フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2003年2月(前半)

2003-02-14 23:59:59 | Weblog

2.1(土)

 二文の卒業記念誌「d」から依頼されていた原稿を書いて、編集者にメールで送る。

 

「1977年の三角ベースボール」

 僕が大学を卒業したのは、いまから26年前、1977年の3月だった。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」や狩人の「あずさ2号」が巷に流れていた。上野発の夜行列車に乗って、あるいは八時ちょうどのあずさ2号に乗って、東京=都市的日常から旅立つというセンチメンタルな行為に人々は憧れを感じていた。そういう時代だった。

 大学を卒業した僕は、4月から新たに所属する集団を持たなかった。大学院の入試に落ちたからである。もとより就職活動はしていなかった。僕はすでに大学生ではなく、しかし、他の何者でもない、ただの22歳の潜在的失業者だった(顕在的失業者になるためには求職活動という条件が欠けていた)。客観的に見れば、明るい材料は何もなかったが、僕は元気であった。これから一年間、思う存分、自分のペースで勉強ができると思うと、身体中にエネルギーが充ちてくるのがわかった。人生というものにあれほど楽観的であった時期を僕はほかに知らない。

 それからの1年間の僕の生活は実にシンプルなものだった。朝7時起床。庭先で縄跳びを中心とする運動で汗を流し、シャワーを浴びて、朝食。午前9時から午後3時まで、電車で2つ目の駅の側にある図書館で勉強(昼食は駅の立ち食いそば)。それから夕方まで、出身高校のバドミントン部で後輩の指導にあたるか、練習のない日は街の将棋クラブで将棋を指す。夕食後は、9時から12時まで勉強。そして就寝。僕はこの「自宅」→「図書館」→「バドミントン部or将棋クラブ」→「自宅」という三角ベースを、映画『サード』の主人公のように、毎日走り続けた。そして翌年の春、僕は大学院に入学し、将棋の有段者になり、将来の妻となる18歳の女の子とバドミントン・コートの上で出会った。僕にとっての1977年はそういう年だった。

みなさんの2003年に、グッド・ラック!

 

2.2(日)

 今月から、日付の新しいものを一番上に置くことにする。繰り返しアクセスしていただいている方のためにはやはりその方が親切だろう。(ただし、バックナンバーは従来どおり各月の1日始まり)。

 

2.3(月)

 卒論口述試験(10本)。今日の分で一番面白かったのは二文のIさんの卒論。田山花袋『蒲団』から江國香織『きらきらひかる』まで5本の小説をセクシャリティの視点から論じたもので、斉藤美奈子の評論と似たタッチの作品。Iさんは4月からJR系の食品会社に勤務するとかで、6月から品川駅構内のコーヒーショップで現場デビューするそうだ。「文筆とは全然関係ない職場で・・・・」と彼女は言うが、村上春樹はカフェバーを閉めた後の時間にデビュー作『風の歌を聴け』を書いたのだし、ヴィットゲンシュタインは第一次世界大戦の塹壕の中で『論理哲学論考』を書いたのである。書きたい気持ちさえあれば人はどこでも書けるものである。

 

2.4(火)

 金城一紀の新刊『フライ・ダディ・フライ』を読む。47歳の男が高校生の娘の信頼を取り戻すために闘う話。身につまされる話です。金城の文章は達者で、さすがに直木賞作家という感じ。ちなみに彼は今回もう一冊『対話篇』という短編小説集を同時出版した。『フライ・ダディ・フライ』を動とすれば、『対話篇』は静らしい。面白い試みだ。

 

2.5(水)

 自宅の無線LANの調子が悪い。あれこれやっていたら余計に悪くなる。しかたない、また業者の世話になるほかはない。出張費8千円、パソコン2台の設定費1万円、計1万8千円の出費だ。やれやれ。現代人の生活は依存のシステムで、お金がある限りにおいて維持されるが、お金がなくなったらアウトである。(後記:数日後、自然に復旧した。一瞬、1万8千円得した気分になったが、これからも常に不安を抱えながら使っていかなくてはならないというのはいい気分ではない)。

 

2.6(木)

 社会学研究10のテストの採点を始める。1時間で25枚として、全部で250枚あるので(学籍番号順に並べるだけで1時間かかった)、10時間はかかる作業だ。小説を10時間続けて読むことはできるが、答案を10時間続けて読むことはできない(絶対に頭がおかしくなる)。2、3日の仕事になるだろう。

 夕方から早稲田駅側の「つぼ八」で二文の基礎演習クラスのコンパ。冒頭、幹事のWさんから花束の贈呈を受ける。なんだか謝恩会みたいだ。

 長嶋有の新刊『タンノイのエジンバラ』(文藝春秋)を読む。奥行き感じさせる文体はやはり芥川賞作家のものだ。ちなみに「タンノイのエジンバラ」とは、「タンノイ社製のエジンバラという商品名のスピーカー」の意味で、「ソニーのウォークマン」というのと同じとのこと。あっ、そうなの。私は知らなかった。「タンノイ」というのはベトナムあたりの町の名前で、「エジンバラ」というのは人の名前かなと思ってました。

