待ちをして入れました。

これは、おそらく「この世で一番美味しい」ロティ。


MKのノンアルカクテルの後ろにあるのはマンゴーのサラダです。



スティッキーライスのココナッツミルク掛けにマンゴーのデザート。
もう、これ以上ないほど大満足でした。

ただ、お勘定の時になって、TOが、

「UMIの一人分より、安い・・・」

といらんことを呟いたので、またしてもわたしたちは
あの悪夢のジャパニーズを思い出してしまったのですが。


続く。


「撃沈撃破、ゼロ」〜潜水艦「シルバーサイズ」第2回、3回哨戒

2022-08-26 | 軍艦

ミシガン州マスキーゴンに展示されているUSS「シルバーサイズ」。
第二次世界大戦中に日本と死闘を繰り広げた「ガトー」級潜水艦の一つです。

前回、「シルバーサイズ」の初代艦長、バーリンゲーム大尉が指揮をした
就役後1年2ヶ月間の5回の哨戒から主に最初の哨戒を取り上げたのですが、
今日はその続きで、2回目からを取り上げます。

■ 第2回目の哨戒


「シルバーサイズ」オフィサーズ・ワードルームの開戸に、
撃沈・撃破した日本艦船を軍艦も民間も一緒くたに旭日旗で表した
ペイントとその下に書かれていた船名をご覧ください。

この船名は、乗員たちが当時撃沈あるいは撃破したと信じていたところの
日本艦船の名前となりますが、実際のところどの程度正しかったでしょうか。

当ブログでは、これを照らし合わせるために、色分けし、

●青字は扉にペイントされた船名あるいは種類
🇯🇵緑色は日本側の記録
🇺🇸茶色はアメリカ側の記録

として書き出してみました。



7月15日、「シルバーサイズ」は2回目の哨戒で日本近海に向かいます。

●トロール船(漁船)500トン 撃沈

🇯🇵7月24日には北緯32度35分 東経158度54分の地点で
500トン級トロール船を砲撃で撃沈。

これはおそらく正確な情報だと思われます。
問題は、次です。

● テンヨウ-マル 10,105トン 撃破

🇯🇵7月28日、北緯33度21分 東経139度24分の八丈島の沖合いで
「大型貨客船」に魚雷を3本発射し、3本とも命中させたと判断された。

🇺🇸4,000トン級の輸送船を沈めた

三者の情報が全くバラバラです。
きっとどれも正しくないのだろうと思います(笑)

ちなみに「天洋丸」という特設敷設艦は実在しましたが、
1942年3月10日にラエの空襲で戦没していたことがわかりました。


【外交官交換船『龍田丸』との遭遇】

🇯🇵8月1日、北緯33度05分 東経135度21分の地点で
日英交換船「龍田丸」(日本郵船、16,975トン)を確認。

「龍田丸」は、戦争が始まってから日英の外交官交換船となっており、
「シルバーサイズ」が確認した2日前の7月30日に、
454名の船客を乗せて横浜を出港したばかりでした。


これは、米潜水艦「キングフィッシュ」の潜望鏡ごしに撮られた
外交官交換船仕様の「龍田丸」の航海中の写真です。

「龍田丸」は横須賀出港後、途中寄港の上海で324名、
サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、
計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地、
ロレンソ・マルケスに8月27日到着しました。

ここで日本人外交官、民間人877名、タイ人42名の計919名を乗せ、
9月2日出港。
途中シンガポールで日本人571名とタイ人42名が下船します。

その後、外務省関係者6名を乗せて9月27日、横浜に帰着しました。


「シルバーサイズ」が「龍田丸」を確認したのはその出港直後でしたが、
「キングフィッシュ」がこの写真を撮ったのは、帰着後の10月14日です。

つまりこの頃には「龍田丸」は外交官輸送の任務を終わっており、
10日後には民間に戻る予定になっていました。

「シルバーサイズ」が遭遇した時には、「龍田丸」の安導権が生きていて、
攻撃は国際法違反でしたから、彼女はそれをきちんと遵守して
攻撃を行うことはありませんでしたが、
「キングフィッシュ」が写真を撮ったとき、
書類上「龍田丸」はもうその特権の下にありませんでした。

しかし、塗装がそのままで、安導権を意味する十字の印が残っていたので、
攻撃を免れることができたと言うことです。



●ライオンズ(Lyons)マル 1万トン撃沈

🇺🇸7月28日 4,000トン級の輸送船を撃沈

🇯🇵 「りおん丸」2,225トン、
1943年ラバウルにてTBFの空襲で撃破

これも三者共に全く情報が違っています。
日本の資料がおそらく正確なものだと思われます。

「シルバーサイズ」が沈めたと思ったのは全く別の船だったようです。


●セイコーマル 5,400トン 撃沈

🇺🇸 8月8日 客船・貨物船 日慶丸を沈めた

🇯🇵 8月8日、北緯33度33分 東経135度23分の市江崎沖で
輸送船日慶丸(日産汽船、5,811トン)を発見し、
魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈する。


夜になって浮上すると、2隻の哨戒艇や3隻の駆逐艦が見えたので、
「シルバーサイズ」は21ノットの速力でこの海域から去る。

珍しく、日米の記録が合致しました!

