goo blog サービス終了のお知らせ 

友と川越で飲む

2025年05月03日 | 友人

昨日は、以前からの約束で川越で友と会った。
高校のときの同級生です。
高校のときはあまり付き合いはなかった。
高校を卒業してから、何回か東京で会った。
私は駒込にいたし、彼も新宿のほうで仕事をしていた。
彼は、東京で測量の会社に勤めていて、茨城に帰って測量の会社を立ち上げた。
40代のときに、その会社のホームページを作ってくれと頼まれて作ったことがあった。
そのときあたりから付き合うようになった。
現在は、彼も私も仕事をしていないで、毎日のようにLINE電話で話している。

昨日は12時に川越駅で彼と会い、
それから川越の「時の鐘」を見たことがない、というので見に行った。
雨が降ってきたので友はスーパーで傘を買った。
私は折りたたみ傘を持ってきていた。

 

川越の蔵の街を歩いた。
それから川越駅前に戻り、居酒屋に入った。
その居酒屋には過去にも友人たちと来たことがあった。
生ビールを飲み、吟醸酒を味わい、熱燗をおちょこで何杯も飲んだ。
友とは毎日のように電話で話しているのだが、やはり相手の温度を感じて話すのはいい。
高校生のときとか、20代のとき会って飲んだときとか、40代の頃、現在のこともを話した。
「今年は、クラス会をやろう」
もうしばらくクラス会をやっていなかった。
私たちは1971年に高校を卒業している。
担任の先生がたしか今年の3月に亡くなっていた。
今年は、クラス会をなんとしてもやろうと、そう友と話した。

昨夜は、いつもより多く酒が入っていたので、九想話を休みました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡路島の玉ねぎ

2025年04月23日 | 友人



昨日、淡路島の友人から玉ねぎが送られてきた。
この友人は、昨年12月に私の家に来て楽しく酒を飲んだ。

2024年12月05日 九想話 「淡路島から友が来た

その友人から今年もまた、淡路島の玉ねぎが送られてきた。
今夜の食事のときに女房が、オニオンスライスにしてくれた。
うまかったです。
いつの日か、私もまた淡路島に遊びに行きたいです。





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六本木青春物語

2025年02月10日 | 友人

今朝4時5分からのラジオ深夜便は、<師匠を語る>「松崎しげる、西田敏行を語る」だった。
松崎しげるが西田敏行のことを話していた。
ちょっと九想話の手を抜くために、こんな新聞記事を見つけた。
ラジオ深夜便で話したことがこの記事にありますので、これを読んで下さい。

松崎しげるが明かした西田敏行さんとの六本木青春物語

ラジオ深夜便で話した西田敏行と松崎しげるの出会い、売れてなかった頃の二人の暮らし、
西田敏行の葬儀のことなどが書いてあります。
西田敏行がテレビドラマで売れ始め、松崎しげるが歌う「愛のメモリー」がヒットし、
「噂の刑事トミーとマツ」でも売れるようになったときに、2人はリオのカーニバルに行った。
そこで渡辺貞夫に出会ったことも話していた。
ぜひ「ラジオ深夜便の聴き逃し」を聴いて下さい。
松崎しげると西田敏行はいい友だちだったんだな、としみじみ思った。

