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八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

ちまき

2012年05月18日 11時45分05秒 | 日本の風習

本日は良い天気ですね!

こんな日は外で野球とかスポーツがしたくなりますよね!

こんにちは。

長くプレイをしないと野球のボールどころかボーリングの玉の投げ方すら忘れるI権禰宜です。


さて5月もいよいよ後半。そろそろ梅雨が近づきますね・・・。

少し時期が外れますが・・・5月といえば端午の節句ですよね。

そう、5月5日はちまき食べ食べ兄さんに背丈を測ってもらった方も多いことでしょう。

まぁ・・・私には兄さんがいないので経験ありませんが。

ちなみに弟はいますが、私は彼の背丈をちまき食べ食べ測ってやったことは・・・



ありません。


すまぬ・・・弟よ・・・。


そんな背丈を測るときには必須の食べ物ちまき

私の郷里では毎年5月に入ると各家庭いそいそとちまきを作り始めます。

ちまきがないと背丈が測れませんからね・・・一大事です。


そうして出来上がったちまきは家族でもしゃもしゃ貪って5月5日を過ごすのです。

それぐらい重要な食べ物です。はい。

・・・たぶん。


重要な食べ物ですから例年私の元に届くんですよ。

実家から・・・件のちまきが。


それがこちら。

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わー美味しそうー。

・・・


一応ですね、これは外観で、竹の皮をめくって中のモノを貪るんです。

あえて中の画像は載せませんが・・・

濃いりんごジュースみたいな色をしたものがデプンと包まってます。

その物体を糸とかで切り分けます。

包丁で切ると後々面倒なことになるのでやめたほうが良いですよ。


味?

味ですか・・・。

そうですね・・・。

えー・・・味しません。

なので、きな粉をぼふっとまぶしてから口に入れます。

この時のきな粉には塩と砂糖を少々交ぜるのがナウいんだとか。

これを食べると背丈が測りたくなって我慢が出来なくなります。


このちまき。別名をあくまきと申しまして・・・名前の如く、灰汁にぶち込んで調理する方法がなんともいえない食べ物です。


さぁ。このブログを読んでちまきを食べる気が見事に失せたそこの貴方。

不味く感じるのはきっと私の説明がほんのちょっと足らないだけだから!

ぜひどこかで見つけたらご賞味くださいね

I権禰宜


七夕

2011年07月07日 11時57分14秒 | 日本の風習
こ・・・これが・・・デコレーション記事(略してデコ記事)・・・・。
なるほど・・・新しい。
ところでこの白いモコモコモフモフした生物はなんですかね?・・・犬?
こんにちは。七夕もI権禰宜です。
「コレ(デコ記事)を使え」というリクエストがあったので使いましたが・・・早くも後悔
もうコレは今日だけにします・・・。
さて本日は7月7日。そう七夕ですね。

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七夕のフリー画像を探したらこんなのしかなかった可愛らしいイラストがありましたので使わせていただきます。

ありがとうフリー素材。

ところで七夕のお話・・・皆さんはご存知ですよね?

・・・知らない方の為にお話しますと

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昔々・・・古代中国の最高神である天帝には機織りが得意な娘(織女)がおりました。

天帝はこの娘に立派な夫をみつけてやろうと、河西にすむ牽牛の若者(牽牛郎)に白羽の矢を立てます。

織女と牽牛郎ともに働き者で、二人は似合いの夫婦となりました。

ところが・・・

夫婦になってからというもの二人は結婚生活に夢中になってしまいます。

織女は機を織らず、牽牛郎は牛を引かず・・・あれほど働きものだった二人は働く事をおろそかにしてしまうようになりました。

これに激怒した天帝は二人を天の川を隔てて引き離してしまいます。

夫と引き離された織女は嘆き悲しみ、さすがに娘が哀れに思った天帝は年に一度だけ、7月7日の日に夫婦が会う事を許したのでした。

こうして毎年7月7日、織女と牽牛郎はカササギが天の川架ける橋を渡って逢瀬を楽しむ事となったのでした。

めでたし・・・めで・・・た・・・し?

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正直ハッピーエンドなのかどうなのか自信はありませんが、引き裂かれたまま・・・という訳でもないので・・・良しとしましょう。

あ、7月7日に雨が降ると天の川が増水して織女と牽牛郎は逢引きが出来ないらしいですよ。

そうそう。本来七夕行事は旧暦(8月)に行っていました。

2000年前に原型が出来た行事ですから、さもありなん。

しかし現在の七夕行事は明治以降に採用した新暦7月7日に行う場合が多く・・・つまり梅雨・・・。

決してワザとやった訳ではないでしょうけど(笑)、明治以降の織女と牽牛郎は、あんまり逢瀬を楽しむ事が出来てないのではないでしょうか?