「シルバーサイズ」の記録はその場で本を見て確認した程度なので、
どれもいい加減で、史実とは全く違っているのが基本です。

これはどうしても当時の潜水艦という艦種にはあるあるの誤認でしょう。


「シルバーサイズ」が撃沈した「日慶丸」と同型船です。
沈没地点は和歌山県市江崎南方 でした。


🇯🇵8月14日、北緯33度25分 東経135度31分で
輸送船「成田丸」(内外汽船、1,915トン)に魚雷2本発射、命中せず

🇯🇵8月17日、北緯33度17分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「室戸丸」(関西汽船、1,257トン)に魚雷3本発射、命中せず
2本は陸岸に当たって爆発した

🇯🇵8月21日、北緯33度12分 東経134度12分の室戸岬近海で
貨客船「浦戸丸」(関西汽船、1,326トン)に魚雷を2本発射、命中せず

「シルバーサイズ」、この頃は絶不調です。
おそらく、乗員一同(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)としていたに違いありません。

ちなみにこのとき「シルバーサイズ」の攻撃を免れた「浦戸丸」
1943年に松山沖で衝突事故のため沈没しました。

「室戸丸」も終戦直後の1945年10月、西宮沖で触雷して沈没しています。

戦後触雷で沈没して多数の死者を出したことで有名な「女王丸」も、
この姉妹船と同じ関西汽船所有の船でした。


●トロール漁船 250トン 撃沈

●トロール漁船 350トン 撃破

🇺🇸 8月31日 敵トロール船2隻を撃沈した

🇯🇵8月31日、北緯33度51分 東経149度39分の地点で
漁船「美洋丸」と交戦。
「美洋丸」救援のために駆けつけた
特設監視艇「第三萬亀丸」
北緯34度07分 東経150度08分の地点で交戦する。

「美洋丸」は大破したものの沈没を逃れ、曳航されて日本に向かった。

「シルバーサイズ」は「美洋丸」撃沈、第三萬亀丸撃破と判断していた。


というわけで、「シルバーサイズ」第2回哨戒における
正確な戦果の発表です!

【撃沈】

7月24日 500トン級漁船

8月8日 輸送船「日慶丸」

【撃破】

8月31日 漁船「美洋丸」

念の為、「シルバーサイズ」はこれを、
撃沈4隻、撃破2隻だと申告していました。


9月8日、「シルバーサイズ」は56日間の行動を終え、
母港である真珠湾に帰投しました。




■ 第3回目の哨戒
 

1回目、2回目ともに日本近海まで哨戒に出ていましたが、
3回目からあとは真珠湾から南洋をパトロールしています。

航路は、ニューギニア経由でブリスベーンまで。
機関は1942年の10月2日から11月25日まででした。

「シルバーサイズ」は、カロリン諸島方面に向かいました。



🇯🇵10月18日、北緯07度17分 東経151度20分の地点で
ジグザグ航行をする
「衣笠」型重巡洋艦と思しき

大型艦を発見するが、攻撃の機会をつかめなかった。


●マニラ-マル 11,200トン

🇺🇸 大型貨物船に大きな損傷を与えた

🇯🇵10月20日、北緯06度45分 東経151度30分の地点で
大型輸送船に魚雷を3本発射し、2本の命中を報じた。



「シルバーサイズ」では、この時の船を「まにら丸」としていますが、
「まにら丸」の登録総トン数は6,500であり、さらには
その時期は病院船として就役していたので、この情報も間違いです。

「まにら丸」は昭和19年の11月にその名と同じ、
マニラ付近で被雷沈没しています。

●日本帝国海軍の雷装艦か駆逐艦 1300トン

🇺🇸 日本の駆逐艦や軽雷装船に魚雷が命中したが沈没はなかった

🇯🇵11月9日、南緯02度26分 東経149度36分の地点で
駆逐艦あるいは白鷹型敷設艦と推定される艦艇に対して
艦尾発射管から3本、艦首発射管から2本の計5本の魚雷を発射し、
2本から3本の魚雷を命中させたとする。

「シルバーサイズ」は2隻10,800トンの戦果を挙げたと報告したが、
実際の戦果は無かった。


戸棚の扉を埋めるべき戦果が全くなかったこの哨戒で、
空いたところには大きなブーメランが描かれています。

今なら何か「おまゆう」的ミームかと勘繰られそうですが、
この頃なので決してそんな意味はなく、単に「シルバーサイズ」が
11月25日、54日間の行動を終えてブリスベンに帰投したことを意味します。

この頃はブーメランと言っても今のようにスポーツだったわけでなく、
アボリジニ(オーストラリアの原住民)の武器としてしか
認識されていなかったということなんですね。

というわけで、「シルバーサイズ」第3回哨戒の公式戦果の発表です!

