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フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

7月6日(金) 曇り

2007-07-07 02:29:28 | Weblog
  授業の準備をしていたら家を出る時間がぎりぎりになり(午後1時半)、昼食をとる時間がなくなった。朝食はバナナを1本と牛乳を一杯。これで夕食まで持たせるのは辛いなあと思ったが、電車の乗り継ぎがうまくいき、若干の時間的余裕(とは言っても5分ほど)が出来たので、コンビニで購入したおにぎり2個をウーロン茶で飲み込んでから、大学院の演習へ。清水幾太郎が昭和18年に雑誌『思想』に発表した「現実の再建」を読む。「戦時中に書いた唯一の長いもの」と清水自身が言っている論文で、「昭和十七年末にビルマから帰国した私は、日本の敗北といふ予感を立証する材料を彼地でみて来たためか、また、明日をも知れぬ自分の生命と悟ったためか、慌ててこの一文を草したのであつた」と戦後になってから書いている。論文の末尾で、清水は祈りにも似た口調でこう書き記している。

  「人間は未完成の現実のうちに生きることによつて、これを次第に完成へ近づけて行くものである。如何なる場合にも人間は現実を眺める観客ではなく、舞台に上がつて何等かの役割を果たしてゐるのである。」

  6限の「現代人の精神構造」は田島先生の2回目の講義。「ニューエイジ」の話が中心。授業後、TAのI君と「秀永」で食事をして帰る。車中で大学院の演習で次回読む予定の「敵としてのアメリカニズム」(『中央公論』昭和18年4月号)に目を通す。10時、帰宅。風呂を浴びて出てきたら、ちょうど居間のTVでかかっていたハリソン・フォード主演の映画『逃亡者』(1993年)の最後の方だけを観る。もう15年近く前の作品で、いま日本で缶コーヒー「ボス」のテレビ・コマーシャルに出ているトミー・リー・ジョーンズが追跡側のリーダーで出演している。彼は1946年の生まれだから、『逃亡者』のときは47歳である。いまの私より若いわけだが、もっと年輩に見えた。現在は60歳だが、「ボス」のコマーシャルではもっと老けて見える。老け顔なのかな。

7月5日(木) 晴れ

2007-07-06 03:27:58 | Weblog
  今週は月曜日から大学へ出ているので、一週間が長く感じる。2限の社会学演習ⅠBの後、引き続き研究室でグループ相談。それが終わる頃に、現代人間論系の助手のAさんが、現代人間論系のホームページを大学のサーバーにアップして公開を始めましたと報告に来てくれた。比較的短時間で完成に漕ぎ着けたのは二文3年生のOさんの働き(TAとして)によるところが大きいが、Aさんもコンテンツ作成のめたのデータ集めに奔走してくれた。私の研究室に来たのは初めてで、本棚をながめて、「面白そうな本がいっぱいありますね、しばらく見せていただいていいですか。あっ、先生は私に構わずどうぞお仕事をなさっていてください」と言うので、実はこれから食事に出るところなのだともいえず、しばらく本の話につきあう。私が以前嶋崎先生と一緒に書いた放送大学の教科書『新訂 生活学入門:日常生活の探求』に興味があるというので、進呈することにした。Aさんは私の息子と誕生日が同じで、つい先日、2*歳になられたばかりなので、誕生日プレゼントみたいなものである。
  「五郎八」で揚げ餅蕎麦を食べ、それだけでは少しものたりなかったので、コンビニでヤマザキのランチパック(ビーナッツサンド)を買って帰り、研究室で食べた。直後にモーレツな眠気に襲われ、リクライニングチェアーで昼寝。一週間の疲れが、一日早めに出たような感じだ。
  帰りにあゆみブックスで以下の本を購入し、電車の中で読む。

  岸川真『フリーという生き方』(岩波ジュニア新書)
  梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(光文社新書)
  東浩紀・北田曉大『東京から考える』(NHKブックス)

  岸川真はフリーの編集者。最初からフリーであったわけではなくて、会社の都合で解雇されてフリーになったのである。

  「フリーという仕事はすっ裸です。会社という身を守る衣がない。
  そしてちっぽけです。大きくなにかを変える力には一人ではなれないから。
  そらにセコセコといつも忙しくしています。忙しくしていないと食べていけないからです。今こうして書いている最中も、ほかの仕事を四つ、かけもちでやっています。
  僕はそういう風に生きてきています。
  だけど、自由はあります。将来の夢を見ること。自分の思いを通すことができること。これは大きい。この二つのために生きているといっても過言ではありません。
  フリーというものは不自由の中の自由を生きていくことなのかもしれないな、と最近では思います。この本は、その生活のささやかなメモといっていいでしょう。僕もまだフリーになって十年も経っていない。明日をも知れぬ身です。だから、フリーで生きるとはこれなんだ、という法則はいっさい書けません。書いてあるのは、こういうことがあった、こうしたらよかったかもしれない、という僕の経験と反省です。」(頁)