 

2.7(金)

 自宅にADSLを引いてからネット(Amazonやbk1)で本やCDをよく注文するようになった。注文して数日で商品が届く上に、送料が無料ときているから、ついつい商品をカートに入れて購入ボタンをクリックしてしまう。一般の書店やCDショップに置いてある本やCDは流通している本やCDのごく一部でしかない。散歩がてらに書店やCDショップをのぞく楽しみはこれからも私の生活からなくなることはないと思うが、購入ルートは大きくシフトしていきそうな予感がする。今日は妻の依頼で『魔法使いハウルと火の魔法』と『アラブダと空飛ぶ絨毯』という2冊の本をAmazonで注文した。代金は私のJCB早稲田カードから落とされるので、現金3360円をその場で妻から徴収する。「24時間以内の発送」とあったから、妻は明後日の日曜日にはこのハリーポッター風のタイトルの2冊の本を受け取るだろう。そして趣味室(妻の部屋)に一日中こもって最初の1冊を読破し、おかげで我が家の夕食の献立はあまり手のかからないものになるだろう。

 

2.8(土)

 研究室で「社会学研究10」のテストの採点をやっていたら、事務所の学務係のY氏から成績評価を一刻も早く出すようにとのメールが入る。すぐに「いまやってます。すいません。」という蕎麦屋の出前みたいなメールを返す。

 夜、DVDで『少林サッカー』を見る(人生には息抜きが必要なのだ)。いや、なかなか面白い映画です。何よりも娯楽作品に徹しているところがいい。饅頭屋の娘役の女優が美形なのには驚いたが、その彼女が、決勝戦で、ピンチヒッター(いや、ピンチゴールキーパー)で登場し、敵の火の玉シュートをやんわり捌いてしまったのにはもっと驚いた。

 

2.9(日)

 やっと「社会学研究10」のテストの採点が終わる。250名中、一番多いのは「C」評価で82名(33%)。「A」評価は51人(20%)だった。これって普通なのだろうか、厳しいのだろうか。まさか甘いってことはないよね。ぜひ一度、教授会のときにでも、全科目の成績評価の度数分布のデータを見せてもらえないだろうか。そうすればみんな自分の評価法というものを再考するいい機会になると思うのだが。ところで明日は何か手土産持参で事務所に出向かなくてはならないだろうな。「本高砂屋」のどら焼きがいいかもしれない(たんに自分が好物だからですけど)。

 

2.10(月)

 大学院の博士課程の一次試験(専門と外国語の筆記試験)の日。試験というものは嫌なものである。合格する人がいれば落ちる人がいるのは試験というものの性質上しかたのないことだが、その判定に自分が関与するとなると「しかたのないこと」とあっさり割り切れないものが残る。昔、私は修士課程の試験で落ちた経験がある。学部のときの専修(人文)とは違った専攻(社会学)を受けたのだからしかたがない・・・・というのが当時の自分に対する釈明であったが、もし2年目も落ちていたら、どうしていたであろう。いまでもよく覚えているが、2年目の英語の試験の文章はチャーチルの肖像画についてのものであった。チャーチルの死後、遺族が彼の肖像画にクレームをつけて云々という内容であったが、私はその話なら「ニューズ・ウィーク」を読んで知っていた。試験の文章は「ニューズ・ウィーク」の記事とは別のものであったが、それでも話の大筋を知っていることは大変に有利なことであった。もし別の文章であったら、というのはあまり意味のある仮定ではないかもしれないが、私は早稲田大学ではなく明治学院大学の大学院(すでにそちらは合格していた)へ進んでいたかもしれない。そしていまごろはあの白金台にある小奇麗なキャンパスで教鞭をとっていたかもしれない。授業の合間に近くのケーキの美味しい喫茶店で本を読むのを習慣にしていたかもしれない。う~ん、それも悪くなかったかもしれない・・・・と、私は自分が歩いたかもしれない「別の人生」を能天気に空想するのであった。

 

2.11(火)