撃沈・撃破、ゼロ

でした!

こうして見ると、特に潜水艦の場合、実際の戦果と相手の損失は
全くと言っていいほど一致しておらず、
そのカウントは常に自分側の数字をマシマシにする傾向があった、
ということがよくわかる結果となっています。

まあ、なんだ。 ドンマイ。
次切りかえていこう。




続く。

Whole Foods Market グランドオープン〜ピッツバーグ滞在記

2022-08-24 | アメリカ

先日、とても悲しいことがありました。

散歩の時にいつも使っているBOSEのウェアラブル型イヤフォンが
見つからないので、しばらく記憶を辿っていたのですが、
ふと思いついて昨日車を停めた場所に行ってみたところ、そこには


ねじ曲がったフレームと、外れたレンズの変わり果てた姿が・・・。

なぜこんなことが起こったかというと、その理由は
今のAirbnbの駐車事情にあります。

今住んでいるアパートには駐車場がついていません。
しかし近隣の住宅街は駐禁時間を除き24時間長時間駐車可能なので、
その辺をぐるっと回って空いていればそこに停めています。

駐禁期間というのは、ストリートクリーニングやゴミ収集の車が通る時間。

一度、今日は妙に空きスペースが多いなと思いつつ駐車して降りて歩き出したら
後ろからお爺さんが「フィッフィー!」とわたしを口笛で呼び止め、

「今日はストリートクリーニングだから午後まで停められないよ」

おお、親切にありがとうございます、とお礼を言って車を動かしました。



アパートはメインの通りに面していて、朝8時から夕方6時までは有料です。
ただ、料金は1時間1ドルなので、荷物を積み込むなどの用事がある時には
各ブロック備え付けの機械にお金を払って家の前に停めることにしています。


この日は、翌日にMKの荷物をUーBOXに積み込む予定だったのですが、
週末で家の前に停められなかったため、一旦住宅街に停めておいて、
通りから車が消えてから車を移動することにしました。

これが今回の事故の原因となります。

というのは、最初に住宅街に停めて車を降りた時、わたしは
いつもの癖で左の膝にサングラス型イヤフォンを乗せていたのを忘れて、
その脚を外に踏み出したときに地面に落ちたのに気づかず、
サングラスを地面に落としたまま、その場を去ったのでした。


暗がりの道でサングラスは車の横の路上に落ちた状態。

そのまま朝まで車を動かさなければ何事も起こらなかったのですが、
この日に限ってわたしは夜遅くに車を動かしました。

そしてその際自分の車で自分のサングラスを轢いたと思われます。

破損状況から推察すると、
縦列駐車させた車を出すためにバックさせたとき、後進した左の前輪で
地面にあったフレームの右側のツルだけを踏んだようです。

レンズは綺麗に外れてそのままの形で転がっていましたし、
さらに驚くことに電源を入れてみたら普通に再生できました。

人間の顔に装着することもできないくらい歪んでいるのに、
イヤフォンとしての機能は全く損なわれていないのが、悲しい。



ウェラブル型イヤフォンは、ドライブ時にもサングラスとして使うので、
わたしはこれがないと夏場生きていけないと言っても過言ではなく、
悔し涙にくれながらも、次の日ベストバイに代替品を買いに行きました。

元々、壊したサングラスは、不具合がちょうど1年おきに起こり、
その度にBOSEに丸ごと交換してもらった三代目だったので、
もう十分元を取ったと自分で自分に言い訳をしながら・・・。

しかし、新しいのを使ってみて、これは買い替えて正解だったと納得しました。
同製品は2年経って機能が進化していたのです。

例えば先代は、音量を上げるのを「ボタンを押しながら激しく右を向く」
という側から見てもイマイチな方法で行うことになっていましたが、
これだと、フレームの右側を前に向かって指で擦るだけでOKです。

フレームの材質も、前の艶消しから艶ありになって、
鼻に角部分が当たることも無くなって大変快適なものになっていました。

■ Whole Foods Marketの移転

アメリカの大型オーガニックスーパー、Whole Foods Market。
ピッツバーグ近辺にはいまだに三店舗しかありません。

長年お世話になっているピッツバーグ中心街にある店舗にある日、
大きく「8月10日移転(moving)!」と張り紙がされました。

確かにその店舗は利用者の数に対してアメリカのスーパーにしては狭く、
大型カートが(日本のカートの三倍くらいのもの)使えず、
さらに駐車場は露天だったので、移転が計画されたようです。

