◎ジェイド・タブレット-07-10
◎天国まで-10
◎世界の止滅にみちびく道
釈迦が苦しみからの離脱の条件を語るには、
『「友よ。わたしは世界の終極に達しないで苦しみを消滅する、と説くのではない。そうではなくて、意識もそなえ心もあるこの一尋(ひろ)の身体に則して、世界そのものと世界の生起と、世界の止滅と、世界の止滅にみちびく道とを説示するのである。
歩行したからとて、いつになっても世界の終極に達することはできない。
世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはありえない。
それ故に世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。
かれは、悪を静めて、世界の終極を知り、この世をもかの世をも望まない」と。』
(ブッダ 神々との対話 岩波文庫p145から引用)
世界の止滅にみちびく道とは、冥想のこと。
『世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人は、世界の終極に至る人となるであろう。』とは、【天国の側を窮めることだけが神仏への道】だと言っている。アッシジのフランチェスコみたいな人ですね。
釈迦は、この娑婆世界を苦と見たからこそ、そこからの離脱を問題とした。世界の終極に達しなければ、本当の愛や癒しやアセンションはない。
世界の終極に達することが現代人にとって必要であるという命題が正しくなければ、現代人に悟りは必要ではないということになる。
現代人は、世界の止滅に達すること、つまり悟りの必要性を直観できる高みに上ることができるかどうか、それが問題となる。
その高みは、全面核戦争の危機を感じることで至るのか、またはあらゆる場面での人間関係の荒廃にさらされることで至るのか、あるいは天変地異の予感によって起こるのか、はたまたあらゆるバリエーションの人間ドラマを充分に味わい尽くしたという感慨で起こるのか、それはその人の魂の成熟度や個性によるのだろう。
いずれにしても、そこまで本気で煮詰まれるかどうかなのだと思うが・・・。
そんな悠長なことでいいのだろうか。