アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想が冥想を冥想し続ける

2024-06-17 03:58:23 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-10

◎冥想自在-10

◎冥想自在の構造-10

◎過去25年のモラトリアムの意義

 

1970年代から、冥想に本格的に打ち込んだ人たちの生活の面倒を見ることは、冥想修行者にとって重要なテーマの一つだった。だが、それがとても困難だったことは、1970年代も今も変わらないし、今は状況はさらに悪化している。

そもそもノストラダムスは、1999年7月を指し、ダンテス・ダイジも20世紀末の大変動を指摘していた。20世紀末にそれは発生することなく、なぜか2024年までモラトリアムは延びている。これは、20世紀末に発生した場合、人類の成熟が不十分で生き残る人数が少なすぎるので、延期して更なる成熟を図ろうという、神様の大慈悲によるものだったのだろうと思う。

 

ところが、状況は1999年から改善したかと言えば、決してそうではなく、むしろ第三次世界大戦や中国の周辺国への軍事進攻などが懸念される事態であり、人類滅亡の確率は悪化しているように思われる。

 

というのは、その国にいかに多数の神仏を知る人間を抱えているかどうかが、そのような事態が起きにくい国と言えるからである。それは、旧約聖書のソドムにおいてロトが正しい人を10人も発見できなかったので、ソドムが壊滅した先例と同じ。

 

冥想自在とは、そうした時代的バックグラウンドと無縁ではない。

ニルヴァーナという体験とは言えない体験を経てまだ生きている場合、人は二重の世界観を生きる。個人としての天命と全知全能の神としての天意という二重の世界観を生きるのだ。

 

冥想自在とは、達者な霊能力者のように死者の世界である霊の世界と現界を往来自在であるという意味ではない。みじめで情けない人間としての自分と、そうではない過去現在未来を含む主宰神としての自分がいることがわかりつつ生きるということ。

 

冥想自在とは、そのような状態で冥想を戯れることだが、みじめで情けないだけの人間が冥想をすることではない。

 

次の詩に、はからずもその理想社会が描かれている。

 

『【冥想の戯れ】

 

すずめが鳴いて すずめとなり

石ころが笑って 石ころを生きている

クリシュナは牧女達とヤムナーの流れに遊び

冥想が冥想を冥想し続ける

ブラフマンもニルヴァーナも忘れ果てたところに

人間も文明も もとより無い

今 ここに 冥想は戯れ

かつて誰も見知らぬ

まったく新しい 人間と文明とを産んだ』

(超宗派的冥想/雨宮第慈 巻頭言から引用)

 

これは、新時代の人間全員が神を知っていることを示し、『誰も見知らぬ』で、そこに生きる人間が透徹した孤独感を抱えて生きていることを示している。これが覚者の二重の世界観であって、万人がそうなるのだろう。

 

そうなるには、まず自分が日々冥想をして大悟覚醒せねばならない。

 

なおいわゆる世紀末の地殻大変動は、人類の大悟覚醒した人数の多寡にかかわらず起きるかもしれない。だがそこで生き残る全員が大悟覚醒した人であるわけでもないのだろう。

自分が生き残るか死ぬか、そんなことは覚醒した自分の知ったことではないのだ。

 

ジェイド・タブレットでは、ライフ・ステージ別の窮極に至る道と天国希求以降のポイントを軸に説明した。次の時代に人類が存続するためには、生成AIのような横の拡張ではなく、自分と次元を飛び越える垂直ジャンプをせねばならない。

そのためには、人知れず個室での冥想修行に打ち込む場合が多いのだろうが、それは時代の然らしむるところであり、社会全体が無用の用に理解を示す時代になるまで、しばし逼塞せざるをえないところだろうと思う。

また出口王仁三郎は、天皇陛下が世界トップとして尊崇される時代が来ることを予言しているが、それも世界全体が無用の用を広く理解するようになって以後のこととしか考えられない。

 

自分のことはさしおいて、他人のために行う風は、日本の美風である。そんな美風が残っているうちに、冥想について理解してもらいたくてジェイド・タブレットを書いた。

 

最後にアヴァターラとダンテス・ダイジの特殊性について触れる。
アヴァターラと言えば、最近はモバイルゲームなどのキャラクターのことだと思う人が多いが、原義は神人のことである。
神人と言っても、元来が肉体人間であるケースと神が人間として降臨したケースの二種あって、ダンテス・ダイジは後者だろうと思う。彼は、出口王仁三郎が、顕の幽に分類した神。すなわち、国祖国常立尊、豊雲野尊など、一度現世にその肉体を表現された神であって、地上の幽界を主宰する神。一旦人の肉体を保って霊界に入り給いし神であって、単に人間として何度も輪廻転生を繰り返す身魂(顕の顕)とは異なる。霊界物語では野立彦神として登場。

その述懐をしている断簡は、以下。
『今、私にふと何か欠けているといった思いが浮かんできた。もとより神自身なる身に何の欠けたるところはない。
では私に欠けているのは何か?
それは私の人生であった。私には私の人生というものがない。私には、ただあらゆる情景の転変があるばかりだ。
それは何一つ確定したものを許さぬ。
なぜなら、それが私の戯れかただから---』
(戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用)

『ダンティスはそのニルバーナの究極的解放において全体性の観照者でありえた事はもちろんであるが、彼は、そこにとどまる者としてではなく、むしろ、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものとして生きた。』
(上掲書から引用)

ダンテス・ダイジの前身は、クリシュナにして、ヘルメスにして、道教にあっては如意第慈。いずれも大物覚者。
そして近代西欧数百年の運命を霊眼でスキャンしたノストラダムスが目にしたのは、ヘルメスがダンテス・ダイジとして日本に転生した黄金のきらめきだった。

また最近の古神道系の大物オカルティストの系譜は、本田親徳、出口王仁三郎、ダンテス・ダイジだが、ダンテス・ダイジは、本田親徳については、あまり研究する必要はないというニュアンスの素振りであった。

ダンテス・ダイジは、大本教の研修で、古神道の鎮魂帰神の実習を出口王仁三郎の霊体から直接受けたと述べている。

ジェイド・タブレットを見て、冥想修行を進める人達に向けて、参考になりそうなダンテス・ダイジの言葉。
『メシアン・ハンドブックの序言

アメンティーに近づけば近づくほど、あなたにとっての現象宇宙は、深い闇に包まれていく。
あなたが存在すると妄信している現象宇宙は、仮象にすぎないからである。
あなたの見ている現象宇宙が希薄になればなるほど、絶対そのものなるアメンティーの光明が、あなたを包む。
そのアメンティーの光明の中に、すべての答えならぬ答えが実在している。
私の言葉は、あなたの知的理解を求めてはいない。どのような崇高な教説も、結局はあなた自身の全生命をかけた霊的な解説によるものだ。』
(上掲書から引用)
※アメンティー:アトランティス密教の最奥殿

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