<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

除夜の鐘が鳴り出すだろう、そろそろ

2017年12月31日 23時34分59秒 | Weblog

日本全国の大寺小寺から除夜の鐘が鳴り出すだろう、そろそろ。108の煩悩を清浄ならしめんとして。煩悩を除去除外することは出来ぬが、中身を転じて変身変換させることはできるだろう。六根清浄六根清浄六根清浄。

このブログ「おでいげにおいでおいで」にお付き合いくださいました読者のみなさん、この1年のご愛顧を感謝申し上げます。有り難うございました。お世話になりました。

まもなく新年を迎えます。皆さま方それぞれの目出度い1年が自ずからにして明けます。その自ずからを共々に慶びたいものです、手始めに。

お正月に相応しい清浄たる満月が輝いています。ほんにほんに美しい。吉兆吉兆。輝かしい1年の到来を予感させます。

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なんだろうなあ、この貧乏この貧乏人根性は

2017年12月31日 20時19分28秒 | Weblog

やっぱり草取りをして午後を過ごした。白菜の畝の間の草取りをした。コソコソコソコソと。北風の吹き荒れるのもまったくお構いなしに。でも鼻水たらたらに零しながら。日暮れ近くまで。なんだろうなあ、この貧乏人根性は。黙っていられない。ゆっくりしていられない。草山までせっせせっと抜いた草を運んだ。

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ショートエッセー「判官贔屓」 第三回

2017年12月31日 10時56分17秒 | Weblog

弱者は他者にこの世での優位を譲って生きている。これはたしかに強さだ。

やれやれ判官贔屓をしてしまった。小雨が止んで陽射しが生まれている。

ここまでの原稿は一度前にも取り上げたことがあった。弱者として屈辱をなめてきた者は、己の悲哀の色を、ときどきこうして塗り替えてみたくなる。小さな抵抗か。

穏やかな年末大晦日だ。弱者でいい。強者でなくともいい。そういうふうに自分を慰めてみる。一年の最後の一日が過ぎて行く。

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ショートエッセー「判官贔屓」 第二回

2017年12月31日 10時54分57秒 | Weblog

だからスタート時点での弱者がゴール地点までこれを引き摺るとは限らない。踏まれて立ち上がる経験を積むことができる。
 強者、弱者の判定はこの世のゴールの後、来世に持ち越しと言う場合もあるだろう。 
 弱者はこの先に強者になれる可能性を残しているが強者は、今を最高位と見做している。この世にいる間は屈辱屈辱に馴染み、忍耐忍耐に甘んじたお陰で畢竟、学ぶことが多く与えられるということもある。生きている間にどれほど大切なことを学び得たか、これこそが最重要事項かもしれない。

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エッセー「判官贔屓」  第一回

2017年12月31日 10時33分05秒 | Weblog

「判官贔屓」

 強い者は強くしていないと生きられないほどに弱いが、弱い者は弱くしてでも生きていけるほどに強い。とすれば強者と弱者が覆る。見た眼だけでの断定が危うくなる。
 この論を押せば、めそめそしている人間が強く、勇気がない人間、落胆に沈んでいる弱者が実は強いということになる。強者に抗えないで引き下がってばかりの弱者の方が、奥の奥では強いということになる。
 強い者は弱さ体験に乏しい。たしかにここに弱さがあるかもしれない。踏まれていない。
弱者は踏まれて踏まれて育ってくる。

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ショートエッセー「烏の勘三郎」 第二回

2017年12月31日 09時49分55秒 | Weblog

 一方で犯しがたい面も備えていて、古来、熊野の神の使いとして崇められても来た。奥深い森には烏天狗が棲み着いている。烏の鳴き声、鳴き方でその日の吉凶を占ったりして、嘗ては暮らしに浸透していたようだ。
 年を取って目尻にできる細い皺のことを「烏の足跡」と呼ぶ。黒艶のある髪は「烏の濡れ羽色」をした「烏の髪」とも言う。「烏の行水」はすぐに湯から上がって来る人のこと。昔の人は、「口がうるさい人」「物忘れをする人」「意地の汚い人」を「烏」と呼んだ。今のわたしに当て嵌まる。だったら同類だ。
 ただし、烏は親孝行をする鳥で、成長した後でも親鳥に餌を運んで来て食べさせるところがあるらしい。育ててもらった親の恩を忘れない。ここは偉い。烏にも美点がある。
 因みに「烏の勘三郎」は親しみを込めた愛称である。心優しかった頃の日本人の。

