アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

本山博が最後の魔に出会う

2024-03-24 07:08:31 | 人と神の「実際のところ」

◎機関砲の砲弾に追われて右往左往するよりも怖い

 

本山博が最後の魔に出会った件。

『小学校五年生の満十歳の時、チフスに罹って死に直面したことがあります。現在小豆島のホテル・ニュー観海のある辺りはその頃は何もない山で、山にかかった辺りに避病院が一軒あって、チフスだの赤痢だのコレラだのになったやつを皆その中に放り込んで、一つの部屋に二、三人いて、死ぬやつは死ぬよりしようがない。私も一カ月半ぐらいいたのですかな、いくらたっても菌がなくならないで、妙ちきりんな具合に腹がギューッとしぼって、痛くて気持ちが悪くてどうにもならない。食べられる物も何もないから骨と皮みたいになって、起きあがることも寝返りもできなかった。 そのぐらい弱りきって、周りでは人が死ぬ。でも、意識はどういうものかすごくはっきりしていて、全く死ぬようには思わなかった。

そういうのとも、魔に遇った時というのは全く違うのです。

 

日頃、人間は物の力に支配されて生きている。たとえば皆さんも余り腹がへった時にはガツガツ食べるでしょ う。あれも物の力に支配されている証拠ですね。 そして、 或る人が物の力を超えてそれを離れようとする時、物の世界の力はそれを防ぐために強烈に働き、恐怖心を起こさせる。

そういう魔に遇うわけです。これは遇ってみないと、その怖さは分からない。キリストについても釈尊についても誰の場合でも、こういうことはみな書いてあります。 物の力が壊れようとする時は、ものすごい物の力が先ず現れてくるわけです。

強大な物の力からの脱却は、神様のお力なしにはできないのです。神様のお力が入ってくる時には、最初は白い、しかしものすごい光が見える。 それから、 法雲三昧というか、井の頭の宗教心理学研究所の玄関のガラスに、 雲の上に菩薩が乗っているのが描かれているでしょう。魔に遇ってそれを克服してからは、ああいう感じに、絶えず光っている、大きな雲の上に乗っているような感じで、そして自分がすごく光っているのです。そして坐っているのだけれども、現実に坐っている場所で坐っているのではなくて、かなり高いところで、光っている雲のようなフワフワしたものの上に自分が乗っかって坐っているのです。その自分に光っている。そしておかしいことに、自分がそこ(雲の上)にいるし、下にいるようでもあるし、同時にどこにでもいて、初めはとても 妙ちきりんなのです。』

(神秘体験の種々相Ⅱ/本山博/宗教心理出版P53-54から引用)

 

この前段で、本山博は、特攻隊にいた時に機関砲の砲弾に追いかけられると、うろたえて右往左往するが、魔に遇った時の怖さは、そういう怖さとは比較にならないと言っている。

 

本山博は、魔のことを物の力と表現している。原理は物の力だが、「物の力」では、平易な表現すぎてかえってわかりにくいかもしれない。

雲の上にいるのは、出口王仁三郎と同じ。そういうこともあるのだろう。

神様の白い、しかしものすごい光とは、出口王仁三郎の言うところの内流。

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