  読んでいたらあっという間に蒲田に着いた。つまり、とても面白い本だということ。

7月4日(水) 小雨

2007-07-05 02:25:54 | Weblog
  大学へ向かう電車の中で非参与観察を行なう。非参与観察とは参与観察の反対で、観察する対象(この場合は乗客たち)にコミットすることなく(自分の存在が対象に与える影響を最小限に抑えつつ)観察する方法である。平たく言えば、車内の乗客たちをながめるということなのだが、漫然とながめるのではなく、彼らの立ち居振る舞いに何らかの特徴や傾向性を発見しようとして意識的にながめるのである(もちろん特定の個人を凝視するというようなのはNGで、あくまでも何気ない感じでながめるのである)。蒲田始発の電車だったので、つり革につかまって立っている乗客はほとんどなく、対面のシートに座っている7人の乗客(男性6人、女性1人)の様子がよく観察できた。着目したのは傘の持ち方・置き方である。シートに座ったときの傘の扱いというのは面倒なところがある。運よくシートの両端に座れれば、うまい具合に傘の柄を掛ける場所(手すりの部分の金属のフレーム)があるが、中間の席の場合はそれがない。今回、中間の席に座った5人のうち傘を持っていた人が4人いたが、4人とも太ももで傘を挟んでいた。こうすると両手が自由になり、本を読む(1人)、書類に目を通す(1人)、ケータイを操作する(2人)、という所作がしやすくなる。これらの所作は片手でもできないことはないが、両手を使った方が自由度が大きい(たとえば書類や本のページをめくる場合)。ただし太ももで傘を挟むことができるのは、傘があまり濡れていない場合に限られるだろう。びしょびしょの傘でそれをやったらズボンが濡れてしまう。傘が濡れている場合は、傘の柄の部分を両手ないし片手で握って、傘が身体に触れないように注意して(両足を広げてその間に、あるいは膝の前方に)傘を垂直に立てるであろう。それにしても、太ももで傘を挟んで座っている姿というのは、改めてながめていると、奇妙なものである。私はコテカ(ペニスケース)を連想してしまい、思わず吹き出しそうになるのをかろうじてこらえた。しかもその4人の乗客のうちの1人は女性なので、なにやら倒錯的な雰囲気さえ漂っている。・・・という話を3限の質的調査法特論で披露し(ただしコテカの話はしませんでした)、各自、どこか公共的な空間(車内、路上、公園、カフェ・レストラン、キャンパスなど)で非参与観察を行なってみて、来週の授業でその報告をするという宿題を出す。
  4限の卒論指導の後、生協戸山店で以下の本を購入し、教員ロビーで読む。教員ロビーには飲み物の自販機があり、ソファーがあり、ホテルのロビーのような趣があるのだ。

  橋川文三『昭和維新試論』(ちくま学芸文庫)
  『戦後占領期短編小説コレクション』2・4(藤原書店)

  夕方から、院生のAさんとTさんが研究室にやってきて、少しばかり話をしてから、食事に出る。最初、「秀永」をのぞいたのが、テーブル席が埋まっていたので、焼肉屋「ホドリ」に行く。ちょっと来ない間にメニューが多少変わったようである。お腹一杯食べてから、「カフェ・ゴトー」に場所を移し、おしゃべりを続けた。ひさしぶりで会うTさんからは興味深い話をたくさん聞いたが、ここでは書けないようなことばかりなのである。

7月3日(火) 曇り

2007-07-04 03:01:46 | Weblog
  今日は会議が3つ。昼休みに開かれた某会議には、予想通り、お弁当は出なかった。これは二重に労働基準法の精神に反している。第一に、休憩時間(昼休み)の剥奪であり、第二に、食事(昼食)の剥奪である。前者については、当方は9時から5時までというサイクルで働いているわけではないから、それほど目くじらを立てないが、後者については文句を言いたい。昼休みがつぶれても、3限が空いているのであれば、そこで昼食をとることができる。しかし、今日の私はその後も会議は立て続けに2つあって(基礎演習担当者懇談会、基本構想委員会)、昼食をとる時間がないのである。実際には、2番目の会議と3番目の会議の間のわずかの時間にミルクホールで購入したねじりパンと缶コーヒーで空腹を凌いだのであるが、残りの人生における有限の食事の貴重な1回をこのような貧しい食事で済ませてしまったことに忸怩たるものを感じる。
  学部再編もいい。大学院改革もいい。125周年事業もいい。でも、そのために教職員が心身をすり減らし、生活の風景、人生の風景が貧しいものになってしまったら、本末転倒ではなかろうか。たかが昼食のことからずいぶんと大きく出たなと言わないでいただきたい。神は細部に宿るという。
  帰りがけにあゆみブックスで、アンドレ・コント=スポンヴィル『資本主義に徳はあるか』(紀伊国屋書店)を購入し、電車の中で読む。

