デザイン学校の頃1

2006年12月15日 | 健康・病気
忘れていたことを「いろり端」でのロスさんとのやりとりで思い出すことになった。
といってもやっぱりほとんど忘れてしまっていて記憶がおぼろげです。
2003年4月の九想話に「哀演児」という題で1~6までにそのへんのことを書いた。

あれはあくまで演劇のことを主体に書いた。
今回は、一学生としての桑沢デザイン研究所でのことを書こうと思う。
しかしそれにしても、演劇をやるためにデザイン学校に入学するというバカは
私ぐらいしかいないと思う。
こんな私だからこれまでの生き方すべてが、
“中途半端”というか“いい加減”というか、ただただ情けない。

でも考えれば、演劇をやる仲間がみなデザインをやっているから
おれもやってみよう、といってデザイン学校に入っちゃうというのも
なかなかできるものではないな(自分でいってどうする)。
私はもともと絵を描くことが好きだった。
中学生のとき、美術はいつも「5」でした。
ブラスバンド部にいたのに音楽は「3」とか「4」だった。
中学3年まで楽譜があまりよく読めなかったもんなァ。
これをきちんと考えたら美術のほうの道を目指していればよかったのかな。

高校のときは、音楽、美術、書道というクラスがあったが、音楽を専攻していた。
吹奏楽部なんかに入っていたからです。
美術を選んでいたほうがよかったかな。
九想庵の小説のページにある「二十歳のころ」という作品に、 
東京で初めて暮らしたアパートで、
日雇いをしながら絵描きを目指していた人とのことを書いた。
私にはいつも絵のことにつながることがありました。
あの頃、駒込駅前の絵画教室でクロッキーを習っていたことがあった。
本音は、ただ女性の裸が見たかっただけ…かも知れないな。

まだ本筋になる前に長くなりましたので、
デザイン学校の学生だった頃のことはこの次にします。
といっても、あの頃のことで書くことはあまりありません。
暗くてつまらないことばっかしです。 
                           (つづく)

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