今までアメリカ生活を長らく経験してきましたが、
スーパーマーケットが新しくオープンするのを見るのは初めてです。

わたしたちはその日を楽しみに待ちました。


いよいよオープン初日。
新しい店舗は旧店舗のすぐ近くのビルの一階に入っています。
当日にはGoogleマップの住所検索が新店舗に変わっていてちょっとびっくり。

「イーストリバティ店、2022年開業」と書かれたエレベーターホール。



店舗には駐車場からホールを経て一階登って入っていきます。
最初なので、駐車場には案内係が配置されていました。

それにしてもこの綺麗な床、こんなものが拝めるのは、
オープン初日の午前中だけであることをわたしたちはすぐ知ることになります。

このWhole Foods Marketにはこののち約十日滞在して何度か行きましたが、
10日の間に既に床には何かをこぼしたシミができていましたし、
駐車場の柱に早くも車をぶつけた人がいたらしく、傷ができていました。



オープン日の午前中ということで、店内にはアメリカには珍しい、
関係者らしいスーツを着たビジネスパーソンの姿もちらほら。



それよりこの野菜売り場をご覧ください。
これこそ、オープン初日の午前中にしか見ることのできない、
整然と並べられたまるで宣伝画像のような美しさ。

店内で使うカートも全て新調されたもので、ピカピカでした。



お菓子売り場には、こんなローカル柄(ピッツバーグのシンボル黄色い橋)
を取り入れたデコレーションのケーキ(パイかな)があったり。

化粧品やドラッグ、洗剤などの日用品コーナーを見ていたら、
お店の人が近づいてきて、

「今日1日だけ全ての商品が25%引きになります」

と教えてくれたので、わたしはここぞとばかりに愛用している商品を
西海岸に送り、さらに日本に空輸するつもりで買い込みました。



旧店舗はアメリカのスーパーにしては面積が小さく、
Whole Foodsにしてはイートインのコーナーが元々狭かったのですが、
さらにCOVID-19の影響で、イートインコーナーを全て
オンラインデリバリーの倉庫にしてしまった関係で、
最近は外にテントを作ってイートインにしていました。

今度の店舗はテレビ画面が備え付けられたゆったりしたスペースで
買ったものを食べることができますし、外にもテーブルをたくさん設置して
季節の良い時にはアウトドアも楽しむことができるようになりました。

■ あなたの落とした斧は?

基本的にここでの食事は昼は部屋で味噌汁や納豆を使って作り、
日本にいるのと同じようなものを食べています。

市内には日本人経営の日本食料を扱うお店があって、納豆、
(日本で愛用しているのと同じメーカーのもの)
油揚げや塩麹、サバのフィレなどはそこで調達します。

先日、山芋を見つけて手に取ったら、誤って床に落としてしまいました。
それをカゴに入れて他の商品と一緒にレジに持って行くと、
レジの店主が床にぶつかって角の潰れた山芋を見て、

「これ、落としたんですか?」

その口調になぜか狼狽して、は、はあ・・と恐縮するわたし。

「すりおろしてしまったら同じですし・・」

するとご主人、じゃあ割引させてもらいます、とおっしゃるので、
慌てて、いや、落としたのはわたしですからと辞退したのですが、

「床に落としてもそのまま棚に戻す人がほとんどですよ。
でもそんなのもう売れませんから、買っていただけるのはありがたいです」

なんか、「あなたの落としたのは金の斧ですか」の童話の
正直爺さんになった気分でした。

■ 各国グルメ


日本、中でも東京ほど世界各国の美味しい食事が堪能できる都市はありません。
随分前に、日本のミシュランの星獲得店がフランスを抜いて
世界一になったというニュースには、驚きながらも
まあこれだけお店が鎬を削っていれば当然だろうと頷いたものです。

しかし、アメリカというところは、ミシュランとは無縁でも、
世界中からやってきた人たちが料理を作り、
その国出身の人たちが利用するレストランが普通にあります。

例えばこの店は、MKのアパートと大学の間にある、
フランス人経営のクレープカフェ。

もう外側からしてパリのクレープ屋さんという感じです。

ミシュランとは無縁でも、その国らしさを最大限に味わえる店が
地元の人々に愛され溶け込み、間接的にその国の魅力を伝えている、
これが多民族国家アメリカの最大の強みであり豊かな部分です。



このクレープ屋さん、注文はカウンターの窓口で行います。

この日は週末だったので外まで溢れる人が列を成していましたが、
何しろ作る人が、ガラスの奥で働いているオーナーのフランスおじさんだけ、
注文を取ってテーブルに持っていくのはマダムらしき女性だけ、
と二人っきりでキリキリまいしているので、なかなか順番が回ってきません。