  「まず、なにが問題となっているかをはっきりさせておきましょう。私が「道徳の回帰」という言い方をするとき、あるいはメディアでそうした言い方がされるとき、それは、こんにち人びとが彼らの両親や祖父母の世代に比べてずっと道徳的になっているといったことを意味しているわけではありません。これは、本質的に言論のなかでの道徳の回帰なのです。それは、実際問題として人びとがいっそう徳にかなっているということではありません。人びとが以前にもまして道徳について語るようになったというであり、ことによると現代人のじっさいの行動のなかでじつのところ道徳は以前よりも貧弱になってきているからこそ、その分だけ道徳について語られるようになっているのだという仮説をたてることもできるかもしれません・・・。」(12頁)

  昨年度の「現代人の精神構造」における御子柴先生の授業を彷彿とさせる語り口である。グローバル化した資本主義社会における倫理の問題は、現代人間論系が取り組むべき基本問題の1つであろう。今日のお弁当問題も、食事というものを大切に考える人間と経費削減という大学本部の至上命令の衝突であり、「食いしん坊の倫理と資本主義の精神」として定式化することができる。

7月2日(月) 曇り

2007-07-03 03:04:37 | Weblog
  月曜日は大学に出ない日なのだが、今日は昼休みに現代人間論系の説明会があるので、出かけていく。集まった学生は60人ほど。まあ、こんなものかな。論系全体、および4つのプログラムの説明が中心。私は関係構成論プログラムの説明を担当した(私自身は人間発達プログラムの所属だが、御子柴先生は外国、長田先生は所用で出席できないため)。説明会の時間(45分)はあっという間に終わった。できればもっと学生の質問を受け、できればマイクを使わず、身近に話がしたかった。今日配布した論系の教員の自己紹介シートには、メールアドレスや研究室の場所が書いてあるので、ぜひ気軽にアクセスしてほしい。
  五郎八で食事(鴨せいろ)。あゆみブックスで、小玉武『「洋酒天国」とその時代』(筑摩書房)と田山花袋『温泉めぐり』(岩波文庫)を購入し、シャノアールで読む。自然主義文学の旗手、田山花袋は紀行文の名手でもあった。

  「温泉というものはなつかしいものだ。長い旅に疲れて、何処かこの近所に静かに一夜二夜をゆっくり寝て行きたいと思う折りに、思いもかけずその近くに温泉を発見して、汽車から下りて一、二里を車または乗合馬車に揺られ、山裾の村に夕暮の烟の静かに靡(なび)いているのを見ながら、そこに今夜は静かにゆっくり湯に浸って寝ることができると思うほど、旅の興を惹くものはない。それがもし名山に近く、渓流またすぐれた潺湲(せんえん)を持っていて、一夜泊まるつもりの計画がつい二日三日に及ぶというようなことも偶にはあるが、そういう時には殊に嬉しい忘れ難い印象を残さずにはおかない。」(11頁)

  私がしたくてできないものの一つがここにある。気ままなる旅というやつだ。花袋は若い頃から旅行癖があった、と自伝『東京の三十年』(岩波文庫)の中で書いている。

  「私には孤独を好む性が昔からあった。いろいろな懊悩、いろいろな煩悶、そういうものに苦しめられると、私はいつもそれを振り切って旅へ出た。それにしても旅はどんなに私に生々としたもの、新しいもの、自由なもの、まことなものを与えたであろうか。旅に出さえすると、私はいつも本当の私となった。
  百姓、土方、樵夫(きこり)、老婆、少女、そういうものはすべて私の師となり友となった。私は美しい世間を見た。またつらい世の中を見た。人間と人間との交際をも早く知ることが出来た。」(234-235頁)

  そんな花袋であったが、結婚してからはそうそう気ままな旅に出るわけにはいかなくなった。職場(出版社)の窓から空を眺めては旅への憧れを募らせる日々となった(ところが幸運なことに『大日本地誌』の編纂の従事することになって、仕事がらみではあるが、再び旅に出られるようになったのである)。花袋でさえそうなのだから、普通の大人にとって気ままなる旅なんて夢のまた夢だ。フランスはあまりに遠いからせめて新しい背広を着てきままなる旅に出てみようかと萩原朔太郎は詠ったけれど、あれも結局は気ままなる旅への憧憬の詩であって、実際に出かけたわけじゃないのだろう。憧憬Aを憧憬Bに差し替えただけのことだ。曲がったことのない街角を曲がったら、それはもう旅なのですと、永六輔は言った。これならなんとかいけそうな気がする。たとえいきつけの食堂であっても、まだ注文したことのないメニューを注文したら、それはもう旅なのです。これはいま私が思いついた台詞。食い意地が張っているか。じゃあ、これはどうだろう。まだ一度も話しかけたことのない人に話しかけたら、それはもう旅なのです。ナンパか。