硫黄島からの手紙

2006年12月22日 | 健康・病気
映画館の中に入ってビックリした。
これまでパルコの映画館で、こんなに客が入っているのを見たことがない。
水曜日で入場料が1000円だからかも知れないが、
それでも、こんなにいることはなかった。

私はたいがいスクリーンに向かって右の通路の左側の、
前から5、6列めの席に坐る。
なるべく前に人がいないことが望ましい。
出来れば左側の席が空いていること(右は通路だ)。
そういう環境でのんびり缶コーヒーを飲みながら観る。

ところが一昨日は、人、ひと、ヒトで、一瞬席はあるのかな?と思った。
私はいつも反省するのですが、映画の始まる時間の5分前に家を出る。
これがいけない。いつも予告編の始まってるときに入ることになる。
なので真っ暗で何も見えない。しばらくあたりをうかがってから席に坐る。
あと5分早く家を出ていれば、客席が明るいときに入ることができるのに。
幸いにも私の“指定席”の3列ぐらい後ろの席が空いていた。
しかし、前にも左側にも人がいた。
私は脱いだジャケットを太腿の上にかかえ、
前の客の頭越しにスクリーンを観ることとなった。

しかし、そういう悪い状態でも、
映画館にこれほどの観客がいることが私はうれしかった。
だが、後ろの席のほうからおばさんの話し声が聞こえてきたことにはまいった。
お菓子を袋から取り出すときの音がするのも鼻じらむ。
客が多いということは、マナーの悪い人もいてしまう。
しかたのないことか。

そんなことを考えているうちに、「海賊版撲滅」というお知らせが終わり、
「硫黄島からの手紙」が始まった。

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これまでの人生

2006年12月21日 | 健康・病気
博報堂が、団塊世代の約450人にこれまでの人生を自己採点してもらい、
男女別に平均したところ、
男性は66.6点、女性は72.7点という「成績」が出た。

70点以上をつけたのは女性8割、男性6割。
男女とも「最も幸せだった時代」を20代と答えたが、
男性の幸福度は加齢とともに急落。女性は50代で上昇に転じていた。
子育てやローン返済を終え、時間と金を手にした女性は、
定年間際の男性より一足早く「第二の青春」に入った。
そんな気分が点数に反映されたと博報堂はみている。

ということが、昨日の朝日新聞の「青鉛筆」に書いてあった。
私は何点ぐらいかな、と考えた。
仕事的には20点だな。
まったくやりたいことをやってこなかった。
家庭人としては80点ぐらいかな。
まあ、所帯を持ち、子どもも成人させて孫までできた。
トータルとして48点というところかな…。

「これからの人生」わるあがきしてなんとか
70点は越えたいものです。

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第135回直木賞受賞作

2006年12月20日 | 健康・病気
オール讀物9月号に、第135回直木賞受賞作、
森絵都の「風に舞いあがるビニールシート」と
三浦しをんの「まほろ駅前多田便利軒」の中の、
それぞれ2篇が載っていた。

三浦しをんの「まほろ駅前多田便利軒」の
「多田便利軒繁盛中」と「動く車は、満身創痍」は先週読んだ。
魅力的な登場人物と便利屋という仕事の設定が興味深く、
それにフットワークのいい文章で楽しく読めた。

森絵都の「風に舞いあがるビニールシート」と
「ジェネレーションX」は今日読んだ。
小説としては「風に~」のほうが大きいが、
話としては「ジェネ~」がよかった。
私は久しぶりに、小説を読みながら温かい涙を流した。

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爆笑問題

2006年12月19日 | 健康・病気
「爆笑問題カーボーイ」( TBSラジオ 1:00~3:00 )を聴いた。
この番組のはじめの、まくらというかイントロの喋りがある。
それがいつも長い、今夜は1時48分まで話していた。

爆笑問題の事務所がやってるタイタンライブに、
立川談志が出たときのことを話していた。

「おれはもうすぐ死ぬ。まだまだ話したいことがある。
 どこでもいいから出るよ」
とある日、談志が太田にいったらしい。
それで談志がライブに出ることになった。
打ち合わせで飲んだとき「どの噺がいい」と談志がいったが、
恐れ多くて「あれがいい」なんて太田はいえなかったという。
それでも、むかし談志のひとり会で聴いた
「ねずみ穴」を聴いてみたいと思った。
爆笑問題のライブに来る若い人たちは、あまり落語を聴かない。
その人たちにあれを聴かせたいと考えた。

それから太田が「ねずみ穴」のあらすじを話した。
2月17日の九想話にそれがあるので読んで下さい。

私は、爆笑問題が好きだ。
太田はもちろん、田中もいい。
コメント (2)
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デザイン学校の頃3

2006年12月18日 | 健康・病気
どうして私が、II 部学生会の会長になったのかよく覚えていない。
ほとんどそのへんの記憶がない。
なにしろ学生会の会長になってしまった。
そしてその最初の仕事が「新入生歓迎ダンスパーティ」だった。
なんで新入生の私が、“新入生歓迎”をしなくてはならないのだ。

それなりに学生委員を招集して、いろんな役割を決め、
「新入生歓迎ダンスパーティ」を開催した。
あのときはけっこう大変だった。
昼間は、日本女子大生協のバイトをしていた。
夜は桑沢の授業を受け、そのあと学生会の打ち合わせをした。
そして劇団の事務所に行き酒を飲むという日々だった。
いろんな人に助けられ会長の真似事をしてました。

桑沢の一番上のなんかの教室を、いい雰囲気のダンス会場に作り替えた。
最初に挨拶なんかさせられた。
何人もの女の子たちにちやほやされたのはあのときが最初で最後だった。
思えば私の人生で一番華やかなときだったのかな。

