◎ジェイド・タブレット-07-01
◎天国まで-01
神仏への信仰と肩ひじを張るまでもなく、人は愛されて育って行けば、自ずと善いことをして悪いことはしないのが普通な姿である。
それが天国的な生き方であって、年齢を重ねるにつれ、理不尽なことや不条理な仕打ちに出会っていくうちに地獄的なもの、悪というものに繰り返し出くわすものである。
それでも人間の自然というものは善であるという本源的な確信はどこかにあるものであって、人はまず心地よいもの快適なもの、楽しいもの、しみじみしたものなど、天国的、極楽的なものを希求するようにできている。
ここでは、そのような天国志向が、そのまますんなり神や仏に到達するものではないことを挙げて見る。
今はひたすら生活が苦しかったり、恋人や配偶者とうまくいかないことで悩んでいたり、生きづらかったり、いろいろなことで気持ちがいっぱいいっぱいなのかもしれないが、そうした苦しみを解消してくれることがまさに天国である。
ところが天国でありさえすれば、何でも問題が解消するのかといえば、そうではないことをいくつかあげてみたい。
そもそも天国と神や仏はどういう関係なのだろうか
釈迦のニルヴァーナへの軌道を見ても、喜びや楽しいは、初禅、二禅、三禅という9段階の下の方であって、それも天国的といえばそうではあるのだが。