しかも店主は、注文が済むまでカフェのテーブルに座ることを厳禁していて、
それを知らず待っている間にテーブルを取る客が現れると、
この忙しそうなのにわざわざガラスの後ろから出てきて、
客に向かって、「注文してから座ってください!」と注意するのです。

今あなたがそれをする?と側から見ても思うのですが。



そして出てきた食事クレープがこれ。
わたしはサーモンの入ったサラダ付きクレープを頼んでみました。

お店には人手を募集する貼り紙がしてありましたが、
この切羽詰まっている状態なのに、きっとこのお店には
応募しにくい何かがあるのかなとつい考えてしまいます。



本来は紅茶を楽しむお店にしたかったのかもしれません。

特別にティーメニューが掲げられ、使っているのは
マリアージュ・フレールの紅茶と、日本ならそれだけで人気が出そうですが、
ところがどっこい、アメリカ人って、本当に紅茶飲まないんだよなー。

お店も、せっかく人が並ぶほど流行っているのに、
店主の様子にどうにも余裕がないというか、見ていて辛いというか。

美味しいとか不味い以前に、店のこれからが案じられました。



さて、いかに日本にいろんなレストランがあると言っても、

「ポーランドのビーガン料理」

というのは流石にどこを探してもなさそうですが、ここにはあるんだ。
ポーランド人の経営するビーガンレストランが。



そもそもポーランド料理がどんなものかすらよくわからないのに、
なぜよりによってそのビーガンを食べることになったかというと、
シェフが例のMK行きつけのコーヒー専門店の常連で、
その名前と存在を知ったからです。

お店の名前はアプテカ(APTEKA)

ポーランド語で「薬局」という意味の、よくわからんネーミングですが、
ビーガンと何か意味合い的に関係あるのかもしれません。

予約は受け付けず全てウォークイン、しかも営業が金土日のみ、
というやる気があるのかないのかわからないお店ですが、
わたしたちが行った日はほぼ満席でした。

アメリカにはこんなにポーランドの、しかもビーガン料理を食べたい人が
たくさんいるのか、とちょっと驚いたほどです。



ポーランドはドイツと近いせいか、ザワークラウトを食べますが、
ロシアとも近いので、ボルシチ的なもの(バルシチ)も食べます。

最もポーランドの象徴的な料理はpierogi(ピエロギ)でしょうか。

ピエロギは西洋風餃子またはラビオリとでもいうべきダンプリングで、
中に詰めるのは基本的にほぼなんでも良いようですが、
この写真の細長いピエロギのように、パスタ的に食べることもあります。



評判のアメリカ料理(高級)にも行ってみました。
お店の名前はスポルク(Spork)



スポルクって、どういう意味だと思います?
テーブルの右端にある、これのことです。

先割れスプーン

アメリカには、先割れスプーン=「スプーン+フォーク」で
「スポルク」
という名称で発明し、特許を取った人がいます。

日本では1950年代頃に登場し、1990年代からは幼児用、
コンビニ弁当用、また介護の場でも現在進行形で利用されています。

一時学校給食の場で先割れスプーンが盛んに用いられたことがありますが、
『箸の使い方を知らない子供が増える』
という批判の声が起きて、廃止になったそうです。

面白い(根拠のない)のとしては、先割れスプーンは、

「1940年代に敗戦後の日本を西洋化するべく
マッカーサー元帥と米軍によって発明され、
GHQの命により占領下日本の公的教育機関に導入された


という噂があります。

もちろんこれは全くの嘘で、先割れスプーンを発明したのは
マッカーサーではなかったこともわかっています。

てか、いくらなんでもマッカーサーそんな暇じゃないだろう。


驚いたのが、アメリカのレストランで初めて出てきた
「注文もしていない前菜=お通し」

大きな盃ほどの器に注がれて出てきたこのスープは美味しくて、
これから始まるメニューへの期待を抱かせました。



TOが頼んだズッキーニの入ったカクテル
メキシコのリュウゼツランから作ったメスカルというお酒が入っています。

ちょっと試してみましたが、変な味でした。
パークリングウォーターで割ったらちょっとマシになったようです。



最も驚かされたのが、これも頼んでいない漬物が出てきたことでした。
アメリカ風にアレンジしたものではなく、本当の漬物です。

ピクルスとたくあんとその他は古漬けの味がしました。

ここの特徴は、真空パック調理で下味をつけていることですが、
まさか本物の古漬けが出てくるとは予想していませんでした。


文句なしに美味しすぎのパン。

料理の添え物としてのありきたりのパンではなく、
立派に主食を張れるようなとてつもなく味わい深いパンです。

しょうもないパンであれば、わたしは基本グルテンフリーなので
パスするところですが、これは食べずにいられませんでした。

間違いなく、これまでアメリカで食べた最高のパンのひとつでした。


そして野菜が何を食べても美味しかったのは、
レストランの隣の畑で栽培しているからだったのです!
(左の煉瓦造りの建物がお店です)

