6時15分、起床。パターソンみたいだ。
ロールパン、ウィンナー&エッグ、レタス、牛乳、紅茶の朝食。これはパターソンとは違う(彼はシリアル)。
コンビニにパンを買いに行ったときついでに購入した雑誌。
私はコーヒーも紅茶も飲むが、朝は紅茶と決まっている。格別の理由があるわけではないが、あえていえば透明感の有無かもしれない。ランチの後はコーヒーが多く、スイーツと一緒のときは紅茶が多い。夜更けに単独で飲むのはコーヒーと決まっている。
昼食は肉まん・あんまん。買い置きして冷凍保存している中村屋の中華まんをせいろで蒸して食べる。ワンパック4個入りで、私があんまん2個と肉まん1個、妻は肉まん1個でよいという。食べる順番は、あんまん、肉まん、あんまん。甘→辛→甘である。もし、あんまん1個と肉まん2個であれば、肉まん、あんまん、肉まんとなる。要は同じものを続けて食べない(飽きるから)ということである。ただし、この順番は必ずしも万人共通ではないであろう。一般化していえば、AAB、ABA、BAAの3パターンがあるわけで、私はABAだが、AABというのは好きな方を(あるいは嫌いな方)を最後に残しておく人であり、BAAは好きな方(あるいは嫌いな方)を最初に食べる人である。
食後の散歩に出る。
「銀だこ」に併設されている「銀だこハイボール酒場」なるものは、何か飲み物を注文しなくとも、タコ焼きのイートインコーナーとして利用できるのだろうか(そうだと便利なのだが)。
今日は読みたい本があるので「ルノアール」に入る。
昨日購入した黒井千次編『「内向の世代」初期作品アンソロジー』(講談社文芸文庫)。
「内向の世代」とは、1971年5月に、評論家の小田切秀雄が東京新聞に「現代文学の争点」と題する評論を発表したさいに用いた言葉だが、本書所収の作品を書いた古井由吉、後藤明生、黒井千次、阿部昭、坂上弘ら当時30代の新人作家たちを指す言葉としてその後流通していった。文学史的にいうと、「戦後派」「第三の新人」のあとに続く世代である。1970年代初頭といえば、私は高校生であったが、「内向の世代」の作家たちの作品を読んだ記憶はない。関心もなかったように思う。当時、私が読んでいたのは、庄司薫、北杜夫、星新一、そして志賀直哉の作品だった。総じていえば青年を主人公にした小説だった。「内向の世代」の作家たちの書くような大人(社会人)を主人公にした作品には興味がなかった。
いま改めて「内向の世代」の作家たちの作品を読んでみようと思ったのは、戦後の日本における「個人化の過程」を考える上での資料となるのではないかと考えたためである。小田切が「内向の世代」という言葉を使った時、そこにはあきらかに批判的なまなざしがあった。社会的・政治的な関心が希薄で、ひたすら個人的生活の内部に探究の方向が向けられているという意味合いがこの言葉には込められていた。しかし、『新潮日本文学辞典』(1988年、増補改訂版)の「内向の世代」の説明(担当したのは磯田光一)はむしろ「内向の世代」を擁護する調子のもので、「批判された側の作家たちは、直接的な社会批判を断念した地点から、私的な感性に即して時代をとらえようとしていたわけで、小田切がマイナスとみたものをプラスに生かす方向に作家は向かった」としている。具体的にどういう方向かといえば、「古井由吉における肉親関係の陰影や土俗的領域のとらえ方、黒井千次における都市社会の不安の感触、後藤明生における団地生活の描き方などは、高度成長の生んだ社会変動を感性的にとらえ、彼らの文学の特徴となった」ということである。
「ルノアール」では、後藤明生『私的生活』(1968年の作品)を読んだ。400字詰原稿用紙にして100枚程度の中編小説である。本書に収められた他の作家の作品も同じような長さのもので、選者の黒井によれば、「このあたりの長さが、あの頃の自分達にとってはもっとも書きやすい自然と感じられる長さであったように思う」とのことである。100枚といえば、文系学部における卒論の標準的なボリュームであるが、これと何か関係があるかもしれない(思いつきです)。
「内向の世代」にふさわしいタイトルの作品ということで最初に読んだわけだが、驚いた、その文章の質の高さに。格調の高いことが書かれているわけではない。 主人公は出版社に勤務するサラリーマンで、公団住宅に当選して妻と子どもの3人で団地暮らしを始めたばかりである。結婚前に2人の女性と関係があり、それは彼の結婚後もしばらく続いていたが、いまはそれぞれに結婚をし家庭に収まっている。物語は、日曜の夜、主人公がNHKの大河ドラマを観ているときに「ダイニングキッチンに置いてある電話が鳴った」ときから始まる。「もしもし、ご主人はいらっしゃいますか?」その電話はいつも妻がとる(そういう時間帯にかかってくるのだ)。「いいえ、まだ戻っておりませんが」あるいは「はい、おりますが」と妻が答えたところで電話はプツリと切れる。そういうことが何度も繰り返されるようになる。電話の声は女の声であったり、男の声であったりする。当時は、固定電話が一般家庭に広く普及するようになった時代だが、どこの誰から掛かってきたのかはわからないままにとにかく電話が鳴ったら受話器をとらなくてはならないという電話というメディアの暴力性と不気味さが導入部分でうまく使われている。物語は、以後、この電話をかけてきたのは誰なのか(おそらく関係のあった女性およびその夫であろう)という疑問をめぐる主人公の推測ときに妄想に沿って展開していくわけだが、それは同時に自分自身との対話であり、自己省察といえるものになっている。
非常に読み応えがあり、もしこれがいま芥川賞の候補作となれば、間違いなく受賞するだろうといえるほどの文章力である。調べてみると、『私的生活』は1968年上半期のに芥川賞の候補作だった。しかし、受賞はしなかった(そのときは「受賞作なし」だった)。次の1968年下半期にも後藤は別の作品で芥川賞の候補になったが、やはり受賞はしなかった(そのときの受賞作は庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』だった)。おそらく彼が(彼に限らず「内向の世代」の作家たちのほどんどが)芥川賞を受賞しなかったのは、文章力のためではなく、「内向的」な作風のためだったのではないだろうか。「内向的」であることを評価しない空気が当時の文壇(の一部)にあったのではないだろうか。
「内向的」であることを評価しない空気は文壇だけでなく、学校現場にもあった。私は小学生のとき成績表の通信欄に(担任から)「内向的で友だちが少ない」と書かれたことがある。「余計なお世話だ」といまなら思うところだが、なにしろ子供だったから、自分の短所として素直に受け止めた。「内向的じゃいけないんだ」「友だちはたくさんいないといけないんだ」と思った。かわいそうに。当然のことながら、学校現場で評価されないことは、労働現場でも評価されないだろう。「内向的」な子どもたちは自分の将来を暗澹たる思いで展望せざるをえなかった。
夕食用に「ちよだ寿司」で巻物を主に買って帰る。
妻と六四くらいの感じで分け、それに私は汁代りに「赤いきつね」を付けた。
複合ラージヒルをテレビ観戦。観戦しながら食べるものを買い込んで臨んだが、結果は残念なものだった。渡部個人vsドイツ軍団という厳しい戦いであった。
2時、就寝。