静聴雨読

歴史文化を読み解く

「冬の旅」はテノール向けに書かれた

2007-11-16 07:05:50 | Weblog
男性歌手の声が、上から、テノール・バリトン・バスと呼ばれることは既に述べた。その相互の境界はあるのだろうが、「あれはバリトンだ。」「いや、テノールだ。」と論議することにはあまり意味がない。

シューベルトの有名な連作歌曲集「冬の旅」は、現在では、バリトンやバスの歌手のレパートリと思われているが、シューベルトはテノールを指定していることもまた有名な話だ。

この「冬の旅」は、失恋した若者が冬の各地をさまようという主題で、「旅」というよりは「彷徨」という方が適切な内容だ。この暗い主題を表現するには、バスやバリトンが合っているのかもしれない。実際、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウとヘルマン・プライ(ともにバリトン)の歌う「冬の旅」は、冬の荒野に展開される若者の挫折・絶望などを紡ぎ出すことに成功していた。

一方、少数派ではあるが、テノールの歌手が「冬の旅」を歌った例として、エルンスト・ヘフリガーとペーター・シュライアーのものがある。彼らの表現する「冬の旅」には、バリトン歌手のそれとは別の趣きが漂っている。同じく若者の挫折・絶望を表現しているのはもちろんだが、それに加えて、希望や(春への)憧れがみずみずしく歌われているのだ。曲目でいえば、「春の夢」「最後の希望」「勇気」などがそれに当てはまる。

こうやって、バリトン歌手の歌う「冬の旅」とテノール歌手の歌う「冬の旅」とを聴き比べてみて、どちらも捨てたものではないな、という感想を持つ。それぞれが得意とする情感表現があることも実感できる。

もう一つ。演奏会では、「冬の旅」全24曲を、休憩なしに、歌い切るのが通例になっている。時間にして、約65分、ちょうど、ベートーヴェン「第九交響曲 合唱付き」全曲の長さに等しい。これが歌手に大変な苦行を強いることは想像に難くない。高音域のテノールより、中音域のバリトンの方が有利だということが窺える。完璧に抑制した声で歌うディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの演奏会は、今まで聴いた中では、群を抜いた完成度を実現していたように思う。  (2007/11)