流通経路なし、畑からお皿にダイレクト直送。

流石はアメリカ、土地が広いとこういうこともできるんですね。


続く。




ラッキー・ブッダに勝利祈願〜潜水艦「シルバーサイズ」

2022-08-22 | 軍艦

前回に引き続き、ミシガン州マスケゴンに展示してある
第二次世界大戦中の「ガトー」級潜水艦「シルバーサイズ」、
その哨戒活動について引き続きお話ししたいと思います。

前回は、民間漁船(実は徴用偵察船)に手痛い反撃を受けて、
若い砲手を失うという、ある意味「シルバーサイズ」にとって
最も修羅場となったその最初の哨戒での出来事からお話ししました。



パネルには「シルバーサイズ」の乗員の写真もあります。


名前も説明もありませんが、それぞれがどんな人物か
なんとなくわかるような気がします。

双眼鏡の人は、6名の士官のうちの一人ではないでしょうか。
貫禄があるので副長かもしれませんね。

「ガトー級」潜水艦の乗員は60名で、士官以外の54名が下士官兵です。


6人の士官の食事を準備したりするスペースの戸棚を利用して、
「シルバーサイズ」は各戸棚に各哨戒の成果を表示しています。


そしてこれが第一の哨戒なのですが、見たところこれは
戦後展示艦となってから書かれたものではなく、
「シルバーサイズ」が現役時、その都度書き足していったものと思われます。

そう判じた理由は、マイク・ハービンが戦死した最初の戦闘で
「シルバーサイズ」が撃沈した民間徴用船については、
「第五恵比寿丸」という名前(戦後明らかになったはず)ではなく、

TRAWLER 350 tons
(トロール漁船350トン)


としか書かれていないからです。

このトロールとの戦闘で乗員を失っているのですから、
もし名前がわかっていれば他のと同じく明記したはず。



ところで、前回お話ししたマイク・ハービンの話にはまだ続きがあります。
シルバーサイズ博物館遺品の展示を見て、
わたしはこのブログの「引き寄せの法則」(または偶然ともいう)
にまたしても驚かされることになりました。

【ラッキー・ブッダの縁担ぎ】

ここでちょっと画像を見ていただきましょう。
つい先日ここでご紹介した潜水艦映画、「潜航決死隊」の1シーンです。



魚雷係をさせられている?チーフが、二つの魚雷チューブの間に
なぜかホテイさんの像を置いています。



そして、魚雷発射の時にお腹を撫でていましたよね?
まあ、ほとんどの人は映画を見ていないと思いますが、そうなんです。



あのー、ここにある、これは一体なんですか?
ほぼ同じ布袋さんの金色の像なんですよこれが!

説明を読んで、わたしはさらに驚愕しました。

この真鍮製のブッダは、
おそらくマイク・ハービンが所有していたものです。

ハービンは縁担ぎのため、これを魚雷発射管の間に置いていました。

魚雷発射管の間に置いていました。
(大事なことなので繰り返しました)

最初の哨戒でハービンが亡くなった後、魚雷室のメンバーは
同じ真鍮の仏像をさらにもう2つ製作して、二つは
前後の魚雷室に、同じように魚雷発射管の間に取り付けました。

そして、
魚雷発射の際は必ずブッダのお腹をさすっていました。
「シルバーサイズ」乗組員のほとんどが、この迷信?を信じ、
潜水艦が災害に遭わないと信じて、この儀式を行なっていました。

オリジナルのブッダには、こう刻印されて艦長に贈られました。

「USS『シルバーサイズ』司令官
C.C.バーリンゲーム艦長へ
魚雷発射隊より 1942年」

クリード・C・バーリンゲーム艦長は、
ブッダを「シルバーサイズ」の司令塔内に配置して、
敵の攻撃から潜水艦が守られるように、
そして爆雷に当たらないためのお守りにしていました。」



この映画をブログに取り上げたのもまさしくつい最近だったので、
この「魚雷発射管のブッダのお腹をこする」というシーンが
実際の「シルバーサイズ」の逸話から来ていたという、
この恐るべき偶然に、わたしがいかに驚かされたことか。


このことはすごい偶然のようですが、もしかしたら
特にアメリカの潜水艦業界では、マイク・ハービンの話は有名で、
彼についていろんな媒体で取り上げられたため、
当時のアメリカ人なら誰でも知っているレベルだった可能性もあります。