私には、そんなに長くつきあった友人はいない。
ボクサーを目指していた龍彦は23歳で死んでしまった。
その頃、龍彦と一緒によく飲んでいて、山谷で日雇いをしながら絵を描いていたIさんとは、
彼は山梨にいるので、もう20年近く会ってない。
東大生協で20代の前半のときに、よく飲んで人生を語ったUくんは、32歳で亡くなった。
そのときに一緒に飲んでいたI氏とは30代ぐらいまで将棋をよく指していた。
彼は、東大生協書籍部の店長までやったのにドロップアウトしてしまい、
40代後半の頃、私と会いたくないと言って去っていってしまった。
私が50歳前後の頃、所沢の居酒屋「らくや」で素敵な人たちに沢山出会った。
そこで会った人たちとは、私が所沢から離れたので今はつきあっていない。
私は20回以上転職をしてきた。
そこで何人かの素敵な人たちとの交流もあったが、会社を辞めると途絶えた。
私が19歳のとき、お茶の水の予備校に行くために本郷三丁目にある試薬会社に勤めた。
私が、地方の大学に試薬を送るために郵便局に行くと、受け付けてくれた奴が予備校にいた。
彼はまじめに予備校に通い、早稲田大学に入学した。
私は、勉強についていけなくて、9月に予備校に行かなくなった。
それでも彼とは、ときどき酒を飲む関係になった。
彼が早稲田大学で作っていた同人誌に、私の書いた小説を何度か載せてもらった。
彼は小説家になると言っていたが、もう20年は会っていない。

松崎しげると西田敏行は、50年以上も付き合ったという。
うらやましいです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昼飲み

2025年02月04日 | 友人

今日は、友人と鶴ヶ島にあるバーミヤンで昼飲みをした。
友人は私と同じ72歳です。
だいたい年に2・3回は飲んでいる。
九想話にそのことを書くのは、今夜が初めてです。

いろんなことを話した。
今なので、Nのことやテレビ局のことも少し話した。
私たちは、俳句のことを話すことが多い。
いや、どうでもいい世間話がほとんどかな?
彼は2月2日の朝日俳壇で、長谷川櫂にとられていた。

  ラクビーや青春は青春を語らず

私は昨年の10月から毎週、メールで朝日俳壇に投句しているがまったくダメです。
今日も朝日俳壇に投句して、家を出てきた。
朝日俳壇は、火曜日の12時が投句締切りのようなんです。
どうせだめなんだろうな。

いつも昼飲みでは、生ビールを飲んでから、黒霧を飲んでいる。
今日は、お湯割りです。
うまいです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士通ゼネラルをパロマの持株会社が買収へ

2025年01月06日 | 友人

ガス器具パロマの持ち株会社、富士通ゼネを約2560億円で買収

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/kaden_watch/trend/kaden_watch-1652310


こんなニュースがgooニュースにあった。
私が45歳までしていた仕事は、半導体製造装置関連のメーカーの資材課だった。
そのときの会社で造る装置のディスプレーに、ゼネラル社のものを使っていた。
なのでゼネラル社の営業マンとは月一で会っていた。
私が44歳の4月に、開発部のある山梨工場に行ってくれと会社の命令があり、
私は単身赴任で山梨に行った。
それまでは東京都小平市にある本社に開発部はあった。
数年前から新しい装置の開発は山梨でするようになった。
それまでの装置はかなり売れていた。
その頃親会社のM商事が、半導体製造装置関連のメーカー3つの会社を手に入れて合併させた。
そのおかげで私は、従業員200名以上の会社の社員になれた。
それまで私は、社員4人~80人ぐらいの会社を転職していた。
3年ほどは、半導体業界の景気もよくて、私の会社の装置も飛ぶように売れていた。
国内にもだが、台湾や韓国にも装置は売れた。
ところが私の会社は、新しく開発した装置が売れなくなり親会社から売却されることになった。
それまで取引している部品商社の営業マンから、
「M商事の子会社だったら安泰だね」と言われていたのに、
会社の売り上げが悪くなったら、あっさりとM商事は子会社を売ってしまった。
その頃、ゼネラル社の営業マンが来たとき、そんなことを話すと、
「うちの会社も売られるんですよ」と話してくれた。
ゼネラル社の株は、富士通が買った。
それで富士通ゼネラルとなった。

こんどはガス器具パロマが、ゼネラル社の持ち株会社となる。
パロマの子会社になって、これからゼネラル社はどうなるのだろう?
私はこれからも注視していきたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俳人 奥坂まやさん

