噛みつき評論 ブログ版

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多数者の利己主義~悲惨な引揚体験から

2007-05-25 22:12:25 | Weblog
 文芸春秋5月号に五木寛之氏の、引揚体験をテーマにした対談記事がある。そのなかに衝撃的な体験が語られている。昭和21年9月20日、五木氏の一家4人は平壌を出て、開城に向かった。14歳の五木氏が妹を背負い、5、6歳の弟を引きずっての逃避行である。少し長いが引用する。

『そして2回目の脱出行で、平壌と38度線の中間にあった沙里院のガードポイントをトラックで突破するときでした。それまで何度も止められましたが、そのたびに時計や万年筆などの貴重品を渡して、見逃してもらっていました。それがここでは女を出せと言われた。これは本当に困りました。 
 若い娘はまずい。子持ちはダメ、あまり年上もよくないということで、結局は元芸者さんなどの水商売をしていた女性や、夫や子供を失った未亡人に、みんなの視線が自然と集中するのです。そのうちリーダー役の人物が土下座して「みんなのためだ、行ってくれ」と頼んだ。みんなから射すくめられるように見られるのですから、その女性は出て行かざるをえません。そうやって女性を送り出していった人間が、生きのびて帰ってきたわけですから
(中略)
 さらにひどいことに、女性が明け方、ボロ雑巾のように帰ってくると、「ロシア兵から悪い病気をうつされているかもしれないから、あの女の人に近寄っちゃだめよ」と、こっそり子どもに言う母親がいた。本来であれば手をとってお礼を言ってもいいのに、そういうことを言って蔑んだ目で見る。戻ってきた女性の周囲には誰も近寄らないのです。私は日本人でありながら、日本人に対する幻滅が強く涌いて、いまも後遺症が消えません』  

衣食足りて、生命の危険がない現代の感覚で過去を判断するのは慎まねばならないと思うが、それにしてもやりきれない話である。

 このときの人々の行動は「多数者の利己主義」ともいうべきものに後押しされていたのではないだろうか(多数者の利己主義は私の造語です)。我々は他人を説得するとき、しばしば「みんなそう言っている、みんな同じ意見だ」などと言う。これには、みんなの意見は正しいという気持ちと、いざとなれば数の力で押し切れる、という気持ちが混じっているように思う。

 他に選択肢がない状況で女性を差し出す行為は軽々に非難できるものではないが、その後戻ってきた女性に冷たい態度をとったことは想像を超える。背景には、間違った行為でも多数であれば心強いし、正当化できるという気持ちがあったのではないだろうか。

 民主主義では多数=力であり、多数決という制度としての担保もある。この制度の背景には、他によい方法がないこともあるが、多数の意見が妥当という考えがあるはずだ。

 上記の例は数の力によって「民主的に」少数者に犠牲を強いたという例であろう。すべてに敷衍するわけではないが、多数意見の正しさというものをあまり信用しないほうがよさそうだ。

 また「女を要求するのはソ連兵ですか。それとも中国や朝鮮の人々も同じことをしたのでしょうか」という質問に対して、「ソ連兵だけではありませんでした」と五木氏は答えている。秩序が壊れると、人間の本性が引き出されるらしい。恐ろしいことだ。もっとも本性は人によって大いに 異なるだろうが。  次に五木氏が日本へ引揚げてからの話の一部を要約する。

 港に婦人調査部というものがあり、それは博多、長崎、佐世保、敦賀にあった。そこで性病と妊娠の有無を調べた。彼女らは「不法妊娠」として麻酔なしで手術された。ところが当時は堕胎罪が厳格で公式にはできなかった。京城帝大、九大、広島大の学生が違法を承知で引き受けた。
(筆者注-これは上記の例が特別ではなく、性行為を強制された女性が多かったことを示している)

 五木氏は『特攻(ソ連兵に提供された女性)に行った女性に「近寄るな」という日本人もいましたが、将来を失う危険を覚悟で手術をした人もいた』と述べている。

 余談になるが、日本人といっても様々だ。日本人というJIS規格があるわけでなく、日本人をひと括りに考えることが無意味なのだろう。これは他の外国人についても言えることだ。○○人というネガティブなレッテルを貼ることは国と国の対立の一要素ともなる。

 世の中にはレッテル貼り(これがまたやめられないほど面白いのだけれど)の好きな人がいるが、レッテルによる単純化(認知的節約)は思考を簡略にし、頭の処理速度を上げる効果があるが、引換えに正確さが犠牲になる。         


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