そもそも北方民族の博物館を作るという発想が出てきた意味は?
そしてそれがなぜこの網走の地にできたのでしょうか?
ふと考えてみればそれは謎に思えます。
最初に断っておきますが、ここからは私見です。
北海道にはアイヌ文化がありかつてはオホーツク文化が栄えていました。
その意味において北方民族の博物館を作る場所は日本では北海道しまありません。
ではなぜそれが網走だったのか。
それは網走に北方少数民族が住んでいた(る)から。
かつて日本領だった樺太に住んでいたウィルタやニヴフが敗戦後、網走に移り住みました。
私が子供の頃は網走に少数民族が住んでいたのは当たり前のこととして受け入れていました。
その中の一人が閉館した「北方少数民族資料館ジャッカドフニ」を運営していた、
ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)氏です。
ジャッカドフニは一度行ってみたかったのですが、機会がないまま終わってしまった。
きっと心躍る展示がいっぱいだったに違いない。
また網走には「オロチョンの火祭り」というお祭りがあります。
(ちなみに、いわゆるオロチョン族に“火祭り”は存在しません)
またモヨロ貝塚というオホーツク文化を代表する遺跡もある。
網走は古来、樺太などのオホーツク沿岸地方との結びつきが強かったのです。
そこにはもちろん北方少数民族との交流があった。
そのような経緯がありこの網走に博物館ができた。
本来ならばそういうことをここで解説しなければいけないのではないか。
私は館内を歩いていてそのようなことを思いました。
まっ、道立の博物館だと言えないこともいろいろなるのだろうな、とも思うけど。
追記
北方民族の呼び名はいろいろあります。
ウィルタの別の呼び名はオロッコ、オロチョンなどがあります。
同じくニヴフはニブヒ、ギリヤークなどと呼ばれることもあります。
なお本来のオロチョン族は樺太ではなく、中国・内モンゴルとその近隣のロシアに住んでいます。