「シルバーサイズ」のマイク・ハービンの戦死が1942年。

タイロン・パワーの潜水艦映画「潜航決死隊」がリリースされたのが
1943年ですから、映画企画段階で、マイク・ハービンの遺品である
魚雷発射室の「ラッキーブッダ」の話は、時期的にホットだったのでしょう。

特に戦争映画はそこそこ実際にあったことをモチーフに取り入れますから、
この布袋さんのお腹さすりも、ニュースなどで報じられた話題を
わかりやすく映画に登場させたのだと思われます。



■ 最初の哨戒

「シルバーサイズ」の棚にペイントされた旭日旗のマーク。

実際の記録と照合できるかと思ったのですが、これが全くできませんでした。
例えば、第一次哨戒の最初の撃沈として

●SUBMARINE 1400tons


とありますが、これが日本側の記録だとこうなります。

🇯🇵5月13日、シルバーサイズは北緯33度52分 東経137度09分の地点で
潜水艦を発見して魚雷を1本だけ発射したが、命中音は聞こえなかった。

沈没を確認できなくても沈没したことにしちゃうのか・・・。
さらに、戸棚の船名を書き出してみますが、

●TASAN MARU 5,400 tons

●ASOSAN  MARU 8,800 tons

●KOSHIN  MARU 9,600 tons

●TATEKAWA  MARU 10,000 tons

とにかく、戸棚に書かれている船名については、
どの艦も調べても調べても資料一つ引っかかりません。

まず、「阿蘇山丸」以外の戦没漁船並びに戦没商船は、
それに相当するものが戦没徴用船(戦没)名簿にはありませんでした。

三井物産の貨物船「阿蘇山丸」は、実在しました。
そして確かに戦没していますが、戦没地はパラオ付近であり、
しかも撃沈したのは潜水艦「ブルーギル」であることがはっきりしています。

というわけで、この「シルバーサイズがやっつけた日本の船」のペイントは、
哨戒中の乗員の闘志と団結を高める戦意高揚の役目としてはともかく、
全く歴史的資料にはなり得ないことが判明しました。


ところで、第一の哨戒での戦闘歴の一部は次のように記載されています。


■ 日本国旗を掲揚しながら攻撃を行った米潜水艦

5月17日

「シルバーサイズ」は敵の漁船団を発見して接近した。
その際、
潜望鏡に、竹ざおに立てられた日の丸の魚網が絡まりついた。

「シルバーサイズ」は潜望鏡に魚網を絡ませたまま接近を続け、
最初の船である4,000トンの貨物船に3本の魚雷を発射した。
魚雷は2発命中し、貨物船の船尾を切り裂いた。

「シルバーサイズ」は続けて2隻目の貨物船にも魚雷を命中させるが、
貨物船の命運は尽きず、沈没には至らなかった。

その時哨戒艇が接近してきたため、「シルバーサイズ」は付近を離脱する。

何気なく読んでしまいますが、はて、「日の丸の漁網」って何かしら。

このとき、「シルバーサイズ」の潜望鏡には日本国旗が絡みつき、
まるでマストに掲揚しているような状態になっていたというのですが。


なるほど、思い出したぞ。これか。
この状態に「シルバーサイズ」乗員(とアメリカ人)は大いにウケたのね。



このとき絡みついた旗は、相手が漁船であったことから、
海軍旗や国旗ではなく大漁旗だったと想像されるのですが、
まあ現物を見ても、アメリカ人には見分けることはできないかな。

この模型でも、国旗、海軍旗、信号旗と手当たり次第に掲げているけど、
いずれも大漁旗とは全く違うものです。

ともあれこの哨戒から、「シルバーサイズ」には一つのタイトルが増えました。

『日本の国旗を掲揚しながら攻撃を行った唯一のアメリカ潜水艦』

です。
しかしこれも日本側からの記述を見ると、ずいぶん意味が違ってくるのです。

5月17日午後、北緯33度28分 東経135度33分の潮岬沖で
中型輸送船と大型輸送船各1隻を発見する。


この時、「シルバーサイズ」は潜望鏡に竹竿をくくりつけ、

これに日の丸を翻させた上、網で漁船に成りすまして
漁船群ごしに船団を攻撃した。

あー、よくアメリカ映画で見る、卑怯な日本軍がやるような手ですね。
(嫌味)

