アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOバグワンの父親-2

2024-02-05 03:41:27 | ジェイド・タブレット外典

ジェイド・タブレット-外典-06-21

◎朝3時から6時まで毎日冥想

 

OSHOバグワンの父は、学問はなかったが、朝3時に彼を散歩に連れ出し、6時に戻って来るという習慣を続けた。彼は、早朝のその時間帯を、神が地上にあれほど近づく時間帯はそこしかないと表現している。

OSHOバグワンの父と言えば、今でもネット上の動画で見れるのかも知れないが、OSHOバグワンが父の遺体の頭頂に手を当てて、父の微細身が頭頂から抜けたかどうか確認しているシーンが有名だ。いわゆる正統的な脱身は、ブラフマランドラ頭頂から出る場合しかないからだ。

その父は、貧しかったが素朴で親切で気前が良かった。毎晩のように夕食に客を招き、貧しい人を金銭その他の面で積極的に援助した。見かねたOSHOバグワンが、金を節約するようにと言っても金は絶対になくならないというようなことを父は言い、聞く耳を持たなかった。

このことでは出口王仁三郎の祖父のことが思い起される。

その父は晩年の10年間、朝3時から6時まで冥想を続け、しばしば冥想は5、6時間に及ぶことがあったという。

(参照:反逆のブッダ/ヴァサント・ジョシ/メルクマール)

冥想を5、6時間できるというのは、結構坐れている人だが、そのぐらいの人にして頭頂から出れるということだろうか。

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釈迦-2-七チャクラ

2024-02-05 03:28:17 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-42

◎青春期の垂直の道-42

◎七覚支と七チャクラ

 

釈迦の垂直の道は秘密のベールに覆い隠されている。本来であれば、ダンテス・ダイジや道教内丹の柳華陽のように脱身からニルヴァーナに至るルートを明かしてくれるべきだったが、そうはなっていない。よってここでは、断片的だが七チャクラから入る。

 

七覚支は、ダンマパダなど伝統的な仏教の解釈では、七チャクラではないと解釈されているが、OSHOバグワンは、ことさらに七チャクラのことだと断定する(不滅の言葉 ダンマパダⅡ/和尚/メルクマールP86-87)。

 

法句経ダンマパダの89から

『八九

覚りのよすが(※)に心を正しく収め、執着なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。』

(ブッダの真理のことば感興のことば/岩波文庫P22から引用)

 

※七覚支:

広説仏教語大辞典では以下のとおり

『【七覺支】さとりを得るために役だつ七つの事がらの意。心の状態に応じて、存在を観察する上での注意・方法を七種にまとめたもの。七つの、さとりに役だつもの。さとりへ導く七つの項目。さとりの智慧を助ける七種の修行。

(1)択法覚支。教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる。

(2)精進覚支。一心に努力する。

(3)喜覚支。真実の教えを実行する喜びに住する。

(4)軽安覚支。身心をかろやかに快適にする。

(5)捨覚支。対象へのとらわれを捨てる。

(6)定覚支。心を集中して乱さない。

(7)念覚支。おもいつづけること。』

というようになっている。

 

この伝統的な解釈は全体的には在家者の日常生活の心得とか、冥想初心者の取り組み姿勢などを説いているものであって、深遠な真理の片鱗というほどのものでもない。このようなものが、悟りに至るための基本原則と言えば、それはそうかもしれないが、腑に落ちる人は少ないのではないか。食い足りないのである。

よって、その解釈そのものを疑えば、OSHOバグワンが、七チャクラのことであると断じた背景を想像できるように思う。

 

またこれは、ユクテスワが、聖書ヨハネの黙示録の七つの金の燭台や右の手の七つの星が七チャクラのことであると指摘したようなものである。

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