◎ただひたすら空虚になること
バーナデット・ロバーツは、自分がなくなってから、しばらくその取扱に苦しんだ。
OSHOバグワンに弟子から、自分がなくなる空虚についての質問がやってきた。
『瞑想の中で、「私」が一時的に落ち、内側に空虚が生じることがあります。でもその空虚は、「未知」の訪れによって満たされることがなく、私は挫折感を味わいます。 どうしたらその空 虚とともに生きられるようになるでしょうか。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)/OSHO P287から引用)
OSHOバグワンの回答のあらましは、次のようなものだ。
1. 空虚と未知は同じもの。
2. 最初エゴ(自己)が消え、次にエゴの不在が感じられ、更に次に真の空虚になる。
3. このエゴの不在で生じた内的空間が「神」である。
4. 「神」は到来したのではなく、もともとそこにあったが、エゴという膜で発見できなかっただけ。それが今ここ。
5. だが欲求すれば、空虚は失われる。
『だからけっして、「どうしたら、空虚とともに生きることができるか」などと尋ねてはいけない。それは真の質問ではない。ただひたすら空虚になることだ。あなたはまだ空虚ではない。
いったん空虚とは何かを知ったら、あなたはきっとそれを愛するだろう。それはエクスタシーに満ちている。それはもっとも美しい体験だ』
(上掲書P289-290から引用)
6. 空虚は最奥の中心であり、一方あらゆる行為は表層にある。たまねぎの皮をむいたら最後は何もないというシュンニャの例えがこれ。
7. 空虚は源泉なので、これに対して「神や神的な力やエネルギー」が降りてきてほしいと思うとエゴが復活する。神と言う言葉は神とは別物。
ここまで単純明快に方向性を示してくれれば、エゴがなくなったバーナデット・ロバーツも山に籠ったりして苦悩と混乱と麻痺の数か月を過ごす必要がなかったかもしれない。
まことに、悟っている導師、マスターの存在は貴重なものである。