2024年12月24日 | 友人

昨日、日曜日(12/22)に放送されたNHK俳句(NHK総合6:35~)の録画を観た。
NHK俳句の第4週は「語ろう!俳句」ということで句会をします。
参加者は、講師の俳人高野ムツオさん、俳人奥坂まやさん、俳人高山れおなさん、
エッセイスト・コラムニスト能町みね子さん、中西アルノさん(乃木坂46)の4人でした。

番組を観ていて私は、いつもとちがった気持ちになった。
私は、俳人奥坂まやさんという人に会ったことがあるのではないか、と思った。
奥坂さんのお顔を観ていて、私はこの人に絶対会ったことがあると思えてきた。
詩人清水哲男さんの集まりのときに、私は奥坂まやさんと会っているはずだ。
番組を観終わってから私は、2階の自分の部屋の本棚の本を調べた。
そして以前、俳人奥坂まやさんから送られた句集「妣の国(ははのくに)」を見つけた。

私は、ブログ九想話の右上の検索の欄に「奥坂まや」と入力して「このブログ内」を検索した。
すると次の3つの九想話が出てきた。

2012年06月03日九想話「余白句会100回記念会
2012年06月04日九想話「俳人奥坂まや
2012年06月05日九想話「句集『妣の国』

これらを読んで私は、奥坂まやさんとのことをいろいろ思い出した。
九想話「俳人奥坂まや」には、私が余白句会100回記念会に行って、
奥坂まやさんと出会ったことが書いてあった。
そこに行く前に参加者はそれぞれメールで事務局に俳句を投句していた。
その俳句が会場に張り出され、それを参加者が選句するということをした。
私の句は、天・地・人には入れなかったが、5点句ということで前に出て挨拶をさせられた。
このへんのことは、九想話「余白句会100回記念会」に書いてあります。
私は、隣に坐っていた奥坂まやさんと俳句やその他のいろいろなことを話した。
私はそのとき、奥坂まやさんという女性はものすごく素敵な女性だと思った。
私なんかでは、なかなか出会えない女性でした。
私は、次の日には軽井沢に帰らなくてはならなかった。
軽井沢で暮らしていたときに、奥坂さんから句集が送られてきた。
そのあとは、会うこともないのでいつの日か忘れてしまいました。
それが、その人を12年ぶりにテレビで観た。
眩しかったです。

増幅する俳句歳時記で取り上げられた奥坂まやさんの句

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龍彦の命日

2024年12月08日 | 友人

12月8日は、日本が真珠湾を攻撃した日、そしてジョン・レノンが亡くなった日です。
でも私には、23歳で死んでしまった龍彦の命日です。
龍彦とは私が19歳の3月に、東京都文京区にあった試薬薬品会社に就職したときに出会った。
その会社は午後4時半に仕事が終わった。
なので先輩の社員の人たちは、みな夜の学校に行っている人が多かった。
私も夜間の予備校に行こうと思っていたので、その会社を希望した。
私は、お茶の水にある予備校に行きたいと考えていた。
私の行きたかった予備校へは、会社から徒歩20分で行けた。
龍彦は、ボクシングジムに行っていた。
大阪のボクシングジムで訓練していたのだが、
やはり東京でやったほうがいいということで、龍彦は東京に出てきた。
私は仕事が終わると毎日、お茶の水の予備校に通っていた。
龍彦はボクシングジムに行っていた。

予備校の授業に私は、まったくついて行けなかった。
そして9月の頃は、予備校に行かなくなってしまった。
龍彦は秋にボクシングのプロテストに受かった。
12月にプロとしてのデビュー戦をやることになった。
デビュー戦の1週間前に、龍彦に誘われて酒を飲んだ。
「おれは、人を殴るのも、殴られることも怖くなったんで、ボクシングをやめる」と言った。
それから龍彦と私は、毎日のように酒を飲んだ。
私の駒込の3畳のアパートに龍彦が来ると、二級酒の酒を飲んでギターを弾いていろんな話をした。

