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「わが町」・・・ソートン・ワイルダー

2011-05-05 09:52:42 | マスメディア
 今回の震災では家だけでなく、町そのものが流されてしまった地域が数多くありました。古くから住み続けてきた方々にとって、それは単なる経済的損失にとどまるものではありません。計らずも私は「わが町」を想いだしました。

 ソートン・ワイルダーの戯曲「わが町」はニューハンプシャー州のある町を舞台に、1901年6月7日からの出来事を二つの家族を中心に描いたものです。その町のもっとも古い墓は1670年、そこには4つの家の名が刻まれ、今もその姓の人が多く住んでいるという地方の町です。その町で子供達は成長し、結婚、そしてまた子供を生み育て、やがて死ぬということが連綿と繰り返されます。毎日の平凡な生活、死も結婚も日常のこととしてが淡々と描かれますが、そこには平凡な日常にこそ価値があるというメッセージが込められているように思います。そして町は彼らを包む世界と言えるでしょう。
(「わが町」は1940年に映画化されました。邦題は「我等の町」)

 以前、多くの日本人は祖先から家や土地を受け継ぎ、世代を重ねてきました。そこには祖父母、父母から受け継いだものを子孫に継いでいくという考えがありました。世代の継続の中に自分を位置づけるこうした考えは人々に精神的な安定をもたらす、ということを民俗学者の柳田国男がどこかの本に書いていたと記憶しています(古い記憶なので信頼度低し)。ここには世代を中継するという自分の位置づけ、そして「意味」づけがあるからでしょう。

 「わが町」はその舞台を日本の村に置き換えても違和感がありません。この劇が日本でも根強い人気を保っているのはワイルダーが描いた世界と共通するものがあるからでしょう(劇は見ていませんが)。

 しかし戦後の高度成長期、地方から都市への大規模な人口移動があり、また個人を重視する考えが支配的になって「家」は否定的に語られることが多くなりました。とりわけ都会では、人々は「家」の呪縛から解放された一方、「意味」のひとつを失ったわけです。

 大家族制が消滅した結果、表面化した現象として無縁死が話題になっていますが、「自分の位置」や「意味」の喪失はより根源的なものであり、一種のアイデンティティの喪失と捉えることができます。たいていのことには副作用があるということでしょうけれど。

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