◎棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな
(2020-02-12)
大田垣蓮月は、幕末の尼僧にして陶芸家。鳥羽伏見の戦いの直後、西郷隆盛に対して、内戦継続を諫める和歌を送った女傑。
その歌は、
「あだ味方 勝も負けるも 哀れなり 同じ御国の 人と思えば」
大田垣蓮月は、両親が早逝し、養父に育てられた。亀山城の奥奉公の間、諸芸を磨き、文武両道に優れ、木刀、鎖鎌まで使いこなしたという。
2度結婚したが、二夫ともに先立たれ、子供も3人できたが、いずれも早逝。家庭的には、不運だった。最初の夫からはDVに悩まされた。
夫と死別後、絶世の美人だったが、前歯を抜いて老婆の如き面相に変えた。生涯二番目の夫のことを忘れなかったようである。
40代から陶芸を始め、これが良い商売となったが、金銭には廉潔、恬淡としていた。60代になってから、その小庵で、後の大文人富岡鉄斎を21歳から侍者として預かり鍛えた。
蓮月のお金観。
「金は、うちに残らぬがよろしい。入るだけ出るのがめでたい」
1850年(嘉永三年)の飢饉の年には、京都東町奉行所に匿名で30両(現在の約一千万円)を布施に行き怪しまれた。
ある時強盗が入ったが、蓮月は「金でも何でも好きなものを持っていきなさい」と燈明までつけて家探しを助け、はったい粉を練って腹ごしらえまでさせて家を送り出した。
ところが、翌朝その強盗は、路上で口から血を吐いて死んでいた。背負っていた風呂敷に蓮月とあり、蓮月は毒殺の嫌疑をかけられたが、どこからかもらったはったい粉ということでうやむやになった。
夜は灯をともして光明真言を唱えたという。彼女は自分の生涯を自他平等の修行と見た。
住居は三畳、食物は村人からのもらいもの。食器は茶碗ひとつ。来客には葉の上に飯を盛って出した。家財は、ろくろ、鍋釜、文机。質素ぶりは趙州のようである。
明治8年12月、84歳で亡くなった。遺言は、棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな、と。
気に染む男は一人だけだったのだろう。
辞世:願わくは 後の蓮の花の上に 曇らぬ月を見るよしもがな
幕末維新の女と言えば、明治の元勲を助けた女ばかり取沙汰されるが、ちゃんとした求道者もいたものだと思う。