私のアパートの6畳間の部屋にはIさんが住んでいた。
その人は私より1歳年上だった。
東京の台東区生まれで毎日部屋で油絵を描いていた。
1週間に1度ぐらい山谷で、日雇いをして暮らしていた。
絵を描いていないときは、アルトリコーダーでヘンデルやバッハの曲を吹いていた。
高校卒業のとき東京芸大を受験して落ちたと言う。
そして、大学には行かずに独学で油絵を描いていくと話していた。
私はあるときIさんに声をかけられて、酒を飲むようになっていた。
それで龍彦も一緒に酒を飲むようになった。
Iさんの家には、いろんな友人が遊びに来た。
大会社に勤めるOL、美大の学生、漫画家のアシスタント。
私もそうだが、龍彦もIさんの人柄に惹かれるようになった。

龍彦は、会社を辞めて大阪に行ってしまった。
半年後には、また東京に帰ってきた。
そういう暮らしを龍彦はしていたが、22歳のときに萩焼きの窯元に弟子入りした。
ところがそこの女性の弟子と仲良くなって、2人で窯元から出奔した。
九州などを2人で旅して、東京の私のアパートにやってきた。
龍彦は彼女と結婚したいといった。
私は反対した。
結婚することはいいが、もう少し生活をかためてからしたほうがいい、と私は言った。
私のアパートを2人が去って9月頃、龍彦から手紙が来た。
彼女とは離れて暮らして、龍彦は備前焼きの窯元に弟子入りした、と書いてあった。
ところがそれから、龍彦が病気になって入院したという連絡がきた。
10月に私は、岡山の備前焼きの窯元に行った。
病院にいた龍彦は、意識はなく人工呼吸器で生きていた。
脳に細菌が入って、頭の手術をしたそうだ。
龍彦の意識は戻らず、12月の8日に亡くなった。
私はそのあと1年ほど、死んだように生きていた。

龍彦は、私がギターを教えてからうまくなった。
彼はギターを弾く前は、演歌を上手にうたっていた。
ギターを弾くようになってからは、陽水の歌をよく歌っていた。
あいつの好きだった「紙飛行機」です。

紙飛行機  井上陽水





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡路島から友が来た

2024年12月05日 | 友人

昨日の午後5時前、私がリビングの窓の外を見ていると大きなワゴン車が通過した。
私は、あの車かな?と思って玄関から外に出た。
するとその車が、私の家を通り過ぎてから戻ってきた。
やはり運転席には友人がいた。
21年ぶりの彼の顔は、少しのちがいはあったがすぐ分かった。
私の顔だってそうだろう。
私は彼に挨拶をして、日曜日に借りていたうちの後ろの家の駐車場に案内した。
友人の車はハイエースだった。
大きな車がなんとか駐車場に入れてよかった。

友人に風呂に入ってもらってから食事にした。
買ってきた寿司と、女房が作った大根と豚肉の煮物と、
いろんな野菜と生ハムのサラダがテーブルに置かれた。
そして、ビールを飲んだ。

友人と私が知り合ったのは30歳の頃だ。
私は、板橋区にある70人ほどの電機系の製作会社の資材購買課にいて、
彼は、IC・LSIなどの半導体電子部品を販売する新宿にあった会社の営業マンだった。
彼の会社から毎月それなりの半導体電子部品を買っていた。
そういう関係で盆と暮れには、彼の会社の接待で新宿などで飲んでいた。
その会社を私は34歳で辞め転職した。
彼も会社の上司と新しい会社を作ったりした。
私は転職しても、資材購買課の仕事をしていたので彼との付き合いは続いた。
彼は35歳の頃、所帯を持って埼玉にマンションを買った。
しかし彼はその後、そのマンションを売って淡路島に帰ってしまった。
淡路島に帰ってある会社で働いていたが、その会社がつぶれてしまった。
それで保険会社の営業をするようになった。
私は、彼を応援するために車の任意保険や生命保険を解約して、彼の会社の保険に入った。
彼は今、自分の会社を解散して無職になり、ゴルフ・テニス三昧の日々を送っている。
私の入っていた保険は、彼の仕事を引き継いだ人にお願いしている。
(私は、彼に勧められて入った保険で、膀胱がんになりお金をいただいて助かった)

