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フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月17日(火) 曇り

2008-06-18 02:21:45 | Weblog
  今日は曇天で湿気がある。梅雨っぽいが、雨は降らなかった。土俵際ぎりぎりで堪えた感じだ。昼から大学へ。3限の「現代人間論系総合講座1」は今週と来週が心理学の大藪先生の担当。テーマは「育児不安」。先週までの文学作品を素材にした(安藤先生・草野先生による)講義とはガラリと趣を異にするが、乳幼児と母親の関係は、子供のパーソナリティー形成という点からも、成人女性のパーソナリティの安定という点からも、重要な問題を含んでおり、この総合講座のテーマ「現代人の精神構造」にふさわしいものである。今回の講義は、今日の午前中までパワーポイントの資料に手を入れていたそうだが、構成が巧みで、論旨が明快で、資料映像も興味深いものばかりで、時間も過不足なく終わる、見事なものであった。今日も熱心に聴講されていた安藤先生も感心しきりだった。
  雑用を一つ片付けてから、遅い昼食をとりに「フェニックス」へ。腹ペコだったが、今夜は会食の予定があるので、サラミのピザと珈琲にする。持参した『近代評論集Ⅱ』(日本近代文学大系58、角川書店)所収の「白樺論争」関連の4本の評論に目を通す。「論争」というのは面白い。そこに論者それぞれの文学観、人間観、社会観、そして文章の腕前が反映されているからだ。

  「雑誌と云へば、今日の日本の文藝雑誌の中で、僕は「白樺」が一番好きだ。創作にしろ評論にしろ、早稲田や三田や帝文などの、とても及ばぬ新味と深味とがあるやうだ。/白樺の人達は貴族の坊ちゃんと云はれるのが何よりも嫌いだと云ふ。しかし事実は事実に違いない。そして僕は此の事実から、あの人達の行動を少なからざる興味を以て見てゐる。/由来貴族は、物質的にも精神的にも、そして善い意味にも悪い意味にも、社会の道化者として大役を勤めたものである。・・・(中略)・・・白樺は此の貴族の血を受けて、そして一面に於て父祖からの悪弊に反抗すると同時に、他面に於て成上がりのブールジョワジーに反抗する、若い貴族の人達から成る。/僕等は白樺を見るたびに、いつもトルストイやクロポトキンの少年期を想う。トルストイやクロポトキンは、白樺の連中のやうな若い貴族が、更にもう一つ改宗した人ぢやあるまいか。」(大杉栄「座談」大正1年)

  「雑誌「白樺」の第一巻第一号が生れたのは、今から六七年以前のことである。当時のわが文壇は自然主義跳梁の後を享け、あらゆる方面に新機運の動きつつある時代であつて、・・・(中略)・・・この新機運を享けて、白樺派の諸活動が一種の人道主義的傾向を辿つたことはかなり興味に値する事実であつて、予はこれを人生の否定乃至人生の回避に基づく自然主義的人生観及び享楽主義的人生観に対する反動として解釈したい。」(赤木桁平「白樺派の傾向、特質、使命」大正5年)

  「そもそも白樺派のもつてゐる善いところとは何であるか。/それは白樺派の連中自らが、並びに彼等に雷同的の共鳴をしてゐる連中が、彼等の善いところとして数へ立ててゐるものの中から、私がここに彼等の悪いところとして指摘するものを控除し去つた残余であると思へばよろしい。/所謂白樺派のもつてゐる悪いところとは何であるか。精一杯手短な言葉に代表さして云へば、「お目出度き人」と云ふ小説か脚本を書いた武者小路氏のごとく、皮肉でも反語でもなく、勿論何等の漫罵でもなく、思切つて「オメデタイ」ことである。/・・・(中略)・・・彼等は彼等自らのオメデタイことを誇りにしてゐる。そして彼等のオメデタイのは、トルストイやドストイエウスキイなぞのオメデタイのと同じ意味に於てオメデタイのだと自惚れてゐる。まことにいい気なものである。/・・・(中略)・・・所謂白樺派の人生の肯定は、何の造作もなく、ただナイイヴに、ただオメデタク人生を肯定してゐるのである。彼等の肯定に意義がないのは、彼等がその前に必要な手続きとして一旦人生を否定して来てゐないからである。」(生田長江「自然主義前派の跳梁」大正5年)

  「僕は自分で自分を「お目出たい」と云つた。しかしそれは世間をからかつて云つたのは分り切つたことだ。世間は僕をお目出たく思ふだらう。長江氏のやうに、その上氏は世間と同じ考へをもつてゐる。しかし見よお目出たく思ふ僕こそ、実は本当の道を歩いてゐるのだ。自分はそのことを事実によつて示せることをあの時から知つてゐた。それで当時一番人にいやがられる名、「お目出たき人」「世間知らず」と云ふ名をつけたのだ。生田長江氏も知つてゐるであらう。当時は浅薄な人間が如何に深刻がりたがり、馬鹿な人間が利口がりたがり、深い経験もない人間がどんづまりの経験した顔をしたがつたことを。そんな顔をしなければ文壇に生きてゆかれなかつたことを。そして世間からそれに同感されるのを笑つてゐたのだ。今時になつて読みもしない長江氏がその題をとつてよろこんで僕をからかうのは、五六年おくれて僕の落とし穴におつこつたようなものだ。」(武者小路実篤「生田長江氏に戦を宣せられて一寸」大正5年)

  これらの評論を読んでいてて気づいたことだが、「白樺」論争においては武者小路実篤が「白樺」を代表する人物として扱われていて、志賀直哉と里見の二人はその文体の巧みさにおいて、無技巧ないし非技巧を特徴とする白樺派の作家たちの中で、別格扱いをされていたということである。この点は白樺派礼賛者も白樺派批判者も同じである。志賀直哉崇拝(小説の神様!)の源流はこのあたりにあるのだろうか。生協戸山店で、武者小路実篤『お目出たき人』(新潮文庫)を購入。
  夕方から、安藤先生、兼築先生、草野先生、宮城先生たちと立川の蕎麦屋「無庵」へ出かける。兼築先生ご推薦の店で、雰囲気のある、いい店だった。立川へ行ったのは初めてである。私の行動範囲は吉祥寺かせいぜい三鷹あたりまでなので、ずいぶんと遠くまで来たな(あと数駅で八王子だ)という感慨があった。帰りは立川から南武線に乗って川崎経由で蒲田へ。南武線に端から端まで乗ったのも初めてであった(55分かかった)。ずっと立ち通しだったらつらかったと思うが、二つ目の駅で目の前の座席の人が降りて、座ることができた。蒲田に着くまでに『お目出たき人』を読み終えようと思ったが(そのために生協で購入したのだ)、文庫本を鞄から取り出す前に眠気に襲われてしまった。