アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

釈迦-5-最初のニルヴァーナと臨終時のそれの違い-2-最後の死を教える者

2024-02-13 03:52:29 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-50

◎青春期の垂直の道-50

◎限りなき静寂、永遠の沈黙

 

『第六から第七へ入っていくことは、究極の死だ。これを知ったらあなたは驚くだろうが、アチャリアとは、古くは最後の死を教える者という意味だった。「教師(アチャリア)は死だ」という格言がある。だから、ナチケタが死の神に至った時、彼はアチャリアに至った。死神は死の事以外、何も教えられない。アチャリアとは、ただ死滅、崩壊、消滅だけを説くことができる者への名称だ。・・・・・しかし、この死の前に、あなたは生まれなくてはならない。今現在において、あなたは存在していない。自分自身だと考えているものは、借り物だ。それは、あなたの真の実存ではない。たとえそれを失おうとも、あなたは決して、その所有者にはなり得ない。それはちょうど、私が何かを盗み、慈善のために寄付するようなものだ。自分の物ではないのに、どうして私の寄付にできるだろう?自分の物でない物は、与えられない。だから、いわゆる世捨て人という人は、まったく何も放棄していない。というのも、自分の物でない物を放棄しているからだ。どうしたら、自分の物でない物を放棄する人間になれるのかね?自分の物でない物を捨てたと言い張るのは、気違いだ。

 

第六から第七に入る時に、放棄は起こる。そこではあなたというものを投げ捨てる・・・・なぜならあなたには、それ以外に何もないのだから。あなたはまさに、自分の実存を捨て去る。

 

唯一、意味ある放棄は、第六から第七の次元に入ることだ。それ以前では放棄について語ろうと、すべて子供じみている。「これは私のものだ」と言う人は愚かだ。「私は自分の物をすべて捨てた」と言う人も愚かだ。彼は、依然として所有者だと主張しているのだから。ただ自分自身だけが、自分のものだ・・・・しかし、人々はこれを理解していない。

 

だからあなたは、第五から第六にかけて自分が誰かを知り、第六から第七へは、自分であるものを放棄できるようになる。自分であるものを放棄した瞬間、もはや成就すべきものは何も残らず、放棄されるものも何もない。そして、どんな問いすらも残っていない。そこには限りなき静寂、永遠の沈黙がある。その後は、至福や平和があるとも言えない。真実や偽りがあるとも、光や闇があるとも言えない。語り得ることは何もない。これが第七の次元の世界だ。』

(奇跡の探求Ⅱ/和尚P367~368から引用)

OSHOバグワンの説明によれば、釈迦は、実態的に最初の成道から臨終直前まで、『神を見た者』に過ぎなかったが、臨終に際して『神人合一してニルヴァーナに入った者』となった。

だが、それだけならば、釈迦は垂直の道と水平の道を両方極めた者とは言えないように思う。

というのは、もしそうであれば、世間に知られた水平の道における『神人合一してニルヴァーナに入った』体験とは言えない体験すなわち大涅槃に加え、秘密にされている垂直の道における『神人合一してニルヴァーナに入った』体験とは言えない体験がもう一つなければならないからである。

すなわち、釈迦は臨終以前に、クンダリーニ・ヨーガであろう垂直の道で既に神人合一を果たしニルヴァーナに入り、なんと生還した経験を有していたはずだが、その経緯は秘密のベールに隠されている。

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