アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOバグワンの父親-1

2024-02-04 06:38:32 | ジェイド・タブレット外典

ジェイド・タブレット-外典-06-20

◎はた目からは大不運を幸運として謝す

 

OSHOバグワンの父親については、息子が教団立ち上げ後に、父親の死を看取り、頭頂に手を当てて、父親が肉体をサハスラーラから出たことを確認したシーンで知られる。

OSHOバグワンの父親は、貧しく無学だった。彼は非常に苦労してお金を工面して初めての家を建てた。家は完成した。

ところが、引っ越す前に雨が降って家は倒壊し、幼児だったOSHOバグワンはとてもがっかりした。

彼の父は、倒壊した新居にやってきて、町の人々にお菓子を配り、「私は神に感謝している。もし家が引っ越した後に倒壊していたら、子供は全員亡くなっていただろう。」と語った。父は新居が早く倒壊したことを生涯幸せに思っていたという。

(ディヤン・スートラ―瞑想の道 OSHO/P173)

 

同じような話が出口王仁三郎にもある。

神戸の空襲で家を焼け出された某氏が、出口王仁三郎を訪ねて、家を焼かれたが身体は無事だったとお礼を申し上げた。すると出口王仁三郎は、「お筆先に、今度は身体一つ助かったら一番のおかげとあるだろう」と教えた。(新月の光)

 

そして旧約聖書のヨブ記。

そのような雰囲気の時代である。

OSHOバグワンの父親-2

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釈迦-1-クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も

2024-02-04 03:00:20 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-41

◎青春期の垂直の道-41

 

稀な中でこれまた稀な人物として只管打坐系の悟りもクンダリーニ・ヨーガ系の悟りも極めたとおぼしき人物が二人いる。その一人が釈迦である。

釈迦も在世中に経典を残すことはなかった。仏教は経典だけのことを言えば法華経などの釈迦没後数百年以上経った後世のリメイクみたいな経典のほうがむしろ大多数なので、釈迦の悟境を見るならば、釈迦の教えそのものがどう伝播していったかを見る他はないように思う。

また仏教は、13世紀にはインドにおいて滅亡したので、インドでその跡を追うことはまず無理であるという事情もある。

 

(1)水平の道(只管打坐)

 これについては、只管打坐そのものの伝播でみる。

只管打坐については、肉体の人から肉体の人へ伝えられたように思われる。というのは、クンダリーニ・ヨーガ系では数百年生きなければ伝えることのない人物が数百年後にそのノウハウを伝える、たとえば、鍾離権から呂洞賓がその伝授を受けるというようなことがままあるのだが、只管打坐においては、師匠が弟子に伝える形で連綿と伝えていくように見える。

その言葉にできない体験は、釈迦に始まり、達磨から何人もの中国の禅者をへて、天童如浄、そしてその直弟子道元へとインドから日本に渡来し、花を開いた。

この身心脱落を伝える深奥に釈迦が位置するということで、それは禅の法系図などでよく見るのだが、説明としてはそれ以上のものがない。

 

(2) 垂直の道(クンダリーニ・ヨーガ系)

密教は、まともに残っているのは、チベット密教と日本密教だけ。

インドに学んだパドマサンバヴァがチベットに密教を持ち込んだ。チベット密教は、あの月面のような高地の荒れた風土の中で、それは枝となり葉を付け、チベット死者の書のようなアドベンチャー・マップや、生起次第・究竟次第という最終的なメソッドを確立したものとなった。

中国・日本密教については、その後西域からの渡来僧がインドから直送で中国に密教を招来し、恵果において中国密教の最後の輝きがあった。

これぞ歴史の不思議としか言えないが、恵果から留学僧空海が、金剛界の灌頂と胎蔵界の灌頂を受け、そのテクニックを面授された。空海は慌ただしく日本へ戻り、京都と高野山でその教えの熟成を図った。

こうした巨大な潮流の水脈の最源流に位置しているのが釈迦である。

釈迦が数百年、数千年後に現れて、後進を指導したというエピソードはあまり見ることはないが、クンダリーニ・ヨーガという極めて困難な道を成就した英雄の一人として釈迦が評価されており、また熟達した後進の者も大般涅槃経などでそれを認めているということで、釈迦がクンダリーニ・ヨーギの頂点にあったとするのは間違いないだろう。

 

◎スーパースター・釈迦

クンダリーニ・ヨーガは、肉体を持ちながら、アストラル体をはじめとしたあらゆる存在のレベルを極めるものであるが故に、その窮極を達成するには、尋常ではない困難な道程を通過していかなければならないと云われる。そのために、古来クンダリーニ・ヨーガの成就者は、禁欲的な求道者に与えられるネーミングとしては一味違う、英雄とか、勇者などの尊称が与えられてきた。

さて密教学者の頼富本宏氏が大日経の起源を求めてインド、オリッサ州のラトナギリ遺跡の仏像の光背に胎蔵大日如来の真言が彫られていたのを発見した。

それは、日本の四度加行の『胎蔵界念誦次第』に用いられる「ノウマクサンマンダボダナン・アビラウンケン」と大体同じだが、「アビラ」のところが違っている。もともとは、「アビラ」とは、ヴィーラ(勇者の意で、仏陀を指す)に対する呼びかけだったが、大日経疏を著した一行禅師や空海によって、地、水、火、風、空の五大の教義として変更されたものと思われる由(参考:大日経入門/頼富本宏/大法輪閣)。

釈迦は、勇者だった。つまり古代インドで、クンダリーニ・ヨーガのチャンピオンの代表格と見られていたのは、図らずも釈迦であったということがこれでわかるのである。学者さんによっては、釈迦と密教は直接の関係がないのではないかと疑う人もあるようだが、釈迦こそが、不本意ながら修行途上に散って行った数知れないクンダリーニ・ヨーギ達の尊崇を集めていたスーパースターであったことが、これだけでも窺い知れると思う。

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