織女と牽牛郎の仲を応援される方は、ぜひ七夕行事は旧暦でしてあげて下さいね(笑)

I権禰宜


キツネ

2011年02月08日 12時19分25秒 | 日本の風習

「お母ちゃん、お手々が冷たい、お手々がちんちんする」

・・・・あ、こんにちわ。I権禰宜です。

本日は初午の日稲荷神社の大祭の日であります。

稲荷といえばキツネですね。

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ということで冒頭の文は新美南吉の名作「手袋を買いに」から。

もっとも、「稲荷神≠キツネ」なのですけれども・・・。

とりあえずキツネが稲荷神に縁が深い動物である事は確かです。

今日はそんなキツネにまつわるお話

昔々、平安時代の終わり頃。鎌倉の御家人・比企判官(?~1203)丹後局という妹がおりました。この娘は大層器量が良いため、判官の主である鎌倉殿(1147~1199)に召しだされて寵愛を受け、やがて鎌倉殿の子どもを身籠ります。しかしこの事が妬心の深い鎌倉殿の御台(1157~1225)の知るところとなり、丹後局は身重のまま鎌倉を追われてしまいました。

わが身の不幸を嘆きながら西国へと上った丹後局は、やがて摂津の住吉宮(住吉大社)にて産気づいてしまいます。既に夜も更けて、灯りもなく、しかも雨の降る境内で苦しんでいた娘でしたが、数尾のキツネが火を灯すではありませんか。この灯りに助けられ、は無事に男の子を出産。男の子は「三郎」と名付けられ、丹後局の再婚先である惟宗筑後司(1132~1189)の元で養育されます。

やがて成長した三郎は母・丹後局が鎌倉殿の家人・藤九郎(1135~1200)に再々婚した関係で都から鎌倉へ下ります。そこで名将・畠山庄司次郎(1164~1205)の娘を娶って、その偏諱を受け「忠久」と名乗り、実父の鎌倉殿より薩摩・大隅・日向の三ヶ国の守護職を与えられ、鎌倉の御家人に列したのでした。

Photo

伝・島津忠久

これが後の島津氏の祖・島津忠久(1179~1227)の誕生譚です。

以後島津氏はこの家祖誕生の故実から狐を守護獣として崇め、また雨を縁起の良いものとして「島津雨」と称したといいます。

資料館などで島津一族の鎧(特に江戸期の藩主の鎧)を見る機会があれば、その兜の立物(兜飾り)にご注目ください。キツネがちょこんと乗っかってますよ

現在まで続く名門・島津氏の誕生の裏にはキツネの助けがあったんですねぇ。

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・・・というキツネにまつわるお話でした。

I権禰宜


七・五・三って?

2010年11月11日 14時03分58秒 | 日本の風習

こんにちはG出仕です。

只今、七五三のシーズンの本番は、11月15日ですがなぜこの日が七五三になったかというと、

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五代将軍徳川綱吉の子どもの徳松が髪置(かみおき)の儀式をこの日にしたので、それにならっているということです。

また、髪置というのは、七五三で云うと三歳のお祝の事で、五歳が袴着(はかまぎ)、七歳が帯直(おびなおし・・・帯解(おびとき)ともいう)といいます。

また、昔は子供の死亡率が非常に高かったため中国の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)の考え方で、三・五・七という縁起の良い奇数の年にお祝をする習わしとなったようです。

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また、千歳飴(ちとせあめ)を食べるのは、千歳とは千年という意味で長寿を表しておりお子様の健やかな成長を祈るものです。

これまでの成長に感謝しこれからの益々の成長を御祈願する七五三詣で、当神社ではこの様な授与品をお授けしております。(御守の付いた福笹・千歳飴(上の写真参照)・文房具などの入った御道具箱セット)女の子用

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男の子の御道具箱は青です。(内容はこんな感じ)

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是非皆さん七五三においで下さい。岡田宮一同心よりお待ちしております。G出仕でした。


夏休みの自由研究

2010年08月10日 09時17分34秒 | 日本の風習

昨日は久しぶりの降雨で、どうやら台風もじわじわ近づいている模様。こんにちわI権禰宜です。

さて夏休みですね。

夏休み・・・・といえば自由研究。

今まさに自由研究に取り組んでいる子供たちも多いのではないでしょうか?

本日はそんな自由研究について。

黒崎の街は江戸時代を通して宿場町として発展してきたのはこのブログで何度もご紹介しました通りです。当時の黒崎には大名が宿泊するような本陣から、一般の人々が宿泊する宿屋まで実に多くの宿泊施設が軒を連ねていました。

その黒崎宿にあった宿泊施設の一つに「櫻屋」という旅館がありました。

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今回その「櫻屋」を経営していた一族の子孫の方が、夏休みの自由研究で「櫻屋」について知りたいとの事ではるばる東京からお越しになりました。

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当社宮司より「櫻屋」および黒崎宿について説明を受ける子孫の方。

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「櫻屋」の離れ座敷は平成初期まで現存していたため比較的良く資料が残っております。まさに自由研究にうってつけですよね!

一通り宮司より「櫻屋」と黒崎宿について説明をうけると今度は引野小学校へ場所を移します。

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ここには解体された「櫻屋」離れ座敷の材木がいつの日か再建される時が来る時まで保管されています。なんでも近々再建されるかもしれないとか。

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どうでしょうか?充実した自由研究になったのでしたら何よりと思います。

神社や寺院には地域の歴史・文化が今でも息づいています。自由研究として各地の寺社を訪ねられるのも良い題材探しになるのではないでしょうか?

I権禰宜