しかし、学生会長であった私が辞めてしまったあとの
II 部学生会はどうなったのだろう。
そのことだけはずーっと気がかりです。



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タイムスリップ

2006年12月17日 | 健康・病気
「デザイン学校の頃」の続きを書こうとして、
そういえばその頃の日記があるはずだと本棚を探した。
7、8冊ある大学ノートかなと思ったら、その前の、
既製の日記帳にその時代のことが書いてあった。

その日記帳には、
20歳の1月23日から23歳の4月10日まで書いてあった。
途中、3ヶ月とか半年書いてないときもあるので、
3年と数ヶ月が1冊に記してあるのです。

拾い読みをしていて2時間ほど過去へタイムスリップした。
拾い読みでも、この日記帳を
こんなに真剣に読んだことはこれまでなかった。

はっきりいって恥ずかしいです。
こんなものを他人には見せられない。
でも、自分にとっては切なくいとおしい記録だ。
アホな生き方をしていたが、私の青春です。

しかし、悲しいですが、こんな低次元な暮らしをしていたのだがら、
現在の私のような人間になってしまうのは頷けますね。

「デザイン学校の頃」の続きが書けなくなりました。

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ドクちゃんの結婚式

2006年12月16日 | 健康・病気
金曜日の報道ステーションを観ていたら、
ドクちゃんが16日結婚すると報じていた。
あの「ベトちゃん・ドクちゃん」の弟のグエン・ドクさんです。
もう25歳になっていた。
奥さんになる女性はグエン・ティ・タイン・テュエンさん(24)。
キレイなひとだった。

兄弟は、ベトナム戦争で米軍が散布した
枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児として生まれ、
88年に分離手術を受けた。
兄ベトさんは脳症の後遺症で寝たきりの状態が続く。

余談ですが、私は、息子たちが生まれるとき、
シャム双生児で生まれてくるかも、と心配したことがありました。

ドグさんは、枯れ葉剤の影響で生まれ、
親に捨てられた子たちのいる病院の
ホームページを作る仕事をしているという。

ベトナム戦争から30年たっている現在も、
枯れ葉剤の影響を受けた奇形児が生まれている。
アメリカは、なんの保証もしていない。

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デザイン学校の頃2

2006年12月16日 | 健康・病気


いざ書こうと思ったのですが、あまり覚えていない。
夏休みまではけっこう真面目に登校していたのですが、
劇団から離れてからあまり学校に行かなくなってしまったのです。

入学したばかりの授業で、いきなりノミと切り出しナイフを買わされた。
材木を削って、手で触って気持ちいいものを作れ、と講師にいわれた。
それで作ったのがこの写真のものです。
いまではカビがついて汚くなってしまったが、
これを両手で包むように触ると気持ちいいですよ。
どこかで(たしかあれは日本女子大の校舎の隅に落ちていた物だった)
拾った角材を切って、ノミで削って、ヤスリでこすり、
サンドペーパーで仕上げました。

あの頃、夜間の1年生はみな「基礎造形科」だったと思う。
2年になるとファッションやグラフィックやインテリアなどに別れた。
角材の授業のあとは、塩ビの板を熱でキレイな形に曲げる、
なんてことをやったっけ。
たしか絵も描かされたような。
週に1度あった美術の歴史の授業が好きだった。
スライドでいろいろな画家の絵を見た。
あの授業は勉強になりました。


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デザイン学校の頃1

2006年12月15日 | 健康・病気
忘れていたことを「いろり端」でのロスさんとのやりとりで思い出すことになった。
といってもやっぱりほとんど忘れてしまっていて記憶がおぼろげです。
2003年4月の九想話に「哀演児」という題で1~6までにそのへんのことを書いた。

あれはあくまで演劇のことを主体に書いた。
今回は、一学生としての桑沢デザイン研究所でのことを書こうと思う。
しかしそれにしても、演劇をやるためにデザイン学校に入学するというバカは
私ぐらいしかいないと思う。
こんな私だからこれまでの生き方すべてが、
“中途半端”というか“いい加減”というか、ただただ情けない。

でも考えれば、演劇をやる仲間がみなデザインをやっているから
おれもやってみよう、といってデザイン学校に入っちゃうというのも
なかなかできるものではないな(自分でいってどうする)。
私はもともと絵を描くことが好きだった。
中学生のとき、美術はいつも「5」でした。
ブラスバンド部にいたのに音楽は「3」とか「4」だった。
中学3年まで楽譜があまりよく読めなかったもんなァ。
これをきちんと考えたら美術のほうの道を目指していればよかったのかな。

高校のときは、音楽、美術、書道というクラスがあったが、音楽を専攻していた。
吹奏楽部なんかに入っていたからです。
美術を選んでいたほうがよかったかな。
九想庵の小説のページにある「二十歳のころ」という作品に、 
東京で初めて暮らしたアパートで、
日雇いをしながら絵描きを目指していた人とのことを書いた。
私にはいつも絵のことにつながることがありました。
あの頃、駒込駅前の絵画教室でクロッキーを習っていたことがあった。
本音は、ただ女性の裸が見たかっただけ…かも知れないな。

まだ本筋になる前に長くなりましたので、
デザイン学校の学生だった頃のことはこの次にします。
といっても、あの頃のことで書くことはあまりありません。
暗くてつまらないことばっかしです。 
                           (つづく)

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睡眠不足

2006年12月14日 | 健康・病気
パソコンの前で書こうとしているのですが、
目を開いてられません。

すみません。寝ます。

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