アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

亡くなった教祖を見たり、光を見たり、クンダリーニが上がったり

2024-04-03 05:40:43 | 人と神の「実際のところ」

◎体験はみな、意識に漂う心象にほかならない

 

正師との出会いは、予期されず突然やって来る。体験とは言えない体験も、予告なく突然発生する。

 

タントリストのサラハ王の歌から。

『クンダリーニは霊的な体験ではない。霊的な体験とは、単に体験されるものがない瞬間のことだ。すべての体験は溶解し、あなたは自らの純然さにひとり座る。それを体験と呼べはしない。

そしてサラハ曰く、このようないわゆるヨギや聖者たちは、意識の高みに達したと言い続ける。だが、彼らが達成したものとは何だろう? ある者はクンダリーニが上昇し、ある者は内側に青い光りを見、まあそんなところだ。ある者はビジョンを見た。クリシュナを見たり、モハメッドを見たり、マハヴィーラを見たり、母なるカーリーを見たり―しかし、それはすべて想像だ。

 

体験はすべて想像だ。

想像(imagination) という言葉は美しい。それは“心象 (image)“ から生まれた。体験はみな、意識に漂う心象にほかならない。意識に漂うものが何もないとき--いいかね、“無”でさえも意識にないとき――単に意識が内容するものがない、まさにその内容なき清浄さが、タントラの言う真の体験だ。それを体験と呼べはしない――まさにその本性からして、そうではない。その観照者を観照するとき、それを〝観照すること”などと言えるだろうか?知る者を知るとき、それを知識だなどと言えるだろうか?』

(タントラの変容   和尚/講話  市民出版社P122から引用)

 

神秘体験、不思議な体験の大半は、ガラクタ体験であって、体験が体験であるうちは本物ではなく、いわば想像である。たとえそれが、亡くなった教祖を見たり、光を見たり、クンダリーニが上がったり、という善さげな体験であってすらも。

体験とは言えない体験だけが真理である。

 

体験とは言えない体験とは、見る者と見られるものが分かれていないことだが、「その観照者を観照する」状態において、あらゆるものが見知らない、すべてが未知、透徹した絶対の孤独感があることが知られている。

非二元ノンデュアリティとは、見る者と見られるものが分かれていないことであるなどというが、それを達成した気分になることはあるかもしれない。

また非二元ノンデュアリティは、金を払えばゲットできるというものでもない。

 

真に非二元ノンデュアリティに居れば、六つの超能力(六神通)行使が可能であって、あらゆるものが見知らない、すべてが未知、透徹した絶対の孤独感があるというのがサインになるのではないか。

覚者だろうが、未悟者だろうが、人間である以上、喜怒哀楽はある。それを越える二重の現実感に生きるのが覚者

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