英語だと偶然国旗が絡まったことになっているんですが、
それはいくらなんでもあまりに不自然で、何か隠してるんじゃないか?
と疑ったわたしのカンは当たっていました。

やっぱり艤装のつもりだったんじゃないか。

映画ではこういうことは日本軍の専売特許ですが、なんのことはない、
「シルバーサイズ」、結構なりふり構わずやっちゃってますよ。

まあ、戦争だからどんな手を使ってもいいですが、だったら、
ちゃんと自国民に向けて、潜水艦博物館でもそのことを明記すべきだな。


先ほども書いたように、「シルバーサイズ」はこの時、
魚雷を4,000トン級の貨物船に2本命中させてこれを撃沈したとしました。

そして戦後の調査でも、「ていむす丸」(川崎汽船、5,871トン)
「鳥取丸」(日本郵船、5,973トン)2隻の陸軍輸送船を撃破した、
と主張したのですが、これも案の定、日本側の記録では、
「ていむす丸」と「シンリュウ丸」が雷撃を受けたとあるものの、
被害の有無ははっきりせず、沈没の記録もありません。

日本側の記録です。

5月21日、
中型輸送船に対して魚雷を2本発射するも命中せず。

5月22日15時
特設運送船「朝日山丸」(三井船舶、4,550トン)に魚雷1本を命中
大破座礁させる。


ちなみに「朝日山丸」の記録によると、

 17.05.14:門司~
~05.22 1140 (N33.30-E135.27)紀伊水道で
米潜水艦Silversides(SS-236)の雷撃により
     船橋前部に2本被雷、前部切断

     
~05.22 1420 日置海岸に擱坐~
     

~05.22 1445 特設掃海艇「第十二良友丸」来着~
     

~05.24 ---- 沖合に引出し、機帆船4隻を傭入し荷揚開始
     

~05.27 1620 曳航され神戸着十七番浮標繋留
 

17.06.01:神戸~06.02玉野

つまり玉野で修理を受けて復活しております。
つまり撃沈ではなく撃破となります。


5月26日
潮岬沖で小型輸送船に対して魚雷を発射、命中せず

6月3日
北緯33度26分 東経135度33分の地点で
海軍徴傭船第二日新丸(大洋捕鯨、17,579トン)と
輸送船宮崎丸(日本製鐵、3,948トン)に魚雷を2本発射
実際には宮崎丸の船底を通過しただけ

6月21日
「シルバーサイズ」は52日間の行動を終えて真珠湾に帰投


まとめてみると、第一回目の哨戒で、はっきりと
「シルバーサイズ」が沈没させたと明らかになっているのは、
なんと「第五恵比寿丸」だけだったということになります。

つまり当事者の主張、撃沈6隻に対し、実際は1隻です。


■ バーリンゲーム艦長による5回の哨戒



アメリカ海軍の人員配置もやはりそう長いものではなく、
一つの艦に勤務している時間はせいぜい1年半といったところのようです。

「火垂るの墓」の清太のお父さんのように、
清太が物心ついてから沈没するまでずっと「摩耶」艦長だった、
というようなことは、もちろん日本でもあり得ません。(説明っぽいな)


こちらも(そして現在も)艦の配置はそんなものだろうという気がします。

「シルバーサイズ」の初代艦長だったバーリンゲーム(最終少将)は、
その任期の1年と2ヶ月で、5回の哨戒を指揮しました。

この地図によると真珠湾を中心として、
第1回、第2回の哨戒は本土付近(九州近辺となっているが不正確)
第3回目は真珠湾からニューギニア経由でオーストラリアまで。
4回目はそのオーストラリアからニューギニア経由で真珠湾に帰還。
5回目は再びニューギニア経由でオーストラリアとなっています。

真珠湾攻撃の直後に辞令を受けたバーリンゲームは
1941年12月15日にカリフォルニア州メア・アイランドで
USS「シルバーサイズ」に転属し、指揮をとることになりました。

これは彼にとって6隻目の潜水艦であり、3番目の指揮艦となりました。

バーリンゲーム艦長は、メアアイランドで就役した「シルバーサイズ」で
カリフォルニア沿岸における短いシェイクダウンを行い、
「シルバーサイズ」を定係港となるハワイに向けて出港させ、
4月30日に真珠湾から最初の戦闘パトロールに出発を行いました。

バーリンゲームの指揮した合計5回の哨戒で「シルバーサイズ」は
最終的に8隻の敵艦、合計44,000トンを撃沈したとされ、この戦功に対して
バーリンゲームは2つの銀星と3つの海軍十字勲章を獲得しました。

また、この間、艦と乗組員は大統領表彰を受けています。

のちにバーリンゲームは太平洋の第182潜水艦師団の司令官となり、
レジオン・オブ・メリットを授与されています。



冒頭の写真は現地にあった比較写真。
こちらが海軍公式のバリっとしたバーリンゲーム艦長で、



こちらが現実のバーリンゲーム艦長。

哨戒終わり頃になると、潜水艦では、

 男世帯は気ままなものさ
髭も生〜え〜ま〜す〜
髭も生〜え〜ま〜す 無精〜ひげ〜♩」

なのは日本もアメリカも同じでございます。



続く。