 英文学専修の安藤文人先生はこのフィールドノートをときどきご覧になっているようで、昨日、大学院の入試の採点をしているときに私に声を掛けてきて、「試験の採点結果は2月3日が締切なのに、2月6日から採点を始めてちゃだめじゃないですか」と言った。彼は私が二文の教務主任をしていたときの一文の教務主任で、いわば戦友のようなものである。彼の恩師は小沼救先生(故人)だが、作家の小沼丹と言ったほうが話が通じやすいだろう。私は小沼丹の大ファンである。えっ? そんな作家知らない? まあ、しかたないですね、素人受けするタイプの作家ではありませんから。古本屋の主人には彼のファンが多い。たとえば神保町の田村書店のご主人奥平晃一さんは「私の店に来る人で小沼丹を知らない人がいたら、本なんか読まない方がいいと思うくらいです」と言っていた。う~ん、よくぞ言ってくれました。たとえば、私は村上春樹のファンで、彼の小説は全部読んでいて、新刊が出るとすぐに買って、『海辺のカフカ』のような長編であっても翌日までには読んでしまうのだが、そういう私でも、「小沼丹と村上春樹、どちらが好きか」と聞かれれば、「小沼丹」と答えるだろう。とにかく味わいのある文章なのだ。学部の学生の頃、彼の『椋鳥日記』(1974年)というロンドン滞在記を、毎晩、寝床で寝酒を味わうように少しずつ読んだことが思い出される。現在、彼の文章を読もうと思ったら、みすず書房の「大人の書棚」シリーズの中の1冊、『小さな手袋/珈琲挽き』がよいだろう。これは弟子の庄野潤三が小沼の二冊のエッセー集『小さな手袋』(1976年)と『珈琲挽き』(1994年)から編集したものである。私は前者は単行本で持っているのだが、後者はうっかり買い忘れてしまった(現在は品切れ)。昨日、そのことを安藤先生に話すと、ニヤリと笑って、「私はもちろん持っていますよ。ウン万円でどうですか」と言った。実際は「ウン」の部分は具体的な数字が入るのだが、安藤先生の品格を貶めることになるので、あえて「ウン」と表記しておく。小沼丹の弟子にもいろいろな人がいるものである。[後記:このフィールドノートを読まれた安藤先生から、庄野潤三は小沼丹の弟子ではなく友人であるとの指摘を受けた。]

 

2.12(水)

 今期のTVドラマは低調である。木村拓哉主演の「グッド・ラック」は見るに堪えず、松嶋奈々子主演の「美女か野獣」も2回で飽きた。今期、欠かさず見ている唯一のTVドラマは草彅剛主演の「僕の生きる道」である。

 

2.13(木)

 教員ロビーのドアを出たところでロシア文学専修の草野慶子先生とばったり合う。すると、彼女、何を思ったか、いきなり「今年はチョコレートはさしあげませんから」と言った。その一言で、ああ、明日はバレンタインデーだったなと気づく。しかし、それにしても、わざわざ「あげません」と宣言することはないでしょう。確かに去年と一昨年はチョコレートをいただきました(私だけでなく、一文・二文の教務全員に)。しかし、今年はもう教務の任期は終わったのだから義理チョコは差し上げません、という宣言なのであろう。私が、「はあ・・・・」と唖然としていると、彼女、「今度、また美味しいものを食べにいきましょうね」と言って立ち去った。帰宅すると、娘が妻に手伝ってもらいながらクッキーを焼いている。明日、学校にもっていくのであろう。娘の許しを得て一枚食べてみると、けっこう上手に出来上がっている。続けて数枚食べる。嬉しいような、悔しいような気分だった。

 大学からの帰りに「あゆみブックス」で買った『坂崎幸之助のJ-POPスクール』(岩波アクティブ新書)を読む。THE ALFEEの一員である坂崎幸之助が自らの音楽人生を語った本。彼は私と同じ1954年の生まれで、誕生月も一緒(4月)である。彼は東京都墨田区の出身で高校は都立墨田川高校、私は東京都大田区の出身で高校は都立小山台高校と、生まれ育った環境も似ている。私たちは同じ時代に同じような場所にいて同じような歌を聴いて育ったのである。そして彼とは比べるべくもなく低いレベルではあったものの、私も彼と同じようにフォークギターを弾き、自分で作詞作曲をした歌を歌っていた(恥ずかしいことに、それをテープに吹き込んで、遠くの町の学校へ転校していく女の子にプレゼントしたりした!)。だから、たとえば、彼がフォーク・クルセダーズや岡林信康や五つの赤い風船などについて語る言葉のひとつひとつが、私にはよく理解できる。そう、そう、あの頃はそういう時代だったねと。

 

2.14(金)

 D.エドモンドとJ.エーディナウの『ポパーとウィットゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』(筑摩書房)を読み始める。本当は今月末締切の原稿にそろそろと取り掛からねばならないのだが、そういうときに限ってこの種の本が読みたくなる。この本は訳者がいうように三通りに読むことができる。第一は「ウィーン出身の哲学者、ルートヴィッヒ・ウィットゲンシュタインとカール・ポパーの二重評伝」として。私は評伝を読むのが好きである。第二は「群雄割拠する二十世紀前半の哲学界をえがく、ぜいたくな絵巻もの」として。大学院の演習で読んでいる清水幾太郎の『倫理学ノート』に登場するケンブリッジの面々がここにも登場する。そして第三は「ウィーンとユダヤの民の近現代史」として。ウィーンという都市は、シカゴという都市が社会学において占めているような重要性を、現代思想において占めている

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