<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

あの人は菜の花

2008年02月26日 11時23分12秒 | Weblog
「あの人」というのはとてもいい響きだ。
菜の花の匂いがする。
わたしは菜の花に誘われていく。
誘われていく蜜蜂になる。
そこにとまって羽を休めることができる。
しずかになれる。
じっとしていても黄色い花粉がわたしの足につく。
空の青が水のように流れてくる。
わたしはその水に澄むこともできる。
水を離れて空へ向かう。
公園に降り立つ。
飛び去っていっても、そこでもまた黄色い菜の花の匂い。
それを匂う。
「あの人」というのはとてもいい響きだ。
雨の火曜日は何をすることもない。
雨音が高くなり、鳴り響くあいだ、
あの人がわたしの胸に潮のようにあふれている。
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誰もがほんらい無所有である

2008年02月23日 16時49分23秒 | Weblog
仏陀は無所有を通された。出家者は無所有である。自己の所有をできるだけ減らすことにつとめるのが仏道の修行でもある。

     *

誰もが、ほんとうは所有をしていないのである。所有をしていると思っているが、ごまかしである。おのれすらおのれは自己所有をしていない。

     *

ごまかしの所有をほしがって、ほしがって一生が過ぎて行く。

     *

所有をしている者は盗まないように努力をしなければならない。
所有をしていない者は盗む努力がいらなくなる。

     *

お金の財産も、土地の財産も、わたしの所有を言い張っているだけのことである。
みんな地球の物であって、わたしの物にできる物はないのである。

     *

物だけではない。知識もそうである。所有をするものではない。自慢したり、ひけらかしたりするものではない。
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さみしさは帽子をかぶっている

2008年02月22日 22時43分00秒 | Weblog
さみしい。

    *

さみしさが帽子をかぶってちょくちょく訪ねてくる。

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帽子が深くって顔が見えない。

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帽子を深めにかぶったのが、だといって、どの顔もみんなさみしい顔なのではない。

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ぼくは、今日、深めにかぶってサイクリングへ出かけていったけれど、でもね。

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これはぼくの長くなった髪が風に靡かないようにするためだ。
目の中に髪がこんにちはをしてしまう。と、先が見えにくくなる。で、だ。

    *

でも先が見えても見えずらくても、同じことなのだ。ふいにさみしい。じわりじわりさみしい。

    *

麦の芽は青々と健康に育っている。散歩中の犬は光を追って飛び回って嬉しそうだ。
通りかかる田舎の家々には白梅紅梅が咲いて、いっしんに咲いて、明るい。

    *

明るい青い空が広がっている。というのに。というのに。帽子の内側はさみしいまんまだ。

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犬の目という名前の集落のところまで来た。

    *

ここには小さな神社がある。周囲は竹の林だ。鈴を鳴らすところの石段に座っていた。
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今日はしばらく大きな安らぎに打たれていた

2008年02月21日 20時44分53秒 | Weblog
インドのブッダガヤの大塔は仏陀のお悟りになられた記念すべき場所である。ここでお悟りになったのが2500年前とはどうしても思えない。ここに座る。こことは仏陀のお悟りの場のことである。わたしは菩薩座に座る。仏陀と対面をする。安定した座だ。だが目が開けていられない。閉じてもいられない。安心安寧がからだをほっかり包む。仏陀と対面するのだから無理はない。理屈じゃない。充足感と言ったらいいだろうか。肉体の奥の精神が叫び出したくなっているようなのだ。精神のエクスタシーが来る。これは何だろう。この幸福感、この浮遊感はいったい何事だろう。すべてを投げ出しても惜しくはない。仏陀に今会っているのだ。それ以上にわたしをうなずかせるものはない。直感に過ぎないが、わたしは死んだらここへ来そうな気がする。一目散にここへ走ってきて仏陀に対面をして、嬉しくって嬉しくって泣き出すに違いない。わあああん、わあああん、生まれてきたばかりの赤ん坊のように嬉しくって嬉しくって泣き出すに違いない。泣き出す以外に、暮風にはとても方法はないだろうと思われる。
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かなしみはS極 よろこびはN極

2008年02月20日 09時14分22秒 | Weblog
このブログを見てくださった昨日の閲覧者は64人とある。なんだか嘘っぽい。嘘だろう。訪問者は39人となっている。閲覧者と訪問者はどう違うのかわからない。読んで愉快になれるようなことは何にも書いていないから、読んでくださったとしても、「ああ、つまらなかった」と、ぼそりと呟かれておしまいだろう、きっと。

      *

かなしみとよろこびは
どこかで同質である
 
かなしみはS極
よろこびはN極
ふたつは引き合っている

よろこびが手元にない人は
だから
かなしみの磁力を放つことで
磁石が成立する

よろこびは
気体であるが
かなしみは固体である

かなしみは凍り付いているから
それを胸にともる火で
じっとあたためてやればいい
あたたまったものはとけだして
ながれるのだ
頬をながれおちるのだ

お祭りのような
よろこびでなくともいい
人をたくさん呼び寄せて
見せたくなるような
豪華なよろこびでなくともいい

かなしみは
しずかなよろこびである

滝壺の奥にある洞のような
洞の水琴の響きのような
ひとりをじっとかみしめる
よろこびの滴りである

よろこびの日の射さない
今日のような日は
かなしみに浸る
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合わせるのが嫌になってしまった

2008年02月19日 16時54分09秒 | Weblog
「そんなことならもうどうだっていいよ」と思うことが多くなってきているようです。XかYか、どっちだっていいような気になってしまいます。XでもYでもかまわないのです。「なんでも面倒くさくなった」といった方が正鵠を射ているいいかもしれません。

      *

人間関係も面倒です。好きもキライも面倒です。好きを通すのも難儀です。キライを通す元気もよほど失せてしまいました。人と付き合うというのは、人と呼吸を合わせ、思想を合わせ、流儀を合わせ、行動を合わせることです。合わないときでも無理をして合わせないといつのまにか喧嘩に発展します。

      *

合わせることは大切なことです。これは勉強です。これが修行です。たしかにそれはそうです。ですから、合わせなければなりません。でも、合わせようとしている姿勢はすぐに見抜かれてしまいます。ちぐはぐは見破られてしまいます。ですから、「ことさらに」「努めて」「力を込めて」ではなく、繋ぎ目が分からないくらいに自然になめらかにこころを合わせるべきです。

      *

わたしの<わがまま>が急成長をしてきました。わがまま竹の子です。雨後の竹の子です。困ったものです。一人でいたい、ひとりでいる、というのもわがままです。合わせることを放棄したらこうなってしまいます。いいことではありません。けっして勧められることではありません。

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お縁側で日向ぼっこをしているくらいが楽なようです。つまらない人間です、暮風は。暮風は、老いの下り坂を駆け足で駆け下りています。
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仏陀のことが暮風には大事である

2008年02月16日 15時25分33秒 | Weblog
この世に何をしに生まれてきたか?

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決められているものと、決めていいものとがありそうな。

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とっても大事な何かに気づくことかもしれない。

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いままででは気づけなかったことを今度こそ気づこうとしているかもしれない。

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それは何か? 暮風の場合は、仏陀である。仏陀の存在である。仏陀の教えである。仏陀の展開する宇宙である。

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この大事なことに気づかないでしまったら、せっかく生まれてきた甲斐がほとんどなさそうに思える。

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庭の椿の木のつややかな葉が光を受けてきらきらと輝いている。
それもわたしに大事なこと、つまり仏陀を気づかせようとしているものに見える。
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花粉症の季節到来は嫌だなあ

2008年02月16日 11時09分51秒 | Weblog
お天気になった。日だまりがぽかぽかする。そろそろ蕗の薹が見られるかもしれない。畑に出てみようか。

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蕗の薹は天麩羅がおいしい。香りがまたなんともおいしい。指で摘むと指に長く匂いが住み着いている。匂いをかいで楽しむことができる。

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と、ここまで書いて、いざ外へと言うときになって、足がすくんでしまった。花粉症の季節も到来していたのである。

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目が痒い。目汁がべとべとべとつくようにもなった。鼻からは鼻汁が出る。水洟が垂れる。ハクションの嚔が出る。喉に痰が詰まる。

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春は楽しい季節ながら、一方で辛い季節でもある。月曜になったらクリニックへ出向いて花粉症の薬をもらうことにしよう。
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目が笑う

2008年02月12日 12時57分03秒 | Weblog
ずっと「それは好かない」だったものが、好きになる。そういうことが起こるようになった。好かないの城が落ちたのである。牙城としてきた本丸が落ちる。とその空間があいて青い空が見えてくる。なあんだ、である。こんなことだったら、死守することなどなかったのに、と目が笑う。
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わたしも遙か古代人になるんだ

2008年02月10日 18時23分59秒 | Weblog
吉野ヶ里公園の1キロほど北の位置に竹原の集落がある。
その集落の北の外れの小高い丘に、王仁(わに)神社がある。
朝鮮からの渡来人王仁博士を祀ってある。
説明文は韓国語でもなされている。博士の絵が描かれている。

サイクリングの途中でここに立ち寄った。ここは森閑としている。
人の影はない。絵の中の博士は、ふかぶかの立派な髭を蓄えている。
暮風はここまでふかぶかとした髭にはないっていないが、
髭の共通点があって親近感を覚えてしまった。
「こんにちは、博士、お久しぶりでした」と挨拶をしてしまった。
拝殿の下の石段に腰を下ろしてしばらく休憩した。
背中から「やあ、ほんとに久しぶり。よく訪ねてきてくれました」と
博士の声が聞こえてくるようだった。

卑弥呼の時代にここへ渡来してきたとすれば、ときは随分経っているが、
一瞬なんだか同時代人のようにさえ感じられた。
それから、自分もまた1000年、1500年が経つと
遙かな古代人になっているのだなと考えておかしみが湧いてきた。

いつか必ず遙かな古代人になるのなら、いまをどう生きたらいいのか?
どう生きていてもいいようにも思いながら、
楽しく美しく生きていてもいいように思われてきた。
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