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エッセー「烏の勘三郎」 第一回

2017年12月31日 09時47分17秒 | Weblog

「烏の勘左右衛門」
     
 雨。雨雲を掻き分けるように烏の大群襲来。曇り。電線に長蛇の列。晴れ。次々と無花果を掠め取って行く。サイクリングをしていると橋の両側の欄干に待機しているのは獰猛な目つきの大集団。襲いかかるのではないかと身構える。一人だと勝てそうにない。があがあがあと喚き立てる。人を食っている。多勢に無勢。鐘太鼓を打ち鳴らしたぐらいでは脅せない。日本にはハシブトガラスとハシボソガラスが棲息している。雑食性雑伎団。

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可愛い子分たちがしてくれていることだけど

2017年12月31日 05時35分02秒 | Weblog

2017年12月31日、今日は。今、夜明け前の5時35分。おいらは息をしている。寝ながら息をしている。同じことを365日もしてきた。懲りもせずに飽きもせずに。

静かに吸ったり吐いたりしている。胸が膨らんで高くなったり、低くなったりしてもいる。酸素を吸って血液に供給する仕事、それを燃やして全身を新しくし、あたため、炭酸ガスを排出する仕事を、実に無造作にあっさりやってのけている。

無造作にあっさりとは見事だなあ。偉いもんだあ。といってもみな細胞という60兆の、可愛い子分たちがしてくれていることだけど。彼等はみな無言。ひたすら無言の奉仕活動。たまにはお礼の一言くらいは言わなくちゃならないなあ。

恐い顔をして一人で生きているような目つきばかりしてちゃ、申し訳ないなあ。そりゃあんまりだよなあ。空威張り大威張りの装甲を崩すにはよい日、大晦日。12月31日、今日は。

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箒目を立ててぐるり一周の小径の 掃き掃除をした

2017年12月31日 05時17分22秒 | Weblog

昨日は午後から老爺は畑に出た。お正月に食べる分のフカネギを堀り上げた。椅子に座ったまんまスコップを使って。そこを平らにして土作りをしておいた。それから家の周囲をぐるりと囲む小径の草取りをした。そして箒目を立てて周り一周の掃き掃除をした。箒目がキレイについた。清々しくなった。日が暮れた。灯りの下で、フカネギの土を落とし鬚根を切り落とし、揃えて水洗いした。雑煮に加える幼い高菜を引いたりもした。年中怠け者の老爺なのに、それにしてはよく働いた。

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指をくわえて眺めているだけでいいんだものなあ

2017年12月31日 04時46分41秒 | Weblog

もうすぐ午前5時。山里の夜は静かだ。どんな物音もしない。音も凍て付いている。

今日は大晦日。1年が終わる。よくもまあ死なずに、しぶとく生きれたもんだ。お加護お加護お加護お庇護だったんだろうなあ、さぞかし。数え切れないほどの莫大御苦労をおかけしたことだろうなあ。御苦労をおねぎらい申し上げます。

終われば始まる。不思議なもんだなあ。よくできたもんだなあ。終わったら終わったままじゃないものなあ。死んだと見せて生き返る復活劇を見事に演じきって見せてくれるお正月さまたあすげえや。

新しくもなるものなあ。新しい勢いすら加えて動き出すとはさすがだなあ。人知人力くらいではこうはいかなかったことだろうなあ。賞賛するに値するから、お賞でとうございますの言葉を発するのだろうなあ。閉じて開くというこの大きな大きな仕掛けを、こっちは指をくわえて眺めているだけでいいんだものなあ。

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