>日産が追浜工場の閉鎖発表、九州工場に移管・統合へ…エスピノーサ社長「苦渋の判断」
この記事を読んで、私が51歳のときに勤めていた会社が閉鎖になったことを思い出した。
私は、ホンダ狭山工場に車のウィンドウガラスを納める会社の、生産管理をしていた。
あのときはオデッセイや(あと名前は忘れたが)2機種のウィンドウガラスを納品していた。
ホンダから前月に納品数の指示があり、その指示通りにウィンドウガラスを納品しなければならなかった。
1枚でも少なくてはいけないし、多くてもダメだった。
決められた時間に要求された枚数を納めても、その中に不良のガラスがあったらアウトです。
もう毎日が戦争だった。
私がその会社に入社したとき(1998年4月)、工場には4ラインがあり、24時間3交代で稼働していた。
その頃ホンダの車では、オデッセイが売れていた。
私が入社したときの生産管理は、紙に書いた表に日ごとの出荷数を書き、
その数に対して日々10種類以上のウィンドウガラスの製造を、在庫を考慮して、
4ラインでどのように製造するかという計画数を電卓で計算して生産計画を立てていた。
そういう方法で生産計画を作っていた人が退職するので、私ともう1人が入社した。
それを私はパソコンを使って生産計画を立てようと考えた。
エクセルを使った。
生産計画表の月の初めに製品の在庫を入れておき、日々の出荷数を入れ、
毎日の製造日報から製造数を入力すれば、数式を入れたエクセルが計算してくれる。
それをもとに私は生産計画を立てた。
しかしそのように生産計画を立てても、生産は順調にはいかないことのほうが多かった。
ガラスをプレス機に置き、閉じたときに溶けた樹脂を流してウィンドウガラスを加工していた。
プレス機に曲面が合ってないガラスだと割れてしまう。
プレス機の清掃をすると1時間ほど時間のロスになった。
1時間に何枚打つ(製造する)という計画通りにいかないことが多かった。
もう毎日神経を尖らせて会社にいました。
そんな8月に、私と一緒に入社した男が会社に来なくなった。
過酷な日々の生産管理の仕事に耐えられなくなったのだろう。
そんな会社が2003年の6月で閉鎖になると、その年の2月に発表があった。
2003年02月06日九想話「会社閉鎖」
会社の縮小がありそうだと2・3ヶ月前から噂で聞いていたが、閉鎖ということには驚いた。
そのときの会社は、何人かの者が2年前から労働組合を作ろうとしていた。
埼玉県の連合から指導者も来ていた。
そのことがいけなかったようだ。
親会社の旭硝子が、ホンダに納めている子会社と三菱自動車に納めている子会社の
どちらかを閉鎖することになった。
私の考えだが、おそらく親会社の旭硝子は、労働組合ができた会社は残さないだろうと思った。
結局、横浜にあった三菱自動車向けにウィンドウガラスを製造していた会社が残った。
そんなわけで私は、51歳の6月で職を失った。
ただ私にとってラッキーだったことは、その年の4月に息子たちが大学を卒業して社会人になっていた。
日産の追浜工場が閉鎖になると、多くの日産に勤める従業員はリストラされるだろう。
日産の近所で仕事をしていた食堂や弁当屋・居酒屋などもこれからが大変だ。
私も51歳で職を失い、まともな退職金ももらえず無職になり、そのあとも苦労しました。