彼が高校を卒業してから、どうして東京の半導体電子部品販売の会社に入ったのか、とか、
埼玉にマンションまで買ったのに、どうして淡路島に帰ったのか、などを話してくれた。
毎日仕事が忙しくて家に帰るのが遅く、それが厭で淡路島に帰ったそうだ。
私の知らないことばかりだった。
私の茨城での子どもの頃とか、淡路島での彼の子どものときの話などを話した。
楽しかった。
彼と私は学年が1つ違いです。
こんなに長く付き合いが続いてきたことを嬉しく思う。

友人は12月3日、千葉に住む息子のところに泊まったそうだ。
そして昨日、息子と息子の会社の人間とゴルフをしたそうだ。
息子は、理容店を10店舗経営していて、50人ほどの社員がいる会社の社長だという。
友人の奥さんは、その会社の役員をしていて重役手当を毎月もらっているという。
うちの息子たちには、そのような力はない。
私の資質を受け継いでいるのでしょうがないだろう。

今日私は、膀胱がんの外来に行く日だった。
群馬に行く友人を8時過ぎに送り出し、私は病院に向かった。


友人が淡路島の大江のりを10本おみやげとして持ってきてくれた。

2003年07月31日九想話「淡路島



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友が来る

2024年12月04日 | 友人

これから淡路島の友人が来ます。
今日、千葉でゴルフをやって、午後2時半頃にゴルフ場を出ると連絡があった。
なので鳩山町のわが家には、5時までには来ると思う。
彼とは51歳のときに、私が淡路島に遊びに行ったときに会っている。
それ以来だから21年ぶりということになります。
今夜は友と痛飲して寝てしまうかも知れないので、九想話を書いておきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LINEに現れた友人

2024年11月07日 | 友人

先週の金曜日、私のスマートフォンのLINEの〝友だちリスト〟に、
突然高校の同級生Sの名前が現れた。
彼の名前と電話番号は連絡先にある。
何かのきっかけで彼と私が、LINEの〝友だち〟になってしまったのだろう。
ときどきまったく知らない名前が、〝友だちリスト〟に現れるときがある。
そういうときは無視しているが、彼のことはほっとけないと思った。

Sは高校のとき陸上部にいた。
私は吹奏楽部で、同じクラスだったが高校生のときはほとんど付き合いはなかった。
高校を卒業して彼は、大きなスポーツ用品・設備の会社に就職した。
20年ほど前のクラス会があったときにSと話して、
東京に住んでいることが分かり東京で何度か飲んだ。
彼は広島支店で働いていたときに女性と知り合い結婚して、広島で家庭を持っていた。
そのときは東京に単身赴任していてマンションに暮らしていた。
それから2年間ほど、よく東京で飲んだ。
茨城の高校の教師をしていたTが東京に来たときに、私にも連絡をくれて飲んだ。
SとTは、高校のときに仲がよかったようだ。

私は11月3日、SにLINEで次のように書いた。
>I高校卒業のSさんですよね。ご無沙汰しています。
>一昨日、LINEに名前が現れたので驚きました。
>よろしくお願いいたします。

そしたらすぐ彼から返事がきた。
>Sです。ラインありがとうございます。
>現在は、5月で退社しゴルフ三昧の日々です。

私もすぐ返事を書いた。
>おれは、年金暮らしです。
2020年に膀胱がんになって、治療のために仕事を辞めました。

すると彼もある病気になったことを書いてきた。
そして、
>ところでクラス会はないのですかね?会いたいね。
とあった。
そういえば、もう10年ほどクラス会をしていない。
>会いたいね。
と私も書いた。
スマホのLINEのおかげで、昔の友人とつながったことは嬉しかった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする